3月1日(火)
彼れらは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。
詩篇92:14
高知におじいちゃん5人組の「爺-POP from 高知家 ALL STARS」というアイドルグループがいます。「高齢バンザイ」という曲をダンス付きで歌っています。その歌詞は、高知は、三人に一人は65歳以上の高齢者というような内容ですが、前向きに元気いっぱいでとても楽しいものです。脳科学でも高齢者が怒りっぽくなるのは、理解できない時の脳の反応が怒りなので、色々なことが理解できなくなっているので怒りっぽくなる、と言うのです。それは、毎日、同じことの繰り返しばかりになり、新しいことをしなくなると、その部分の脳の神経経路が消えていくらしいです。そうすると理解できないことが多くなるので、怒りっぽくなるというわけです。ですから、いつも家に引きこもらずに、外に出ていく方が良いし、面白そうなことを探して挑戦してみるのは脳に刺激を与えてとても良いのです。ただ、楽しいことを自由にやってみることがコツです。65歳で司法試験に合格した元市長さんも定年後に頑張ったのです。同級生の若者から試験情報を得るためにツイッターを教えてもらい、LINEも使えるようになって、仲間に入れてもらえるようになったそうです。さいわいに脳だけは、何歳になっても成長できるそうですよ。さて、今からあなたも自分を楽しませることを始めましょう。人の目を気にすることもありません。主に与えられた人生を無駄にしたくはありません。旅行計画を立てて実際に行ってみるというのだって、脳にはとても良いそうです。好きな聖書の一つを例えば、ヨハネによる福音書を全て暗記することに挑戦するのだって、立派な脳トレです。今日のみ言葉の始まりは、「神に従う人は・・」とあります。ですから、信仰を持った皆様は、どんな実を実らせるのでしょうか、とても楽しみですね。そうそう、パソコンをやっている時は、脳は停止していると脳学者が言っていました。やはり手足を動かして、子どの時のように外に飛び出して行きたいですね。素晴らしいことが始まりますように。(さくま)
3月2日(水)
実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大な神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。
テトス2:11-13
クリスチャンが「神の恵み」と言う時には、ここに書かれたような意味があります。クリスチャンになる前の不信心と現世的な欲望を捨てることです。残念なことに捨てたはずなのに、時々思い出したように取り戻す人もいます。それがどれだけ恐ろしく危険なことかもう一度確認しておきましょう。そして、この世に生きている間は、次の三つのことを生活の基本に据えておくのです。「思慮深く、正しく、信心深く生活する」ことです。何も考えずにこの世に迎合してもいけないし、流されて生きてもいけません。三つの基本が身につくようにすれば、信仰は大きく飛躍できます。考えや価値観、あるいは心がキリストに近づきます。この世で、この三つを守って生きることは容易ではないでしょうが、このようにした人がはじめて主イエス・キリストの御再臨を本心から待ち望むようになるのです。肉ではなく聖霊で仕上げていくことも恵みのうちですから、頑張らないことです。(佐久間)
3月3日(木)
いかに幸いなことでしょう あなたによって勇気を出し 心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通る時も、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。彼らはいよいよ力を増して進み ついに、シオンで神にまみえるでしょう。
詩篇84:6-8
信仰者は、人生の道を進むときに神様を信じることから勇気を出して前進します。彼らはこの世の人たちが不安で顔をくもらせている時でも、主が共にいてくださるという信頼から悪い状況をことごとく良いものに変えていくことができます。彼らの口は不平の代わりに讃美を歌います。彼らは、ただ主を信じているだけでへこたれません。信仰者の祈りは謙遜な心から生まれます。神様を慕い愛する想いがつのります。神様の家に行こう。主にお会いするために。彼らの人生は、主の家に帰るための巡礼なのです。辛いことも多い人生ですが、弱さの中に主が働くことを知っているので、虚勢をはることもなく、自慢することもなく、主の御目にさらされている自覚を持って、正直に生きるのです。信仰者は忍耐を知っています。よく祈って、主をまだ見ていないのに喜んでいるのです。信仰には報いもあって、聖霊の雨が降り、天の祝福を驚くほど受けることができます。人と比べることもなく、人から賞賛されることもなく、人から侮られることもあるでしょう。しかし、彼らはすでに神の国に入っているのです。ですから、貧しくても天からのマナであるキリストをいただき、この世の金銀以上の富をいただいているのです。それらの天の恵みの意味が信仰によってだんだんわかってきます。そうして、「彼らはいよいよ力を増して進み ついに、シオンで神にまみえるでしょう」。ハレルヤ
(さくま)
3月4日(金)
恐れるな、わたしはあなたと共にいる。わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り・・・わたしの息子たちを遠くから 娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う。彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者
イザヤ43:5、6、7
この不思議な預言は何のことを言っているのでしょう。この箇所は世界中に散っている神の民を集めることを預言しているのですが、「東から」という言葉から日本を連想することは可能です。日本は東の果て、「遠くから」ですし、「地の果てから」なのです。その昔、イスラエルの十部族がアッシリアに捕囚となってシルクロードを通って行ったと思われます。そして、日本に到達したとの説は多くの出版物に詳しく書かれています。古代の話であり、イスラエルから日本までの長い距離を考えると科学的に証拠をあげて証明することはかなり難しいことでしょう。しかし、覚えておいて良いことは、ユダヤ人はセム族であるということです。ノアの洪水物語を見ると洪水の後、ノアの三人の息子によって人類はやり直したことになっています。そして、セムの子孫は黄色人種であり、ハムの子孫は黒人種、ヤペテの子孫は白人種と言われます。ここで気がつくのは、現在のユダヤ人が白人であることです。聖書には系図が書かれているので、白人であるはずがないのです。これは、8世紀にハザール(カザール)帝国(黒海近辺の白人王国)が集団改宗してユダヤ教になったことに原因があります。その子孫が今のユダヤ人と称している人たちだということです。本物のユダヤ人はセム族で黄色人種なのです。日本人がユダヤ人だとしても何ら問題がないのです。そして黙示録に偽りのユダヤ人のことが書かれている(2:9、3:9)ことから、紀元2~4世紀にも何かあったようです。そうゆうことですから、日本人だからユダヤ人とは全く関係がないとは言えないことを覚えてください。皆様がキリストを信じて救われたことはもっと想像以上にすごいことなのです。(さくま)
3月5日(土)
あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
ローマ12:2
クリスチャンは毎日心楽しく生きるべきです。それは、奇跡が起こって自分が新しい命に生かされているからです。古い記憶や古い習慣が新しく生まれたことを否定しても、それに同意しなければ良いのです。まず、大切なことは今日のみ言葉のようにしてみることです。この世に倣ってはいけない、ということはわかりやすいですが、驚くほど簡単に忘れることができます。でも、ここから始めていくのですから、出発点をしっかりしなければなりません。この世に倣うと、クリスチャンでない世俗の人々が羨ましくなるでしょう。神様に背いている人の方が良い生活を送っているように思えてくるかもしれません。その人たちのことを羨ましく思ってはいけません。そのうちその理由がわかります。それよりも、とても大切なことは「心を新たにして自分を変えていただき」とありますから、内面の刷新が必要です。心には癖があり、罪の生活を送ってきた心はその癖がついているのです。ですから、自分で変えるのではなく、み言葉の通りに神様に新しく創造していただくのです。そして、聖霊をその心に注いでいただきます。そうやって自分を変えていただきましょう。そのことは、驚くべき良い変化を与えてくれます。「何が神の御心か」わかるようになるからです。人生の日々の選択で「何が善い事で神に喜ばれ、完全であるか」わかるようになり、善い方を選べる能力が備わります。ですから、信仰を働かせていつでも正しい選択をする事を選ぶのです。つまり、エデンの園で初めのアダムはその事に失敗しましたが、第二のアダムであるイエス・キリストを信じて救われたあなたは、イエス・キリストと一つになって完全な者とされていくのです。ですから、決して自己を過小評価しないでください。この世であなたは勝利できます。そのために信仰が与えられているのです。その与えられた信仰の分相応に生きていけば良いのです。無理することはありません。心楽しくキリスト共に生きるのです。今日も主を讃美することで力が湧いてくるでしょう。(さくま)
3月6日(日)
なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人ために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人ために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。
Ⅱコリント5:14~15
クリスチャンのとって大切なことは、キリストに愛されている事実です。それも、人の愛とは違い、圧倒的な愛なのです。あなたが罪を知ったなら、罪を犯さないように生きることが困難であることに気がつき愕然とします。情けないことに人は罪深くしか生きられないのです。それなのにイエス様はあなたが滅びることを惜しんで命を犠牲にしてまで救ってくださったのです。それなのに、十字架の真理が深すぎてなかなか現実に理解できないでいる人は多いのです。例えば今日の聖句を読んでください。ここに書かれた通りにキリストが「すべての人のために死んでくださった」とあります。これはクリスチャンなら知っているのです。でも、自分が罪に苦しんでいた古い人に死んでいるかどうか自信が持てないと思っている人は少なくないでしょう。何が問題かといえば、自分が主体ではないということです。自分が死んだのかどうかとか、自分がどう感じているかとか、自分が死ぬことがわからないとか悩んでも意味がないのです。あなたが何かしたのではないからです。大切なことは、キリストがすべての人のために死んでくださったという事実です。全部キリストのなさったことが重要だったのです。キリストは見事に救いの業を完成しました。あとは、人間が自分の罪に気づき悔い改めて、キリストを信じるだけです。それで、贖いが成立しているのです。そうなると、生きる目的が明確に変わります。キリストのために生きるとなります。そこがあなたの課題です。奥義を聖霊の助けによって悟らせていただきましょう。(さくま)
3月7日(月)
御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。
コロサイ1:13-14
聖書に書かれたみ言葉の中には、今日の聖句のように力強い確信が書かれている箇所があります。まず「闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました」とありますから、過去のどんな罪や悪の力も、あるいは呪いですら解決してくださったのです。闇の支配者であるサタンからも救われました。もはやあなたを苦しめるもの全てから救われたのです。そして、あなたは御子イエスの支配下にあるので安心できるのです。悪魔がなんと言おうと、このイエスによってあなたは罪の赦しを得ています。み言葉を信じましょう。(佐久間)
3月8日(火)
主ご自身があなたに先立って行き、主ご自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない。
申命記31:8
あなたはワキが甘いと言われたことはないでしょうか。人を疑わず、あまり周りの人の気持ちも気にせず、自分の目に良いと思ったことを言ったりやったりしていて、ある日、突然、裏切られるとか陥し入れらるとかしたことはないですか。人生は難しいものですね。神様はシンプルにお考えになるのに、人間は複雑に考えるものなのです。それで、神様の御心を求めて主に仕える生き方を選んでいると、人生はシンプルに分かりやすくなります。しかし、自分の心のままに考えて、計算するような生き方はどこかに落とし穴が潜んでいます。心配や不安が心を満たすのは、そのような結果です。そこで、信仰の原点に帰ってみましょう。それは、今日のみ言葉によく表れています。あなたはこの世の人の人生とは全く違った特別な人生を歩むようになったのです。それは、神様と歩んでいく人生です。それを認めなければ、せっかくの恵みも無になります。ですから、時々立ち止まって、自分の心は恐れていないか、おののいてはいないか、点検してみましょう。もし、そのような兆候があれば、今日の主の約束を無視していることになります。とてつもない主の恵みを信じていないことになるからです。どうか、信仰を発揮してください。人は誰でも、あなたの主にかなわないのです。そして、主はあなたの味方なのです。こんなわくわくするような喜びは他にはありません。主と共に勝利してください。(さくま)
3月9日(水)
思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、他の事まで思い悩むのか。
ルカ12:25、26
それにしても私たちはよく悩むものですね。今日の聖句は考えさせられます。「寿命をのばす事」を「こんなごく小さな事」と言っている事です。寿命をわずかでも延ばしたいと思っている人は少なくありません。若いうちは実感がないかもしれませんが、年をとると考える事があるでしょうし、病気をすれば心配になるし、病が重ければ重いほど死を考えないわけにいきません。そうなれば、もう少し生きたいと思うでしょう。それがどんなに難しい事か誰でも知っています。それなのに、こんなごく小さな事、と言われると他の悩みがどれだけ難しい事なのか気がつきます。という事は、悩むだけ無駄だという事になります。これは強烈なイエス様のメッセージです。そこで、私たちは悩む事をやめる事にしたいのです。その分のエネルギーを信仰に向けて、主の御心が実現する事を願い、信頼する事に専念したいと思います。自分で考えてもどうにもならないことなら、神様がお決めになられた通りで良いですと神様への信頼を表明した方がずっと良いのです。そのために神様があなたを支配できるように神の国を求めて祈るのです。問題はきっと良い方向へと解決していくでしょう。(さくま)
3月10日(木)
そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。
ルカ8:41-42
イエス様の周りにはいつでも人が集まります。この箇所は想像たくましくイメージできる場面です。面子を重んじるユダヤ人の男性が、しかも会堂長という名士が慌ててイエス様のもとにやってきて、いきなり足もとにひれ伏したのです。願いは、イエス様に一緒にヤイロの家に来てくださいと言うのです。それは、大切な一人娘が死にかけていたからです。娘の歳は十二歳です。中学一年生ぐらいでしょうか。イエス様はユダヤの指導階級の人たちから嫌われ、危険視されていました。しかし、驚くような奇跡がイエス様によっておびただしい数なされていました。病を癒してほしいと大勢の群衆がイエス様の周りに押しかけていたのです。これはイザヤ書のメシア預言の成就でした。そして、この日もヤイロがイエス様の足もとにひれ伏して願ったのです。ひれ伏す事は象徴的に礼拝行為なのです。イエス様のもとに行くというのは、このようにひれ伏して礼拝することです。イエス様をメシアと認めることで、救いは目の前にあることになります。対照的に祭司や立法学者たちはイエスをメシアと認めなかったのでひれ伏すことはありませんでした。私たちも、イエス様をへりくだって礼拝し、救い主であることを認めて近づくなら、救いが実現するのです。メシアは死んでいる者ですら蘇らせるお方です。圧倒的な力と憐れみを兼ね備えた素晴らしい救い主なのです。イエス様に頼れば大丈夫です。ひれ伏して信仰を現しましょう。(さくま)
3月11日(金)
イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」
ルカ11:28
イエスのお母さんは幸いだと言われた時に、イエスがお語りになった言葉です。真理はいつでも美しいものです。このみ言葉も美しい響きがあります。イエスを愛する者は、このようなみ言葉を聞くと、私もそのようになりたいと願うものです。これは、幸福になる条件ですから、まず神の言葉を聞けるようになることから始めます。どんなに忙しくても静まって神の言葉を聞こうとすることが大切です。私たちの主は全能なのでいかなる方法でも言葉を聞かせることができます。そして、キリスト教の歴史を通しても名を残した聖徒の文書に神の言葉を聞くことが勧められているのです。さらに大切なことは、「それを守る人」になることです。主への一途な想いがあればできるかもしれません。しかし、この世に生きて働きながら守れるでしょうか。人間の力に頼れば挫折するか嘘をついて偽善者になるかのどちらかになりそうです。それよりも、聖書が教えているように聖霊の助けをいただいて信じる信仰が誰にとっても一番確実です。問題があるとすれば、肉の問題ですが、肉をキリストの死と結び合わせて死なせるしかありません。それは、キリストの生涯にヒントがあります。キリストは偉くなることも、人から賞賛されることも、金持ちになることも、権力者になることもありませんでした。それどころか、みすぼらしく見えたかもしれません。ですから、私たちも肉欲が消えるにはキリストに倣うしかないのです。キリストを知ることは自分が変わることを意味しています。イエスが天の父に一心を傾けていたように、私たちはイエスに一心を傾けて生きるのです。それは古い自分が死ぬことを意味しているのです。その代わり、イエスがそうであったように、神の子として生きるようになるのです。この世の人には理解できません。でも、あなたにはきっと理解できます。(佐久間)
3月12日(土)
不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。ローマ4:5
このみ言葉がなければ、一体誰が救われたのでしょうか。すべての罪の発端は、エデンの園にありました。エデンを追放されたアダムがどれほど惨めであったか想像してみてください。神様にかたどって創造されたのに、その神のかたちが色あせ崩壊して行ったのです。そのような人間がどう頑張っても神様の創造した栄光ある神のかたちを自分で取り戻すことなどできないのです。それが基本的理解です。それなしに律法を守ればと言ってみても罪はまた出てくるでしょう。神様の救いはもっと大きな圧倒的な神様以外には不可能な救いです。それは、あのアダムが失った神のかたちをキリストが回復する救いなのです。だから、キリストを信頼して、すべてを御手に委ねることから始まる救いです。そのためには、自分の姿がどうであるか知る必要があります。それを聖霊は見せてくださり、悔い改めへと導いてくださいます。そして、十字架の救いの意味を悟らせてくださいます。その時に、はじめて人間は信じて義と認められるのです。何もそのためには人間からできることはないのです。ただ、イエス・キリストを信じるだけです。それで、驚くべきことにキリストによって神のかたちの回復が始まります。新約聖書に書かれた通りに求める者に聖霊が注がれ、神との交わりが始まるのです。それこそが栄光の回復となるからです。(さくま)
3月13日(日)
何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
コヘレト3:1
こないだまで春が来たと思わせる温かさで、とうとうカエルが冬眠から覚めて出てきました。そして、窓の外で大きな声で鳴いてうるさいぐらいでした。桜まで今にも咲きそうに蕾を膨らませ、咲いてしまった花もありました。それなのに翌日には一気に気温が下がり、冬に逆戻りでした。あのカエルは全く鳴きませんから、慌てて土の中に戻ってしまったようです。聖書は「何事にも時がある」と語ります。不思議ですが、偶然ではなく神様が定めた時があなたのためにもあるということです。小さなことから大きなことまで、時は定められているのです。それを変えることはできません。ですから、神様のお導きのままにゆったりと生きて行きましょう。その時が来るまで待つことができる信仰を身につけたいものです。神様はあなたのためにこれからも時を用意していますから、神様の摂理を心に留めましょう。すべては、あなたのためになるでしょう。何が起こっても信仰で受け止めて行くのです。(さくま)
3月14日(月)
では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。
フィリピ3:1
クリスチャンになると、ここにか書かれた通りに、「主において喜びなさい」という命令を無視することができません。普段あまり喜ぶことのない人にとっては、戸惑うかもしれません。しかし、信仰の道では欠かせないこととして覚える必要があります。この命令に従って、いつも喜ぶ人とそうでない人では、大きな差がつくと思います。そして、気になるのは最後に「あなたがたにとって安全なことなのです」と書かれていることです。そうであるからこそ、信仰を発揮して「主において喜」ぶのです。この喜ぶことの中に信仰の不思議が隠されていると思って、早速喜び始めましょう。(佐久間)
3月15日(火)
私をいやしてください。主よ。そうすれば、私はいえましょう。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の讃美だからです。
エレミヤ17:14
ここにエレミヤの信仰があります。預言者といえども、迫害から逃れることはできませんし、敵対する者や脅かす者も現れます。また、病気にもなるでしょうし、信仰を試みられる時もあるのです。しかし、どんなこの世の悲劇が襲ってきたとしても、それらは信仰者にとっては真の脅威ではないのです。すべてが主にかかっていることを知っていからです。主が癒すとおっしゃれば、たちどころに癒されるでしょうし、主が救うとお決めになれば、救われるのです。そのように主は信頼できる神であり、力ある全能者なのです。しかも、私たちを愛してやまない慈しみに富んだお方です。私たちは、時には困ったり、心細くなったりしますが、そんな時には必ず自分に言い聞かせるのです。主は必ず助けてくださる。私の神は素晴らしいお方で、決して失望させることはない。いつも私たちは主のみ業に驚き、感動して、讃美しないではいられない。私たちが土くれに過ぎなくても、主は決して忘れることなく、この世で私たちが途方にくれていれば、急いで駆けつけて力づくで助けてくださる。悪魔が訴えて、私たちの罪を糾弾しても、イエスの十字架は圧倒的な力を持って罪のすべてを呪いもろともに贖い、清め、解放し、悪魔を震え上がらせ、悪霊どもを逃げ出させるのです。「もう大丈夫だから安心しなさい」というイエスの優しいみ声が聞こえてきそうです。だから、主のために生きたいという思いがわき起こってきます。主は、あなたが信仰をあらわすことを待っているのです。主を呼びましょう。(佐久間)
3月16日(水)
体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはそれほどであろう。
マタイ6:22-23
昨年から眼科に通うようになりました。毎日目薬を3種類も使うようになり、おまけに副作用で目の周りが黒くなったり、目が赤くなったりと良いことがありません。その上目薬をさすのがへたくそで、目の外にさしては笑っています。さて、今日の聖句は目のことをイエス様がお話になった箇所です。確かに子供の目を見ると澄んでいてきれいです。しかし、長く生きていれば目もくたびれてくるでしょうし、見なくもてよいこの世の汚いものを嫌でも見せられるのです。そのような世事に長けた人になっていくのが世の常なのでしょうが、必ずそれで良いというわけでもないのです。イエス様はここで人の心のことをお話になっているようです。年齢を重ねるたびに、心が汚れていくことのないように。自分さえ良ければ良いという世間の風潮に流されないように。善悪をごまかしていい加減にしてはいけない。何よりも信仰者は聖霊の灯火を消してはいけない。何が正しいことか見える澄んだ目を保つことが肝心です。今の世の中は、暗い心を抱えて、濁った目ではどうすれば良いのか見極められない人たちが増えているようです。だからよけいに目が澄んだ人が望まれているのです。背後に悪魔が潜んでいないか、澄んだ目で見極めたいものです。(さくま)
3月17日(木)
わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞きわたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。
詩篇116:1、2
私たちは自分の弱さのゆえに心を悩ますことがあります。誰も望んでいるわけではありませんが、人々の間で生きる時に悩みが生まれます。もっと強ければ、とか、あの人のようなら良かったのに、とか、意味のないことをつぶやき、とめどもなく堂々巡りの悩みを繰り返すことがあるのです。そのストレスは自分自身を蝕んでいるのですが、解消する方法も分からずにいればどうしようもないところまでいくでしょう。さて、ではどうすればいいのか。神様に祈ればいいのです。信仰者であっても悩むことはありますが、その時も同じです。今日の聖句のように神様に祈ります。一番肝心なところは、自分の祈りを主はちゃんと耳を傾けて聞いてくださるということです。だから、立派な祈りではなく、心を吐き出すように、思いを伝えましょう。ありがたいことに主は聞いてくださいます。誰が、楽しくもない嘆きを聞いてくださるでしょうか。感謝なことに、神様が直接聞いてくださるのです。尊い主が聞いてくだされば、もうそれで十分ではないでしょうか。主はあなたのことを心配して、耳を傾けてくださるのです。この恵みが私たちが生きる限り続くのですから、主を呼ぼうではないですか。信頼を込めて、主を愛して、主を呼びましょう。(さくま)
3月18日(金)
主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ 断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく お前たちの心を引き裂け。」
ヨエル2:12、13
中学か高校の時に、友人がラジオでヴェートヴェンの運命を聴いて深く感動したと話してくれた。高級なオーディオセットではなく、安いラジオで聴いたのに心を揺さぶったのだ。その意味がわかる気がした。それからずいぶんと時は流れたが、なぜかそのことを忘れることはない。クリスチャンになって聖書を読むようになった。聖書はわずか1冊の本でしかない。それなのに人の心を動かし、その人の一生を劇的に変えてしまう力がある。これは奇跡としか言いようがない。聖書は神の言葉だから、と人は言う。そう、その言葉が今日、「心からわたしに立ち帰れ」と語る。このみ言葉がある時は何も心に響かずに読み飛ばしてしまうのに、主のみ声になって感動することだってあるのだ。そして自分のような粗末な土の器に聖霊が入れられて、その器を通して人にイエス・キリストを証言し、深く感動させることを主はなされる。ちょうど安いラジオで聴いたのに感動した友人のように、福音を聞いて人は魂が揺すぶられるのだ。(サクマ)
3月19日(土)
あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。
ヨハネ16:33
キリストの御言葉は確かです。この世で生きる限り苦難は何かしらあるものです。しかし、クリスチャンにはイエス・キリストが共におられます。キリストが私たちの救いのために戦って下さったのはご存知でしょうが、完全勝利を収められたのです。そのために、初めから私たちには勝利が約束されています。ですから、目先のことでいちいち悩む必要はありません。私たちはキリストと結ばれていることを信じています。そうであれば、私たちも主にあって既に世に勝っているのです。信仰が弱らないように、勇気を出しましょう。キリストのゆえにあなたは勝利者なのですから、心配はいらないのです。(佐久間)
3月20日(日)
今日あっても、明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
マタイ6:30
イエス様のこのお言葉をはじめて聞いたときには、なるほどと感心しました。誰もが顧みない野の草花が神様によって綺麗に装っていただいていることを考えたことがなかったのです。しかし、私たち人間は、野の草花とは比べ物になりません。どんな人でもものすごい価値があるのです。何もできないと言って嘆くこともないし、恵まれていないと悲しむこともないのです。自分の価値がどれほどのものかイエス様は教えておられます。確かに自分と野の草花とどちらが優れているかと考える人はいないでしょう。それならば、何を心配しているのでしょう。野の草花以上にあなたによくしてくださることはイエス様が保証しておられるのですから大丈夫です。人生を悲観したりしないでください。神様が自分によくしてくださると喜んでいましょう。少なくても信仰の薄い人と言われないように、くよくよせずに、イエス様を信じていましょう。(さくま)
3月21日(月)
富んでいるいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けいている。
ルカ6:24
キリストの教える幸福と不幸がルカによる福音書の6章20節以降にまとめられています。貧しい人々が幸福で、富んでいる人たちが不幸であるというのです。この世の常識で見るとピントはずれのように聞こえる教えです。それは、この世と神の国という二つの別世界の価値が対立しているからです。この世の常識で言えば、富んでいることが良いことになります。もっとも富んでいる人は全体の数パーセントにすぎません。それだから、富むことを願う人が多いのですがイエスはそれは不幸だと言いました。それは、富んだ者とは、この世で富を全て受領してしまった者という意味だからです。彼らには天国の分はもうないという意味です。確かに、聖書には「富は、天に積みなさい」(マタイ6:20)という言葉もありますから、この世の富と別に神の国に富を積むことができるというのです。信仰者は神に献げものをします。献金であることもあれば、奉仕であることもあります。施しや善行も天に宝を積むことになります。さらに従順に神に従う信仰も自らを献げることになるので含まれるのです。そして、イエスは「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」(マタイ6:21)とおっしゃいました。そこで、この世で富んでいる者の不幸を教えているのです。人間は貪欲なのでちょうどよく神に調整していただくのが安心です。(佐久間)
3月23日(水)
イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、誰よりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたらからである。」
ルカ21:1-4
お金は不思議な力を持っています。持っている金額が少ないうちは大したことはないのですが、これが一桁、二桁、三桁、と金額が多くなると途端に気持ちが大きく変化してしまいます。お金ほど自分の力を誇示できるものはないからです。ですから皆、お金を欲しがります。お金を欲しいという意味は、お金を使いたいということです。お金持ちというのは、文字通りお金を使うのではなく持っているということです。だから、たまっていくわけです。お金を使わないのはお金が好きだからです。普通の人はお金ではなくお金で買えるものが好きなのです。さて、今日の聖書箇所を読むといろいろなことが頭に浮かんできたのではないでしょか。ここでは、お金持ちが悪いと言っているわけではありません。貧しい人の方が信仰深いのだ、と言っているわけでもありません。注目するべき言葉は「生活費を全部入れた」というところです。実は、人間が生活するに必要な最低限度の生活費は同じなのです。それ以上に持っているお金が多いか少ないかということが人によって違うわけです。このやもめは、「生活費の全部を入れた」というのですから驚きですね。これはどういうことでしょう。普通の人は、金持ちと同じようにまだ余裕を残して献金しています。ところがこの貧しいやもめは生活費全部を入れたというのはなぜでしょう。昔、フィリピンの田舎にある小さな教会を訪ねた時に献金皿が回ってきました。そこには予想に反してコインではなく使い古した紙幣が山をなしていました。豊かな日本ではコインが多いのに、経済的には恵まれているとはとても思えない田舎の粗末な教会ではお札が献金皿が山となるほど献げられていたのです。それも、献金皿は何皿もあったのです。その全てが大きな紙幣の山になっていたのです。ビックリポンです。このような光景は日本でもアメリカでも見たことがありませんでした。フィリピン相場はこんなもんだろうとコインを握りしめていた自分が恥ずかしくなってこっそり紙幣を出しました。イエス様は賽銭箱の前で人の信仰を見ていたのです。この貧しいやもめはその後どうなったのかは書いていません。でも、イエス様がその人のことをお語りになったことには意味がありますね。そういえば、持っているお金を全て献金してしまい、帰りは電車賃がなくて長い道のりを歩いて帰ったという人もいました。それにしてもいろいろな信仰があるものですね。(さくま)
3月24日(木)
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
Ⅰペテロ5:7
聖書にはありがたいと素直に喜べる聖句があります。このみ言葉もその一つです。さて、問題は、思い煩いを全て神様に委ねることがなかなかできないことです。ゆだねた、と言ったそばからもう不安になってしまうのです。不安の霊という悪霊が攻撃している場合は、キリストの御名によって不安の霊を追い出せば、しばらくは大丈夫ですが、5分か10分もすれば不安が舞い戻ってきます。その場しのぎではダメなのですね。もっとも全ての不安が悪霊のせいであるというのは言い過ぎでもっぱら自分の気質と関わっているようです。心配性の人にとっては、信仰のテストとしてこの「心配」が試されるでしょう。というよりは、主への信頼が試されているのです。信仰者の祈りは聞かれるのに、否定的な妄想を選んでしまうので結果が悪いのです。知恵ある人は、最悪の事態を考えて、それを吟味しています。そうすると意外にたいしたことのないように思えてくるのです。どうなるかわからないし、こんなことは嫌だと、いたずらに現実を見ずに幻影に怯えていたのです。クリスチャンは、キリストの死に結ばれて死んでいると考えているので、その原点に信仰で辿り着くと平安になります。目に見える世界のことはとても小さなことなのです。信仰者は神様の支配に服していますから、主の御心が行われる力の世界を見てのです。そこでは、悪魔の悪巧みは全く無力にされているのです。神様があなたのことを心配してくださっているのは本当です。それでも、まだ自分で心配を引き受けたいでしょうか。(さくま)
3月25日(金)
エズラは人々よりも高いところにいたので、皆が見守る中でその書を開いた。彼が書を開くと民は皆、立ち上がった。エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。
ネヘミヤ8:5、6
捕囚から帰還したイスラエルの民は、エズラに律法の書を持ってくるように求めました。エズラは旧約聖書に出てくる最高の学者です。律法に精通していました。神殿の前の広場に律法を聞いて理解できる人々はすべて集まりました。エズラは、モーセ五書から朗読を始めまたした。その書を開いた時に、民は全員立ち上がったのです。エズラは主をたたえました。すると民は皆、両手を挙げて「アーメン、アーメン」と唱和したのです。彼らがひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した、と聖書はその場の情景を克明に記しています。感動的な場面です。私たちは、いったい何者でしょう。あなたが主に召されたクリスチャンであれば、あなたも神の民なのです。私たちはただ聖書の神、主イエス・キリストの父なる神を拝み、喜ぶのです。ですから、この場面を想像して深く感動します。神を礼拝する、そのことだけでありがたいのです。これは夜明けから昼ごろまで続きました。その時に、通訳が何人かいました。異国の地に捕囚となっていたのがいかに長い期間に及んでいたかが偲ばれます。今日もバイリンガル教会などでは通訳がつきますから、その歴史も旧約聖書に遡れるのですね。神のみ言葉はこのようにいくつもの言語に訳され、福音の声は止むことがありません。たとえ一人でも、大いなる神、我らの神を礼拝しましょう。(佐久間)
3月26日(土)
私が主を求めると、主は答えてくださった。私を全ての恐怖から救い出してくださった。
詩篇34:5
クリスチャンの良いところは、主を求めることができるということです。主は、待っていてくださったようにすぐに答えてくださいます。私たちにとってこの世は決して安住の地ではありません。今良くてもすぐ先に何が待ち構えているかわからないからです。ですから、刹那的に生きている人たちが少なくありません。郊外の大型パチンコ店は昼間から駐車場が満車です。夜の繁華街も酔っ払いだらけです。この世の人たちが楽しいということには空しさを感じてしまいます。本当の満足や霊的に満たされることなど知らないのです。それでもこの世に生きているのでクリスチャンにも脅かされるようなことが起こるかもしれませんが、そんな時でも心配いりません。聖書に「私を全ての恐怖から救い出してくださった」と書いてあるからです。ですから恐れずに主を求めて信仰を現しましょう。あなたの主は頼りになるのですから。(さくま)
3月27日(日)
主を仰ぎ見る人は光と輝き 辱めに顔を伏せることはない。この貧しい人が呼び求める声を主は聞き 苦難から常に救ってくださった。
詩篇34:6、7
詩篇にはこのように信仰者が神様に守られている姿がしばしば表現されています。私たちは、クリスチャンになってから特別な生き方をしてきたと思います。それは、この世の常識が通じない、という言葉が一番合っていると思います。何しろ、クリスチャンの人生には神様が関わっているからです。イエス様のおかげで、神様の意味が正しくわかったのです。偶像のように拝むことはありません。自分に都合の良いご利益を求めるだけの宗教とは一線を画しています。「貧しい人」というのは霊的に貧しい人のことです。罪のために神のかたちを失って、霊的に欠けのある者になってしまったからです。普通ならば神様からとうに捨てられてもおかしくないのに、私たちのことを主は惜しまれたのです。そして、聖書に書かれた通りの長い人間の物語が始まり、今に至っています。そうです聖書に書かれていた通りに、神様を呼び求める人に主は駆けつけ、常に救ってくださったのです。そして、現在も主は変わらないのです。あなたのことを慈しみ、愛しておられるので、あなたが心配したり、悲しむと、いつでも主はあなたのそばにいてくださいます。決して独りにはしないのです。あなたの呼び求める声を待っておられます。そして、どんな困難があっても救ってくださいます。それがわかっていたら、うつむかずに顔をあげて主を仰ぎ見てください。ありがたいと思ったら、主への讃美をもっともっと献げましょう。(さくま)
3月28日(月)
ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。
マタイ27:59-61
アリマタヤ出身のヨセフは金持ちであった。いつの時代も権力者に近いのは金持ちであった。ナザレのイエスは大祭司や律法学者など当時の権力者と宗教的対立をしていたのだ。そのために、実際にはナザレのイエスを畏れ敬いメシアかもしれないと思っていながら公には表明できない人たちが体制側にもいたのである。その一人であるヨセフは、なんと十字架にイエスがつけられた後に、ローマの総督に遺体の引き取りを申し出たのである。一体ヨセフに何が起こったのであろう。彼は、安息日に入る前の短い時間に何とか遺体を引き取り、イエスの遺体を亜麻布に包んで墓に葬ったのである。墓穴を塞ぐように大きな石が置かれた。万事休す、である。イエスが死んでしまったのだ。何もかもおしまいだ!男弟子たちは「先生が死ぬなら一緒に死にます」と言ったのに、すでに逃げて誰もいない。ただ、墓の前にマグダラのマリアともう一人のマリアだけが残った。彼女たちの全てであった先生がもういない。イエスへの思いが断ち切れずに彼女たちは墓に向かって座っていた。イスラエルの民にとって金曜日は安息日のための備え日で、日没前までに仕事を全て終えていなければならなかった。女たちなら、安息日のお昼に食べる料理を作っておかなければならない。しかし、二人のマリアたちは人生の全てが終わってしまったかのように、墓から動けない。イエスを失った悲しみはどうすることもできなかった。一方、悪魔とその手下である悪霊たちは、墓を取り巻いていた。イエスを十字架で殺したことで勝利したはずなのに、一向に喜ぶことができない。それどころか、刻々と不安が広がってくる。キリストが「死んで三日目に復活する」と言っていた。何度も弟子たちに語っていた。そのことがはっきりと思い出される。そして、震えるほどの恐ろしさがこみ上げてくる。それはあたかも悪魔の軍勢の方が敗北したかのように静まり返った。もし、霊の世界が見えるのなら、この時墓の上空高くに万軍の天使が完全武装をしてとどまっている光景が見えただろう。彼らは待っていた。三日目を。旧約聖書に描かれたこの長い人間の罪の歴史が今大きく変化しようとしている。イエス・キリストの十字架の死は人間に救いをもたらすのか、それともイエスは失敗してしまったのだろうか。こうしてこの世界に不気味な暗黒が広がっていったのである。どうだろう、これほどまでにイエスの十字架の死は大きな出来事だったのだ。(サクマ)
3月29日(火)
水が顔を映すように、心は人を映す。
箴言27:19
人のことを見分けることができるかどうか、商売をする人ならそれが重要なことであることは経験からも知っているだろう。実は、人の第一印象は大切で人を見分けることのできる人はここでその人を見切っていることが多い。しかし、第一印象は悪いのに、実は良い人であった、ということだってあるものだ。人はお世辞に弱いので、人を欺く者はお世辞を多用する傾向がある。このように、私たちは人間関係を学びながら大きくなり、人を観察し、理解しようと努めるのだ。さて、今日の聖句は一考に値する。人は外見を見ているが神は人の心を見ている。その理由がここに書いてあった。心は人を映すからだ。あなたは、心を育て鍛えてきただろうか。あなたという人は、この心そのものなのだ。心が美しいと物事を悪く取ることがない。しかし、傷ついた心は、物事を悪く取る傾向が強い。イエス・キリストの救いは、癒しの意味を併せ持つので傷ついた心を癒してくれる。それだけでなく、聖霊を心に住まわせてくださり、その聖霊が人を神のかたちに再創造してくださるのだ。それを聖霊の実という言葉でも表現している。愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制である。このキリストの品性は、主を信じる者の心に形作られるのである。心があなたを映しているのなら、心から何が出てくるか気をつけなければならない。それがあなただからだ。へりくだって心を聖霊に委ねよう。(サクマ)
3月30日(水)
神は孤独な者を家に住まわせ、捕われ人を導き出して栄えさせられる。しかし、頑迷な者だけは、焦げつく地に住む。
詩篇68:6
神様はいつだって私たちのことを見ていてくださいます。この地上は天国ではありませんから、人生を思い通りに生きることはなかなか困難です。そのために、神様の助けは必要です。私たちは、どうしても自分の力で生きていこうとするので、困難に遭いやすく、また遭うとすぐに悩み始めます。神様への信頼を表すことを忘れて悪い考えの虜になってしまいやすいのです。結局は堂々巡りで考えるだけ疲れ果て、消耗してしまいます。だから、やめなければなりません。神様を信じて、何が困っているのか自分の願いは何か、はっきり言うことです。そして、主の取り扱いをありがたく受ければいいのです。全てに時がありますから、待つことになるかもしれません。それでも、主が問題を解決してくださいますから、喜ぶことになります。問題なのは、頑迷な人です。自分の考えに固執する人、聖書に書かれたみ言葉を無視する人、神様を信頼しきれない人、思い煩いをやめない人、この人たちは「焦げつく地に住む」、つまり最悪の状態で思い悩んだ通りに悪くなっていくことを味わわなければならなくなるということです。主は祈りをちゃんと聞いてくださいます。だから、心配しなくても大丈夫なのです。これはもっと主を信頼して恵みをいただくチャンスが来たということなので、信仰で解決すれば良いのです。(さくま)
3月31日(木)
人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。
エペソ3:19
キリストはこの世に生まれて、人間の弱さを知った。悲しいことも辛いことも苦しいこともみな知った。そして、人間が罪深いことも、死んでしまう者であることも知った。何が一番人間にとって悲しいかといえば、愛される権利があるのに、不当に扱われ、愛でないものをたっぷり味わい、生まれたままでは愛されるに値しない者であると思い知らされることである。そして、愛してもらいたいのに愛されないと心がおかしくなるのだ。そうした人が大勢いて、この世は恐れと不安に満ちている。キリストはそれを長い時間かけて見てきた。そして、おおよそ30歳になって、「時が満ちた」と宣言された。それから、大勢の病人がイエスのもとに押し寄せてきた。その全員が癒されたのだ。毎日毎日、キリストは人を助け、教えた。それでも、宗教の伝統が人を苦しめていることを見て、神のみ心がどれほど慈悲深いか実践してみせたので宗教家たちから憎まれるようになった。イエスの行う驚くような奇跡は、彼らの宗教が昔からキリストのしるしであると預言していたものだった。それなのに心をかたくなにして、ついにキリストを十字架に架けることになった。キリストは何も言わず、逆らわなかった。残酷に太い釘でキリストを十字架に打ち付けた。恩知らずと罵ればいいのに、キリストは彼らは何をしているかわからないから、と神にとりなしたのだ。実は、このキリストを十字架につけるために釘を打ち付けたのは私たちなのだ。私たちの罪深い生き方がそうしたのだ。それなのにキリストは、十字架でじっと耐えた。こうする以外に、罪を犯した人間を救う方法がなかったからだ。でも、なぜ神の子であるイエスが十字架で屈辱を味わい、残酷な目にあわされても、神の力を使わなかったのだろう。ローマの兵隊を倒して、十字架を降りることなど簡単にできたのではないだろうか。それをしなかったの理由は、ただ一つ、あなたを愛していたからだ。(サクマ)