2017年4月 ディボーション

4月1日(土)

そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。

マタイ18:1~4

 

子供は大人のように野心を持って偉くなろうとはしない。だから、嘘をつく必要もないし、人を蹴落とす必要もない。人の足を引っ張るようなことだってしない。いちばん低い所にいれば気が楽なのだ。イエスは「心を入れ替えて子供のようになれ」と命じている。天国に入る条件なのだ。「自分を低くして」生きる。この世の競争社会とはずいぶん違っている。だからと言って、誰かの支配に屈するわけではない。ただ、イエスのように謙遜なだけだ。イエスは天の父を喜ばせようとしていた。私たちも同じだ。そのためには、権力争いに加わることなど決してしない。キリストに救っていただいたのだから、他の誰かに認めてもらう必要もない。キリストの十字架の意味を知ってしまったなら、高慢になったりできるだろうか。いや、できない。だから、今は子供のようになることは嫌ではない。そうゆう人を侮る人もいるが、気にすることはない。私たちの向かう先には天の国がある。それで十分なのだ。(サクマ)

 

4月2日(日)

愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。神の愛によって自分を守り、永遠の命へと導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。

ユダ20~21

 

クリスチャンは油断してはいけません。他の人を見て、それを尺度にして信仰の生活を決めてはいけません。あくまでも聖書を基準することです。もちろん自分勝手な解釈はいけませんが、祈りのうちに聖霊との交わりを通して聖書と一致する生活を求めていくのは正しいのです。この世は滅びます。聖書がそう預言しているから間違いありません。それなのにこの世に迎合しては危険なのです。どうか、あなたの標準を下げないでください。「最も聖なる信仰をよりどころして生活しなさい」。聖書を調べて、そこに書かれた通りに生きていけるように祈りましょう。自分ではできないことをするように言われているのではありません。肉は努力して自分の義としたがりますが、聖霊は神の愛の成就へと導きます。だから、神の愛によって自分を守るのです。あなたを助けるのは憐れみ深い主イエス・キリストです。このように聖書を読めば、どうやって祈るかがわかってくるのです。自力に頼るのではなく、あくまで信仰によって高みへ登ろうとすることは正しいことなのです。良いことが待っています。(佐久間)

 

4月3日(月)

私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

ヨハネ1:16

 

この世で一番高いものは命である。それでは、永遠の命はどうなるのだろう。誰も、自分の力では手に入らないものが永遠の命だ。どんなにこの世の富を積んでも決して買うことのできないものが永遠の命だ。ところが、この世界ですでにその永遠の命を手にしている者たちが存在する。それも、タダで手に入れたのだから、恵みということになる。私たちはクリスチャンになり、全く新しい人生を始めたのだが、それは恵みで救ってくださった主イエス・キリストの内にとどまって生きるという霊的な生き方である。当然のごとく、キリストは私たち信じる者たちに、恵みの上にさらに恵みを受けさせるお方なのだ。だから、正しい信仰は、躊躇なく主の恵みを受け取ることができる。それは、ごく単純なことだ、イエスを信じて救われたのと同じことだからだ。あなたは、何を信じて生きるだろうか。このみ言葉の通りに信じて入れば、恵みの意味がわかるだろう。すでに受けていることもわかるはずだ。(サクマ)

 

4月4日(火)

祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。

エレミヤ17:7

 

この聖句の反対は、「人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去っている人」(5節)です。聖書は、その人に「呪われよ」と書いてあります。これほど厳しいく書いてあるのは、人間には二つの選択肢があり、祝福と呪いの二つに分かれていることを教えています。信仰を持つことは決して自分一人で出来るわけではありません。必ず、神様の助けと働きがあってのことです。そして、一旦信仰を持ったなら、信仰に生きることが聖書の教えていることなのです。しかし、この世に生きていると、様々な誘惑の中で試みられることになります。そこで、主を信頼するか人間を信頼するか、どちらかを選択しなければならない状況が生まれるのです。不思議なことに主を選ぶ人と人間を選ぶ人に分かれるのです。同じクリスチャンなのに分かれるのは旧約聖書の時代から続いています。ですから、信仰を自分勝手に都合よく考えてはいけません。聖書の要求が厳しいからといって無視することは危険なのです。まだ聖書の意味がよく分からないなら、正直に神様に伝えることです。神様は無理やり難しいことを要求してはいないのです。今はできなくても、信仰が成長すれば自然と理解し、聖書の要求を満たすことができるはずです。ですから、いつでも正直であればいいのです。そのためにも主に信頼することが重要なのです。そうできれば、いつでも主がよりどころとなるはずです。これ以上の心強いことはありません。(さくま)

 

4月5日(水)

あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い、とこしえに喜び歌います。御名を愛する者はあなたに守られ、あなたによって喜び誇ります。主よ、あなたは従う人を祝福し、御旨のままに盾となってお守りくださいます。

詩篇5:12、13

 

神様を信じているといいことがあるだろうか?こんなことを考える人がいます。一方で、神様を信じている人がいます。その人に聞いてみればいいのです。もっとも、どのような神様のお守りがあるのかは詳しく知らないかもしれません。その人が気がつかなくても、神様は必ず盾となってて守っていてくださるのです。神様に守られたと気がつけば、喜びが湧いてきます。最悪の事態で、神様を信じて、愛している人は、主に従うのです。だから、超自然の力が働き、守られるのです。ですから、決して不信仰にならないように、言動に気を配りましょう。不信仰でも守るとは書いていないからです。万が一、悪いことが起こっても慌てることはありません。ただ主を避けどころとするだけです。何回でもあなたは主に守られることを見るでしょう。(さくま)

 

4月6日(木)

イスラエルの聖なる神、あなたを贖う主はこう言われる。わたしは主、あなたの神、わたしはあなたを教えて力をもたせ、あなたを導いて道を行かせる。

イザヤ48:17

 

主はあなたを贖いました。十字架で。墓の穴に入り、三日目に死を打ち破り復活されたのです。私たちが主を知り、信じることができたのは、主からの働きかけがあったからです。それを説明するのは難しくとも個人的には確かな経験なのです。個々人の導きは違っているでしょうが、同じ主がイエス・キリストを通して救ってくださったのです。そのあなたの神は、「あなたを教えて力を持たせ」ると語りました。ですから、霊的に何か教えられたことがあるはずです。それはあなたの力となります。そして、その力を持って主の導かれる道を行くことができるのです。自分の霊性を奮い起こしましょう。主への祈りと、信仰を通して霊的に主へ近づくのです。そうすれば主の導きがきっとわかります。日常生活の中に主の導きが見えてくるはずです。主は「バビロンを出よ」(20節)と命じています。あなたが拘束されていた所から解放される時がきます。力がなくて何もできなかったかもしれませんが、その力が主より来るのです。目が開けて何が本当に価値あるものか見極めることができますように。あなたが進むべき人生の道はあるからです。主の導きに従いましょう。(佐久間)

 

4月7日(金)

パウロは会堂に入って、三ヶ月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした。しかしある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、

使徒言行録19:8、9

 

使徒のパウロですら、伝道は簡単ではなかったのです。かたくなで信じようとはしない人たちがどこにでもいるのです。彼らは、この道(後のキリスト教のこと)を非難し始めました。すると、パウロは彼らと議論するのではなく、彼らから離れて行きました。そして、弟子たちも退かせたのです。それで、パウロは別の場所で伝道を再開しました。私たちも議論で誰かを打ち負かすのではなく、真理を語ってキリストを証することが大切です。非難されても、落ち込まずに聞く耳のある人を探して別の場所へ行けばいいのです。神の国の福音はこうして世界の果てまで広がったのです。東の果て日本が私たちの伝道地です。この国でキリストの愛と恵みを伝えて行きましょう。(佐久間)

 

4月8日(土)

人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。

マタイ12:37

 

人生がうまくいかないと相談に来る人の言葉は、驚くほど否定的で、その話した通りにひどいことになっている。そこで、言葉を変えるために考え方を変えることから一緒に考えることにしているのだが、全く聞こえていないのか、それとも聞く気がないのか、自分の考えに固執して否定的な言葉を他人にも自分にも浴びせかけている。その後、一ヶ月ぐらいして、また同じことを言って苦しみを訴えて来る。不平不満に満ちていることはわかるが、それがまた自分を不幸にしてしまうことが、なぜか理解できない。今までと反対のことを心が伴わなくてもいいから言ってみたらどうなるか試して欲しいのだ。自分がどれほど神様に愛されているか。神様は自分を宝のように大切に思ってくれている。神様がくださった能力を最大限生かしてみる。神様が自分のために周りの人間関係を用意してくださったので、すべてが益となる。自分に万が一困ったことが起こっても神様が助けてくださるので結果として困らないですむ。自分の体は神様に祝福されて健康だ。家族は主の愛が満ちているので仲が良い。自分の手にする仕事はことごく祝福されてるので見事に成果をあげるので褒められる。・・・、つまり言葉に秘密があるのです。いつも自分の口から出る言葉に注意しましょう。目の前で起こる物事を最善に変えるために言葉を使うのです。ちゃんと言葉に気をつけるようになると、最後の神様の裁きの時に良い結果が待っているでしょう。楽しく言葉を選んで幸福な人生を実現させたいですね。(佐久間)

 

4月9日(日)

しかし、人の中には霊があり、悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ。日を重ねれば賢くなるというのはなく、老人になればふさわしい分別ができるのでもない。

ヨブ記32:8、9

 

聖書は明瞭に人の中に霊があることを教えています。興味深いのは、人間は自然に悟るのではないということです。悟りを人に与えるのは神の聖霊です。それは、まさに神の息吹なのです。アダムを創造した時の土塊は神の息吹を吹き入れられて生きたものになったのです。その後、アダムは罪を犯し霊的には死んだ者となりました。その子孫の歴史こそが人間の歴史なのです。しかし、神は人間を救うことを決めていたのです。普通では到底理解できない方法で救いの道が作られました。そこでは、悔い改め福音を信じた人にもう一度神の息吹が吹き入れらることによって、新しく生まれることが計画されていたのです。ですから、ただ生まれてきたままの人は、いくら長く生きても真理に到達するわけではないのです。あなたが悟りを得たいのなら、人間に求めるのではなく、神に願って聖霊の息吹を送っていただくことです。そして、古い命ではなく新しい命に生きることです。(佐久間)

 

4月10日(月)

あなたは地に臨んで水を与え、豊かさを加えられます。神の水路は水をたたえ、地は穀物を備えます。あなたがそのように地を備え、畝を潤し、土をならし、豊かに飴を注いで柔らかにし、芽生えたものを祝福してくださるからです。

詩篇65:10、11

 

春になり、農家は忠実にするべきことをしています。用水路には水が満ちて流れています。そう思っていると、田に水が入っていました。どこからか水鳥が飛んできてその水の中を泳いでいます。そして、トラクターが田を行ったり来たりしています。何か一斉に命が目覚めたようです。雨が降ると全て緑のものが起き出します。枯れて死んでいたような世界がまるで復活したように緑色に覆われていくのです。カエルが鳴き、鳥が飛び、人の命の糧を得るために、全てが動き出した感じです。そして、詩篇に目を注ぐと、これらが創造主の働きであり、驚くべき奇跡なのだとわかるのです。それもそのはず、「あなたの過ぎ行かれる跡には油が滴っています」(12節)とある通り、聖霊の風が通り、神の息吹に吹かれ、眠りについていたものが皆目覚めるのです。これらが全て神の祝福であることを覚え、喜びましょう。主への讃美はこのようにして天に昇るのです。(佐久間)

 

4月11日(火)

成功する人は忍耐する人。背きを赦すことは人に輝きをそえる。

箴言19:11

 

巷には成功したい人がたくさんあふれています。そのために、成功のノウハウ本も多数出版されています。もちろん成功することは大切ですが、聖書には方法よりも成功する人の特質が書かれています。それが「忍耐する人」なのです。それと対をなすように「背きを赦す人」が出てきます。キリストは何度でも赦すように教えました。私たちも何度も神に赦されてきた者です。その神のような姿が私たちにも求められているのです。あなたが成功したいと願っているのなら、忍耐する人になる決心が必要です。それだけではなく、人を赦せる人になることです。それも背かれてもなお赦す人になれるなら、輝きを持つ人になれるというのです。つまり、人格が一段高い人になれるということです。このようなところに注意を向けるようになれば、ただお金を儲けたいとか偉くなりたいといった程度の人が絶対もつことのない麗しい品性を備えた人格者になれるということです。世界はそのような人を求めています。(佐久間)

 

4月12日(水)

わたしは主に求め、主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。

詩篇34:5

 

ここには、神様を信じる者が忘れてはいけないことが書かれています。それは、私たちが主に求めれば、主は答えてくださる、という真理です。悪魔が存在するのでこの世俗世界は悪魔的な精神が現れています。そこで、人間の中にも悪魔特有の「脅かし」をもって人を支配しようとする者がいるのです。学校や会社、あるいは家庭であっても、人間が複数集まる所ではいつでも起こりうるのです。ですから、信仰者は困って途方にくれた時に祈って主に求めます。すると、主は脅かすものから常に救い出してくださるのです。どうか、覚えていてください。主は「常に」救い出されます。だから、恐れないでください。毅然と立ち向かうことができますように。主に求めてください。そして、主によって勝利してください。(さくま)

 

4月13日(木)

あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び踊りました。万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名を持って呼ばれている者です。

エレミヤ15:16

 

「主は手を伸ばして、わたしの口に触れ、主はわたしに言われた。『見よ、わたしはあなたの口に、わたしの言葉を授ける。・・』」(1:9)エレミヤは若くして預言者に召され、神の言葉を語る者となった。それがどれほど厳しい人生を強いることになるか、エレミヤ書からもうかがい知ることができる。涙の預言者と言われる通りの人生が彼を待っていた。今日の御言葉を読むと、御言葉をむさぼり食べたとある。そのようにして聖書を読んだことがあるだろうか。聖書がいつでもそばにあって自由に読めるということがいつまでも続く保証はない。歴史上キリスト教徒は実に迫害され続けた。中国でもキリスト教が弾圧された時には、聖書が無くなった。もし、見ることがあれば、それは一生に一度の機会かも知れなかった。それで、聖書が奇跡的に手に入るとそれを各書毎に分冊にして回し読みをしたのだ。その時、手にした者は「むさぼり食べた」のだ。つまり、聖書を全部暗記した。いつでも読めるから読まない、という人との違いはどのように考えたらいいのだろう。御言葉によって喜び踊り出したいものだ。その人こそ、万軍の神の御名を持って呼ばれるだろう。(サクマ)

 

4月14日(金)

だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。

Ⅰコリント10:24

 

今日のみ言葉を考えてみてください。一見大変難しそうに見えますが、皆さんがしている仕事は誰かのために働いて他人の利益を提供しているのではないでしょうか。物を作って売る。何かのサービスを売る。こうした他人の利益を提供することで対価をいただいているわけです。しかし、仕事を嫌々やる人もいれば、自分の利益追及ばかり考える人もいるのです。食品偽装事件や手抜き工事の欠陥マンションや住宅など、自分の利益だけを追求するとそれは罪に行き着くことになります。「和風総本家」というテレビをみていると職人の作ったものを外国人が大切に使っていて、それぞれの様子をテレビ局の人がビデオで見せて教えると、使っている外国人がいたく感動し、心からの感謝の言葉を口にするのです。それを今度は職人にビデオで見せると、涙を流して喜びます。これは、聖書のみ言葉の通りだと納得ができました。ですから、自分の仕事は、自分の利益ではなく他人の利益を追求するためのもの、と心に言い聞かせておくことです。これだけで人生は楽しくなります。(さくま)

 

4月15日(土)

この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、ご自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。

ヘブライ7:25

 

天には人を救う仕組みがあります。聖書に書かれている通り聖所があり、イエス・キリストが大祭司で、人の罪の執り成しをしているのです。そこには愛があります。人が救われるのは神が愛であり、神に似せて創造された人間はもともと愛という特徴を持っていたのです。その愛が壊れて神とも隣人とも断絶している状態が現在の人間の姿なのです。その根本的な問題がある以上、人間の良い行いだけで天国へ入れるわけがないのです。人間には良心があるので正しく生きようとする人はいますが、罪の性質が自己中心なので、自分を守ることが第一になり、そのために罪が頭をもたげてくるのです。このような者がいくら正しい行いをしていると言っても、神の愛を人間も実現できるかと問われた時に、できないのです。そこで、神の救済には、神の息をもう一度吹き込むことを通して、再創造して神の愛を人間にも実現しようとしているのです。そうすれば、神を愛し、隣人を愛しという本来の姿を取り戻せるからです。そのためには、罪の清めが必要でイエス・キリストの十字架の贖いと天の聖所での大祭司キリストの執り成しがなければならないのです。この大祭司キリストこそがあなたを完全に救うことができるのです。(佐久間)

 

4月16日(日)

「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」

Ⅰペトロ3:10~12

 

クリスチャンはこの聖句を守ることを心に決めている人たちです。時には試みられることもあるでしょうが、誠実に主に頼って正しく生きようとします。私たちは主に愛されているので、大抵のことは耐えることができます。それでも、主への思いを第一にしていなければ、たちまち失敗してしまうのです。そこで、祈り、考え、へりくだり、昔のように自分の願いを神にかなえていただくために近づくのではなく、主の御心を行なっているかどうか気にして、主に近づこうとします。自分の祈りが神への語りかけになってきて、やがて信仰の告白となり、主への愛へと昇華するのです。主はあなたを見ています。愛情を注いで、優しい眼差しで見ておられます。あなたの心が天からの不思議な喜びで満たされますように。(佐久間)

 

4月17日(月)

御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。

コロサイ1:13

 

この聖句を読むと、天の父なる神はわたしたちを救ってくださったのは、単に罪からだけではなかったのです。わたしたちは実に闇の力から救い出されたのです。これは、明らかに悪魔、悪霊の力からの救いです。この世界には、悪魔や悪霊を信じない人たちもいますが、実際に聖書にはかなりその存在が書かれているのです。イエス様のことが書かれたマルコの福音書でも多くのページを割いて悪霊のことが書かれています。悪魔は人間を困らせることの名人なのです。教会にも平気で入って来ます。本当はクリスチャンの方が力があるのですが、そのことをクリスチャン自身が気がついていません。それで、偽って悪例の存在が驚異的で恐ろしいものだと思い込ませようとしているのです。しかし、御父が悪魔の支配下から救い出してくださったので、悪霊を必要以上に恐れてはいけません。わたしたちは今や御子イエスの支配下におかれています。だから、安全なのです。過去にも縛られずに、イエスと共に歩んでいけるのです。自分自身の問題の全てをイエスは解決してくださったのです。それをあなたは信じたので安全なのです。だから、悪魔の攻撃を受けたとしても、信仰で勝利できます。聖霊があなたを守っていてくださり、あなたの信仰でなんでもできるからです。(佐久間)

 

4月18日(火)

わが岩、わがあがない主なる主よ、どうか、私の口の言葉と、心の思いが、あなたのみ心に適いますように。

詩篇19:14

 

主を信じる者にとってキリストは岩のように不動な確かなものです。自分の足元をいつでもしっかりと支えてくださるのです。その主は、弱いわたしたちを励まし支えて力づけてくださいます。それだけでなく、恵みで全ての罪から贖ってくださいます。そのことがわかると、ありがたくて主になんとか応えたくなるのです。それで、一番大切なことは言葉と思いなのですが、この二つには関連性があります。心の思いが口をついて出て言葉となるのです。ですから、この二つが清いことが一番人間にとって良いことなのです。何より信仰者にとっては、主を悲しませたくないので、主のみ心に適うようにと願うことは必然なのです。聖書を読んで主の教えを理解することで人間は本当に内面が変えられ、内から輝きが溢れる人になれます。そのみ言葉の力が、さらに心の思いと口の言葉を主のみ心に一致させるように働くのです。力むことなく主を信じていたいですね。(佐久間)

 

4月19日(水)

わたしがお願いするのは、彼らを世からとり去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。

ヨハネ17:15~17

 

主はあなたのことも執り成してくださっています。悪い者から守ってくださるようにと祈っておられます。なぜそのようなありがたいことが起こっているかといえば、イエス様を信じて救われた人は、イエス様と同じようにこの世に属していないからです。そうであるのであれば、時が経つに従って、この世から隔たりを感じるようになります。そうでなければ、奇跡は起こりません。あなたがどうしてイエス様に似た者へと変えられているのかわからないでしょうが、何か意識的に努力をしたり修養の生活を送ったりしていないのに変わってきたのです。あなたは自分が聖なる者になることを知っています。自分の意識ではとても無理だと思っていたとしても、真理によって聖なる者へと変えられているのです。その真理が御言葉であることを覚えておきましょう。祈って聖書を読む、読んでも分からなければまた祈る。その箇所を何度も読んで、いつも考えていると、ある時急に意味がわかり、喜びが溢れることがあります。聖霊の働きですね。主の執り成しの祈りがわたしたちを聖なる者へと変える力であることは素晴らしいことです。主の祈りの通りになりますように。(さくま)

 

4月20日(木)

人は自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。

ガラテヤ6:7c、8

 

物事には必ず因果関係があります。つまり、原因があって結果があるのです。悪いことをして良い結果を期待してもそれはあり得ません。自分の生活に起こる出来事が自分がいつか蒔いたものを刈り取っているだけであると気がつくことが肝心です。肉に蒔くとは、自分の欲望を満たそうとして行った事を意味しています。霊に蒔くとは、自分ではなく神様の御心が成るようにゆだねたことを意味しています。信仰で生きていくことを決めるととても楽になります。そして、日々の生活の中で何でも信仰によって考えるようになると、欲が消えて行くのです。神様を信頼すると恵みが普通になってくるのです。このように、あなたは原因を毎日刻々と作って行くのです。その結果が良いものとなるのはあなたが何を蒔いているかにかかっているのです。(佐久間)

 

4月21日(金)

主は六つのことを憎み、七つのことが主にいみきらわれる。高ぶる目、偽りの舌、罪のない人の血を流す手、危害を及ぼす行為を考え出す心、悪をなすために速く走る足、嘘八百を並べる偽りの証人、兄弟の間にけんかを扇動する人。

箴言6:16-19

 

この箇所は、新共同訳では項目が八つになっている。「嘘八百を並べる偽りの証人」を「欺いて発言する者、うそをつく証人」の二つに分けて訳しているために「六つ・・・七つ」となっているのに数えると八つになっているので文字通り七つに分けている訳を採用した。ここに数え上げた項目はニュースに出てくる犯罪者のそれだ。この世になぜ多くの犯罪があるのか、特に悲惨な事件が起こると人の心に湧く疑問だ。神は一体何をしているのか、と言う人もいるだろう。しかし、主は無関心でいるのではない。聖書に書かれているように、これらは主が憎み、忌み嫌われることなのだ。犯罪者が知れば最も恐ろしいことだろう。しかし、この七つの事は人間の誰にでも起こり得ることばかりだ。自分の置かれた環境や状態でこのような忌み嫌われることになりかねないのだ。だからこそ、主を知ることが大切なのだ。主を知るとは、今日の聖句から学んだように主の憎むことがわかると、これは人間が絶対避けなければならないことだとわかるということだ。そうでなければ、悪を許し、仕方がなかったと言い訳しなければならなくなるのだがその人に望みは無い、当然の報いを受けることになる。だから、この格言も覚えて戒めとしよう。(サクマ)

 

4月22日(土)

柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。

箴言15:1

 

ちょっとしたことですぐに切れる人がいます。特に高齢者に多く見られることが最近話題になっています。人間がただ年をとることは誰にでもできますが、それではあまりにも悲しいです。できれば人格者とまではいかないまでも年相応の成熟した人間には達したいものです。そこで、今日の御言葉です。いつでも柔らかな答えができたらいいですね。年齢を重ねてくると自分の言いたいことがとっさに出てこないので、切れてしまうようです。若い人でも、頭の中で処理し切れないことが起これば、パニックを引き起こして切れてしまうのです。そんな時に、一緒になって興奮して大声を出してはいけません。柔らかな答えが相手の感情をたちまち静めることができるのです。それに対して、激しい言葉は喧嘩の起爆剤のようなものです。ですから、激しい言葉は封印することです。自分の周りがいつも穏やかで心地よいと思えるためにも、柔らかな言葉を普段から使いたいですね。(さくま)

 

4月23日(日)

あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

マタイ6:6

 

祈ることは誰でもできます。そして、いつでも祈るべきです。でも、義務ではありません。祈りの極意は聖書に書かれています。ここに書かれている聖句もその一つです。ここでは祈る場所のことが命じられています。わかりやすいのは文字どおりに祈りを邪魔されずに何でも祈れる場所を確保することです。それは、部屋の隅に座布団一枚敷いただけでも良いのです。いつもそこで大事な祈りをする場所が必要ですね。それは、ドラえもんのどこでもドアーのようなもので、天のお父様への直通電話のように祈りのホットラインとなります。もう少し深く考えれば、「自分の奥まった部屋」とは心の最も深い所です。そこには聖霊もとどまることができる大切な場所です。霊とか魂がどこにいると思いますか。まさに、霊や魂がある場所、戸を締めれば、誰も邪魔することができない所です。ここは、この世と通じていません。だから、人の目も人の耳も気にする必要がありません。隠していた自分の思いや感情、それに記憶まで公開しても大丈夫な部屋です。そこで、人に聞かせるような祈りではなく、神様だけが聞くことのできる祈りをささげます。それに対して天のお父様は、ちゃんとあなたに最高の答えをされます。このような祈りの方法を確立しておけば安心です。イエス様のお言葉の通りにする人は報いを受けています。(さくま)

 

4月24日(月)

私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。

ホセア6:3

 

私たちは主を知ることを奨励されています。人の話を信じて信仰を持っているのではどうも心もとないのです。立派な本をたくさん読んだからそれで主を知ったことになるかといえば、それだけでは足りないのです。誰か人を知る時には、直接会って一緒にいることが大切です。色々話してみるとその人のことがわかってきます。それまで、自分が誤解して理解していたと思うことだってあるでしょう。主も同じです。あなたは主に愛されているので信仰を持っているはずです。ですから主を知ることを切に追い求めましょう。昔、まだ暗いうちから早起きしてグランドキャニオンの朝日を見に行きました。今までで一番感動した日の出でした。それと同じぐらい確かに主は現れるというのです。大雨が降っているのに気がつかない人はいません。再臨直前に最後の聖霊降下があります。それと同じように聖霊に満たされることと同じように主はあなたの元へ来てくださるのです。主を知ることを求めて祈りましょう。(佐久間)

 

4月26日(水)

わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。

詩篇32:8

 

神様を信じる人生がどれほど恵まれているか考えてみよう。神様は、たくさんの祝福を私たちのために用意されている。例えば、子供と話をしてみると私たち大人がどれほど多くのことを学んで来たかわかるが、人間は成長することができるということだ。ただ単に体が大きくなるだけでなく、知識が増え、体験から様々なことを学ぶことができる、賢くなることができる。しかし、聖書で示されるまでもなく、この世界には賢い人と愚かな人がいることも事実で、その人が何を選んできたかで結果がそれぞれ決まったわけだ。自分の若い時のことを思い出せば、もっとああしておけばよかったと後悔することだってあるだろう。そして、「まだ若くて愚かだった」と言うことだっていくらでもある。そうした人生を変える存在が神様だ。どうしてかわからないが神様はあなたを気に入っている。そして、あなたに今日のみ言葉の通りに語っている。そう思ってもう一度聖句を読んでみよう。大人になると、助言を与えてくれる人がだんだんいなくなるものだ。でも、あなたがたとえ白髪になっても、主は変わることなくあなたに助言を惜しまないだろう。最高の人生を歩むために。(サクマ)

 

4月27日(木)

あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。

詩篇103:5

 

クリスチャンの素晴らしさは、信じることができることです。それも、主の御言葉を疑わずに信じることができるのです。信じる力は現代人とって非常に弱くなっています。何でも疑い、批判し、否定することに慣れてしまったのです。クリスチャンはそのような環境の中を通ってきたために、信じると口で言っていながら、悪魔が耳元でちょっと否定的に囁くとそちらの方を信じることの方が得意になってしまいました。肯定的な考えや楽観的な意見には、どこかで否定する気持ちが働いていたりします。そこで、クリスチャンはとても損をしているのです。他人はともかく、あなたはどうしたいのでしょうか。御言葉を信じて、信じたとおりになりたいのか、この世の人たちと同じように信じたぐらいでは何も起こらない、世の中そんなに甘くはない、と言って信じきろうとしないのでしょうか。私は聖書を読んで、心に響く御言葉をそのまま信じます。例えば、今朝の御言葉です。主が、私の一生を良いもので満たされることを信じたので、私の一生は素晴らしいことになります。これは楽しいことです。あなたもやってみませんか。そして、信じることが奇跡を生むことを確かめてください。(さくま)

 

4月28日(金)

私が呼んだその日に、あなたは私に答え、私のたましいに力を与えて強くされました。

詩篇138:3

 

神様とあなたの関係を考えたことがあるだろうか。今日の聖句を注意深く読んで見てほしい。私たちには感情が備わっているので、浮かれている日もあるが、落ち込んだり、不安になることもある。自分はダメだと思いつめて否定的な思いに押しつぶされそうにだってなることがある。それも、大抵は大した根拠もなく、将来への不安やいわれのない恐れだったりする。しかし、考えてほしい、あなたは誰か。あなたはクリスチャンではないか。あなたの救いはあなたが立派になったり、悟りを開いたからではない。ありのままの姿で救われたはずだ。だから、自分を見ればもっと頑張ってどうにかしないと、と思うはずだ。しかし、それであなたが変わるわけではない。あなたの内に聖霊が宿り、その聖霊があなたを新しく変える。あなたは、自分の感情に振り回されてはいけない。信仰によって生きることが聖書に書かれていたではないか。だから、自分ではなく神様によって救われ義とされ、キリストのように変えられていくのだ。だから、あなたが弱った時には、今日の聖句の通りにすればいい。主はこの通りにしてくださる。なんてありがたいことだろう。(サクマ)

 

4月29日(土)

わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。

ヤコブ3:2

 

言葉は難しいものですね。言葉でどれほど失敗してきたでしょう。言葉で人を励まそうとして逆に傷つけてしまったり、考えもなく行った言葉で誤解を招いたり、簡単に言葉で罪を犯してしまうのです。美しい言葉を語ろう、柔らかい言葉を語ろう、気持ちが良い言葉を語ろう、愛に満ちた言葉を語ろう。そんなことを思っていても、感情的になれば、何を言い出すかわかりません。怒りに任せれば言葉は制御不能です。確かに避けたいような危険な人や否定的なことばかり言って周りの人を困らせる人もいます。そのような人に会えば感情に振り回されるかもしれません。そのような時にどのような言葉を語っているか心配になります。少し言葉に気をつけてみましょう。優しい、人を祝福する言葉を語れる人になりたいですね。(さくま)

 

4月30日(日)

神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。

使徒言行録2:32、33

 

考えたことがありますか。私たちがイエスの復活の証人であるということを。証人であれば、黙っているわけにはいきません。必要とあらば、大胆に証言する必要があります。もっとも、選挙カーのように大音量で叫ぶ必要はありません。それよりも、聖書に書かれた通りに、イエスは天に上げられ、約束の聖霊を注いでくださったことが真実であると自分を証拠として示す方が重要です。つまり、過去の清算をして新しい命に生きていることを見せる必要があるわけです。もっと、カッコよくイエス様のようになれていればいいのですが、実際にはそれほどカッコよくとは言えないのですが、本質的に変えらえていることを知ってもらえればいいのです。自分で努力して立派になったら自分を誇るでしょうが、そうならないように肉の弱さを未だ持っているわけです。それで、神の憐れみとイエスの恵みによって聖霊を注がれて、その聖霊が内側から変えてくださっているので、ありがたいと証言するわけです。それで、自分のことを誇ることができないが、この新しい命に生きることほど素晴らしい体験はないと主を讃美するわけです。こうした経験自体が自分を義人へと変える力になるのです。この証人ということも特権なのです。(さくま)