2018年1月ディボーション

1月1日(月)

神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしは アルファであり、オメガである。」

ヨハネの黙示録1:8

 

新しい年が始まりました。人は誰でもこの年が良い年となるように願い、神の祝福を求めます。しかし、真の神は唯一です。その神は、「アルファでありオメガである」と言われるお方です。「初めであり終わりである」という神なのです。新年が始まるのならその終わりもまた来るのです。人間の歴史に初めがあったのですから、終わりもまたあります。自分の人生を振り返れば、いたるところに「初めと終わり」を発見できます。人が生まれたなら、必ず死で終わるわけです。しかし、キリストは私たちを救うために来られました。そして、キリストは、「わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)と言われ他のです。ですから、人間の歴史には終わりがありますが、キリストを信じて救われた者には、復活があり、永遠の命が約束されているのです。主が始めた救済は主によって完結します。そして、あなたの中に内住する聖霊が「アルファであり、オメガ」となります。つまり、あなたがキリストのように変えられることは始まっていますが、聖霊によって完結するのです。この地上でキリストがあなたの救いのはじめになり、天国に入って救いの完成になるのです。あなたの救い主は、全能です。時をも超えて、人間が想像することもできないほど大きな愛のお方です。その大きな愛があなたに向けられているのです。あなたは、今年、主の祝福を受けて、神をもっと深く知る者となるでしょう。祈りの中で主にもっと近ずくことができるように求めて行きましょう。恵はすでにあなたのものなのです。主を讃美しましょう。すべてのことに感謝しましょう。良い一年が始まったのです。(佐久間)

 

1月2日(火)

あなたの慈しみは大きく、天に満ち、あなたのまことは大きく、雲を覆います。

詩編57:11

 

晴れた日に空を見上げると、気分が晴れて、この世の小さなことでくよくよすることが馬鹿らしくなったことはありませんか。その理由は、今日の聖句に書いてある通りです。神様はいつでも、あなたのことを心配してくださり、慈しみを与えたいと思っておられるのです。でも、人間は何かで自分に自信が持てなくなると、自己肯定感が消えて、いちいち自分が責められている気がしてくるし、しまいには自分で自分を責めてしまうことがあるのです。そうなると、自分が嫌いになり、すっかりドツボにハマってしまいます。出口がないように感じるでしょう。しかし、そんな時こそ、うつむいて下ばかり見ていてはいけません。そうではなく、空を見上げて見ましょう。神様はあなたを愛しているので、あなたがどんなに素晴らしい存在であるかを知っています。神様は、あなたを励ましたいし、あなたの良い所を褒めて、自信を取り戻して欲しいのです。だから、天気の日には、空を見上げて、神様を讃美しましょう。この大きな空よりも、はるかに大きな神様がちゃんとあなたを見ていてくださり、大丈夫と励ましておられることに気がつくと思います。元気になって楽しいことを考えましょう。(さくま)

 

1月3日(水)

イエスは涙を流された。

ヨハネ11:35

 

聖書の中の不思議な言葉です。私たちはイエス様のことを色々考えます。でも、たいていは神の子として、奇跡を行ったり、神の権威を行使したりすることを見ていますから、私たちと同じ一人の人間という観点が抜けてしまいがちです。確かにイエスは罪は犯さず人間として完全でした。それでも、私たちと同じように、愛する人を失う時に悲しみを覚えて涙したのです。それは、亡くなったラザロの姉妹であるマリアとマルタの二人の悲しみに直面したこと、そしてイエスがここにいてくださればラザロは死ななかっただろう、という姉妹の思いがイエスの心を動かしたのです。このイエスが、あなたのことで親身になってくださらないはずがない。主はあなたのために涙を流すことのおできになるお方なのです。そして、あなたが悲しまなくてもすむように、驚くような奇跡を行われるお方です。このイエスこそが、あなたの心の一番の理解者なのです。だから、どんなことが起こっても心配しないで、まずはイエス様に祈ることです。そして、心に平安をいただきましょう。不思議なぐらい不安は去り、大丈夫だという気持ちになるでしょう。(佐久間)

 

1月4日(木)

まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。

Ⅰコリント2:9

 

あなたのために神様が備えていてくださるものがあります。それは聖書に書かれた通りに、あなたが思いつくようなことではありません。ですから、あなたが何かを願ったり、こうしてほしい、ああしてほしいと、祈っても必ずしもあなたの思った通りには答えられないものです。いや、それ以上の良い答えが与えられるのです。そこで、いいことがあった、いや悪いことがあったと、一喜一憂することはないのです。主は、すべてあなたのために良いことしかできないからです。ただ、人間的にはその真意がすぐには分からずに、なぜこのようなことが起こるのかと主を疑う心が起こることもあります。その時に、主を信頼することができれば、道は必ず開けていくものです。すべてに感謝することは、そのような主を信頼する信仰なのです。あなたが主からいただくものは、あなたが思うよりもはるかに良いものなのです。そのことがわかれば、災いと思ったことですら、違って見えてくるでしょう。あなたの信仰が強められますように。(さくま)

 

1月5日(金)

あなたがたを聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなた方の信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。

Ⅱテサロニケ2:13

 

私たちイエスを信じて救われた者にとって、いつまでも続く達成できない課題のようになっているものに、「聖なる者になること」が第一にあげられます。この聖なる者になるために多くの努力がなされるのですが、自力では絶対に達成できないことだとすぐにわかります。そこで、聖書になんと書いてあるか調べると、今日の聖句に出会います。そして、納得が行くのです。聖なる者とするのは聖霊の力なのです。人間の宗教的努力とは関係がありません。そして、聖霊が文字通りに働かれるのは、その信仰者が聖書から真理を見出した時に、それを信じるかどうかにかかっているのです。このことが体得できた時に、信仰者は安定した信仰の歩みを始めるのです。それにしても、「信仰によって義」とされるということが人間の力によるのではなく、すべて聖霊によってなされ、さらに真理をも聖霊が解き明かしてくださるので、それを信じることだけが私たちに課せられているのです。そうであれば、真理に従って信仰者は生きて行くことになります。それは、決して難しいものではありません。なぜなら、恵みによって信仰によって救われると約束されているからです。人間的な優劣すら関係ないのです。ただ、主に対して実直に生きて行きたいものです。(佐久間)

 

1月6日(土)

ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。

使徒言行録4:12

 

イエス・キリスト、なんと麗しい名。あなたが救い主と信じるに値する唯一の名前。慕わしい名。力ある名。何遍も何遍もあたなが唱え、助けられてきた名前。このお名前の方が誰かわかってくるたびに、あなたは変わってきました。イエス・キリスト。この名の他にあなたが確実に頼ることのできる方はいません。あなたを救うために自分の命を捨てられたただ一人の方です。イエスの御名によって、あなたを苦しめていた悪魔も震え上がり逃げて行くでしょう。人間が逃れることのできなかった悪魔と死と呪いから解放してくださったイエス・キリスト。罪人であったのに、憐れんでくださり、見捨てずに救ってくださった、キリスト。その御名を信じて、口で告白して救われました。イエス・キリストの御名によって水の洗礼を受け、良心をすすいでいただき、約束の聖霊で洗礼を授けていただき、新しく生まれさせていただきました。今日の聖句は真実です。私たちは、その証人です。(佐久間)

 

1月7日(日)

だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされ得なかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。

使徒言行録13:38、39

 

この方とは、イエス・キリストです。イエス・キリストが旧約聖書の預言通りに時満ちて、イスラエルに登場しました。それは、圧倒的な主の憐れみで、イエスの愛が信じる者たちへあふれて流れだす不思議な光景でした。イエスの元へと病気の人たちは続々と集まってきましたが、その全員が癒されました。悪霊につかれて苦しんでいた人たちも追い出していただき、救われました。イスラエルの中で律法主義と化した宗教は、人々の救いにはなりませんでした。それどころか、追いきれない重荷を追わせて希望を失わせていたのです。そこに、イエスはこられて、罪を悔い改めること、イエスを信じること、これだけで救われたのです。今も同じです。宗教の儀式も伝統も人を救うことはできませんが、主の憐れみは、いつでもイエスを信じる者を救うことができるのです。ですから、誰も自分で義となったとは言えないのです。ただ、主の憐れみによって義としていただいたと告白するのです。そのありがたさに、ただ感謝して、今度はどこまでもイエスに従って行こうと決心しているのです。主の御足の跡を辿れば、気がつけば主に似た者へと建て上げられているでしょう。そのような救いなのです。(佐久間)

 

1月8日(月)

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

Ⅰペトロ5:7

 

もしあなたが不安に思ったり心配したりしていることがあるのなら、今日の御言葉を信じてください。問題解決は、祈って神様に委ねることができれば、自分の思い通りにいかなくても受け入れることができます。そして、ゆだねた後に良い結果が期待できます。本当の不安は、誰も自分のことを心配してくれないことです。しかし、あなたのことを神様が心配してくださることを忘れてはいけません。たとえ、この世で孤立して、味方が誰もいなくなっても、神様だけはあなたのことを理解し、いつだってそばにいて、心配してくださるのです。そして、自分でなんとかしようとしてもどうしようもないことだってあるのですから、思い切って神様に思い煩いを一切をゆだねるのです。そうして、安心してください。私もそうやって道が拓けて助けられてきました。あなたも大丈夫なはずです。(さくま)

 

1月9日(火)

さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。

使徒言行録18:24~26

 

アレクサンドリは北アフリカの繁栄した都市で、ユダヤ人が大勢住んでいました。ここで生まれたアポロは、聖書に詳しい雄弁家であったと聖書に記録されました。ここで出てくる「主の道」とは、キリスト教のことです。アポロがイエスのことを雄弁に語っていたことから彼が偉大な伝道者になることは予測できます。興味深いのは、エルサレムから聖霊の降下が始まったので、遠く外国には時間の経過がありました。聖霊のバプテスマの知識もそれどころかイエスの御名による水の洗礼のことすら知らない信者がたくさんいたのです。それでも、プリスキラとアキラのように、すでに知識も経験もある信者がアポロのような人にもっと正確に神の道を説明して教えたのです。今日も同じです。私達は、それぞれイエスのこと聖書のこと聖霊のバプテスマのこと、これらのことを知っているのであれば、知らない人たちに伝える必要があるのです。プリスキラ達のように、これぞという人物に真理を教えることも、アポロのようにその後偉大な伝道説教者として活躍したことも、主の働きとしては同じぐらい重要だったのです。私たちも同じ「主の道」を伝える者として与えられた賜物を生かして行きたいですね。(佐久間)

 

1月10日(水)

わたしたちは肉において歩んでいるますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するにたります。Ⅱコリント10:3、4

 

つまり、人間的な力や努力や思考で戦うのではないということです。クリスチャンの正しい姿は、神に由来する力を武器として戦うことです。なぜなら、どのような人でも、自分の思考の中に絶対変えないかたくなな価値観や考え方があって、それが福音を無効にしているからです。それは、要塞のように頑なで頑丈なのです。聖書を読んだり、礼拝に出席したり、祈ることまでしても、一向に自分の考えをイエスの教える真理に変えることができない人がいるのです。自分勝手に、自分の考えが絶対とする人です。その人は、自分の内側に要塞ができているのです。それで、議論をしても自分の考えを変えることはありません。ところが、その人は、神に由来する力で要塞を破壊されることになります。その要塞とは、理屈であったり、神の知識に逆らうあらゆる高慢であったり、あらゆる思惑であるのです。それが破壊されるなら、神への従順へと変わっていけるのですが、不従順であったことへの罰は逃れることができません。ですからすぐに、己を空しくして悔い改め、へりくだって福音を正しく理解することから始めることです。(佐久間)

 

1月11日(木)

イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。

マタイ9:28~30a

 

イエス・キリストを信じると告白した人にとって決して忘れてはいけないことがある。それは、どんなに困難な問題が生じても、人間的な方法で解決してはいけないということだ。決してうまくいかないだろう。それは、盲人の例でみればすぐに理解できる。人間は誰も盲人を見えるようにはできなかった。しかし、イエスは別だった。今日の聖句を読めばわかるが、私たちにとって重要なことは、どんな問題もイエス・キリストによって解決するということなのだ。主が私たちに問うことは一つ、「わたしにできると信じるのか」ということだ。主に対しては正直に答えなかればならない。なぜなら、イエスは「あなたが信じているとおりになるように」と言われるからだ。しかし、よく考えれば、自分が主に対してどのように信じるかが大切なことだとわかる。自分のやり方や考えにこだわっているならうまくいかない。でも、主に信頼し信じるのなら、不可能と思われていたことだって可能となるのだ。あなたの悩みを解決できるお方はただ一人、主イエス・キリストだけだ。(佐久間)

 

1月12日(金)

何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。

コロサイ3:23、24

 

人間関係で悩むことが一番面倒ですが、これが悩みの第一位であることは様々な調査で明らかです。面倒なので、一人でいればいいかというとそれも淋しくなる、というのですから厄介です。心の友とか、親友が欲しいと誰しもが願うのですがほとんどの人がそう願うだけで、実現しません。さて、クリスチャンはどうなのでしょうか。今日のところは、奴隷に対しての勧告です。しかし、私には関係ないとは言い難いものがあります。何か考えさせられる御言葉です。確かに、クリスチャンの中には、誰に対しても主に対してするように、心からしようと心がけている人もいるのです。また、知らずに親切にした人が実はキリストであったと思う、というような証も聞くことがあります。もちろん、聖書には悪魔の手先のような悪人も登場します。しかし、家族や普段接する学校や職場の人たち、知り合いや友人、また、たまたま困っている人に出会った時など、聖霊が心に「助けてあげなさい」、とか「親切にしてあげなさい」とか語りかけてくることがあるものです。いずれにしろ知恵がいるし、信仰が試されます。ただ、信仰から主に仕えるように誰かに仕えるなら、それは主に届いているはずです。あなたの周りにより良い人間関係が生まれますように。(佐久間)

 

1月13日(土)

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。

コロサイ3:15

 

クリスチャンであるということは、霊的にキリストの体の一部となったということです。そこで、この世に生きていても、キリストの支配の中にとどまることは可能なのです。キリストのもたらした救いは、罪によって神と断絶していた関係を十字架の贖いによって信じる者が回復することでした。それは、神との間の平和です。人間にとって最も重要なことです。ですからクリスチャンは感情に振り回されることなく、信仰によってキリストの平和が心を支配することを実現できるのです。霊的な教会の一員として深い交わりに入ることができるのです。そのことを実現したいのなら、感謝の心を持つ人になりなさい。この世の人も出来事も、何にも邪魔されずに、キリストの支配にとどまるためです。(佐久間)

 

1月14日(日)

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。

ローマ15:13

 

信仰は良いものです。決して難しいものではありません。誰でも、信仰を持つことができます。信仰による喜びと平和があります。ですから、クリスチャンはどんな困難に直面しても負けずに乗り越えて、勝利することができます。失望させられるようなことが目の前に起こっても、聖霊があなたを力ずけ、希望を与えてくださいます。だから、悪魔であってもあなたを打ち倒すことはできないのです。神様はいつでもあなたの望みです。あなたは、もしかすると自分の信仰が弱いと思っているかもしれません。それは、考え違いです。確かに私たちの信仰は疑い深く、すぐに不信仰に変わってしまうようなものだったでしょう。ですから、主は、そのことを承知であらかじめ対策を立てられたのです。それは、イエス様の信仰を分け与えるという計画です。自分の信仰が弱くても、イエス様の信仰をいただけば大丈夫です。その主からいただいた信仰を使うことこそ私たちの責任です。信仰を使うべく時に直面したら、自分を見てはいけません。そうではなく、すぐに主イエス・キリストに心を向け、仰ぎ望むのです。そして、大胆に信仰を表明してください。きっと驚くべき主の御力を発見するでしょう。大きな喜びが心から湧き起こるでしょう。そうやって、私たちの信仰は大きくなって行くのです。(さくま)

 

1月15日(月)

私のたましいに言ってください。「わたしがあなたの救いだ。」と。

詩編35:3

 

聖書にこのように書いてあるのですから、あなたも同じように言う事ができます。でも、確かにこれはピンチの時ですよね。自分を苦しめる者がいて、なかなかあきらめてくれない。または、避けることのできない人間関係の中で自分を困らせる人がいる。さらに悪いことには、敵としか呼べないひどいことをする人がいる。実際に、聖書の中でも敵が苦しめるので神様がなんとかしてくださいと祈っている言葉がやけにリアルに感じる箇所が結構あるあるのです。しかし、私たちは、そうした敵に囲まれて攻撃されるいるような状況でなくても、主にこう言って欲しいのです。「わたしがあなたの救いだ」と。詩編記者は私の魂に言ってくださいと迫ります。そう、魂が納得して、もう疑わないように、明確に悟りを開くように、主に言って欲しいのです。そうすれば、何があっても大丈夫です。ありがたいことに、聖書に書いてあるので、これは素直に期待してもいいのです。そして、あなたは、もう人間関係で悩む必要はないのです。(さくま)

 

1月16日(火)

あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさない。

詩編55:22

 

なんでこんな困難が自分の身に降りかかってくるのだろうと、途方に暮れて、泣きたくなるときですら、主は、あなたを見捨ててはいない。ただ、あなたの重荷を主にゆだねる事が必要なのだ。主の御手にまかせなさい。あなたには負いきれないから。主は、あなたのことを心配してくださる。あなたが信じているので、あなたのために主は立ち上がる。あなたの考えることのできないほど深く主は将来を見通して、最も正しいことをなされる。それは、驚くほど無理がなく、心をゆだぶられることもない。摂理という言葉があるが、これがそうなのか、と後でわかるだろう。不思議なことに口から出てくる言葉は主への感謝だけだ。そうだ、主は、あなたのために忙しく寝ずに働いてくださるのだ。それがきっとわかるだろう。だから、心配せずに心に大丈夫と言い聞かせよう。主はあなたを困らせはしないから。(サクマ)

 

 1月17日(水)

わたしが小羊のように失われ、迷うとき、どうかあなたの僕を探してください。

詩編119:176

 

これは詩編の中で一番長い詩編119篇の最後の176節の言葉です。それまで、詩編記者は、律法を守り、戒めを大切にすることを語り続けてきました。しかし、それでも、最後には自分が小羊のような者であることを認め、方向音痴の羊、それも弱い小羊である自分が失われ、迷う時に探してください、と語ります。イスラエルの民はこのように律法を遵守することに全力を傾けてきた清い民でしたが、それでも、小羊のように失われ、迷ったのです。私たちは異邦人ですが、初めから汚れた民、失われた民とイスラエル人に蔑まれた者でした。しかし、それだからこそ、主の憐れみに必死になってすがる者なのです。だから、主が自分のことを探して見つけてくださった時に、素直に洗礼を受けて清めていただいたのです。私たちの人生を振り返っても、小羊のようにふらふらと頼りなく、自分勝手に歩んできました。だから、簡単に失われ、迷うのです。そのように情けない者でも、主は必ず探しにきてくださるお方です。ありがたいですね。イエス様に、この詩編の言葉の通りに祈りたいと思います。(さくま)

 

1月18日(木)

あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。

ゼパニヤ3:17

 

考えた事があるだろうか、主はあなたのことを喜びをもって楽しんでいることを。それは、あなたが立派で見事な功績をあげたからではない。また、律法を完全に守ったとか、聖書を何回通読したからとか、そういう意味で喜んでくださるのではない。あなたがそのままで神様の喜びなのだ。そして、あなたのただ中におられて、あなたを助けている。あなたは、失敗もするが、神様への愛は本物だ。だから、神様のことを考えると胸が高鳴るような特別な感情を持っている。主がなたを救ってくださった事がいまは素直にわかる。それは、十字架に至る厳しい道であったが、イエス様はあなたの罪を贖うために自己を犠牲とすることを全くためらわなかった。まさに救いの勇士なのだ。このイエス様の愛は、いつでも私たちを癒す。愛によって安らぎを与えてくださるからだ。驚くことに、まだまだ不完全で足りないと思っているのに、主はあなたが大好きで、一緒にいられることを喜び、それでついに大きな声で歌い出し、あなたのことを喜ばれるのだ。どうだろう、これこそがあなたの現実なのだ。素直に認めて、ハレルヤと叫ぼう。(さくま)

 

1月19日(金)

彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときにともにいて、彼を救い彼に誉を与えよう。

詩編91:15

 

いとこが中学生の時に彼の父親が亡くなった。私は彼より一歳年下だったが、仲が良かったので兄弟のように親しくしていた。いとこは一人っ子だたので、私は彼とずっと一緒にいた。悲しみが分かるから、そばにいてあげたかった。どうしようもなく悲しかったり、辛かったり、困った時には、一人では淋しすぎる。この世の人たちは、孤立し、見捨てられる事があるだろう。しかし、クリスチャンはどうだろう。すぐに主に祈るはずだ。するとすぐに主は応えてくださる。それが分かるから、もう孤独ではない。たとえ夜眠る時にも、イエスは片時もあなたのそばを離れないだろう。イエスは、救い主なのだ。それがつくづく分かる日が来るだろう。こんなにありがたいことはない。あなたは心の友のようにイエスに助けられる。それだけではない、イエスは、あなたに誉まで与えてくださるのだ。だから、元気を出そう。(サクマ)

 

1月20日(土)

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

ガラテヤ5:1

 

奴隷には自由がありません。つまり、あなたは完全に自由かと自分に問うてみる必要があります。クリスチャンになる前となった後では、自由になれたでしょうか。信仰の道は、自分がそもそも何かの奴隷であったかどうかを明らかにします。最も重要なことは、罪の奴隷、死の奴隷、悪魔の奴隷の三つです。このどれもが自分の力では自由になれなかったのです。それが本当に理解できれば、自分がなんと惨めな者であるかがわかります。そこで、キリストが私たちを自由に解放するために、この地上に現れ、罪と死と悪魔に勝利したのです。そして、キリストを信じる者に自由を得させるために、解放してくださったのです。それだから、もとの奴隷に戻るようなことは決してしてはいけません。何を信じるか、注意深くあるべきです。不信仰になり、否定的になり過ぎると、奴隷のくびきが現れてくるのです。悪魔はしつこく諦めていないのです。誘惑に気をつけましょう。主を信じて、希望を持ちましょう。誰が何と言ってもイエス・キリストの御名によって立つのです。み言葉の剣を抜きましょう。肉の考えや感情に負けないように、真理を見つめましょう。キリストの与えてくださった自由で聖霊に従いましょう。(佐久間)

 

1月21日(日)

わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。

詩編43:5

 

主への信仰はいつでも裏切られない。信仰とは、まるで神を待ち望むことのようだ。私たちは少しでも大変な事や嫌な事が起こるとすぐに心を乱してしまう。そして、すぐに神に泣きつき、たちまち解決されるように嘆願する。しかし、すぐに祈りが応えられることもあれば、そうでないこともある。問題は、祈ってもすぐに解決していただけない時だ。待つことに意味があるのに、それが待てない。「すべてに時がある」と、聖書に書いてあるのに、その時を知ろうとしない。私たちは神に試されているのだろうか。情けないことに、すぐに助けていただけない時に、神を待ち望むことよりも、自分でなんとしようともがいてしまう。そんな事が上手くいくはずもなく、ついに絶望し、祈りの中で醜態をさらけ出すことになる。そこまで行ったなら、今日の聖句をよく考えてみよう。最後は、凄みのある信仰者が残っている。(サクマ)

 

 1月22日(月)

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。

ルカ10:25~29

 

 

この話は、大変よくできています。そもそもクリスチャンは永遠の命を受け継ぐ事ができると考えているでしょう。ですから、この聖書箇所はクリスチャン自身への問いかけとして聞く事ができます。答えは決まっているのです。神を愛する事と隣人を自分のように愛する事です。問題は、これが簡単ではないという所です。この質問をした律法学者は、イエスのお言葉に、少なからず動揺しました。自分で模範回答をしておきながら、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った、と聖書に書いてあります。しかも、「彼は自分を正当化しようとして」とあるのです。なぜでしょう。自分の答えは正しいとイエスは認めてくれました。それなのに、彼は何を正当化しようとしているのでしょう。彼は、隣人はイスラエルの民であって、異邦人ではないと考えていたのです。イスラエルの民であっても、落ちこぼれや律法を守れない者は汚れているから隣人から除外される、と考えていたでしょう。つまり隣人とは、清い民であって、汚れた民ではない、と考えていたという事です。果たしてそれは律法の正しい意味にあっているのでしょうか。私たちであれば、どうでしょう。神があなたの隣に置いた人が隣人であると認められるでしょうか。聖書に出てくる律法の専門家は、「自分は正しいと考える人」の象徴です。そのように考える人にとっては、誰でもが隣人と認められないのです。これが、私たちにとっての厄介な問題なのです。多分、何かが気にくわない人は愛せないのです。自分は律法を一生懸命に守っているのに、同じようにしない人は受け入れがたいのです。全ての人を愛する事ができればいいのに、実際にはできないのです。しかし、この後イエスは良きサマリア人の話をします。そこに、私たちがどうやってこの問題を解決するかが書かれています。ただ、自分を正当化しているうちは、決して答えがわかりません。神様のなされることはすごいです。私たちは叱られてはいません。そもそも質問の出発点で「何をしたら」と言っている事が間違っているのです。彼は律法を守る事ができると自負があったから言ってしまったかもしれません。しかし、イエスの御前では、すぐに彼の問題を自分の口で言わなければならなくなりました。神が関わっている時には、黙っている事ができないのです。自分のことを考える良い練習問題です。自己吟味してみましょう。(佐久間)