2016年2月ディボーション

2月1日(月)

恐れをいだくとき わたしはあなたに依り頼みます。神の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。肉にすぎない者が わたしに何をなしえましょう。

詩篇56:4、5

 

現代人の病が不安や恐れから来ていると指摘する医師がいます。一昔前には年長者はそれまでの経験の積み重ねで信頼され尊敬すらされていたものですが、現代の社会の大きな変化は次つ次に情報があふれ、年長者が経験したことのない世界が加速度的に進化し、将来への不安が増し加わってきました。それに、難民問題が深刻化し、経済の不安や経済格差の問題など人々の心に日々恐れをいだかせています。そうした時に、解決策として最も良いのは、神様を信じることです。それがどれほど大きなことか理解していない人が多いのです。誰でもすぐにできることですが、聖書を読んでも信じなければ意味がないのです。今日のみ言葉も私たちを助ける力があります。具体的な不安はいつでも自分と関わる人間との間で起こる争いから生じてきます。それが不当な場合も避けることができずに悩んでしまうのです。しかし、クリスチャンはそれではいけません。神様を信じてください。そして、神様により頼むのです。み言葉の通りに恐れがなくなるまで祈るのです。いつでも神様を信じていれば、この世の様々な誘惑から守られ、ストレスもかかりません。恐れがなければ病気の心配も遠ざかるでしょう。主から来る平和がどれほどありがたいものであるか理解できるといいですね。主を信じるという素晴らしいことをもっと意識してみましょう。心に平和を確かめてください。神様を信じることが不思議な力のあることであると理解できるはずです。(さくま)

 

2月2日(火)

不法な者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い、そして、あらゆる不義を用いて、滅びていく人々を欺くのです。彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです。それで、神は彼らに惑わす力を送られ、その人たちは偽りを信じるようになります。

Ⅱテサロニケ2:9-11

 

終末と言われてから久しいですが世の中をよく観察しているとその意味がわかってくると思います。問題は、キリスト教会にも悪魔の攻撃は容赦なく及ぶということです。神はそれを真理を信じる者とそうでない者を区別する方法として許しているようです。そこで、真理が重要になります。聖書を読むことや研究することを奨励されているのはやはり意味があるのです。しかも、「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(ヨハネ16:13)と聖書に書かれていますから、聖書は難しいと投げ出さずにわからないところはそのままにしてわかるところから読んでいけばいいし、わからないところこそ、真理の霊に教えて欲しいと祈ると良いのです。私たちが覚えておかなければならないのは正しい教会だけが奇跡としるしと不思議な業を行うのですが、惑わすために偽りの奇跡としるしと不思議な業を行う教会や人が現れるのです。真理を愛する人は見分けることができ,

そうではない人は惑わされると書かれているのですから厳しい選別の時がやってくるわけです。今でもカルトと呼ばれて問題になっている宗教団体はいますがその勢いは一向に衰えていません。そのようなものには誰しもが気をつけるでしょうが、一見良い教会のように見えて実はそこに誤謬があったり霊的に背後にサタンが働いているということは起こり得るし、もっと露骨に奇跡を行って人を集めることすら行われると預言されているのです。やがてキリストがおいでになる時に滅ぼされてしまう「不法の者」と呼ばれるサタンの働きによって現れたものは、滅びる者たちを刈り取って行くことでしょう。偽りの霊に騙されないように用心しましょう。聖霊の助けがますます必要です。見分けることができるように祈っていましょう。(佐久間)

 

2月3日(水)

兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。

Ⅱテサロニケ5:14

 

クリスチャンはなんとなくおとなしくてやさしいイメージがありますが、基本的にキリストは、あなたがたは「地の塩」です、と言われましたのでただ優しいだけではありません。相手のために誠実に考えて、決して相手をコントロールしないように気をつけながら、その人を受容していくのです。その人の良いところをちゃんと見てあげるのです。相手の人の良いところが自分で理解できるようにストレートに褒めてあげたり、良い面を評価してあげるのです。それは、その人の本来の素晴らしい姿で生きて欲しいからです。そうすれば肯定的に正しい選択を始めることがたやすくなるので人生が好転するはずです。否定的に考え始めると人間は驚くほど酷い人生を選び始めます。正しい見方ができないので、自分が嫌いだと思っていることが多いのです。それが心に潜んでいると人間関係が悪くなりますから不幸だと感じ始めます。このような人がこの世には溢れています。いったい誰がその人を助けるのでしょう。問題のある嫌な人を助けたいとは誰も思わないでしょう。しかし、クリスチャンがいると不思議なことが起こるものです。クリスチャンは自分の力で人を助けることはできないと知っています。しかし、神様には不可能はないということも知っています。そこで、神様に祈ることから始めるわけです。知恵を求めるので、何をすれば良いのか気がつきます。損得で物事を考えていないために、正直に正しいことをします。例えば、それが今日の聖句です。このようなことで人生が好転していくのです。笑顔を取り戻したなら、神様が働いてくださったと祈ったあなたはわかるでしょう。ただ、無理をしなくても良いことは覚えていましょう。神様が願いを起こしたなら、最後まで神様が一緒に働かれるので負担無く良い働きができるはずです。私たちは、金でも銀でもない、銅ですらない、ただの「地の塩」であるというところがいいですね。(佐久間)

 

2月4日(木)

竜は女に対して激しく怒り、その子孫の残りの者たち、すなわち、神の掟を守り、イエスの証を守りとおしている者たちと戦おうとして出て行った。そして、竜は海辺の砂の上に立った。

ヨハネの黙示録12:17

 

黙示録はその文学形式から難解な預言の書であるために、いろいろな解釈がなされてきました。今日の箇所も分かりにくいところがあります。「竜」は悪魔(サタン)を表し、「女」はキリスト教会を意味し、「その子孫」は聖書時代から見て後世のことであり、「残りの者」は悪魔の攻勢に遭って、聖書に書かれた通りの聖徒が教会の中から減っていくことを予見させる表現です。では、聖書に書かれた通りの聖徒とはどのような者なでしょう。それは「神の掟を守り、イエスの証を守りとおしている者たち」のことです。「神の掟」は十戒の意と答えやすいですが、新約聖書をよく読んでみるとユダヤ人の律法での失敗がくどいぐらいに書かれているので、キリストが指摘したように「神を愛すること、隣人を愛すること」に強調をおいたほうがいいです。もっと端的に言えばキリストが命じた通りに「互いに愛し合うこと」と言ったほうが正しいのです。問題は「イエスの証を守りとおしている者」と書かれていることの意味です。これは、「神の掟を守る」こととも関係していますが、使徒言行録1:8を読むと「聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、・・・わたしの証人になる」と書いてある通り、聖霊によらなければ「互いに愛する」こともできないし、キリストの証人にもなれないのです。そうすると、この「イエスの証を守りとおしている者」とは、聖霊のバプテスマを受けることを意味し、それを消さないで守っている者と解釈できます。悪魔にとって戦わないではいられないのはこの水と霊とから生まれた者なのです。そうでない者は戦うまでもないのかもしれません。そこで、キリスト教の歴史を通して悪魔は教会を攻撃して聖霊のバプテスマを実際に受けることのないように仕向けてきたのです。聖霊のバプテスマは新約聖書の教会では全員受けていました。それも誰でもわかるほど明瞭な出来事だったのです。それが現代の教会の多くですでに名ばかりで使徒言行録に書かれたようなことは消えているのです。聖書にこだわる人たちですら水のバプテスマを受けた時に聖霊のバプテスマも同時に受けるのだ、と聖書に書いていないことを教えているのです。こうしたことは、聖書の預言の成就なのだと今日の聖句を読んでもわかると思います。(佐久間)

 

2月5日(金)

見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる。・・・主は苦難から常に救い出してくださいます。

詩篇54:6、9a

 

聖書を読むと神様が助けてくださることがはっきり書いてあります。このように、神様を信じる者が神様の保護の中にあることはなんとありがたいことでしょう。人として自由に生かされているので、私たちは自由に選んで今の人生があります。それは、必ずしも良いことばかり懸命に選択したとは言えませんから後悔もあるでしょう。それでも、それが自分なのです。決して、自慢できるような生き方をしてこなかったかもしれませんが、不思議なことに神様を信じることができます。そして、その神様に生涯従って行こうと決心しています。世に神々がたくさんいると人が言っても、私たちが信じる神様はただお一人だけです。この神様はヤーウェというお名前であると思われています。十戒に「主の名をみだりに唱えてはならない」と戒めているので古代のユダヤ人たちは神様のお名前を言わなくなってしまい、その代わり「主」と呼んでいたのです。それで、今ではなんというお名前か正確にはわからなくなってしまいました。でも、私たちの救い主イエス様の父なる御神様と呼ぶこともありますし、聖書の中でお弟子さんたちにイエス様は「父」と呼ぶように教えましたから、私たちも「天のお父さま」と親しみを込めて呼ぶこともあるのです。私たちの人生に深く関わってくださる神様は、「苦難から常に救い出してくださる」と約束されていますから、誠実に信仰を持って生きていけば心配することはないのです。何かよくないことが起こった時も決して慌ててはいけません。落ち着いて、すぐに天のお父様とお祈りしてみましょう。そうすれば、あなたは天のお父様に愛されているので、心に平安が与えられてもう大丈夫と安心できるのです。(さくま)

 

2月6日(土)

イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して渇くことがない。」

ヨハネ6:35

 

この地上では目に見えない戦いが日々続いています。それは、人間の救いをめぐる戦いでもあります。チャールズ・フィニーという高名なリバイバリストがおりました。彼が、多くの伝道活動を通してリバイバルの火が燃え広がって行ったのですが、ある時招かれた町での礼拝が終わると、一人の年配の男性が近づき、自分の家の近くで説教して欲しいと頼まれたそうです。それで、予定されていた三度の説教を終えてからその場所に歩いて向かいました。フィニーは疲れ果てて途中で動けなくるほどでしたが、ようやくたどり着き、なんとか会場の校舎へ入りました。歌われている賛美歌はひどいもので耳を覆ってしまうほど最悪でした。彼が祈ると神の力が与えられ、ソドムとゴモラの話を始めました。すると会場は険悪に雰囲気になってきました。フィニーは今度は彼らの現実について話し出すと上よりの力が激流のように押し寄せて、会衆は椅子から転げ落ち、全員ひざまずいて祈りだしたのです。もはやフィニーが何お言おうと誰も注意を向けることはなかった。それで、足元の青年の頭に手を置いて祈った。彼がフィニーに注意を向けたのでイエスを宣べ伝えたのです。間も無く彼はイエスを捕らえ、その後彼は自分の周りの者のために大声で祈り始めたのです。すると、その祈られた人も救われ、今度はその人が他の人の頭に手を置いて祈りだしたのです。それから次々に祈りが広がり、何人かの人がイエスを受け入れました。それで会場中が祈りでいっぱいになりました。フィニーは次の予定があったので会場を後にしました。すると次に日にその場所に急いで戻るように要請されました。彼らはなんと集会を解散できなかったのです。自分の罪の大きさに心が責められ押しつぶされそうになっていたのです。この町はその不道徳さのゆえにソドムと呼ばれ、フィニーを呼びに来た老人は唯一のクリスチャンでロトと呼ばれていたそうです。イエス・キリストは生きていおられます。そして、私たちの魂を癒し、救うことのできる唯一の希望なのです。まだ救われていない人たちのために、あなたもキリストの証人となって用いられますように。(さくま) 

 

2月7日(日)

あなたの御言葉が見出されたとき わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり わたしの心は喜び踊りました。万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって呼ばれている者です。

エレミヤ15:16

 

クリスチャンと神の御言葉は特別な関係にあります。預言者のエレミヤは「むさぼり食べました」と表現しました。そのように聖書を読んだという方はいるでしょうか。聖書をただ読んでいると、だんだん義務のようになり、疲れたり、読みたくなくなるかもしれません。少なくとも、何も残らないことだってあるのです。何年も同じ聖書を使い、聖書の紙も色が変わってきます。気がつくと、満遍なく聖書を読むということはなくて、好きな箇所や新約聖書ばかりが黒く汚れて自分の聖書の読書記録のように見えます。気分一新新しい聖書に変えてみると新鮮に感じてなかなかいい感じです。しかし、それでエレミヤのようになるわけではありません。もっと、今日の聖書で考えなければいけないのは、「あなたの御言葉は、わたしのものとなり」という箇所です。果たして、聖書を読んで「わたしのものとなった」と思ったことがあっただろうかということです。それは、「心が喜び踊る」ような経験です。こうして改めて聖書の読み方を考えてみると、人間的な読み方では足りないことに気がつくでしょう。イエスの御言葉のように、真理の御霊による御言葉の解き明かしが必要です。自分のことを神はどう思っているのかわからなかったのに、優しい言葉をかけていただければ、心は喜び踊るでしょう。そのように、神の語りかけが聞こえるような祈りと読み方が求められているのです。あなたもキリストのような者と呼ばれていることを忘れないでください。(佐久間)

 

2月8日(月)

人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。それが人間にふさわしい分である。

コヘレトの言葉3:22

 

今日のみ言葉は考えさせられます。確かに人間は何かをしようとします。事故で体の自由を失ったクリスチャン詩人の星野富弘さんもそれで何もかも諦めずに、詩を作り出しました。そのために、かえって多くの人々を感動させ励ますことができるようになりました。問題は、食べるために仕方なく働くといったことです。幸福の秘訣が「自分の業によって楽しみを得ることだ」と聖書が教えているのですから、楽しみを得るように考え方を変えてみることです。これは仕事ばかりではありません。なんでも幸福になるのです。自分で何かをするからです。それが楽しいと思えるなら幸福なんです。同じことでも、楽しみを得ることを意識していると実際に楽しくなります。そのことを実感するとさらに努力もするし、楽しさを失うほどには頑張らなくなります。そう考えるとどんな人でも幸福になれるということです。それも最も幸福なことは、身近にあるということです。どんどん幸福になってください。(佐久間)

 

2月9日(火)

しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

ローマ5:8

 

キリスト教の出発点はまだ罪人であったのにキリストは私たちのために死んでくださったということです。それなのに、何か勘違いして自分がさも正しい者のように考えるので神の愛に気づけない人がいます。それどころか、クリスチャンになったのだから自分を価値あるものとしなければならないと頑張る人もいます。人に何と思われているかが気になると、人前で良い人を演じてしまいます。それはすごいストレスなので反動が起こります。人の目が気になるうちはストレスにいつもさらされているようになります。自分を正しいと認めて欲しいし、認めらなければならないとどこかで思っているのです。それでは、うまく行きません。人との関わりがイライラの原因になり、かといって離れると孤独に苛まれるので、だんだん混乱してしまいます。このような時には原点に帰るのです。そもそも救われたのは、人が認めるような正しい人だったから救われたわけではありません。何をしたかではなく、あなたをそのままで救ってくださったのです。あなたは罰すら受けませんでした。ただ素直に自分の罪深さを認めてごめんなさいと神様に言っただけです。圧倒的な神様の愛によって、恵みで救われたのです。それで、生き方が変わったのではないでしょうか。イエス様のことを知ろうと努め、聖書を学び始めたでしょう。祈ることが楽しくなり、なんでも言葉にしてみました。ご利益宗教でないとわかったので、素直な気持ちでありのままに神様に語りかけるようになります。そして、イエス様の掟は「互いに愛し合いなさい」というものでしたから、難しいと勝手に思い込みましたが、実はこれこそが人間関係を改善し、ストレスを解消し、人生が楽しくなる秘訣だったのです。隣人のために何か良いことをすることです。そうゆうことをしていると人の目は気にならなくなるのです。神様に愛されているという満足が自信となり、誰にでも親切にすることができるようになり、その見返りを求めなくなります。キリストの十字架の死の意味を何度も考えることでしょう。その死が私たちの古い人を一緒に死なせてくれたことを味わうことです。神様はこれ以上ない真実であなたを愛していると示してくださっているのです。(さくま)

 

2月10日(水)

天地万物は完成された。第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。創世記2:1-3

 

誰がなんと言おうと、どのような状況に置かれようと、私たちは主を信じていると言えるでしょうか。自分の信仰をいつも良い状態に保つのは決して簡単であるとは言えません。信仰生活は、何かの宗教行為が伴わないとこの世の人と同じように流れて行くでしょう。たとえば、聖書を読むとか祈るとか信仰書を読むとか賛美歌を歌うとか、何かしら毎日やってみるのですが、そのうちにただの惰性のようになってしまい、自分の信仰が心配なほど希薄になってきたと思うようになるかもしれないのです。神様はそれを防ぐために第七日目に安息日を創造されました。そして、その重要性を示すために十戒の第四条に安息日の戒めを定められました。そのおかげで一週間という時間のサイクルができました。そこで、明らかに神様を礼拝し聖なる交わりを楽しむ安息日を守ることは良いことなのです。他の六日間が世俗の中で神様を忘れるほど忙しくしていたとしても、七日目に再創造していただくことです。遠隔地に一人だけの信仰者として置かれている人は少なくありません。それでも、信仰を守るということはすごいことです。しかし、実際には主イエス・キリストが共にいます。普段キリストの存在を気づくことはないかもしれませんが、一緒に働かれるということは事実なのです。安息日の恵みを祈り求めることも良いことです。一週間の間に起こった嫌なことも、辛かったことも、失敗も、悩みも、疲れも、罪すらも清算して、安心して主の中に憩う日です。このような恵みもただの形式に堕落させないことです。主を信じ、慕い求めることは楽しいことなのです。信仰に熱心であればその報いもあります。一人で礼拝をささげた時に、主の大いなる御業がなされますように。御使の讃美が聴こえ、聖霊の満たしが起こり、主のみ声が聞こえてきますように。祈りの中に光を見つけることができますように。(佐久間)

 

2月11日(木)

心配は人をうなだれさせる。親切な言葉は人を喜ばせる。

箴言12:25

 

 

落ち込んだ人が現れるとすぐに気がつくものです。そして、何かよくないことがあったのだろうと察します。何を心配しているのか気になるでしょう。そんな時に、人の個性が出るもので、率直に「どうしたの」と聞ける人もいれば、知らん顔してその人が話すまで待つ人もいます。日頃から信頼関係を築いていれば、相手から相談してくれることもありますが、一人で抱え込んでしまいどうして心配しているのか他人に言えない人もいます。人生がいつも喜びで満ちていればどんなにいいことでしょう。みんなが一日中笑顔でいられたら人生は楽しいと思えますよね。しかし、罪の世は、愛が冷えていくと聖書に書かれた通りになってきていると感じることが多いのです。そこで、私たちは小さな挑戦をしようと思います。今日のみ言葉の後半を実践するチャレンジです。「親切な言葉は人を喜ばせる」。毎日、誰かに親切な言葉を言うことにするのです。人を喜ばせると自分も喜びをいただけます。きっと少し健康になって少し寿命が延びていると思います。親切な言葉はそれだけではなく、語った人の器を少し大きくしてくれます。そして、人間の正しい姿を垣間見れるでしょう。親切な言葉がいつでも自然と出てくるようになれば、人生はだいぶ楽になるはずです。ですから、今日から早速自分のそばに来た人に親切な言葉を語ってみましょう。(さくま)

 

2月12日(金)

人は無知によって自分の道を滅ぼす。しかも主に対して心に憤りをもつ。

箴言19:3

 

この聖句の別訳は次のようになります、「人は自分自身の愚かさによってその人生をだめにし、そこで主に対してうらみをいだく」。このような例は身近にもあるのではないでしょうか。問題は他人のことは気がつくが自分のことは気がつきにくいということです。新共同訳では「無知によって」となっていますが、それは神様のことを知らないということです。どこまでも自分の考えに固執すると神様がなんと言っているのかということに注意が向かないのです。大切なことは、自分の心の中です。正しい信仰は主への健全な信頼を生み出します。ですから心も健康でいられるのですが、この世はそのような心を許しません。そこで、信仰は試みられることになります。それに負けると際限なく悪循環がはじまります。ローマ1:18以降には人類の罪がどのようなものか書かれていますが、クリスチャンになっても油断しているとその影がいるの間にかさしていることがあるのです。そうなると聖なる者にしてくださった恵みを自ら否定して消しているようなものです。信心はいつでも神様の御目に止まります。素直で熱心な信仰が報われないはずはありません。しかし、多くの場合は私たちは自分の弱さを露呈します。目の前の誘惑に弱いのです。聖書の真理を知り、神様を知っているのなら、大丈夫なのですが、無知であれば悪魔の攻撃を防ぐ方法がありません。愚かにも自分が選択することがことごとく誤った方向へ向かっていれば、最悪の結果を呼び込むことになります。すると、神様を恨み始めるのです。こうなると、何を話しても心を変えることは無くなってしまいます。これは他人事だとこの聖句を読み飛ばすことのないように、自己吟味をすることをお勧めします。何しろ聖書に書いてあるのですから、特殊な例であるとは言えないのです。油断大敵です。主を知ることは実に楽しいことです。良い心で主に向かいましょう。(さくま)

 

2月13日(土)

主はこう言われる。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」

エレミヤ6:16

 

世の中は急速に変わり、人類の初めから宗教が大きな役割を果たしてきたのですが、初めて世界中の宗教が消滅するのではないかと心配する宗教学者が現れてきました。日本においても新宗教が軒並み激減しているというのです。そして伝統宗教も例外ではありません。ヨーロッパのカトリック教会でも大聖堂をサーカスに売っているというのです。聖書を知る人は神は唯一であることを知っています。世に神々が何万もいるのだと言ってみたところで、それはただの偶像に過ぎないと一蹴してきましたが、終末の様相が深まるにつれてそうしたものが淘汰されているようです。一方で、本物の神様が必要だと大勢の人々が求めているのです。迷信の類や、金儲けや権力争いに出している宗教やカルトのような狂信も新しい世界には必要ないということでしょう。情報の洪水の中で端末の機械を持たされて、精神的に不安定になってきている社会では、人間が生きるために最も必要な愛が軽視され、愛が冷えてしまいました。年寄りが大切にされない社会は住みづらい社会です。金儲けがすべてといった風潮もさまざまな悲劇を生んでいます。モラルに至っては崩壊しているのではと悲観的になります。そのような時に、聖書の預言者の言葉は傾聴すべきです。自分の狭い考えに固執しないように、一面的なものの見方は危険であり、多面的に見るだけではなく、さまざまな人の思いを無視しないように気遣いを忘れないこと。また、昔からの知恵にも問いかけるべきだと教えています。その時の基準は、「幸いに至る道」です。目先のことで踊らされることのないように、キリストという救いと解放の道は、同時に幸の道であることを覚え、実際にキリストという道を歩み、魂に安らぎを得ましょう。(さくま)

 

2月14日(日)

あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え とこしえに動揺しないように計らってくださる。

詩篇55:23

 

気づけば人は重荷を背負っているものです。人生の中で一生懸命生きてきて、自分の目に良いと思ってその時々に頑張ってきたのですが気がつけばずしりと重荷を負っているのです。まさか自分の重荷を降ろしていいとは思っていなかったのですがイエス・キリストと出会った時に、自分がどんなに疲れて休みたいと思っていたのかがわかりました。それは、キリストが「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとへ来なさい。休ませてあげよう」とおっしゃってくださったからです。そこで、「あなたの重荷を主にゆだねよ」というみ言葉は真実であるのですぐにゆだねてください。主が支えてくださればもう安心です。信仰は主を信頼して任せきることです。主に従うことは、喜びであり安全なことです。信仰は裏切ることがありません。これからも色々なことが人生に待ち受けているでしょうが、もうあなたが動揺することのないように主は完全に計らうことができるのです。これ以上の保証がどこにあるでしょうか。自分の力で生きていくことと主に従って生きていくことの差は明白で、すぐに明暗を分けるでしょう。どうかみ言葉を信頼して祝福の道を選んでください。(佐久間)

 

2月15日

神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。

ローマ14:17-19

 

宗教に戒めはつきものですが、それがファリサイ派の人たちのように律法主義になれば、祝福ではなく様々な弊害に悩まされることになります。その上人を裁く偽善者となれば最悪です。ですからキリスト教の信者はどうすれば良いのかを聖書から学び、また聖霊に直接教えていただく必要があります。そもそもイエス様の宣教は神の国運動と称されるように神の国到来を告げるものでした。そして、クリスチャンは信仰によって神の国に生きる人たちなのです。それは、神様の支配に服従することであり、聖霊が人に内住し、今日のみ言葉にあるように「義と平和と喜び」を与えてくださることにより喜んで生きることができるようになることです。そのため、自ずと生活が良く変わります。信仰は難しいものではありませんから、子供のように単純に神様を信頼していればいいのです。人と比べたり恐れる必要はありません。肝心なのは神様との関係が喜びかどうかです。自分を無条件に愛してかわいがってくださる天の父を愛しましょう。主の御心を求めて祈りましょう。そして、平和や互いの向上について考えてみるのです。聖霊が自分を通して明確に働いてくださるように願いましょう。信仰を励ましていただくためにも、神様に愛されていることをわかるように示していただきましょう。そのようなことを天の父に祈ってみるのは楽しいものです。あなたが神様にどんなに深く愛され、大切にされているのか霊の目が開かれてはっきり見えるといいですね。あなたはこの世でとても良い働きができるし、期待されています。それが自然とできるようになるでしょう。聖霊が上手に導いてくださるからです。ですから、くれぐれも肉的に目先のことでくよくよしたりしないでください。(さくま)

 

2月16日(火)

木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め一部を燃やしてパンを焼き その木で神を造ってそれにひれ伏し 木像に仕立ててそれを拝むのか。また、木材の半分を燃やして火にし 肉を食べようとしてその半分の上であぶり食べ飽きて身が温まると「ああ、温かい、炎が見える」などと言う。残りの木で神を、自分のための偶像を造りひれ伏して拝み、祈って言う。「お救いください、あなたは私の神」と。

イザヤ44:15-17

 

痛烈な偶像礼拝への批判です。しかし、読者は誰でもこのみ言葉の通りだと思うでしょうし、なんと滑稽なことをするのだろう、とも思うでしょう。それなのに、現実は今でも大勢の人たちが信仰心があるかどうかもわからないのに各地の神社仏閣を巡り、手を合わせて拝んだりしているのです。もっとも、信仰心を持っている人たちにとっては偶像はやはり木に過ぎないとは思えないでしょう。なんと人間の不思議かな、と驚いてしまいます。真の神はただお一人であると納得できればこのような偶像は作られないのでしょうが、神は一人だというから一神教はダメなのだ、と批判する人たちも出てくるので厄介です。ここも勘違いがあります。確かに偶像を持ってこれだけが唯一の神だと言えば無意味な争いになるでしょう。しかし、誰もが神を必要としているので偶像を造って拝むことも事実なのです。解決策は真の神を見出せればいいだけです。しかし、どうもそれは簡単にはいかないようです。偶像の背後に悪霊が暗躍していて、人間の心を騙していることがあるからです。時には悪霊の力が何か不思議を見せることすらあるのです。それでなければ、これほど熱心に偶像を守る続けることはおかしなことです。芸術品であると言えばそうであると言えるのでしょうが、信仰の対象にしていることに不思議を感じるわけです。実際に木を燃やしてもそれで祟られるようなことはありません。その同じ木で誰かが像を造ったらそれで木ではなくなり、信仰の対象になるというは危険なことなのです。十戒に偶像礼拝の禁止が規定されているのは、それほど重要なことだからです。日本人にこのことを理解させることはかなり大変な困難が予想されます。本当の神様だけが人を救くうことができるのです。このことの証明のためにあなたが救われたことを覚えていてください。(佐久間)

 

2月17日(水)

いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。

エフェソ5:20

 

感謝することは気持ちの良いことです。教会でいつも感謝しなさいと教えられることがあるでしょうが、今日のみ言葉をよく見ると「わたしたちの主イエス・キリストの名により」感謝することが書かれています。祈りの時に最後を締めくくる「主イエス・キリストの名により祈ります」という使い方は誰でも知っているでしょうが、感謝する時にも使うようにとは知らない人もいるでしょう。今日のみ言葉を暗唱して、早速実践してみましょう。気持ちが肯定的になります。そして、この世の現実を超越できます。主イエス・キリストと同じ気持ちを味わえるでしょう。何かあった時に自分の気持ちが負けてしまうと信仰まで落ち込ませてしまうものです。でも、好み言葉の通りに実践すれば、感謝の力を味わえるはずです。何しろあなたの父は神様なのですから、この地上のことで嘆く必要は無くなるのです。(佐久間)

 

2月18日(木)

そこで、あなたがたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。

黙示録3:18

 

これはラオディキア教会に宛てた手紙の一節です。黙示録で描かれた七つの教会は、キリストの時代から再臨までの時代を七つに区分しています。そして、ラオディキアは私たちが生きている時代のことです。特に、大切な言葉は「金」、「白い衣」、「目薬」の三つです。「金」は「愛の実践を伴う信仰」(ガラテヤ5:6)、「白い衣」はキリストの義、「目薬」は聖霊を象徴しています。現代人が最も求めているものは、裏表のない信じることのできる確かなものです。クリスチャンが愛の実践を行っていれば、もっと大勢の人たちが救われているでしょう。キリストの義の衣を着ているならその信仰こそが望ましいのです。クリスチャンの最大の問題は、見えないということです。何が真理であるのか、何が正しいことなのか、何が神の御心なのか、こうした重要なことがことごとくわからないと、重大な失敗をする可能性が出てくるのです。しかも、聖徒の敵になり、当然、神の敵になる可能性すら生まれてきます。聖書にはっきり書かれたことであっても、それを無視し、自分勝手にみ言葉を解釈してしまう危険があります。これらを防ぐには、「〇〇買うがよい」と書かれているのですから、当然、愛の実践、キリストの義、聖霊は神からいただくものなのです。信仰者は、自己吟味をして、この三つを特に気をつけていなければなりません。そのために、生ぬるい信仰姿勢はすぐにも放棄し、誠実で熱心な信仰が求められます。それは、実はとても楽しいもので、心をときめかせるような結果を導き出します。この聖書の勧告は決して無視してはいけません。キリストの元へ行くことが奨励されるのは、このことと関係しているのです。恵みを大胆にいただきましょう。(佐久間)

 

2月19日(金)

人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。

ルカ19:10

 

どのような人生を送ってきたとしても、そして自分の人生を惨めだと思うようなことがあったとしても、あきらめて生きてはいけません。誰でも生きることに一生懸命で、自分のことをちゃんと考えていないことがあります。それだからこそ神様を考えないように生きている人がいます。神様は自分より立派な人を助けていて、自分のような者など忙しくて見ていないと思う人は結構いるのです。ところが、聖書を読んでみると今日の聖句のようにイエス・キリスト(「人の子」という称号で自分のことを呼んでいた)は、失われた者を捜して救うために来た、とはっきり書いてあります。人生で失敗したとしても、自分のことが嫌いでも、幸せな人が羨ましくて恨むような心を持っていたとしても、罪深く生きていたとしても、そのような人を捜して救おうとしている方がいるのです。イエス・キリストの物語を読めば、そのような実例がいくらでも出てきます。キリストが天に昇天された後、弟子たちがキリストの意志を受け継ぐことになりました。そして、失われた者を捜してキリストによって救われるようにと働きが始まりました。そのことが使徒言行録に書かれています。それは胸躍る素晴らしい出来事で綴られています。不思議なことはその使徒言行録は終わりがありません。つまり、そのまま今日まで何代にもわたって弟子たちがこの救いの働きを継続してきたのです。今も、クリスチャンは主の弟子であるといいます。そうであるのなら、失われた魂を捜して救うために自分が用いられるように願っているでしょう。そして、聖書の記録のように失われた者が見つけ出され救われることをあなたは目撃し、体験できます。すでに、あなたのそばにそのような人がいるのではないでしょうか。あなたを通して内住するキリストが不思議・しるし・奇跡を見せてくださるでしょう。失われた人を捜しましょう。(さくま)

 

2月20日(土)

わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。そのとき、わたしは『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」この言葉を聞いたて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。

使徒言行録11:15-18

 

これは、ペトロがエルサレム教会にコルネリウスの家で説教した時に起こった霊的出来事の報告の場面です。キリスト教の歴史的重要な事件が起こったのです。はじめキリスト教はユダヤ人だけのものと思っていたのです。ユダヤ人は異邦人が救われるとは思っていなかったのです。これはユダヤ人の根強い考え方で、偏見と言えるかもしれません。しかし、ユダヤ教と違い、キリスト教は全世界のすべての人々にキリストによる恵みの救いが用意されているのです。そして、多分議論ではユダヤ人は納得できなかったでしょうが、異邦人にも聖霊のバプテスマが起こったことにより、いっぺんに納得できたのです。実は、このことがなかったなら、キリスト教は全世界へ広がることはなかったでしょう。それほど、重要な出来事が10章に出てきた異邦人に聖霊が降ったという出来事の意味なのです。この流れがどこで滞ってしまったのでしょう。今日も聖書の約束は有効で、主イエスを信じる者がこの賜物を与えられるのです。教会に吹き込まれた悪魔の欺瞞は聖書に書かれたことまで信じないようにさせられています。現代の教会はこの世の聖俗にまみれて新約聖書時代の人たちのように単純に主を信じることがかなり難しい時代となってしまいました。そこで、心を新たに純粋に主イエスを信じましょう。霊の賜物を受ける恵みは今も熱心に求めるものに用意されているのです。(佐久間)

 

2月21日(日)

わたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。

ヨハネ15:7

 

これは祈りの極意ですね。「わたしにつながっており」という訳は、「とどまり」とも訳せます。つまり、イエス様との関係が大切だと言われているのです。クリスチャンがいつでもイエス様の内に住んでいれば、イエス様もクリスチャンの内に住んでおられます。それは、今まで以上にイエス様を意識して、いつでもちょうど真向かいに対面している感じです。その状態をイメージしてみましょう。そしてもう一つ、主のみ言葉がわたしたちの内にいつもあるならなば、という条件が付いていることです。ですから、聖書の読み方が問題になってきます。なんとなく聖書を読むというのではもったいないことです。真理の御霊によってみ言葉の力を解放していただくのが理想です。祈って聖書を読むと教えられていると思いますが、それをちゃんと実践してみることは良いことです。み言葉の意味がわかった、と思えるととても嬉しいものです。まさに悟ったと言えそうです。私は聖書を読み始めた時に、「ぶどう園の労働者のたとえ話」の意味がわからなくて、そのことばかり考えていました。すると、突然意味がわかったのです。その時の感激は大きなものでした。このような経験は私の考えや内面に変化を与えたと思います。キリストの教えが心に入ってくることは大きな喜びとなり、新しい人生が始まるような力があるのです。これは、もっぱら神様のお働きであると思いますが、信仰の初心者でも神様は働いてくださるということだと思います。キリストのうちに留まるということも、本当は難しいことではありません。キリストに向かう真摯な思いがあれば、誰でも主の恵みにあずかれるからです。キリストと一つになるということがキリスト教の救いの奥義です。でもそれはとても難しく聞こえるのですが聖書を読めば、貧しい無学な人や障害者、娼婦にヤクザ者に物乞い、重い皮膚病のために世捨て人になった哀れな人たち、敵国の支配者のために税金を取り立てて非国民と嫌われていた収税人、こうした人たちですらキリストに救われたのです。彼らは、キリストに「出会った」時に素直に救いを求めてすがった人たちです。そうしたら、すぐに救っていただきました。責められることも、叱られることもなくです。しかし、問題はその後だったのではないかと思います。もう、お分かりだと思いますが、救われた後もキリストにつながっていたかどうかということです。そして、キリストの言葉が心に残っていて、主の御心の通りに祈れたかどうか、そのことが問われ続けるのです。それこそが私たちにとって重要なことなのです。(佐久間)

 

2月22日(月)

信仰の道をわたしは選び取りました あなたの裁きにかなうものとなりますように。主よ、あなたの定めにすがりつきます。わたしを恥に落とさないでください。あなたによって心は広くされ わたしは戒めに従う道を走ります。

詩篇119:30-32

 

私たちは信仰の道を選んだ者です。何も知らない者ではありません。聖書を読み、主を信じて祈る者です。それは神を畏れ敬う者ということです。人の目よりも神の目を気にしているのです。人生は思い通りに行くとは限りません。思いもかけない人生を歩むことは珍しくありません。時に人生の選択を自ら決めなければならないこともあります。それが難しい時には、神にすがって祈り、正しい道を教えて欲しいと願い、主のお決めになったご計画がわが身になるようにと嘆願するのです。自分の弱さは誰よりもよく知っているので、決して自分を誇るようなことはできませんし、主に助けていただけないなら、何もできないのです。ですから主は寛大にも憐れみ、慈愛のこもった御手を伸ばして助けてくださるわけです。それで、人生は展開して行きます。自分の思い通りではなく、思いもかけないようなことが人生に待ち構えていることもしばしばあります。そのような中で信仰が試みられ、自分の弱さを認められるようになり、信仰者として成長し、神がわかっていくのです。それは、主のように広い心を持つように変えられていくことでもあります。ですから、聖霊の助けによって主の愛の掟に従って生きるようになっていくのです。(佐久間)

 

2月23日(火)

我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ 降り注ぐ雨のように 大地を潤す春雨のように 我々を訪れてくださる。

ホセア6:3

 

主を知ったことはなんと素晴らしいことでしょう。それは希望の灯をともしたように、過去の人生に縛られることなく自由にしていただけるのです。罪のことを知り、その罪の仕組みも初めて解き明かされて、自力で解決できないことも明らかになりましたが、それだから救い主がおいでになって、罪の泥沼から力づくで救い出してくださったのです。それが十字架の意味するところだったのです。信じるだけで救っていただけたのですから、これからも信仰があればもっと素晴らしい人生が開かれていくのです。人間の幸福は、主を知ることにあります。なぜなら、神は愛だからです。しかも、初めから今に至るまで主はあなたを愛し続けていてくださるのです。それが感じられないのなら、「主を知ることを追い求めよう」。どんなに暗い夜も必ず朝が来るのです。「主は曙の光のように必ず現れ」ます。朝日が昇るのを見て感動しない人はいないでしょう。そして、それ以上の感動が訪れるでしょう。なぜなら、聖書のみ言葉は、主は「大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる」と約束していてくださるからです。つまり、大いなる恵みをもたらしてくださるのです。「神様がわからない」という人は、主を知ることを追い求めてください。主が現れてくださるまで追い求めた人は、このみ言葉の約束は真実であることを知るでしょう。(佐久間)

 

2月24日(水)

人の言うことをいちいち気にするな。そうすれば、僕があなたを呪っても聞き流していられる。あなた自身も何度となく他人を呪ったことをあなたの心はよく知っているはずだ。

コヘレトの言葉7:21、22

 

私たちは聖書と逆に「人の言うことをいちいち気にする」ものです。褒められることはほとんどありません。特に自分のいないところで悪口を言われていることはよくあることです。そのために、自分の耳にもその悪い話が聞こえてくるかもしれません。そうなると、落ち込んだり気になるものです。それにいちいち腹を立ててもいいことがありません。損するだけです。そこで、聖書の知恵は「気にしない」ということです。「聞き流す」ことです。聖書の場合は、自分が上の立場で下の者が「あなたを呪っても」と言っていますが、もちろん、逆の立場ということもあるでしょう。しかし、権力がある者の方が聞き流すようにというところが知恵なのです。力が上の者が普通にやってしまうことでも、弱い立場の人の方は過敏に反応してプレッシャーになりやすいからです。彼らがこのストレスを解消しなければ精神的に倒れてしまいます。ですから、ストレスを発散するために上司の悪口を言ったりするのは自己防衛のようなところがあるのです。もっとも、それがいいことだと思いませんが、神様を知らないともっと良い方法を思いつかないのでしょう。それに、追い詰められると呪うような強い反応しか出てこないのです。だから、他人を追い詰めたりしてはいけないし、叱りすぎてもいけないのです。笑いあえる余裕が必要ですね。そのためには人の個性を認めることが肝心です。自分が考えつかないようなことを考えることができる人もいれば、およそ自分とは違う考え方をする人もいるのです。神様を信じると、その多様性が良いことであると思えてくるのです。自分と違うからダメだということはありません。どんなに優秀な人でも、一つの体の手や足や口や目など、肢体の一つでしかないのです。互いに違いを尊重しあって、認めることができればうまくいくのです。(さくま)

 

2月25日(木)

強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。申命記31:6

 

この世で生きていくためには、時に励ましも必要です。神様はあなたに今日のみ言葉の通りにしてくださいます。そのことを言葉にして、あなたを励ましているのです。私たちは人を恐れてしまうことがありますが、そうなるとその人の奴隷にでもなったように苦しむことになります。だからといって、反発したり、対抗したり、時に意地悪したり、突っ張るようなことは益が何もありません。それどころか後悔して後で苦しむでしょう。肝心なことは、あなたはもうこの世に生きる人ではなく、神の国に生きている人なので、この世に縛られるような生き方をしてはいけないのです。何しろ、あなたは主と共に歩んでいるのです。どのような境遇に置かれても、あなたは恐れてはいけません。これは神様の命令です。もし、ピンチに陥ってしまったなら、今日のみ言葉を三回唱えるのです。きっと、心に平安が戻ってきます。もうあなたは一人で戦っているのではありません。イエス様と一緒に戦うのですから、勝利は決まっています。悪魔も何か囁いているのでしょうが、そんな悪い言葉は一切聞こえなくなります。心が落ち着けば、たいていのことは大したことはありません。ですから、安心してください。「私は主と共に歩んでいるので、いつでも大丈夫です」と自分に言い聞かせましょう。そして、否定的な心が頭をもたげてきたなら、鏡の前で今日のみ言葉を自分に言い聞かせましょう。素敵な笑顔が出てくるまで言い続けましょう。あなたが誰であるかわかりましたか。自信に満ちた強そうなあなたが鏡にうつっているでしょう。あなたは神の子で最高なんですから・・・いつでも落ち込む必要はありません。あなたを励ましてくれるみ言葉は力なのです。(さくま)

 

2月26日(金)

あなたたちは一人で千人を追い払える。あなたたちの神、主が約束されたとおり御自らあなたたちのために戦ってくださるからである。だから、あなたたちも心を込めて、あなたたちの神、主を愛しなさい。

ヨシュア記23:10、11

 

クリスチャンは弱そうに見えるかもしれませんが、実は強いのです。今日のみ言葉をご覧ください。「一人で千人を追い払える」とあるとおりなのです。もちろんそれは主が私たちのために戦ってくださるからです。これならば、一体何を恐れる必要があるでしょうか。あなたに何か欠けがあったり、足りなさがあったとしても、それはもう取るに足りない問題です。ただ、問題があるとすれば、旧約聖書に書かれている通りに、それは偶像の問題です。クリスチャンになったのですから真の神様にお仕えし、自分を取り巻いていた偶像を拝む文化を一掃してしまいたいのです。それは、自分に都合の良い神様としないことです。恵みはいただくが、神様からの命令は無視するというのでは良い結果は期待できません。自分が困った時だけ神様に頼るというのではいけないのです。私たちの神様は人に侮られるようなお方ではありません。あなたを見ているのです。忠実な者に報いてくださるお方です。あなたの信仰が誠実であるかどうか試されるでしょう。ご都合主義のような自分の心の欲望を映したものが偶像ですから、自分の信仰を点検する必要は誰にでもあります。主を畏れ、心を砕いて献げる信仰を主は受け入れてくださると教えています。ですから、心を込めて主を愛しましょう。あなたの強みは、そこにあります。(さくま)

 

2月27日(土)

この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に会われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

ヘブライ4:15-16

 

神の子イエスこそがこの大祭司です。弱い私たちと神の間に立って執り成してくださる唯一のお方です。イエスは、人となり、私たちの一人になってくださった。ですから、あなたのことをよく理解できるし、弱さをも同情できるのです。あなたはイエスがあなたの問題を解決できると信じていますか。奇跡だって起こせるのです。何しろイエスは全能なのです。ただ、私たちに要求することは、悔い改めと信仰です。イエスこそが、あなたを恵みで救うことのできるお方です。でも、あなたの思い通りにイエスを使うようなことはできません。あなたがイエスの要求に従うことができるかどうか、ここが信仰の働かせどころなのです。多分、私たちは自分の思い通りにしていたら、神に罪を犯して滅んでしまうでしょう。ですから、本心に立ち返って、救われる価値もない者を憐れんで助けてくださるイエスに近づくのです。救いはそこにあります。(佐久間)

 

2月28日(日)

そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」

ヘブル13:6

 

私たちは人間を恐れて悩むことがあります。人間を恐れる理由はいろいろあります。実際に脅かされているかもしれないし、面倒なことになりかねないから、イライラさせられる、睨まれた、言葉に棘がある、嫌われている、無視される、とかとにかく様々な場面で悩むことになります。その挙句に、腹を立てたり、逃げ出したり、恐れの反動で攻撃的になったり、あとでくよくよ悩んだりといろいろな症状を現すことになります。クリスチャンの人なら、ここで信仰の基本に立ち返るべきです。み言葉にはなんと書いてあるか。今日のみ言葉をもう一度読んでください。これでも恐れるでしょうか。イエス様が助け手であれば、誰もかないませんから、もう恐れる必要はありません。神様にかなう人間は一人もいないのです。そのことを聖書は「確信に満ちて」言っているのです。これでは、もう、信じるのみです。このみ言葉を信じたなら、一体どうなるのか、とても楽しみになりませんか。ワクワクしてくるほど信じてみましょう。(さくま)

 

2月29日(月)

人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。

詩篇37:24

 

人生には色々なことが起こりますが、時には倒れてしまうことだってあるのです。それがクリスチャンであっても同じです。どうしてと神様に文句を言うかもしれませんが、決して神様に見放されているわけではないのです。それどころか、主は倒れた人の手をとらえているというのです。もし、霊的目が開けたらきっとその感動的な姿が見えるのでしょうが、肉の目には見えないので、失望したり、悲しんだりするでしょう。しかし、信仰はこのような時にこそ発揮すべきです。今日のみ言葉の通りに自分の手をとらえて離さない主のみ手がある、と信じることです。不思議ですが、そうやって信仰を発揮すればたちどころに気持ちは晴れて、大丈夫と思えるのです。友なるイエスよ、と歌いましょう。そのイエス様があなたを守っていてくださるのです。あなたの手を握って離さないイエス様の手があなたに勇気を与えてくれるでしょう。(さくま)