2017年8月ディボーション

8月1日(火)

主よ、わたしの叫びが御前に届きますように。御言葉をあるがままに理解させてください。詩篇119:169

 

 

聖書を学ぶことはとても楽しいことです。毎日聖書を読むという人はいるでしょうが、その御言葉を考えて理解しようとすると意外に難しくて深い意味を取れずにあきらめてしまっていることがあります。そこで、牧師や聖書教師と一緒に学べると良いのですが、誰もが忙しい現代ではそう簡単ではありません。そこで、SQJのホームページ上で動画を使って聖書研究することができる仕組みを考えています。実際に、万人向けの聖書研究がどのようなものであれば良いのかと考えているのですが想像以上に困難なことをしている気がしてきました。ただ聖書の知識を学ぶだけでは意味がないし、信仰の成長は個人差が大きいし、やさしすぎても難しすぎてもダメでしょう。しかも、霊的に恵まれる必要があります。では、どうすればいいのか?聖書には、「御言葉をあるがままに理解させてください」とありました。そのような聖書研究が一番良いのではないかと思います。そのためには、聖書を学びたいと思う方が、主に叫ぶことです。「叫ぶ」とは、一途に、とか熱心に主に求めることを意味しています。祈りなしには聖書を理解できないですね。(さくま)

 

8月2日(月)

だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。

Ⅰペトロ5:19

 

真面目に生きていてもうまくいかなくなることがあります。クリスチャンなのでと理不尽にも耐えて我慢することも珍しくありません。神様のために善い行いをしていると思っていても周りの人からひどい目に遭うことだってあるでしょう。誤解を受けたり、会ったこともない人たちから誹謗中傷を受けたり、仕事が急にうまくいかなくなることもあります。友達に裏切られることだってあるでしょうし、病気になって苦しむこともあり得ます。ただ、正しく悪に染まらなかったためにひどい目に遭うことも珍しくありません。一生懸命神様のために生きてきたのなら、どのようなことになっても主を信頼していればいいのです。今起こっている現実が受け入れられないことであって、意味が理解できなくても、それでも主を信頼して、自分の魂を神様にゆだねることが信仰生活の中で必要なこともあるのです。信仰を守るとは困難な山を登るようなものです。苦しみだけならば誰も山に登りません。でも、登りきったならそこに大きな喜びがあるのです。地上の苦しみは、どんなに大変でも過ぎ去るものです。過ぎてしまえば、忘れることができるのは、主がちゃんと自分のことを見ていてくださって助けてくださるからです。だから、信仰で生きる方がいいのです。(さくま)

 

8月3日(木)

まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうって置かれることがあろうか。

ルカ18:7

 

祈りは聞かれるものです。確かにいろいろなケースがあって時には祈りがすぐに答えられないことがあります。そこには神様の知恵があって、時を待っていることだってあるのです。しかし、このルカ18章の中では不正な裁判官はうるさくてかなわないから裁判をしてやろうと言っています。この話をされた主は、さらに今日の聖句のお言葉をお語りになりました。だから、クリスチャンが困った時には一度祈ったぐらいで諦めて人間の有力者に頼ったりしてはいけないのです。昼も夜も叫び求めるぐらいの祈りが必要です。このように真の裁判官である主に正しい裁きを求めることが大切で、しかも、真剣に祈り続けることが重要です。この祈りの過程で信仰が大きくなって、人間の救いではなく神様の救いのみに集中していくのです。このように神様の裁きは聖徒を助けるのです。(さくま)

 

8月4日(金)

すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上からくるのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。

ヤコブ1:17

 

クリスチャンとして人生の大半を過ごしてきましたが、今日の御言葉はその通りでした。不思議になるぐらい、神様は私たちの必要をご存知なのです。富が偶像とならないように、賢明な愛情深い親のように、神は私たちにちょうどよく生活できるように支えてくださいます。それだけではなく、大きな出費やどうしても必要なお金や、時には才能やチャンスまで良い贈り物として届くのです。そのことがわかると神への感謝が自然と湧いてくるものです。私たちは残念ながら良い時もあれば悪い時もあります。心がコロコロと変わってしまうかもしれません。それで神を悲しませることだってやってしまうのです。しかし、すごいことに神はそれでも私たちを愛していることをやめないのです。これほど信頼できるお方はいません。そして、私たちは風に吹かれる葦のようだったのに、たとえ風に吹かれて揺れ動いたとしても、天の父に移り変わりがないので私たちの信仰がいつのまにか静かに動かなくなってくるのです。天の父はあなたをきっと幸福にしてくださいます。だから、天の父に目を向けていましょう。(佐久間)

 

8月5日(土)

主はこう言われる。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ、どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」 しかし、彼らは言った。「そこを歩むことをしない」と。

エレミヤ6:16

 

人間の愚かさは、人の意見を聞かないということで現れる。賢者は先人の知恵や経験から学ぼうとする。しかし、皆が賢人ではない。不幸なことに歴史が嫌いだと言う人は意外なほど多いのだ。本当は歴史は知恵の宝庫なのだ。歴史を学ぶ面白さは、実は今日の聖句が教えている。しかし、面倒な年号や人の名前やまるで暗記科目のような授業では面白いはずがない。でも、歴史はあなたの人生を幸福にする方法を教えている、といえば学んでみたくなるだろう。興味深いのは古代の人間も現代人もあまり本質は変わっていないことだ。賢明な皆さんなら、今日の聖句の意味も理解するだろう。そして、主に逆らうか、主に従順に従うか、どちらを選べば良いのか知っている。歴史は、主に逆らった者たちは国を敵に蹂躙されて捕囚の憂き目にあったことを教えてくれる。個人的な人生の道も同じことだ。正しい道に進んでいれば、魂に安らぎを得ているだろう。(サクマ)

 

8月6日(日)

主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。御前に進み、感謝をささげ、楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。主は大いなる神、すべての神を超えて大いなる王。

詩篇95:1~3

 

私たちの神様はなんと麗しいお方でしょう。主に向かって歌う歌は喜びの歌です。主は頼り甲斐のあるお方で、不動の岩です。私たちは主を讃美することが大好きです。それは、心から溢れる喜びでいつしか叫んでいる自分がいます。自分の全てを主に注ぎ出すようです。主こそ王、比べることのできない唯一の神様です。いつでも、神様のことを考え、その恵みを数え、感謝することがどれほど精神に良いことか驚くほどです。主を喜ぶことが自分の自信になり、力となるのです。周りの人に気をつかって疲れ果てていることがバカらしくなります。主を賛美しましょう。元気になりますよ。そして、心が大きくなり、寛大になると思います。小さなことはもうどうでも良いのです。主に向かいましょう。今、礼拝しましょう。本当のあなたに戻ることができます。(さくま)

 

8月7日(月)

人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は倒れてもまっさかさまに倒れはしない。主がその手をささえておられるからだ。

詩篇37:23、24

 

あなたが神様を信じているのなら、たとえ失敗しても大丈夫です。くよくよ悩むことはありません。あなたは主の備えられた良い道を進んでいます。そこには、弱い人間には不安になったり心配せずにはいられない事態が生じることもありますが、それでも、祈ることができます。また、主を信じていると勇気が湧いてきます。そして、一旦失いそうになった自身が復活してきます。耐えばければいけないことがあっても、その時こそ主を信じていましょう。不思議なことに、あなたには道が開け、行き詰ることがないのです。主があなたの手を支えていてくださるからです。だから、元気を出して、大丈夫と自分に言い聞かせてください。根拠のない自信を見て他人が笑ってもやがて結果を見てその人たちが驚くでしょう。あなたは、勝利者になっているからです。主が喜んでくださるように、今日も笑顔で一日を過ごしましょう。(さくま)

 

8月8日(火)

神の道は完全、主の仰せは火で練りきよめられている。すべて御もとに身を寄せる人に主は盾となってくださる。

詩篇18:31

 

クリスチャンがなぜ安心していられるかといえば、今日の御言葉があるからです。これから先どうなるかは神以外誰にもわかりません。そのために、将来のことを心配したり不安に思ってもしかたありませんが、できれば神の御心に任せて生きると決めて楽天的に生きている方がいいのです。神への信頼が裏切られることはありません。この世界では、銀行でも国でも絶対安全ということはありません。いざという時の保証が欲しいと願うのはわかりますが、唯一、神だけがその保証となり得るのです。たとえ自業自得で行き詰っても、それでも悔い改めて、主の御もとに身を寄せるべきです。主を信じている人は無料で世界一の最高の保険に入っているようなものです。自分の人生を主に従わせましょう。(佐久間)

 

8月9日(水)

彼は神を求めることを教えたゼカリヤをの存命中は、神を求めた。彼が主を求めていた間、神は彼を栄えさせた。

Ⅱ歴代誌26:5

 

ディボーションには意味があります。やってもやらなくても自由ですが、結果には差があります。聖書の中にも、実例があります。神に立てられた人から神を求めることを教えられていた間は、神を求めていたので、栄えることができた、とあります。私たちも聖書の御言葉を学び続ければ、主の御心に適った生き方ができます。それは、祝福される生き方ですから、豊かな恵みがついてきます。しかし、神の御声を聞くことをやめらた、私たちの心は肉の声に支配されてくるでしょう。簡単に昔に戻り、恵みが消え去るのです。主に正しい信仰生活を送ることができるように祈りましょう。(佐久間)

 

8月10日(木)

わたしは生い茂るオリーブの木、神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみにより頼みます。あなたが計らってくださいますから、とこしえに、感謝をささげます。

詩篇52:10、11a

 

キリスト者の信仰は、この詩篇のようです。神を信じることは実に素晴らしいことです。この詩篇記者のように神を信じることの意味を知ることができれば人生はすっかり変わるのです。神が自分にしてくださる諸々のことが感謝できるようになるということは、自己中心に陥る罪の支配から脱している証拠です。罪のために見えなかったものが見えるようになることが一番良いのですが、それほどはっきりとしなくても、それでも主が自分に何をしてくださるか理解しているなら、今日の御言葉が自分の祈りとなり、その祈りは現実となるのです。主はあなたに驚くほど良くしてくださいます。あなたが住むべき神の国へと招き入れてくださるのです。今日の御言葉はあなたの人生に現れることです。喜んで一日を始めましょう。(佐久間)

 

8月11日(金)

死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

Ⅰコリント15:42-44

 

聖書は死んだ後のことも書いてあります。この箇所もその一つです。私たちクリスチャンが覚えておくべき聖句なのです。イエス・キリストを信じている者は、たとえ死んでも復活するのです。同じ元の弱さに戻るわけではありません。そこには神の御業があります。人間は命を作ることはできませんが、神は命を与えるお方です。しかも、復活した人は天国で生きるのです。天国に生きることは未知のことですが、それでも断片的に聖書に預言されています。肉のからだではなく、霊のからだを着るようになると書いてあります。この世界でどんな惨めなことがあったとしても、信仰を守り通せば、時満ちて主イエスが天から迎えにきます。その時にすでに死んでいたとしても、必ずよみがえるのです。それは、天国に着いて、落ち着いてきた時に自分の体が栄光に満ち、すでに変わっていることに気がつくはずです。全てが新しくされるのです。復活を信じていましょう。(佐久間)

 

8月12日(土)

セイルから、わたしを呼ぶ者がある。「見張りの者よ、今は夜の何どきか、見張りの者よ、夜の何どきなのか。」見張りの者は言った。「夜明けは近づいている、しかしまだ夜なのだ。どうしても尋ねたいならば、尋ねよ、もう一度来るがよい。」

イザヤ21:11、12

 

私たちはクリスチャンなので新約聖書の預言を知っています。キリストも弟子たちの質問に答えて、終末の徴を教えています。キリストの再臨を待望する人たちは、時を聞く者であり、また見張りなのです。人類の歴史始まって以来の驚くような出来事は刻々と時が刻まれていることを証明しています。身近な話では、ガラケーを持っている人たちには悪夢のような、スマホも消滅する時代が迫っていることをニュースが報じていたりします。新しい発明がこれほど人類の生活を急激に変え続けている時代は、初めての経験なのです。「夜明けは近いている、しかしまだ夜なのだ」との言葉は現代を表現するにはぴったりなのです。世が終わるなら慌てて立派な人になろうと努力しても無駄です。あなたがクリスチャンになれたのは、神様が選んでくださったからです。それで十分なのです。この神様の恵みに感謝して生きていればいいのです。あとは聖霊がちゃんと導いてくださいます。それにしても、いつ再臨が来るのか、尋ねたいのなら尋ねよ、とあります。聖書を調べてみましょう。あちらこちら聖書のページをめくって尋ねてください。思いがけない良いことを見つけるかもしれません。楽しみですね。(さくま)

 

8月13日(日)

どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。

使徒言行録4:30、31

 

現代はキリスト教会でも奇跡を信じることが難しい状況です。悪魔はまんまと霊的な事柄を科学のなで迷信の類に信じ込ませてしまいました。実際に、信仰者が祈れば奇跡や癒しが今でも起こります。しかし、極端に少ないのです。また、世俗の人よりもそうした奇跡や癒しを信じないこともクリスチャンの特徴になってしまいました。教会の意義に疑問符がつくような時代になっているのです。教会で一同が祈っていて聖霊に満たされるということが初代教会だけでなく今も必要です。この当時は迫害があったのに、大胆に御言葉を語らせてくださいと祈っていたのです。今は、迫害もありませんがイエス・キリストを証しすることもなくなってきました。集まっている場所が揺れ動くほどの聖霊の満たしを経験することがどうしても必要だと思います。祈りましょう。(佐久間)

 

8月14日(月)

国々の偶像は金銀にすぎず、人間の手が造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声を出せない。偶像を造り、それにより頼む者は、皆、偶像と同じようになる。

詩篇115:4~8

 

聖書を読むと偶像がよく出てきます。偶像がいけないものであることはすぐにわかります。クリスチャンになれば、神社仏閣へ詣でることもなくなり、葬儀や墓参りですら気をつかうようになります。ところが、今日の聖書箇所をよく読んでみると、偶像により頼む者は皆、偶像と同じようになる、と書かれているのです。偶像は、私たちを育てようとか愛して正しいものとなるように導くといった聖書の神のようにはしません。聖書の神のように人格を感じれば、心のうちに色々な感情が生じ、自分の欲望を満たすことばかり要求する偶像礼拝とは大きく異なります。そして、偶像により頼む姿勢は、その拝むものと自分が同化してくる結果を生むことになるのです。年齢を重ねても、正しいことを言えるようになるのか、何が真実か見通す目を持つことができたのか、人の心の声を聞くことができるようになるのか、考えてみると恐ろしいことです。主イエス・キリストを信じて礼拝することには、もっと大きな意味があるのです。偶像のようにはなりたくないですね。(佐久間)

 

8月15日(火)

わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。

黙示録3:15

 

この箇所は、黙示録の中で終末と言われる19世紀中頃から再臨までの期間の預言箇所です。よく信仰の生ぬるさを指摘し、奮起するように訴える時にこの箇所が引用されてきました。しかし、なまぬるいと叱咤激励されても、なかなかどうしていいのかわからないものです。そこで、今日は、「神が自分を義としてくださる」という信仰を徹底することを目指そうと思います。少しぐらい何か頑張ったところで、たいして変わりはないのです。黙示録には、「イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たち・・」(20:4)とありますが、それほどすごいことはできそうもありませんが、たった一人でもイエスに忠実であり、聖書や預言から示された御言葉に誠実な者となれるように聖霊の助けを求め、この信仰を保つことを自分に言い聞かせたいと思います。いい加減な信仰生活を送って後悔することだけは避けたいですね。(佐久間)

 

8月16日(水)

神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。

ローマ4:16

 

ここでいう律法という言葉の意味は、人間がそれを守ることによって義となろうとすることですが、罪人には律法を守ることができないのです。逆に、律法を守れないから罪人といえるわけです。それなのに、私たちは様々な形で律法を守ろうとし続けます。それは、正しいことをしたいということ以上に、この世の要求なのです。つまり、伝統を守らなければならないとか、このようなやり方を守らなければならないとか・・・。もっと具体的にいえば、門限は何時とか、礼拝の形式を厳格に守るとか、クリスチャンだからこうすべきだといったことです。この教会ではこうであるが、別の教派では全く違うやり方である、その程度のことなのです。しかし、自分で義となろうとすることは、次第に自分を縛りはじめて、苦しみとなり、重荷となるのです。しかし、救いはそのようなところにはありません。神が義としてくださるという事実を信じる信仰です。そのことがもたらす幸を得ているかどうかで、自分で義を立てようとしているか、それとも神が義とすると信じているかが明確になります。(佐久間)

 

8月17日(木)

主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。

Ⅱペトロ1:3

 

聖書には驚くようなことが普通に書かれています。今日の箇所もそうです。私たちは、自分の信仰が弱いとか、ダメだとか平気で言うことがあるかもしれませんが、それは、聖書的ではありません。人間の肉は確かに弱さを持っていますから、肉の面を見ると自分にがっかりするかもしれません。しかし、聖書が明言していることは、主イエスが救いに来てくださって、命を捨てて救ってくださったことです。それを父なる神は義としたのです。だから、主イエスを信じている者はその人の功績にはよらずに、イエス・キリストの功績で恵みで救われたのです。そのように聞いただけで終わってはいけません。それは、「命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました」と書かれている通り、前払いでもう既にもらっているのです。ですから、すべていただいたと信仰で認めるべきです。そうなれば、義となろうとか、自分で努力して義となろうというようなことはしなくなるはずです。神の救いは完全であるということです。それを大胆に信じる生き方を見につけましょう。(佐久間)

 

8月18日(金)

わたしを愛する人をわたしも愛し、わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。

箴言8:17

 

神様を愛するとはどのようなことでしょう。私たちはなんとか立派な信仰者になろとう思っているかもしれませんが、それがどんなに難しいことか信仰の旅路を進むにつれてわかってきます。律法学者やファリサイ派の人たちのようには頑張れないものです。聖書を読んでいる時には、信心深く生きたいと考えるのですが、生活の場では清い事ばかりではありません。そこで、反省し信心に励めば反動のように罪を犯すのが人間なのです。では、どうすればいいのでしょう。その答えは主を愛することなのです。しかし、主がよくわからないから主を愛することもわからない、という人は主を捜し求めることです。聖書の約束は、そのようにすれば神様を見いだすことができるとなっています。神様を見いだすことができれば、神様は愛なので、主が先に愛してくださることを発見します。それで、自分の心が反応して主を愛することができるのです。今日のみ言葉をもう一度読んでみましょう。(さくま)

 

8月19日(土)

主は彼らのために士師たちを立て、士師と共にいて、その士師の存命中敵の手から救ってくださったが、それは圧迫し迫害するものを前にしてうめく彼らを、主が哀れに思われたからである。その士師が死ぬと、彼らはまた先祖よりいっそう堕落して、他の神々に従い、これに仕え、ひれ伏し、その悪い行いとかたくなな歩みを何一つ断たなかった。

士師記2:18、19

 

イスラエルの民は世界中のさらし者です。この小さな民族を用いて、神が実験しているように見えます。それにしても、ヨシュアが亡くなり、その世代の人たちが皆絶えてしまうと、途端に堕落するというのは驚きです。主に背き、他の神々を恋い慕って姦淫したというのもあきれてしまいますが、彼らは懲りることがありませんでした。あまりにひどい目に遭ってうめくと主が哀れみ、主の助けとして士師を立てました。その士師の活躍で敵から救われても、その士師が死ねば、また他の神々にひれ伏して、異教徒と婚姻を重ねたのです。この繰り返しが続くわけです。まだ、国王がいない時代です。主を知らない人たちが自分勝手に生きることを私たちは聖書から学ぶことができます。しかし、全員が堕落したわけではありませんでした。残りの者がいたのです。そうでなければ、士師が選ばれることはありません。なぜ、あなたは主を信じているのでしょう。あなたも主が選び、とっておいたからでしょうか。主の不思議がやはりあります。とりあえず、主を拝むことができると喜びましょう。(佐久間)

 

8月20日(日)

ヨシュアが死んだときに残した諸国の民を、わたしはもうこれ以上一人も追い払わないことにする。彼らによってイスラエルを試し、先祖が歩み続けたように主の道を歩み続けるかどうか見るためである。

士師記2:21、22

 

聖書を読むと主は明らかに選んだ民を救おうとされていることがわかります。しかし、彼らは主に背き、してはいけないことをしてしまうのです。それにしても、気になるのは、「先祖が歩み続けた道」とあるように、先祖に命じた契約を履行するかどうかを見ているのです。そこで、私たちも現在、少なくとも二千年以上前の出来事を記した聖書を持っているのですが、信仰を持ち、聖書を契約書であると認識して、神の民であると信じています。しかも、アブラハムの子孫であり、神の子であると公言してはばからないのです。であれば、主は私たちがどれほど忠実であり、従順であるかをご覧になっているはずです。時には、試みられることもあるでしょう。ですから、主に見られている者として生きることが大切です。ただ、自力で頑張るようなものではなく、信仰で生きる愛の生き方です。それは、祝福の道を歩み、恵みにあふれた人生をたどる楽しいものなのです。(佐久間)

 

8月21日(月)

わが子よ。私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ。それをあなたの目から離さず、あなたの心のうちに保て。見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする。

箴言4:20-22

 

聖書を持っていることは驚くほどの奇跡なのです。毎年、数多くの聖書が配られています。しかし、その価値を知っている者はわずかなのです。何か良いことが書いてあるだろう、とか古典なので知識として一度読んでみよう、と言う人はいるでしょう。しかし、全く読まない人の方が多いかもしれません。それでは、私たちはどうでしょうか。面白いことに、聖書は、初めて読むと難しいので、意味がわからなかったり、どこが自分にとって重要な箇所かもわかりません。確かに、確かに大昔に書かれたものが奇跡的に原文のまま日本語で自分の手元にあるのです。神の言葉には、人生を変える力があり、その人の命となり、健康にさえするというのです。今日の御言葉が心に残るのなら、聖書の秘密を探って調べてみましょう。よく聞き、耳を傾け、目から離さず、心のうちに保つのです。そのような読み方ができれば、素晴らしいことが起こるでしょう。(佐久間)

 

8月22日(火)

祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出した。

使徒4:31

 

牧師人生が始まった頃、夜に北の教会で証し会を行った時のことです。教会員の中には一緒に聖書を学び、聖霊の真理を理解し、霊的に著しく成長された方々いました。そのために、大変恵まれた証し会となったのです。そして、最後に長老が証しに立ったのです。長老は聖書研究会に出ていなかったために、聖霊が今も働き、聖書に書かれた通りの神の御業や奇跡が起きることを知りませんでした。長老は、昔の自分の功績を自慢話のように話し始めたのです。そのため霊的な雰囲気が一変に消え始めました。せっかく聖霊が満ちているのに消えていく。困って、その場で祈り続けました。そして、ようやく長老の話が終わり、時間のある人たちに軽食が用意されているので残るように促しました。すると、朝の早いパン屋さん一人が帰り、他の人たちは全員残りました。皆さんが席に着くと、なんと聖霊が働き始めたのです。すると、先ほどの長老が、反省して、聖霊のことを言い出したのです。それで、また霊的な雰囲気が戻ってきたのです。そして、皆んなで祈ると、「一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされ」たのです。地震かと思いましたが、教会とは反対の南に家がありましたので、帰って家内に地震のことを聞くと地震はなかったと言われました。この北教会ではそんなことが二回ありました。(佐久間)

 

8月23日(水)

その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」

使徒23:11

 

パウロの勇気ある働きは、クリスチャンの心に何か沸きたつものを感じさせる力があります。主は、パウロに直接語っています。私はパウロのように偉大ではありませんが、牧師に召されましたので、あちらこちらに行ってキリストを証しし、聖霊の真理を伝えることになりました。悪魔はそれを阻止しようと働きましたが、いつでもイエス様の助けを得て、不思議なことが続きました。そして、私が語ったり祈ったりすることにより、あちらこちらに信仰に目覚めた人たちが現れたのです。彼らは神様が備えていた選ばれた人たちです。だから、誰かが探しに行って、目覚めさせ、聖書に書かれた通りに信じて、水と聖霊のバプテスマを受け、新しい命に生きるように教える必要があるのです。これは悪魔が最も嫌がることなので、霊的な戦いがあります。それでも、イエス様を信じている限り、負けることはありません。あなたもイエス様を証しすることができます。自分の力ではできなくても、内住する聖霊の助けを借りて、ワクワクする感動を味わうことができます。主があなたを通して働くことを許可すればいいだけです。大変なことは起こりません。主が働いてくださるからです。自分が主の御用に役立つと思っただけでもワクワクします。(さくま)

 

8月24日(木)

シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。

ルカ22:31

 

この箇所では、イエスの弟子たちが試練に遭うことがサタンによって画策され、神も許したことになっている。そして、実際にイエスが十字架に架けられ、弟子たちはここで挫折することになった。しかし、イエスはシモンの信仰がなくならないように祈った、とある。私たちもイエスを信じる信仰によって生きている。そのため、サタンの嫌うようなこともしばしばすることになる。それは、本来は良いことで神に報いられるはずだ。しかし、サタンは目障りなクリスチャンを攻撃するチャンスをうかがっているのだ。そして、神に願い出て、許されることもあるということだ。それには深い意味がある。その試練を超えなければ、肉の私を捨てきれないからだ。私たちはキリストの恵みで新生し、神の息で新しく生きる者になったに、死んだはずの肉を蘇らせることがしばしばある。弟子たちも、イエスをイスラエルの王とすること、そして、自分は大臣に引き立てていただこうとこの世の出世を夢見ていたのだ。しかし、復活のイエスに出会って、彼らは変わることになった。私たちにも同じように、肉の弱さから抜け出せないでいれば、いつか神は試練をくぐらせようとするかもしれない。できれば、平和な時に、自分を捨て、聖霊に満たされて、主に従順に従えればいいのだが・・。(サクマ)

 

8月25日(金)

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、知るようになる。

ヨハネ13:34、35

 

クリスチャンであることは洗礼を受けていることでわかりますが、キリストの弟子であることは、互いに愛し合うことによってわかるということです。クリスチャンでいることはそれほど難しくないのですが、キリストの弟子であることは人間の努力では難しいので、たった一つのキリストの掟が守られていないと思うことがあるわけです。イエス・キリストを知ったなら、弟子でありたいと思うのが普通です。それほどにキリストに従いたいと思うものです。そこで、十二使徒を聖書から見てみると、ペンテコステ以前は、だれが一番偉いか競っているような人たちでした。しかし、聖霊がイエスのお言葉通りに降ると、彼らは一変しました。そこから、彼らは驚くほど変わります。そして、だれもが彼らをイエスの弟子だと認めるようになるのです。それは、互いに愛し合う者たちだったから、彼らの評判はとても良かったのです。今日も、この掟は有効です。主の取り扱いを受けて、聖霊に満たされた者となりたいですね。(佐久間)

 

8月26日(土)

天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。

マタイ24:35

 

この世界には滅びるものと、決して滅びないものがあるのです。そのことに気がつくと、何が滅びるものか、そうでないものかと注意深く見るようになるでしょう。どんなに美しい物でも、高価な物でも、やがて朽ちて行くのです。人間も例外ではありません。美しさを保とうとしても年をとれば、いやでも二十歳の美しさは無くなります。しかし、内面の美しさはどうでしょう。成熟した人間の内面の美しさは若い人もかないません。ましてや、信仰を持つ者が内住の聖霊の働きによって、内なる人が新しくされて変えられて行く不思議は滅びない言葉に保証されているのです。私たちが最も分かりやすい言葉で言えば「愛」でしょう。この愛は決して滅びないのです。主の言葉を蓄えましょう。(佐久間)

 

8月27日(日)

すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。コヘレトの言葉12:13

 

これほど分かりやすい知恵はないだろう。「神を畏れ、その戒めを守れ」。人間がなんのために生まれてきたのか、と問う暇があれば、神を畏れ、その戒めを守れ、といましめればいい。何しろこれこそ人間のすべてなのだから。何の仕事をするのか、結婚するのかしないのか、どこに住むのか、何を食べるのか、誰を愛するのか、人間が考えなければならないことはいくらでもある。しかも、時は止まることを知らないので、待った無しだ。自分が怠けていて、結果が出せないことを嘆いても仕方がない。それが嫌なら、頑張ればいい。頑張って疲れ果てたら、休めばいい。天才が普通の人と違うと言って嘆くことは愚かなことだ。自分が他の人と違うことは当たり前だ。しかし、人の目が気になって、周りと同じでいようとする。そんな社会で生きることが苦しいと思うなら、自分らしく生きればいい。それが勇気がなくてできない、と言うのであれば、人類史上最も有名な賢者の結論に従えばいい。それが、「神を畏れ、その戒めを守れ」なのだ。なんとも、ユニークな生き方だ。まずは、神を畏れることの意味から考えることを勧める。戒めを守ることで、イスラエルの二の舞はごめんだ。自分の力で律法を守ろうなどと思っては見当違いになる。この教えは、創世記のアダムを創造した時に戻るようなことだ。神に愛され、神を愛し返していた、愛の関係に戻ることなのだ。それを可能にしたのは、主イエス・キリストだ。そのイエスが与えた戒めは「互いに愛し合うこと」だった。このために私たちは存在しているのだから、人生は楽しいものになるはずなのだ。(サクマ)

 

8月28日(月)

わたしは疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす。

エレミヤ31:25

 

時には何をやってもうまくいかず、とことん疲れ果ててしまうことがあります。しかし、肉体の疲れは休息を取れば回復するでしょうが、魂が疲れたらどうすればいいのでしょうか。薬局に行っても魂の疲れをいやす薬などありません。そもそも、魂が疲れ果ててしまうのは、自分が愛されていないとか、自分を必要としてくれないとか、自分が誰の役にも立っていないとか、自分のことを理解してくれない、といったようなことが魂を疲れさせるのです。主は、「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ」(3節)と語られます。この主の愛はいつでも魂を生き返らせ、力を満たすのです。裏切ることのないお方が、あなたの保護者なのですから、人間に目をとめていないで、すぐに主を仰ぎましょう。そして、わたしは主に愛されている、主の慈しみが注がれている、と言い聞かせましょう。そして、その言葉を信じてください。(佐久間)

 

8月29日(火)

ペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。

使徒12:12

 

初めのキリスト教は、立派な教会堂を持っていませんでした。有力者の家に集まっていたのです。ここでは、マリアという人の家で礼拝を行ったり、祈祷会を持っていたことがわかります。SQJも礼拝の後、祈祷会を持っています。初代教会の家の教会を継承しているのです。この聖句に書かれた状況は、ヘロデ王がヤコブを殺害したところ、ユダヤ人に喜ばれたことから、今度はペトロを捕らえて殺そうとしました。しかし、天使が現れてペトロは奇跡的に救出されます。そして、ペトロはすぐに仲間の集まっているマリアの家に来ました。大勢の人が集まって祈っていましたが、まさか牢に繋がれたペトロが帰ってくるとは思っていなかったので、とても驚きました。教会員が集まって祈るなら、神様は大きな力を持って応えてくださるのです。一人で祈ることと同じように、皆んなで集まって祈ることも重要なことがわかります。今日も祈りの大切さは変わりません。時には天使があなたを助けにくるかもしれません。そのような可能性を持って祈っていることを覚えましょう。(さくま)

 

8月30日(水)

わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。

詩篇32:8

 

これから先どうしようと、悩むことは誰にでもあります。たとえ、現在すべてがうまく行っていても、迷うことがあるのです。大学教授の友人も、官僚をしていた人も、医師の友人も辞めて牧師になりたいと思って迷っていたことがありました。また、仕事を変えたいと思う人も、結婚すべきか迷う人も、人生に挫折した人も、離婚しようかどうしようかと迷う人も、進路を決められずに迷う人も、とにかく人間の問題の多くは行くべき道がわからないことなのです。信仰を持っているのなら、主の御言葉に耳を傾けてみましょう。主は、あなたに悟りを与えると約束しています。主に聞くことのできる人は、助言を与えられます。結果、自分の行くべき道がわかります。今日のみ言葉は真実です。その通りの結果を得ている人たちがいるからです。だから、まずは心を落ち着かせて、主に祈り始めましょう。そして、耳を澄ませてみましょう。(さくま)

 

8月31日(木)

主がすべての災いを遠ざけて、あなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。詩編121:7、8

 

詩篇の中に、このような祈りがあります。現代でも私たちはこのように互いに祈るべきです。大切な人はもちろん、あなたに関わりを持った人にも必要な祈りです。私たちは決して偶然誰かと会っているわけではありません。この広い世界の中で、思いもかけない所で知っている人に出会うことがあります。神様は人間にはわからない長い時間の中で人の関わりを持たせているようです。それは、自分の世代を超えて、何世代にも渡って関わりがあることがあるのです。ある人は、誰かを救いに導くために知り合いになります。それは偶然のように見えますが、神様の支配の中では偶然などあり得ないのです。残念ながら人にはすべてが見えるわけではないので、本当の意味がすぐにはわかりません。でも、信仰者は、祈り、導かれるので、主の御用にちゃんと用いられることになります。それは、悪魔の側から見れば嫌なことです。それで、この祈りが必要になってきます。悪魔の攻撃から守られるために。そして、聖句の祈りは力があるので効果がすぐに現れるのです。あなたもこの祈りをささげてみる必要があるのではないでしょうか。(さくま)