2017年5月ディボーション

5月1日(月)

何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

ローマ4:5

 

私たちはあまり誇れるような人生を歩んでこなかったかもしれません。今だって、神様に何をしたと誇れるでしょうか。逆に、自分は罪深くて恥ずかしい人生を送ってきたから神様に愛されるはずはないと言う人もいます。そのようなことは大なり小なり誰の人生にだってあるでしょう。もし、もっと恵まれていたら、愛情深い賢明な親に育てられていたら、特別な才能があれば、強い心があれば、と私たちは時々空しいことを考えて、こんな自分ではダメだ、もっと努力しなければと言ったりします。何しろ、この世は競争社会だし、すぐに人を批判的に評価する社会なので、何か頑張らなければ認めてもらえないのです。愛されるだけでも大変な努力を要求されてしまうのです。だから、今日の聖句は驚きです。「何の働きもない者」、まさに自分のことだと思います。しかも「不敬虔な者」って自分そのものだとうなずいてしまいます。ところが、そのような私を大丈夫、合格だと認めてくださる方が神様なのです。だから、ダメだと思っていた自分にも希望があるのです。それは、このダメな自分を義と認めてくださる方を信じることでいいのです。この一点だけ集中的に考えて実行してください。その信仰が義とみなされるのです。(さくま)

 

5月2日(火)

主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。

民数記6:24-26

 

これは祝祷の言葉として知られています。主がモーセを通してアロンとその子らに命じられたのはイスラエルの人々を祝福して今日の聖句の通りに言いなさい、ということでした。それが今日、キリスト教会でも祝祷として使われているのです。願わくば、この祝福の言葉だけを言う係になりたいものです。そこで、今日は、このディボーションを読んでくださる方にこの主が命じられた通りの祝福の言葉を贈ります。この御言葉の通りにあなたの上になりますように。良い一日をお過ごしください。(佐久間)

 

5月3日(水)

裁きの胸当てにはウリムとトンミムを入れる。それらは、アロンが主に御前に出るときに、その胸に帯びる。アロンはこうして、イスラエルの人々の裁きを、主に御前に常に胸に帯びるのである。

出エジプト記28:30

 

祭司の正装は神様のお決めに従ったものです。胸当ては二重になっていました。それは、ウリムとトンミムを入れておくためです。これが一体どうのようなものであったかは定かではありません。しかし、宝石であったと思われています。ヘブル語で「光」と「完全」と言う意味です。聖書時代には人々は何か問題が起こって重大な決定をしなければならない時など、祭司のもとを訪れ、聞くことができました。その時、祭司はウリムとトンミムを帯びることによって神様に直接聞くことができたのです。ですから答えは明瞭でした。今日、私たちはイエス・キリストという祭司がいてくださいます。天の聖所でわたしたちのために祭司の務めを果たしてくださっているのです。ですから、私たちは直接、天の祭司であるイエス・キリストへ祈りを通して聞くことができます。そのため、主は明瞭に道を示し、答えを与えてくださいます。これほどの恩恵はありません。ですから、不安や悩みがあれば、主に祈りましょう。主はそれを放ってはおかれません。必ず最善の答えを与えてくださいますから、安心して静かに主の答えを待てばいいのです。(さくま)

 

5月4日(木)

わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。

ヘブライ10:21、22

 

信じて救われるという言い方がありますが、今日の聖句を読むとその通りだとわかります。自分の力で清くなったわけではありませんが、過去のどんなことでも主が清めてくださったのです。ですから、「良心のとがめはなくなり」と書いてある通りに、過去のことでいちいち思い出しては悩む必要がありません。自分で自分を裁くこともしてはいけません。天の大祭司が罪の問題を全て解決し清めてくださったからです。清くなっているからこそ、神に近づくように言われているのです。ここでは、信頼しきること、真心から神に近づくことが求められています。信仰者にとって、自分が救われて生まれ変わったことがわかるために必要なことです。そして、新しい命で生きることの意味を神に近づいて知るのです。(佐久間)

 

5月5日(金)

主よ、良い人、心のまっすぐな人を幸せにしてください。

詩篇125:4

 

一見当たり前のことを言っているように思える聖句です。では、良い人とはどういう人のことだろう。心のまっすぐな人とは何を言っているのだろう。クリスチャンは無意識にこの二つを自分に当てはめようとしている人のことです。クリスチャンになっただけでは天国に入れるかどうかわからないと思っていると、どうしても良い行いに頼りたくなる。しかし、福音は主の恵みによる救いを説くので、何もしなくても義とされると自分に言い聞かせるのだが、良い人として生きていかなければやはりダメだろうと思ってしまう。それで、問題となるのは、自分の欲が消えてなくならないと誘惑に勝てないので、良い人を貫こうとしても中途半端に終わってしまうということだ。とにかく自分を正当化する誘惑に勝つことは容易ではない。そこで、どうするかといえば、結局、嘘をつかない、というシンプルな答えになる。自分にも正直になることを意識するわけだ。そこで、ようやく神に向かうことができる。そうなると、恥ずかしいことでもなんでも神に言うことができるようになる。そうやって、神との関係を変えていくと、聖書の戒めを守ってやるぞ、という気負いが消えて自然体になる。気づけば心のまっすぐな人になっているはずだ。これは聖霊が働きやすくなったからだ。つまり神に従順になっているということなのだ。(サクマ)

 

5月6日(土)

神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。

1ヨハネ4:16b

 

 

私たちは、神に愛されていることを知ったのです。自慢できるほど高潔な生き方をしてきたとは言い難いのですが、それでも、神は愛を最初に示されたのです。驚くことに、神とは愛そのものなのです。私たちは愛が最上のものであることを神に愛されて初めてわかりました。愛がなければ人間はどうなってしまうかわからないのです。愛は自分を相手に与えることです。それはキリストのご生涯を見ればよくわかります。そして、天の父も愛をあ惜しむことはありませんでした。それは、私たちを神の愛にとどまることを可能にしました。もはや誰にも左右されることなく、神を信じています。愛は神の特性なので、神の内にとどまることなしには愛は成立しないのです。しかも、一方通行では愛とは呼べません。神もその人の内にとどまってくださいます。だから、愛は全てを与えるものなのです。(佐久間)

 

5月7日(日)

弱者を憐れむ人は主に貸す人。その行いは必ず報いられる。

箴言19:17

 

この世界には、弱い人も強い人もいます。実際に、生活に困窮し困っている人も少なくないのです。それは、自分との関わりがないと他人事になってしまいがちですが、ある日、自分の近くにそうした弱者がいることに気がつきます。その時に、何かできることをして助けるチャンスが与えられるのです。心からの憐れみは善い行いとなります。本人にとっては、わずかなことできっと忘れてしまうかもしれませんが、主は決して忘れません。主に貸したことになると聖書は教えていますから、その行いは必ず報いられるのです。そうでなければ、この世界はもっと残酷で惨めなものになるはずです。今でも、ご飯を食べることのできない子供がいるなんて心が痛みます。主はきっと誰かを通してなんとかしたいと思われているはずです。あなたのできることをしてみてはどうでしょう。(さくま)

 

5月8日(月)

わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。

フィリピ1:9

 

クリスチャンになっても何もしないでいて良いというわけではありません。成長することができるので、霊的に成長することを目指すことは正しいのです。日々の生活でも信仰は試されています。ところで、今日の聖句を読むと、知る力と見抜く力を身につける必要があることがわかります。それは、人間的なものではありません。愛がますます豊かになることから出てくる見分けの力です。自分を中心に考えるとどうしても敵か味方かという基準で見てしまいがちです。人によっては、あった瞬間から好き嫌いが出てくることもあります。ですから、ここで聖書に書かれていることとは違っています。肉ではなく霊、とパウロが言っているように、霊的な事柄なのです。本当に重要なことを見分けることができれば、多くの煩いから解放されますし、精神的にもこだわりが消えていくので楽になります。それに、危険を回避できますし、人の心の問題も気づくことができるでしょうし、人をキリストに導いて救うことも可能になってきます。罪が何であるかも知ることができるでしょう。主の御心であるかどうかも間違うことがなくなるのです。利己心があれば見分けることができませんから、本物の信仰が要求されているということですね。(佐久間)

 

5月9日(火)

私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはことはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

Ⅱコリント4:8、9

 

これはクリスチャンの不思議です。どんな最悪なことが我が身に起こっても、そこから当然起こるであろう悪いはずの結果が逆転しているのです。悪魔がどんなにクリスチャンを憎んでひどい目にあわせようとしてもできないのです。それだけの大きな力がクリスチャンを守っているからです。決して、嫌なことが起こらないとはいいません。しかし、そのような時にこそ、信仰を発揮するチャンスなのです。一旦否定的な気持ちに支配されるとそこから抜け出すのは大変です。ですから、クリスチャンは明らかに悪いことが起こった時に、このような聖句を思い出してまずは読んでみることです。そして、主を信じてください。現実は厳しいはずなのにどうゆうわけか逃れの道が見つかったり、何もしないのに問題が解決したり、助け手が現れて救われたりします。だから、結果だけ見ると驚くような良いことが起こっているのです。まるで不死身のヒーローのように倒されても、滅びないのです。これが、あなたの姿です。さあ、自信を持って、今日も明るく元気に始めましょう。(さくま)

 

5月10日(水)

命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。

ルカ17:9、10

 

私たちは何か良いことをするとそのことを誇りたくなるものだ。それが苦労して頑張ったならなおさらだ。誰かに認めてもらいたい、褒めてもらいたいという気持ちが湧いてくる。しかし、クリスチャンになると様子が変わってくるから不思議だ。自分の功績で義となるということは無いと聖書は明確に教えている。そこで、クリスチャンはだんだんこの世の人の考え方から変えられていくことになる。謙遜とかへりくだりが美徳で、まさに目指すべき目標となる。もっとも心からの謙遜は、努力では到底到達しないので、信仰者は荒野の旅に出ることなる。それは試練と呼ぶような経験となるが、そこでしか砕かれない強固な自我や欲望が取り除かれ、主への従順を学ぶことになる。今日の聖句に出てくる僕の言葉を考えてみよう。このように主へのへりくだりを示せるようになりたいものだ。(サクマ)

 

5月11日(木)

すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。

ローマ14:7、8

 

人は何のために生きるのか、と考えたことがあると思います。聖書は、その答えとして、神のために生きると教えます。もちろん、キリストのためと言っても同じです。さて、この考え方は現代人にとって考えたこともない驚きです。なぜなら、自分たのために生きていると思っているからです。そのために、よく悩みます。ちょっと困難なことやつまずくことがあれば、すぐに死にたいと言ったりします。でも、クリスチャンはキリストのために生きると言います。それは、生き方を変え、ものの見方を大きく変えるのです。このような考えは、私たちがキリストによって救われ、今はキリストのものだと知っているからです。このキリストこそが自らの命を犠牲にしてまで救ってくださり、神の愛を見せてくださったのです。だから、この犠牲的愛に応えようと主を愛することがキリストのために生きるということなのです。もうこの世には支配されない生き方ですね。(佐久間)

 

5月12日(金)

イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。・・」

マタイ22:29、30

 

今日は、面白い箇所です。クリスチャンは復活することになっています。だから、死んだ人は、眠っている状態と言われています。それなのでイエス様は神の民が復活を約束されているので死んでいないと言うのです。今日の聖句の続きを参照してください。そして、興味深いのは、復活して天国に入ることになるのですが、その時には地上の結婚のようなことが無いと言うのです。ただ、天使のようになるということです。大きな変化が起こるのですね。そのためにも、地上生涯では聖化が起こっているわけです。もちろん、聖霊が働いてのことですが。天国が素晴らしいところであるのは間違いありませんが、今のままの延長では無いことも確かです。大きな変容があって、天使のようになることを覚えておきましょう。(さくま)

 

5月13日(土)

神の道は完全、主の仰せは火で練り清められている。すべて御もとに身を寄せる人に、主は盾となってくださる。

詩編18:31

 

人間には色々な性格があり、個性も感性も実に様々なのです。何かを行う時に完璧でないと気が済まない人もいれば、そのようなことを考えたこともない人だっているのです。しかし、聖書が「神の道は完全」と言った時には、私たちにとって最高の人生という意味で完全と言っているのです。つまり、神を信じる者がなぜ右にも左にもそれずに正しい最善の道を歩めるのか、それは、神を信頼して自分の人生を任せている人に天国へ通じる道へと主が導いてくださるからです。そして、聖書を読む時に個人的に神が語りかけてくださる言葉は真理であり、暗闇を照らす光なのです。このように主を信じて生きるということは、特別なことで、いざとなれば主が盾となって守ってくださる保証があるということです。ですから、主の御もとに身を寄せることを忘れないでください。(佐久間)

 

5月14日(日)

いかに楽しいことでしょう、主に感謝をささげることは、いと高き神よ、御名をほめ歌い朝ごとに、あなたの慈しみを、夜ごとに、あなたのまことをのべ伝えることは十弦の琴に合わせ、竪琴に合わせ、琴の調べに合わせて。

 

牧師インターンになって、札幌で働き始めた時に、家庭集会にギターを持っていって新しい讃美歌を歌いました。参加者の中で一番年長のご婦人が楽しいと大変喜んでくださいましたので、それ以来、ギターは活躍してくれました。決して上手とは言えないのですが、野外でもどこでも重宝しました。アメリカから日本に戻ってきたときもすぐにギターを買いました。そのギターを持ち運ぶ時に重く感じるようになって、軽いギターに買い換えました。同じ楽器でも神様をほめたたえるために使うのは特別な祝福となります。主に感謝をささげることは楽しいことなのです。この世の楽しみは後で虚しくなりますが、主を讃美することは心を喜びで満たすことなので、生きる力となるのです。聖書時代から弦楽器が使われていたことも興味深いですね。(さくま)

 

5月15日(月)

わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し変わることなく慈しみを注ぐ。

エレミヤ31:3

 

あなたは愛されている。それも絶対裏切らない神様から愛されている。この愛は筋金入りだ。何しろ、私たちが心に負い目を持つような罪深い時期も含めて愛することをやめていないのだ。だから、今日もいい日になるはずだ。あなたは、神様から完璧に愛されているのだから、誰も神様の愛を妨げることなどできない。だから、人が何を言おうが、しようがあなたに害を及ぼすことなどできないのだ。神様を敵にしようなどと誰も考えない。その神様のお気に入りにちょっかいをかけたら、一体どんな恐ろしいことになるだろう。想像するのも恐ろしい。神様は、聖書に書いたことを守り実行されるので、今日のみ言葉を何度も読んで、心に納得させよう。神様はエルサレムを愛するように、あなたを愛している。だから、変わることなく慈しみを注がれるのだ。気分良く一日を過ごすことができるはずだ。愛されているあなたは輝いているだろう。自信も湧いてくる。何か良いことが起こりそうな予感がしないだろうか。楽しみに一日を始めることにしよう。(さくま)

 

5月16日(火)

あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。

ルカ6:36

 

このように生きることができれば、人生は全く変わったものとなる。人は自分が脅かされることに容赦はない。それだけいつでも心は注意深く用心しているのだ。当然、疲れるし、人間関係の悩みはいつでも生じるわけだ。しかし、キリストの教えは常識を覆すような自然では出てこない考えだ。例えば、「あなたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。」(35節)と命じている。これは、ギブアンドテイクで考える人間には受け入れがたい。自分だけ損をするなんて考えられない。善いことをしてもよいが何か相応の見返りがなければ納得できない。人から良く思われようとすれば、与えることの方が多くなるので、そのうち嫌になり、怒りに変わる。だから、キリストは、初めのところを変えようと言うのだ。つまり、天の神のように憐れみ深い者となるのだ。憐れみの心のもとでは、多くのことが赦せるし、そもそも初めから見返りなど要求していないから憐れみと言っているのだ。今日の聖句をよく理解できるまで考えてみよう。わからなければ、聖霊に助けを求めて祈ることだ。報いは大きい。あなたならきっとできるようになる。(サクマ)

 

5月17日(水)

子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩き出した。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。

ルカ5:41、42

 

この物語は、会堂長の娘が死んだ後、イエスがこの少女をよみがえらせたというものです。この物語では、娘が死んだ知らせを受けて、まずイエスが、「恐れることはない。ただ信じなさい」と父親に言います。死は全てを奪い決して返してくれません。だから、娘が死ねば恐れるのは当然です。それなのに、イエスは「恐れるな」と言われるのです。そして重要なのは、「ただ信じなさい」というイエスのお言葉です。死以上の絶望はないのですが、それすらもイエスは打ち破る力を持っているのです。それを与えることのできる人は、「恐れずに、信じる人」です。そして、今日の聖句が教えていることのポイントは、人間は意外にも幼い時代に傷つき、霊的に成長を止めることがあるのです。しかし、時満ちて、イエスがとうとう見つけてくださると、起こしてくれるのです。つまり、霊的に生き返るのです。そうするとその時に全てが正常に戻ります。ですから、その人の年齢にふさわしく歩み始めることができるようになります。イエスがあなたのために何をしてくださったのか正しく理解して、生き生きと生きて行きたいですね。(佐久間)

 

5月18日(木)

主は荒れ野で彼を見いだし、獣のほえる不毛の地でこれを見つけ、これを囲い、いたわり、ご自分のひとみのように守られた。

申命記32:10

 

荒れ野とは、信仰の旅路で遭遇する試練のことや罪の世界を生きる人生そのものを意味します。そこでは、獣に出会った時のように恐ろしい目に遭わされたり、何をしてもうまくいかずに空しさが募ったりするのですが、神様がそのような哀れな私たちを見つけ出してくださるのです。神様はただ見ているだけではありません、すぐに保護して、いたわり、もう大丈夫と安心させてくださいます。それだけではなく、ご自分の瞳のように守られると約束されているのです。だから、あなたはもう神様に探し出していただいたので、何も恐れる必要はありません。悪魔が吠え猛る獣のように脅かすことが万が一あったりしても、神様の守りは完全なので心配する必要はないのです。ありがたいことです。ですから、堂々と善い道を選んで進めば、恵みに満ちた人生になるでしょう。(さくま)

 

5月19日(金)

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。・・・」

マタイ7:21

 

「天の父の御心」・・・? 何気なく普段から口をついて出てくる言葉です。では天の父の御心とは何ですか? そう考えると急に難しくなります。コロサイ1:9には「どうか、”霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。」とあります。ここからわかることは、①聖霊によって悟るものなんだ、と言うことです。それは、結果として②主の喜ばれるように主に従って生きることです。当然、③善い業を行うようになりますが、それは実を結ぶものです。そのような信仰による生き方は、神に近づくことになるので④神をもっと深く知ることができます。だから、主に知られるかどうかと言うことにもなります。クリスチャンには、このように目指すべき聖書的な正しい生き方があるのです。(佐久間)

 

5月20日(土)

それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。

ルカ21:25-27

 

私たちは平和になれてしまった。近くで戦争の脅威があっても気にも留めない。大きな災害や飢饉があっても、すぐに忘れる。難民問題で世界が揺れても、自分の利益を守ることに汲々となってしまう。一時恐ろしいことが起こっても、すぐに元に戻ると思っている。アメリカの調査では、キリスト教会で熱心な信者の間に、非聖書的な世界観が広がっているというのだ。教会に定期的に通っているクリスチャンのうち、聖書的世界観を持っていたのはわずか17%だけだったという。聖書の預言はことごとく成就して来たが、主の再臨を待っているこの時期に、いよいよ聖書の預言のようになって来た。天体が揺り動かされるようなことになれば、地震どころではない、海が尋常ではない状態になるはずだ。見たこともない恐ろしい情景に、なすすべもなく恐怖で気を失うほどのことが起こる。その時、主の再臨を見ることになるのだ。聖徒たちは、いつも目を覚まして祈るようにと主は言われた。くれぐれも油断しないように、解放の時を待ち望もう。(サクマ)

 

5月21日(日)

それゆえ、主は恵みを与えようとしてあなたたちを待ち、それゆえ、主は憐れみを与えようとして立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。

イザヤ30:18

 

あなたが神様を信じていることは、ご自分が考えている以上に素晴らしいことです。おそらく、想像もつかないほど大きな恵みを得ているのです。そもそも、あなたの主は、恵みを与えようとして待っておられる神様なのです。だから、恵みを素直に受けてください。あなたが日々の生活で理不尽な目にあったり、一生懸命に生きていても失敗したり、騙されたり、裏切られたり、何をやっても上手くいかなくてひどく落ち込んだり、孤独に思える時、主は憐れみを与えようと立ち上がるのです。あなたがクリスチャンなので正しく生きようとしても、それで上手くいくという保証はありません。実際に悪人もいるし、友達や家族に裏切られることだってあります。時には誤解され、悪者にされて悪い噂をたてられることだって起こり得るのです。でも、あなたには正義の神様がついています。神様はあなたが正しいとわかっていてくださるのです。だから、あなたは神様に祈り、言葉でも罪を犯さないようにするでしょう。そして、主が助けてくださり、問題を解決してくださることを待ち望むのです。結果はわかりますよね。あなたは幸いな人なのです。(さくま)

 

 5月22日(月)

どのような苦労にも利益がある。口先だけの言葉は欠乏をもたらす。

箴言14:23

 

人生にはしたくないことや嫌なことは避けたくても避けることができないようだ。問題は、同じような困難が襲いかかる時に、どう対処するかということになる。人間には想像以上に大きな力が隠されているのだが、それはこうした非常時にこそ発揮されるようにできている。だから、必ず試練は乗り切ることができるのだが、そのためには考え方が重要となる。今日の御言葉はまさにそのことを教えている。つまり、「どのような苦労にも利益がある」この言葉を覚えて自分に言い聞かせればいいのだ。人間いは向上心があるので、利益があれば積極的になれるのだ。スポーツ選手は強くなるために苦しい訓練を怠らない。それは、利益があることを知っているからだ。一方、情報化時代になると、知識ばかりが先行している傾向があって、なんでも楽にノウハウを知って簡単に片付けたいという人が増えている。そうなると、口先だけの言葉になりやすい。その結果は「欠乏をもたらす」となるわけだ。嫌なこともしたくない面倒なことも全部自分のためになると積極的になれば、良い結果は必ず付いてくるものだ。(サクマ)

 

5月23日(火)

犬が自分の吐いたものに戻るように、愚か者は自分の愚かさを繰り返す。

箴言26:11

 

今日の聖句は、厳しく聞こえるだろうか。誰でも、愚かなことをして後悔することがある。問題は、それを教訓にして繰り返さないことが大切だ。しかし、人間は性質、思考そして行動に傾向があるために、懲りずに同じ愚かなことを繰り返しやすいのだ。それは何の益もないので、自分に今日の聖句を教えて愚か者にならないように注意しなければならない。だいたい、後悔するようなことは愚かなことであるわけだから、後悔の方に意識を向けるよりは、同じ過ちを犯さないことに集中すべきなのだ。これは、生活全般にも仕事や学業にも言えることなので、よく考えておこう。(サクマ)

 

5月24日(水)

わたしは命のパンである。・・・わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。

ヨハネ6:48、51

 

「しあわせのパン」という映画があります。とても良い映画です。東京から北海道の月浦に移り住み、湖が見渡せる丘の上でパンカフェ「マーニ」を始めた夫婦、りえさんと水縞くん。ここでとても美味しそうなパンが焼かれてそれが幸せの意味になっているのですが、北海道が好きで食いしん坊のわたしにはぴったりな映画なのです。この映画のいいところは、パンを二つにさいて分け合う人は仲間なんだと教えています。この人生を一緒に生きていく仲間・・・。聖書を読んでいると、キリストが「わたしは命のパンである」と言います。それは、十字架でさかれるキリストの体、流される血であり、それだけが罪人の救いとなることだったのです。食べるとは、そのキリストの十字架を自分の罪の贖いと信じることだったのです。できたて熱々のパンを悩みや生きる力を失った人たちが食べて元気になっていく姿は、キリストを食べる人の救いのように見えるのです。限りない優しさといたわりが時に私たちには必要です。主イエス・キリストはそのように私たちに接してくださるお方です。主に癒されて、元気に生きることは御心に適っていることなのです。心がほっこりしたい人にはオススメの映画です。(佐久間)

 

5月25日(木)

イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と言われた。

ルカ7:50

 

イエス様は、罪深い女と周りから思われていた女を救われました。それは、とても象徴的なことでした。「あなたの信仰が」とイエス様はおっしゃったのです。では、一体どんなことがあったか見てみると、「後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」(38節)。これだけのことをすることは容易なことではありません。周りには人がたくさんいたので多くの目が見ていたことでしょう。それでも、このような行為に出たというのはイエス様への思いが非常に大きく真実であったことを表しています。そこで、信仰と結びつけるとイエス様に対しての信仰は、これほどまで畏敬とへりくだった愛となって現れたのです。では、私たちはどうでしょう。イエス様に対してこれほどまで愛をあらわにしたことがあるでしょうか。「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」(47節)と主は言われました。罪の赦しと主を愛することにはこのような相関関係があるのです。主への愛を考えてみましょう。(さくま)

 

5月26日(金)

神様があなたがたにお与えになったすばらしい贈り物を思う時、感謝せずにはいられません。今やあなたがたは、キリスト様のものとなったのです。キリスト様は、あなたがたの全生活を充実させてくださり、キリスト様について大胆に語る力や、真理を十分に理解する力を与えてくださいました。

Ⅰコリント1:4、5(リビングバイブル)

 

イエス様を信じて救われることは一時のことではありません。信じた瞬間に人生が変わるのです。今までの人生は死んでいたものでしたが、イエス様に救われて新しく生まれ変わりました。そのために天の父なる神様がしてくださったのは、イエス様を贈り物としてこの地上に送ってくださったことです。イエス様が命を犠牲にして罪の奴隷であった私たちを買い戻してくださったのです。それで、今はキリスト様のものなのです。それだけではなく、私たちの生活をより良いものとして充実させてくださいました。必要な時にはイエス様のことをちゃんと人に話すことができます。そして、真理がわかるようになったのです。聖書は、気づけば意味がわかるようになり、時には神様のみ声となって聞こえてくるのです。ですから、この世に慣れた者として不安や悩みの中に生きるのではなく、神の国に生きる者として真理に従っていつも喜んで生きましょう。神様に感謝しましょう。(さくま)

 

5月27日(土)

あなたの御計らいは、わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。数えようとしても、砂の粒よりも多く、その果てを極めたと思ってもわたしはなお、あなたの中にいる。

詩篇139:17、18

 

不思議なことに私たちの人生には深い意味がある。まず、神が私たちを創造してくださった。神は無意味に何かを造ることはない。必ず、良い意味があるはずだ。だから、あなたはこの地上でいたずらに苦労する必要はない。自分をこんなものだと決めつける必要もない。あなたが望めば大抵のことはできるだろう。そして、この地上でも大いに祝福され、幸せに生きることができる。その理由は、神があなたの人生に特別の計らいを驚くほど多く与えているからだ。聖書によれば、砂の粒よりも多い、というのだ。つまり、あなたの人生には神が良くしようとほとんど毎秒といってもいいほどの恵みを計画して与えているということだ。それを自分のものとするかどうかはまた別の話なので、今までの人生を振り返っておかしいと言っても意味がない。多分、自分勝手に生きてきたのだろう。それに、神をまだ知らなかったかのではないだろうか。だから、今は正しい道に歩み、この神の御計らいを喜び楽しもう。何か起こっても慌ててはいけない。これもわたしのためだ、とまずは神に感謝してみよう。そして、どのように神は計らってくださったのかを見極めよう。深い神のお考えが少しでもわかれば、喜びに満たされ、笑顔になれる。今日も良い日だ。(サクマ)

 

5月28日(日)

主よ、わたしの口に見張りを置き、唇の戸を守ってください。わたしの心が悪に傾くのを許さないでください。悪を行う者らと共にあなたに逆らって、悪事を重ねることのありませんように。彼らの与える好餌にいざなわれませんように。

詩篇141:3、4

 

人間社会に生きていれば、必ずしも好むと好まざるとにかかわらず悪い人と一緒になることがある。それがクリスチャンでないことは多いが、クリスチャンだから大丈夫ということでもない。問題は、何かしらの人間関係が結ばれている場合だ。なかなか毅然とした態度をとりにくいことがある。そこで、つい調子よく相手に合わせて口を開くとろくなことにはならないのだ。口は勝手に思ってもみない酷い言葉を言い出すかもしれない。一番危ないのが口であり唇なのだ。神に守っていただかなければ安全ではない。あなた自身の祈りを主にささげることを忘れないようにしよう。(サクマ)

 

5月29日(月)

天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。

詩篇103:11

 

私たちは自分の弱さを知っています。認めたくなくて虚勢を張る人もいますが、良いことは何もありません。クリスチャンが強いと思えるのは、自分の弱さを率直に認めることができるからです。それは、今日の御言葉のように、圧倒的な慈しみが小さな私たちを包み込んでいるからです。それで、自分の弱さは大した問題ではなくなったのです。自分が一人で心配していたことなど、神様は全てご存知で、それらを一挙に解決してくださったのです。しかも、罪深い人間であることや自分でも嫌になるような自分の弱点ですら、軽く凌駕するほどのとてつもなく大きな慈しみを私たちはすでに受けているのです。そして、これからも同じなのです。それで、他人が何と言おうと、気にしなくて済むのです。「人間を恐れるな」と言われているのは私たちの永遠の命を奪うことができないからです。主こそ畏れるお方です。永遠の命は主にかかっているからです。それを間違えなければ、あなたは誰よりも強く生きることができます。(さくま)

 

5月30日(火)

擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。

ルカ12:33、34

 

パレスチナでは、富は高価な衣服の形で示された。カシミアとか高価な服を着ようと思って出してみると虫に食われていてがっかりしたというような経験はあるのではないだろうか。キリストの言われる富は、天国で着る服のこととして考えるとわかりやすい。それは、キリストを衣として着るとか、白い衣とか、聖霊による実と言われるキリストの品性であったりする。神の国は、天で神のみ心が行われるようにこの地上でも神の御心が行われることだ。その主の御心に従っているクリスチャンには清い生活や愛に基づいた生き方がある。それは、主の御心に適っているので、天に富を積むことになるわけだ。再臨の時に、地上から天に持っていける唯一のものが品性と言われている。誰かを助けたり、愛情を注いだり、キリストがいらしたらどうするかを考えて言ったり行動したりすることは、意味があるのだ。この世の富が必ず朽ちていくことを覚え、縛られることなく自由になるために、与えられたもので満足することも覚えたいものだ。(さくま)

 

5月31日(水)

イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。・・・」

ルカ13:6

 

このたとえ話は「実のならないいちじくの木」のたとえ、と新共同訳の見出しにある。興味のある人は全文読むといい。パレスチナではぶどう園にいちじくの木を植えることは珍しいことではなかった。もともとパレスチナの土壌は浅く痩せていたので、ぶどう園のような土地には他にも木が植えられたのだ。通常、いちじくは三年で成熟期を迎える。それなのにこの木は実を結ばなかった。私たちも特別に扱われているので、実を期待されている。もちろんそれは神から与えられたチャンスと捉えることができる。貴重な土地に実のならない木を植えておくことはできないのだ。それだけに、神の期待に応えたいし、自分に価値があると認めてくださった神に、その真価を見せたいのだ。あなたは、自分の価値と神の期待に気がついているだろうか。もう、あなたは豊かに実を結ぶことができるはずだ。自信を持って、神に向かおう。信仰を発揮することだ。聖霊が実を結ばせてくださると信じよう。あなたの実を見て神はきっと喜ぶはずだから。(サクマ)