2017年6月ディボーション

6月1日(木)

人間の言い伝えに過ぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。

コロサイ2:8

 

考えることのできる人は、何かの哲学の影響を受けやすいものです。それが歴史上どれほど恐ろしいことを人間にさせて来たかは明らかです。ですから、簡単に説得されてはいけないし、人のとりこにされてもいけません。聖書を神のみ言葉と認めているのなら、その人は真理の物差しを手にしているのです。それを使えば、真理か偽りか見分けることができるのです。ただし、そのみ言葉を正しく理解するには、聖霊の助けが必要です。そして、実際に真理を知ることは、キリストを知ることになり、キリストを知ることは、父なる神を知ることです。これから、ますます偽りの霊が猛威を振るうでしょう。カリスマ的に人々をとりこにする人がいたら気をつけましょう。様々な思想が魅力的に聞こえてもその背後には悪霊がいるかもしれないと警戒しましょう。私たちはキリストにのみ従うものです。(佐久間)

 

6月2日(金)

まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて、無用の水溜めを掘った。水をためることのできないこわれた水溜めを。

エレミヤ2:13

 

さて、クリスチャンになってもこの世の人と同じようなことをする場合があります。それが救いの根幹に関わる重要なことであれば大変です。今日の御言葉はそのことを考えさせるものです。聖書の福音は、神が恵みで人を救い義とすることです。ところが、恵みで救われたはずの人がそのことを理解しないで、自分で努力して義となろうとすることがしばしば起こるのです。聖書の中でもファリサイ派や祭司、律法学者といった宗教家が律法を守っていると自負していましたが、彼らはイエスは律法を破っていると訴えたのです。彼らのやっていたいことは、神の愛ではなく、人を救うことのない規則を守る事にすぎませんでした。律法は神の愛を表していますが、キリストによって救われ神と和解しなければこの愛は実現できなかったのです。さて、今日のみ言葉の意味がわかりましたか。キリストが与えることのできる生ける水をいただけるように素直に受けることのできる信仰を持ちたいですね。(佐久間)

 

6月3日(土)

あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。フィリピ2:13

 

クリスチャンになると、不思議なことが色々起こります。その中でも、クリスチャンの成長に欠かせないのが今日の聖句です。あなたの内に神様は何か働いているのです。もちろん良いことです。そして、ある日自分の中に願いが起こります。そして、それを実現することは普通の人から見れば馬鹿げていたり、無理だと思うかもしれません。しかし、あなたには情熱があり、やれる自信があります。そして、見事やりのけるでしょう。そのようなことが自分の信仰を強め、成長をもたらしているのですがその時には気がつかないかもしれません。こうして、大胆な望みでも信仰を発揮して、いつしか実現してしまうことを振り返った時に気がつくことでしょう。何か願いが起こっているのなら、まずは祈って主の御心かどうか確かめてみましょう。神様が行わせていると確信が持てればいいですね。(さくま)

 

6月4日(日)

彼らを贖われる方は強い。その御名は万軍の主。

エレミヤ50:34

 

栃木県にある教会に韓国人の牧師がいました。その牧師が信者さんのトラブルを解決しようと相手の人と話したら、その人はヤクザだったのです。それで、ついに韓国人の牧師は「俺のバックはすごいぞ、恐ろしく強いからな」とたんかを切ったのです。その剣幕に圧倒されて、相手は引き下がり勝利したそうです。確かに、私たちのバックは宇宙一強いお方です。その御名は万軍の主です。だから、正々堂々と何者をも恐れずに歩んでいけます。あなたを苦しめる者がいたとしても、いつまでもそんなことができるはずはありません。何しろ、あなたを贖われる方は強い、と聖書に書いてあるのですから。(さくま)

 

6月5日(月)

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。

ヨハネ15:9

 

イエス様は「わたしの愛にとどまりなさい」とおっしゃっています。よく考えると驚くべきことですが、イエス様があなたを愛しているのです。あなたは主に愛されているので、自由です。つまり、無理やり命令でイエス様を愛さなければならないというわけではありません。もちろん、束縛するような愛でもありません。だから、主の愛から去っていくことだってできるのです。それで、主は弟子たちにこの言葉をかけなければなりませんでした。私たちはどうでしょうか。主の愛にとどまっているでしょうか。あなたは選ぶことができます。と言うよりか、本当は主に愛されて生きているのがあなたではないですか。主に愛されていることを瞑想してみましょう。(さくま)

 

6月6日(火)

わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。

Ⅱコリント1:3、4

 

クリスチャンになってからも、苦難に遭うことがあります。神様を信じているのになぜだろうとか、自分が何か罪深いことをしていたからだろうか、などと悩むことも珍しいことではありません。そんな時には、普段以上によく祈ることになるし、聖書から何か神様の語りかけがあるのではないかと真剣に読むことになります。そして、この苦難の中で人は神様の慰めを受けるのです。それは、信仰へと導き、主の愛を確かに感じ取ることになるのです。そのようにして苦難を乗り越えた人は、信者であろうと未信者であろうと苦難の中にある人々を慰めることができるのです。私たちは、天の父なる神様がいかに慈愛に満ちているお方か知っているので、どんな人でも父なる神様から慰めを受けることができると確信できます。それで、苦難に苦しむ人と共にいて慰めることができるのです。(さくま)

 

6月7日(水)

御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。

コロサイ1:13

 

このみ言葉は真実です。感じようと感じまいと、ここに書かれた通りのことが起こったのです。ですから、過去の嫌な出来事に負けることはもうありません。闇とは関係ないのです。闇の力に縛られている人たちは、キリストが光として現れても気がつくことがありませんでした。しかし、キリストは探してくださいました。そうでなければキリストを信じることもなかったのです。イエス・キリストこそがわたしたちを救い、愛の支配する世界に移してくださいました。だから、今はキリストのために生きたいと思っているわけです。それは、御子の支配下に居続けるという意味です。それは、私たちにとって最良の日々を生きることです。(佐久間)

 

6月8日(木)

主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように、一筋の心をわたしにお与えください。

詩編86:11

 

今日の社会のように複雑で多様性に富んだ時代に、人々は確かな拠り所を求めるものです。それが見つからないと、不安になるのですが、忙しさがそれをごまかしてくれます。ただ、それはごまかしでしかないので空しいのです。そこで、私たちは人生に確かさを求めます。その答えは、主の道を歩むことでしかありません。確かに、クリスチャンの信仰には神への畏敬の念が不安を消し去る力があります。クリスチャンの信仰が進むとどのように生きることが主の御心にかなっているかが知りたくなります。律法主義者は、一見信仰深く見えますがそれは自己愛からきています。自分の満足のためであったり、人からの評価を得たいといった願望が動機となっていたりします。しかし、真の信仰者は自分ではなく神の満足を求めるようになります。そのことが正しいのは神からの応答でわかります。そこで、主の御前に生きる者は、自分の心が主を畏れ敬う、ただ一筋であることを求めるようになるのです。このような信仰を持つ生き方が私たちの姿なのです。(佐久間)

 

6月9日(金)

主をたたえよ。主はわたしたちを敵の餌食になさらなかった。仕掛けられた網から逃れる鳥のように、わたしたちの魂は逃れ出た。網は破られ、わたしたちは逃れ出た。わたしたちの助けは、天地を造られた主の御名にある。

詩編124:6~8

 

聖書を読んでわかることは、神がいて、悪魔がいて、人間がいる、ということだ。しかも、明らかに神は罪を犯した人間を救おうとしている。堕落天使は天で神に純粋に反逆し仲間もろともにこの地上に落とされ悪魔になった。悪魔とその仲間は天の神と激しく争うことになった。神は、悪が生じたことを重くみて悪の完全な根絶を図っている。しかし、そこには神にかたどって創造された人間がいて、無垢であったのに悪魔の誘惑に負けて罪を犯した。それで、神の方法での救済計画がたてられ、イエス・キリストが人として生まれ、十字架につき、復活し、昇天した。悔い改めてイエスを信じた者が救われる道ができ、神と悪魔の大争闘は様相を変えながら終末に向かっている。そこで、クリスチャンは、自己防衛のためにも信心深く生きている必要がある。そうでなければいつ悪魔に攻撃されるかわからないし、悪魔の手先に利用されてしまう恐れすらあるのだ。信仰はクリスチャンを守るために必須のものだ。私たちは、今日のみ言葉の通りに敵の餌食にはならない。わたしたちの助けは、天地を造られた主の御名にある。そして、あなたは主の御名で呼ばれる者なのだ。主をたたえよう。(サクマ)

 

6月10日(土)

人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

マタイ7:12

 

正しく生きるということはそれほど簡単ではない。ましてや聖書に忠実に生きようと考えれば、途端に困難が生じてくるだろう。例えば、この聖句はどうだろう。有名な聖句だ。そして、クリスチャンはこのみ言葉を実現すべく努力してきたのだ。しかし、その試みは果たしてうまくいっただろうか。何分にも相手がいることだから、自分の力では限界があるのだ。そこで、信仰のことを考えるだろう。自分を責めるかもしれない。そして、諦めるかもしれない。しかし、人間のことをよくご存知のイエス・キリストができもしないことを命じるだろうか。そして、これこそが「律法と預言者」、つまり聖書だというのだ。聖書を読むということは、ただの本を読むのとはワケが違う。人間の正しいあるべき姿をキリストに見て、知ることなのだ。それはまた、神の子として生きる道を示している。この聖句は、神の子の証である。神の子ならこの意味がわかるはずだ。イエスはそれを見せたのだから。(サクマ)

 

6月11日(日)

主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。

詩篇19:7、8

 

今日の聖句は、聖書のことを説明している。聖書とは何かを知りたいのなら、この聖句で十分説明になっている。詩なので、聖句を「みおしえ」「あかし」「戒め」「仰せ」と言い換えているが、神の言葉を意味している。その効能は、今のように情報があふれかえり、何が真理かわからなくなるような時代に生きる人の魂を生き返らせ、賢くし、心を喜ばせ、心の窓である人の目を明るくすることができるのだ。たとえどのような境遇にあったとしても、希望を持つことができる。だから、聖書を義務のように読まないでほしい。この詩人のように聞くことが聖書を読んだことになる。聖書を読んでも自分に何の良い変化が見られないのなら、すぐにひざまずいて祈ろう。そして、「主よ、お語りください。僕(はしため)は聞きます」と祈ろう。あなたが持っている聖書は、本物の宝なのだ。(サクマ)

 

6月12日(月)

ダレイオス王は、全地に住む諸国、諸族、諸言語の人々に、次のように書き送った。「いっそうの繁栄を願って挨拶を送る。わたしは以下のとおりに定める。この王国全域において、すべての民はダニエルの神を畏れかしこまなければならない。この神はいける神、世々にいまし、その主権は滅びることなく、その支配は永遠。この神は救い主、助け主。天にも地にも、不思議な御業を行い、ダニエルを獅子の力から救われた。」

ダニエル6:26~28

 

ダニエルは陰謀で絶体絶命の窮地に立ったが、神のみを畏れ敬い信仰を貫いた。その結果が、今日の聖句である。ダニエルに見習うことは多いが、この信仰にこそ目を留めるべきである。信仰を全うすれば、他人が神を畏れ、神を証しすることになる。ダニエルの神は、今も生きていて、あなたの神なのだ。だから、神を第一にして生きることに意味がある。あなたは、もっと神を信じていい。主の不思議な御業があなたのために行われるだろう。(サクマ)

 

6月13日(火)

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。

Ⅰコリント1:18

 

十字架のことを考えてみよう。聖書では、神の力と書かれている。もちろん、滅んでいく者には愚かなものであるだろう。何しろ、十字架と自分が関係あるとは思ってもみないからアクセサリーにすることすらできるのだ。自分自身が何者でどうなるかなど学校では教えてくれない。道徳教育をもっと強化すべきだと声高に言っている人たちが道徳を軽んじているのは、そのやっていることを見れば明らかだ。だから、十字架が自分を救う力であるとは悟れないし、そう思えないのだ。ところが、あなたは十字架の言葉を神の力と認めている。ただの言葉ではない。そう、福音を信じたからだ。この十字架が人が救われるか滅びるかを分けているのだ。そこで、私たちも十字架の言葉を自分の隣人に語ることになる。もちろん、神の力として。だから、きっと救われる人が出てくるのだ。(サクマ)

 

6月14日(水)

主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない。

申命記31:8

 

クリスチャンになったのは、自分の決意であったと思いますが、それだけではありません。その背後に働く主の御手があったのです。それがどのようなことであったかは到底理解できませんが、はるか大昔から遠大な救済の御計画があったことは確かです。それなので、あなたはクリスチャンになれたことをあまり過小評価してはいけません。あなたの信じている主は、あなたの人生を導いてくださいます。どのようなことになっても、決してあなたを見捨てたりはしません。大きな失敗をしてしまったとしても、それで見捨てられるようなことはないのです。与えられた新しい人生を雄々しく生きることが大切です。心配したり、恐れなくても大丈夫です。あなたの主に任せておけばちゃんと目的地に着くことができるのです。だから、信仰を働かせて「今日も良い一日になる」と言ってみましょう。(佐久間)

 

6月15日(木)

しかし、御もとに隠れる人には、豊かに食べ物をお与えください。子らも食べて飽き、子孫にも豊かに残すように。

詩篇17:14

 

結局、人間にとって大切なことは生きることで、生きるためには食べなければならないから食べ物はとても重要なことになる。大昔から今に至るまで、人間は食べることのために生きてきたと言いたくなるぐらいに人生の大半を費やしてきた。しかし、いつしか革命が起こり、自分で農作業したり、獲物を狩ったりする必要がなくなった。それどころか腐らない食べ物を作ることができるようになった。そして、昔なら決して口にすることのない食べ物でないものも毎日食べ続けるようになった。私たちは、その不自然さを気にもとめていない。聖書を見れば、食べ物が神からの祝福であり、神からいただくものであることがわかる。しかし、その食べ物をただの金儲けと考える人間が出てきたのだ。それがどれほど罪深いことか気づいていないのだろうか。クリスチャンは食事の時に神に感謝してから食べている。食べ物とはそういうものなのだ。自分の子供や子孫に食べさせていくことを考えて作られるものであって、丈夫で元気な体を作るものなのだ。そのことをおろそかにしていいことはない。今日は、健康な食べ物のことを考えてみよう。(サクマ)

 

6月16日(金)

あなたがわたしの右の手を取ってくださるので、常にわたしは御もとにとどまることができる。

詩篇73:23

 

あなたはクリスチャンになって何年経っただろう。その間に主のもとから去ろうとしたことがあったのではないだろうか。信仰を真面目に守っているのにひどい目にあい、一方で神を信じない人たちが楽しそうにうまくやっているのを見せつけられると信仰がぐらつくことだってある。少なくとも、詩篇記者はそう思っている。私も牧師の召命を受けた時に試みられ主のもとを去ろうとした。牧師になるようにと誘った教団から初任給の額を聞いた時、それは家族を養えない金額だった。仕事も辞めて献身しようとしたのだが、いくら何でも生活できない金額を平気で言われてつまずいた。これでは生活ができないのになぜ私を牧師に誘ったのか理解できなかった。その時のショックで、目が覚めたようになって、信仰がいっぺんに吹っ飛んでしまった。それで、もう礼拝に行けなかった。その事情を知った教会の牧師と長老たちは心配して、電話をかけてきた。そして、みんなで集まって心配しているからとにかく教会に来て一緒に考えようと言われた。それで、教会に行くと事情を聞いて皆んなが憤ってくれた。そして、長老がこう言ったのだ。「確かにひどい話だ。しかし、私たちはあなたが牧師になることを願っている。だから、教団が払わないなら、教会があなたの足りない分を支払う。私たちがあなたを支えるから牧師になってほしい。」と言われた。これが、今日の御言葉の意味だ。だから、私は知っている。この詩篇記者と同じように主が私の右の手を取ってくださることを。私は、若かったが、この長老と教会の人達の愛に心が動かされた。それで、教会からお金をもらおうとは思わなかったが、主を信じて牧師になろうとその時に決めた。それから何十年も経つが、主は忠実に私と家族を支え続けてくれた。困ったことは一度もなかった。そして、これからも困ることはないだろう。私たちの主は生きておられる。そして、あなたを決して離さないだろう。(サクマ)

 

6月17日(土)

人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。

マタイ24:37~39

 

イエス・キリストが教えた再臨の預言です。創世記には、象徴に富んだ真理が隠されていますが、その中でノアの洪水の物語は6章から10章までの長い記録になっています。ここでイエスがお語りになっているのは、平和な生活がいつまでも続くと考え罪を悔い改めることもない人間のことを言っているように見えます。そして、彼らが続くと思っていた生活に突然の終止符が打たれる日が来ると警告しているのです。それは世界が終わる日です。確かに、再臨の徴は教えられていますが、戦争一つを取り上げてみても歴史の中で人間は繰り返し同じ過ちを続けて来たのです。原爆を作れば抑止力になってもう戦争は起こらないと思っていましたが、ウクライナ紛争やイスラエルによるガザ攻撃のような戦争を経験して、原爆を使わない新しい戦争の方法を発見したのです。テロや戦争の危機は世界を覆うことになりました。それでも、人は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしているのです。ですから、終末の危機が預言通りに起こって滅んでしまうまで何も気がつかない、と言うのです。「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」(44節)。(佐久間)

 

6月18日(日)

律法は正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、神を恐れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、偽りを言う者、偽証する者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えられているのです。

Ⅰテモテ1:9、10

 

宗教は人の弱さの拠り所となるものですが、自分の弱さを認めることが難しい人間にとっては、正しくならねば救われないとの思い込みが強くて、律法すら悪用するようになるのです。つまり、自分の弱さとは律法を守れないことなのですが、それでは救われないとの無意識な思いから、律法を守ることで正しい者となり、それで救われるはずだと思ってしまうのです。しかし、神の目には律法を守ることができていないことが見えているのです。そこで、律法ではなくキリストによって人を義と認めて救うことにしたのです。これが福音です。キリストを信じるとは、自分の弱さを素直に認めて悔い改めることです。そして、キリストが自分を完全に救うことができると信じることなのです。一方、罪人は悪いことをしている自覚は罪責感としてあるのですが、自分の力で悪をやめることができないと知っているのです。それで、開き直って生きるしかないのですが、もし救いがあれば救われたいと潜在的に思っているのです。だから、律法はこれらの人たちに何が罪か示すためにあります。そして、神は救いの道を用意したのです。罪をごまかしているうちは救いはないということです。(佐久間)

 

6月19日(月)

あなたは必ずご覧になって、御手に労苦と悩みをゆだねる人を顧みてくださいます。不運な人はあなたにすべてをおまかせします。

詩篇10:14

 

神を信じるということは神に全てをゆだねるということです。ところがこれは意外と難しくて誰もが苦慮することになります。散々、試みを通って、ようやくゆだねることの意味を知ることが多いのです。そこで、クリスチャンは労苦や悩みを経験することになります。そこで、すぐに「神にゆだねます」と言える人は少ないのです。もし、ゆだねていれば神がすぐにも対処して助けてくださるのです。それなのに、そんな簡単な方法では人間は納得しないようです。自分で勝手にあれこれ考えては悩み、また無駄な努力をし、そして窮地に追い込まれてしまうのです。つまり、しなくても良い苦労をしていることになります。それでも、ゆだね切ることが恐ろしいので、また何か考え始め事態を悪化させるわけです。あなたはどうでしょうか。もし、あなたが不運な人であるなら、この詩篇記者のように言うことができるでしょうか。私たちの課題は、ただ神にゆだねることなのです。(佐久間)

 

6月20日(火)

人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない。

箴言10:22

 

クリスチャンになって「祝福」という言葉をよく聞くようになりました。もちろん、それは「主の祝福」のことです。それはキリスト教の時候の挨拶のような決まり文句のように思っていましたが、聖書を読むと最も重要なことであることがわかります。今日の聖句を読むとクリスチャンであってよかったと思います。この世では、その人の能力の優劣とか運がいいかどうか、あるいは、いかに努力したかが人間を豊かにすると思われがちです。しかし、人間が何をしてもそれがその人を豊かにする保証にはならないのです。特に、人間を豊かにするというのは、財産のことだけではありません。むしろ、その人自身が豊かな人であるかどうかが一番重要なことなのです。信仰者がそのことに気がつけば、人生は違ってきます。主に祝福されることを喜び、人にも主の祝福を祈るでしょう。自分だけではなく、まわりの人全てが祝福されることを願いましょう。そこで、早速、今日誰かを主が祝福してくださるように祈りましょう。そして、自分が主に祝福されていることを感謝しましょう。もし、あなたが祝福されていないと感じているのなら、それは気がついていないだけです。すでに主はあなたを祝福してくださっています。それを信じてみましょう。そして、私は主に祝福されていると言ってみましょう。(さくま)

 

6月21日(水)

強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。申命記31:6

 

私たちは励ましが必要です。生きていくことは結構大変だからです。良いことがあれば喜びますが、困難が生じればすぐに弱気になります。油断していると、どんどん消極的になり、否定的なことを言って後で後悔することになります。そうならないために、今日の御言葉は私たちにとって大切な励ましなのです。主は、本当にあなたと共に歩まれるのです。あなたがどのように感じていたとしても、あなたは決して見放されず、見捨てられることもありません。あなたの神様を甘くみてはいけません。神様は御言葉の約束を必ず守ります。そして、あなたも御言葉を守るのです。「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない」。そうすれば、あなたはきっと主の奇跡を見るでしょう。(さくま)

 

6月22日(木)

善を行うのに飽きてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。

ガラテヤ6:9

 

クリスチャンは良心的に正しく生きたいと願うものです。ただ、色々な難しい人間関係の中で様々なストレスを覚えることになります。そして、善を行うことに疑問を持つかもしれません。しかし、それでも失望せずに善を行っていけば、時が巡ってくるのです。そして、自分の蒔いたものを刈り取り、善を行い続けてよかったと喜ぶことになります。一見、損なように見えても、実は神様がちゃんと見ていてくださるので良い結果が絶妙なタイミングで現れるのです。(さくま)

 

6月23日(金)

あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。あなたは私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみを知っておられました。

詩篇31:7

 

今、悩んだり、苦しんでいる人は、主のなさることを信頼していることです。やがて、あなたは主の恵み深さを知り、その恵みを楽しむことを覚えます。それどころか喜びで踊りだすかもしれません。主は、あなたの事情を詳しく知っています。あなたの良き理解者なのです。だから、魂の叫びを聞き届けてくださるのです。たとえ、敵がいてあなたを脅かしていてもそれが長く続くことはありません。主の方法で必ず解決します。だから、元気を出してください。主はあなたにとって力強く誠実な助け主です。(佐久間)

 

6月24日(土)

そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」

ヘブル13:6

 

人間を恐れるとろくなことにはなりません。たとえそれが上司であろうが自分にとって立場が上の人であっても恐れてはいけません。勇気を出して堂々としていましょう。相手が強ければ強いほど、強気でいることです。自分に負い目があればそうはいきませんから、いつでも正直に正しく言動に気をつける必要はあります。万が一、脅かす者がいて困ったら、今日のみ言葉を声に出して唱えてください。何度でも繰り返して自分に言い聞かせてください。いつの間にか恐れは消えているはずです。そうすれば、道は開けます。(さくま)

 

6月25日(日)

正義を行う者、まっすぐに語る者、強奪による利得を退ける者、手を振ってわいろを取らない者、耳を閉じて血なまぐさいことを聞かない者、目を閉じて悪いことを見ない者、このような人は、高い所に住み、そのとりでは岩の上の要害である。彼のパンは与えられ、その水は確保される。

イザヤ33:15、16

 

今の世の中にあっては何が悪いことか混乱することがあるだろう。クリスチャンとしての自覚は自分を神の裁きから守るものとなるはずだが、少し試みにあうとその自覚も以外にもろいかもしれない。そこで、意識して正しくあろうとするだけでは不十分であると気がつく。それでは、どうすればいいのだろうか。もちろん、聖霊は助けてくださるはずだ。しかし、自由意志が個々に与えられているのだから、自己責任の問題は残る。そこで、重要なことは、品性の問題だ。パウロの手紙を読めば明らかだが、品性をもたらすのは聖霊の実であるが、同時に古い自分に死んでいくことは避けられない。それは、今日の御言葉を守ろうとしてみればすぐにわかるが、それをやめさせようとする圧力が働くのだ。その圧力に負けないことで古い自分に死ぬことができる。つまり、自分のためではなく、神のために何事でも行うことによって、神への従順ができてくるというわけだ。(サクマ)

6月26日(月)

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではなりません。誰も誇ることのないためです。

エペソ2:8、9

 

神様を信じることを難しく考えてはいけません。あなたが驚くほどの立派な信仰によって救われたというのならば別ですが、誰も自分を誇れるものではありません。初めの頃の信仰を思い出してください。聖書の知識もなく、祈ることすらオボつかず、決して誇れるような信仰ではなかったはずです。それでも、救われたのは事実です。これはもう、神様からのプレゼントとしか言いようがないのです。ですから、私たちは感謝して、毎日「ありがたい、ありがたい」と言いながら生きていけばいいのです。救いを始められたのは神様ですから、最後まで神様が責任を持って助けてくださいます。それを信頼して、ニコニコ笑いながら生活すればいいのです。もし、何か心配事があれば、そのことを神様に祈ってください。祈り終えたら「もう大丈夫」と言えばいいのです。信仰で生きるというのは驚くほど、簡単なことなのです。(さくま)

 

6月27日(火)

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

ヨハネ16:33

 

どんな人でもこの世では何かしら苦労があるものです。自分という個性のためにひどい目にあう人だっています。気の強い人もいれば気の弱い人もいるのがこの世です。クリスチャンになる前がどうであったとしても、イエス・キリストを信じて救っていただいたのです。それで、人生は大きく変わりました。イエス・キリストはあなたのために最善を尽くしてくださいます。ですから、この世にまだまだ生き続けなくてはならないとしても、気楽に構えていればいいのです。心配事や悩みがあっても、もうそんなことに振り回される必要はありません。主がはっきりと「わたしはすでに世に勝ったのです」とおっしゃったのですから、もう昔のように気を使って嫌なことを想像して心配する必要はないのです。そうではなく、主のご命令の通りに、勇敢であるべきです。別に自分の思い通りにならなくても構いません。主の御心がなるのですから、一番良いことになるに決まっているからです。(さくま)

 

6月28日(水)

これは、あなたが歩くとき、あなたを導き、あなたが寝るとき、あなたを見守り、あなたが目ざめるとき、あなたに話しかける。命令はともしびであり、おしえは光であり、訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ。

箴言6:22、23

 

あなたの持ち物の中で宝といえるものは何だろう。高価なものが宝とも言えない。価値があることには間違いないが、それは永遠という時間に耐えることのできるものこそが真の宝となる。そして、幸いなことにあなたはすでに宝を持っているのだ。それは、聖書と呼ばれている。本だと思っている人もいる。初めは人間が理解できるように預言者を通して語られた神の言葉が、やがて書かれた預言となった。もっとも不思議なことは、今日の御言葉に書かれた通りのことが実際に起こることだ。さて、聖書からあなたは神の言葉を聞くことができるだろうか。それは文字を通してだろうか、それとも本当に御声を聞くことがあるだろうか。あなたは本を持っているのだろうか、それとも神の言葉を持っているのだろうか。これは、あなたにとって重要な問いかけになり、また選択を迫ることになるだろう。あなたの手にしている宝はとほうも無い価値があることを覚えていて欲しい。(サクマ)

 

6月29日(木)

いつ、あなたは、わたしを訪れてくださるのでしょうか。わたしは家にあって無垢な心をもって行き来します。卑しいことを目の前に置かず、背く者の行いを憎み、まつわりつくことを許さず、曲がった心を退け、悪を知ることはありません。隠れて友をそしる者を滅ぼし、傲慢な目、驕る心を許しません。

詩篇101:2~5

 

この詩篇の2節は、「完全な道について解き明かします」と書き出します。その後の部分が今日の聖句です。ですから、これが完全な生き方ということです。それは、主の訪れを待つことです。そのために、心から準備しているのです。この世でうまくやろうとすれば、どうしても無垢な心を維持することはできません。それで、家にいるときには無垢で、外では世の人と同じ心で、と二心で生きることは偽善になるのでうまく行きません。そうではなく、神との関係を第一にして良くすることが肝心なのです。神との交わりこそが私たちにとって第一に必要なことなのです。それを最優先とすることは自分だけができることなのです。そして、それは辛抱強く主を待つことによって実現できることなのです。まずは、神が嫌うことを排除しましょう。そして、清めを祈りましょう。それから、はっきり主に訪れてくださるように求めるのです。子供がサンタクロースが来ることを疑わずに楽しみに待っているように、主を待ってみましょう。(佐久間)

 

6月30日(金)

どうか、”霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。

コロサイ1:9b、10

 

神を知ることがどれほど重要なことか、聖書は教えています。それは、クリスチャンになることの意義といっても過言ではありません。そもそも神はエデンの園にアダムを置かれました。それは、神と会う場所であったのです。そこから、堕落したアダムは追放されました。もし、そのような人間を救うというのなら、それはアダムがエデンの園に戻ることが許されるようなことです。つまり、神とアダムが直接会えるようになることです。それで、クリスチャンになることは、罪が赦されて、神との断絶も赦されて愛の関係が回復しているということです。ただ、私たちは罪人の古い人としては死ななければなりません。死んでいるかどうかは、この世と神とどちらに心が向いているかで測ることができます。すぐには、完全になれなくても聖霊がコーチのように教えてくれます。聖霊に従うかどうかは、本人次第ですが、後悔のないように信仰を発揮してください。その成果は必ず出ます。(佐久間)