2017年11月ディボーション

11月1日(水)

あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい。

ヤコブ5:13

 

 

クリスチャンの生活は、シンプルなものです。苦しむようなことが起これば、すぐに祈ればよいのです。そして、喜ぶようなことがあれば、賛美の歌を歌いましょう。神様にいつでも頼ることができることはどんなに素晴らしいことでしょう。喜ぶことも人生です。だから、賛美の多い人生を生きたいですね。人間的になりすぎると、クリスチャンの人生は不安定になり、自分勝手になりやすいのです。聖霊はたとえ内住されても、出しゃばるようなお方ではありません。私たちの自由を尊重され、キリストが勝ち取ってくださった自由を私たちが使って、聖霊に従う時に働かれるのです。そのようになるまで、私たちは、苦しんだり、喜んだりと忙しく生きることになります。聖霊に生きていただけるように願いましょう。そして、心楽しく生きましょう。あなたはすでに救われ、主に祝福されていることを忘れないように。(さくま)

 

11月2日(木)

自分のことについて友人と言い争うのはよいが、他人の秘密を漏らしてはならない。それを聞いた人があなたを恥に落とし、あなたの悪評は去らないであろう。

箴言25:9、10

 

私たちは口が災いのもとであることを知っています。政治家の失言報道を聞いているので、つい言ってはいけないことを言ってしまったために、想像もしていないような大ごとになりひたすら謝罪に追われることになることを知っています。ところが、自分のこととなるとどうでしょうか、つい他人の秘密を漏らしてしまえば、それこそ後からとんでもない事態になることは珍しくないのです。厄介なのは、他人の秘密を漏らしたのは自分なので、言い訳ができません。あなたの評判は著しく悪くなりますから、恥ずかしくてみんなの前に出ていけなくなります。逆に口の固い人は信頼されるのです。言っていいのは、自分のことであって、その場合は言い争いになったとしても、恥に落とされることはありません。しかし、他人の秘密は絶対に誰かに言ってはいけないのです。「あなただけに教えるけど、絶対に誰にも言わないでね」という言葉のむなしさは理解できるでしょう。同じことを言えば、他の人に話してもいいということを自分で今、証明したのですから、あなたはとんでもない災いを自分自身で引き起こしたことになるのです。口が軽い人は、人の秘密を聞かないことです。知らなければ話すこともありません。自分の舌のことも神様にお祈りしなければなりませんね。(さくま)

 

11月3日(金)

主に愛されている者。彼は安らかに、主のそばに住まい、主はいつまでも彼をかばう。彼が主の肩の間に住むかのように。

申命記33:27

 

私たちは大変なことが続いたりすると、不安に苛まれて、否定的な気持ちになりやすくなります。しかし、聖書はそんな不安を吹き飛ばすほど明快にあなたへの神様からの約束を教えてくれます。それが、今日の聖句です。自分のことを神様が本当に愛しておられるか自信のない方もおられるかもしれませんが、あなたが洗礼を受けてクリスチャンであるならな、あなたこそ「主に愛されている者」なのです。あなたがどのように感じているかはあまり関係ありません。聖書に書かれたことは全て契約です。ですから、感情に左右されずに、私は主に愛されていると信じてください。あなたは、主にとって特別な存在です。ですから、あなたは主のそばにいつでもいるのです。主があなたをかばってくださるので、たとえサタンでもかないません。あなたのいる場所が霊的に見えるのなら、どれほど安全で主に愛されているかがわかると思います。聖書がそのように書いてあるからです。ですから、安心して、喜びましょう。すごいことになっていますよ。(さくま)

 

11月4日(土)

万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。

Ⅰペトロ4:7

 

私たちは聖書に書かれたことを知っています。だから、この世が終わることも承知しているのです。そして、それがどのような順番で終わりに近づくのかすら聖書から知ることができるのです。最後に裁きが待っていることも知っています。だからこそ、福音を正しく理解して、信仰に生きようとしているのです。それは、神の愛と恵みに満ちたもので、決して難しいものではありません。むしろ、主の御言葉に従うことが喜びなのです。それで、この世に倣らうことはしません。大切なことは、霊的な教会でのことです。それは、心を込めて愛し合うことです。聖書は、信徒が互いに自分の賜物をもって仕え合うことを教えています。なぜなら、キリストの体だからです。そこで、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい、という勧めにも意味が出てきます。あなたは自分で思っているよりも恵まれているはずです。ですから、主に愛されている存在なのです。キリストがあなたを無条件に愛してくださるように、あなたも愛する者なのです。肉の力で無理して愛することは意味がありません。そのようなことをしなくても、内住のキリストが愛することができるように働いてくださいます。だから、キリストを信頼して感謝していましょう。(佐久間)

 

11月5日(日)

また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

Ⅱコリント5:15

 

私たちは自分のために生きている時は意外と退屈だったり、つまらないと思っていたりします。それで、何か快楽を求めて満たされない心を満たそうとしますが、ただの時間つぶしでしかなかったりします。娯楽の少ない田舎では、パチンコ屋がやたら大きく、いくつもあります。広い駐車場は朝から車で埋まっています。パソコンでゲームをして時間を潰している人も多いのです。自分の一生の時間が定まっているというのに、人生の目的がわからないと無駄遣いしてしまうのです。今日の聖句はクリスチャンが一生懸命考えてみる箇所です。仕事が生き甲斐だと言う人もいるでしょうが、それが人生の目的ではありません。もっとすごいことがあるのです。パウロも仕事をしながら使徒の働きをしていましたから、仕事は尊いものです。しかし、それが人生の目的になるわけではないのです。キリストのために生きるというのはどういうことか、今日は考えてみましょう。(佐久間)

 

11月6日(月)

主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。

詩篇147:3

 

クリスチャンに共通の経験の一つに心の打ち砕かれる経験があります。なぜ、そのようなことが起こるのでしょうか。それは、心に罪を生まれさせてきたからです。自我が強く、自分を絶対化して、自分の意にかなわないと神をも無視することを平気でやってきたし、自己憐憫も貪欲も高慢も嫉妬も恨みも赦せない思いもすべて心で思ったことなのです。主の御心のままに変えていただきたいと願うのですが、その舌の根も乾かないうちから、自分の願望が心を満たしてしまいます。しかも、心が傷つきやすく、高ぶったと思ったら落ち込むといった具合に感情のコントロールもままならないのです。だから、色々な祈りをしているうちに、自分を砕いて欲しいと祈ってしまいます。それで、早速、主が深いお考えで砕くとそれを思いがけないことのように、うろたえて嫌がり、助けて欲しいと祈りますから中途半端に主はやめることになります。そんなことをいつまでも繰り返していても、クリスチャンとしての成長を望むことはできません。そこで、主に「かたくなな心をどうしても砕かねばならないのなら、私が耐えられるように砕いてください」と願うのです。そして、今日の聖句を信じるのです。主の癒しの中にこそ、自分のあるべき姿がきっとあるからです。クリスチャンにとっては、どんなことでも益に変わるものです。辛い思いだけで終わることはありません。(佐久間)

 

11月7日(火)

人はその口の実によって良いものに満ち足りる。人の手の働きはその人に報いを与える。

箴言12:14

 

人生には後悔がつきものだが、それだけで終わればつまらない。今、生きているだけでありがたい。だからこそ、過去の後悔をバネに何かをやり遂げることがきっとできるだろう。後悔するというのは、後悔することを行った時より賢くなって、そんなバカなことは二度としないと悟ることができたということだ。だったら、今できることを考えよう。聖書が教えているのは、その人が何を言っているかでその後の結果が決まるということだ。自分はダメだ、ダメだと否定的に言えば、その後ダメな結果を嫌でも味わうことになる。反対に、過去はどうであろうと、周りの人がなんと言おうと、肯定的になって、自分は大丈夫、自分なら今度こそ成功する、神様に祝福されているのだから良い結果が待っている。そのように肯定的に言っいる人は、否定的な言葉を言わないので、気づけば良いものに満ち足りているだろう。ただ、口先だけで良いことを言うだけなら、何も期待しないほうがいい。自分が本当に肯定的に考えるようになれば、行動がそれを証明するものだ。それが口の実だ。まずは、神様に祈ってみよう。何をすれば良いのか神様が願いを起こし、かつ実現に至らせてくださる。だから、一生懸命に働く。喜んで、願いを実現させるためにどんなに大変でも手の働きをやめることはない。こんな当たり前のことなのに気がついて実行する人は以外にも少ないものだ。あなたは、どうするだろう。誰かが無理だとか、難しいと言えば、すぐにあきらめてしまうだろうか。それとも、そう言われれば言われるほど、大丈夫だ、絶対できる、と確信が湧いてくるだろうか。いつでも、まず自分の働きがあって、そしてそれに報いが付いてくる。だから、あなたの人生は良いものなのだ。(サクマ)

 

11月8日(水)

山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと、あなたを憐れむ主は言われる。

イザヤ54:10

 

私たちの生活はそれほど変わらないはずなのに、それでも何かしら大変なことが起こるものです。それが初めは良いことであると思っていても気づけば最悪の事態に陥っていることだってあるものです。そんな時こそ信仰が試されます。聖書をよく読めばわかることですが、私たちは残念ながら試練や病気や災いに遭うこともあるのです。しかし、大切なことは、そのような最悪と思われるような時でも、主のあなたへの慈しみは変わることがありません。ですから、主の救いは保障されています。あなたを大事に思っておられる主は、あなたのためにきっと悟りを与えられるでしょう。あなたがキリストに似た者へと変えられるために、あえて主はこのような経験を与えたとわかるはずです。あなたは砕かれたぶん、へりくだり、上ばかり見ていたあなたが、今度は謙遜に下を向くと驚くことに、その低い所にキリストがおられるのです。そのことがわかるようになれば、あなたは正常に前進しています。(佐久間)

 

11月9日(木)

親切な言葉は蜜の滴り。魂に甘く、骨を癒す。

箴言16:24

 

私たちが聞きたいのは、親切な言葉です。そうであればなおさら隣人には親切な言葉を語りたいものです。悩みの中にある人がそばにいれば、躊躇せずに、その人に親切な言葉を語りましょう。それは、メールでもLINEでもSNSでもかまいません。できれば、その人の横に座り、直接、親切な言葉をかけることができれば、それが今日の御言葉の通りであることを知ることができるでしょう。大変なことや難しいことはできないかもしれませんが、あなたはその人の気持ちを聞いたり、共感したり、同情できるのです。そして、親切な言葉を蜜の滴りのように、その人に注ぎかけるのです。それが魂にまで届くことをあなたは見ることができます。その人の瞳に変化が起こり、光が戻ることを見て、安心することができるのです。ストレスはカルシウムを消費していくので、悩みの中にある人は、骨を枯らしているのです。しかし、親切な言葉は骨を癒すと聖書は書いているので、真理です。しかもこれは、誰でもできることです。ただ、意識してやっている人はどれほどいるでしょうか。あなたはこれからは親切な言葉を語る人になってください。(佐久間)

 

11月10日(金)

主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。正しい者の悩みは多い。しかし主はそのすべてから彼を救い出される。

詩篇34:18、19

 

クリスチャンになって長い時間が過ぎて行くと、心の砕かれる経験をすることがあります。今までの自信も吹き飛び、思い通りに何もかも行かなくなり、人が心を悩ませるようになるのです。そこで、祈ったり、聖書を読んだりして、なんとかしようと試みるのですが、すぐに解決することはなく、さらに悪化しているように思えてくるのです。とうとう魂が砕かれたと思うようになった頃、その試練も消えて行くことになります。苦難の中にあって、真剣な祈りがなされると、主は彼あるいは彼女を助けます。それは、明確に神でなければできないような救いです。そのことを経験することは意義深いのです。いつしか、自分が変わっていることに気づくかもしれません。パウロが言っていたように、古い人あるいは肉が死んで行く経験をしたのです。そこで、聖霊の恵みによって新しい人が生きるようになります。ですから、試練に遭ったり、悩みで苦しんだり、忍耐してきたことが、クリスチャンには益と働くのです。主がどんな時でも救い出してくださることを信じましょう。(佐久間)

 

11月11日(土)

あなたがたは、あなたがたの神、主の子供である。

申命記14:1

 

聖書を正しく読むと、神様を信じて救われた人は神の子供であることがわかります。別の箇所では、「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」(ローマ8:14)という言い方をしている聖句もあります。さらには、「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです」(ガラテヤ3:26)とも書いてあります。ですから、聖書に書かれたことを信じているのですから、あなたは神の子どもです。それが意味するところは想像以上に大きなことです。ですから、この地上で、堂々と生きていただきたいし、聖なる自信を持って困難も乗り越えていただきたいのです。あなたの祈りが聞かれているのも、あなたが神の子どもだからです。聖霊はあなたを導いておられるので、信仰で従うことです。きっと、喜び多い祝福された人生となります。(佐久間)

 

11月12日(日)

神と人との前に好意と聡明を得よ。心を尽くして主により頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行くところどこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

箴言3:4~6

 

どうすれば、人生がうまく行くのか、成功への道を知りたいのなら、今日の聖句をよく考えて自分のものとすることです。普通の人ならば、自分の目に良いと思うとすぐに行動に移すでしょうが、神の人は、必ず主に祈って聞くのです。慌てて行動する危険を知っているからです。物事がうまく行くかどうかは、主の御心に適っているかどうかで決まるのです。それを無視することもできますが、全ての責任が自分の肩に重くのしかかってくることになります。こんなことぐらい自分で決めていいだろうと思う傾向が人間にはあります。そう考えることもしないで、いつでも自分の考えで行動している人もいますが、それは損なやり方で、クリスチャンには勧められません。私たちは、どこにいてもいつでも主を意識しているのです。決して自分の悟りに頼りません。主に愛される従順な者となって、主に100パーセント依り頼む者なのです。これで、失敗する方がおかしいですよね。だから、主はその人に自由に働くことができるので、その人の歩む人生は安全であり、成功することになっているのです。(佐久間)

 

11月13日(月)

神は、私たちが御怒りに合うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目覚めていても、眠っていても、主とともに生きるためです。ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。

Ⅰテサロニケ5:9-11

 

人生がうまくいっていないと思った時に、不安になったり、心配で心が重くなることがあります。そして、たいていの場合、自分の負い目が神の御怒りを引き起こしたのだと感じてしまいます。そうなると、信仰を発揮しなければいけないのに、自分を責めたり、自分の心を苦しめることばかり思い出してしまいます。こうした時に、クリスチャンはどうやって乗り切るのでしょうか。その答えが今日の聖句です。たとえ、人生のどこかで失敗しても、それで全部がダメだとはなりません。それどころか、人間は失敗するものなのです。それでも、失敗から何かを学ぶことができるので、人生をよりよくすることができるのです。あなたがクリスチャンであれば、いつでも主がともに生きてくださいます。その真理を受け入れるなら、自分が傷ついたことや、人につまづいたことも、また、逆に自分が人を傷つけ、つまづかせたとしても、そこに主もおられたのです。自分のしたことで、罰を受けることもあるでしょうが、それは天国に入ることができるためです。ですから、元気を出しましょう。私たちは失敗した時も悔い改めることによって、主に赦されます。それだから、いつまでもくよくよしていてはいけないのです。主とともに生きることができるのですから、何とかなります。自分の考えでうまくいかなかったなら、主のお考えの通りでよいと心に決めてください。あなたは大いに祝福されるでしょう。だから、顔を上げて、立ち上がりましょう。あなたは主のために活躍することになっているのですから。(佐久間)

 

11月14日(火)

あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。あなたは私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみを知っておられました。

詩篇31:7

 

危険なカルト宗教に多くの若い人が入信しているとニュースが伝えていました。残念に思うのですが、それだけこの世界は悩むことが多いのでしょう。これらの人たちがキリストの救いにあずかることができればどんなに良いかと思わされます。人間の悩みは、その人をむしばみ、心身ともに害を受けるのです。それが最も深刻になると魂も苦しむことになります。魂は人の生きることと関係しているので、生きることがおびやかされているのです。しかも、それほど深刻な時に、一体誰に相談すればいいのでしょう。人間ではどうしようもない問題だったらどうすればいいのでしょう。しかし、詩篇記者は苦しんでいることを神様が知っていたと言います。そして、彼は今、神様の恵みを楽しみ、喜んでいるのです。つまり、あなたがどんなに深刻な問題で悩んだとしても、神様はそのことを正確に理解し、神様の方法で、確実に助け出し、恵みを与え、苦しみを喜びに変えてくださるのです。だから、心配しないでください。ただ、主に祈り、イエス様を信じていてください。あなたの助けはいつでも天からきます。(さくま)

 

11月15日(水)

あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。

ルカ6:35、36

 

クリスチャンの醍醐味は、イエス・キリストの命じられた通りに生きることです。しかし、今日の聖句を読むと、言っていることはわかるが実践は難しいと感じます。実際の場面で、私たちはこの世の人と同じように、損をしないように細心の注意を払っているでしょう。それでも、騙されたり、ひどい目に遭うかもしれません。そうなれば、落ち込んだり、怒ったり、悔しがったりします。しかし、クリスチャンがイエスの御言葉の通りに実践するとたくさんの報いがあるのです。もっともそれは、神の子となれるという意味ですが。では、どのように考えればうまくいくのでしょうか。その答えは下の句に出てきます。神は恩知らずにも悪人にも、情け深いから、あなたも憐れみ深い者となりなさい、というのです。恩知らずなので、当然、恩知らずなことをするのです。悪人は当然悪いことをするのです。それで、怒っていたら愚かです。天の父なる神は彼らにも憐れみ深いのですから、神の子なら当然、憐れみをかけるのです。それは、罪人であった私たちを、御子イエスが憐れまれたので、救っていただいたのと同じことなのです。これからは、怒る前に相手を情け深い心で見直しましょう。(佐久間)

 

11月16日(木)

口の言葉が結ぶ実によって人は良いものに飽き足りる。人は手の働きに応じて報いられる。箴言12:14

 

聖書は良い言葉を語るように何度も促しています。たかが言葉ですがされど言葉なのです。自分が毎日、どんな言葉を語っているか注意してみましょう。愛を語っていれば、愛に満たされる報いがあります。平和を語れば平和が与えられ、人を悪く言うことをやめてその人の良い面を認めて良い言葉を選べば、あなたを悪く言う人はいなくなるでしょう。生活の不安を言えばそうなり、逆に生活が神様に支えられ祝福されていつでも富んでいると感謝の言葉を忘れなければ、その人が生活に困ることがないばかりか豊かに暮らすことができるでしょう。特に弱っている人や困っている人を助け励ます言葉をかけることは誰にでもできることです。さらに、具体的に善い行いに応じて報いられることは聖書の約束ですから、躊躇してはいけません。感謝なことに、あなたは善いことができるのです。いつでも、善い言葉と善い行いに応じて報いられるという真理です。(さくま)

 

11月17日(金)

主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。

詩篇27:1

 

何かのグループに入ろうとした時、緊張するだろうし、その中の人たちとうまくやって行こうとするだろう。ところが、その中には、自分と同じタイプの人がいないこともあり得るし、自分にとっては天敵と言えそうな人がいることもある。後から入る方がハンディキャップがあるので、どうしても弱い立場になりやすい。しばらくすると、そのグループの序列もわかってくるし、その性格もわかってくる。気持ちのよほど強い人ならば、初めの段階で自分が見下されないように自己主張して頑張るだろうが、普通の人なら下手に出て反感を買わないように気をつけるだろう。それは、一見良さそうだが、実はそれほど賢明な方法ではない。必要以上に自分にストレスをかけ、神経質になってしまうので、疲れてしまうし、皆嫌な人に見えてくる。聖書が教えているのは、人を恐れてはいけないということなので、恐れないようにと変に頑張ってしまうと、それもストレス過多になってしまう。一番理想は、自然体でいくことなので、気負わないことが良いのだが、人を恐れることを克服する方法を理解していないようだ。今日の聖句を読めば明確なのだが、主との関係がどのようなものであるか正しく理解できれば、だれも恐れなくなるということなのだ。あなたの命を守っておられるお方こそ主イエス・キリストである。だれも、主にかなう者など存在しない。ならば、なぜ人を恐れる必要があろうか。あなたは堂々として、主に救われた者として、愛の流れる通り良き管となればいいだけだ。勝利は初めからあなたのものなのだから。(サクマ)

 

11月18日(土)

日数がものを言い、年数が知恵を授けると思っていた。しかし、人の中には霊があり、悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ。日を重ねれば賢くなるというのではなく、老人になればふさわしい分別ができるのでもない。

ヨブ32:7~9

 

人間はただ長く生きているだけでは知恵を得られない。それは、ちょっと周りを見渡せば気がつくだろう。ただ、歳をとって尊敬される立派な人もいる。問題は、聖書が知恵と言っていることだ。同じヨブ記には、「主を畏れ敬うこと、それが知恵、悪を遠ざけること、それが分別」(28:28)と教えている。だから私たちは聖書を学んで、知恵を得たいと思っている。今日の聖句を読むと、聖霊が人に悟りを与えることがわかる。ここでも、人間の努力ではなく神の力なのだ。この世界の仕組みを説明できるのが神の知恵だから、金銀よりも価値があるということがわかる。しかも、知恵は求めれば与えていただけるものなのだ。聖書がわからないという人は、早速、神に知恵を求めてみよう。(サクマ)

 

11月19日(日)

主よ、わたしの祈りを聞いてください。この叫びがあなたに届きますように。苦難がわたしを襲う日に、御顔を隠すことなく、御耳を向け、あなたを呼ぶとき、急いで答えてください。

詩篇102:2

 

神様にすがるしかない時があります。どうしようもない思いを持ってせつに祈るのです。それは、もはや叫びです。何としても主に届いて欲しい叫びなのです。苦難がわたしを襲うからです。その日に主よ、御顔を隠さないでください。御耳を傾けて聞いてください。緊急事態なのです。だから、すぐに答えてください。病に倒れた時、敵の攻撃にさらされている時、すっかり心が落ち込んだ時、もう八方ふさがりで絶望的な時、このままでは自分が破滅してしまうような時、私たちは、この詩編のように祈るのです。パウロも言っている通り、それでも行き詰まることはないのです。あなたの主は、圧倒的な力と知恵であなたを助けてくださいます。人を見ないで、イエス様を見てください。主を信じましょう。救いは近いのです。(さくま)

 

11月20日(月)

わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても、主こそわが光。・・・主はわたしを光に導かれ、わたしは主の恵みの御業を見る。

ミカ7:8、9b

 

この世で生きていれば、残念ながら敵にも遭遇することがあります。自分が正しくても、真面目に働いていても、何も悪いことをしていなくても、悪意を持ってあなたに向かってくる敵が現れることがあるのです。そのような時に、クリスチャンは愛だとか正しい行いに縛られて、何もせずに一方的にやられてしまうかもしれません。その結果、倒れてしまうことだってあるのです。でも、そこで泣いていても始まりません。今日の聖句を読んでごらんなさい。聖書時代にも同じことがあったのです。そして、神の聖徒はどうやって克服したか教えています。それは、信仰です。何があっても変わらない主への信頼です。私たちの敵は、私たちだと思って、実は私たちの神を攻撃したのです。だから、あなたが敵にやられたら神は黙っていません。しかし、私たちには信仰をあらわす必要があります。倒れても、あなたは主によって起き上がることができます。あなたの周りが八方塞がりになって暗闇の中に途方に暮れて座っているように見えても、主こそがあなたの光なので、敵はどうすることもできません。主は、こうした事態を信仰で乗り切るように励ましてくださいます。ですから、あなたは苦しかった闇から光に導かれます。あなたは、苦しんだからこそ、主の驚くべき恵みの御業を体験することになるのです。ハレルヤ!(佐久間)

 

11月21日(火)

あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。

ゼパニヤ3:17

 

考えてみよう。主は喜びをもってあなたのことを楽しんでいる。あなたのために主は奮闘して、まさに救いの勇士だ。主にあなたは愛されているので、安らぎを与えられる。主はあなたのことを喜んでいるので、高らかに歌っているというのだ。それが、あなただ。主が遠くに感じる日があっても、実は主はあなたのただ中におられる。あなたが考えているよりはるかに主はあなたを愛しておられる。それだけ、今日は考え、信じてみよう。嬉しくなるはずだ。自分がいつでもあるがままで主の喜びであると自覚してほしい。それは本当のことだから。(サクマ)

 

11月22日(水)

あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。

ユダ24、25

 

クリスチャンは、最後の審判を通って天国へ向かう道を進んでいます。そこで、信仰者にとって最も大きな問題は、つまずくことなのです。最後の最後でつまずいたなら、それでアウトになってしまいます。だから、注意しなければいけないのですが、残念ながら私たちはすぐにつまずく者なのです。それで、ここでも救い主の御力が必要です。それだけでなく、傷のない者でなければなりません。これもクリスチャンにとって難問です。一人では、おそらく合格できないでしょう。でも、ありがたいことにイエス様があなたを助け守っていてくださいます。そればかりか、色々なことを通してあなたを傷のない完全な者へと整えてくださるのです。勿論、そのために私たちは信仰が要求されます。それしかないからです。ですから、信仰が試されたりもするし、聖書を通して正しい信仰を学ぶ必要もあるのです。しかし、今日の御言葉を読むと元気がでてきます。私たちに頑張って努力するようにとは言われていないからです。そればかりか、あなたを天の神様の栄光の御前に立たせることができる方として、あなたの救い主がおられると書かれているのです。私たちがどんなに弱くてダメな人間でも、心配いりません。それでもなんとかできる救い主がついておられるからです。このことがわかれば、あらゆる言葉を尽くして全力で主を讃美したくなりますよね。それが後半の聖句です。ハレルヤ。(さくま)

 

11月23日(木)

だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。

使徒言行録13:38、39

 

これがキリスト教です。不思議に思うことは、このように聖書に書いてあっても、依然としてモーセの律法で義とされようとする人が後を絶たないということです。それも、教会に何十年も出席していてそうだと、どうなっているのかと考えてしまいます。あなたはどうでしょう。大丈夫ですか。自分の考えにとらわれると、つい聖書に書かれていることですら無視してしまうことが起こり得るのです。パウロがほうぼう巡り歩いて福音を語っても、喜ぶ人と怒る人に分かれるのです。モーセの律法によって義となろうと考える人は、パウロが律法を守らなくても良いと言っていると思って怒るのです。パウロは、律法を守らなくて良いと言っているのではなくて、守りたくても守れないと言っているのです。だから、神はキリストがその問題を解決して信じる人を義としてくださると言っているのです。それがどうしてダメなのでしょうか。それ以外に義となる方法がないのです。それでも、そんな弱いことではダメだと嘆くべきでしょうか。それとも、神が弱い私たちを義としてくださる、と喜んではいけないのでしょうか。私はパウロと一緒に感謝して喜びたいと思います。(佐久間)

 

11月24日(金)

あなたたちの耕作地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな。

エレミヤ4:3b、c

 

あなたは何をしているだろう。自分の耕作地を開拓しているだろうか。それとも見当違いにも茨の中に種を蒔いていないだろうか。今日の御言葉は考えさせられる。自分の耕作地を開拓するなら、それは全て自分に返ってくることで益となる。しかし、自分の仕事ややるべきことを間違っていたら、いくらそこで努力しても無駄になるだけだ。私たちはクリスチャンなので自分の進むべき道を主の御心に求めるだろう。それは正しいことだ。しかし、クリスチャンだからと言って自分の考えで勝手に進めば、それは不毛な結果に終わるかもしれない。自分の考えが優先されていて自分の思い通りにすれば、その責任は自分で引き受けることになる。しかも、必ずしも良い結果になるとは限らない。その反対に、自分の才能や主によって起こされる願いを無視して、あるいは自信を持てなくて、前に進めないのなら、今日の聖句は役に立つはずだ。茨だらけの不毛の土地では痛い思いや、苦労するだけで収穫は望めないものだ。その反対に、自分の耕作地を探し見つければいい。そこで一から開拓しても大きな収穫と喜びが待っている。自分の耕作地は決してわからないものではない。自分の目の前に広がっているはずだ。誰も邪魔することはできない。人間にはこのように自分の耕作地が決まっているのだ。よく考えてみよう。(サクマ)

 

11月25日(土)

はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。

ルカ18:17

 

クリスチャンになって考えさせられたことの一番は、信じることです。誰でも、信じることはできるのですが、イエス様は神の国に入るには、「子供のように神の国を受け入れる」者でなければならないとおっしゃって、信じることの意味を教えてくださったのです。子供はいろいろなことをまだ知りません。つまり知識がないので、疑うこともしないのです。その点、大人になると知識は増えるのですが、単純に信じることができません。信じたと言っても、どこかですぐにでも逃げ出せるようにおよび腰になっていたりします。幼子のようには信じられないのです。ですから、神様が恵みを与えるとおっしゃっても、どこかでそんなうまい話はないと打ち消してしまうのです。その決定的なことは、神様が義とするとおっしゃってくださっているのに、はい、ありがとうございますと受け取れないということが問題です。同じように、聖霊のバプテスマも天の父は与えたいと願っているのですから、私にくださいと求めれば与えられるのです。しかし、やってみるとわかるのですが、そう簡単にはいただけないと嘆くことになるのです。これが幼子ならきっとすぐ貰えるのだろうと思うことはできるのですが、幼子のように信じることができません。それは、人間の欲や高慢や誤った知識が邪魔して信じきれないのです。パウロが言っている肉のことです。そこで、自分を砕いていただかなければ、素直に神様の支配に入れないのです。そのことを覚えていれば、自分に起こる大変なことも意味があると知ることができるのです。(さくま)

 

11月26日(日)

主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

ルカ22:61、62

 

私は主のために生きると息巻いていたのは、遠い昔です。まっ、時々その気になるとまだ言っているかもしれません。でも、さすがに悟らされてきました。自分の力でできることなど何もないと・・・。自力で頑張ればなんとかなると思っていたのに、主は全く違う道へと導きます。その「私の力」が問題なのだと教えたいのです。それはなかなか納得のいかない問題なのです。自分で考えて、いろいろ思い巡らして、結局こうしたいと言う自分の思いを通そうとしているのです。一人ならまだしも、社会へ出れば他人がいるのです。その人も同じように自分の正義を振りかざして譲らなければ、当然ぶつかり合うことになります。それで、困ると「主よお助けください」と祈るのですが、主のお導きを求め、それに従うと言う考えがないのです。あくまで、自分の考えを通したいので、自分に都合の良いように物事を見てしまいます。そうなると自分が悲劇の主人公になってしまいますから、問題は良い方向へと向かいません。しかし、それでも主の御心を聞こうとしないのが人間の問題なのです。自分こそが主に従い裏切ることなど決してないと考えていたペトロは、イエス様のお言葉に驚きましたが、まさか本当になるとは思ってもみなかったのです。イエス様を慕い、愛していたのです。それなのに、最も友としてイエス様を励まさなければならない時に、三度も知らないと裏切ってしまったのです。これが、私たちの姿です。私が、私が、と言っているうちは道は遠いのです。そこで、私たちは砕かれることになります。私が、と言わないようになるまで、主の御心に従順に従うことができるまで、安心できません。中途半端なクリスチャンでい続けても神の国へ入ることはできません。霊的に成長したかどうかは、聖書をどれほど学んだか、教会に長いこと通っているか、善行を積んでいるかなどとは関係ないのです。ただ、聖霊に従えるかどうかにかかっているのです。聖霊の導きに従順になれるかどうかが問われていることを覚えましょう。(さくま)

 

11月27日(月)

主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。

出エジプト15:2

 

聖書には主を讃美する場面が多くあります。聖書の登場人物は、私たちとそれほど違いがありません。同じ人間なのです。そのために、私たちと同じように過ちも失敗もします。敵が現れれば、たちまち恐れて主に助けを求めます。自分の力に頼れば、その結果も自分で引き受けることなり、悪い結果は受け止めることもできません。しかし、聖書の聖徒たちは、そうした生活の中で神様の取り扱いを受けていました。信仰を学んでいたのです。そのやり方は昔も今も変わっていません。ですから、試練に遭うと苦しみますが、信仰も育っていて、天国に持っていけない自分の肉の性質が削ぎ取られています。そこで、自分の思っていたこととは違って、自分が立派になって働くのではなく、逆に弱くなって、内住しておられる聖霊が、自分を通して直接働くのです。そのためには聖霊に服従する必要があります。それは、聖霊のお導きを知るために必要なのです。そのようになると、人がどうであろうと関係なく、今日の御言葉のように、「私は主をほめたたえ、この神様をあがめる」と言うことができるようになります。(さくま)

 

11月28日(火)

 

国々の偶像は金や銀にすぎず、口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻と口には息が通わない。偶像を造り、それに依り頼む者は、皆、偶像と同じようになる。

詩編135:15-18

 

昔、神学校の広い敷地の中に「祈りの山」と呼ばれる丘のような場所がありました。そこで主に近づき祈る場所です。フィリピンの神学校にも「祈りの園」という祈りの場所がありました。白く塗られた円形のコンクリートで出来たモダンな池があり、その周りに花壇ができていて、いつでも賛美歌が流れている霊的な場所です。ところがその祈りの園へ行くための道に日本の大きな赤い鳥居があるのです。初めて見た時にはなぜ?という疑問が湧いてきましたが、その道をくださるとインドネシアの偶像が浮き彫りになっている壁が道の両側に広がっているのです。そもそも校舎もタイの仏教寺院を模したものですから、キリスト教の神学校になぜこのようなおかしなことが起こっているのか理解できませんでした。これを設計した人はアメリカ人で、彼らの感覚ではこうしたものがアジアのイメージで、彼らにとってはカルチャーでしかないというのです。それぞれの国から来た牧師がこれは許されざる大問題だと言って騒いでも、アメリカ人たちは一向に相手にしないで、宗教施設ではないと言い張りました。そして、後で知ったことですが、これを設計した人の息子さんがその直後に交通事故で死んでしまい、そのことがあって、設計者の父はここに祈りの園を作ったそうです。神学大学院の西洋からきた教授たちもでも、アジアの宗教はただの文化に感じているのは事実で、いまだにそれらは撤去されていないのです。イスラエルもアジアですから、果たして西洋で開花したキリスト教が正しく理解できるのか心配になります。ですから、偶像のことも聖書時代だけでなく、現代でも難しい問題なのです。(佐久間)

 

11月29日(水)

高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なるところに住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。

イザヤ57:15

 

クリスチャンになって自分というものがだんだんわかるようになります。それは、神様の取り扱いがあるからです。決して喜ばしいとは言えないことも起こります。それは、自分で願って起こることがほとんだと思います。それは、主によって打ち砕かれるという特別な経験です。今日の聖句を見ても明らかなように、それはへりくだることと関係があります。霊というのは、本質といえばわかるでしょうか。自分の本質が自己中心であり、自分勝手であることに気づかされると、クリスチャンは信仰から自分を打ち砕いてくださいと主に願うのです。それは御心に適っているので、打ち砕かれる経験をすることになります。もちろん、喜ばしいことではありません。聖句を見ると、「へりくだる霊の人に命を得させる」と書かれてありますから、永遠の命のことです。つまり、天国へ行くには砕かれる必要があるのです。自分が変われるとしたら、それは砕かれた時です。ですから、自分の考えにとらわれないことが大切なのです。主の導きの通りにゆだねることです。決して、砕かれた後は、悪くはなりません。その反対に、今まで知ることのなかった自分になってよりよく生きて行くことになります。(さくま)

 

11月30日(木)

天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。東が西から遠い程、わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。父がその子を憐れむように、主は主を畏れる人を憐れんでくださる。

詩篇103:11ー13

 

 

神様を信じないという人がいるが、それは慈しみを十分に受ける経験がないからではないだろうか。クリスチャンにとっては、今日のみ言葉をちゃんと理解することが絶対的に必要だ。この御言葉の通りであるとアメーンを唱えることができるなら、なんら心配はない。しかし、理性でしか同意できないというのなら、多少心配しなければならない。人間にとって厄介なことは、心に振り回されることがあることだ。それは、感情に振り回されると言った方が理解されやすいかもしれない。つまり、感情はコントロールしにくいので、一旦悪感情や否定的な思いに支配されると簡単には抜け出せないものだ。それはクリスチャンでも同じだ。しかし、信仰はいつでも私たちを助ける。私たちは、信じる力を過小評価していることが多いが、実際には、信仰以上の力を持っていないのだ。それで、今日の御言葉を信じてほしい。言うまでもないが、あなたは主を畏れる人だ。だから、これは真理を持ってあなたのことを説明している御言葉であるということなのだ。これを信じることで、全ての否定的なことや自分を責めることや自分を苦しめる感情から自由になることができる。ただ、今日のこの御言葉を信じるだけでできる。悪魔もどうすることもできずに退散するだろう。あなたへの恵みは十分なので安心していればいい。(サクマ)