2018年2月ディボーション

2月1日(木)

主はわたしにかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。主よ。あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざを捨てないでください。

詩編138:8

 

あなたがクリスチャンであるのなら心配することはありません。あなたの心を悩ますようなことがあったとしても、主があなたの益となるように働いてくださいます。人間の常識では無理なことでも、主にかかれば不可能なことなどないのです。しかも、あなたは主に選ばれ、愛されているのですから、あなたが考えている以上の主の助けがあるのです。あとで振り返ってみると、わかるはずです。あなたはすでに助けられ、これからも助けられて行くのです。それどころか、あなたにかかわるすべてのことを主が成し遂げてくださる、と聖書に書いてあります。これほどありがたいことはありません。これは自分の分を果たさないで怠けていいという意味ではありません。仕事も学校も誠実にするべきことを頑張らねばなりません。その成果はすべてあなたのものです。主の恵みは尽きることがありません。あなたは主の恵みの中で成長して行くのです。ただ、不平を言うとその分恵みが消えて行くので自制しましょう。あなたの口癖が、「私は恵まれている。主よ、感謝します」となりますように。その結果を味わってください。(さくま)

 

2月2日(金)

ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。

Ⅰコリント2:12

 

クリスチャンになっても、古い人のままでいる人たちがいます。しかし、聖書には「古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです」(コロサイ3:9)、と書いてあります。ですから、勘違いしてはいけません。私たちは、自分の努力で新しい人を着たのではないために、実感が無いのかもしれません。しかし、腕を切断した人が無いはずの腕がかゆいと言うことがあるように、古い人は脱ぎ捨てたはずなのに、まだ古い人を着ているように思えてしまうことがあるのです。そこで、信仰が大切になります。感じるのではなく、聖書の御言葉を信じることです。そうすれば、今日の聖句は、あなたがどのような恵みを受けているかをわからせてくれるでしょう。あなたは、名前だけクリスチャンになったのではありません。イエス様の救いは圧倒的なのです。聖霊はあなたが何を神様から賜ったか、教えてくださるでしょう。そうやって、どんどんイエス様のかたちに似せられて新しくされるのです。否定的な思いで自分を縛ってはいけません。あなたは、主がすでによくしてくださったことだけ信じていればいいのです。(さくま) 

 

2月3日(土)

わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。

マルコ9:37

 

これはイエス様のお言葉です。イエス様を信じる人はよく考えてみる必要があります。「子供」はどんな意味で使われているのでしょうか。それは、弱い者、未熟な者、親や大人が手をかけなければ何もできない者、まだ成長できていない者、見返りが期待できない者、世話が焼ける者、煩わせられる者、いちいちイライラさせられる者、世話をしなければならない者、その大変さを上げればきりが無いのです。でも、親はそんな子供を見捨てることなく育てるのです。まるで子供のように完全でない隣人を受け入れなさいと言われたようです。不思議なことに、このような者を受け入れた時に、それはイエス様を受け入れたことになる、と教えられました。それどころか、イエス様を受け入れる者は、イエス様をお遣わしになられた父なる神様を受け入れるのである、と語られました。なんと深い教えでしょうか。だから、あなたにとって煩わしい子供のような人が現れたら、今日の主のお言葉を思い出してください。(佐久間)

 

2月4日(日)

「・・・はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

マルコ10:15

 

なんてこの子供たちは幸運なんだろう!この子供が自分ならいいのに、と思われたでしょうか。わたしはこの子供たちのように、イエス様に抱き上げられ、手を置いて祝福されたいと思います。そして、考えるのです。「子供のように神の国を受け入れる人」とはどんな人だろう、と。たとえば、子供は力が弱くて知識が無い者の象徴です。それでも、過酷な運命が待ち受けていることがあります。途方にくれるようなことが起こるわけです。その時に、どのように考えて、どんな信仰を現すか、主はご覧になっているのではないでしょうか。神の国は神の支配を意味しますから、全てが神の御心のままに起こっていると受け入れ、決して人間的に考えて現実を拒否しないことではないでしょうか。そして、事態が一向に良くならなくてもそれでもイエス様を信じて待つ人です。実際に私たちは祈ることしかできないのですが、その中で主に助けられ、教えられ、神の国へと入って行くのです。単純にどんな時でもイエス様を信じることができれば十分なのです。(佐久間)

 

2月5日(月)

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

フィリピ4:6、7

 

人生は予測のつかないことに満ちています。クリスチャンも例外ではありません。なかには「嫌だな」と思うようなことだって起こるでしょう。しかし、聖書を読むと、「思い煩うのはやめなさい」とはっきり書いてあります。もうだいぶ長くなった私のクリスチャン生涯を通して、何度もこの聖句に諭されて、書かれた通りにしてきました。それは、感謝に強調点をおくことが肝心です。そすれば、上手に何を願い、何を求めているのか神様に正しく打ち明けることができるのです。そうすると、不思議なことに不安が平安に変わります。恐れや不安は、人の正しい判断を誤らせてしまいますから、平和が心を満たせば、物事が正しく見えてくるようになります。すると、事態はそんなに悪くないかもしれません。そして、イエス様が心と考えを守るので、正しい意思決定ができます。この奇跡は、祈った者しか経験できないでしょう。ですから、もう心配はやめて、すぐに主に向かいましょう。(さくま)

 

2月6日(火)

口の言葉が結ぶ実によって、人は良いものに飽き足りる。人は手の働きに応じて報いられる。

箴言12:14

 

私たちは毎日何かしら言葉を使っているのですが、それがどんな言葉であるかが重要なことなのです。良い言葉には良い報いがあると聖書は語ります。後半の聖句も同じ意味で、良い行いから良い報いを受けることが語られています。そこで、自分の言葉や行いが不用心になっていないか反省してみるのです。自分の言葉や行いが身を結ぶというわけですから、自分の人生を良くしたければ、自分でもできることがあることに気がつきます。つまり、意識して良い言葉と良い行いを選ぶことです。ぎこちなく感じるのは始めだけです。すぐに、良い言葉や良い行いが当たり前になり、あなたのイメージが変わり、あなたに良い報いが押し寄せてくるようになるのです。手始めに主に感謝する言葉を常に言ってみたらどうでしょう。やがて、心から温かい感謝の感情が溢れてくるでしょう。それだけで、人生に良い報いが与えられるなら、すぐに実行あるのみです。(佐久間)

 

2月7日(水)

わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。

詩篇32:8

 

毎日の同じような生活がいつまでも続くかと言えば、変化が待ち受けていることがあります。その時に、まるで一本道が突然二股の分かれ道になって右か左か決めなければならない、そのようなことが起こるのです。当然人は良い道を選びたいので、迷い、悩むのです。そんな時に、クリスチャンは主の約束に目を留め、今日の聖句を信じて、この約束が真実であることを知るのです。もし、どうすれば良いのかわからならなくなったら、この聖句を声を出して読んで、次のように祈ってください。「主よ、このみ言葉の通りに私にしてください」と。(佐久間)

 

2月8日(木)

主は太陽、盾。神は恵み、栄光。完全な道を歩く人に主は与え、良いものを拒もうとはなさいません。万軍の主よ、あなたに依り頼む人は、いかに幸いでしょう。

詩編84:12、13

 

あなたの主は、太陽のようにあなたが自信を持って生きるように、明るく照らし出します。心が暗くならないように、光の中を歩ませてくださるのです。あなたの主は盾のように完璧にあなたを守ります。主にいつでも従順である生き方には、乏しいことがありません。良いものを願っても与えられるのです。主を信じる人とは、信頼して主に依り頼む人のことです。その人が主に守られて生きる姿は幸せに満ちているのです。これこそ、あなたのことです。(佐久間)

 

2月9日(金)

恵み深い主に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。

神の中の神に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。

主の中の主に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。

詩編136:1~3

 

クリスチャンの楽しみはいろいろありますが、その中でも嬉しいものは、主を讃美し、感謝をあらわす時です。ある時、キリスト教の講習会がありました。そこにゲストとして有名な伝道者が来られ、この詩編136篇を1節から最後の26節まで、全員で唱えましょう、と言われました。「私が上の句を読みます。皆さんは、下の句を唱える時に、初めは小さな声で、だんだん大きな声で『慈しみはとこしえに』と唱えるのです」と言われました。そして、100人ぐらいで、始めたのです。それは、驚くほど単純なことでしたが、だんだん会衆の声が大きくなって行くのです。そして、最後は会場に響き渡るような声で「慈しみはとこしえに」と全員で叫んだのです。たったこれだけのことでしたが、今でも感動がよみがえってきます。主を信じる者にとって、讃美することがどれほど大切か知りました。詩編は、古代のユダヤでこのように使われたのだろうと思いをはせました。元気になりたいと思ったら、主を讃美しましょう。つまらないことでくよくよする必要はありません。心に力を満たして、楽しく生きて行きましょう。そのために、主を讃美してみてください。主はあなたに慈しみ深いのです。(佐久間)

 

2月10日(土)

主は聖徒たちの足を守られます。悪者どもは、やみの中に滅びうせます。まことに人は、おのれの力によっては勝てません。

Ⅰサムエル2:9

 

皆さんは聖徒と呼ばれているのです。それは、神様を信じているからです。ただ信じているのではありません。キリストによって清められたのです。過去がどうであろうとキリストの十字架の血潮で罪をすべて清めていただいたのです。そして、イエス様の十字架の犠牲で贖われ、キリストの者となったのです。それで、あなたは主を崇めて愛しているのです。ですから、全ての点で主のみ心にかなうようにと願っているのです。それだけでなく、自分がこれからどこへ行くのか知っています。そこへ行くためにイエス様がお迎えに来てくださる再臨を待っているのです。神様に反逆した悪魔はそんなあなたが嫌いです。ですから、あなたが普通に生きていても悪者どもがあなたを攻撃してくることだって起こり得るのです。それで、あなたは応戦するでしょうが苦しむばかりです。あなたは必死に祈るでしょう。そして、無駄なことをするのをやめます。ただ、神様が助けてくださることを願って祈り続けるのです。やがて驚くべき結果を見ることになります。悪者どもが、闇の中に滅び失せ、平和が戻ってきたことを知るのです。「まことに人は、おのれの力によっては勝てません」。この聖句を覚えていましょう。そうすれば、無駄な戦いをしなくて済むからです。(さくま)

 

2月11日(日)

実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。

伝道5:19

 

人生は決して悪くない。どのような境遇に生まれてきたとしても、それを呪って生きれば、つまらない。そうではなく、神が人間に何をされるか聖書から理解して、その通りに生きればいいのだ。そうすれば人生はかなり楽しいものだ。今日の聖句をよく読んでほしい。人が富と財宝を与えてくれるのではない。「神はすべての人間に富と財宝を与え」と書いてあるし、「これを楽しむことを許し」とある。この通りに信じていただろうか。それとも、神が富と財宝を与えるはずがないと信じていたのではないだろうか。少なくともクリスチャンは清貧に甘んじるべきだと何処かで思っていたのではないか。もしそのような否定的な思いが自然に出てくるなら、それこそ悪魔の嘘だ。だから、自分の心から悪魔の嘘を一掃してしまおう。イエス様を信じて生活が良くなるとは、聖書の真理を知ることで心が変わることで、間違ったことを正しいことへと変えるから良くなるのだ。誰にとっても難しいことではない。「自分の労苦すら喜ぶようにされた」と聖書に書いている。この通りに信じる信仰があれば、神の賜物を手にできるのだ。(サクマ)

 

2月12日(月)

あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

詩編16:11

 

イエス様に救われた人の新しい人生は、いのちの道です。主が共にいてくださるという恵まれたものです。しかし、この世には、イエス様を知らない人も多いのです。その中には、障害者もいます。心の病気で苦しんでいる人も少なくありません。ある女性は、子供の頃、「お前は暗い」と学校で生徒と先生にいじめられたと訴えます。頭をよく叩かれたから脳に障害ができて、心の病になってしまったのかもしれないと語ります。この方は遠方に住んでおられるので、近くの教会に行くことを勧めたのですが、その教会の牧師が彼女のことを精神病者として教会の人たちに語ってしまったので、皆んなが彼女を避けるようになり、行けなくなったそうです。それでも、聖書を読んでイエス様を信じているのです。家庭環境も悪く、悲しいことが多くありました。しかし、メールで私と繋がっているのですが、切なくなるような悲しいメールがくるので、聖句を書いたり、御言葉の意味を教えたりして、励ますと、喜びのメールが返ってきます。わずか数行のメールに、楽しみを見出しているのです。これは、イエス様が彼女を励ましているのだと思わずにいられません。イエス様は、彼女にも今日の聖句の通りにしてくださっているのだとわかりました。イエス様はあなたにも、今日の御言葉の通りにされるでしょう。誰にでも、主にある希望があるのです。(さくま)

 

2月13日(火)

人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。

詩篇37:23

 

クリスチャンは良い人生を歩むことができます。それは、主を信じているからです。主は、確かに目には見えません。しかし、あなたは信じています。あなたは、人生の大きな局面では難しい選択をしなければならないし、病気や予期せぬ困難に苦しむことすらあるでしょう。困ってどうして良いかわからなくなることだって起こるのです。そんな時に、クリスチャンは、まず神様に祈ります。率直に助けを求めることもあれば、悩みを打ち明けることもあります。どうすることが正しいか祈りの中で考えます。そして、主の御心を求めて祈るのです。このような人に、神様は実に親切で思いやり深いのです。ですから、あなたは主によって歩むべき道へと導かれます。そして、あなたは決してその道を踏み外すことなく歩もうとするでしょう。その結果はいつだって祝福に満ちています。こうして、たとえ回り道をすることがあったとしても、あなたが主を信じている限り、あなたの歩みは主よって確かなものとなるのです。聖書に約束されているので大丈夫です。(さくま)

 

2月14日(水)

あなたが計らってくださいますから、とこしえに、感謝をささげます。御名に望みをおきます。あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深いあなたの御名に。

詩編52:11

 

クリスチャンはある日、父なる神の愛に気がつきます。そして、イエス・キリストの恵みにも気がつきます。さらに、聖霊の交わりにも気がつくのです。そこで、自分に対する主の計らいに確信を持つようになります。人間的にみれば、大変に難しい状況に置かれていても、そのようなことは全く関係ないように主は驚くべき御業を見せてくだささるのです。そのような奇跡のような経験をするならば、私たちの口から感謝の言葉があふれます。そして、主の御名に望みをおくことがどんなに確かなことなのか知ることになります。そもそも、クリスチャンは主の慈しみに生きる者なのです。主はその人たちにどこまでも恵み深いのです。それがわかるようになるので、ますます私たちは御名に望みを置くようになります。だから、あなたは何も恐れることなく、喜びにあふれて生きていけるのです。(佐久間)

 

2月15日(木)

あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。

イザヤ48:17

 

あなたには、あなたの神、主がいます。残念ながら、それがどんなに大きなことか人間の理解をはるかに超えているのでその価値を十分にはわかっていません。それでも、幸いなことに、わたしたちは主から益になることを教えられています。そして、あなたが歩むべき道へと導かれているのです。逆らうこともできますが、自分勝手な道はただ遠回りに終わるでしょう。そこで、勇気を出して主の導かれる道へと進むのです。それが、あなたにとって最善の道だからです。主に心を向け、祈るのです。あなたは歩むべき道に導かれるでしょう。(佐久間)

 

2月16日(金)

しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみ言葉を聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。

ルカ21:19

 

良い地は良い心のことです。種が良い地に落ちるとは、良い心でみ言葉を聞くことです。それから実を結ばせるためには、そのみ言葉をしっかり守り、よく耐えることだとイエスは語りました。クリスチャンなら誰でもよく知っている譬え話ですが、ここでポイントとなることは何でしょう。ここでは、聞く、守り、耐え、結ばせ、と四つ動詞が連続します。その起点は、「正しい、良い心」です。それは、キリストに贖われたことを理解して、イエスを主と信じることです。一言でいえば信仰です。それから重要なことは、「み言葉を聞く」書いてあることです。そこで、試しに音読して自分に聞かせてみるのです。それでわかったことを守ります。これは、律法学者のように守るというよりも、聖霊の助けを得て、み言葉から何かを悟ると言う方があっていると思います。次に、忍耐の必要が生じるはずです。それは信仰生活に現れてくることでしょう。気がつくと、あなたは随分変わっているはずです。考え方が聖書と一致するようになるからです。もちろん、それは福音がわかったということです。キリストの品性があなたの上に現れて実を結ぶことになりますように。(佐久間)

 

2月17日(土)

神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

Ⅱコリント6:16

 

クリスチャンは神の神殿と呼ばれています。事実その通りなのです。それは、聖霊がその人の内に住むからです。それでは、神殿に偶像を置いたらどうなるでしょうか。聖霊と偶像が一致するはずはありませんから、聖霊が去るかもしれません。それは絶対避けなければなりません。では、どのように偶像が関わってくるのでしょう。聖書には「貪欲は偶像礼拝にほかならない」(コロサイ3:5b)とあります。パウロは、「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ5:16)と教えます。その後に、肉の業のリストをあげ、その中に「偶像礼拝」が出てきます。ここまでで明らかなことは、聖霊が内住していれば、その人は聖霊の宮です。そして、その聖霊にその本人が従順に従うなら、肉と対立して思い通りにさせないので大丈夫です。しかし、聖霊ではなく肉に従ってしまえばそれは偶像を置く事になるので欲望が抑えられなくなるのです。ですから、聖霊に満たされることを祈り求めることは良いことです。神との交わりこそがクリスチャンの求めることだからです。(佐久間)

 

2月18日(日)

主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください、あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。

詩編25:4、5

 

人生は大変だなぁと思うことがあります。普通に生きていても災いが近づき困った事になることもあります。その反対に何をやってもうまくいくこともあり、ついていると思うことだってあるでしょう。長く生きてみると、人生のどこかで幸運がやってきて有頂天になるような日があるのです。しかし、全体でみると大変なことの方が多いかもしれません。一体わたしたちはどうなりたいのでしょう。幸い、クリスチャンは神様に出会いました。自分でクリスチャンになったと思っているかもしれませんが、実際には神様に選ばれ、召命を受けたのです。そこで、聖書を手に取り、神様のみ言葉を読むようになりました。小さな信仰が与えられ、祈りを覚え、礼拝することを習慣にし、正しく生きようと決意します。しかし、しばらくするとクリスチャンはどう生きればいいのか、もっと確信が欲しくなります。そして、神様の奥義に触れたいと思ったり、自分自身が聖なる者へと変貌するように願います。できれば霊的な奇跡のような体験をしたいとも思います。しかし、そのようなことは何も起こらないかもしれません。そして、気がつくと自分はあまり変わっていないように思えます。不思議ですが、それでも主に従う道を歩んでいるのです。それは、全ての時間、主に望みをおいているからです。そこが昔と一番違うところです。(さくま)

 

2月19日(月)

にわかに起こる恐怖におびえるな。悪者どもが襲いかかってもおびえるな。主があなたのわきにおられ、あなたの足がわなにかからないように、守ってくださるからだ。

箴言3:25、26

 

わたしたちは、信じることの専門家です。自分を根拠にした生き方をとうの昔に捨てたのです。それがどんなに楽な生き方か実践した人だけがわかります。人間の最大の問題は罪ですが、罪は肉の中にあるので、「私が、私が」といった生き方、つまり自分の力で生きると罪の問題が影をさしてくるのです。さらに自分を恐れさせる存在が現れても、おびえて信仰が消えてしまうのです。だから、「私ではなくキリスト」という生き方を覚える必要があります。古い人を脱ぎ捨てキリストを着る、という言葉があるように、イエス・キリスト中心で生きるようにするのです。そうすれば、主が共にいてあなたを罠から守ってくださいます。平和な時から主を信頼して、恐怖が起こるような時にそのはじめに撃退してしまうのです。主を信じている私に悪いことが起こるはずはないと言葉にして恐怖が心を支配しないように信仰で戦うのです。主は、あなたの信仰に必ず答えてくださり、あなたは主の超自然な力に守られるのです。(佐久間)

 

2月20日(火)

不遜な者を叱るな、彼はあなたを憎むであろう。知恵ある人を叱れ、彼はあなたを愛するであろう。

箴言9:8

 

箴言には知恵について語られている聖句が目につきます。本来知恵は神に属するものなのです。人間関係で今日の聖句の通りのことを経験した人がいると思います。私たちのことを考えてみましょう。もし、人から叱られた時に素直になれずに反発したり、恨んだり、憎んだりしたことがあれば、あなたは今日の聖句をよく考えるべきです。人間は柔軟にならなければ、ストレスを増やすことになります。世の中には実にいろいろな人がいるのです。不遜な者は神に逆らう者のことです。人が神に対して畏れることを悟らなければ、不遜な者の道を行くことになります。知恵は主を畏れることだからです。私たちも主の目からみれば大した事のない者でしょう。ですから人をとやかく言うことなどできないのです。もし、あなたが責任ある立場の人であれば、時に叱らなければならないこともあるでしょうが、できれば叱ることなく、主に知恵を求めるように教えるのです。誰であってもまず主を畏れる事を教えたいものです。主を畏れる人はへりくだっているので自己を抑制できる人なのです。その人に知恵は与えられ、愚かな人とはまったく別の人生を歩むことになります。叱っても愛してくれる人こそ知恵のある人なのです。(佐久間)

 

2月21日(水)

わたしには仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。

ヨハネ12:26

 

これはイエス・キリストの言葉です。この時、ギリシャ人がイエスに会いたいと弟子に頼んだので、そのことを告げられた時に語った言葉です。この異邦人がイエスに会いにきたことでイエスは十字架の時が来たことを悟ったようです。ユダヤ人のようにユダヤ教の歴史の中に存在する者ではなく、外国の闇の世界に住む者に、キリストの招きは、「イエスに仕えること」であり、「イエスに従うこと」でした。これは、今も変わっていません。信仰を持っているなら、あなたもイエスに仕えようとする者なのです。それは、イエスが「わたしに従え」と招かれた時に「はい」と従うことを意味しています。そのために、イエスのいるところに、主に仕える者もいるのです。偶像礼拝者のように主を自分の願いを叶えるだけの存在にしてはいけません。人間を信じても奇跡は起こりませんが、イエスを信じるなら、奇跡が起こります。そして、この方に仕えようと思うはずです。その人は知ることになりますが、自分のいるところにイエスがいるのではなく、イエスのいるところに自分がいるのです。それは、主に仕えているからです。その人にとって幸いなことは、イエスの父がその人を大切にしてくださる、ということです。これこそ、クリスチャンの姿なのです。(佐久間)

 

2月22日(木)

愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。

Ⅰペトロ4:12

 

私が牧師になった年に大きな試練にあいました。その時、一人の姉妹が手紙を下さったのです。その手紙に書かれていた御言葉がこの聖句でした。このように牧師を励ます信徒がいることに深く感動しました。そして、事実励まされたのです。多分、私たちは兄弟姉妹の中に、試練にあって悩み苦しむ人を発見することがあるでしょう。その時には、聖書を開いて、主にうかがい、その人を励ます御言葉を見つけ、試練に悩むその人を力づけるのです。このような時の御言葉は不思議と心に入ってくるものです。そして、どうすれば良いのかわからず、八方塞がりのはずなのに行き詰まらないで道が開けるのです。人間的にはこれが正しい道だと思っていても、実は間違っていることだってあるのです。そんな時に、人間はなかなか神様に御心を求めず不満を溜め込んでしまいます。ですから、神様はその道を進めないようにするのです。本人はそれが試練と思ってしまうのですが、正しい道へと導きが始まっているだけなのです。そこで、このような時には静まって祈り、主に聞いてみるのです。そして、自分ではなく主が全てを決めてくださるように願い、ゆだねることです。心からそれができれば、自然と主への感謝が出てくるでしょう。(さくま)

 

2月27日(金)

イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。

マタイ9:28~30

 

 

この物語にはさらに前の状況が書かれています。二人の盲人は「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来たのです。そして、上記の聖句へと繋がります。さて、あなたは何に気がつかれたでしょうか。まず彼らは自分たちが盲人であることを認識していました。そして、主に憐れみを請いながらついて来たことです。当時のユダヤ人たちはイエスを目で見ていると思っていたでしょうが、キリストであることが見えませんでした。だから、見えるようになりたいとは思わなかったのです。謙遜にへりくだることができなければ見えるようにと願えなかったのです。さらに、盲人へのイエスの対応ですが、「わたしにできると信じるか」と聞かれました。つまり、信じることがことのほか重要なのです。その直後に、「信じているとおりになるように」と言いました。そして癒されて目が見えるようになったのです。もし、彼らが「本当にイエスは癒せるのか、癒せないのではないか」と疑っていたら、目は見えるようになっていなかったでしょう。信じたとおりになるのですから、はじめにイエスが「信じるか」と言われたことには大きな意味があったわけです。今も同じように、信じることが大切です。イエスに対して一体何を信じているのか、考えてみてはいかがでしょう。(佐久間)