2017年12月ディボーション

12月1日(金)

見よ、わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。

イザヤ48:10

 

高校に入学した時に、部活に入って一年生は基礎体力がないので走ったり基礎体力作りばかりしていました。でもその中で一番になろうと思って頑張っていました。それは、多分、小学校高学年になるまで体が弱くて運動会も見学していたほどでしたので、親は中学になっても心配して運動部に入ることを禁じていたのですが、テニスならいいだろうとなって、始めたのです。それがどういうわけか新人戦で準優勝したのです。それで、俄然やる気になりました。どうすれば強くなれるか考えたのです。それで、まず人より多く練習すことにしました。部活が終わっても残って練習します。暗くなれば、グランドを走って、そのまま家に帰り、翌日は早朝練習してから学生服に着替えて、・・・。これが、もし先生や先輩に命令されてやっていたら、多分イヤイヤやっていただろうし、文句を言って、大変だと思っていたでしょう。でも、自発であれば、楽しいのです。だから、多く学んだのです。それで、高校に入った時も、自分のためになることがわかっているので、自発的に一番になろうと頑張ったのだと思います。さて、人間は成長できるという能力があります。しかし、大人になると成長が止まる人が出て来ます。クリスチャンの場合は、イエス様の徳の高さへと成長します。しかし、何もしないでそれを実現することはできません。そこで、主は悩みの中で試みることをします。いくら積極的に考えても、努力して頑張っても、悩みはやはり悩みなのです。そこをどうやって乗り切るかが課題なのです。自分の力では、どうしようもない悩みが来ますので、誰でも、最後は主に頼ってただ信仰のみで乗り切ることになります。ここで、主に頼って信仰で生きていけばいいと悟れるかが成長を左右するのです。パウロのように、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と言えるようになればいいのですが・・。とにかく、悩みの炉で練られていると思えば、少しは耐えられるでしょう。あなたは銀よりはるかに価値があるのですから、驚くほど輝いてくるはずです。(さくま)

 

12月2日(土)

わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。あなたが計らってくださいますから、とこしえに、感謝をささげます。御名に望みをおきます。あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深いあなたの御名に。

詩篇52:10、11

 

どう祈ればいいのかわからない、と言う人たちがいます。そんな時には、詩編を自分の祈りとして祈ることを勧めます。今日の詩編は、ダビデの詩です。新共同訳では、1節に前書きがあり、そこに「エドム人ドエグがサウルのもとに来て、『ダビデがアヒメレクの家に来た』と告げたとき。」と書かれています(サムエル記上21、22章参照)。これは、サウルに命を狙われ逃亡したダビデの居場所をドエグがサウル王に告げる場面です。とんでもないピンチです。サウルの家来に見られたなんて、運が悪い、と嘆きたくなる場面です。しかし、今日の聖句を読み直してください。普通の人なら、青くなって、「なんで神様は敵に見つかるようにしたのですか」と文句の一つもつきたくなる場面です。ですから、これは、あなたが大変な目にあった時に使うとよい祈りの模範なのです。この祈りをささげたダビデは、主に守られて敵に捕まることもなく、殺されることもありませんでした。あなたが困った時にこそ、主への絶対的信頼を示すチャンスなのです。あなたの言葉は、信仰から出ていれば、その通りになるのです。だから、信仰はいさぎよいのです。(佐久間)

 

12月3日(日)

わたしは神を呼ぶ。主はわたしを救ってくださる。夕べも朝も、そして昼も、わたしは悩んで呻く。神はわたしの声を聞いてくださる。闘いを挑む多くの者のただ中から、わたしの魂を贖い出し、平和に守ってくださる。

詩篇55:17~19

 

あなたの神様は頼りになるお方です。あなたが神様と呼べば、主はあなたを救ってくださいます。あなたが一日中、悩みの中から出ることができないで呻く時も、主はあなたの声を聞いてくださるのです。意味が無く苦しむようなことはありません。あなたがそこでいろいろなことを考え、学び、祈り、御言葉にすがり、信仰を学んでいることは間違いありません。しかし、いたずらに苦しむ必要はないのです。どのような強敵に囲まれようが、主はあなたを救い出します。その時に最も重要なことは、「魂を贖い出し、平和に守ってくださる」と書かれていることです。苦しみは、家に帰ってもどこでも、思い出してはまた苦しむものですが、そこから救い出すことが主にできることを教えている箇所です。心の平和ほどありがたいことはないのです。あなたが悩む時には、この御言葉の通りになりますように。(さくま)

 

12月4日(月)

わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし。わたしの心を夜ごと諭してくださいます。わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。からだは安心して憩います。

詩篇16:7~9

 

神様を信じるというのはどの宗教でも同じ、と思っている人は多いでしょうが、実はかなり異なっています。例えば、今日の聖句です。聖書を神様を信じるとどうなるか、と言えば、主を讃美するようになります。どうしてそうなるかと言えば、主が私たちの思いに働きかけて励ましてくださるからです。そればかりか、夜ごとに心を諭してくださるのです。ですから、余計な思い煩いや悪い考えに心を苦しめる必要がありません。私たちの信仰は、絶えず主に相対しているのです。そして、主は右にいます。それは、私たちに力を与え、信じる者を義とする意味があります。そのような信仰ですから、当然、揺らぐようなことはありません。主を忘れているような場合は、当然揺らぎますし、不安の霊に攻撃されたりした時に、それにのって否定的になってしまうと揺らぎます。だから、主は私たちに勝利を与えるために右におられるのです。とても面白いのは、「からだは安心して憩います」と書いてあることです。真の安息は、安心からくるのです。それは、主への絶対的な信頼から生まれます。それを補強しているのがどんな時でも讃美する信仰です。これなら誰でもできます。誰でもできるように簡単なのですね。悪魔の惑わしに負けないように、今日の聖句を覚えて実践してください。(さくま)

 

12月5日(火)

わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりするすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

エフェソ3:20、21

 

私たちクリスチャンは、神様によって恵まれた存在です。神様は遠い天国にいて私たちを見ているのではありません。約束に従い、あなたの内に送られた聖霊によって、あなたの考えや求めることや、思ったことをすべて理解してくださり、それらを人間の知恵をはるかに超えて最善にかなえてくださいます。だから、心配することはありません。もし、あなたが聖霊を無視して肉に従い、その結果大きな問題が生じても、それで見捨てられるわけではありません。その問題の本質に主は迫ります。そして、本人には試練とか災としか思えないかもしれませんが、それをも主を信じる者には益となるように働かれるのが聖霊なのです。私たちが信じているのは、父、御子、聖霊の三位一体の神様が私たちのために完全に働いてくださることです。ですから、悩みの中にあっても、あるいは病の中にあっても、信仰が与えられ、救いが必ずあります。あなたのささやかな願いも主が御心にかなった素晴らしい方法でかなえてくださいます。そのことがわかってきたなら、讃美せずにはいられないでしょう。求めたり、思ったりするすべてをはるかに超えてかなえることができると信じられるなら、たとえ試練の中を通っていても、先に讃美することができるのです。(さくま)

 

12月6日(水)

神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。主がわたしたちのために死んでくださったのは、私たちが、目覚めていても、眠っていても、主とともに生きるためです。ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。

Ⅰテサロニケ5:9~11

 

なんと感謝すれば良いのかわかりませんが、クリスチャンであるあなたは神の御怒りに会うようには定められていないのです。あなたがイエス・キリストを信じて救われるように定められているというのです。どうして、そのようなことになっているかは書かれていません。それどころか、主イエスが十字架で死んでくださったのは、どんな時でもあなたと主がともに生きるためなのです。そのような特権にあずかれる理由は、主が選ばれたからとしか言いようがありません。もう少し付け加えると、主があなたを召された時に、あなたはちゃんとその召に応えて、信仰を持ったことによるのです。ですから、主の召にどう応えて生きるかそのことは考えた方が良いのです。聖書には、「互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい」とあります。相手の内にキリストがいると思って、生きていくのです。あなたはキリストから生きる力をいただくことができますから、力を抜いて、心楽しく生きていけるはずです。(佐久間)

 

12月7日(木)

そのとき、主はわたしに言われた。「あなたは、前と同じように、石を切っていたを二枚造り、山に登ってわたしの元に来なさい。また木の箱を作りなさい。わたしは、あなたが前に砕いた板に書かれていた言葉をその板に書き記す。あなたはそれを箱に納めるが良い。」

申命記10:1、2

 

これは、モーセが十戒の石の板を二度目に主から受けた時の話しです。前回は、十戒を携えて山から下ると、イスラエルの民は金の子牛を造って踊り狂っていたために、モーセが怒って十戒の石の板を投げて砕いてしまったのです。それで、今回、もう一度律法を受け取るのですが、主は木の箱を造ってそこに十戒を納めるように語られたのです。これは、後にエレミヤに主が新しい契約のことを初めて語った箇所に繋がって読めます。それは、石の板にして人間の外側に十戒をおいても、人間が罪深くて守ることができなかった。それで、今度は「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」(エレミヤ31:33参照)と預言したのです。その成就は、主イエス・キリストが果たしました。ですから、外にある律法を守ることではなく、人の心に律法が記されるのです。それは、人の内に聖霊が宿ることによって起こることでした。律法は神の品性の写しなので、三位一体の聖霊が人の内にあることで、人の生まれつきの肉の性質が信仰によって聖霊が働くことを認めることで神の品性に変わっていくようになるのです。それは、人となったキリストのようになるということです。木はアカシヤの木でしたが、これは象徴的に人生を表していました。ですから、主は初めから人類救済の方法として人の内に聖霊を置かれることを計画されていたのです。しかし、聖なる聖霊が宿るためには、人間を罪から清める必要がありました。それはキリストの血による清めだったのです。それなしには、救いの道はなかったのです。主に感謝しましょう。(佐久間)

 

12月8日(金)

どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない、心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。

詩篇19:15

 

クリスチャンがどのように祈ればいいのか、今日の聖句もヒントになります。実は、自分で頑張っているだけではうまくいかないことが多いのです。そうなると、自己嫌悪に陥る危険があります。それは、避けなければなりません。そこで、例えば自分の口から出る言葉のことを考えてみましょう。クリスチャンとしてふさわしくないことを言ってしまうと、後で後悔します。ですから、正しい言葉だけを語る人になろうと思うのですが、努力だけでは、口先だけ立派な言葉になってしまうことが多いのです。それも気をつけている時だけで、気を抜けばひどい言葉や汚い言葉が出て来てがっかりするかもしれません。厄介なのは、心の思いがそのまま言葉として出てくるのですから、やはり心が良くならないと解決しないのです。そこで、重要なことは、自分の心が何で満たされているかということです。詩篇記者は、主の律法の真の意味をあげています。それは、魂を生き返らせ、知恵や喜びを与え、目に光を与えると言っています。律法主義にならないように注意しなければなりませんが、彼は、主への畏れは清くいつまでも続くと言います。しかも、熟慮して守っているので、報いがあります。律法主義者にはないことです。さらに、驕りに支配されないようにと祈っています。このようにして、彼は心の思いを御前に置かれるように願えるようになったのです。主はあなたにとっても岩のように不変な方であり、あなたを完全にすることのできる贖い主なのです。(佐久間)

 

12月9日(土)

しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った業によってではなく、ご自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。

テトス3:4~7

 

今日の聖句は長い箇所ですが、途中で切ることはできません。そのまま理解し覚える方が良いのです。なぜなら、この主張は真実だからです。聖書も「これらのことを強く主張するように」と奨励しています。つまり、クリスチャンはこの聖句の通りになっているのです。それを信じている人と曖昧な人に分かれます。それは、決定的にその後を分けてしまいますので、重要な箇所であることは間違いありません。信じるとは、このことを文字通りに信じることです。そして、あなたの信仰を守るものは、すべてを主イエス・キリストによると認めることです。その意味をこれからも一緒に学んでいけたら幸いです。(佐久間)

 

12月10日(日)

わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られものではない天にある永遠の住みかです。わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。

Ⅱコリント5:1~2

 

クリスチャンにとって、体は聖霊の宮であることから、聖所を意味する幕屋という言葉が使われています。この地上では、それぞれが重荷を負ってうめいているとパウロは言います。それはなんのためかと言えば、「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうため」です。クリスチャンの歩みは、決して平坦な道ばかりではありません。その人の重荷があるものです。そして、真理を知った者としての生き方があるのです。この地上だけに望みを置くならこれほどの苦しみはないでしょう。しかし、私たちにとって天から与えられる住みかを着ることこそ目標なのです。それも、そうなるようにふさわしい者としてくださったのは、神なのです。その保証が、あなたに与えられた聖霊なのです。だから、聖書に書かれた奇跡があなたの身に起こるのです。(佐久間)

 

12月11日(月)

私をいやしてください。主よ。そうすれば、私はいえましょう。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたはこそ、私の賛美だからです。

エレミヤ17:14

 

良い人ほど苦しむのがこの世界なのか、と思わされることが多いです。家族を介護する人の数も増えています。それがどれほど大変か、自分の番がくるまで理解できないものです。少子高齢化が進み、社会不安も増しています。そのような社会に住んでいて、過大な重荷が自分一人にのしかかってきたなら、一体どうしたらいいのでしょう。倒れるまで頑張るしかないのでしょうか。そんな辛い日々を送られている人が増えているのです。社会福祉に期待しなければなりませんが、限度があります。だから、私たちは、主にすがり、叫ぶのです。もうイエス様になんとかしていただかなければ、どうにもならないからです。主は、いつだって私たちに優しく、恵みそのものなのです。だから、毎日毎日、感謝して生きてきたのです。今日の聖句は、そのような人の祈りです。何もできなくても、ただこの御言葉を信じて、愛をもって癒してくださる主イエス・キリスト様に祈るのです。癒し主が自分の元に来てくださり、清い御手を置いて完全に癒してくださると信じるのです。主よ、どうか憐れんでください。疲れ切った体に触れて命を満たし、病を癒し、重荷を降ろしてください。あなたの救いが必要なのです。具体的に助けてください。あなたを信じる者がうめいていますから。(さくま)

 

12月12日(火)

すると主は仰せられた。「わたし自身が一緒に行って、あなたを休ませよう。」

出エジプト33:14

 

私たちは、いつまでも頑張り続けることができません。休息が必要なのです。能率学では、仕事と休みの関係を調べて、適度に休みながら働く方が効率が良いことを証明しました。ペンキ屋さんは、休んでばかりいると言われますが、作業の速さは驚くばかりで、休まずに働く人の作業面積をはるかに凌ぐ広い面積を塗装できるのです。天地創造の時には、主は六日間かけて全てを創造し、七日目に休まれました。つまり、休みの一日を含めた七日間で創造は完成したのです。そのために、人間は創造された初めから、休むことになっているのです。安息の大切さはわかるのですが、その安息も人間だけでは守れないこともあるのです。ですから、人生の旅路において、主ご自身が一緒に行ってくださることにより、私たちを休ませてくださることが必要なのです。主の確かなお導きの中に安息の時が与えられることを願うことは御心にかなっています。主があなたを安心して休ませてくださいますように。(佐久間)

 

12月13日(水)

主は従う人に目を注ぎ、助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。・・・主は助けを求める人の叫びを聞き、苦難から常に彼らを助け出される。

詩篇34:16、18

 

人生山あり谷あり、とはよく言ったものです。確かに、クリスチャンであっても、予想もしていなかった災いが自分の身に降りかかるてくることがあります。それは実に多様で、劇的とさえ言えるほどです。問題は、そのような時にどうするかです。今日の聖句を読むと、主に助けを求めて叫べばいいとわかります。主は、その叫びを聞いて、苦難から常に助け出してくださるのです。ここのポイントは、「常に」です。ですから、大変なことが勃発したら、不安な気持ちに圧倒される前に、主に助けを求めて叫ぶことです。叫ぶというのは、自力では苦難を乗り越えられない、もう望みがない、といった状態で初めて出てくる魂の悲鳴のことです。ありがたいことに、このような時に、主は常に苦難から助け出してくださるのです。ですから、希望を持って、主が助けてくださるので必ずこの苦難を乗り越えることができると信じましょう。どんなにひどい状況に陥っても何とかなるものです。たとえあなたが何もできなかったとしても、主はあなたを助けてくださいますから心配しないでください。(佐久間)

 

12月14日(木)

にわかに起こる恐怖におびえるな。悪者どもが襲いかかってもおびえるな。主があなたのわきにおられ、あなたの足がわなにかからないように、守ってくださるからだ。

箴言3:25、26

 

突然起こる出来事に恐怖を覚えることがあります。自分が避けようとしていたことに直面させられることだって起こり得るのです。自分を脅かす者が襲いかかってくるようなこともあるかもしれません。弱り目に祟り目、と言いたくなる日もあるものです。しかし、クリスチャンは、そのような時に違いがあります。今日の聖句を見れば明らかですが、目に見えなくても、主があなたのわきにおられるのです。ですから、あなたはおびえる必要がありません。その時は、大変かもしれませんが、気がつけば助け出されています。そもそも、おびえると正常に物が考えられません。それで、落ち着いていれば善後策を立てたり、何とかなることに気がつけるのですが、気持ちが動転しておびえてしまうと、簡単なことでもできなくなるのです。それで、自分に言い聞かせるべきです。聖書に「主がわたしのわきにおられ、守ってくださる」と書いてある。これ以上困ったことにはならない。事実、その通りなのです。だから、主を信じて勝利しましょう。(佐久間)

 

 

12月16日(土)

わたしはあなたのもの。どうかお救いください。あなたの命令をわたしは尋ね求めます。

詩編119:94

 

自分が自分のものではなく、神様のものであると考えたことがありますか。よく、「主にゆだねる」と言うことがありますが、それ以上の言葉が「あなたのもの」です。天の神様を天の父と呼ぶなら、あなたは神の子と呼ばれる存在です。そして、神の子は天の父のものなのです。それは地上にあってでもそうなのです。父のものであるからこそ救っていただけるのです。自分を主のものとするならば、主の命令に従いたいのです。それは、いつでも良いものだからです。主は、それによって命を得させるからです。そのことが正しく理解できますように。(さくま)

 

12月17日(日)

こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。

エペソ2:19

 

クリスチャンはいろいろな意味で恵まれています。罪深い世界にしばられて生きることから解放されました。それだけでなく、国籍までかえられたのです。パウロの言葉を借りれば、「国籍は天にある」となります。自覚症状が何もなくて実感がわかないとしても、聖書は真実を語り、あなたは既に神の国の市民となっています。それがどんなに喜ばしいことか、驚くばかりです。ですから、日々の生活の中で恐れることも不安になることも拒否すればいいのです。何の意味もないからです。あなたは偉大な力の神の支配の下にあるのですから、 悪魔ですら勝手にあなたを困らせることはできないのです。そこで、だまされずに天国にいるようにふるまうのです。どうどうとして歩み、良い考えを選び、主への感謝を忘れないで生活してください。み言葉はあなたを祝福するものであって、あなたを苦しめるものではありません。毎日一度は主に向かって微笑んでみましょう。(さくま)

 

12月18日((月)

知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。

詩篇4:3

 

それにしても、人生は何が起こるかわからない。自分の人生はごく平凡だろうと思っていても、平等に何か大変なことが起こるものだ。予想のできるものはまだ何とかなる気がするが、予期していないことは、本当に驚くし、うろたえるものだ。ただ、そんな時にこそ、自分が何者であるか気がつく。そう、聖書に書いてある通りに、この自分が聖徒と呼ばれる者なのだ。ちっとも聖なる者とは思えない。ただ、いつかは神様も感心するほどのもう少しましな信仰者になれたらいいとは思っている。それがいつになれば達成できるのか、かいもくわからない。できないかも知れない。それでも、クリスチャンをやめないのは、イエス様が自分の人生に入り込んできてもはや離れがたいからだろう。若い時のようにはもう頑張ればれないから、カッコをつけようもないのだが、どんなにかっこ悪くても、主はありのままで愛してくださっているというのは本当だった。そうなって、イエス様のありがたみが身に沁みる。自分より若い人が信仰を持って一生懸命行きているのを見ると、心から応援したくなる。様々な悩みの中で信仰で何とかしようともがいている人を見れば、不思議と愛情が湧いてくる。そして、教えたいことは、今日の聖句が事実だということだ。主は、あなたを特別に扱われる。あなたが呼べば、主は聞いてくださるのだ。だから、今日は心配しないで生きることにしよう。(サクマ)

 

12月19日(火)

何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主に仕えているのです。

コロサイ3:23

 

人間は考え方ひとつで幸福にも不幸にもなるものです。社会人になれば出会う人の数も多くなり、人間関係に悩むこともあるでしょう。上司に恵まれないと嘆く人も珍しくありません。しかし、今日の聖句から考えてみると、人ではなく主に対して何かをすると考え、心から行いなさい、と命じています。人からだと思うと納得がいかないとか、横暴だと反発していたのに、これは実は主に対して行っているのだと思うことで、嫌じゃなくなったり、相手の心に届いてより良い仕事ができたり、相手の心に触れるような良い経験に変わったりすることがあるのです。たとえ、その場では辛いことしか起こらなくても、それでも、あなたの信仰の通りに、主にちゃんと伝わっているのです。主に仕えることができたと思えば、嬉しいものです。これは、家庭でも学校でも、近所付き合いでもどんな人間関係でも同じなのです。まずは試して見てください。主にお仕えするチャンスは意外にも身近にあるのです。(佐久間)

 

12月20日(水)

それゆえ、主は恵みを与えようとして、あなたたちを待ち、それゆえ、主は憐れみを与えようとして、立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。

イザヤ30:18

 

なぜ私ばかりがこんなひどい目にあうのだろうと落ち込む日があるかも知れません。また、突然、思いもかけない病気になることだってあり得るのです。信仰をちゃんと守ってきたのに、神様を信じているのにとやるせない思いが溢れてくるかもしれません。確かに、納得できないことがクリスチャンにも起こります。しかし、肝心な点は、それでもあなたは神様に愛されていて、あなたの益となるように物事が動いているということです。仮にあなたを苦しめる敵が現れたとしても、慌てることはありません。あなたの主が黙っているはずはないからです。そもそも、神様はあなたに恵みを与えたいのです。まるで、サプライズ・パーティーを準備してあなたを驚かせようと部屋に隠れて待っている人のように、あなたが驚くほどの恵みを与えてくださいます。あなたが自分を責めて落ち込んでいる時、主はあなたに憐れみを与えようとして、立ち上がられるのです。どんな時でもあなたが神様を信じて、主を待ち望むから、主は必ずすべてを最善に変えてくださるのです。嬉しいですね。(さくま)

 

12月21日(木)

主に従う人の救いは主のもとから来る、災いがふりかかるとき、砦となってくださる方のもとから。主は彼を助け、逃れさせてくださる、主に逆らう者から逃れさせてくださる。主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。

詩篇37:39、40

 

聖書で気がつくことは、罪とは神に逆らうことであり、罪人とは主に逆らう者のことなのだ。それが救われると、主に従う人となる。どちらが良いかは一目瞭然なのだが、それは災いが降りかかる日に最もよくわかる。主に従う者には、主が砦となってくださるのだ。主を避けどころとする人とは、主の影に隠れて見えなくなるような人のことだ。私が、私が、と思い続けてきたことをやめてみる。その代わりに、主が、主が、と言い、考えてみる。自分の力では到底無理なことでも、主ならできるので、主にゆだねることを告白してみる。それほど、難しく考えずに、主を避けどころとします、と祈ることから始めればいい。(サクマ)

 

12月22日(金)

神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。

Ⅰテサロニケ5:9、10

 

クリスチャンが覚えておくと良いことはいくつもあるけれど、その中でこの聖句は、格別です。私たちは自分になかなか自信を持つことができずに、いつも主に負目を持っているかもしれません。何か失敗や過ちを犯すと当然のように神の御怒りを受けると信じているのです。それが、行き過ぎる神をいたずらに恐れてしまい、信仰がギスギスしてつまらないものになってしまいます。私たちが勘違いしてはいけないのは、イエス・キリストが十字架で死なれたのは、私たちの救いのためであり、それは、いつでも主とともに生きるためだったのです。それは、心楽しいことで、愛されて生きることです。自分の足りなさを嘆く必要はありません。それよりも、主を賛美して、心から喜びましょう。主がともに生きてくださっているのですから、全てのことで感謝しましょう。絶えず主を意識すれば、主にいつでも祈るでしょう。あなたは主が命を犠牲にしても惜しくないと思うほど価値があるのです。そのことを忘れないでください。自信を持って今日も生きましょう。(佐久間)

 

12月23日(土)

イエスは、ヘロデ王の時代にベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

マタイ2:1~2

 

ベツレヘムはエルサレムの南方10キロに位置する小さな静かな村でした。昔はエフラタと呼ばれていました。ベツレヘムの意味は、「パンの家」です。肥沃な田園地帯にあったためにそう呼ばれたのです。このベツレヘムは、ヤコブがラケルを葬り、さらに後には、ルツが住んでボアズと結婚しました。そして、何と言ってもベツレヘムはダビデの故郷だったのです。さらに、「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る」とミカ書に預言されています。ユダヤ人たちは、このベツレヘムの町からダビデよりも偉大な子孫が誕生することを期待していたのです。さて、イエスが預言どおりにベツレヘムでお生まれになると、メディアからマギと呼ばれる聖人、また賢人たちが拝みにやって来ました。彼らは哲学、薬学、自然科学に秀で、また占いをし、夢を解いていました。彼らが見た星が何であるかは諸説ありますが、万軍の天使であったという説が最も良いように思います。星が止まったり、また動いたりということはできないからです。天使の一団がイエス・キリストの誕生を見届けようとしていたのでしょう。そして、真に救い主の到来を待ち望んでいた人たちを探して良き知らせを伝えようとしていたのでしょう。今も、主の再臨を待望している人を天使は探しているかもしれません。(佐久間)

 

12月24日(日)

あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。あなたは私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみを知っておられました。

詩篇31:7

 

人間は生きるために、いろいろなことを我慢したり、耐えて来た。不思議なことに人間はあまりにも不完全で弱い赤ちゃんからしか人生を始めることができない。そのため、誰かに世話をしてもらわなければ生きていけなかった。その時に、可愛いとか、愛おしい、と言われて頬ずりをされたり、抱きしめられたり、十分なスキンシップを通して生きて行くことを覚えたのだ。それは、神が愛であり、その愛の神にかたどって人間が創造されたことに関係がある。もともと、人間は愛されて生きて行くものだし、愛して生きて行くものなのだ。愛したり、愛されたりが人間の本質といえる。しかし、一番はじめのアダムの時に、その愛はもろくも踏みにじられてしまった。それが罪の起源とされている。それ以来、人間は愛情不足の中に生きている。様々な悲劇は全部愛の欠けが生んだものだ。ところが、キリストが私たちを愛して、救うために自己犠牲を払われたことを知らされた時に、思わずその愛にかけることにした。そう、愛の回復こそが人間の課題なのだ。無条件に愛されなければ、自分の中に尊厳も自信も見出せない。キリストの愛は、そんな私たちを癒すに十分だった。だから、主の恵みを楽しむことができるし、喜んでいる。それは、具体的で、まさに癒されることはないと思い込んでいた心の傷を癒す奇跡だった。主は、私たちの魂の苦しみを知っておられた。だから、私たちに求めずに、自己犠牲を払って愛の力で私たちを救ってくださったのだ。これを私たちは恵と呼んでいる。主からの尊い贈り物なのだ。(サクマ)

 

12月25日(月)

祭司が献げ物の雄羊をもって、彼の犯した罪のために主の御前で彼のために贖いの儀式を行うと、彼の罪は赦される。

レビ19:22

 

今日一通のメールが届いた。「クリスマスの喜びってなんでしょうか?」と書かれていた。この人はまだクリスチャンではなかった。そこで、クリスマスの意味を教えようと書き始めると、人間が罪人であることから説明がいることに気がついた。それは、神の与えた律法を守り行うとイスラエルの民がモーセに血を振りかけられて神と契約したのに、とうとう誰も守れなかったことから、全ての人が罪人であることがわかった。そのままでは、神の正義の前にすべての人が裁かれ罰として死ぬしかない。そこで、人間の救済のために、神の独り子イエスが罪の贖いになることで、つまり私たちの身代わりに死ぬことで、人を救おうとされた。今日の聖句でわかるように、人の罪を赦すには、神に執り成す祭司と罪の贖いの犠牲となる雄羊が必要なのだ。実際には、キリストが天の聖所の大祭司であり、牡羊の犠牲で象徴されたように、十字架で犠牲となられ、新しい契約の血を流された。イエスは言われた。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13参照)。そもそも罪は、愛を拒絶することだ。人は、愛である神に似せて造られたのだから、愛が必要な存在なのだ。それが、愛を否定するなら、どんな悲劇が生まれるだろうか。しかも、愛されたいのに愛されず、愛したいのに愛せない、これが罪の恐ろしさなのだ。誰もがこの呪いに苦しめられてきた。だから、人間を救うには、愛することでしかできない。驚くことに、そんな私たちを深く憐れんで、ただ愛することで救ってくださる方が生まれた。その方こそ、主イエス・キリストなのだ。これが、クリスマスの喜び、と言う理由だ。

 

12月26日(火)

わたしは言いました。「わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。神に逆らう者が目の前にいる。わたしの口にくつわをはめておこう。」

詩編39:2

 

クリスチャンにとって、厄介なことは、クリスチャンのいない町に住んで、神に逆らう者が目の前にいることです。そのどこが厄介なことか、と問われれば、実は自分の舌が災いを呼ぶかもしれないということなのです。神を恐れない人たちは、自分中心に物事を考えます。そのため、自分にとって正しいことを見つけると、他の人にもその正しいことを認めさせ、その通りにさせようとコントロールする傾向があるのです。ところが、その人にとっては正しいことでも、他人には正しくないということもまたしばしばあるのです。そんな時に、相手が自分をコントロールしていると感じると、反発して言ってはいけないことを言ってしまう可能性が高くなります。特にクリスチャンは、未信者をつまずかせたくないのです。自分の感情的な言葉で相手からクリスチャンのくせになんだ、と言われたくありません。また、不信仰なことを言ってしまうことだってごめんです。ダビデのように自分の口にくつわをはめておきたいぐらいです。こうして、不用意に舌を自由にしてはいけないことを学びました。黙っているというのは辛いことですが、とりあえずは役に立つはずです。(佐久間)

 

12月27日(水)

あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる。

詩編55:23

 

一人で悩むことはない。誰にも言えないことであっても、主は必ず聞いてくださる。それどころか、行き詰まっていると感じるなら、それはあなたの力では解決できない問題を抱えているということなので、すぐにでも主に重荷をゆだねよう。そうすれば、主はあなたにはできなかった問題の解決をされるだろう。主の知恵は、人間が考えるよなものとは違って、その場限りの解決ではない。その人の救いと深く関わる根本的な解決なのだ。信仰の極意は、主に従うこと。自分の意見を主に押し付けてはいけない。どのようなことになるかはわからないが、主にゆだねたら必ず従うことだ。間違っても自分の力でなんとかしようと愚かなことをしないことだ。聖書を読み続けているなら、それが聖書の教えていることだとわかるはずだ。主に従うと、自分の執着や盲信、偏見、思い込み、そのような視野を狭めて自滅するようなことから解放される。そればかりか、自分の力に頼ることを放棄して、主の御力に頼ると、主はその人が一生その問題で動揺することがないように完全に計ってくださるのだ。これは、本当に信じる者に約束されているので覚えておこう。(サクマ)

 

12月28日(木)

祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。祭壇の角のところまで、祭りのいけにえを綱で引いて行け。あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。わたしの神よ、あなたをあがめる。

詩編118:26~28

 

スクエアー・ジャパン・チャーチにいると神様を求めて来る人たちと毎週出会うことができます。不思議に思うほど、主の招きに従って来られる人たちを祝福するようになっています。たとえ、遠方で礼拝に来ることができなくても、主の民が必要な時に主が必ず祝福するようにと教会を用いていることがわかります。それは、み言葉の通りに、光を与えているのです。暗くなっていたところに明るい光がさしてまばゆいぐらいに光が満ちて来るところを何遍も見てきました。どんなに心が落ち込むようなことが起こっても、主の犠牲は人を救うことができるのです。ですから、希望が与えられ、信仰の火が灯り、愛が心を満たすのです。このように、主はいつでも信じる者を助けてくださいます。教会は、その事実を経験する場所です。私は、主の牧者として、イエス・キリストが兄弟姉妹を愛の力で助けてくださることの証人です。主に感謝せずにはいられません。ハレルヤ!(さくま)

 

12月29日(金)

主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。

詩編34:7

 

几帳面に規則を守りたい人、自由に考え規則に縛られない人、実に人間は個性的で面白いのですが、時々それが問題を引き起こすことも事実です。生真面目な人にとっては自由に振る舞う人はイライラの原因になるでしょうし、自由が大切だと思う人にとっては、四角四面に規則を守ろうとする人はおかしいと思うでしょう。さらに、生きてきた時代の違いも摩擦を生む原因になります。価値観の違いはどうすることもできなほど厄介なことです。その中で、クリスチャンも生きていかなければなりません。悪魔は、クリスチャンを敵と見なしているので、隙さえあれば攻撃して来る可能性があります。多くの場合、それは誘惑でありますが、時には脅かしや嫌がらせであることもあります。ある人があまりにも自分に対する態度がおかしいので悪魔のせいかもしれないと思い、祈ってみたら相手が急に変わって良くなった、というようなことはよく聞く事です。問題は、自分に敵意をむき出しにする人が現れた時です。その時には、今日の聖句を思い出してください。どんなにピンチになっても、感情的にならずに冷静に祈ることです。そして、御言葉を信じるのです。ここに書かれた聖句は本当に起こるのです。(佐久間)

 

12月30日(土)

愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。

Ⅰペトロ4:12

 

牧師になって一年目に火のような試練に遭いました。その時、一人の姉妹がこの御言葉を手紙に書いて励ましてくれました。その人は、聖霊の導きを知っていたのです。それで、私が試練に遭っていることがわかった時に、聖書を開き、祈って、手紙を書いて励ましたのです。私たちはそのような関係です。主にある家族なのです。そして、悪魔との霊の戦いでは戦友であり、最も信頼し祈り会える兄弟姉妹なのです。ですから、悪魔が何かしら攻撃を仕掛けてきた時には、人を恐れてはいけません。とにかく、祈りに時間を費やしなさい。祈りを通して勝利するのです。肉で勝とうとしてはいけません。敵の思うつぼです。そうではなく、あくまでも主イエス・キリストを信じて信頼するのです。祈って、心が変わるまで祈り続けてください。人のいないところで、主を呼ぶのです。祈りで勝てないことはありません。余計なことを考えて人間的な解決を図ると、泥沼に足を突っ込むことになかねないのです。それよりも確かなのは、イエス様に助けていただくことです。何しろ、主は十字架にかかるほどあなたを愛しておられるのです。だから、祈りを軽視しないでください。祈りだけで勝利したと言えるようになりましょう。(さくま)

 

12月31日(日)

主に望みをおき尋ね求める魂に、主は幸いをお与えになる。

哀歌3:25

 

信仰は使うものです。飾っていても役に立ちません。そこで、信仰を使うチャンスが与えられます。それは、主に望みをおくことです。何か問題がある時に、悩みが生じます。その時こそ、主が幸いをお与えになるチャンスが来たのです。まさに、ピンチはチャンスなのです。肝心なことは、その時に祈るということです。それも、ショートメールやLINEのように短いものではダメです。絶体絶命のような緊急性のある時には、いいかもしれませんが、普通は祈りに時間をかけたほうがいいのです。今日の聖句には「尋ね求める魂」という言葉が出て来ました。ですから、その時間が必要です。口先だけで祈るのではなく、魂から祈りが出てくるまで待つのです。あなたが神様を知っているのなら、神様を求めて魂を注ぎ出すことです。周りの空気が清まって来たことを感じるまで主に近ずけるといいですね。祈りを怠っていたのなら、一人になって祈りましょう。何かが起こるはずです。(さくま)