2017年9月ディボーション

9月1日(金)

子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。

Ⅰヨハネ4:4

 

キリストを信じる者にはしるしが伴います。それは、悪魔を追い出すことができるという権能です。そして、そのクリスチャンには、内に聖霊が宿っているので、この世の支配者であると高慢に息巻いていた悪魔に打ち勝つことができます。それは、聖霊の力が圧倒的に優っているからです。この世の支配者と豪語する悪魔にクリスチャンは公然と楯突いて、彼らが奴隷だと主張する人間をキリストに導き、解放するのです。ですから、悪魔が怒りをあらわにして、攻撃してくることも珍しくありません。ただ、悪魔だとわからないように攻撃を仕掛けてくるので、人間の仕業と思って勘違いすることもありますが、私たちは自分の力に頼ることなく、信仰と祈りと御言葉で勝利します。いつでもキリスト中心であり、聖霊の働きを信じて、与えられた霊の賜物を使えます。あなたが何者であるか、今日のみ言葉から確信を持つことが肝心です。(佐久間)

 

9月2日(土)

あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる。

申命記30:6

 

全てはじめに書かれていたことが今日の聖句でもわかります。イスラエルの民に始まり、クリスチャンであっても、理解しなければならないことがあります。それは、理解しそこなうと大変です。実に、イスラエルは失敗したのです。パウロは、そのイスラエルの宗教の考えに習熟していました。それが、イエス・キリストに出会ったことで、一変します。聖霊のバプテスマも受けて、聖書をもう一度学び直します。そこで、わかったことを手紙に書きました。それは、今日でも普通に教会で語られ続けている言葉です。「信仰による義」のことです。しかし、言葉だけで理解されずに空しいことが続いていることが多いのです。それは、自分の功績を神に認めさせようとする、「行いによる義」なのです。自分など到底及ばない聖なる生活のために努力している人にパウロは、律法も知らないで何の努力もしていない人も、神の目には変わらないというのです。どちらも、信仰によらなければ救われないからです。つまり、罪ある人間のどんな行為も努力も全く足りないのです。なぜなら自分のプライドを捨てられないからこそ、聖なる者になってどれだけ努力したか神に認めてもらおうとするのです。そのような人が神を愛することはできないのです。心を変える必要があるので、「心に割礼」と言っているのです。信仰によって義としていただくことは、誰でもできる近くにある救いなのです。この救いは、神を愛して命を得ることができる仕組みなのです。それができないことを罪というのです。(佐久間)

 

9月3日(日)

そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、私たちにお命じになりました。

使徒言行録10:42

 

人間はただ生きて死んでいくだけの存在ではありません。もっと偉大な存在なのですが、十分な愛情がなければ、すぐに弱って本来の正しい姿から逸脱しやすい存在なのです。その上、与えられた時間は人によって異なっていますから、自分の時間を意識することは大切です。そして、最も重大なことは、人間は必ず神の裁きを受けるということです。どのように生きたのか、何をし、何をしなかったか、聖書には記録の書が存在し、全ての人の言動は記録されているというのです。その上で、イエスが審判者として一人一人の裁きをすることになっているのです。もし、最後の審判があるとすれば、いい加減に生きることなどできるはずがありません。正しく生きることは人生の目標になります。それは、神の御目に正しいく、ということです。神は愛なので、愛に生きることが正しいことになります。あなたのために罪を贖ってくださったイエスがあなたの審判者であることは、あなたのイエスに対する誠実さと信仰が大きな意味を持ってくると、理解できるはずです。そして、自分の関わる人々にこの真実を伝えることも私たちの使命なのです。(佐久間)

 

9月4日(月)

このような時にも、見よ、天にはわたしのために証人があり、高い天には、わたしを弁護してくださる方がある。わたしのために執り成す方、わたしの友、神を仰いでわたしの目は涙を流す。

ヨブ16:19、20

 

人を見て、批判することは簡単ですが、害しかありません。私たちの目の前に何人もの人が現れては消えて行きます。その度に、自分の限られた知識と頭脳で人を値踏みしたり、裁いたりするのが罪人の常なのです。私たちは罪を知り、自分が何者かを知ったのです。それにもかかわらず、イエス・キリストが私たちを命に代えて救ってくださったことを知りました。そして、神の愛を受けたのです。そのようにして、イエスを信じ、キリストに贖われ、救われました。ですから、今は自由になり、自分の身に何が起ころうが天に私たちを弁護して、執り成してくださる方がおられることを信じて、心に静まれと言えるようになったのです。それにしても、聖書を学んで自分がどのような者であるか分かってくると、このような罪深い自分のために今でも天で執り成していてくださる主に、ありがたくて涙を流すのです。(佐久間)

 

9月5日(火)

あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。

ガラテヤ3:26、27

 

信仰は素晴らしいものですね。主を信じることがこれほど大きな喜びになるとは思ってもみませんでした。私たちを苦しめるものは、実は私たちが過去にしてきた罪です。嫌な記憶、惨めで恥ずかしい記憶、もう一度やり直せるならどんなにいいかと思っていること、普通は思い出さないようにしていても突然思い出しては苦しめるものがあるのです。それをまさか神様がなんとかしてくださるとは思ってもみないことです。しかし、イエス・キリストが私たちのために何をしてくださったか分かった時に、私たちは大きな変化を経験することができるのです。それは、驚くべき恵みなのです。過去の汚れを十字架で流された主の血によって洗い清めてくださったのです。そのことを信じて主に全てを投げ出し委ねたのです。それは、洗礼となってキリストに結ばれました。私たちが無に等しい者であったとしても今は、キリストを着ているのです。そして、あなたは神の子とされたのです。(さくま)

 

9月6日(水)

このように、この小さな者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。

マタイ18:14

 

私たちは、クリスチャンになって自分が「この小さな者」の一人であることに気がつきました。それまでは、プライドが大きく人生を邪魔していたのです。クリスチャンになっても自分のプライドに気づけない人もいます。それは、とても残念なことです。聖書に書かれたことを素直に受け入れることができないので自分に合わせて解釈してしまうか、わからないと無視してしまいます。自分の考える正しさを神様に認めさせようとしてしまい、へりくだってみ言葉を聞くことができないのです。自分が正しいという思いにしばられると真理から遠ざかってしまいます。ですから、どこかで神様に降参して、砕かれることを受け入れることです。誰でも、砕かれることは嫌でしょうが、かたくなな心を放っておくのは危険なのです。神様との関係が聖書から理解できれば自分のあるべき姿が変わってきます。例えば、今日の聖句です。無力で自分の力では神様の御目に正しいとは映らなくても主の憐れみにすがって生きることはできるのです。この世の人から見れば、随分小さくかっこ悪く見えることでしょうが、天の父をただひたすらに慕って、自分の弱さを主に隠さないならば、主はあなたが滅ぶことのないように働かれるでしょう。(さくま)

 

9月7日(木)

善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。

ガラテヤ6:9

 

善い働きを評価されないことも辛いですが、いくら善を行っても報われないことが続くといい加減嫌になるものです。自分にできることを精一杯尽くしても、それが伝わらないこともあります。クリスチャンは、そうした時に失望してはいけない、と自分を励まします。今日のみ言葉の通りに、全てに時があることを忘れてはいけないのです。そして、何より嬉しいことは、自分のやってきたことが無駄ではなかったと知る日がくるのです。それは、「刈り取る」とあるので、収穫の喜びが待っているということです。ですから、あなたのしていることは決して失望に終わることはありません。刈り取りの時を楽しみに待っていましょう。(佐久間)

 

9月8日(金)

私が呼んだその日に、あなたは私に答え、私のたましいに力を与えて強くされたました。

詩篇138:3

 

心配なことは突然姿を現します。どんなに順調と喜んでいてもあざ笑うかのように不安が襲うのです。しかし、私たちは動揺しません。なぜなら、主はあらかじめ、そのようなことを知っています。そこで、私たちが信仰を働かせて主の名を呼ぶと、この聖句に書かれた通りに主が私たちを強くしてくださるのです。そのことがわかれば、人を恐れることはありません。人を恐れないとその人と良い関係が築けるようになります。敵であれば、逃げ去るでしょう。魂に力を与えられるので、女性でも強くなれます。だから、いつでもどこでも堂々と生きることができるのです。心配なことは避けるのでも逃げるのでもありません。立ち向かうのです。だから、心配は長続きしません。問題はすぐに解決し、楽になれます。主が強くしてくださるのでできるのです。(佐久間)

 

9月9日(土)

主が近くにいてくだされば、人々は生き続けます。わたしの霊も絶えず生かしてください。わたしを健やかにし、わたしを生かしてください。

イザヤ38:16

 

主が近くにいてくださるので人が生きるということは、驚くべきことです。それなのに弱い私たちは、すぐに主を見失ってしまうかもしれません。「心は燃えていても、肉体は弱い」(マタイ26:41)と主は弟子たちに言われましたが、その心さえ消えかかることがあるのです。それも簡単に。実は、私たちが生きている間という時間は限られているのです。その時間を恵みと考えて生かすことを考える必要があります。そうでなければ、信仰で救われた事実を無にしかねないからです。行いで救われたのなら、あんなに頑張ったからというような自負があるのですが、信仰のみで救われたとなると、自分では何もしていないということで救いの事実を感じられないからと主から遠ざかる危険があるのです。それで、「わたしの霊も絶えず生かしてください」という祈りは有効です。そうすれば、天から降ってこられた聖霊と生ける交わりが可能です。健康であることも重要です。そして神の子として生かしていただくことが正しい信仰の生き方です。

 

9月10日(月)

大水も愛を消すことはできない、洪水もそれを押し流すことができない。愛を支配しようと財宝などを差し出す人があれば、その人は必ずさげすまれる。

雅歌8:7

 

愛は凄まじい力があります。それだけに、愛を支配したいと人間は思うのですが、それは財宝を積んでも無理なことなのです。この世の何を持ってしても愛を得ることはできません。そして、私たちは愛を求めてさまよっているように見えます。それは無償の愛です。ところが、何を持ってしても買うことのできなかった愛が無償で与えられることを知ったのです。無償で愛してくだささるお方は、主イエス・キリストです。あなたにも主イエスは無条件に愛を与えてくださいます。何物にも勝る愛の力は、あなたの上にあります。愛されていることを知る人は、本当の自分の輝きを取り戻します。そして、愛の奇跡をまた自らも始めるのです。主に愛されているのがわかるから無償の愛を与えることができるようになるのです。ですから、主に愛されていることを信仰で確かめてください。そして、愛の奇跡を味わいましょう。(佐久間)

 

9月11日(火)

あなたの御計らいは、私にとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。数えようとしても、砂の粒より多く、その果てを極めたと思っても、わたしはなお、あなたの中にいる。

詩編139:17、18

 

私たちはただ生きているのではない。主に救われたと喜んだ日から、特別になったわけでもない。その前から主は特別に私たちのために計らってくださっていたのだ。日毎に、私たちはその主の計らいの中で成長し、変えられている。自分ではわからなくても、やがて全てがはっきりとするだろう。何が起こっても主は決して私たちを見捨てない。信仰が何を意味するかも、日々の生活の何気ないことの中で私たちは主を呼び、祈り、助けを求め、感謝を献げ、喜ぶのだ。主を讃美することは、私たちが何者なのかを明らかにするので、心が正される。主への畏敬の思いが、私たちの中にあるのだ。それなので、主の私たちのための計らいは数えきれるものではない。人生の全てが主の御手の中にある。それは最良のことなのだ。(サクマ)

 

9月12日(水)

あなたを知る人の上に、慈しみが常にありますように。心のまっすぐな人の上に、恵みの御業が常にありますように。

詩編36:11

 

昨日、お葬式をしてきました。クリスチャンはようやくこの世の重荷を取り去られ、後は天国に行くことを待つのみだから、おめでたいのだと言った人がいました。そのような積極的な考えもあるでしょうが、私は一人の人がどうやって生きてきたのか、その人が結婚していたらその配偶者との関係、また子供が生まれたのならその子どもとの関係、これらは、興味が尽きないのです。なぜなら、良いことをした人が天国に行くというような単純なことではないからです。その証拠に、イエス様が受肉して十字架にお架かりになられました。神様がこれほどの犠牲を払うほどの人間の価値の問題です。決して神様のおような完璧な人などいません。それでは、どこが天国と地獄を分けるのでしょう。それは、今日の聖句がよく表していると思います。神様を知り、心のまっすぐな人、この人を神様は見分けているのです。それが恵みの御業となるのは、最後に救われることからわかります。(さくま)

 

9月13日(水)

イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所へ退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。

マタイ14:13、14

 

バプテスマのヨハネ殺される!というショッキングなニュースが飛び込んできました。それを聞いて、イエス様は人里離れた場所へと舟で退いたのです。さて、注目すべきは群衆です。彼らは、イエス様の後を追います。歩いて。イエス様を探し求めて方々の町からも人が追いかけて来ました。とうとう、イエス様は舟から上がり、そこに大勢の群衆が集まってくるのを見たのです。その時、イエス様は彼らを深く憐れまれたとあります。今日だって、イエス様がおられるとなれば、大群衆がその後を追いかけたことでしょう。イエス様はヨハネが首をはねられて死んだことで、一人になられたかったはずです。しかし、救いを求めている人や病気の人、イエス様の憐れみにすがりたいと願う人たちは大勢いたのです。その人たちの必死な姿にイエス様は心を動かされ、病人を癒し始めるのです。今日だって、同じです。イエス様が必要なのです。どんなに遠くにだって、イエス様を追っかけて行きたいのです。イエス様はお優しいので、私たちの憐れな様子に同情してくださいます。舟は教会を象徴することがありますが、イエス様は舟を出て、まさに教会の外に主に助けを求める人たちを見出すのです。そして、彼らを癒すのです。ですから私たちもそのことを心に留めています。イエス様のお働きになる場所に一緒にいたいからです。(さくま)

 

9月14日(木)

わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

ヨハネ14:6

 

これは有名な聖句です。イエス・キリストを説明するにはここは外せません。東洋的な言い方ですが、「道」といういう言葉を使ってイエスを言い表しています。もちろん、父なる神への道です。また、日本人的には何かを極めていく方法で使うことがあります。柔道や剣道、あるいは花道とか茶道のように身近な使い方ですから、馴染みがあり何となく納得できます。クリスチャンにとっては、救いを極めるとか、天国へ至る人生の生き方とか、何かそのような説明をしたくなります。でも、ちょっと抽象的過ぎますね。そもそものアダム(人間)の堕罪物語を見ると、神様と自由に会うことができていたアダムが罪を犯して、楽園を追放されて、それ以来神様への道が失われたということができます。それが、キリストは神様への道は私を通ることなのだと説明されたのです。人間が罪に墜ちて楽園を追放されて以来、本来いるべき場所を失ったのです。それで、荒れてしまい、罪に苦しむことを余儀無くされ続けて、悲惨で残酷な世界が続いてきました。戻りたくても戻れなくなった楽園へ、もう一度戻ることこそが本当の救いなのです。その唯一の方法がイエス・キリストによるということだったのです。そのことを知ったクリスチャンは、この世の道ではなく、悪魔の道でもなく、イエス・キリストという道を選んで歩むことができるのです。悪魔の誘惑や妨害にひるまずに、キリストに近づきましょう。イエス様を信じましょう。(さくま)

 

9月15日(金)

わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くためです。

テトス1:1

 

新約聖書の手紙の大部分は使徒パウロの書いたものです。そのパウロが使徒とされた理由がここに書かれています。ですから、パウロの手紙は、信徒にとって重要なのです。洗礼を受ける前に求道者は一体どれぐらい聖書から真理を学んだと言えるのでしょうか。自分のことを振り返ってみても、ほとんど知らなかったと思います。それで、教会の礼拝説教から聖書を学んだのです。それだけでは、十分とは言えません。そのために、聖書を読み、キリスト教の本を読み、聖書研究会に出席し、祈祷会にも出て、それでもどれほど理解したのかわかりません。しかし、牧師になってみて、このパウロの言葉が理解できるようになりました。一人一人のクリスチャンは確かに神に選ばれた人たちです。彼らは信仰だけで救われたのです。それだけに、信仰を助ける必要があるのです。その信仰がどれほど大切かを理解させることのために手伝う必要があるのです。そうでないと福音からそれることがあるからです。そのような信仰の助けを受けないならば、果たして信仰者はどのような道を辿ることになるか定かではないでしょう。聖霊の助けがありますように。(佐久間)

 

9月17日(日)

むなしいものを慕ってそれて行ってはならない。それはむなしいのだから何の力もなく、救う力もない。

サムエル上12:21

 

救う力のある方に従う、それは簡単なことのはずですが、人間は理屈では説明できないようなおかしなことをすることがあるので聖書時代から失敗しています。問題の根にあるのは、私の思い通りにしたいという強い欲求です。欲がなければいいのですが、何かしらの欲があるために誘惑にはめっぽう弱いのです。イスラエルの人たちは、どんな失敗をしたかといえば、神様ではなく人間の王様が欲しいと言い出したのです。例えば、ミサイルをどんどん撃ってくる隣国の暴挙に、やめさせることができる強い頼りになる王様が欲しいと思うような事です。ところで、神様と人間で一番強くて優秀な王様では、どちらが頼りになるでしょう。こうして比べて見ると、神様に決まっていると思えるのですが、イスラエルの民のように、目に見える王様に頼ることがあるのです。それは究極の不信仰ですよね。では、私たちは大丈夫でしょうか。心をむなしいものに向けると、神様がどうでもよくなり始めるのです。それが恐ろしいことであることも理解できなくなります。神様が私たちの王様であることを理解できるといいのですが、信仰が試されますね。(さくま)

 

9月18日(月)

いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。

Ⅰコリント5:7

 

クリスチャンになった素晴らしさは、キリストが私たちの中からパン種である罪を取り去ってくださったことです。しかし、油断していると、高慢や貪欲が生まれて古いパン種が混じるのです。人間関係でストレスがあまりにもかかってくると悪意や邪悪のパン種を用いることになりかねません。そこで、クリスチャンにされた意味を思い出すことです。それは、キリストがあなたの罪の犠牲となって血を流されたことです。その血によらなければ罪を清めることができなかったからです。そして、あなたはイエス・キリストを信じて、全ての罪をキリストの血で清めていただいたのです。それこそが古いパン種を取り除くことだったのです。ですから、わずかのパン種も入れてはいけません。清めを受けたのですから、あなたはいつも新しい練り粉のままでいるのです。パン種の入っていないパンは神の義を表しています。それこそがあなたの食物となるのです。(佐久間)

 

9月19日(火)

御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。

申命記30:14

 

聖書を読むことは誰にでもできることでしょうが、今日の聖句はちょっと気になりますね。これは、イエス様が「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と語られた意味での御言葉です。それが、どうゆうわけかあなたのごく近くにある、というのです。その意味は「あなたの口と心にあるのだから」とあります。これを読んで、あなたはどう思うでしょう。本棚にあるのではありませんし、聖書の本の中にあるのでもないのです。あなたが聖書を読んで考えて、祈って、そして分かったと思った御言葉のことです。その言葉を考えて、繰り返し心に思い、口に出して言ってみる。そうやって、真理の御霊が教えてくださる経験は、自分の考え方や生き方まで変えることができるのです。分かったことだけしか人間は行えないのです。そのようにして、クリスチャンは成長して行くのです。これはとても素晴らしいことです。(さくま)

 

9月20日(水)

モーセは彼らに言った。「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。主が命じられたことは次のことである。『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。』」 イスラエルの人々はその通りにした。ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。しかし、オメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めたものも足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた。

出エジプト16:15~18

 

神様の与えられる食物があります。それは、不思議な食物です。毎朝、自分で集めなければなりません。大勢で実際に集めてみると、少なく集める者や多く集めるものが出てきます。しかし、量ってみればそれぞれが必要な分を集めたことになりました。これが霊の糧の意味です。例えば、皆さんは毎朝ディボーションを読んで、霊の朝食をいただいているかもしれません。これでは足りないと聖書も通読しているかもしれません。逆に、朝は忙しいので、ついつい忘れてしまい、霊的断食を続けているかもしれません。何もしなければ、霊的にやせ細って行くでしょう。しかし、何かしら神様を覚えて少しでもみ言葉を求めるなら、その日に必要な糧をちょうどよく主は与えることができます。欲張って、いっぺんに聖書をたくさん読もうとしても、心に残るのはそれほど多くはないでしょう。主に日毎の霊の糧もいただけるように祈りましょう。きっと、ちょうどよく与えられます。(さくま)

 

9月21日(木)

そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」

ルカ4:6~8

 

これはイエスが荒野で悪魔から誘惑を受けた場面です。ここで、悪魔の言っていることに注目すると、「一切の権力と繁栄」を自分の自由にできると悪魔は主張し、実際に彼の思い通りにこれと思う人に与えることができることがわかります。そこで、権力と繁栄を求める人たちには悪魔との関わりが懸念されることになります。ですから、権力と繁栄は悪魔との関わりで要注意なのです。ある人たちにとっては、これらが最大の誘惑になります。対照的にクリスチャンの場合は、イエス・キリストに救われて主を拝むようになると、主に仕えるために生きるようになります。それがどれほど祝福と恵みに富んだものか目が開かれた者にはわかります。さて、悪魔をうっかり拝むようになれば、後が恐ろしいことになります。その上、死んでも地獄が待っていることになるのですから最悪です。人間の無知につけ込む悪魔は、まんまと権力と繁栄を餌に誘惑を続けていることを覚えておきましょう。いつ、自分の前にこの誘惑がやってくるかわからないのですから。(佐久間)

 

9月22日(金)

あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。

申命記8:5

 

クリスチャンが経験することは良いことが圧倒的に多いものです。世の仕組みが聖書の理解と聖霊の助けによって、はじめて見えてくるからです。そのために、何が正しいことか理解しやすくなります。そして、主は愛する者を訓練されます。もちろん、当座は喜ばしいこととは思えずに苦しむこともあるかもしれませんが、後に意味がわかります。それは、成長したということを意味しています。狭い社会で生きていると見方が小さくなりがちで、判断も誤りやすくなります。自分が決めたルールで物事を判断しようとするので、無理が生じます。だから、人の意見を聞くことはいつでも大切ですが、主の訓練を受けた人は見えなかったものが見えるようになるので、判断が間違わなくてすみます。しかし、生まれたままの人たちは、成長のための訓練を受けていないために失敗することがあるのです。これは人間の優劣の問題ではありません。人間が一番生き生きしているのは愛されている時です。主の訓練もまた愛されている証拠なのです。それでも、正しい判断がわからない時には、祈って聖書をあちらこちらと読んでみると答えを見つけることができるでしょう。(佐久間)

 

9月23日(土)

主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。

Ⅱペトロ1:3

 

クリスチャンはとても恵まれているのです。それは、最も必要とするものをいただいているからです。それは、命と信心とにかかわるすべてのものです。ですから、なんとか獲得しようと頑張る必要がありません。自分にはまだまだ足りないものがあると言う必要はありません。つまり、信仰生活を送る時に自分で何かを獲得する必要がないという事です。そうであれば、誰でも天国に行けるはずです。それが失敗するとしたらおかしな事です。問題があるとすれば、この恵みを信じないという事でしょう。それが起こるのは、肉なる人がまだ生きているからです。肉を死なすことは、キリストにあって生きることですから、主に栄光を帰す事ができるのです。(佐久間)

 

9月25日(月)

そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたとみなしています。キリストを得、キリストのうちにいる者と認められるためです。

フィリピ3:8-9

 

クリスチャンほど面白い人たちはいません。この世のどんな誇りたくなるようなことでも、捨て去るからです。そこにあったはずの価値がなくなってしまうのです。一体、何が起こっているのでしょう。パウロは、「主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに」それまで大切にしていたものがどうでもよくなり、あんなにこだわっていた価値が全くなくなり塵あくたとみなしている、と言うのです。これほどまで、人を変えてしまうイエス・キリストをあなたはどこまで知ったでしょうか。この世のことでつまらない思い煩いをしているのなら、バカバカしいのですぐにやめて、主イエスを知ることに心を向けましょう。そのような人になれば、人生は随分変わってくるはずです。もはやこの世に脅かされることはなくなるでしょう。神に愛されている者として生きて行きましょう。(佐久間)

 

9月26日(火)

突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

使徒言行録9:3~5

 

今日の箇所は、サウロの回心の話からです。1節には、「サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、・・・」とありますから、イエス様のお言葉は驚きます。「なぜ、わたしを迫害するのか」と語っているからです。ここは、「なぜ、わたしの弟子たちを迫害するのか」と言うのならわかります。しかし、弟子たちを迫害するということは、イエス様ご自身を迫害していることになるわけです。ですから、イエス様がいつでもクリスチャンと共にいてくださることは真実だとわかります。そして、あなたが感じようが感じまいが、主はあなたのために良い働きをされるのです。あなたはイエス様と繋がっています。それで、もし、あなたが不当に誰かにひどい目に遭えば、それはイエス様に対することにもなるので、相手を恨んだり憎んだりしないで、どうするかイエス様にお任せすることです。そこで祈るなら、執り成して祈るといいでしょう。(さくま)

 

9月27日(水)

それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。

ヘブライ2:17、18

 

私たちが救われるために、イエスは苦しまれた。それなのに、私たちは主の苦しみを知らなかった。それだけではなく、主は私たちのために試練に遭われた。それで、人間の弱さを知り、試練を受ける人たちのことを理解し、助けることができるのだ。それで、私たちは試練をも恐れることはない。イエスは、私たちの大祭司だ。罪のないイエスが私たちの罪の償いとなって裁かれた。そればかりか、天で今も大祭司として私たちを執り成していてくださる。だから、私たちにはいつでも希望があり、失望する必要がない。主を信じよう。イエスを信頼して感謝していよう。(サクマ)

 

9月28日(木)

あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守り、あふれるばかりに感謝しなさい。

コロサイ2:6、7

 

「キリストに結ばれて歩み」とはどうゆうことでしょう。すぐに答えられないのなら、祈ってから考えるべきです。なぜなら、わかっていないならこのみ言葉通りにしていないということになるからです。ヒントは、その次の句にありますが、これも「キリストに根を下ろして造り上げられ」という言い方ですから、わかるようでわからないと言う人はいても不思議ではありません。ここにはキリスト者の生活の秘訣が書いてあるのです。それは、いつでもキリストが一緒にいらっしゃると信じて生きることです。キリストが一緒にいては都合が悪いと思うような生き方をしないと言えば分かりやすいでしょうか。キリストと結ばれていれば、キリスト抜きに生きることなどできません。それでも、キリストを忘れるとか、キリストを心の中から締め出すようなことが起こる場合もあるのです。それで、それを防ぐために教えられたとおりの信仰をしっかり守ることが重要になります。それすらも、感情に負けてできないことが起こり得るのです。そこで、「あふれるばかりに感謝」する習慣をつけるのです。いつも感謝するようになると、人生は楽しくなりますよ。まずは、笑って主に感謝してみましょう。(佐久間)

 

9月29日(金)

だからあすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

マタイ6:34

 

聖書に「あすのための心配は無用ですとあることに驚きます。そして、励まされます。どのような境遇の人でも、将来の心配を感じることはあるからです。明日になれば、そこには何かしらの心配事はあるでしょう。しかし、まだ始まっていない明日の心配をすることはないと言うのです。明日になれば明日を一生懸命に生きればいいだけで、今日そのことを心配しても意味がないのです。人生は1日1日なのです。その1日を神様がどのようにあなたを支え、恵みを与えてくださるのか味わって生きればいいのです。きっと喜び多い人生になります。(さくま)

 

9月30日(土)

主はお前の罪をことごとく赦し、病を全て癒し、命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにしてくださる。

103:3~5

 

私の魂よ、主をたたえよ。主がどれほどよくしてくださったか決して忘れてはいけない。イエス・キリストを信じて救われ、それからの人生は主の恵みに満ちていた。試練や病気が無かったとは言えないが、救いと癒しがいつでもあった。だから、クリスチャンは主を信頼していることを求められている。決して主を疑ってはいけない。主がどんな時でも良くしてくださることを味わい知ることができる。この世に心を奪われてはいけないから、主は私たちの信仰の道をちょうどよく造られる。それでも、主は素晴らしい約束を惜しまない。そして、信じる者に御言葉の通りに約束を実現してくださるのだ。だから、主を讃美せずにはいられない。私たちの深い所から、魂から主をほめたたえよう。(サクマ)