2016年5月 ディボーション

 

5月1日(日)

「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受けるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。

Ⅰテモテ1:15

 

自己中心な考えで犯罪を犯す人がいます。ニュースにそのような人の報道が毎日のように流れています。しかし、もっとも大きな罪は、心身ともに健全な人たちが神様を認めないことです。「知らなかった」と言う人はたくさんいるでしょうが、本当はあえて逆らっていると聖書は語ります。神様はこの世界を見れば神様の存在がわかるように創造されたのです。それなのに自分勝手に生きたいので神様を無視し、さらに偶像まで作って欲望を満たそうとしているというのです。その結果が恐ろしいことを知らないのです。世界が終わる時に罰せられるだけではありません。生きているうちに神様の怒りに遭うのです。こうした罪人は自分で犯した罪の罰を受けるでしょうが、同時に希望がないわけではありません。イエス様が罪人を探して救ってくださるという約束があるからです。罪で人生をダメにしている人でも、救いの道はあるということです。イエス様を信じて悔い改めるなら、罪は赦されるのです。ずいぶん調子のいい話だ、と思われる方もいるでしょうが、これ以外に救いの道はないのです。神様の全力で救わなければ人間は誰も救われないのです。そして、主イエス・キリストはすでに世に来られて救いの道を完成されたのです。ですから、主イエスを信じて、恵みで救われるのです。これは絶対的な真理です。ですから人間には希望が残っていると言えるのです。(さくま)

 

5月2日(月)

罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。

Ⅱコリント5:21

 

礼拝の説教は神様のお導きのままになされていますが、福音の徹底的な理解こそが信仰者には不可欠なのです。それが正しくわからなければ、結局「神の義を得ることができた」と喜べないからです。それでも、信じる者には誰でも理解できるし、本当にみ言葉の通りになるのです。学者はとても難しい議論をしていますが、そのような神学がわからなければ天国へ行けないということは全くありません。しかし、独りよがりの勝手な解釈は危険です。そうならないために主は牧師や教師を教会にお与えになったのです。ただ、住んでいる場所や事情によっては、誰にも聞けない場合もあります。そうゆうこともあって、真理の御霊を送る約束があります。聖霊が教えてくださるのです。これは、信仰の年月に関係ありません。神様に祈って聖書の意味を聞けばいいのです。すぐに答えを得ることができなくても、いつもそのみ言葉の意味を求めて考えていると、突然悟ったように意味がわかってしまうことがあります。他人に聖書を教えると自分の知識以上のことを語ることがあります。これも聖霊のお働きですね。このようにして、自分の罪のこと、イエス・キリストが罪とされ十字架に架けれたこと、しかも、私たちの罪のために十字架で苦しまれたこと、そしてイエス・キリストを信じて神の義を得たこと、これらすべてが聖霊によって理解できるように助けていただけるのです。そのために祈ることがとても大切なのです。(さくま)

 

5月3日(火)

イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

ヨハネ2:11

 

これは、イエス様が結婚式で使うぶどう酒が無くなった時に、母マリアに頼まれて水をぶどう酒に変えた奇跡の話です。このことで「弟子たちはイエスを信じた」と聖書に記されています。やはり、奇跡は信じることをたやすくするのです。この時用いた水瓶の容量は、2ないし3メトレテスです。計算しやすいように仮に2.5メトレテスとすれば、1メトレテスが39ℓですから、585ℓになります。ワインボトルにして、780本ぐらいになります。ほんの2、3本をワインに変えたというような話ではないのです。この奇跡を見た人たちはどんなに驚いたことでしょう。実は、今日一人の姉妹が結婚が決まった、と連絡してくれました。心からお祝いしたいと思いました。それまで苦労してきたから、なおさら嬉しいのです。きっとイエス様は喜んで祝福してくださることでしょう。何しろ初めての奇跡が結婚の時だったのですから、ただの水が高級ワインに変わるほどの祝福を与えてくださるはずです。主を信じる者は、苦労することがあったとしてもやがて必ず幸せになることは確かなのです。(さくま)

 

5月4日(水)

律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違反を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。

ガラテヤ3:19

 

キリスト教では律法が問題になることがしばしばあります。プロテスタン教会でも律法順守を掲げるところもあります。クリスチャンは正しく生きなければならいから、律法を守り行うことが大切だと考えているわけです。しかし、新約聖書をよく読んでみれば、神がイエス・キリストを信じる者を義とするのです。本人が律法を完全に守り行ったので義と認められた、というようなことではないのです。それは、罪が律法を守れないことだからです。律法違反が罪なのです。罪人とは、律法を守って義となることが不可能な人のことです。逆に、律法がその人に罪ありと明確にしますので、「聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです」(22節)と書いてあるわけです。旧約預言者のキリスト預言の通りに、キリストが来られたのは歴史上の事実です。そのキリストの働きは聖書を読めばわかりますが、キリストを信じる者を義とすることでした。パウロはそのことをここで明確にしています。大切なことは、律法は決して悪いものではありません。良いものです。自然に守ることができたら一番いいのですが、そう簡単ではありません。まして律法を完全に守って自分で義となるという考えは聖書にはないのです。どこまでも、キリストを信じて、神によって義としていただくことです。そのことがあって、福音という言葉があります。そのために、クリスチャンは信仰が鍛えられるわけです。そこで、へこたれずに笑って信仰を現し続けようではありませんか。きっといいことがあります。(佐久間)

 

5月5日(木)

心に知恵ある人は聡明な人と呼ばれる。優しく語る唇は説得力を増す。

箴言16:21

 

米原万里ベストエッセイⅠの中に「トルコ蜜飴」という菓子の名前が出てくる。彼女は、私も大好きなケストナーの本から知ったそうである。この「トルコ蜜飴」のことが大変興味深く書かれている。現代は一億総グルメで毎日テレビは有名な食べ物が取材され、レポーターは食レポを競っている。あれで食べ物の匂いがしてこないのが不思議なぐらいだ。しかし、一昔前にはそんな便利なことはなかった。それで、小説に珍しい食べ物が出てくると想像を膨らませるしかなかった。実際に見ることもレポーターがどう美味しいか説明してくれることもないのに、想像の世界では映像まで浮かんでくるのだ。それがお菓子であればなお良い。そんな思いを米原万里さんは実に巧みに描いてみせるのだから、心に知恵ある人だと思う。さて、今日の聖書箇所は、食いしん坊な私とは違って、とても重要なことを教えている。それは、「優しく語る」ということだ。人生を切り開くには説得力がいる。それは、「優しく語る」ことが秘訣なのだ。相手をやり込めたり、自分の考えを押し通したり、そうゆう乱暴なやり方は決して優しくない。だから、反発されて失敗するわけだ。では、どうすれば優しく語れるのだろう。それは、聡明な人の特徴であることを覚えよう。では、聡明な人になるにはどうすれば良いのか。聖書の答えは、「心に知恵ある人」とある。なるほど、ソロモンのようにまず知恵を求めることが必要なわけだ。そすれば、イライラすることも心配することもなくなるだろう。知恵を得れば、「トルコ蜜飴」の秘密だってわかってしまうのだ。ましてや、幸福の道だって見つけることができるだろう。(さくま)

 

5月6日(金)

誇る必要があるなら、わたしの弱さに関わる事柄を誇りましょう。

Ⅱコリント11:30

 

聖書を読んでわかることがあります。それは、この世の普通の人とは考えが反対になって見えることです。今日の聖句を書かいたパウロは、当時のユダヤ社会では自慢できる人だったのですが、そうしたことを塵芥のように思うように変えられます。それはイエス・キリストと出会ったからです。キリストにはそのように人を大きく180度変えてしまうような力があるのです。それで、普通の人間なら人と比べて上なら優越感に浸り、下なら劣等感にさいなまれるわけです。それは、時に嫉妬となり、人間性を劣化させてしまうのです。ところがパウロは、自分の自慢できることは捨て去ったように背を向けて、キリストだけを見ているのです。ですから、神の恵みの意味がわかってしまったのです。また、罪人を真に救うには、ただ罪の許しがあればいいというわけではなく、およそ人間がどう頑張ってもできない事を神の全能の圧倒的な力で無理やりでもやり遂げなければならなかったのです。それは、現代でも同じです。そこで、救われる側の責任についてパウロは理解したのです。それは、罪人のわたしを神の力で義人、つまり神の目から見て正しい人に作り変えってくださるので、自分で正しくなろうとすることを放棄する必要があります。そうしないと、神の邪魔をしてしまうからです。罪人であると認めたなら、神の救っていただくしか道はないのです。そこで、神の力が働くように、自分の弱さを認めて隠さない事です。劣等感を思えている事も、自分の過去の惨めな記憶も、自分に欠けている様々な能力も、恥ずかしいと思っている事も、自分で自分を責め続けている事も、みんな神のみ前に晒すのです。それが神がわたしたちを義とする事を妨げずに協力する事になるのです。普通の人は自分の功績を誇るものですが、それが救いには逆効果であることがわかったので、「神に救っていただかなければどうしようもない者です」と認めると、神はその事に不思議な働きをされることができるのです。そうなると、弱さに神が働くことがわかるので、自分の弱さを誇ることができるようになるわけです。これこそ救いの証拠ですね。悪魔のささやきに騙されるのは、まだ自分を誇ろうと見当違いの道を歩んでいる結果です。それは、キリストを遠ざけるだけなので、損な生き方です。キリストを信頼して、自分の弱さに主が働いてくださるように祈りましょう。今日も、主のお恵みがありますように。(佐久間)

 

5月7日(土)

犬が自分の吐いたものに戻るように 愚か者は自分の愚かさを繰り返す。

箴言26:11

 

自分の愚かさはなかなか気づけないものですが、人の愚かさは気がつきます。これは、頭の良し悪しとは関係ありません。ただ、自分の愚かさを悟った時は相当落ち込むものです。それでも、時間が経てばまた同じ失敗をすることがあります。ですから、カウンセリングをしていると、何年経っても同じ問題で相談に来る人は珍しくないのです。「いい加減にすれば」と他人には言えますが、自分のこととなると見えていないのです。そこで、賢人とは、自分の愚かさを繰り返さない人、と言うことができそうです。そのためには自分を絶対化しないことです。絶対と言えるのは神様だけです。それにしても、「痩せなければ」と言いながら、太るのはなぜでしょう。「運動しなければ」と言っていながら、「明日から始めよう」と毎日思うのはどうしてでしょう。このように聖書は真理を教えているのです。(さくま)

 

5月8日(日)

イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒すためであった。

マタイ10:1

 

作家の米原万里さんは添乗員をされたことがあるそうで、著書の中で「旅を楽しむには、お客さんの数は十二~十八人ほどが理想的。パッと見まわして、誰がいるいないととっさに判断できる数である。二十人を超えると、しじゅうお客さんの頭数を数えていて、なんだか牧童になったような気持ちになるし、十人以下だと団体旅行の醍醐味が味わえない」と書いてある。なるほど、十二使徒の数はこのような合理的な意味があるようだ。二列に並んでも三列に並んでもハンパが出ないで、美しい。しかし、「二十人以上だと牧童になったような気持ちになる」とはよく言ったものだ。まさに、牧師はそのようなものなのだろう。しかし、使徒が教会を作り、福音を広めていったことを思うと、一つの教会には十二~十八人ぐらいがちょうど良いのかもしれない。小グループも十二人を最大人数としていて、それ以上になれば、二つに分けることになっている。私たちもイエス様がパッと見まわした時に、すぐ見えるところにいたいものだ。(サクマ)

 

5月9日(月)

ああ神様。賛美が私の口からあふれてきます。大喜びであなたへの歌をささげましょう。・・・神様の恵みは測り知れず、その真実は天にまで達します。ご栄光は、大空を突き抜くようにそびえています。目をかけていただいている私の叫びが、お耳に達したなら、どうか救いにおいでください。

詩篇108:1、4~6(リビングバイブル)

 

この詩篇を読むと困ったことになりそうだと悩みが頭をもたげてきた時に、どうやって祈れば良いのかわかります。この祈りは、まず賛美から始めています。ですから何か良いことが起こったのかと思っていると、最後に「どうかお救いください」と言っています。つまり、救いを求める祈りなのです。もっとも、まだ具体的に困っているわけではありません。神様の約束を信じて、人間的に言えば無謀とも取れる挑戦をしようとしているのです。信仰のみが頼りです。でも、勇気を奮って神様からくる祝福の約束を実現しなければなりません。それはこれから起こる戦いです。神様は明らかに信仰を持っているあなたに目をかけているのです。あなたは神様が助けてくださるのなら何ものをも恐れない勇者になれるのです。ですから、まだ戦いが始まる前にどうしてもこの祈りを神様に聞いていただきたのです。どうですか、何かこれから起こることに不安がありますか。それなら、この詩篇の通りに祈ってみましょう。(さくま)

 

5月10日(火)

ヒルキヤの子エルヤキムとシェブナとヨアは、ラブ・シャケに願った。「僕どもはアラム語が分かります。どうぞアラム語でお話しください。城壁の上にいる民が聞いているところで、わたしどもにユダの言葉で話さないでください。」

列王記下18:26

 

異文化交流関係者の必読書と言われる著書を執筆している辻由美さんは、フランスに行ってからフランス語を覚えたそうです。フランス語の学校に通い、初級から学んだそうです。見事及第点を取れたのですが、まだよくわかっていないともう一度初級で学んだのだそうです。それが良かったようで、上級まで進み、やがてフランス語の翻訳者になられたのです。昔、英会話学校のクラスメイトが、「主人の仕事でフランスへ行かなければならないので英語を習いに来た」と語った時に、「えっ、フランス語を習うべきではないの?」と、思ったことがありました。それにしても外国語ができるかどうかという問題は、旧約聖書の時代からあったのです。それは、アッシリアの王センナケリブがユダの国へ攻めてきた時のことでした。敵のラブ・シャケは民を動揺させようと心理作戦に出て、ユダの言葉で脅迫したのでした。そこで、今日の聖句のようにユダの政府高官は中東の共通語であるアラム語を使えるのでユダの人民にわからないように外国語で話して欲しいと願ったのです。聖書を原語で読めたらいいのにと思う人はいると思うのですが、簡単に学べる仕組みがないので、なかなか環境としては恵まれていません。それでも、数種類の日本語訳で学べることはありがたいことです。英語との対訳聖書もありますから、英語を学びたい人には一石二鳥ですね。実は、英語のほうがわかりやすいかもしれないので、興味のある方は英語聖書も手にしてみてはいかがでしょう。(さくま)

 

5月11日(水)

あなたの定めはわたしの楽しみです。わたしに良い考えを与えてくれます。

詩篇119:24

 

神様はあなたにも定めを与えています。それは、あなたにとって本来良いものです。その価値がわかればその定めを楽しみにすることができるのです。ご自分の人生を振り返ってみた時に、あの時こうすればよかったと思うことがあるでしょう。しかし、あなたは自分の選択で今に至りました。それは、この世の基準でみたら満足できないかもしれません。しかし、神様はあなたのためになるようにと道を備えていてくださるのです。どんなに辛いことがあっても、それを乗り越えるようにと助けてくださいます。主は、あなたに信仰を与えてくださいました。そして信仰を使い始めると、いつの間にか主の定めがあなたの人生となっていることに気づけるのです。そうなると、主はあなたに良い考えを与えてくださいます。良い考えは良い人生を生み出します。そして、あなたは自分の人生に起こることをことごとく感謝するようになります。あんなに「大変だ」と言っていたことが嘘のように、楽しくなるでしょう。主をほめたたえましょう。(さくま)

 

5月12日(木)

さあ、神様を試してみてはどうですか。そして、どんなに神様が恵み深いお方か思い知るべきです。神様に信頼する人には恵みが雨と降り注ぐことを、自分でたしかめてごらんなさい。

詩篇34:8

 

教育やしつけが大切なことは教えられてきましたが、信仰については全く別物なのに今までに受けた教育やしつけでそのまま信仰を考えてしまうと間違ってしまうことがあります。また、この罪の世で身につけた考えを、そのまま信仰にも当てはめてしまうことがあります。それらは、たいてい正しい福音理解を妨げてしまうことになりやすいのです。しかも長年かけて身につけてきた考え方なので、それが信仰の問題になるとは思ってもみません。そのために、恵ではないことを受け入れて当たり前だと思ってしまうのです。本当は、主の恵みが注がれているのに気付けないのです。それを防ぐためには、徹底的に福音を理解するしかありませんが、自分だけの力では難しいのです。そのために、神様は聖霊を送ってくださるわけです。この聖霊こそが、あなたに福音を正しく教えてくださる真理の御霊です。神様がどんなに恵みに富んだお方であるか、意外とクリスチャンでも十分には理解していない方が多いのです。そこで、練習してみましょう。神様の恵みを味わう練習です。「お金をたくさんください」などと平気で祈っていても、「神様に信頼する人には恵みが雨と降り注ぐ」と聖書に書いてあることには自分とは関係ない、と考えてしまう人がいるのです。だからこそ、試してみる価値があります。神様が本当に恵み深いお方であるかどうか、体験しておく必要があります。それも何度も主の恵みを味わってください。きっと主への信頼は決定的になります。そうやって恵まれて生きることがあなたの人生となります。(さくま)

 

5月13日(金)

主よわたしの祈りを聞いてください。この叫びがあなたに届きますように。苦難がわたしを襲う日に 御顔を隠すことなく、御耳を向け あなたを呼ぶとき、急いで答えてください。

詩篇102:2、3

 

祈りにも種類があるとすれば、今日のみ言葉は「叫ぶ祈り」と言えるだろう。普通、叫ぶと言えば「大声で」となる。しかし、大声で祈るというのはあまり聞かない。海でバプテスマをした時に、砂浜で見守る教会員に聞こえるようにと声を張り上げて祈ったことはあるが、そのような祈りのことを言っているわけではない。声は出ていないのに確かに神に叫んでいる、そんな祈りがある。それはどんな時に起こるのだろう。自分で頑張ってなんとかしようともがいても、もうどうにもならない、神に頼る以外に方法がない、このように切羽詰まった時の祈りだろう。エジプトで奴隷だったヤコブの子孫が過酷な労働に苦しみ神に叫んだ時も、神は動いた。神は実際に急いで答えてくださった。それが有名な出エジプトとなった。この出エジプトを経験した民は、その後の荒野の生活で神に従順であったかと言えば、そうではなかった。神はこの民の先頭を務め、またしんがりを守った。宿衛では中央に幕屋を建て、いつでも民の真ん中にいてくださった。それなのに、彼らは不平を言いつづけた。神の与えるマナで満足しなかった。マナは後のキリストを象徴していたのにもかかわらず、飽きたと言ったのだ。古いエジプト(この世の象徴)の生活を捨てたはずなのに、まだ慕っていた。その考え方や振る舞いがあの奴隷の時のままだったのだ。その奴隷が辛くて叫んだから救っていただいたのに、そして、もう奴隷ではなく自由人なのに生まれ変わることを自らできないと言っているようなものなのだ。この叫ぶ祈りは、信仰者が自分で自分を救うことができないことを認めてあきらめ、神の力で救ってほしいと願っている時に出てくるものだ。だからこそ、神は力づくで救うことができる。そのことを覚えて、この詩篇記者のように神と自分の関係を考えてほしい。このわずかな言葉の中に信仰者の正しい姿が見えてくれば、あなたは義の道の上に立っているはずだ。(サクマ)

 

5月14日(土)

最後に、覚えておいてほしいことがあります。あなたがたは、自分の内にある主の超自然的な力によって強められるべきだということです。悪魔のどんな戦略や策略にも立ち向かえるように、神様のすべての武具で身をかためなさい。戦う相手は、血や肉を持った人間ではなく、肉体のない者たちです。すなわち、目に見えない世界の支配者たち、強大な悪魔的存在、この世を支配する暗やみの大王たち、それに、霊界にいる無数の悪霊どもです。エペソ6:10~12

 

人間の真の敵は、ここに書かれたような目に見えない世界の支配者たちなのです。それなのに、目に見えないだけで騙され続け、目に見える人間が悪いと思わされてしまうことがしばしばあるのです。そこで、人間関係で悩む時には、背後に悪霊がいるかもしれないと疑ってかかり、神様にそのことも祈るべきです。しかし、今日の聖句は「自分の内にある主の超自然的な力によって強められるべきだ」と教えています。つまり、目に見えない敵に勝つ秘訣を教えているのです。クリスチャンでも敵にまんまとやられてしまうことがあるのは、この「主の超自然的な力」を知らないか気がついていないからです。クリスチャンになる前のあなたがどうであったかは知りませんが、イエス様を信じ、洗礼を受けているのなら、あなたは復活したイエス様の命に生きているのです。それだけでも奇跡なのですが、その価値が十分には理解されていないかもしれません。クリスチャンになっていない人は、どんなに頑張ってみても悪魔の奴隷です。しかし、クリスチャンになって、新しく生まれた人は、内側に聖霊が宿っているのです。そして、聖霊のバプテスマを受けると霊的な覚醒が起こり、今まで内側でじっとしていた聖霊が活動を始めます。その神の力が奇跡を起こすのです。この聖霊が内住しているので、悪魔に不当に苦しめられる必要はもうありません。時には、目に見えない悪霊たちを見分けたり、悪霊を追い出して病を癒すこともあるでしょうし、キリストと同じように敵を赦し、自己犠牲の愛をあらわすこともあるのです。神様のみ言葉を預言し、悪魔に騙されている人を解放することもあるでしょう。聖書のみ言葉を持って、悪魔の誘惑に勝利することもできます。み言葉の剣で敵を打ち倒すことすらできるのです。そして、何より主への愛と信頼をどんな時にも公に現すことができるのです。主を恥とはしない、ということです。(さくま)

 

5月15日(日)

私の助けは、天地を造られた主から来る。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。昼も、日があなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主はあなたを、行くにも帰るにも今よりとこしえまでも守られる。

詩篇121:2-8

 

あなたは恵まれています。あなたには素晴らしい主がおられます。困った時にまっ先に主に頼ることができます。主は、あなたを愛し、その生涯を守ってくださいます。昼でも夜でも関係なく、あなたはすべてのわざわいから守られているのです。主は、あなたのすべてを見ておられます。ただ見ているだけではありません。守るとおっしゃっているのですから、何が起こっても心配することはありません。悪魔が脅してきても冷静で入られます。人間があなたにひどいことをしようとしても、それは神様に喧嘩を売るようなものです。神様にかなう者は誰もいないのですから、勝負は初めからついています。そこで、あなたは安心して恐れずに主に信頼すればいいだけです。なんとありがたいことでしょう。この保証は今よりとこしえまで続きます。ハレルヤ!(さくま)

 

5月16日(月)

そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」

ヘブル13:6

 

クリスチャンになって、絶対覚えておくべき聖句の一つが今日のみ言葉です。私たちが未熟であればあるほど、困難に立ち向かうことが恐ろしいものです。逆に、神様が本当に生きておられて自分のために働いておられることを知ると勇気が出てきます。謙遜であることは大切ですが、いたずらに人を恐れる必要はありません。怒られるような失敗をした時でも、恐れなければ何とかなります。怒りが相手にあるのなら、相手が爆発してしまえば怒りは消えて冷静になれるので、かえって相手は爆発してしまった自分を恥じるでしょう。そうなれば、恐れなかった分、良い関係を早く回復できやすいのです。私たちの勇気の源は、「主は私の助け手です」というみ言葉です。ですから、私たちは人間ではなく、神様を相手にしている者なのです。神様と人間を比べるバカはいません。ですから、人間を恐れるような状況になった時は、今日のみ言葉のカギ括弧の中を確信に満ちて言ってみましょう。確信に満ちて言うことがコツです。そして、効果を確かめてみましょう。きっと笑顔になれるでしょう。(さくま)

 

5月17日(火)

あなたは私に、命の道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には楽しみがとこしえにあります。

詩篇16:11

 

あなたは、このみ言葉をどう思いますか。これはあなたへの約束です。イエス様も教えていますが、命がなくなればそれで全て終わりです。ですから、この世でこれからどうしようと思い煩うことにはたいてい意味がありません。せいぜい、健康を害したり、気持ちが落ち込んだり、老けてしまったりと、否定的なことばかりが自分に返ってくるのです。一方、信仰は、明らかに命へと導かれます。主を信じることは、主との関係を親密なものにします。そして、主を知るとそこに喜びが満ちていることを知らされるのです。信仰の道は、楽しみへの道です。試練や患難さえも、主を信頼するならば、その向こうに楽しみが待っているのです。クリスチャンは喜んだり楽しんだりしてはいけない、という人がいますが、それは間違っています。罪人であった時には、神様とは断絶していたのですが、主と和解して主と一つになると聖書に書いてあるように、主の御前に信仰を持った人が初めて立てるのです。そこには今日の御言葉の通りに喜びが満ち、楽しみがあります。そして、それはあなたのものです。あなたの心配は主がするのであって、あなたは主を喜び、楽しみ、讃美するのです。どうぞ御言葉を信じて永遠の命の道へ進んでください。(さくま) 

 

5月18日(水)

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方の素晴らしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。

Ⅰペトロ2:9

 

イエス様を信じて救われたのなら、闇の中から、神様の驚くべき光の中に招かれたのです。それなのに、まだ闇の中にとどまっているような思いや考えは正しくありません。信仰は、聖書のみ言葉を神様のみ声として信じるものです。自分に対して不当に低いセルフイメージを持っていることもいけません。悪魔は嘘をつきます。あなたが本当は救われていて、素晴らしい者にすでに変えられていることを信じないように、嘘をついているのです。そして、うっかり悪魔の嘘を信じると徹底的にひどい目にあいます。それは、神の子とされていることに気がつけないように、セルフイメージを傷付けて自分はダメだと信じ込ませようとしているのです。だから、信仰は明るく、楽しく、肯定的、積極的であるべきです。聖書に書かれたことよりも自分の思いや考えに支配されないように気をつける必要があります。神様が義としてくださるのですから、自分で自分を良いとか悪いとか勝手に決めないことです。あなたは、恵まれているのです。すでに神様の光の中にいることを認めてみましょう。神様が自分を祝福したいと思っていてくださるので、子供のように喜んで祝福を楽しみましょう。そして、これほどの素晴らしい完全な救いをもたらしてくださった神様をあなたが出会う人々に紹介するわけです。不思議なことに、自分が神様は恵みと祝福を与えてくださるので幸せだと認めると、その神様の助けを必要とする人がちょどよくやってくるのです。だから、無理することもなく、正直に神様の恵みを証言できるのです。それが誰かの助けになるのですから、こちらまで幸せになれます。たとえ、一回しか会ったこのない人でも、散歩の途中にすれ違っただけの人でも、あなたから何か良いものが流れて、不思議な良いことが起こっていることがあるのです。あなたはそのように素晴らしい存在なのです。(さくま)

 

5月19日(木)

イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

ルカ19:9

 

これは徴税人ザーカイのお話の最後の聖句です。神の民もザーカイのように人生を見失い人々からダメだと思われるような生き方をしてしまうことがあります。自分でも、なぜこうなているのかわからずに、人のせいにしたり、自分を責めたり、しまいには神を呪ったりするしまつです。そうなると人生は暗くなるだけです。そこから何とかしようともがいても、うまくはいきません。ところが、イエス様はそのような人を探しにくるのです。それも、救うためにくるのです。ですから、セルフイメージが低くなっていた人も、いっぺんにセルフイメージを引き上げることができます。それは、ザーカイの言葉によく表れています。「主よ、私の財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」。これが正常なザーカイのセルフイメージです。素晴らしいですね。でも、悪魔に騙されて人生のつまずきから不信仰に陥ると、際限なくセルフイメージを下げてしまいます。そうなると、自力ではどうしようもなくなります。だから、イエス様は、失われたものを捜して救うために来た」とおっしゃられたのです。イエス様を信じることは、素晴らしいことです。ザーカイがいっぺんに変わることができたように、イエス様の救いは圧倒的なのです。だから、イエス様の元へ急いで行きましょう。(さくま)

 

5月20日(金)

わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。

フィリピ1:9~11

 

パウロが教会員のために祈った祈りが聖書に出てきます。ここを読むと、クリスチャンはどうなればいいのかがわかります。知る力と見抜く力は、愛を豊かにすることに関係があります。この三つが備わってはじめて本当に重要なことを見分けられるようになるのです。人は外見ではわからないのです。その人の言葉が全てを語っているわけではありません。その人自身が聞きたいように聞き、自分に都合よく解釈することが多いのです。初めから人を先入観を持って見ては、重要なことはわかりません。ですから、クリスチャンとしての資質を高めることが肝心なのですが、そのポイントがここにあるわけです。それとともに、キリストの再臨がこの世界の終わりの日であり、また裁きの日となるのですから、その日までに清い者となって、裁きに耐えられるようになりたいのです。それは、聖書に書かれた通りに信仰で実現できます。だから、個人の努力や力には寄らないのです。ただ、イエス様との関係を深めていくだけです。その結果として、聖霊の実を結び(品性をキリストのように変えていただくこと)、義の実を受け(自分ではなくキリストが義としてくださることを信じて、その結果を自分のものとすることです)、その喜びが讃美となって日々の主への感謝となることです。自分の義で神の義を拒み、対抗するような生き方とは対極の生き方です。クリスチャンが目指していることはこれほどシンプルで神様の恵みによっているのです。ただ信じることができるようになる訓練が続いているのです。そのことが十分に理解できなくても、誰かがあなたのために執り成して祈っているはずです。だから、自分の正しさを主張するのではなく、神様が正しくしてくださることを信じる信仰について責任を果たしてください。(さくま)

 

5月21日(土)

不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。ローマ4:5

 

今の時代は、夢を見ることがなかなか難しいことから活気がありません。世代によって経験してきたことがずいぶん違っていますが、どの時代が良いということは言い難いところがあります。それにしても若い世代の人たちが楽しい夢を持てないなら、それはつまらない時代だと言えます。その証拠に、うつが蔓延して国民病だと言われるようになりました。その特効薬がキリスト教の福音だと思います。困ったことに肝心のクリスチャンも落ち込んでいたりすると、福音は教養のある時代こそ理解しえないのだろうかと不思議に思えてきます。今日の聖句を果たしてどうやって読んでいるのだろう、と疑問が湧いてきます。自分が不信心な者であると認めることが恥と思っているのでしょうか。何か良いことをしなければ義と認めていただけないと考えているうちは、福音を理解することはできません。聖書の教えていることは、誰も神様に義と認められるような人はいないと何度も言っています。だから、イエス・キリストを信じるだけで義としていただける救いが用意されたのです。つまり神様が私たちを義とするのです。そのために、否定的な考えはやめなければなりません。自分は正しくないから神様に嫌われている、というような考えは間違っています。神様はあなたを初めから愛しているのです。これ以上の肯定的なことはありません。否定的なことは落ち込みを誘発します。ですから、今日のみ言葉をよく考えて、肯定的な心を作ってください。悪魔の嘘がむなしいものになるでしょう。(さくま)

 

5月22日(日)

だれでも、クリスチャンになると、内側が全く新しくされます。もはや今までと同じ人間ではありません。新しい人生が始まったのです。この新しい出来事はすべて神様から出ています。神様はキリスト・イエスのお働きによって、私たちをご自分のもとに連れ戻してくださいました。そして、この恵みによる神様との和解を、すべての人に勧める特権をも、私たちに与えてくださったのです。

Ⅱコリント5:17~18(リビングバイブル)

 

皆さんは、生まれ変わりたいと思ったことはありますか。実は、イエス様を信じて救われるということは、内側が全く新しくされることなのです。しかも、自分の力ではなく、神様の御力だけで正しい者に変えられるのです。それは、過去に縛られずに自由になり、新しい人生が始まることを意味しているのです。それなのに、ちっとも変わっていないとしたら、何かが間違っていることになります。一番考えられることは、悪魔に騙されていることです。まことの神様と思ってこの世の神であると豪語する悪魔を拝んでいたらどうなるでしょう。悲惨な結果しかありません。どうして、そうなるかといえば、神様のやり方に任せることができないからです。自分の考えで自分が正しいと思う通りにやろうとするので、結果的に神様に反抗してしまうことになります。これはまずいですね。それから、古い考え方を捨てないこともあります。否定的な言葉を言っても良いと思っていて、考えずに否定的な思いを自由にさせていると、その影響が現実に現れてきます。これは嫌ですね。ですからそうならないために、神様に愛されていることを絶えず、心の中で喜んでください。聖霊が内側にいてキリストに似た者に変えてくださるということを信じることです。「私は神様に愛されている」といつでも肯定的に考えるのです。そうすれば、本当に変えられている自分に気がつくでしょう。これがどれほど大きな恵みであるかわかるので、もう黙っていられません。神様と和解したのでいつでも主の愛を心に満たすことができるのです。このことをあなたは誰かに話すでしょう。多くの人が知らないことをあなたは知っているのです。素晴らしい特権です。主に感謝しましょう。(さくま)

 

5月23日(月)

キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。

コロサイ3:15

 

毎朝、どのような気持ちで起き上がるでしょうか。布団から慌てて出る前に、ちょっとの時間でも神様のことを考えてみましょう。そして、今日が良い日であることを感謝してみるのです。できれば、自分がいかに恵まれているか具体的にあげて感謝してみましょう。神様が自分のために良いことをしてくださることを感謝しましょう。そして、神様に期待し、心が良い状態になっていることを確かめてから起き上がるのです。神様は、イエス様を通して愛を示されました。そして、平和を実現してくださったのです。この世の平和ではありません。神様との間の平和です。ですから、1日が始まる一番初めに今日も主に愛され、平和であることを確かめるのです。その効果は大きいはずです。ぜひ試して習慣としましょう。(さくま)

 

5月24日(火)

銀から不純物を除け。そうすれば細工人は器を作ることができる。

箴言25:4

 

この銀はあなたの心です。心の中の不純物を除け、という命令です。不純物が何かは皆さんが考えてください。例えば、心配の種とか、神様よりも大切にしているものとか、自分の欲とか、神様を信じることを妨げているもののことです。細工人は神様です。神様はあなたを変えようとしているのです。神様が望むように最高傑作を作ろうとされています。しかし、あなたが不純物を除こうとしないのなら、最高の器を作ることができないのです。純粋な銀になりましょう。心の不思議です。余計なものを心に置かないことです。あなたは神様の御手で最高傑作の器に仕上がることになっているのです。(さくま)

 

5月25日(水)

神の国は言葉ではなく力にあるのですから。

Ⅰコリント4:20

 

つまり、あなたの信仰は力を伴っているという事です。自分には何もなかったとしても、困難を乗り越え、敵を蹴散らし、人の不可能を可能にし、神様の圧倒的な愛に満たされる事ができるのです。自分の人生に神様がはっきりと現れるわけです。もちろん、安っぽい奇跡物語を期待しているのなら残念な結果になるでしょうが、神様が自分のために最善をなさると信じているのなら、何をするか、何を考えるか、何を言うか、何をしないか、それらは自然に自分がしているでしょう。普段なら決してできないことを考えることもなくやってのけるのです。そして、神様のみ言を聞くことだってあるのです。また、がっかりすることがあっても、慰め主が遣わされているのですから大丈夫です。神様の支配の中に入れば、安心です。それは、ただ、イエス様を信じることから始まります。そして、信じ続けることです。言葉では立派なことを言えますが、それだけならむなしいものです。でも、信仰は神様の力を伴うのですから、ワクワクしてくるはずです。それから正直に生きるのは、信じることがたやすくなるからです。ですから、自分を正当化するために難しく考えないことです。ありのままで救われるのですから、神様の支配に服して神の国に生きましょう。(さくま)

 

5月26日(木)

あなたに望みをおき、無垢でまっすぐなら そのことが私を守ってくれるでしょう。

詩篇25:21

 

人間は複雑に考えるので、困ることが多い。信仰を持っても、それまでの生き方を引きづることも珍しくないので信仰が複雑になる。そのために、信仰が力のないものになるならなんとかしなけばならない。良い教えが絶対でないことは、律法を守ったファリサイ人をみればすぐにわかる。律法を与えたイエス・キリストが人となって現れた時、ファリサイ人たちは律法のことでイエスを憎んだ。イエスが律法を破っていると思ったのだ。しまいにはイエスを殺してしまったのだから人間の良い教えが絶対的ではないことを証明している。もちろん律法は神が与えた戒めなので、絶対的に正しい。しかし、それを一旦人間の手に渡すとこ心から守ることができないので、自分に都合の良いように解釈して自己正当化してしまうのだ。このように信仰者が律法主義になるとイエス・キリストと対立することになるのだ。このような愚かなことを避けるには、今日のみ言葉の通りに自分の功績に望みをおかずに、主に望みを置くことと、信仰が主に対して無垢である事、いわゆるまっすぐな信仰を持つ事なのだ。人間は賢いので、神の事すら賢く考えようとするところが危険をはらむ事になるのだ。そうではなく、神様に救われ、愛され、恵まれ、感謝する事ばかりだと実際に心のうちに実感する事だ。神に対して無垢であろうとする事は正しい。そうした事が、自分を守る事になると聖書は教えている。(サクマ)

 

5月27日(金)

主に自らをゆだねよ 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

詩篇37:4

 

今日の聖句を理解するには、その前の節も知る必要があります。「主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。」(3節)とあります。1、2節は、信仰者が身近にいる人たちが悪人であることでイライラと心を動揺させないように戒め、悪人の末路がいかにはかないものであるかを教えています。しかし、実際には避けることのできない人間関係で悩む人は少なくありません。その時に、どう対処すればよいのか3節で教えているのです。こうして、信仰者は神様によって信仰を育てていただきます。実地訓練を受けているわけです。み言葉の通りにする人は、やがて主のお約束が真実であることに気がつきます。そこで、いよいよ4節に移ります。ここまでくると、主に自分自身を全くゆだねるということの方が良いことを体験から理解していますから、それほど難しくありません。「主はあなたの心の願いをかなえてくださる」という約束も本当です。ただ、ここで言われている「心の願い」は、あなたが思っていたこととは違っているかもしれません。たとえば、あなたが何かしたいとか、こうなりたい、とか自分でやり遂げたいというようなこととは違っているのです。なぜなら、主に自らをゆだねているからです。その意味がわかれば、主がどうやって信仰者を導こうとしているか見えてくると思います。(佐久間)

 

5月28日(土)

わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。

エレミヤ29:11

 

将来のことを考えて楽しくなるのなら良いですが、反対に不安に心が暗くなるのでしたら今日のみ言葉を覚えましょう。人生で悩みや試練は誰にでもやってきますが、よく見ればそのことを通して人間として成長していることに気がつくでしょう。もちろん、背を向けて逃げ出せばそれまでです。それ以上の成長は望めません。ですから、人生で逃げ出すことほど損なことはないのです。神様は、あなたのためにちゃんと平和の計画を立てておられるのです。大変な目にあえば誰でも恐れて、臆病になります。しかし、そのままでは不平不満の人生になってしまいます。ですから、神様を信頼して「主は私のために将来と希望を与えるご計画を立てられている」と言葉に出して言ってみましょう。そして立ち向かうのです。そうすれば本当に主の良いご計画が始まるでしょう。何もしないで待っていても何も変わりません。気持ちが弱くなる前に、信仰を発揮してみるのです。そうすれば、いろいろなことが備えられていたと驚くでしょう。(さくま)

 

5月29日(日)

わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。

フィリピ3:3b

 

クリスチャンとは何かと言われた時に、このみ言葉は何かを語っています。礼拝とは何かキリスト教は昔から考えてきました。しかし、これがそれだと言える形式は教団とか教派、あるいはカトリックやプロテスタント、正教などの違いで異なっているのです。しかも、現代では今日的な新しい形式が次々に現れています。それらは、初代教会とは随分異なったものです。でも、「神の霊によって礼拝し」ていればそれはみ言葉に一致します。形式よりも大切なことです。そして、昔から教会が無くて一人で礼拝を守っていた人たちがいました。この礼拝が主に受け入れられたことは間違いまりませんが、神の霊によって礼拝していたことが良かったわけです。次に、「キリスト・イエスを誇りとし」ている生き方は明白なのです。この世と妥協していないからです。キリストに焦点を当て、み言葉を心に蓄え、そのみ言葉を瞑想しているので、キリストの心に近づくことができます。心が変わることがどんなにすごいことか考えてください。さらに、正しい生き方を知っています。それは、「肉(自分の力)に頼らない」で、主に信頼して委ねている生き方です。この三つができれば、クリスチャンとしてのダイナミックな歩みができます。まずはここを目指してみましょう。(さくま)

 

5月30日(月)

木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。

マタイ12:33

 

これはイエス様の教えです。ですから私たちのこととして考えることができます。良い実を結ぶ人生になりたいと思うことは正しいのです。では、どうすれば良いのか。それは、あなたが何を考えるかで実が決まるということです。良いことを考えれば、良い実が結び、悪いことを考えていれば、悪い実が結ぶのです。そこで、自分は何を考えているか、何を心に溜めているか点検してみましょう。あなたが友達になりたいと思う人は、見ていて分かるのです。考えていることが言動に表れてくるからです。これは意外と気づいていないことで、あなたが何を考えているか注意していないと自然とそれが外に出てくるのです。人から良く思われたいと願う人がいますが、そのために随分苦労しているはずです。でも、心の中に何を溜めているかの方が重要です。つまり、良いことを考えるようになれば、自ずとそれは良い実を結び、心の中で考えた通りの人になるのです。(さくま)

 

5月31日(火)

わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。

Ⅰテサロニケ5:8

 

 

人はの目標を持つと強いのです。「信仰と愛を胸当てとして着け」というのは、心を信仰と愛で満たしておきなさい、ということです。「救いの希望を兜としてかぶり」とは、救いの希望をいつも考えていなさいということです。自分の心と思考が実に重要なのです。信仰と愛を心に満たしておけば、主への感謝がわいてきます。非常に良い心の状況ができますので、悪魔は心を攻撃できません。人は絶えず何かを考えているものですが、その内容がその人の状態を決めます。いつでも否定的なことを考えないではいられない状態の人は、「救いの希望」の意味を考えると良いのです。底なし沼に落ちた絶望的な人のようであった自分が神様の御手で救い出され、安全なキリストという岩の上に置かれている(詩篇40篇参照)と考えるのです。キリストが自分の救い主になってくださったのですから何も心配する必要がありません。ただ、信頼するだけです。それで、人生を好転させられるのです。しかし、悪魔はそのことを知っているので心と考えを攻撃するのです。主はそのために武具を与えました。つまり霊の戦いは思いと思考への戦いで、そのための対策を主は教えておられるのです。(さくま)