2022年8月ディボーション

8月1日(月)

この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊に注いでくださいました。

テトス3:5、6

 

私たちが「救い」と言っていることの内容は、どうなっているかこの聖句でわかります。もちろん、前提は、「神はわたしたちが行った義の業によってではなく、ご自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました」(5節)。「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ」、つまり、人間の義の業による救いではない、もっと根源的な救いを神様は御計画になられたのです。それは、罪人の修正ではなく、新しく生まれさせることでした。その方法は、聖霊によります。アダムが神の息である聖霊を吹き込まれたら、生きたものとなった、とあるように、もう一度聖霊を吹き込むことで新しく生まれさせることでした。しかし、これだけではなかったのです。次に「新たに造りかえる洗いを通して実現した」とあるからです。この「洗い」は水の洗礼をイメージすると思いますが、イエス様は、ニコデモに、水と霊から生まれる、とありますから水だけではなく聖霊によるバプテスマが必要だということです。そして、その聖霊がイエス様を通して注がれることが記されています。ですから、主イエス・キリストを信じる信仰があって、完全な救いを得るために、テトスの今日の御言葉の通りの救いを求める必要があります。しかし、ありがたいことに、神様の憐れみによって救われるのですから、誰にでも希望があるのです。先に召された皆様は、新しく生まれた者として、信仰を持って生きていただきたいと思います。世の光と言われるほどの光をいただいていますが、油切れになれば、光も消えます。ですから、聖霊の油を注いでいただけるように、主に祈ることも忘れてはならないのです。これほどの霊的なことを神様はあなたに啓示しています。ですから、あなたが神様に召された特別な存在であることを覚えていてください。

 

8月2日(火)

あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

Ⅰペテロ1:23

 

なぜ新しく生まれる必要があるのでしょう。それは、罪人だからです。罪人には希望がありません。でも、救い主イエスは、あなたを救うことに成功しました。それだけではなく、罪人の時には持てなかった希望を、持つことができるようにさらに驚くべきご計画を立てられたのです。それは、私たちクリスチャンが皆願っている聖なる者になる方法を備えられたということです。それは、今日の御言葉にはっきり書かれています。天国に入れるように新しく生まれさせる方法です。それが神の御言葉です。これは、比喩ですが御言葉は朽ちない種だと言っています。種なので、土に蒔かなければなりません。良い土は良い心のことです。聖霊は種を成長させます。御言葉を理解しようと考えることも重要ですが、聖霊の解き明かしを願う祈りも大切です。何しろ、あなたが生まれ変わることができるのは、神の御言葉によると明確に書いてあるのです。自分勝手な解釈は禁じられていますが(Ⅱペテロ1:20、21)、聖霊は聖書を通して読者に神様のメッセージをに伝えることができます。信仰は大変役に立ちます。難しく考えずに、信仰を持って聖書に向かいましょう。ちゃんと種を蒔くことができれば、その効果は時間がかかっても現れてきます。あなたはの考えは聖書と一致してくるからです。聖書は持っているだけのものではなく、読むものです。聖霊はあなたの益となるように、必ず働いてくださいます。

 

8月3日(水)

愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、誰でも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。

ヤコブ1:19、20

 

 

クリスチャンの悩みの一つは、「怒り」です。クリスチャンなので、当然怒っては行けないと思っています。ところが、まるで試されるように、イライラさせられるようなことが身近に起こってきます。ヤコブ書では、「聞くには早く」「語るにはおそく」「怒るにはおそく」とクリスチャンが守る三原則を挙げています。ところが、見事にこの逆の三原則を実行してきたことにガッカリするのです。「聞くにおそく」「語るに早く」「怒るに早く」が人間の得意技なのです。頭の回転の速い人は、相手の言葉をちょっと聞いただけで結論まで待てずに、遮ってでも自分の意見を語っています。そこに、怒りが加わると恐ろしいほどです。そして、その結果は、いつでも後悔になってしまいます。「昔は瞬間湯沸かし器、なんて呼ばれていました」と、開き直って笑って言っていた人も、クリスチャンになると、とても恥ずかしくなります。心理学者によれば、人間はいつでも選択をしているのだ、と言われていますから、実は瞬間のうちに怒るかどうかを自分で選択しているのです。ということは、「怒るにおそく」も選択できるので、意識して努力することはできるはずです。ただ、正義の怒り、のようなことはあるので、怒りそのものを絶対ダメとは言っていません。それでも、おそくしなさい、とは言われているということです。このわずかな時間がとても重要なのです。ここで、人は過ちを犯さないで済むことになるからです。感情に任せての怒りは、後味が悪いもので、時には罪に問われることすらあるのです。ですから、私たちは、このヤコブ書の三原則を覚えて意識している必要があるのです。その結果はきっと良いものとなるはずです。

 

8月4日(木)

未熟な者は何事も信じこむ。熟慮ある人は行く道を見分けようとする。

箴言14:15

 

いろいろな人生がある。実に人生は様々だ。だから、面白い。しかし、破滅的な人生を選択してしまう人もいる。カルトが毎日のように騒がれているが、それも初めはキリスト教を名乗っていたので、キリスト教会の受けた被害も大きい。それにしても不思議なのは、まともなキリスト教団より、カルトの方が人を集めていることだ。そればかりか、破産するほど貢がせ、家庭を壊し、非合法な方法でお金を稼がせても、正統的なキリスト教団よりも教会員が多いということが引っかかる。今日の御言葉を熟読してみよう。子供を見ていると、まさに未熟なのだが、大人になっても未熟のままであれば、人生を損なう恐れがある。何事も信じて良いわけではない。見分けることが重要だ。この世界は、単純ではない。人間が複雑にしているからだ。自分の選択で人生が大きく変わってしまう。誰でも、あの時こうすればよかった、あーすればよかった、と人生を振り返り後悔することがある。今更どうすることもできないのに、過去の出来事を後悔するだけでは、希望は生まれない。「熟慮ある人は行く道を見分けようとする」。信仰は、熟慮を身につける早道だ。軽率に判断しないで、まず祈る。神に聞くことが大切であることを知っているから祈る。考えることが苦手な人でも、祈ることはできるから、神に導きを求めるべきだ。キリストは、私たちにご自身が「道」であると教えられた。それゆえに、私たちが歩む道は、キリストと決まっている。しかし、それは、信仰と御言葉と祈りによって歩む道なのだ。そして、できるだけ単純にして生きることが良い。聖書は、「行く道を見分けようとする」と書いてあるので、あれこれ考えて迷うということではなく、見分けているのだ。何が主の御心かと考えて、正しい道を選ぶ。肉が働かないようにと願い、聖霊の助けを求める。そうすれば、正解の道を選ぶことができる。

 

8月5日(金)

あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。

ガラテヤ3:26

 

クリスチャンが「神の子ども」と言われることがあります。事実、聖書には複数の記事があります。その一つが今日の聖句です。ここでは、神の子の定義が、「キリスト・イエスに対する信仰」があることとなっています。ですから、クリスチャンに当てはまるわけです。神の子どもであることに、何か特権があるかと言えば、大きな特権があります。つまり、死んで地のちりに戻ってしまう被造物から、永遠の命に生きる神の子どもになることです。それは、天国へ入ることができるという意味です。これらを考えると、神の救済計画は、罪人の罪を赦すことだけにとどまらず、新生させ、天の住人となることができるように、神の子どもにすることまで含まれていたのです。ですから、この世の罪人たちの間にあって、神の霊を宿す者として、肉ではなく霊に従う者となって生きる必要があります。行いによる義が成立しないことが聖書で明確に示されているのですから、同じ聖書が教える信仰による義の生き方が身につくようにしたいのです。肉に従うとは、クリスチャンになる前の生き方に戻ることです。自分がよく知っている生き方です。欲に従う生き方と言えます。それに対して霊に従う生き方は、自分の考えではなく、聖霊の意図する生き方です。聖霊の導きを求め、示されたことに従順に従う生き方です。信仰が要求されます。祈ることで、この世の時間を止めることも必要です。立ち止まって、主の御心を知る時間です。これは自分の為に必要な霊的な時間となります。そして、私たちは、聖書を考えるようになります。聖書をただ読むのではなく、考えるわけです。当然、難しいことは分かりません。そこで、聖霊の助けと解き明かしを求める祈りが必要になります。初めのうちは、すぐに答えを得ることができないかもしれませんが、答えが与えられるまで、何日でも考え続けることが益となります。愛が私たちの課題なので、愛を忘れないようにしなければなりません。肉で生きる古い生き方の方が慣れているので、愛をすぐに忘れてしまうのです。「互いに愛しなさい」、これが新しい掟です。これも理解するまで、悩みの種になります。しかし、あきらめないでください。行いによる義は無いと言うことを覚えていれば、愛は、行いではない、つまり、自分の努力ではないということになります。心から出てくるものが愛です。その心に聖霊が住んでいるのです。霊に従って生きるという意味がわかってきますね。古い人には理解できません。新しい人こそが理解できるのです。その新しい人を神の子どもと言うのです。

 

8月6日(土)

主よ、あなたは情け深い神

憐れみに富み、忍耐強く

慈しみとまことに満ちておられる。

わたしに御顔を向け、憐れんでください。

御力をあなたの僕に分け与え

あなたのはしための子をお救いください。

主よ、あなたは必ずわたしを助け

力づけてくださいます。

詩篇86:15、16、17c

 

私たちが神様に頼れるのは、主が情け深い神様であるからです。私たちは、自分の弱さを知っているので、神様の憐れみにすがるのです。私たちが聖なる者ですと言えるのならいいのですが、残念なことにその逆であると自覚することが多いのです。それでも、主は忍耐強く私たちを見捨てないのです。私たちがうまくいっていると思っている時はいいのですが、長くは続きません。何かしら問題が起こるからです。それを気にしないで乗り越える人はいいのですが、いちいち気にやみ苦しみを覚える人もいるのです。聖書を読むと、どうもその苦しみを覚える人にも、主は同情的なのです。私たちは、神様の憐れみにすがり、現実の生活に生じる様々な悩みを解決していただきたいのです。それどころか、上よりの力に満たしていただき、問題や悩みを乗り越えていきたいと願うのです。これは、決して間違ったことではなく、むしろ聖書的です。勇者ダビデですら、同じように主に頼って生きたのです。ですから、私たちは自分を責めるようなことはしないで、ありのままに主に祈り、救いを求めて良いのです。私たちの神様は必ず助けてくださいます。人間は厳しいので、とやかく文句を言うかもしれませんが、主は別です。主は優しく憐れみをかけてくださいます。主が力づけてくだされば、何も怖くありません。このように、私たちは大きな主の憐れみの中で、安心して生きて行くことができるのです。ハレルヤ!

 

8月8日(月)

わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりに持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。

ヨハネの手紙一1:3

 

私たちは聖書を神様の手紙と言うことがあります。信仰という眼鏡をかけなければ見えない手紙です。私たちが生まれた時には、すでにイエス様の出来事は旧約聖書の預言の通りに全て成就していました。ですから、直接イエス様を見たり、話したり、お会いすることはできませんでした。でも、イエス様に出会ったことは間違いありません。そして、知恵と知識は、聖書を通して聖霊が与えてくださいました。それは、イエス様にお会いした人たちから、イエス様のことを聞くようなものです。そして、今日の聖句を読むと分かる通りに、この手紙がある理由は、私たちが交わりに招かれているからです。その交わりは、「御父と御子イエス・キリストとの交わり」なのです。ですから、これは信仰による交わりです。イエス様を信じて救われた人たちへの交わりの招きなのです。なんと恵まれたことでしょう。この交わりこそが、信仰による義によって得られるものです。肝心なことは、聖書に書かれています。あちらこちら調べてみましょう。そして、御父と御子イエス・キリストとの交わりにあずかることです。別の助け手、聖霊が信仰に応えて働かれます。「神は霊である」(ヨハネ4:24)ですから、交わりには聖霊の助けがいるのです。そして、「だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(同)とあるのです。礼拝は神との交わりなので当然です。このように、私たちはイエス様を信じて救われ、主の礼拝者になったのです。このことが形式的な週一回の礼拝だけに限定されていないことが重要なのです。いつでも私たちは礼拝者なのです。それがどれほど大きな恵みであるかを日々理解したいのです。

 

8月9日(火)

あなたの定めは驚くべきもので。

わたしの魂はそれを守ります。

詩篇119:29

 

この詩篇は、信仰者には理解し共感できる箇所です。私たちは神が愛であることを知り、自分が罪人で神の赦しがなければ滅ぶべき者であることを知らされたのです。キリストは、神が愛であることを見せてくださいました。キリストの十字架の犠牲は私たちの心をとらえ、回心へと導いてくださいました。洗礼を受けてクリスチャンになると、今度は信仰の道を歩むことがどのようなことかすぐには理解できずに、神のさとしを必要としたのです。新共同訳では「定め」と訳していますが、クリスチャンが神から受け、理解した信仰者の生き方です。それは、人間の作る規則のようなものではありません。神に愛され、神を愛し返し、隣人を愛することです。「定め」とある通り、こうやって生きて行くように神は定めたのです。ですか、私たちの最も深い所、魂がそのことを知り、守ろうと反応するのです。これは、罪赦された者の経験です。これを私たちは罪人の世界で喜んで守ろうとしているのです。

 

8月10日(水)

喜びを抱く心は体を養うが

霊が沈みこんでいると骨まで枯れる。

箴言17:22

 

クリスチャンはパウロの「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(フィリピ4:4)という命令を心に留めています。ですから、喜ぶことが一般の人よりは多いはずです。確かに何か喜ぶようなことがあって初めて喜ぶというのなら、普通です。クリスチャンは、そうではなくいつでも喜ぶのです。つまり、喜べない状況に置かれても、主に向かって祈ることができるので、感謝と喜びが出てくるのです。このような喜ぶ習慣は、聖書に書かれている通りに、健康にまで影響してくるのです。なぜなら、体は神様の創造によってできているので、肯定的に喜ぶことでホルモンも、全ての機能が正常に働いて健康を作る仕組みになっているのです。ですから、いつも意識的に喜ぶようにするのです。これは、感情を昂らせるということではありません。鏡を見て自分の笑顔を確かめてみましょう。上手に笑えているでしょうか。自然な笑顔になるように、鏡を見ながら顔を動かしてみると、自然な笑顔は喜びにつながっていることに気がつくでしょう。そして、無理に笑うのは疲れますが、自然な笑顔は疲れません。そして、自分の顔が美しく見えるはずです。喜んでいれば、顔は自然な笑顔になっていて、何をやってもうまく行くと思えます。人と会ってもストレスになりにくくなります。一方、神様から心を遠ざけると、つまり自分だけでクヨクヨと考え込むと霊が沈みこんで来ます。ですから神様に心を向けることです。そして、「広い心をください」と祈ってみましょう。それだけで十分です。そして、喜んでいると良いことが多くあるのですが、対人関係で役に立つ親切な言葉が自然と出てくるようになります。「親切な言葉は蜜の滴り。魂に甘く、骨を癒す」(箴言16:24)とあるように、人にも自分にも良い効果があるのです。ここまで読んで、でも「どうやって喜ぶの」と思っている人は、「主において常に喜びなさい」という言葉を考えてみるのです。信仰者なので、自分の努力でと思うのではなく、主との関係で喜ぶことなのだと気がつくでしょう。そうなれば、あとは試すだけです。あなたの笑顔に癒される人が出てきます。

 

8月11日(木)

わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊になり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。

フィリピ1:9~11

 

パウロは「本当に重要なことを見分けられるように」と祈りました。私たちは、ただ生きているわけではありません。自分の置かれた立場で日々の自分の勤めを果たし、その上に信仰の道をマラソンランナーのようにゴール目指して走っているのです。オリンピックや世界陸上で、選手が懸命に走る姿は感動します。誰もが最後にメダルを取るために競争しているので、その真剣さが伝わり感動するのです。信仰者も同じだとパウロは思っていました(Ⅰコリント9:24参照)。私たちは、気が向いたら頑張り、やる気が無くなればやめてしまう、といったような信仰生活を送っていません。私たちは、キリストの日、つまり再臨の日に間に合うようにと清い者になろうとしています。それが、私たちが走っていることの意味です。主の救いのご計画による救いの過程は、聖霊によって導かれ実現して行くものです。そのためには、信仰が要求されます。私たちに要求できることはこれだけなのです。そこで、信仰に必要なことは、知る力と見抜く力です。何を信じるかが重要だからです。漠然と信じているではダメなのです。この世の神だと豪語する悪魔も、あなたに偽りを持って騙しにきます。真理に似ていて非なるものが私たちの信仰の道の罠となるのです。ですから、聖書を学び、祈り、真理を知り、信仰を強め、神を愛し、隣人を愛し、本当に重要なことを見分けられるようになることが、求められています。このようなことが日々訓練されていると思ってください。勝利の栄冠は創造以上の輝きを放ちます。目先のことに惑わされて、肉が出てこないように、キリストの恵みを味わい知り、信仰に生きる道をいつでも選ぶことです。キリストは、義の実をあふれるほど与えるはずです。そこにこそ、真の価値があるのです。いつでも神を賛美する者となれますように。

 

8月12日(金)

”霊”と花嫁とが言う。「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、値なしに飲むがよい。

黙示録22:17

 

黙示録は、多くの人たちが理解できずに聖書の中に入れないようにと言ってきました。あの有名なルターですら、自分の聖書には入れていましたが、正典としての地位を与えませんでした。しかし、今日の世界の混沌とした様子を見ると黙示録が私たちに終末の意味を教えていることは明らかです。今日の聖句は、黙示録の最後の部分に出てきます。聖霊と花嫁はクリスチャンのことです。私たちは、信仰をもって「主よ、来てください」と言うのです。私たちは、この世ですっかり渇いているのです。霊的に満たしてくれるものをこの世で見出せずにいるからです。すると、私たちに呼びかけがあります。「渇いている者は来るがよい」と聞こえます。渇いていることを自覚している者に聞こえる言葉です。信仰によって生きようとすると、だんだん渇きを覚えるようになるのです。そして、「命の水が欲しい者は、値なしに飲むがよい」と聞こえるのです。ただで飲めるのですが、これは、良い行い、良い功績が無くと飲めると言われているのです。そうすると、渇いている者とは、律法を守ろうとした人やクリスチャンらしくふるまおうと自分勝手に解釈して行いによる義を求めてしまっている人のことです。しかし、そのようになっても、まだ恵みの時は残されていて、命の水が欲しい者は、値なしに飲めるのです。ですから、悔い改めて、聖霊の御力で渇きを癒すことができるのです。「来るが良い」と主がおっしゃるのですから、主のもとにいかなければ、渇きを癒すことができません。今日、静まって、主のもとへと出てみましょう。「命の水が欲しい」と祈ってみましょう。

 

8月13日(土)

主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。

主を畏れる人には何も欠けることがない。

若獅子は獲物がなくて飢えても

主に求める人には良いものの欠けることがない。

詩篇34:10、11

 

神様は一人一人を大切にお考えになられています。決して、その他大勢のようにまとめてみているわけではありません。ですから、あなたのことも深く関心を寄せています。何しろ、御子の命を代償にあなたを救ってくださったのですから、あなたの価値が非常に高いと思っておられるのです。そして、あなたは、主を信じて愛しています。イエス様をこの世の何ものにも変え難いと思っているはずです。しかし、今日の聖句を実際に味わったでしょうか。主を畏れ敬う心があるかどうか、試される日があるかもしれません。そして、あなたが見事、心から主を畏れ敬う者であることが示されたなら、あなたは一生何も欠けることがない人生を歩みます。この世の常識ではなく、神の支配する世界に生きている信仰者は、次の聖句を忘れてはいけません。「主に求める人には良いものの欠けることがない」。どうですか、あなたはこのことを実際に生きて体験するのです。すぐ心配する人や、不安になる人は、主の恵み深さを味わう訓練を必要としています。信仰は、あなたを主によって安心させてくれるものです。ですから、主によって楽観的になれるように信じるのです。そのために今日の詩篇を覚えましょう。