2017年7月ディボーション

7月1日(土)

しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。

ルカ12:28 

 

あなたの第一印象はどうだろう。あなたは初めて会う人に何かしら印象を持ち、それでどのように対するか決めていないだろうか。では、神に対してはどうだったろう。そもそも神は隠れている。姿を見たものは死ぬとも言われている。それで、聖書の中に神を知る手がかりを探すことになる。そして、祈ることを知る。さらには、神は啓示の神と言われているように、ご自身をあなたに理解させようとされている。しかし、目に見えることだけを信じる価値観に現代人は教育されているので、よっぽど感受性に優れている人以外は、直接知るすべを持たない。それでも、聖霊の真理を教えられた人は、聖書をより深く理解し始めるので、そこで神との出会いを経験することになるだろう。神を知ることが救いの神秘に通じているので、信仰が深まるほど、神を知ることに焦点が当てられることになる。そして、なにげないよく知っている聖句が俄然、自分個人に意味を持つようになるのだ。例えば、今日の聖句のように。あなたの生活の心配は見事に消えていくだろう。神はあなたにどんなによくしてくださることだろう。味わってみよう。(サクマ)

 

7月2日(日)

知恵ある者は用心深くて悪を避け、愚かな者は怒りやすくて自信が強い。短気な者は愚かなことをする。悪をたくらむ者は憎まれる。

箴言14:16、17

 

箴言には知恵ある者と愚かなものが対になって出てきます。その間がないのです。よく、「普通」という言い方をする人がいますが、それがないのです。ということは、以外にも人間は知恵ある者か愚かな者かの二つに分けることができるということになります。今日の聖句を読めば、愚か者の方が最悪の人生を歩むことは明白です。ところが、「怒りやすくて自信が強い」というのは、自分のことではないかと思えてきます。それがろくな結果にならないのは自分自身の体験から知っているのに、それでも繰り返しているのはなぜでしょう。やはり愚か者ということでしょうか。それではあまりにも残念です。そこで、知恵ある者から学ぶことにしましょう。彼あるいは彼女の特徴は「用心深くて悪を避ける」ということです。たったこれだけです。これならできそうです。では、次回からは知恵ある者に変身したいと思います。(さくま)

 

7月3日(月)

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえられせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

ローマ10:9

 

ここには救いについて書いてあります。肝心な点は、イエス様を主と信じたことを口に出して告白することが挙げられています。決して形式的な告白の儀式ではありません。全てがまごころから行われることが大切なのです。十人の重い皮膚病の人たちがイエス様に癒していただいた時に、祭司に見せに行く途中で一人だけが戻ってきてイエス様に感謝しました。これがまごころです。私たちもこの世で罪人の一人でした。決して自慢できる人生ではなかったかもしれません。それが、特に良いことをしたわけでもないのに、重い皮膚病の人のようにイエス様に救っていただいたのです。この方は一体誰なのか、十字架で死なれて三日目に墓からよみがえり、イエス様こそが真のキリストで罪と死と悪魔の支配から完全に救うことのできるお方であることがわかりました。だから、このよみがえられたイエス様を信じるのです。天の父なる神様がそこまで自己犠牲を払われて愛を示されたのです。この愛に応えて生きようではありませんか。(さくま)

 

7月4日(火)

私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのようにな苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。Ⅱコリント1:3、4

 

急にフィリピンにある神学大学院に留学することになり、外国に住むことになりました。神様は実に面白いのです。人間の予定ではまだ数年先になるはずの留学が神様の予定によれば今、ということでした。いつも神様の導きに従って行けばワクワクすることばかりです。私が学ぶことは、教室だけではありません。聖書が少しでも理解できるようにフィリピンに行かせたのです。つまり、この世界がどのようなものか見せられたのです。当時、18カ国ぐらいから留学生が来ていました。ほとんどの国が経済では日本に大きく差をつけられていました。そこで、日本人の役割は大きいと思うのですが、仕事でフィリピンに来ている人たちは日本人同士でゴルフをしたり、現地の人とあまり交わらないので評判が悪いのです。日本人はもっと多くの人たちを助けることができるのです。でも、ただお金を援助することだけでは足りないのです。一番は多分慰めを与えることだと思います。人間はとてもたくましいから、極貧でも生きていけるのです。でも、人間の尊厳は貧しさの中で簡単に踏みにじられてしまいます。だから、神様はそのような人たちを慰めるためにもクリスチャンを創られたのです。あなたが主に慰められたのなら、誰かを慰めることもできるでしょう。(さくま)

 

7月5日(水)

いかに幸いなことでしょう。あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。彼らはいよいよ力を増して進み、ついにシオンで神にまみえるでしょう。

詩篇85:6~8

 

信仰はとても個人的なものです。自分の人生の旅路を通って行くと何遍も大変なことがあります。その度に信仰が役に立つのです。なんの根拠もないのに勇気を出すことができます。しかも、それは抜群の効果があるのです。そうなると人生の困難をたいして深刻に考えずに平気で通り抜けようとします。これこそ心に広い道を見ている人なのです。その旅路がいよいよ嘆きの谷に達すると、普通なら人生のどん底に突き落とされたと悲嘆にくれるだけで前に進むこともできなくなります。ところが、ここでも信仰を頼りに通り抜けようとする人が出て来ます。この人にかかれば、荒れ野も泉としてしまうでしょう。その信仰には人間が考えつくこと以上の良いことが起こるのです。恵みの雨が降り、祝福で覆われるからです。そうなれば、その人はいよいよ力を増し、ついに神にまみえると聖書は約束しています。これでわかるように、私たちは自分を満足させるために生きているわけではなく、私たちを愛し続けている神にお会いするためにこの旅路を歩み続けているのです。古代の巡礼者のようにどんな困難にも負けずに主のおられるシオンを目指すのです。(佐久間)

 

7月6日(木)

主は倒れる者をみなささえ、かがんでいる者をみな起こされます。

詩篇145:14

 

私たちは神様を誤解しないように気をつける必要があります。神様は愛なのです。それなのに私たちは神様を厳しい怖い存在として考える傾向があります。倒れたら、自分がだらしがないから、とか、かがんでしまえば、自分が弱いから、ダメだから、と、どういうわけか自分に厳しくなるのです。確かに、この世では、親や教師や上司からそのように叱咤されてきたかもしれませんが、神様は全く違っています。罪は罰しますが、私たちのことは愛してくださるのです。だから、まずは神様に自分の思いを告げてみましょう。そして、罪が心に浮かぶなら、まずは悔い改める祈りをささげるのです。その時に、十字架のイエス様を思い浮かべ、十字架のもとに自分の罪を告白して引き取っていただくのです。さらに、罪の赦しを受けたことを信じます。それで、自由になることです。人生で起こり得る最悪のことも、主に助けていただくことができるので、信じましょう。今日の御言葉は約束です。人は誰も助けてくれなくても、主は絶対に支えてくださいます。「みなささえ」と書かれているのですから、あなたもその中に含まれています。だから、安心してください。もう、心配してうつ向かなくても大丈夫です。全てが良くなると信じてください。(さくま)

 

7月7日(金)

また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。

ヘブライ9:27、28

 

人間はただ一度死ぬことが定まっているので、いつかは死ぬことになっています。聖書は、「その後に裁きを受けることが定まっている」と記しています。つまり、全員が神によって裁かれることになっているのです。私たちがなぜキリストを信じ、信仰を持ち、主を礼拝し、聖書に書かれた通りにキリストの徳の高さまで変えていただこうとしているのかは、この裁きがあるからです。だから、いつまでもこの世に妥協して生きていることができないのです。かといって、律法主義者のようにはなれません。特別に意志が強いとか、宗教心に富んでいるとか、キリスト教的に恵まれた環境に置かれているといったようなことは普通期待してもできないことばかりなのです。では、どうやって再臨の備えをするかといえば、今日の聖句に、「ご自分を待望している人たち」と書かれていたので、キリストを待望しているかどうか、そのことに気をつけて信仰を生活を送ればよいのです。ただ、口先だけで、主を待望していると言っても意味はありません。イエス・キリストとの関係を深め、個人的に知ることを求めて祈っていくことです。主の愛の深さがわかれば、心は正直にキリストを待望しているでしょう。(佐久間)

 

7月8日(土)

わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。

ヤコブ1:19

 

今日の御言葉は耳に痛いかもしれません。クリスチャンは特にキリストの模範に倣う人になろうと思っているからです。ユダヤ人の古い教えにも、神が耳を二つ、口を一つに創造したのは、話すより聞くことを二倍にするようにとお考えになったからだ、というものがあります。口の重いモーセのような人は偉人となりました。カウンセラーは聴く技術が巧みな者であり、傾聴ができる人のことです。また、ニュースを見ていても政治家が失言で失墜する場面をしばしば目にします。また、すぐ怒ることがどれほど損であるかも実例に事欠きません。「人の怒りは神の義を実現しないから」(20節)、とあるので祈りが必要ですね。人間にとって、これらはみな難しい課題ですが、「よくわきまえていなさい」と聖書が命じているので、いい加減にしておけない大切なことです。この教えを肝に命じていても失敗することがあるのですから、あきらめずに精進しましょう。(佐久間)

 

7月9日(日)

だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。

ヤコブ1:21

 

心の不思議があります。言葉を植え付けることができるのです。それで、昔から教育は良い言葉、正しい言葉を読み聞かせ、覚えさせ、心に植え付けてきたのです。ただ、魂を救うことのできるのは、ただの名言ではなく神の言葉だけです。そこで、聖書が重要であることがわかります。それでも、聖書を漫然と読むだけでは御言葉の力を味わうことは難しいでしょう。一つの方法として、「あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り」と教えています。御言葉の力を無効にするのが汚れや悪であることから、心の中に両方を置いておいてはいけないのです。せっかく心に御言葉があっても、自分の意思で受け入れることをしなければ、魂の救う力とはなれないのです。聖書にはやはり読み方があるのです。そして、魂の救いには、悔い改めと御言葉を受け入れる決心が必要なのです。御言葉の力が現れるように、今日は聖書を読み、受け入れてみましょう。(佐久間)

 

7月10日(月)

主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。

箴言28:13

 

奇跡を信じることは現代人にとってかなり難しい課題だ。信仰を持った人たちでも、実際に自分の目で見ないと決して信じられないかもしれない。特に誰にでも訪れる病の悩みや老いから生じる病気も聖書に書かれているように癒されればと願うのだが、実際には祈っても聞かれないと失望する人は少なくない。しかし、古くから教会で癒しの奇跡が起こったという証しは絶えない。それで、自分の身に癒しの奇跡が起こらないのは自分の不信仰のせいだと思ってしまう人がいる。しかし、今日の聖句を良く読んでいただきたい。これは、主がお語りになったことなので真実だ。なんと恵みに満ちていることか。だから、これは信仰を持っているあなたのものなのだ。信仰が強いとか弱いとかではない、あなたのことを救うと決めたのは主なのだから。あなたが主を愛していのなら、それで十分だ。この御言葉が自分に語られたと思って、もう一度読んでみよう。(サクマ)

 

7月11日(火)

主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。

フィリピ4:4、5

 

人には心の癖があります。そのために生きる時に厄介なことが生じます。ある人は人を恐れる癖があります。安全であるとわかるまでは恐れが逆に敵対感情を生むことすらあります。人の好き嫌いが強い人もいます。これも、自動的に起こるので社会生活にはマイナスに働くことがあります。こうした、できたら変えたいと思う癖は、実は変えることができるのです。それだけで、人生はすっかり楽しいものになるのです。その秘訣は実に簡単で、パウロが実際に悟ったことです。それが今日の御言葉です。「主において常に喜びなさい」この言葉をクリスチャンなら知っていると思いますが、自分のものにしている人は以外に少ないのです。まるで呪文のように繰り返し自分に言い聞かせます。その効用は、「広い心」です。つまり、主において常に喜ぶようにしたら心が広い心に変わったということです。そのことをすべての人に知らせるようにすると、前のように弱い心に悩まされることがなくなります。それだけでなく、主はすぐ近くにおられることを知るでしょう。なぜなら、主イエス・キリストのお心と自分の心が非常に近いものになっているからです。ですから、ぜひこの常に喜ぶことを身につけてください。(佐久間)

 

7月12日(水)

先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。

イザヤ43:18、19

 

過去のことに苦しめられる必要はもうありません。キリストの救いは完全だからです。不意に昔のことを思い出してもそれを考え続けてはいけないのです。なぜなら、あなたの古い人はキリストによって死に、すでに恵みにより新しい命に生まれているからです。過去のことは全て悔い改めて、赦しを得ています。キリストの十字架はその保証です。主は、あなたのために新しいことを始めたのです。あなたが不安や困難を覚えているのなら、それは霊的には荒野にいるという意味ですが、キリストを信じているのですから決して悪いことで終わるはずはありません。主は道を造り、乾いた荒地に川を設けると約束されました。ですから、一人で悩むことなどないのです。主の御業を見ることができると信仰をあらわしてください。あり得ない奇跡を経験できるのです。主はあなたを選ばれたのですから、必ず良い結果が待っているのです。主を讃美しましょう。今日、新しいことを見るのです。(佐久間)

 

7月13日(木)

どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。

Ⅱテサロニケ1:11

 

人は実に傷つきやすい。何気ない他人から言われた言葉にも傷つくことがあるし、態度からでも傷つくことがあるのだ。それらの多くは、自分の尊厳を他者が認めていないと感じる時に心が反応する。クリスチャンでもそれは同じだ。そこで、傷つかなくてもすむようにいろいろな努力をすることになる。この問題の根には「愛」の欠乏が考えられる。エデンの園でエバやアダムが神の尊厳を尊重していたら、人間の歴史は大きく異なっていただろう。愛は相手を尊重し、何よりも大事に思うことだ。決して相手を傷つけない。互いに相手を大切に思っていたら、自分にしてほしいことを相手にしようと思うものだ。そのような世界は幸福に満ちている。そこで、あなたが神から召命を受けたなら、神とアダムの間を断絶させた罪の問題の解決がまずあり、その後で神との関係が愛し愛され、という愛そのものとならなければならない。それが「招きにふさわしいものとしてくださり」との御言葉の意味だ。神の側からの働きかけなしには無理だということだ。しかし、キリストを通してそれは可能となり、それによりその人そのものがキリストのように変わっていくことが救いの計画なのだ。それに、心の傷を癒すのは赦すことから始まることもまたキリストから教えていただいたことなのだ。(サクマ)

 

7月14日(金)

それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き核心に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。

コロサイ2:2、3

 

新約聖書を読もうとすると、イエス・キリストの物語から始まります。それも、大部分がおおよそ三十歳からの公生涯といわれる話です。この新約聖書に秘密があるとすれば、イエス・キリストにつきます。ある人たちはナザレのイエスは実際に存在したのか疑問を持ちました。そのおかげで二十世紀には徹底的な研究がなされて、実在した人物で、もはやその存在を疑うことができなくなりました。それで、人間イエスに焦点を当てて、いろいろな人がその人物像を描いて解釈しました。しかし、イエスは神であるということについても疑問を持つ人たちがいて、そのことを証明しようとしました。彼らが勘違いしているのは、今日の聖句を理解していないからです。キリストは神の奥義なのです。学問のような方法では表面を撫でるようなもので、とてもつまらない結果になるのです。キリストを知ろうとしなければ、何もわからないのです。彼らはキリストが神の知恵であることを見逃しています。人間の知恵が神の知恵にかなうわけがないのに、人間の方法に頼っているのです。なぜ、信仰が与えられたかといえば、この信仰がキリストを真に知る方法だからです。つまり、信仰を持つ者は誰でもキリストを知ることができるわけです。「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです」。(佐久間)

 

7月15日(土)

役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシャ人にも力強く証ししてきたのです。

使徒言行録20:20、21

 

これはパウロの言葉です。使徒として困難に立ち向かい福音を伝え続けた事の証しです。私は牧師になる前には教会での聖書を学ぶ時間の教師をしていましたが、人をキリストへと導くようなものではありませんでした。神学校時代には、大学生に聖書を教えて伝道しましたが、初めての時には、目の前で相手が寝てしまいました。牧師になって、すぐに神様のお働きで聖霊のバプテスマを受けることができました。それからの聖書研究は意味のあるものとなりました。私はともかく聖霊が働いてくださるので目の前で人が救われるのを見てきました。札幌、岩見沢、苫小牧、大岡山、宇都宮、姫路、大阪、沖縄、フィリピン、鎌倉、南浦和、前橋、赤城、大胡、ガーデナ、ウエスト・ロサンゼルス、ハシエンダ、仙台、一関、盛岡、山形、福島、大宮、浦和、府中、古石場など、神様は実に色々な場所で福音を伝えるようにとお導きになられたのです。そして、インターネットで福音を伝えることもできるようになったのです。あなたも主イエスを証しすることができます。方法はいろいろですが、楽しいことなので心配することはありません。あなたが得意なことややりたいと思うことで神様は働かれると思います。(さくま)

 

7月16日(日)

私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたの御言葉は、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。

エレミヤ15:16

 

心がドキドキしてくる御言葉です。エレミヤは御言葉を見つけ出し、それを食べた、と言っています。それは、どのようなことでしょう。聖書を読むとか聴くとかは言いますが、食べるとは言わないでしょう。そういえば、イエス様は、「私にはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われました。それに、荒野の試みの時にも、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」ともおっしゃいました。この言葉は、ギリシャ語のレーマという言葉です。レーマは、その人だけに神様がお語りになった言葉です。聖書を読んでいて突然、御言葉の意味を悟るような経験があれば、それがレーマです。その力は相当なもので、「楽しみ」や「喜び」になるのです。ですから、ノルマのように聖書を頑張って読むのもいいですが、それよりも主の御言葉を見つけ出して、食べてしまう、つまりレーマを見つける事の方が喜びは大きいと思います。なぜ、このように主が語りかけてくるかといえば、私たちにはキリストの名がつけられていて、クリスチャンと呼ばれているからです。これほど光栄なことはありませんね。(さくま)

 

7月17日(月)

主よ、わたしの言葉に耳を傾け、つぶやきを聞き分けてください。わたしの王、わたしの神よ、助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。あなたに向かって祈ります。

詩篇5:2~4

 

信仰の勇者と言われるようになりたいですが、なかなか難しく一朝一夕にはいかないものです。信仰の成長を振り返れば、同じところを堂々巡りしているような気になるのが常です。しかし、よく考えてみると、何かしらの問題が次々に起こり、悩み、なんとかしようと必死に努力するか、何もできないでつぶやき始めるかです。その中で、困り果てるとようやく「神様お助けください」と祈り始めるかもしれません。しかし、祈ってもすぐに解決しないとまたしても誰か人間に頼りたくなるのです。信仰の導きを求めるのは良いのですが、未信者の有力者に頼りたくなるものです。しかし、元々が信仰の訓練で起こっている試練であれば、神様から離れて解決することはできないのです。そのことを理解させるために、頼った有力者がいかに無力かを神様は見せられるます。しかし、神様は圧倒的に助けることができる唯一のお方です。そして、いつでも助けたいと思っていてくださるのです。ですから、この詩篇記者から学んでください。「叫ぶ声」となっているのかどうか、反省してみる必要があるかもしれません。(さくま)

 

7月18日(火)

私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって作られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

エペソ2:10

 

キリストを信じていると言う人も、簡単に「それは無理だ」「できない」と諦めてしまうのを見てきた。その度にどうしてそうするのか理解できなかった。ある人が素晴らしいアイディアが浮かんで、その新しいことをしようかと考える時に、「いや、それは無理だ、できっこない」と諦めたら、きっと、後日誰かがそのアイディアを実現させて大儲けするかもしれない。その時に、きっと後悔するはずだ。そもそも、私たちは自分一人で生きているわけではない。今日の聖句を読むと良い行いをするために生まれてきたことがわかる。それは、自分のやりたいことや興味のあること、それに得意で大好きなことなのだ。だから、子供の頃から、その人の傾向がだんだん明瞭になってくるのだ。他の人と比べることはない。それは、自分のために神があらかじめ備えていてくださるからだ。だから、自分が何をすれば良いのかわからないと言う必要はない。この世の常識に縛られなければ、きっと自分の良い行いが見つかるはずだ。それは必ず成功する。神は、あなたが良い行いに歩むように全てを整えていてくださるのだ。(サクマ)

 

7月19日(水)

主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。

詩篇130:3、4

 

赦すことがどんなに難しいことか、私たちは知っています。しかし、キリスト教に触れた時、この神様が赦す神様であることを知りました。もちろん、罪をいい加減にしているわけではありません。神様は罪を処罰する宇宙の裁判官のようになお方です。だれが見ても公平で正義が行われていることが明白である裁きをされて、公義を守られているのです。ですから、その神様が私たちの罪を赦すということは、どこかで罪の罰がなされなければ正義とは言えなくなります。一方で、神様は愛であると言われているのは真実です。ですから、罪を犯した人を赦そうとします。そうすると正義と愛がぶつかり合ってしまいます。それでも矛盾しないで罪人の罪を赦すことができるかという問題が起こります。そして、私たちはキリストの十字架に導かれるのです。この十字架こそが私たちの罪を罰する場所であり、また神が私たちを愛しておられるので、御子を犠牲として罪の贖いとしてくださった姿なのです。ここに愛があります。そして、この犠牲があったからこそ私たちの罪を赦されるのです。そのことをわきまえているなら、今日の聖句がよくわかるのです。(さくま)

 

7月20日(木)

なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に打ち勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。

Ⅰヨハネ5:4

 

キリスト教の救いが特殊であることは今日の御言葉を見てもわかる。ヨハネは救いを「神によって生まれた者」と表現している。人の命は肉体とは別のものであることはわかる。それが目に見えなくても生きていると理解できる。しかし、死者は同じ肉体を持っていても生きているとは言われない。だから、命は重要なわけだ。聖書は、人間を創造した時に鼻から神が息を吹き入れたので人は生きたと説明している。つまり、アダムは神の息を受けて生きる者となったわけだ。その神の息の正体は聖霊だ。だから、ペンテコステが聖霊降臨であることに意義があるわけだ。つまり、イエス・キリストを信じて救われた者は神の息をもう一度吹き入れられて新しく生まれたのだ。そのことが始まりだったので、その後に続く者も同様に神の息を吹き入れられて、神によって生まれる必要があった。このことを聖霊のバプテスマとも言う。この新しい人こそ、世に打ち勝つ人なのだ。このことが実現したのは、イエス・キリストを信じたからだ。そして、主の約束を信じているので、世に打ち勝つことができるのだ。全ては信仰によることを忘れてはならない。(サクマ)

 

7月21日(金)

こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリアラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあながたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

使徒言行録1:9~11

 

キリストが昇天された場面は深く感動する。重要なことは、二人の御使がイエスは「またおいでになる」と証言したことだ。天に上られたイエスは、同じように天から戻ってこられるのだ。もちろんそのことは、歴史を通じて今日まで有効だ。現在生きているクリスチャンとして、私たちはこのガリラヤの人たちのように、待っている。主は必ず私たちを天に連れ帰るために戻ってこられると信じているから。聖書に預言されたことがことごとく成就したなら、時満ちて、天から主が降って来る。もう、主は汚れた地に足をつけることなく、空中に聖徒たちを引き上げられる。この世では決して聴くことのできなかった天使の讃美が大滝のとどろきのように聞こえる。目に見ることのできなかった主を信じていたが、今は目の前に生ける主が見えている。そのような感動が待っているのだ。だから、今日も元気に始めよう。(サクマ)

 

7月22日(土)

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。

詩篇62:1、2

 

自分の力でなんとかなるものは悩みではない。なんともならないから悩みとなる。それで、誰でも誰か自分を助けることのできるものにすがりたくなる。ただ、それが偶像であればただの気休めであり、それ以上に悲惨な結果が待っていることになる。それに比べ、私たちが信じた神は、なんと頼りになるだろう。寛大で慈愛に満ちた天の父だ。その知恵は驚くべきもので、到底人間では理解できない。その神が私たちのためにならないことを許されるはずがない。いつでも、絶妙なタイミングで助けてくださる。そして、そこには知恵が満ちているから教訓があり、結果さらに神を知ることになる。このことがわかると、詩篇記者のように、ただ神を待ち望むようになる。そして、いつしか、あなたは決して、ゆるがされない人になっているだろう。(サクマ)

 

7月23日(日)

それには何よりも次のことを知っていなければなりません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からの言葉を語ったのだからです。

Ⅱペテロ1:20、21

 

聖書の解釈は自分勝手にしてはいけません。とんでもない間違いを引き起こす危険があるからです。そもそも、預言は聖霊に霊感された預言者が神からの言葉を語ったか書いたものです。そこで、旧約聖書の預言者が語る時に「主はこう言われる」と前置きしてから、神の言葉を語っているのを見ることができます。キリスト教の長い歴史の中でも、聖書を個人的に所有し、自由に読めるようになったのは最近のことなのです。未だ、カトリックの国では、信徒が聖書を自由に読めないところもあるのです。また、個人が勝手な解釈をしないように、教会の権威でしか聖書解釈を認めていない時代が長くありました。それで、今日のように、聖書が母国語で自由に読めることはありがたいことなのです。それでも、自分勝手な解釈が危険であることには間違いありません。それを防ぐために、聖書研究は必要なのです。一生かかって聖書を学び続けることがお金に変えることのできない大きな財産であることを覚えたいものです。(佐久間)

 

 7月24日(月)

主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

詩篇37:4

 

今日の聖句は信仰の極意といってもよいことが書かれている。「主をおのれの喜びとせよ」この一つのことをよく考えて欲しい。あなたがこのディボーションを読んでいるということは、あなたがこの意味を理解できるからだ。勘違いしてはいけないのは、前後の文章を逆にしてはいけないということだ。心の願いをかなえてほしくて、無理に主を自分の喜びとしようと努力しても意味がない。なぜ主が自分の喜びとなるのだろうか。そう考えることから始めればいい。すでに意味がわかる人は、いつも実践することだ。信仰は自分で体得する道だ。決して難しいものではない。赤ちゃんが育って、二本足で立ち上がる日が来るが、それはその子が天才だからではない。信仰も同じだ。必要なのは良い心だ。それは、イエスが教えてくれる。主はきっかけを作ってくださり、あなたに気づかせてくださる。主があなたを無条件に愛してくださっていることを。それを受け止めれば、喜びの意味がわかるはずだ。その時、あなたの心は変わる。価値観も全てが変わる。そう、あなたの願いも変わるはずだ。それを主はかなえてくださるのだ。(サクマ)

 

7月25日(火)

主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることはなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない。天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。

詩篇103:10、11

 

私たちは、自分にひどいことをした人を赦したり、忘れることがなかなかできない。しかし、主は驚くことに私たちのひどい罪も悪をも赦してくださる。しかも一旦赦されたなら完全に忘れてくださるのだ。そのことが正しく理解されないと、私たちは、あの人よりはマシだ、と高慢に人と比べる。また、自分のしでかしたことはあまりにもひどいので、主もお赦しになることはできないだろう、などと勝手なことを考えて決めつけてしまうことだってある。しかし、主は人間ではない。神なのだ。しかも、人間などが想像してもまったく追いつかないほど寛容で知恵に満ち、人間を慈しみ惜しむお方なのだ。それで、あなたを救うためには自己犠牲の愛をも惜しまないのだ。あなたはそのようにして、主に愛されている。あなたが主を信じ、畏れているからこそ、想像も及ばないほどの深い主の慈しみを受けているのだ。だから、主を考えるときには小さな人間的考えに縛られてはいけない。主の慈しみの中でこそ、あなたは生き生きと生きていくことができるからだ。ハレルヤ!と主を讃美しよう。今日も良い日だ。(サクマ)

 

7月26日(水)

子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。

ヘブライ2:14、15

 

聖書の福音はイエス・キリストに尽きる。そのイエスは恵みと慈愛に満ち溢れている。私たちはへりくだることを教えられているが、それはイエスがそうだったからだ。聖書の証言によれば、私たちは悪魔をイエスの十字架の死によって滅ぼしたと言う。それは、悪魔が私たちを死によって支配していたからだというのだ。それは死の恐怖のことだ。死の前には誰もが恐れ、己の無力を思い知る。死を逃れるすべがなかった。しかし、イエスは神であったのに私たちの救いのために人間になったのだ。私たちと同じになって、罪を犯さなかったのだ。その上で罪を贖う犠牲として命を十字架の上にかけられた。天の王がなぜそこまでするのか。それ以外にあなたを救う方法がなかったからだ。イエスはあなたが滅びることに耐えられなかった。あなたを愛しているからだ。あなたは、もう罪も死も悪魔も恐れることはない。主イエス・キリストを信じて救われたのだから、奴隷ではなく自由になったのだ。そのことをあなたは信じているので今日も恵みの中を生きることができる。あなたは主に祝福されるために生きているのだ。(サクマ)

 

7月27日(木)

人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。

ミカ書6:8

 

クリスチャンが日々の生活に満足を覚える秘訣は、今日の聖句に書かれている。難しいか難しくないかは、あなたしだいである。と言うのも、全てあなたの選択にかかっているからだ。もし、これが律法学者の言うことを全て守らなければならないと言われたら、誰も守ることができないので失望することになる。しかし、私たちは福音を聞き、イエスを愛している。確かにイエスは心の支えになっている。そこで、ここで教えられた通りに「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと」を心がければ、あなたの人生はすごしやすい幸福なものに変わるのだ。あなたは自然と笑顔になり、美しくなる。誰もがあなたに良い感情を抱き、親しみを持って近づくだろう。そして、あなたは神の恵みに感謝することが習慣となり、喜ぶことが自然にできるようになる。だから、ちゃんと選択しようではないか。(サクマ)

 

7月28日(金)

人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。

ミカ書6:8

 

クリスチャンが日々の生活に満足を覚える秘訣は、今日の聖句に書かれている。難しいか難しくないかは、あなたしだいである。と言うのも、全てあなたの選択にかかっているからだ。もし、これが律法学者の言うことを全て守らなければならないと言われたら、誰も守ることができないので失望することになる。しかし、私たちは福音を聞き、イエスを愛している。確かにイエスは心の支えになっている。そこで、ここで教えられた通りに「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと」を心がければ、あなたの人生はすごしやすい幸福なものに変わるのだ。あなたは自然と笑顔になり、美しくなる。誰もがあなたに良い感情を抱き、親しみを持って近づくだろう。そして、あなたは神の恵みに感謝することが習慣となり、喜ぶことが自然にできるようになる。だから、ちゃんと選択しようではないか。(サクマ)

 

7月29日(土)

目をまっすぐに前に注げ。あなたに対しているものにまなざしを正しく向けよ。

箴言4:25

 

仕事でも人間関係でも大切なことはちゃんと見ているかどうかということです。私たちは見ても見えずというような状態でいることがあります。どうしてそうなるのでしょうか。独りよがりになってしまえば、周りが見えませんね。関心がなくても見なくなります。自分に自信がなければ見ることができなくなります。また心にやましいことがあっても見ることができなくなるでしょう。さて、ちゃんと見ることのできる人は、いろいろ見分けることができます。知ることができ、勝利することもできます。それは良いことです。人生が良くなります。では、どうすればちゃんと見ることができるのかと言えば、今日の聖句をよく考えてみることです。これは、実は愛することを教えているのです。イエス様に助けを求めて来た人たちは、評判の悪い人や病気の人、悪霊つきまでいました。それなのに、イエス様に対している人にまなざしを正しく向けていました。その結果は奇跡の連続だったのです。あなたもイエス様に倣って、御言葉を実践しましょう。(さくま)

 

7月30日(日)

わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。

エレミヤ29:11

 

あなたのために主は計画を立てられた。そして、それは忘れることなく主の心に留められている。主の計画だから良いものであるに決まっているが、平和の計画である。将来と希望を与えるものである、と主は言われる。人生という旅路を進み、時には疲れ果て愚痴をいうことだってあるかもしれないが、信仰者の人生はただの偶然ではないし、どのような境遇になってもへこたれるようなことはない。覚えておくべきことは、神の祝福をあなたは受けていることだ。しかも、自分でしかできない人生を主のために生きているのだ。食べるために働いていると思う人は少なくないが、それだけのためではない。あなたには辿り着くべき終着駅がある。それは、天の国だ。天の父が待っているホームなのだ。見たこともないほど美しい場所だが、なぜか懐かしくて心が感動に震える天の家郷だ。あなたはなんと恵まれた人だろう。そのために今しばらく旅路は続くが、自分のするべきことをやり遂げて、イエスが迎えに来てくれるその日に全てが報われるから、主の立てられたご計画の通りに天の故郷に帰ろう。(サクマ)

 

7月31日(月)

割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。

ガラテヤ6:15

 

ユダヤ人にとって父祖アブラハムが神との間に結んだ契約は絶対的なものでした。そして、割礼こそがそのしるしであると思っていたのですから、ここでパウロが断言する「割礼の有無は問題ではなく」という言葉はショック死を引き起こすほど強烈な言葉なのです。しかし、これが異邦人の私たちにも意味があるのは、宗教的な形式では人は救われないことを教えているからです。自分自身を知れば、人間の問題は深刻でどんなに努力してもイエスのようになれないことが実感できるはずです。それをごまかす方法としては、宗教的努力が一番です。しかし、それは空しく神の救いとは正反対へと人を導くことになります。パウロはそのことに気がついて、ここであえて大胆なことを言っているのです。それは、初めの教会にも欺瞞として入り込んで来た偽りの教えだったのです。真理は、ただ、「新しく創造されること」と教えています。創造は人間にはできません。唯一創造主のみができることなのです。ですから、信仰者が真剣に取り組むことは、新しく創造されることです。聖書の一ページ目から書いてある通り、聖霊が働き、神の言葉が語られることが必要です。方向を間違えなければ、全てが主によってうまく行きます。あなたは、聖霊があなたを新しく創造することを信じている必要があります。素晴らしい神の愛が主への信頼と信仰を引き出してくれるでしょう。願い事ではない、主への愛の祈りをささげてください。(佐久間)