2016年12月ディボーション

12月1日(木)

主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。主は信仰ある人を守り、傲慢な者には厳しく報いられる。雄々しくあれ、心を強くせよ、主を待ち望む人はすべて。

詩篇3124、25

 

クリスチャンは主を愛して生きている人のことです。そのことが幸せなのです。主は、慈しみ深いお方です。あなたのことを理解してくださり、いつでも助けてくださいます。そこで、クリスチャンは主の恵みに感謝するようになります。傲慢というのは、主に自分の思い通りにしてくれと言っている人のことです。自分の思い通りにならなければ、不満や失望からくる自己憐憫に陥りやすいのです。サタンにとっては、まさに恰好の獲物としか見えないのです。ですから、もっとひどい目に遭うかもしれません。主は、傲慢な人を助けることができません。そこで、私たちは心から感謝が湧いてくる生き方をすることが賢明であることを忘れてはいけません。主が自分に対していかに慈しみ深いか考えて見ると、自然と感謝が湧いてくるものです。それが、主への愛となるのです。そのように生きる人は、主への信仰によって生きている人なのです。(佐久間)

 

12月2日(金)

どうか、虐げられている人が再び辱められることなく、貧しい人、乏しい人が、御名を賛美することができますように。

詩篇74:21

 

今年も12月を迎え、年末恒例の助け合い募金の呼びかけがありました。一年を終え、新しい年を迎えようとしている時に、困っている人たちはどれほど淋しい思いをするかしれません。フィリッピンに住んでいた時に、息子の家庭教師に雇った人は、小学校の教師助手をしているシングルマザーでした。フィリッピンでは大学院で修士を取らないと教師になれないそうで、彼女はなんとか修士を取りたいと思っていたのです。お祭りの時に彼女の家に招待されたので、行って見ると建設途中のようなコンクリートの打ちっぱなしの小さな家でした。お金ができると少しずつ工事を進めているとのことでした。彼女の心配は小学生の娘が進学するためのお金でした。彼女は、まだ恵まれた方でしたが、下を見ると際限がないほど貧しい人たちだらけだったのです。今日の御言葉はいいですね。人間ではなく神様にお願いしているのです。もっとも人間にとって難しいことを。イエス様がおいでになられた時に、この御言葉の願いはかなえられました。そして、それ以降、イエス様の働きを委ねられたクリスチャンが2000年もイエス様の愛の働きを絶やさなかったのです。今年もクリスマスの月が巡ってきました。私たちも、この御言葉の通りにお祈りしたいと思います。(さくま)

 

12月4日(日)

わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし わたしの心を夜ごと諭してくださいます。わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし わたしは揺らぐことがありません。

詩篇16篇7、8節

 

ハレルヤ!クリスチャンはこうゆう恵みを受けているのです。もし、そのような実感がないと言われるのなら、この御言葉をそのまま祈りにして、これは自分のことであると信じて見ましょう。主はそもそも私たちの思いを励ましてくださるのです。ですから、小さなことでいちいちくよくよする必要がありません。たとえ失敗した日であっても、自分を責めてはいけません。例えば自分の家で失敗したとしても、誰からも怒られません。自分でその後始末をすることになるでしょうが、それだけです。だから、失敗は、いろいろ教えてくれるので決して悪いことだけではないのです。夜になれば、主がちゃんと正しく教えてくれます。それでおしまいです。主はどこか遠くにいるのではなく、すぐそばにいてくださいます。それは、私たちが守られている証拠です。力を与え、愛情を豊かに与えてくださいます。褒めてくださるし、高く評価してくださいます。何にも負けないように、励ましてくださっているのです。ありがたいですね。(さくま)

 

12月5日(月)

主よ、私たちの主よ あなたの御名は、いかに力強く全地に満ちていることでしょう。

詩篇8:2

 

誰が知っているでしょう、真の神の御名を。私たちは幸いと呼ばれる人たちなのです。なぜなら主の御名を呼ぶことができるからです。その主がいかに偉大であり、全知全能であるか知っているのです。月も星も主が配置なさりました。地球上の全ては全部、主の御手の業なのです。その創造主である神を私たちは、知っているのです。それどころか考えられないほど深く愛されて、特別に大事にされています。ですから、今日の御言葉は、私たちの魂から出てくる讃美なのです。主を讃め称えることの喜びを今日も覚えましょう。(佐久間)

 

12月6日(火)

わたし、わたしこそ神、あなたたちを慰めるもの。なぜ、あなたは恐れるのか、死ぬべき人、草にも等しい人の子を。

イザヤ51:12

 

私たちはいろいろなことで悩みます。その中でも人間関係で悩むことがやはり多いのです。それがクリスチャンであっても人につまずいたり、傷つくことがあります。ただ、神様を信じる人は、今日の神様のお言葉を聞くべきです。私たちの神様は私たちを慰めるお方なのです。私たちが傷ついて倒れることがあっても、優しく手を差し伸べて支えてくださるのはイエス様なのです。そして、弱った心を鼓舞してくださいます。神様を信じているのに、いったいどうして人間を恐れているのか、と。神様がなんとかしてくださるのです。神様が助けてくださるのを妨害できる人間などいないのです。困ったことが起これば、まず神様へSOSを発信することです。神様はあなたの祈りを聞けば、最善を尽くしてあなたを助け、安心させてくださいます。私も何度もそうやって助けていただきました。今振り返っても、不思議でなりません。あなたの信じた神様はすごい神様なのです。だから、信じる心を大切にしてください。(さくま)

 

12月7日(水)

主よ、あなたの御言葉のとおりあなたの僕に恵み深くお計らいください。確かな判断力と知識をもつように、わたしを教えてください。わたしはあなたの戒めを信じています。わたしは迷い出て、ついに卑しめられました。今からは、あなたの仰せを守らせてください。詩篇119:66、67

 

正しい道を歩もうとしていても、気がつくと迷い出ていることがあります。最悪の場合は、自分の自信が完膚なきまでに打ちのめされるようなことになるのです。しかし、それは悪いことだけではありません。聖書の放蕩息子の譬え話に出てくるように、「本心に立ち返って」という重要な経験に導かれるからです。神様を信じるためには、神様の方へ向かなければなりません。それが、本心に立ち返ると神様の元へと帰ろうとするものなのです。神様は、その人を責めるようなことはしません。それどころか、喜んでご自分の子供としてハグしてくださいます。驚くべき恵みです。そして、神様の戒めが愛に根ざしているものであることを知るのです。しかも、別の助け主として聖霊も個人的に与えてくださるのです。神様のなさることに間違いはありません。聖書を読み、祈ることを聖霊に助けていただきながら続けるのです。疲れたら休み、無理はしないことです。神様の愛情を日毎に求めて受け取ってください。そして、神様を愛し返すのです。きっと笑顔になっているはずです。まずは、喜んでみましょう。良い一日が始まります。(さくま)

 

12月8日(木)

神よ、わたしを極め、わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。御覧下さい、わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしをとこしえの道に導いてください。

詩篇139:23、24

 

私たちは毎日生きていかなければならないために、どうしても目先の事で右往左往してしまいがちです。あまりにも忙しすぎたり、疲れると、神様を忘れてしまっているかもしれません。そして、ゆっくり考えることもできなくなっているかもしれないのです。しかし、聖書を読むと、そもそも私たちを創造されたのは主であるのです。そこで、神様を知っている人にとっては、神様が恐ろしい力で私たちを驚くべきものに造り上げてくださったことを知っているのです。私たちが日記をつけなかったとしても神様は毎日記録をつけておられると聖書に書いてあります。その主が私たちのために数え切れないほどの御計らいで支えてくださっているのです。ですから、主が私たちの悩みを知ってくだされば、もう安心なのです。私たちの内を調べ、何か迷いの道がないかどうか見て欲しいのです。そして、神の国に生きる者の正しい道へと主の御手で導いていただきたいのです。そすれば、悩まなくてすむようになるからです。(さくま)

 

12月9日(金)

死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。

Ⅰコリント15:16、17

 

私たちは自分が罪人であることを知ったのです。それはキリストと出会ったからです。キリストはわたしたちを救うために天から来られた神の独り子です。そして、罪を犯すことはなかったのに、私たちの罪の犠牲となってくださり、十字架で死なれたのです。それで、私たちは罪が赦されたのです。そのキリストが復活したことを信じない人がいたのですが、それは救いの意味を知らない人の愚かな考えです。なぜなら、パウロの説明によれば、私たちの罪の問題を解決する方法が、十字架で死なれたキリストに結びつくことなのです。つまり、信仰によって霊的に生まれながらの自分に死ぬことになります。ですから、キリストの復活を認めなければ、新生することがないということです。死んで新しく生まれることにこそ救いがあるのです。信仰でキリストと結び合わされているのなら、復活の新しい命もいただけるということなのです。そうやって新しく生まれることによる救いなのですから、肝心のキリストの復活を否定して認めなければ、自分の救いを不可能にしてしまうことになるのです。ですから、聖書に書かれた通りに復活を信じることが大切なのです。(佐久間)

 

12月10日(土)

わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。

ローマ14:8

 

明治になって入ってきた宣教師たちは、すぐに信徒を得たのですが、はじめにクリスチャンになったのは文士たちでした。しかし、長続きはしなかったのです。そして、次にクリスチャンになったのは、元武士であった人たちでした。武士道にキリスト教徒の生き方がそっくりだったからです。主君に使え、命も惜しまなかった武士たちは、この地上の主君を失ったけれど、身についた生き方は変えられなかったのです。そこで、宣教師の愛に生き自分に厳しい信仰姿勢に、真の主に仕える姿を見たのです。そこで、今日の御言葉の通りに生きるクリスチャンになろうと決めたのです。わたしたちは日本人なので、クリスチャンが向いているのではないでしょうか。(佐久間)

 

12月11日(日)

けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れているものとか言ってはならないと、お示しになりました。

使徒言行録10:28b

 

今のような時代だからこそ、今日の箇所は重要です。日本人だけでいれば平気なのに、外国人が一緒になると、言葉が通じなかったり、肌の色が違っていたり、風習や習慣が大きく異なっていて、強い違和感や時には拒絶感が出てくることがあり得るのです。それは、特に外国人とほとんど接触する機会のない人にみられるかもしれません。もちろん、生まれ育った場所や環境が違っていたり、何か自分とは違うと感じるだけでも、このような否定的な感情が湧いてくることがあるのです。しかし、クリスチャンは神の国へと招き入れられた人たちです。そこでこんなことが起こったりします。ある日本人女性がスウェーデン人と結婚することになった時に、ご両親も式に出席するためにスウェーデンに行かれました。そこで、ご両親の教派の現地教会の礼拝に出席してみたのです。言葉が全く通じなかったので心配していたのですが、遠く日本から訪ねてきたことを知った教会員たちは、言葉の壁を超えて親切に歓迎してくれたのです。そこで神の家族であることを実感したそうです。イエス様は信じた者を清めて、新しい命に生まれさせてくださったのです。ですから、私たちはイエス様の教えを守って、偏見を捨て、だれに対しても公平でありたいし、互いに愛し合いなさいという掟も信仰で守り通したいのです。(さくま)

 

12月12日(月)

イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

ルカ8:48

 

 

時々、自分には信仰があるかどうか心配して確かめる人がいます。信じているが、その信仰が神様に足りているかどうか、そうも神様を満足させるほどの信仰が自分にはないのではないか、と気にしているのです。今日の聖書箇所は、「十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも直してもらえない女」の話です。この女がしたことといえばイエスの服の房に触れる事だけでした。それなのに、その時、病は癒されたのです。そして、この女は今日の御言葉の通りにイエス様から最高のお言葉をいただいたのです。では、どこにすごい信仰があったでしょうか。少なくとも普通の人ではとうてい出来ないようなものすごい信仰が描かれていたと思えません。ただ、ここにあなたが願っているような信仰が描かれているのも事実なのです。この秘密を探ってみましょう。あなたが考えて何か閃いたなら、それは大きな宝を手にしているはずです。ですから、今日一日、考え抜いてみましょう。きっと、イエス様のみ声が聞こえてくるかもしれませんよ。(さくま)

 

12月13日(火)

支配者の御機嫌をうかがう者は多い。しかし、人を裁くのは主である。

箴言29:26

 

会社や団体に役所、あるいはPTAや町内会に学校など、およそ人の集まる組織には支配者がいるものです。良い意味でも悪い意味でもです。そして人間は悲しいぐらいに支配者の御機嫌をうかがう者となるわけです。クリスチャンも時々、その影響を受けることになります。支配者を恐れてしまうことだってあり得るわけです。しかし、忘れてはいけないのは「人を裁くのは主である」ということです。支配者はまるで神のように振る舞う者ですが、本当に恐れるべきは神なのです。そのことを見失わなければ、どこにいてもブレることはありません。そして、主を第一とする信仰は必ず報われるのです。試された時こそ、自分の心を主に集中させる時です。(佐久間)

 

12月14日(水)

主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。朝ごとに、わたしは御前に訴え出て あなたを仰ぎ望みます。

詩編5:4

 

私たちは、朝目覚めたならすぐに神様に向かって声をかけることが必要です。一時も神様無しには生きることができません。今日のことで祈る事が必ずあるのです。神様を朝から意識することで人生はかなり楽になります。それは神様に祈る事で得られる安心感であり、自分が今どのようなことを思っているのか心の状態がわかるのです。そして、自分一人でかかえていた重荷が、祈りの中で軽くなります。今日も、主に必要なら訴え出てください。(さくま)

 

12月15日(木)

神よ、今こそわたしの手を強くしてください。

ネヘミヤ6:9b

 

人生の中で窮地に追いやられる場合がある。どうしてかすべてが上手くいかない、自分のしようとすることが邪魔さあれる。不当に悪口を言われたり、場合によっては訴えられる。正しいことをやっているはずなのに、敵に攻撃されてすっかり弱ってしまう。恐怖が忍び寄ってくるのだ。そのような時に、私たちはどうすればいいのだろう。聖書は明確に教えている。神を信じる者は主に叫ぶはずだ、と。今日の箇所は、ネヘミヤが敵の脅迫に圧迫された時に言った言葉だ。ネヘミヤはバビロンから帰還し、エルサレムの城壁を修復していたのだ。それを妨害する者たちに苦しめられていたのだが、それに屈することなく、やり遂げることができる強めてくだ祈ったのだ。その結果、城壁は完成し、周囲の敵は恐れを抱き、大いに面目を失った。神がネヘミヤたちの工事を助けたことを悟ったからだ。このように、恐れずに始めたことをやり遂げることこそが最善の道なのだ。神を信じているならば、必ず成功へと導かれるはずだから。自分の心が弱ったら、強くしてくださるように、神に祈ろう。(サクマ)

 

12月16(金)

何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。

箴言4:23

 

クリスチャンになってわかることは、正しく生きる方が楽だということだ。私たちには人間の弱さがあるので、生きることもそう楽なことではない。そこで、なんとかうまくやろうとして心にもないことを言ってしまったり、嘘や虚勢を張ってしまうことだって簡単に起こる。しかし正しく生きることは大変なことなのだろうか。少しの勇気と神様が見ていてくださるという信仰があれば、意外と難しいことではないのだ。それよりも、神様の御目に正しく映ることを行うことは、多少の波風があっても結果が最良であることは想像がつくだろう。自分の心を守れば、すべてが正しい方向へ進む。だから後悔もない。自分の霊の命がしっかりと生きている。そのような人になりたいものだ。(サクマ)

 

 

12月17日(土)

無垢であろうと努めよ、まっすぐに見ようとせよ。平和な人には未来がある。

詩編37:37

 

競争社会ではわきを固め片時も油断してはいけない。この社会では勝者と敗者が出てしまう。私たちは、かつてはそのような生き方しか教わらなかった者だった。そのような生き方では多数の者が不満を募らせることになる。ところが人類の歴史に神が人となって現れた。そして、はじめて全ての人に真理が示された。その方の教えを聞いて理解した者は彼を信じた。それは、生き方の選択を迫る岐路に立たされることでもあった。一方は、今までの人生を続ける道、他方は今日の聖句の通りに生きる道だった。あなたは自分の意志で後者の道を選んだはずだ。だから、この世の人にならってはいけない。無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとすれば、見えなかったものがきっと見えてくる。なにしろ、私たちが信じた、主イエス・キリストがそのようにお手本を示してくださったからだ。(サクマ)

 

12月18日(日)

モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。

民数記12:3

 

さて、今日は「謙遜」について考えてみましょう。そもそもこのみ言葉が出てくる背景は、兄姉がモーセをねたんだことから、モーセを責めて神の怒りをかうという話です。クリスチャンは神を知り、畏れる者なのです。そして、神に召し出されたことから神に仕える生き方に人生を大きく変えた人なのです。主の僕、神の奴隷という言葉を聞いたことがあると思いますが、それはパウロの言い方だと「罪の奴隷」という言葉と対応しています。罪の支配力があまりに強いので奴隷といったものですが、それを受けて救われた人は「神の奴隷」と呼ぶのです。つまり、神の義としてくださる力に支配されているという意味です。その人は、もう認めてくれ、愛してくれと言う必要がありません。すでに神がそうしてくださっているからです。そうなると人間は偉大な者になる必要が無くなります。そこではじめて謙遜になれるのです。人の評価で左右されない自分になったわけです。そのような人たちの中でもモーセは一番謙遜だったのです。(佐久間) 

 

12月19日(月)

あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

Ⅰペトロ5:6、7

 

この世で起こる様々なことに心を惑わされてはいけません。私たちは、すでにイエス・キリストを信じて救われた者ですから、国籍は天にあります。そこで、キリストのお語りになられた通りに神の国に生きるのです。その方法は、今日の御言葉に書かれています。神様を信頼して、へりくだることです。現状に振り回されないように、まず神様に祈ることです。神様がこの世も支配していることを認め、自分の思いではなく、神様のお考えの通りになることを認めるて受け入れることがへりくだることなのです。そうすれば、人知では到底計り知れない神様の御業がなされて、神様が最高の解決を実現させてくださいます。ですから、思い煩いを神様へ言うだけではなく、ゆだね切ることが肝心なのです。そうすれば、問題は神様のものとなって神様が素晴らしい解決を与えてくださるのです。(さくま)

 

12月20日(火)

人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。

ミカ書6:8

 

人生はシンプルな方がいい。子供の時にはどんな風に生きようかなど考えもしなかっただろう。しかし、大人になればどうだろう。自分の生きることには責任が生じる。自由があるといいながら、実際には社会の中で上手く生きようとすれば自由はどんどんなくなるだろう。それでは、初めから好き勝手に生きようと始めれば、思ったほど良いものではないかもしれない。しかし、キリストに出会い、聖書を読んでみると本当の自由の意味がわかってくる。この世に縛られることもなく、罪や死に対して自由になるのだ。それはクリスチャンという生き方で、神と共に歩んで行く尊いものだ。そこには、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと」というわかりやすい三つの指針がある。イエス・キリストを信じる者が必ず守る三つの指針である。これを長い一生をかけて守るわけだ。その人生は善を生きることにきっとなる。あなたには、こうやって主に愛されて楽しく生きていくことが定まっているのだ。(サクマ)

 

12月21日(水)

キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全なものとなられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、・・・。

ヘブライ5:8、9

 

クリスチャンとなったなら、その人生は特別なものとなったのです。すべてのことを信仰で考えるようになるからです。それは、キリストから学ぶ人生に変わることを意味しています。そのキリストはあなたにとっては心から従順に従いたいお方と映っているはずです。それほどまでに、キリストがあなたを愛して、慈しみに富んでいることを知っているからです。唯一の主であるキリストは、「多くの苦しみによって従順を学ばれました」。ですから、私たちもこの世で苦しみに遭うようなことがあっても、慌てずにキリストに倣らう為にこのことが起こっていると理解するのです。そうすれば、主を信頼することが重要であることを知ります。主へのすがるような信頼は、キリストがそうであったように、あなたに従順を学ばせることになります。そして、その従順が完全を実現させるものなのです。キリストを信じることを深めるには、この従順が不可欠なのです。あなたは、すでにキリストを信じるという時に、初めの頃とは随分違っていると実感できるのではないでしょうか。それは、あなたがキリストへの従順を身につけたからに違いありません。(佐久間)

 

12月22日(木)

後の世代のために、このことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」

詩篇102:19

 

私たちが創造された理由がここにあります。「主を賛美するため」です。では、私たちはどれぐらいこの目的を果たしたと言えるでしょうか。クリスチャンになると途端に信仰によって生きなければならなくなります。今までの経験が邪魔になるかもしれません。自分が正しいと思い込んでいることが必ずしも正しいと言えないことに気がつきます。何しろ、私たちは主を賛美するために創造されたのですから、主を賛美することを人生の目的にする必要があるのです。信仰の道はそのことを教えてくれます。ところで、あなたが幸せだと思うのはどんな時ですか。どうすれば、幸せだと喜ぶのでしょうか。主を賛美することには、この幸せ感と湧き上がる喜びがあるのです。賛美歌を歌うのでも良いのですが、暗い歌詞や短調の曲は、喜ぶということにはならないかもしれません。ただ、神をほめたたえ、感謝を直接表すような賛美歌は効果を実感すると思います。それでも、形式的に歌っている時には当然、ただ歌っているという実感しか起こりません。歌の苦手な人もいるでしょうが心配いりません。自分の言葉で主に感謝してください。うまくできないのなら、詩篇やパウロの書簡や聖書の中からどうやって主を賛美しているのか言葉を見つけてそのまま使うことができます。大切なことは、心から感謝することなのです。そのことが習慣となり、自然と口をついて出てくるまで主への感謝を徹底してみましょう。それで、どうゆうことになるのか試してみるのです。きっと素晴らしいことが起こると思います。少なくとも、主に自分が認められている者であり、驚くほど愛されていることが実感できるようになると思います。(佐久間)

 

12月23日(金)

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

1ペトロ5:7

 

おそらく私たちは、この聖句を何度も読んでは、思い煩いは神にお任せしようと努力することになると思います。実際に、この世界では悩みは尽きないからです。しかし、今日の聖句をよく読んでみるとわかるのですが、神が私たちのことをちゃんと心にかけておられるというのです。ということは、神が私たちの困ったことを解決してくださると解釈しても間違いではありません。ただ聖書のみ言葉は信じることで実現するのですから、信じなければなりません。まず、あなたが思い煩っているなら、すぐに「なにもかも神にお任せしなさい」。任せることができれば、信じていることになります。神はあなたのためにどんなことでもできます。そして、あなたが神を信頼していれば、最高の結果を見ることができます。自分の考えに縛られる必要はありません。あなたがどう思うかではなく、聖書になんて書いてあるかが重要で、自分の考えを無視して聖書の御言葉に書かれた通りに信じて行動に移すのです。(佐久間)

 

12月24日(土)

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」 この名は「神は我々と共におられる」という意味である。

マタイ1:23

 

神様は本当に救い主を私たちのために送ってくださいました。その方は「神は我々と共におられる」と呼ばれる救い主です。ですから、あなたはイエス様を信じているので、いつでも一人ではありません。たとえ目には見えなくてもあなたが必要だと思うときには、ちゃんとそばにいてくださいます。だから、元気になれるし、安心できるのです。神様はあなたのことが大好きなのです。そうでなければ一緒にいたくないですよね。自信が無くなった時だって、イエス様はあなたの良いところを100個ぐらいはすぐにみつけてほめてくれるはずです。それほどあなたには魅力があって愛されていることを忘れないでください。クリスマスの祝福がありますように。(さくま)

 

12月25日(日)

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。

詩編23:1-3a

 

年末の慌ただしさは何か落ち着かない気持ちにさせます。クリスマスもキリストが主役であるはずなのに、ごちそうやケーキを食べてキリストのことはどうでもよい無関心な人たちがこの世の大半なのです。では、わたしたちはどうでしょうか。キリストとは今日の聖句の羊飼いのことです。そして、わたしたちは羊です。つまり、わたしたちはキリストにめんどうをみていただいているのです。そこに、何も欠けることがないと書いてあるので、キリストを信じる人は、生活のことで心配する必要がありません。あなたが疲れているのなら魂を生き返らせてくださるでしょう。このような恵みを知ったなら誰もがキリストを求めるはずです。そのためにもあなたがまずこのみ言葉の通りに恵みを味わうべきなのです。あなたのためにキリストは一番大切なことを思慮深くやってくださるのです。ありがたいことです。(さくま)

 

 

12月26日(月)

主よ、わたしの神よ、御名のために、わたしに計らい、恵み深く、慈しみによって、わたしを助けてください。

詩編109:21

 

わたしたちは毎日神様の助けを必要としています。よく考えなければならないのは、この苦しみは、そもそも自分が原因ではないかと自省する必要があることです。他人のせいにすることはわたしたちがよくやることです。しかし、それは賢明な解決方法ではありません。では、どうやって解決するのが良いかと言えば、自分と神様との間で解決することです。神様と話し合ってみるのです。自分の中の感情を吐き出してしまえば、その後には冷静に自分を見ることができるでしょう。そこではじめて自分の力のおよばないことは神様に助けていただくことができます。自分をありのままに主にさらけだせば、主は恵み深く、慈しみによって、あなたを助けてくださるのです。(さくま)

 

 

12月26日(火)

御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。

ヤコブ1:22

 

聖書を読むとここは大切だから赤線を引いておきたいと思う人は多いでしょう。中にはその個所を暗記する人もいます。しかし、その御言葉を行うかどうかはわからないのです。というのも、自分の力では守れないからです。信じて守るものなのです。守るというのは神様を知って交わることができるようになってできるのです。ですから、神様を知ることが重要です。神様を知ると愛を知ることになります。それは神様に愛されるということです。神様に愛されれば、あとのことはどうでもよくなります。こだわりがなくなるのです。悩みの原因がこだわりであるので、悩みがなくなります。自分を認めてほしいという思いも、神様が愛してくださるので完全に満たされます。そうなってはじめて御言葉の意味がわかってくるのです。わかるから守れるわけです。そうゆう人になれるのです。それは別の助け主である聖霊がすでにきてくださっているからです。信じてみましょう。(さくま)

 

12月28日(水)

わたしを愛する人をわたしも愛し、わたしを捜し求める人はわたしを見出す。

 

目に見えるものがすべてだとは誰も思いません。目に見えないものにこそ価値があると思っているはずです。それは、愛であったり、命であったりします。また、感情や思考も目に見えませんが人にとっては重要なものなのです。ですから、目に見えない神を愛するということもおかしな話ではありません。むしろ、神に心を向ける人こそ、神を知ることになるのです。さらに、神を探し求めれば見出すとの約束が聖書に書かれているのですから、やってみるべきです。なにごとも真剣にやるならば、結果をだすことができるものです。神を愛してみましょう。(佐久間)

 

12月29日(木)

自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。

ローマ12:3b

 

クリスチャンは神様を信じる者なので、自分を過大に評価することはできないのです。神様の目をごまかすことなどできませんし、自分を過大に評価すること自体が神様を無視することにつながります。エデンの園でアダムたちが失敗した通り、神様との関係を断絶させてしまう結果になるのです。神様との関係が愛であることが正しい関係です。その愛は第一コリント13章に書かれた通りのものです。その愛の説明の姿こそがクリスチャンのへりくだりの生き方になっているのです。ただ、過小評価もダメです。謙遜を自分の過小評価と勘違いしている人もいます。そもそも人間的に自己評価するからうまくいかないのです。聖書は信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべき、としています。その信仰は神様が各自に分け与えてくださったものなのです。だから、自分には信仰が無い、とか信仰がダメと言うのはおかしいことなのです。神様が与えてくださったものを上手に使うことです。自分に与えられた信仰を使って倍にしていく仕組みになっています。その信仰で自分を正しく評価して生きていけば、穏やかに心楽しく生きていけます。(さくま)

 

 

12月30日(金)

民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

ルカ3:21,22

 

ここはイエスが洗礼を受けた場面です。人となったイエスは私たちの模範です。そこで私たちもイエスに倣って洗礼を受けるのです。ただ、重要な事は、水からあがられて、祈っていたイエスに聖霊が降ったことから、天から神の子宣言が出たことです。これも私たちに大いに関係があります。ヨハネの手紙一の3:1には、「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」とあります。そこで、水と霊から新しく生まれることが必要であるとわかります。事実、イエスもヨハネ3章でその通りに語っています。聖霊が鳩のように目に見える姿で降ったのも、後世の人たちが聖霊が降ることを否定したり、曲解しないようにするためでした。勿論、イエスがメシアであることのしるしであったのですが、同時に人間の救いがこのように劇的に聖霊の御力で天地創造の時と同じように再創造されることを教えているのです。ですから、イエスの残された御足の跡をたどることができるのです。それ故に悪魔は全力でこの真理を伝えることを妨害し、何としても阻止しようとするのです。良い種があなたにまかれているのなら信心深く生きることで明確に主のお導きを知ることができるます。大いに祝福されるでしょう。(佐久間)

 

 12月31日(土)

空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

マタイ6:26

 

 

今年一年が過ぎ去って行こうとしています。さて、あなたにとって今年はどのような一年だったでしょうか。神様のお助け無しには過ごせなかったことはなかったでしょうか。イエス様の教えは、わかりやすい空の鳥から諭されました。確かに鳥が人間のように働いている姿は見たことがありません。つまり、何も生産していないし稼いでもいないのです。それなのに、それなのに生きているのは天の父が鳥を養ってくださるからだと言うのです。そして、その鳥よりもあなたの方が価値があるとおっしゃられたのです。ですから、天の父はあなたのことをちゃんと養ってくださるということです。このことを信じるて生きる人がキリストの弟子なのです。事実、私はこのことの証人です。実際に何十年も天の父に養っていただいて生きて来ました。外国に二回も住むことになりましたし、日本各地に派遣されて牧師をして来ました。この世の仕事は何もしていませんが、食べるものに困るどころか、太って困るぐらいに普通に暮らしています。必要なもので不足することもありません。心を悩ませることがあるとすれば、信者さんのことを心配する時ですが、祈りはいつでも応えていただけるので、感謝に変わります。やはり、私たちは鳥以上であることは間違いありません。どうか、今日のみ言葉をご自分に当てはめて考えてみてください。(さくま)