2017年10月ディボーション

10月1日(日)

わたしがより頼むのは自分の弓ではありません。自分の剣によって勝利を得ようともしていません。我らを敵に勝たせ、我らを憎むものを恥に落とすのは、あなたです。我らは絶えることなく神を賛美し、とこしえに、御名に感謝をささげます。

詩篇44:7~9

 

詩篇はいつでもどう祈れば良いか教えてくれます。自力に頼る義は旧約聖書でも放棄されています。それは、「神を畏れる」という言い方でも、「神を信じる信仰の力で義となる」と表現しても同じです。罪の性質は自己中心なので自分の思い通りにことを運ぼうとしますが、相手がいればそれはうまく行くとは限りません。ましてやそれが敵であれば、身の危険すら覚悟しなければなりません。その時に、勝利する秘訣が今日の聖句です。私たちが戦っても無傷ですむことはありません。だからクリスチャンは、いたずらに自分の力でなんとか勝利しようとしても簡単には行きません。その争いの呪縛から一刻も早く逃れなければ、苦しみが深まるばかりです。そのために、自分で戦うことを放棄します。そして、主が代わりに戦ってくださり、私たちに勝利を与えてくださると信仰の祈りをするのです。うまく祈れない人は、この聖句を自分の祈りとしても良いのです。そうすれば、讃美が持つ力も知ることになります。そして、背後で働く悪魔も退散することになるのです。(佐久間)

 

10月2日(月)

柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。

箴言15:1

 

人間関係は難しいと思うことは人の常です。自分だけが他人とうまくやれないということではありません。人間には人と比べたり、競ったりする習性があります。そこで、自分に自信がないと過剰に反応しやすくなります。それで、意識過剰になれば、いつ感情的になって失敗するかわからなくなります。もし、うまくいっていると思って油断していると、不意を突かれて自分の心を刺激するひどい言葉を浴びせられたりして一気に感情が高ぶることだってあるのです。自分を抑制できればいいのですが、もっと役立つことがあって、それが今日の聖句なのです。自分を守るためにも感情が爆発しそうな時こそ、柔らかな答えを口に出してみるのです。これは相手が怒ってしまった時にも有効です。スピード違反を取り締まる警察官もこれを守って成功しています。私たちこそ、御言葉を守って穏やかに暮らしたいものです。(佐久間)

 

10月3日(火)

また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。

ヨハネの黙示録21:5~7

 

すべてには終わりがある。始まりはあまりにも古い時代のことで、聖書の記録に頼るしか知るすべがない。しかし、聖書は世界で最も読まれ続けている特別な書であり、古代の書かれた当時のまま現代に至った奇跡の書であり、神の啓示である。その預言はことごとく成就し、聖書の信頼性を証明してきた。そして、この世が終わるまでの預言はもうほとんど残っていない。つまり、預言通りに終末の時はクライマックスへと近づいている。そして、聖書は世の終わりだけではなく、その先の未来をも預言しているのだ。人間の救済計画は見事に成功し、最後にサタンと手下の悪霊、それを拝んで罪を重ねてきた悪人たちが火と硫黄の燃える池に投げ込まれる。そうやって、長かったこの歴史が完結する。それが、「事は成就した」と言う神の言葉に現れている。その先に新エルサレムの描写があって、聖徒たちの新しい都での生活が始まることを預言している。そこに、あなたの姿もあることをキリストは実現しようとされているのだ。(サクマ)

 

10月4日(水)

ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。

Ⅰコリント15:23、24

 

キリストは墓から復活しました。この事実が意味する事はとても大きいのです。すでに、これからどうなるか世の終わりまで計画され決まっています。そして、キリストがもし復活することがなければ、この人類救済計画はそこで破綻したのです。アダムが罪を犯し人間に死をもたらし、それで人類に罪が入り込み全ての人が滅びることになっていたのですが、キリストはそれを復活によって変えたのです。キリストを信じる信仰はこの復活の命にあずからせ、新しい人に生まれ変わらせることができるようになったのです。信じるだけなので、悪魔はその信じることを揺るがし、攻撃して来ます。そうやって、人間が救われることを妨げているのです。しかし、キリストの救いはそほど脆い者ではありません。なぜなら、キリストと信じる者の間には聖霊によって愛の関係が実現しているからです。ただ、信じると頑張ってもどうなるかわかりませんが、キリストの愛に応えて愛している信仰者は滅ぼすことができないのです。キリストの再臨の時に、たとえ死んでいても復活し、彼らは天に帰って行くのです。(佐久間)

 

10月5日(木)

人の言うことをいちいち気にするな。そうすれば、僕があなたを呪っても、聞き流していられる。あなた自身も何度となく他人を呪ったことを、あなたはの心はよく知っているはずだ。

コヘレト7:21、22

 

本当の自信とはなんだろう。それは、人の言う悪口や陰口をいちいち気にしないことだろう。確かにそれは難しいことだが、できないことでもない。もちろん、誰でもほめて欲しいが決して批判はされたくないものだ。しかし、テレビを見ても悪い批判のオンパレードだ。誰かをほめても面白くないが、誰かを悪く批判することは面白いと思っているのだ。それが、どんなに害があるかは考えてもみない。そのような世の中だからこそ、無責任な悪い批判や悪口には付き合う必要はない。ただ良い批判は謙虚に受け止めることも大切で、それができれば成長することができる。聖書は「呪い」と言う強い言葉を使っている。それは、人間の罪深さから出ているものだ。それだけに、自分が罪人であることを知っている者は、他人を裁くことができないことも知っているのだ。今日の教訓は、「人の言うことをいちいち気にするな」ということだ。(サクマ)

 

10月6日(金)

あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

マタイ6:6

 

これは、偽善者が人に見られる所で好んで祈り、自分の信心深さを他人に感心してもらおうとすることですでに報いを受けているという話しをキリストがなさりました。その後に、あなたはがたはそうしてはいけない、そうではなく、このように祈るのだ、とこの箇所に続くのです。信心深く思われようと偽善者になってはいけない、という戒めが先にあるのですが、今日の箇所は、場所というよりは、自分の心の中の奥まった部屋に入りなさい、と言われたように思います。そこには、三位一体の神がおられ、その神に祈るように言われていると理解できます。それは、とても深い祈りです。そして、祈る時には、父なる神に祈るように神の子として祈るのだ、ということです。ここでも、とても近い関係が出てきます。そこでの祈りは誰にも見られることはありません。そして、あなたに内住する父なる神は、あなたに霊的に良いことをしてくださるのです。それはとても大切なことなのです。試してみてはいかがでしょう。イエスの教えには真理がありますから、あなたの信仰に光が与えられるでしょう。(佐久間)

 

10月7日(土)

惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めた通りにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。

Ⅱコリント9:6、7

 

神様との関係はとても個人的なものです。罪と死と悪魔の奴隷であった身を主の犠牲を伴う愛の力で救い、聖霊の法則でそれらの法則から解放されたのです。それは、実に自由を得るために召し出されたからです。そのことがわかっているので、クリスチャンは主への献身が深い愛から生じているのです。そこで、聖書の教えにも忠実になります。誰かと比べる必要はありませんから、安心して、主にお仕えすることができます。それは伝道でも、奉仕でも、献金でも、日々の暮らしでも全て同じです。何事も人に見られるためにするのではなく、主と自分の間のことです。もちろん、強制されるようなことではありません。自由な自発の献げものであるべきです。そのために、これらは信仰によるのです。自分の心で決めた通りにするように指示があります。しかも、義務感からではない、喜んで与える人となることに意味があります。豊かに蒔けば蒔くほど、収穫も豊かになるのです。クリスチャンは経験的にこのことを知ることができます。(さくま)

 

10月8日(日)

あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

ヨハネ14:1

 

人間は自分の考えがいつも正しいと思いたい傾向があります。そして、しらずしらずのうちに周りの人たちを自分の思い通りにコントロールしようとするのです。それは、その人にとって正しい事を見つけたと思った時に強く現れるのです。ですから、強烈なコントロールになるわけです。しかし、相手も黙ってコントロールされるわけではありませんから、ぶつかり合うことになります。それで人間関係が壊れてしまうのです。そのような中で悩みが生じ、時には自分の自信まで打ちのめされてしまうことがあります。ですから、人をコントロールしてはいけないのです。このように、人間関係にはいつでも危険が潜んでいますから、心を騒がせることが起こります。そのような時には、感情に身を任せていては自分も相手も傷つけてしまい、後悔しか残りません。そこで、今日の聖句を思い出してください。これは主の命令です。自分の力に頼らないことです。神を信じ、イエスを信じることです。そうすれば最善の結果が待っています。(佐久間)

 

10月9日(月)

あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」と言うことばを聞く。

イザヤ30:21

 

私たちは時に道を求めて悩むことがあります。どうすれば良いのかわからない時です。しかし、聖書を読むと、クリスチャンの進むべき道は主がご存知で、決してどんな道でも良いというわけではないのです。信仰を持ったものでなければわからない醍醐味でもあります。牧師として今までに辿ってきた道を振り返ると、実に神様の備えた道であったと思えます。とても良い道でした。数年ごとに転勤してあちらこちへと行きましたが楽しい思い出です。必要な時に神様は必ず道を示されるのです。教団からカウンセラーの講座を受講しないかと案内が送られてきた時も、ちょうど勉強するタイミングだったのだと思います。在任中にそのようなお誘いはその一回だけでした。それがきっかで、博士課程の論文にもそれが役にたちましたし、それがあったので、大学院の教授にもなりました。自分で思った通りではないこともありますが、神様には間違いがないので、信頼して「これが道だ。これに歩め」との言葉を聞くことです。私にはそのようなことが無いと思っている人は、そもそも聞こうとしていないかもしれませんので、注意深く祈ってみる事をお勧めいたします。主は、あなたのこともちゃんと心配してくださるお方なのです。(さくま)

 

10月10日(火)

高い天には、わたしを弁護してくださる方がある。わたしのために執り成す方、わたしの友、神を仰いでわたしの目は涙を流す。

16:19、20

 

頑張っているのに、まるで空回りしている感じがして上手くいかないことがあります。いつか幸運が降りてきて自分の番になる、と期待し続けていても何も変わらないのです。あるいは新しい年が来たら今度こそと言い続けて、一向に幸運がやってくるわけではなく何も報われないと感じている人は決して少なくありません。「神様は一体何をしているのだろうか、私がこんなにも祈っているのに」と、つい愚痴が出ることがあるかもしれません。しかし、それは自分の見方が間違っていたり、誤った選択をし続けていたり、勇気を出して一歩踏み出さなかっただけかもしれないのです。なぜなら、聖書にははっきりと、あなたを弁護してくださる方が天にいると書いてあるからです。どんな時にも、あなたを応援していて、下を向いている時には「ファイト」と声をかけてくださる方がいるのです。もし、自分の弱さが出てしまい、何か失敗したとしても、あなたのために天で執り成していてくださる方がいます。「この人は私の大切な人なんです。いつだって頑張って来たのです。ただ、今は上手くいかなくて落ち込んでいるだけです。どうか、この人に助けと祝福を与えてください」と、イエス様はあなたのことを弁護し、あなたに最大の恵みを与え続けているのです。だから、元気を出しましょう。(さくま)

 

10月11日(水)

彼らは私の足をねらって網を仕掛けました。私の魂は、うなだれています。彼らは私の前に穴を掘りました。そして自分で、その中に落ちました。神よ。私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。

詩篇57:6、7

 

悪いことをするのでもなく、ただ真面目に生きていても、どういうわけか苦しめる者が現れることがあります。そうなると落ち込むことになりますが、神の民に害を加えようとした敵は墓穴を掘って自滅することになっています。神様は私たちが苦しめられるのを黙って見ているような方では無いからです。神様が私を助けてくださったとはっきりわかる方法で敵を退けてくださいます。そのことを見て私たちは大いに神様を讃美するのです。もちろん、このような非常事態に陥る時には、信仰が試されています。揺るぎない信仰が求められているのです。辛ければ辛いほど、主を信じて、揺るぎない心で主の助けを待ちます。その結果は、詩篇記者と同じように讃美が喜びと共に溢れてくることになるでしょう。(さくま)

 

10月12日(木)

彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を讃美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリヤ人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人の他に、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

ルカ17:14~19

 

この話しは重い皮膚病を患っている十人の人を癒した物語だ。イエスの癒しは、実に色々な方法を使われている。今回は、彼らが「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言ったことから始まっている。イエスは、「祭司のところへ行って、体を見せなさい」と言われた。そこで、彼らが、そこへ行く途中で奇跡が起き、全員癒されたのだ。さて、問題はここからだ。イエスに願って、その願いがかなった時、その後でどうするかという問題だ。九人はそのまま祭司のもとへ向かったようだ。それは、律法を守ることでもあった(レビ記13章参照)。しかし、この中の一人は、急いでイエスのもとに戻って来たのだ。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した、とある。ひれ伏すというのは礼拝行為だ。これがイエスに願う者が忘れてはいけないことなのだ。彼は肉体の命が癒されがもう一つの命はそのままだった。それは霊の命だ。イエスは戻って来たこの人に、「あなたの信仰があなたを救った」と言われた。これが、霊の命を癒していただいたことを意味していたのだ。自分の中の弱さや癒されなければどうしようもない自分の問題をイエスは憐れんで癒すことができる。問題は、ここでもイエスを信じて恵みを受ける者と、自分の力で律法を守ろうとする者とに分かれてしまうことだ。私たちは、なんとイエスに感謝が少ない者だろう。祈った分、感謝が生まれることを願わずにはいられない。(サクマ)

 

10月13日(金)

そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」

ヘブル13:6

 

私たちが真面目に生きていても、自分に敵対する人と出会うことがあります。学校や職場であれば、最悪です。何かの組織であっても同じです。嫌な人から遠ざかることができればいいのですが、一緒に働かなければならないとなると穏やかではいられません。ましてや、何か感情的ないさかいでもあれば、事態は悪化するだけです。そこで、相手がしたたかだと負けてしまうことだってあるのです。それに、感情的になれば、相手の方が有利になってしまうので厄介です。さて、クリスチャンはこうした時にどうするのでしょうか。ヒューマニズムで考えれば、自分が悪かったと謝って自分だけが我慢すればいいと考えがちですが、それでは劣勢に立たされてしまい、理不尽なことになってますます苦しむことになります。それなら、いっそ自分の問題から手を離してしまい、主にお願いして、その場から逃れてもいいのです。その時大切なのは、自分の責任だと自分を責めないことです。そして、苦しんでいた時には人間を恐れていたことに気がつくといいのです。それから、聖書に書かれた通りに、確信を持つことです。今日の聖句はそのことを教えています。あなたは、自力で戦えば苦戦して悩むでしょうが、信仰で解決をはかれば、この聖句の通りになります。だから、自分で戦うのはいいかげんやめるべきです。自分ではなく、主が戦うからです。あなたを助けるお方は神様なのです。(さくま)

 

10月14日(土)

ダニエルよ、終わりの時が来るまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封じておきなさい。多くの者が動揺するであろう。そして、知識は増す。

ダニエル12:4

 

T神大のクラスで生徒に厳しく鍛える有名なF先生がいらした。そのクラスは、初めに緊張を強いられる時間があった。出席をとるときに、意地悪い(当時はそう思ったが実際には有用な)質問をするのが常だった。もちろん、聖書に関する質問で、おかしな答えをしようものなら、徹底的に追及されるので、男子でも泣き出す人がいた。その日、私に質問したのは、「旧約聖書で好きな預言者は誰か」というものだった。とっさに得意な預言者と考えて、なんとダニエルと答えてしまった。実際に最も尊敬して憧れている預言者だった。そこで、先生は「ダニエルとは珍しい」とおっしゃって、「それでは、ダニエル書には復活預言が書かれているかどうか。書かれているとしたら、何章何節か」と聞かれた。私が得意なのは、11章までで、12章で覚えているのは、この聖句だけだった。それで、今でもこの時のことを覚えている。聖書は中途半端に学ぶべきではない。どこに何が書いてあるか覚えるほどに聖書を読むことができたら幸いだ。(サクマ)

 

10月15日(日)

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。

ローマ15:13

 

私たちは誰かのために心配し、その人の幸福を心から願って、私たちができる最良のこととして祈ることがあります。私たちには力が無くても主は全能のお方で私たちにとって何が一番良いことであるか知っていおられるのです。ですから主に祈ることは私たちにできる最高のことなのです。では、どうやって祈ればいいかと考えてみましょう。良い祈りとは今日の聖句のような祈りだと思います。第一に神様は私たちの希望なのです。希望があれば困難に打ち勝てます。そして第二に私たちには信仰があたえられています。信仰は誰にとっても平等です。個人の努力とか才能とか言われると差が出てきますが、信仰は子供でも持つことができるものなのです。ですから、その「信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし」と祈れば、たとえ相手の状況が最悪でも自体を変えることができるのです。そして、失望して弱っている人にも「聖霊の力によって望みにあふれさせてください」と祈ればいいのです。苦しんだり悩んだりしている人に焦点を当てるよりも、天の父や主イエス・キリストあるいは聖霊に心を向けさせる方が落ち込んだ気持ちを変えることができ、災いをも感謝できるようになるのです。聖書から祈りを学ぶことは実用的で自分だけでなく、誰かを助けることもできます。そして祈りの奇跡を期待できます。(さくま)

 

10月16日(月)

わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。

詩篇32:8

 

人生では時に迷い道を求める時がある。決断してこの道に進もうと決めることは誰にとってもそれほどたやすいことではない。迷った挙句に踏ん切りがつかずに、一歩踏み出すことができない時だってあるのだ。クリスチャンなら神に道を求めて祈るが、答えがわからないことだってあるだろう。それでも、祈ることは大切だ。私たちが悩むのは、後悔したくないからだ。しかし、私が長く生きて振り返った時につくづく思うのは、今日のみ言葉の通りだったと言えることだ。仕事を辞めて牧師になることを決めた時も、自分で選んだ神学大学であったが、他の神学校へ転校するように好条件を与えられたこともあったし、フィリッピンへ留学する時も急であったので準備もなく行ったし、アメリカで牧師をすることも自分の計画にはなく突然であったし、教団を辞めて単立教会を始めたのも、すべて主が「行くべき道を教えよう」と私に目を留めて、導いてくださったからできたことなのだ。おかげで、5年ぐらい同じ場所にいるとどこかへ引っ越したくなる習性がついたことはちょっと困るが、これからも主が悟りを与えて、行くべき道を教えてくださることは間違いない。あなたがもし道を求めているのなら、今日の御言葉を信じよう。(サクマ)

 

10月17日(火)

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

ヨハネ14:27

 

これは、イエス様を信じるあなたへの約束です。だから、クリスチャンは信仰を発揮すれば、いつでも平安の中にいることができます。いつでもイエス様を信じると大丈夫だと思えます。事実そうなのです。この世では、うまく行ったと大喜びしていても、次の瞬間絶望に突き落とされることだってあるのです。感情だけに頼るとそれだけでも不安定であることがわかるでしょう。人は心変わりするものですから、あてになりません。その点、信仰を持っていると神様は変わらない岩のようなお方であると知ることができます。どんな時でも主を頼ることができ、大変な時には主のもとに隠れることすらできます。危機に遭遇すれば、御翼で覆ってくださり、安全に守ってくださいます。たとえ自分の周りで嵐が吹き荒れていても、イエス様を信じているなら平安の中にいることができるのです。自分の力に頼る者は、心を騒がせ、恐れに震えることになります。しかし、イエス様を信じる者には平安が与えられるのです。これは本当です。だから、あなたの人生はどんな時でも平安でいられるのです。ハレルヤ。(さくま)

 

10月18日(水)

キリストは、わたしたちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された”霊”を信仰によって受けるためでした。

ガラテヤ3:13、14

 

聖霊を受けることは、このようにガラテヤ書に書かれていました。これは、約束にもとずくものなのです。しかも、信仰によって受けるのです。決して難しいものではありません。イエス・キリストを信じることは誰にでもできることです。もっとも信じないと言う人もいますから、そういう意味では誰でもとは言えないのかもしれませんが。救いというのはハードルは低いのです。何か人間の力で立派に聖なることを守ったりやり遂げたらとか実績を根拠に救うというものではないからです。だから、信仰によって、と繰り返し聖書に書いてあるのです。それは人間にはなかなか納得のいくものではないようで、クリスチャンになってからも行いの大切さを強調する人もいます。でも、罪人がどんなに努力して聖人になろうとしても無理なのです。だから、呪いという恐ろしい言葉が出てくるのです。その呪いをイエス・キリストが一身に受けて十字架で死んで、呪い問題を完全に解決してくださったので救われました。つまり、私たちがやりたくてもできなかった大変なことを全部イエス・キリストがやってくださったのです。それで、アブラハムに与えられた祝福が霊的に子孫にしていただいた、あなたのもとへも来たのです。さらに、新しく生まれるために神の息である聖霊が与えられると約束され、それも信仰で受けることができるようになったのです。聖霊は愛なので、愛の律法と矛盾しないのです。その聖霊を求めて聖霊のバプテスマを受けることは大切なことです。聖書で確かめ、祈り続け、信仰で受け取りましょう。(佐久間)

 

10月19日(木)

あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

出エジプト20:3

 

時間は休むことを知らない。何もしなくても時間は過ぎて行く。神を知らないと言い、わたしには必要ない、わたしは神を信じていないから、と言う人間は、その間にも時間が刻々と過ぎて行くことを理解していない。神がいないければ、人間は何をするかわからない、自堕落にもなるし、おそらく自分が生まれてきた意味も知らずに時間を浪費することになる。ところが、あなたはそうではない。なぜか? 神があなたを選んだからだ。それは、今日の御言葉をあなたに向かって神が語っているからだ。そこで、何度も読んでこの言葉を魂にまで届かせる必要がある。耳などで聞いてはいけない。あなたが霊的な存在であることを覚えよ。御言葉も霊なのだ。さて、世に多くの神々がいると言われても、あなたにとっては、この語られた神だけが個人的な神なのだ。大切なことは、この神があなたを救った事実だ。それは実に驚くべきことだ。あなたはこの世の人々を見てきたから、自分もその中の一人であることを知っている。そして、この世には救いを必要とする人がなんと多いことか。人間的にはあなたより先に救うべき人たちが数えきれないだけいるだろう。それなのに、神はあなたを救った。それも、ただ恵みであなたを憐れまれたのだ。そして、あなたの神は情熱を傾けてあなたを永遠の御国へと導いている。事実、あなたは誰が自分を救ってくださったか知っているはずだ。そして、今日、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と聞いた。あなたは、これからどうやって生きて行くのだろう。幸いなことに、あなたの前を歩んでいる人がただ一人いる。その方について行くことだ。その方の名前は、イエスという。(サクマ)

 

10月20日(金)

あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

ローマ12:2

 

クリスチャンにとって大切なことは、生まれたままの古い自分から新しく生まれた神の子へと変わることです。この世に倣らうことを禁じているのは、益がないだけでなく古い自分を生かすことになるからです。では、どうすれば良いのか、と言えば、聖書は「心を新たにして自分を変えていただき」と書いてありますから、神様に自分を変えていただく必要があります。自分の力で聖なる者になろうとしても無理があるからです。そのために私たちができることは、「心を新たにして」とあるので、神様に「わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」(詩編51:12)と嘆願する必要があります。それから、下の句にあるようにクリスチャンとして知るべきことを身につけるのです。これは、聖書に書かれていることなので、誰でもイエス様を信じる者にはできることなのです。ただ、この世に慣れすぎていると、信仰で生きるということが希薄なので、信仰を正しく理解していないことがあります。例えば、自分の信仰が弱いからダメだと言ったりします。それは、間違いです。私たちに信仰を与えてくださるのはイエス様です。それは、聖書の中で、イエス様が「恐れることはない、ただ信じなさい」とか、「信じる者には何でもできる」と信仰を鼓舞するように励ましてくださっています。ですから、否定的なことを言わずに、ただ主の元へ進み出て願いを告げることです。信仰が足りなければイエス様が信仰を引き上げてくださいます。なんとありがたいことでしょう。(さくま)

 

10月21日(土)

あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。

ゼパニヤ3:17

 

あなたは考えたことがあるだろうか。主がどのようにあなたのことを思ってくださり、実際にあなたのために何をされているかを。今日の聖句はそのことを教えてくれる。あなたが実際にどのように感じているかは知らないが、主は遠く離れてあなたを採点するような神ではない。それどころか、あなたのただ中におられる神なのだ。あなたを救うをことをためらうことはない。何といっても救いの勇士なのだ。主は、あなたのことを喜んでいる。そして、あなたのことを楽しんでいる。主は愛であるから、あなたはこれ以上ないと言うほど愛されている。それは、愛されているものだけが知る安らぎでわかるだろう。主はあなたのことを喜ばれるあまり、高らかに歌い出すのだ。何とあなたは幸せな人なのだろう。主の愛の歌が聞こえたらいいのに。今日は、主に向かってにっこり笑い、感謝を献げようではないか。(サクマ)

 

10月22日(日)

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せにられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」

イザヤ30:15

 

あなたは気が短いと思っているだろうか。感情的になりやすいと反省したことはあるだろうか。神様は、あなたのことを創造したので誰よりもよく知っておられる。その上で、あなたのことを無条件に愛していてくださるのだからありがたい。ただ、感受性が強くて、感情が大きく揺れる傾向があるのなら、主の御言葉に耳を傾けよう。感情的になると言わなくてもいいことを言ってしまうものだ。それは、きっと相手がいることで、その人に感情を爆発させてしまうと、後で後悔することになる。そのうえ、相手が悪かったからと決めつけて自己を正当化してごまかすことになる。これは最悪なパターンで、怒りをコントロールすることを覚えなければ、自分の怒りで人を傷つけることがやめられず、やがて大きな災いを自分にもたらすことになる。神の教える方法は、感情を爆発させる前に主に立ち返って静かにしなさい、と言うものだ。そうすれば、主が働いて救われる。さらに、カチンときたことで感情が怒りモードになるのはあっという間なのだが、実は考える時間が全くないと言うことはない。落ち着いて、主に信頼すれば、あなたは感情をコントロールする力を得ることができるのだ。せっかく信仰をもっているのだから、主のお力で助けていただこう。不要な感情の爆発は、いつまでも自分を苦しませることになるので、主に祈って助けていただくことにしよう。(サクマ)

 

10月23日(月)

知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。

詩篇4:3

 

あなたは自分の価値に気づいているだろうか。クリスチャンになってどんないいことがあったと思っているのだろう。主があなたを聖徒として認めていておられることを理解しているだろうか。実に、あなたは聖徒と呼ばれているのだ。主は、あなたをいつでも特別に扱っておられる。あなたは、もっと主を信頼して、道を切り開くことだってできる。それは、あなたが主を呼ぶと、主はちゃんと耳を傾けて聞いてくださるということだ。そこで、あなたは自分はこうしたいとか、あるいは迷っているので道を教えて欲しいと主に語るだろう。あなた自分の考えに固執している限り道が開かれないことを知るべきだ。しかし、主のお考えに従うことを決めれば、道は開かれる。あなたのために良い道を主は知っておられるので、主を信じよう。聖徒の人生は恵みに満ちているものなのだ。(サクマ)

 

10月24日(火)

安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。

マルコ2:7

 

これはイエス・キリストの言葉です。そして、とても重要なことを教えています。クリスチャンにとって律法ほど厄介なものはありません。守るべきか守らないでも良いのか、さっぱりわからないのです。しかし、自分で考えると律法はやはり守る方がいいだろうと思えます。それでも、パウロの手紙を読めば、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない」(ロマ3:20)と書いているのですから、混乱するのは当たり前です。ところがキリストは、全く違う視点から語られたので驚くのです。「安息日(律法)は、人のために定められた」と言うのですから、私たちのためのものだったのです。それが、律法主義では、人が律法のためにあるという考えに変わっていたので守るべき規則が数多くあり息苦しいものになっていたのです。安息日が信仰者の喜びの日となり、楽しみとなれば、本来の意味が味わえます。しかし、減点方式になって、あれもダメ、これもダメ、となっていけば、安息日のために人が仕える日と変わってしまうのです。これでは、本当の安息日の祝福に出会うことはできません。せっかく主が私たちのために定められた安息日にあずかる約束がまだ続いていることを覚えて、主の祝福を受け損なうことのないようにしたいものです。(佐久間)

 

10月25日(水)

鳥が巣から飛び去るように、人もその置かれたところから移って行く。

箴言27:8

 

別の訳では、「故郷から遠く離れている人は、自分の巣から遠くに迷い出ている鳥のようである。」とあります。どちらも含蓄のある意味が感じられます。古代の中近東では集団の絆が非常に強かったそうです。そこで、その集団から離れてしまった人は失われた無力な人とみなされたのです。今の時代、生まれ故郷で死ぬまで住み続けられる人がどれだけいるのでしょう。逆に、進学や就職で故郷を離れる人は多いのです。新しい土地で、新しい人間関係を一から築くことはやはり大変なことです。心細いだろうし、信頼できる人間関係を懐かしんでは、孤独を感じるかもしれません。一方、今日の聖句のように訳せば、人間の成長や前に向かって進む人生を感じさせます。私は転勤族だったので、引越しばかりしていました。確かに新しい環境に慣れることは大変でしたが、新しい人との出会いや新しい土地での楽しみも多くあったのです。それは、いろいろな価値観を知ったり、文化の多様性を知ることでもあり、その分いやでも人間の幅が広がるのです。また、出て行くだけではなく、時には送り出す方に身を置くこともあります。親しい人がどこかへ移って行くことは淋しいことですが、その人の無事を祈り、成功や発展を願うことも人間にとっては意味のあることなのです。また、人間は必ず死ぬものであることもこのみ言葉は暗に語っているのです。(佐久間)

 

10月26日(木)

実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。

テトス2:11~13

 

これがキリスト教です。人間の知恵が教えたのではありません。神の恵みが教えたのです。それは、「人々に救いをもたらす神の恵み」と書かれていますから、ただの恵みではありません。地獄から天国へと人生を変えさせるような力ある恵みです。その恵みが現れた証拠は、実にクリスチャンに見ることができるのです。その恵みは、不信心と現世的な欲望を捨てさせました。その恵みは、信心深い生活をするように教え、主の再臨を待望するように教えているのです。これらはセットで実現することに意味があります。それは、行いによる義を防ぐためです。清い生活は自分のうちにプライドを持ち続ける人にはできないのです。主が、神と等しいものであることにプライドを持ち続けていれば、十字架の救いはありませんでした。しかし、主の愛は、自分を無にして、僕の身分になり、へりくだられたのです。その結果が十字架でした。これが主の模範です。ですから、私たちも古い自分を捨てること、わかりやすく言えばプライドを捨てることで初めて清い生活が実現できるのです。それを支えているのは祝福に満ちた希望、私たちの愛する偉大なキリストの再臨なのです。(佐久間)

 

10月27日(金)

モーセとアロンは、主が命じられたとおりに行った。ファラオに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。

出エジプト7:6、7

 

四十は苦難と準備をあらわす数字です。モーセはイスラエル人のレビ人の子供として生まれましたが数奇な運命を辿り、エジプトの王族として四十歳まで暮らします。当時のエジプトは文明が開花して学術も文化も想像以上にすすみ、世界で最も栄えた国だったのです。そこで、民を治める帝王学を学ぶことになったのです。それから、神はモーセを荒野で苦難を与え四十年間羊飼いとしました。そこでモーセは忍耐とへりくだりを身につけたのです。そして、時は満ちました。モーセは神の召命を受けて、命がけでエジプトのファラオに語りはじめました。それは、主がモーセを神の代わりとしたからです。さらに、口下手だったモーセに神は兄のアロンをつけます。「アロンはモーセの預言者となる」と書かれていますが、アロンがモーセの言葉を受けて語るようになるという意味です。神は、人を召して使命を与えるお方です。その時にできないと言わないように、その前に準備期間が用意されているのです。日常生活で苦難があっても、それにすら意味があるものです。ですから、これらは自分が忍耐深い信仰の人になり主の御用を成し遂げるためと考えて、祈りと信仰で解決することを目指しましょう。(佐久間)

 

10月28日(土)

牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。

エゼキエル34:12

 

今、どこにいても主はあなたを探しに来ます。どんな信仰状態になっていても、主が羊飼いになられたので、あなたを探し出して養ってくださいます。このエゼキエルの預言は、神こそが良い牧者であることを教えていますが、イスラエルの歴史で神が牧者の役割を王や指導者に委任していたこと、それがうまくいかずに、羊たちは散り散りになったこと、そして、神が再び直接牧者となることの預言です。その成就は、イエスの次の言葉に現れています。「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ10:11)。イエスはこのエゼキエルの預言を成就した真の牧者なのです。ですから、あなたがどんな人生を歩んで来たとしても、それが失敗の人生であろうが、罪に沈んだ人生であろうが、悲しい辛い人生であろうが、希望のない人生あったとしても、必ずイエスが探しに来てくれます。そして、イエスが問題を見事に解決して、あなたを幸せにしてくださいます。あなたは羊なので、羊飼いが必要なのです。しかも、良い羊飼いが必要なのです。そして、イエスこそがあなたの良い羊飼いです。(佐久間)

 

10月29日(日)

「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない。」しかし、わたしたちは、ひるんで滅びるものではなく、信仰によって命を確保する者です。

ヘブライ10:37ー39

 

クリスチャンにとって、忘れてはいけない御言葉です。この世でひるんではいけないのです。主の再臨を信じ続けることは忍耐が必要です。この世の偽りに義理立てする必要はありません。妥協する必要もありません。神の霊に一致することが大切です。救いは、感じではありません。御言葉の通りになったかどうかです。バプテスマを受けて救われると信じたのなら、その人は確かに救われています。しかし、救われた感じがする、というような感情に頼るような救いではないのです。感情などあてにならないからです。聖霊によって、私たちの理性が変わります。以前なら欲望のままに判断していたことが、聖霊の働きによって判断する理性が変わります。この世におもねることはありません。私たちの歩む道は、永遠の命へと続く道です。その道はイエス・キリストです。その道を歩めるのは、信仰のみです。主があなたを助けて、信じることができるようにしてくださいます。ですから、心配はありません。ただ、否定的なことを言って、信仰を弱らせるようなことは避けましょう。(佐久間)

 

10月30日(月)

しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安らかである。

箴言1:33

 

毎日が平和のうちに過ごせることほどありがたいことはありません。安全が当たり前だということは幻想です。毎日たくさんの人々が死んでいます。それも想像もしないようないろいろな理由によってです。台風のような災害に遭う人もいます。病気も嫌ですし、人間関係で争うことも避けたいです。この世でストレスを感じない人はいないでしょうが、それが体や心を蝕むほどになれば深刻です。ですから、今日の聖句は意味が深いのです。人間は罪人であると言われるのは、神に聞き従わないからです。聖書を読めば、イスラエルがまさにその実例です。そこで、神に聞き従う者について検討してみることは意義があります。それは、神が創造した全宇宙を支配している秩序に関係があります。その秩序に従っていれば安全なのです。秩序に逆らえば、当然の結果として報復があるのです。本来、人間は神にかたどって造られました。神は愛です。ですから、神に愛され、神を愛し、幸せに生きるように造られたのです。エデンの園には、禁断の木の実があって食べてはならないと神に言われましたが、人間は神に聞き従わなかったのです。それが、失楽園と繋がり、神から逃走するように、この世をさまよう者となったのです。神に聞き従うことがそんなに難しいことだったのでしょうか。私たちは、主イエス・キリストに救われて、主に聞き従う者としていただいたのです。他のことはともかく、主にだけはいつでも従順でいたいのです。主に忠実であることがどれほど安らかで幸福であるか、私たちは知っているからです。(佐久間)

 

10月31日(火)

御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。

ヘブライ10:10

 

聖書の御言葉を信じることが大切だと思っていると思います。そうであれば、幸いです。なぜなら、今日の御言葉がすごいからです。まず、キリストが十字架に架けられていけにえとなった、と教えられたと思います。そのために、旧約聖書から続いていた犠牲を献げることが終わったのです。なぜなら、キリストより清いいけにえは存在しないからです。だから、キリストが究極のそして私たちを救うことのできる唯一の犠牲だったのです。それが預言通りに成就しましたから、私たちは聖なる者とされたのです。どうですか、すごいことですよね。私たちは聖なる者になるために何か努力をしたり、頑張ったことが無いのにです。そうであれば、私たちが、元気でうまくいっている時だけでなく、何か失敗したり、うまくいかないで落ち込んでいる時にも、私たちの存在は神様を礼拝しているのです。パウロは、それを「生きているいけにえ」と面白く表現しています。皆さんがどのように感じているかということに関係なく、キリストの贖いは完璧だったので、皆さんはすでに聖なる者とされたのです。そのことを感謝して、明るく生きていきたいですね。(さくま)