2018年11月ディボーション

11月1日(木)

あなたたちの神、主はあなたたちを試し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたたちの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである。

申命記13:4

 

日本にも宗教がたくさん存在します。その数は誰も正確には分からないほど多いのです。監督官庁に正式に届け出ている宗教団体だけでも2億を超えます。日本の人口より多いのです。そこで、なぜ、聖書の中で「他の神々に従い、仕える」ことへの警告がこれほど厳しく繰り返されるか理解できるのではないでしょうか。日本人の多くが無神論だと言ってはばからないかもしれませんが、それは、まだ誘惑にあっていないということです。何も実態のないものを迷信のように信じる人はいるかもしれませんが、奇跡を行う者、霊媒師、口寄せ、夢占い、予言者、易者、手相見、などが誘惑すると多くの人が信じてしまうのです。そもそも、人間には信仰心があるのですから、悪魔はそこを狙って自分を神として拝ませようとするのです。これらの強力な誘惑に打ち勝つ方法は、今日の御言葉の通りに心を尽くし、魂を尽くして、私たちの神、主を愛することなのです。そのために、主を求めて、主を知ることが大切になります。あなたの神は熱情の神ですから、あなたの愛が求められます。あなたの人生は愛の人生なのです。だから、消極的になってはいけません。積極的に生き生きと生きて行くのです。愛は恐れないから、愛に生きると自分に言い聞かせて、勇気を出してください。主は、あなたを応援し、あなたを自由にしてくださっています。良い人生をあなたは送ることになっているのですから、喜んで生きてください。(佐久間)

 

11月2日(金)

あなたの町の中に住むレビ人を見捨ててはならない。レビ人にはあなたのうちに嗣業の割り当てがないからである。三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に取り分け、町の中に蓄えておき、あなたの内に嗣業の割り当てのないレビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、寡婦がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。そすれば、あなたの行うすべての手の業について、あなたの神、主はあなたを祝福するであろう。

申命記14:27~29

 

十四章には、収穫の十分の一に関する規定があります。現代でも十分の一献金は続いていて、それがかなり古い時代に始まっていることを知ることができます。もちろん、私たちの収入は神様からいただいているものです。それを誤解して、自分が稼いだものだから神様とは関係ないと考えてしまう人もいるのですが、残念なことです。世界中で驚くほどの人が忠実に十分の一献金をしています。それが、祝福されないことなら、とうに廃れてしまい、誰も十分の一献金はしないでしょう。しかし、十分の一献金の秘密を知っている人たちは、驚くべき証をしているのです。もちろん、義務でするものではありません。お金を惜しみながらするならやめた方がいいです。お金が十分の一減るだけではなく、経済的に苦しいと感じるようになるでしょう。そもそも、イスラエルの部族の中で、カナンに定住するときに土地を分けてもらえなかった部族が一つだけあって、それがレビ族でした。住む所はありましたが、生産性のある農地はもらえなかったのです。神様は、レビ族を世俗の仕事ではなく、神様の仕事を任せようと聖別したのです。そのレビ族が生きて行くために、「イスラエルで献げられるすべての十分の一をレビの子らの嗣業として与える。」(民数記18:21)と神様が定めました。ただ、イスラエルの中にも貧しい人たちがいました。本来はその中に出てくるはずのないレビ人が今日の聖書箇所に出てくるのです。さらに、「レビ人のみが臨在の幕屋の作業をし、その罪責を負わねばならない」(民数記18:23)と書いてあるのですから、他の人たち全員の罪と救いに関わる重要な働きと責任を負っていたのです。それでも、貧しい人たちの中にレビ人はいました。だから、彼らのためにさらに三年目ごと収穫物の十分の一を分け与えるように定めたのです。これも愛(アガペー)ですね。神様はこのようなことをよく見ておられるので、その人の行う仕事でも事業でもすべて神様が祝福されるのです。クリスチャンはこの不思議を知っているのです。(さくま)

 

11月3日(土)

あなたの神、主は、あなたに嗣業として与える土地において、必ずあなたを祝福されるから、貧しい者はいなくなるが、そのために、あなたはあなたの神、主の御声に必ず聞き従い、今日あなたに命じるこの戒めをすべて忠実に守りなさい。

申命記15:4、5

 

神様を信じると祝福されます。そして、聖書では主に従順であること、それは主の御声に聞き従うことであり、主は愛の原則を示しているので愛の実行者になることにより、祝福されることになっています。この仕組みでは、七年目に負債免除が定められています。貧しい者は、このことにより貧困から脱出できるのです。その上、祝福の約束がありますから、主に忠実であれば、貧しい人はいなくなるのです。そうすると、主の戒めをすべて忠実に守るということは、貧しい人がいなくなる方法であることになります。貧しい人を助けるなら、主が祝福してくださるのです。この原則は、経済の教科書には出てきませんが、唯一人間愛にあふれたものなのです。現代は、貧富の差が激しくなってきたと言われていますが、七年目の負債免除など無いのですから、当然の成り行きなのでしょう。クリスチャンは、そのような世界で、主イエス・キリストを信じているのですから、神様を愛し、隣人を自分のように愛して生きて行くのです。そのような人が大いに祝福されて、神様の栄光を現すことができますように。(さくま)

 

11月4日(日)

男子はすべて、年に三度、すなわち徐酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない。ただし、何も持たずに主の御前に出てはならない。あなたの神、主より受けた祝福に応じて、それぞれ、献げ物を携えなさい。

申命記16:16、17

 

イスラエルの三大祭についての規定が書かれている。第一の祭である、春の過越とこれに結びついている徐酵祭(種入れぬパンの祭)は、エジプトの奴隷であったことからの解放を記念しての祭りある。第二の祭は、過越の祭から五十日後の収穫の祭である。それは、七週の祭と呼ばれます。刈り入れの祭(出23:16)、初穂の祭(民28:26)とも言われ、刈り入れのはじめの日から五十日目に祝われた。第三の祭は、秋の収穫祭である仮庵祭は出エジプトの後の荒野での仮住まいを記念している。キリスト教では、過越の祭は、死からの解放を記念する復活祭に変わった。七週祭は後にペンテコステというギリシャ語名が与えられた。仮庵祭は、農業暦での秋のことで、明らかに元は農業祭だった。ぶどうやその他の果実の取り入れを祝ったものだった。その喜びの動機が神の恵みに変わっている。この三大祭は、イスラエルの民を奴隷から救い出し、約束の土地で生きることができるようにし、その土地からの農産物を得ることができるようにされた、神の恵みの御業を記念する祭であった。この三大祭にイスラエルの男子は中央聖所に巡礼しなければならなかった。そして、主からの祝福に応じて献げ物をしなければならなかった。(サクマ)

 

11月5日(月)

王は大勢の妻をめとって、心を迷わしてはならない。銀や金を大量に蓄えてはならない。

申命記17:17

 

有名なソロモン王は、「七百人の王妃と三百人の側室がいた。この妻たちが彼の心を迷わせた」(列王上11:3)。人類の中で最も知恵のある王と言われたソロモンでさえ失敗した。そもそも、小国のイスラエルが平和に繁栄するには、近隣諸国との良好な関係を築く必要があったが、ソロモンは知恵によってうまくやったのだ。ただ、それは当時の文化では政略結婚が最も確実な方法であったようだ。そのため、ソロモンは千人の妻を持つに至った。若い時はそれでもやっていけたのだろうが、問題が起こったのは、「ソロモンが老境に入ったとき、彼女たちは王の心を迷わせ、他の神々に向かわせた」(同11:4)。歳をとれば人間誰しも衰えてくるのだから、ソロモンでさえ大勢の妻によって罪に陥ったのだ。もしソロモンが、律法に忠実であったなら、と思うがそうはいかなかった。ソロモン「の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主と一つではなかった」(同11:4)。やはり、人間を分けるのは、自分の神と一つであるという心を持っているかどうかなのだ。聖霊を人のうちに住まわせるために天から遣わしたことも、クリスチャンが自分の主と一つであり続けさせるためだったと理解できる。ただ、それでも、主への絶対的な忠誠心が最後には人を分けることになる。(サクマ)

 

11月6日(火)

あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒師、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。

申命記18:10

 

さて、あなたはこれらの者に関わったことがあるだろうか。これらのリストを見ると古代からすでにあったことに驚くし、神がいとわれる、とはっきり書いてあることが恐ろしい。少なくとも日本の文化の中でこうしたいわゆる霊能者は身近にいるからである。毎朝のテレビショーで占いが欠かさず出てくる。これを止めるようにテレビ局に文句を言う人がいないのか、どの局も平気で流し続けている。このテレビに出てくる人たちが神様など信じないと言うととてもおかしくなる。そして、政治家も経済界の地位ある人たちも、重責に押されるように、こうした霊能者の元に通うことが珍しくない。有名な霊能者の家の前には黒塗りの公用車が並んでいる。では、なぜ神様はこうした霊能者をいとい、関わる者を追い出そうとしたのだろう。それは、神様ではないものに伺いを立てるからである。そして、彼らの背後にサタンがいるなら、最悪なことになってしまう。私たちは、どうしたら良いか迷う時、簡単に答えを教えてくれる霊的な存在に頼りたいと思うのだ。そんなことはないと言う人は、まだ重大な問題で追い詰められ悩んだことがないのだろう。普段無神論だとうそぶく人でも、神様、と助けを求めることがある。ましてや、超能力で霊界から答えを引き出せるという人にはめっぽう弱いものだ。だから、クリスチャンでも個人的なことを神様に聞いて答えをいただきたい人は多い。それで、聖書を読めば、主は預言者を与えてくださることがわかる。神様のメッセンジャーがいるわけだ。また、霊の賜物の中に預言の賜物もあるから、今日もそのような働きが教会にあることになっているのだが、世俗化が教会にも押し寄せているのであまり預言を聞くことも無くなっているのが現実だ。それでも、預言が残っている教会もある。私たちが気をつけることは、聖句に出てくるような霊能者に伺いを立てたり、関わったりしないことだ。占いもおみくじも気楽に考えてはいけない。どこに危険が罠となって潜んでいるかわからないからである。こうしたことは、いい加減に考えずに厳格に守るべき戒めと心得るべきなのだ。(サクマ))

 

11月7日(水)

あなたの神、主があなたに与えて得させられる土地のうちに三つの町を選び分けなさい。そして道のりを測り、あなたの神、主があなたに受け継がせられる領土を三つに分け、人を殺した者がだれでもそこに逃げられるようにしなさい。

申命記19:2、3

 

さて、人生にはあってはならない思いがけないことが起こることがあります。それが人の命を結果的に殺めてしまう場合であったら、一体どうしたら良いのでしょう。主は明確にそのことを想定して対処法を示しているのが今日の聖句です。それは、明らかに故意ではなく、過失致死のような場合のことです。建設工事現場などでクレーンが突然倒れてしまい、その下敷きになった作業員が死亡した場合、誰が責任を取らなければいけないのでしょう。まず、そのクレーンを運転していた人、現場監督、その工事を請け負っていた会社など、いろいろな人が死亡した人の命の責任を問われることになります。これが古代であれば、死亡した人の家族が復讐に立ち上がるでしょう。一族郎党に友人や同じ町の人たちも加わって、犯人を捕まえ、リンチにして殺してしまうでしょう。それは罪になってしまいます。ですから、神様はそうさせないために、三つの町を特別の町にして、イスラエルのどの部族のどんな所からでもその町へ逃げ込めるように、等距離に逃れの町を設けさせたのです。このように、人間の感情は激昂すると「目に目、歯に歯」以上に怒りをぶつけてしまうので、その人が殺人者になってしまいかねないのです。そのことも防ぐことができる方法が逃れの町なのです。このような特別の町があると、故意に殺人を犯した罪人も逃れてこの町に入ってくることがあり得ますが、その場合は、保護しないで、犯人を出した町の長老が指示して犯人を捕らえさせ、復讐する者の手に渡したのです。今日ならば、警察が逮捕するということでしょうが、いずれにしても正義を実現することが目的でした。(さくま)

 

11月8日(木)

あなたが敵に向かって出陣するとき、馬と戦車、また味方より多数の軍勢を見ても恐れてはならない。あなたをエジプトの国から導き上られたあなたの神、主が共におられるからである。

申命記20:1

 

あなたも社会に出て行けば、そこに戦場があるのです。いろいろな人間に出会って、自分の理解を超えるような人にも会うでしょうし、明らかにあなたを敵として攻撃してくる人だっているでしょう。なぜ、悪意を向けられるかわからないこともあるでしょう。とにかく、この世ではまるで戦争に巻き込まれて、敵が大勢の軍勢を従えて今にも攻撃を仕掛けてきそうな状況に追い込まれることがあるのです。自分があまりにも不利でかわいそうに感じるかもしれません。しかし、主は恐れてはならない、と命じています。この世で罪と死と悪魔の奴隷であったあなたをイエス様が救ってくださったことを思い出してください。圧倒的な愛で十字架を耐え忍び、主はあなたを救ってくださったのです。その主が、あなたと共におられるのです。誰も主に打ち勝つことのできる者はいません。つまり、あなたはどんなに不利な状況に追い込まれても、負けることは決してないのです。まるで馬や戦車のように、強力にあなたの戦意をくじくようなものが見えていても、心配しないでください。あなたの主にとってはそれらは全く無力で、問題にもなりません。主は、あなたを救い出すだけではなく、あなたに勝利をおさめさせてくださいます。だから、あなたがこの世を恐れるのではありません。あなたは勝利するために敵に向かって出陣するのです。どんな困難もあなたは乗り越えることができます。なぜなら、主があなたと共におられるからです。勝利はあなたのものです。勇気が出てきますね。(さくま)

 

11月9日(金)

ある人にわがままで、反抗する息子があり、父の言うことも母の言うことも聞かず、戒めても聞き従わないならば、・・・町の住民は皆で石を投げつけて彼を殺す。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。

申命記21:18、21

 

人間の中にどうして悪があるのか、悪について考えることがあるだろう。全ての人は罪人だから、と言うのでは答えにならない。現にこの世界には良い人も悪い人も存在している。法律に照らして明らかに犯罪者もいるが、多くの人は刑務所に入るような悪いことは行わない。また、生まれた環境が悪く、悪の道へ入るのは仕方がないという人もいるだろう。しかし、今日の聖句はどうだろう。普通の家の家族の問題だ。私も牧師をしていて、同じ問題で相談を受けたことがあった。相手は、信者さんの未信者の姉でシングルマザーだった。彼女の息子の悩み相談だ。もし、旧約聖書の時代なら、彼は石打の刑で殺されていたかもしれない。現代では勿論、そのようなことはできない。刑法犯罪でも起こさない限り、警察も何もしてくれない。だけれども、息子は働かずに母から金を無心し、好き放題を繰り返す。困り果てて牧師にまで相談したわけだ。「わたしたちのこの息子はわがままで、反抗し、わたしたちの言うことを聞きません。放蕩にふけり、大酒飲みです」(20節)。聖書では、この訴えで、裁判をして死刑となるわけだ。このぐらいは問題だがしかたない、と現代では言われるだろう。しかし、聖書に出てくるのだから深刻な問題に違いない。このようなことを悪と断じているのが恐ろしい。なぜなら、「あなたの中から悪を取り除かねばならない」と書いてあるからだ。このぐらいはしょうがないと言えるようなことと、反対に危険とか神様の怒りを買うような悪もあると言うことだ。そして、悪に対して聖書に書かれた基準とはだいぶずれてしまったのが現代人の特徴なのだ。そのため、聖書から悪について学ぶことが重要となる。(サクマ)

 

11月10日(土)

女は男の着物を身に着けてはならない。男は女の着物を着てはならない。このようなことをする者をすべて、あなたの神、主はいとわれる。

申命記22:5

 

聖書の中に律法として着物のことが書かれています。最近では、ユニセックスというジャンルもあるので、男女兼用で着られるものが普通に売っています。問題があるとすれば、女装とか男装が問題になるのかもしれません。しかし、ここに出て来ている規定は、イスラエルが聖なる民であることを神が求めていることに由来しています。それは、同じ章に出てくる他の規定とも共通するものです。異なる種を混ぜて蒔いてはいけない、異なる種類の糸を混ぜて織ってはいけない、このような規定と関係あるということです。聖所で献げ物をするときにも、混ぜ物のない純粋なものが求められていました。それは、清さのことなのです。イスラエルが聖であるから清さが求められ、その清さが圧倒的に他の民族と分けていたライフスタイルなのです。素朴に、純粋であること、食べ物一つでも清いものと汚れたものを分けるのです。他の民族なら食べるものを決して食べない生き方、主の定めに従い、決して妥協しない素朴で純粋な生き方、それが清い民を形成するようになるのです。どうしてそこまでするのかと言えば、この神は聖所だけではなく生活の至る所に共におられるお方だからです。それで、民が清くなければならないし、生活のどの場面でも清くある必要があったのです。その生活そのものが、主が共におられることを表していたのです。そこで、主がいとわれると言われることは決してしない、悪はあってはならないから、悪を取り除く。これらは、十戒から派生している規定なのです。人は何というかわかりませんが、主が共におられると信じる人には、清い生活を実現しようとする意義があるのです。(佐久間)

 

11月11日(日)

あなたの神、主はバラムに耳を傾けず、あなたの神、主はあなたのために呪いを祝福に代えられた。あなたの神、主があなたを愛されたからにほかならない。

申命記23:6

 

あなたの人生は祝福に満ちています。あなたはどう感じているかはわかりませんが、あなたが知らないうちに、誰かに呪われたとしても、主はその呪いを祝福に代えるのです。その理由が、神様があなたを愛しているからだ、というのです。これだけ、言われていても、肝心のクリスチャンがそれをまるで軽視しているかのように見えることがあります。自分が神様に祝福されていることを認めないというのはおかしなことなのです。あなたが天国への旅路を歩んでいるクリスチャンであるのなら、それを妨げようとする敵、サタンが邪魔をします。それがあまりにも巧妙で、あなたが気がつかないうちに呪いがかけられるのです。しかし、あなたの神はそれを祝福に代えることができます。実際、あなたは神にえこひいきされているようです。それほど、神は本気であなたを愛しています。だから、あなたも真剣にそれを受け止める必要があります。そこで、毎日、あなたは私は主に愛されているので、大いに祝福されていると自分に言い聞かせる必要があります。あなたが誰かに呪われたのではないかと心配するのではなく、喜んで祝福を受け取れるように、信仰を働かせてください。その方が人生は楽しく、喜びに満ちたものとなるのです。実践してみて、本当に祝福されているとわかったら教えてください。(さくま)

 

11月12日(月)

賃金はその日のうちに、日没前に支払わねばならない。彼は貧しく、その賃金を当てにしているからである。彼があなたを主に訴えて、罪を負うことがないようにしなさい。

申命記24:15

 

どの国でも、未だ日雇い労働者は存在します。アメリカに住んでいた時に、ある町の街角に男の人たちが大勢集まっているのを見て、不思議に思いました。それらの男たちは日雇い労働者だったのです。東京でもそのような場所があります。そうした人たちは仕事にありつければ、簡易宿泊所に泊まるかもしれません。そして、一杯150円の発泡スチロールの丼に入った味噌汁を買えるのです。これが、家族がいるとなるともっと日当は意味が増します。それを支払わなければ、途端に家族にとって大変なことになるのです。給料を支払う側の人は、それがどれほど命に直結しているか考えなければなりません。自分の利益を追求するために労働者を雇っていると、平気で搾取できるでしょう。昔は、給料は現金を封筒に入れて渡していました。だから、働くことの意味が実感できましたし、主婦は主人が頑張って働いて、自分たちを支えてくれていることがわかったから感謝できました。中小企業では、社長や奥さん、時には家族も協力して、全社員の給料を間違いなく封筒に詰めていたのです。現代のように、自分の食べるものを自分で作ることをしなくなってからは、賃金の意味はよくわからなくなってきたかもしれません。多くの労働者は、どんなに頑張って働いても一ヶ月食べて行くだけの給料をもらっているのです。それは、日雇い労働者と変わらないのです。神様は見ておられます。そして、労働者の叫びを聞いているのです。日本では、農作物を作る農業従事者は270万人ぐらいだそうです。つまり、1億2000万人の食べる物を作っている人たちはたった270万人で、その人たちの多くが高齢者なのです。そして、後継者がいなくなってきました。それは、自分の食べる物を自分で作らずに、その代わりにお金を稼いで食べ物を買う生き方を選んでいるということです。聖書時代には、自分の耕作地を持っていない貧しい人が雇ってもらって、一日分の賃金をもらっていたのですが、現代は、多くのことが変わってしまい、複雑になってしまいました。それでも、神様は、私たちの財布の中身を心配し、ちゃんと食べているか気にかけてくださっているのです。そのために、賃金を搾取したり、日当をちゃんと支払わないような人は、神様によって罪に定められることを覚えなけれならないのです。(さくま)

 

11月13日(火)

兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ・・・。

申命記24:5、6

 

日本人にもわかる話しです。もっとも最近の若い人たちにとっては理解しにくい話しになっているでしょう。そもそも少子化と言われて久しいのです。ひとりっ子では成り立たないし、男性が一人しかいなければどうしようもない規定です。日本もついこの間まで皆んなが農業をしていました。そのような時代には十人兄弟など珍しくなかったのです。そして、戦争があって、終戦後に多くの戦死者が出たために、戦争未亡人が増えたのですが、家を守るために、それは先祖からの農地を守るためですが戦死者の妻と兄弟が結婚するということが普通に起こったのです。ですから、この律法を日本人も行なっていたことになります。ところが、産業革命以後、実に多くの人が農業をやめて町に出て工場労働者になったのです。そこで、継ぐべき農地が無くなったのです。子供の名前もキラキラネームのように、先祖とは何の関係もない名前をつけるようになりました。そもそも、農地は普通の土地とは全く違うものです。生きるための食べる物を産み出す土地です。手のかけ方がすごいのです。より良い土を作り、良い種を作り、知恵と労力を尽くすのです。子孫に残すには、これ以上の財産はありません。お金がいくらあっても最良の健康に良い食べ物は手に入らないからです。農家の人たちは昔の人たちがどれほど苦労して農地を守ってきたか知っているので、立派な先祖の名前をつけたりしました。そして、この規定の良いところは、女性が仕事を持って自立することができなかた時代に、生きていくのは結婚しか方法がなかったので、夫が農地を相続する子供を残さずに死んだ時の救済方法だったのです。そうでなければ、奴隷になるしか生きる道がなかったと思われます。そんなことになれば、死んだ夫の無念は計り知れません。律法は、どこまでも愛の戒めなのですね。(佐久間)

 

11月14日(水)

今日、あなたの神、主はあなたに、これらの掟と法を行うように命じられる。あなたは心を尽くし、魂を尽くして、それを忠実に守りなさい。

申命記26:16

 

この命令の結果は、はなはだ悪かった。しまいにはバビロン捕囚となって異国に連れ去られ、国は破れエルサレム神殿は破壊されてしまった。それは、彼らが誓約したのに守らなかったからだ。預言者が立てられ、何度も警告がなされたのにもかかわらず、彼らはこの約束を破り続けてしまった。あなたは、どう思うだろう、主との間で交わされた掟と法を行うように命じられたなら。多分、あなたは勢いよく「心を尽くし、魂を尽くして、それを忠実に守ります」と言わないだろうか。自分なら、主と約束したなら絶対に守り通すだろうと、思わないだろうか。ところがいとも簡単にこの約束を破ってしまうのが人間の悲しさだ。キリストはこの約束を、神を愛する事と自分を愛するように隣人を愛することだと教えているが、私たちは、この中でいつでも神でも隣人でもなく、自分を愛することだけになる時に、失敗している。なぜそうなるのか考えると、「心を尽くし、魂を尽くして」というところが抜けてしまうからではないか。キリストは、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10:38)と語られた。結局、わたしが中心になっているうちは、うまくいかないのだ。自分をいつでも十字架にかけ続けることがなければ、自分の心や魂から出てくる感情に振り回されて失敗するようになるのだ。そんな自分を放棄して十字架のキリストに差し出すことで、苦しみの源から解放されるようになる。そこからはじめて正常に始まる。難しいことをするのではなく、キリストを信じて御言葉の通りにすることから本当の救いを得ることが大切なのだ。(サクマ)

 

11月15日(木)

「隣人との地境を動かす者は呪われる。」民は皆、「アーメン」と言わねばならない。

申命記27:17

 

聖書の中に呪いが書いてあるので恐ろしいと思う人もいるでしょう。普通に正しいことをしてれば何ら問題がありませんから、いたずらに恐れることはありません。呪いがあるということは、反対に祝福もあるのですから、祝福された生き方ができるということです。さて、呪いの項目を読むと、ありえないようなことが書いてあります。その一つが今日の地境を動かすことです。昔、隣の人が深夜こっそりと地境の杭を掘り起こして自分の土地が広くなるように動かした人がいました。これは犯罪です。家を立てたり、塀を作ったりする時に、隣家の人に立ち会ってもらって、測量をすることはあります。また、地価の高い六本木でAさんの隣人から塀が地境の上ではなく、ずれているから塀を壊して作り直して欲しいと申し入れがありました。それは、細長い土地で、塀の始まりはあっていたのですが、終わりは数センチぐらいずれていたのです。それで、大掛かりな工事になりました。だいたいこのような地境の問題は、隣家とうまくいっていない時に起こります。わずかばりのことでと思いますが、地価が高い土地では許せないことだったのでしょう。たしかに自分の土地の地境を動かされたら困りますね。でも、動かした人は呪われることを覚えておきましょう。本当に神様がしてはいけないと定めたことは、破った時に呪われるということです。イスラエルの民は、これらのリスト一つ一つに同意の証拠として「アーメン」と唱えさせられました。私たちにとっても、呪いとなるような悪は決してしないように戒めておきましょう。(さくま)

 

11月16日(金)

あなたがたの神、主の御声に聞き従うならば、これらの祝福はすべてあなたに臨み、実現するであろう。

申命記28:2

 

28章を読む人は、神の祝福よりも神の呪いの方がはるかに多く書かれていることに気がつくはずです。ですから、決して呪われたくないですね。祝福はその人に関わる全てにおいて祝福されます。それは、神との関係を愛の関係にすることにより実現します。具体的には、神の御声に従うことと戒めを忠実に守ることによって祝福されると定めています。しかし、イスラエルの人たちは失敗して、まさに呪いを受ける方になってしまいました。神殿も祭司も預言者もいましたが、呪われる者になって行ったのです。私たちにもし、主イエス・キリストがおられなかったなら、呪いが残っていたことでしょう。主は十字架で私たちを救うために呪いとなってくださったのです。だから呪いから解放されているのですから、聖霊に満たされて、主を愛することに全力を注ぐのです。そして、祝福された者として生きるのです。何もかも祝福されていると信じて、主へ感謝することです。自分の中から自分は祝福されているという思いが自然と湧き出てくるまで、日々、主を愛し、主を賛美する生き方を実行しましょう。不安や恐れや悪感情が起こらなくなるまで、主を賛美しましょう。あなたは何をよってもうまく行きます。主への従順があなたの特徴となりますように。(佐久間)

 

11月17日(土)

今日、心変わりして、我々の神、主に背き、これらの国々の神々のもとに行って仕えるような男、女、家族、部族があなたたちの間にあってはならない、あなたたちの中に、毒草や苦よもぎを生ずる根があってはならない。

申命記29:17

 

神様はイスラエルの全ての人を集めて、偶像礼拝を禁じました。これは、イスラエルの民が定住する場所に、すでに多民族が偶像を拝んで住んでいたことが前提にあります。異文化に接する時に、反発するのか、それともすぐに受け入れるのか、ということを考えてみれば問題の本質がわかるかもしれません。日本は鎖国をしていたために単一の文化でいられたのですが、明治になって文明開化と共に、驚くほどの早さで西洋文化を吸収して行ったのです。太平洋戦争が終わってアメリカの進駐軍と共にキリスト教の宣教師がこぞって日本にやってきました。そして、今では考えられないような大伝道講演会を開き、大勢の日本人が集まりました。今まで、敵国と言っていた国の宗教をいともたやすく受け入れてしまったのです。そして、この時にクリスチャンになった人たちによって日本のキリスト教は発展してきたのです。その時にクリスチャンになった人たちが高齢になり亡くなってくると、一気に教勢が衰えてしまいました。神様は、人間のことをよくご存知でしたから、終戦後の日本のように、荒野をさまよったイスラエルの民が神様を主として神の民を形成してきたのに、これから定住する地で異文化と接する時に、彼らの中から異教の神々に憧れて拝む者が現れることを懸念されたのです。今日でもクリスチャンが背教することは稀にあります。それが、どんなに恐ろしいことであるかは、この申命記の記述の中にも示されています。それは、「呪いの伴う契約」という言葉に現れています。クリスチャンなら神様に救われた経験があります。そして、祈って助けられたことも多くあるはずです。信仰によって成長し、恵みを味わうことが許され、全ての面で祝福されているのです。それなのに、主を捨てて異教の偶像を慕うということはありえないことなのです。しかし、悪霊が働いていることもご存知でしょう。決して油断してはいけないのです。キリスト教を語るカルトさえあるのですから、聖書で見分けることができるようにしておきましょう。(さくま)

 

11月18日(日)

御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。

申命記30:14

 

律法という言葉を使うと急に厳しいイメージが出てきて、守るのが難しいことのように感じさせます。ですから申命記で律法を守り行うことが厳しく書かれていると聖書を閉じたくなるかもしれません。ところが、同じ章の6節に「あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたのかみ、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる」と、あります。明らかに石の板に刻まれ、厳しく戒めていた律法のイメージとは異なっています。神を愛することこそが律法の意味するところだと思えてきます。それだけではなく、後の子孫に、何か神の力でなくてはならない方法で、心の割礼が施されることが約束されています。それがあるので、全身全霊で神を愛せるようになることが書かれています。そうであれば、主の戒めは決して難しいはずがありません。それは、クリスチャンにとっては、十字架のキリストによって清められ、そして聖霊が注がれ、その人の内に内住することで心に大きな愛が注がれ、頑なな心が溶かされ、愛の業が出てくるように変えられたのです。それは、人に見られて立派だと褒められるような律法の行いではありません。自分の罪を悲しむ人がキリストの圧倒的な恵みと愛によって、義とされ、神の御前に連れて行かれ、立たせていただくようなことなのです。そこで、御言葉は、あなたの口と心にある、と言われるのです。(佐久間)

 

11月19日(月)

わたしには分かっている。わたしの死んだ後、あなたたちは必ず堕落して、わたしの命じた道からそれる。そして後の日に、災いがあなたたちにふりかかる。あなたたちが主が悪と見なされることを行い、その手の業によって主を怒らせるからである。

申命記31:29

 

一節なのにずいぶん長い。今、神はモーセを介してイスラエルの民と契約を結び、神の律法を民が守り行うことを誓わせたが、すでに約束の地カナンに彼らが入って定住すると堕落することがわかっていた。モーセは神から聞かされて、どんな気持ちになっただろう。モーセは、「分かっている」と言っている。自分が経験してきた彼らのかたくなで背く性質を思い出していたのだろう。これだけの奇跡的な方法で律法を授かったのに、彼らは神と契約を結んだのに、いとも簡単に破ることになる。さて、律法主義者が、なぜ愚かであるか、もうわかると思う。人間には罪があって、律法と相入れないのだ。感情では、律法は良いもので神との約束だから守ろうと思えるが、実際の生活場面では、どうなるかわからない。聖書を知っている人たちは、この話の通りにイスラエルの民が堕落して行くのを歯がゆく思うだろう。なぜ、ちゃんと律法をももらないのだろう。彼らは特別おかしい人たちなのだろうか、情けない人たちだ、と思うようになる。ところが、自分たちの番になると罪に悩まされることになる。真面目であればあるほど、自分の罪を嫌という程味わうことになる。このところをちゃんと通らないと、イエス・キリストの十字架の意味がちゃんと自分のものにならない。主がこの地上に降りて来て、あれだけのことをしなければ、誰一人救われかなったのだ。ありがたくて涙が出てくる。少しは自分もいい線いっているのではないか、と思い上がっていたことが恥ずかしくなるような経験をしていれば、なんとかなるだろう。人間の高慢さは呆れ返るほどなのだ。だから、ここまで大掛かりなことをして人間にわからせなければ、とうていイエス・キリストの救いにあずかることはできなかったのだ。今日も、主の恵みによって、「ありがたい、ありがたい」と言って過ごしたいものだ。(サクマ)

 

11月20日(火)

さあ、その神々に助けてもらえ、お前たちの避け所となってもらえ。しかし見よ、わたしこそ、わたしこそそれである。わたしのほかに神はいない。

申命記32:38、39

 

なぜ、イスラエルの民は神を裏切ることばかりしたのだろう。律法を与えられた時も守り行うと約束したはずなのに、他の神々がどんなに虚しく危険であるか、そして、神の御言葉の通りに生きることが祝福の秘訣であり、戒めを破るなら、そのことが呪いとなることも示された。それでも、彼らは神を悲しませ、失望させることになった。神がこれほどまでに愛を示し、助けであり避けどころであると教えたのに、彼らは自分勝手に考え、戒めを軽んじて、滅びの道を選んでしまった。これが聖書に残されているのは、現代の私たちにも共通する教訓があるからに他ならない。あなたは、神が「わたしこそ、わたしこそそれである。わたしのほかに神はいない」と言われた御声を聞いていないのだろうか。私たちがこれを聞いたと言うのなら、生き方で証明しなければならないだろう。主に従い、大いに祝福されればいい。心に喜びがあることを刻々と感じればいい。他の人と比べたり、羨んだりしてはいけない。意味がないからだ。あなたは、自由で心に願う通りに生きることがきっとできるだろう。イエスがそこにいるから。罪の負い目さえ十字架にとってくださった主が、あなたを愛しているから。いつも祈り、神に話しかけ、主を賛美することが楽しいと思うだろう。あなたはそのようにして、主と共に神の国へと歩んで行くはずだ。(サクマ)

 

11月21日(水)

エシュルンの神のような方はほかにはいない。あなたを助けるために天を駆け、力に満ちて雲に乗られる。いにしえの神は難を避ける場所、とこしえの御腕がそれを支える。

申命記33:26、27

 

あなたは考えたことがあるだろうか、あなたを召された神は、あなたを助ける神であり、そのためには天を駆けるのだ。力に満ちて雲に乗られる。こんなすごい神をイメージしていただろうか。あなたがクリスチャンになった後も、困ったことが起こり、その度に、主に助けを求めただろう。その時に、神は何もしてくれなかったと思ってはならない。もし、あなたの目が開けていたなら、天を駆けてまであなたを助けようとされた力強い神を見たことだろう。あなたの知らないところで主はあなたのために戦ってくださっている。だから、あなたはやがて理解する。主は難を避ける場所なんだと。あなたの信仰が成長して強くなると、やがて主の力強い御腕があなたを本当に守っておられることを知るだろう。あなたのことをいつでも大事に思い、失敗しても何遍も赦し、励まし、支え続けてくださる神こそがあなたの主だ。主は、あなたを愛しておられる。(サクマ)

 

11月22日(木)

イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。

申命記34:10

 

申命記の最後はモーセの死によって終わります。120歳でした。病気や老衰で死んだわけでもありません。「目はかすまず、活力も失せてはいなかった」(7節)のです。紫外線の強い荒野で羊飼いとして40年間働き、さらに荒野を旅すること40年、気がつけば120歳になり、ゴール直前で使命を終え、ヌンの子ヨシュアに後を託し、ついに眠りについたのです。モーセの一生は波乱万丈でした。奴隷として生まれ、生まれた時から殺される運命でした。それが、エジプトの王室で育ち、王族の一員となって成人しました。しかし、エジプトから逃げて、ミディアンの荒野で羊飼いとなり、忍耐を学び、謙遜を身につけました。そして、エジプトの奴隷となっていたヘブル人をファラオの手から救い出し、脱出することをやり遂げ、幾多の奇跡を行い、神と対面して語り、神から十戒を直に受け取り、幕屋を作り上げ、男だけで60万人、おそらく全部で300万人の民を導き、荒野でマナを食べさせ、岩から水を出してみせた。それだけのことをしても、民の不平は続き、殺されそうになり、その民たちの罪を神に執り成したことも数多く、戦争も勝利に導き、預言者としての務めを全うし、とうとうゴール目前でカナンには入れず、役目を終えたのです。現代なら、300万人もの難民を引き連れて、パレスチナへの旅を敢行した、という大ニュースになったでしょう。21世紀の高校世界史の教科書にも記録を残し、文字通り歴史に残ることをやり遂げ、しかも、イエス・キリストの到来と救いの雛形となり、海を分けたことで有名になった「十戒」などの映画にもなったのです。このような預言者は二度と出ませんでした。その代わりに、ナザレのイエスが登場したのです。(佐久間)

 

11月23日(金)

この王妃の事件が知れ渡りますと、女たちは皆、『王妃ワシュティは王に召されても、お出ましにならなかった』と申して、夫を軽蔑の目で見るようになります。

エステル記1:17

 

ペルシャ王クセルクセスが酒宴の席に王妃ワシュティを召したが拒まれたことから事件となった。王はその威光を見せつけるために180日つまり半年に渡っって酒宴を催したのだ。ところが、美しい王妃を高官たちに見せようとしたのだが、王妃に拒まれてしまったのだ。王は怒り、賢人たちにどうすれば良いか諮った。そこで、大臣から出た言葉が今日の聖句なのだ。世の夫たちは、妻にこの王妃の言動が原因で軽蔑の目で見られるようになると言った。さて、どうだろう、男女の問題は、このように古代にさかのぼる。現代の男女の格差をなくし平等にという働きは、先進国から発展途上国へと広がりが見える。社会に出た女性が差別を受けずに実力で出世したり、夫よりも地位が高くなったり、給料が良くなったりすることを恐れる男性が多くいるのだ。日本のように国会議員や高級官僚に女性が少ない国は、今や国際的に風当たりが強くなってきた。話は戻るが、王妃はなぜ、王の召しに応えなかったのだろう。そのために、法的にも正式にその地位を失うことになった。この出来事が、ユダヤ人にとっては忘れることのできない記念すべき日となり、やがてプリムの祭りとして現代にまで続くこととなった。女性の従順が賞賛されることにもなって行くのだ。(佐久間)

 

11月24日(土)

さてそのころ、モルデカイが王宮の門に座っていると、王の私室の番人である二人の宦官がビグタンとテレッシュが何事かに憤慨し、クセルクセス王を倒そうと謀っていた。それを知ったモルデカイは王妃エステルに知らせたので、彼女はモルデかいの名でこれを王に告げた。早速この件は捜査されて明らかにされ、二人は木につるされて処刑された。この事件は王の前で宮廷日誌に記入された。

エステル記2:21~23

 

聖書の中で物語として面白い読み物の一つがこの書です。この書の名前となったエステルがいよいよ登場します。それは、捕囚民のイスラエル人であるエステルが、全国から集められた美女を退けて王妃に選ばれるというシンデレラストーリーなのです。それだけでも面白いのですが、お妃候補として全国から集められた美女をさらに専門家が一年かけて美しさに磨きをかけるという過程を経て、やはり、エステルが王様に選ばれたのです。そして、2章の最後に小さな記事が追加されています。それは、エステルの後見人であるモルデかいが王宮の門に座っている時に、王の暗殺計画を知ることとなり、それをエステルを通じて知らせ、暗殺計画を未然に防ぐことになりました。それが宮廷日誌に記録されたのです。これが大きな伏線になります。神様が信じる者たちを導き、守るということは知っていますが、それがどのようになされるかは理解していないかもしれません。それは、驚くほどの周到な準備がなされていて、布石をうっているというのがぴったりなのです。さすがは神様と驚嘆するようなことが準備されているのです。ですから、クリスチャンの皆さんは、大変なことが起こっても、うろたえてはなりません。これは始まりであって、神様が素晴らしい備えをなさっているのを見ることができる、と落ち着いて見守っていればいいのです。たとえ、恐ろしい目にあったとしても、大逆転が待っています。その時に、神様にどれだけ深く愛されているか知ることになります。この信仰が身につくといいですね。(さくま)

 

11月25日(日)

急使はこの勅書を全国に送り届け、第十二の月、すなわちアダルの月の十三日に、しかもその日のうちに、ユダヤ人は老若男女を問わず一人残らず滅ぼされ、殺され、絶滅させられ、その持ち物は没収されることとなった。

エステル記3:13

 

何が起こるかわからないのが人生です。ある日何の前触れもなく災いが襲ってくることがあるのです。この時、自分の力ではどうすることもできない絶望的なことがユダヤ人の上に降りかかったのです。元はと言えば、モルデカイが大臣で一番偉いハマンにひざまずいて敬礼しなかったことが原因でした。そのため怒ったハマンがモルデカイだけではなく、彼の民族であるユダヤ人を全滅させることにしたのですから、常軌を逸しています。ヒットラーを思い出します。ハマンは王に許可を求めて合法的にことを進めました。もう命令が全国に通達されました。絶体絶命の危機です。さあ、神様はユダヤ人を救うのでしょうか、それとも何もしないのでしょうか。私たちにも、ある日、思いもかけない災厄が襲って来るなら恐怖でパニックになるでしょう。それが命が取られるかもしれないような事であればなおさらです。ただ、この物語が聖書に収まっているということは、私たちに、人間にとってあり得ないようなひどいことが起こったとしても、神様が必ず救ってくださることを教えているのです。そのためには、信仰が必要だし、祈りも必要で、しかも同じ信仰を持った人たちの祈りも必要なのです。聖書では、エステルという女性が勇気を振り絞って、殺されることも覚悟して、祈り抜き、また同胞にも祈りを頼んで、王のもとに出かけて直談判します。ここから、学びなさいということです。あなたは、この物語を読み進めて行くうちに、信仰と勇気が必要な時があることを覚えるでしょう。ですから、災いの日、私たちは絶望することはありません。必死に主にすがりつき、祈って、勇気をいただき、問題に真正面からぶつかって行くのです。結果は言うまでもありません。(さくま)

 

11月26日(月)

この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。

エステル記4:14

 

私たちは、自分が置かれている地位や立場など、偶然のように思っていますが実はそうではないのです。すべて神様が御心のままに決めたことなのです。時々、地位を得たり、富み栄えたりすると、自分の手柄のように高慢に考えてしまうことがありますが、実際は神様のなされた御業のおかげであるのです。エステルの場合は、全国から選ばれた美女たちの中で王に選ばれた王妃でした。それは、実に主がこの日ために備えていたことだったのです。トップに立つということは、栄誉や利得を得るだけではなく、大きな責任を負う事になるのです。人の命さえ奪うことのできる、絶対権力者の前に許可なく出て行くことがどれほど危険で命がけであったか、理解できるでしょう。誰にとっても恐ろしい事でした。だからといって逃げ出すこともできません。神様に滅ぼされることの方がよっぽど恐ろしいことです。エステルの場合は、ユダヤ人同胞のためでしたが、私たちならば教会のためであったり、神の家族であるクリスチャン仲間のためかもしれませんが、いずれにしろ、自分一人の問題ではすまないような事態に陥ることがあるわけです。敵はサタンです。本気で滅ぼそうとしているのです。それを阻止し、食い止められるのがあなただけである、というようなことが霊的にはあり得るのです。神の武具(エフェソ6:10以降参照)が必要ですね。信仰は時に覚悟することなのですね。(さくま)

 

11月27日(火)

「私の望み、私の願いはと申しますと」とエステルは言った。「もし王のお心に適いますなら、もし特別な御配慮をいただき、私の望みをかなえ、願いをお聞き入れくださるのでございましたら、私は酒宴を準備いたしますから、どうぞハマンと一緒にお出ましください。明日、仰せのとおり私の願いを申し上げます。」

エステル記5:7、8

 

エステルは、いよいよ死ぬ覚悟で王のもとを訪れ、そして酒宴に王とハマンを招待し、王の好意を引き出した。そこで、もう一度酒宴の席を設けるので招待に応じて欲しいと願い、その時、王の申し出に応えて願いを申し上げますと言いました。ここまでのエステルの勇気は立派です。本題は次の酒宴の席となり、エステルの計画通りに事が進みます。ハマンはよもや王妃がユダヤ人であることなど知りません。そして、有頂天になったハマンの唯一の影はモルデカイです。そこで、憎いモルデカイを排除するために高い柱を立てさせたのです。このように、神の民の敵はいつの時代にも存在します。その背後にはサタンが暗躍しているのです。そのために、絶体絶命のピンチにまで追い詰められることすら起こるかもしれません。しかし、神様はそれをそのまま許されるはずがありません。神の民の祈りをちゃんと聞き届け、彼らの信仰を見ています。神の民が心を一つに合わせて祈る時、神様は立ち上がります。ここでは、エステルが命がけで行動に出ます。このように、信仰を持って勇気を奮い立たせなければならない時もあるのです。ここぞという時に、勇気ある行動を起こせるようにしたいものです。敵の高慢が絶頂に達した時、神様の怒りがその者の上に下るのです。もし、一人の人が行動を起こさなければ、ただ虚しく殺されてしまったでしょう。それを大逆転する事ができるのです。信仰を持っている人にはそれだけの力があるのです。あなたも勇気ある人と言われるように、信仰に立ちましょう。(さくま)

 

11月28日(水)

王はそこでハマンに言った。「それでは早速、わたしの着物と馬を取り、王宮の門に座っているユダヤ人モルデカイに、お前が今言ったとおりにしなさい。お前が今言ったことは何一つおろそかにしてはならない。」

エステル記6:10

 

神の民と争う事がどんなに恐ろしい事かよくわかるだろう。それは、神と争うことになるからだ。敵は自分の高慢に足元をすくわれるだろう。神様のユーモアは、ハマンが殺そうと計ったモルデカイに自分が望んだ栄誉を自らの手でモルデカイに実現しなければならなくなったことだ。モルデカイがしたことは、決して人を恐れず、ハマンに膝を屈しなかったことだ。それでもとでユダヤ人の虐殺がハマンの悪意で行われようとした時に、祈ったこと、そして、エステルに王に嘆願するように支持したことだ。神を信じるということは、神を自分の王として絶対服従することであり、人であろうと石や木でできた偶像を決して拝まないことだ。そのために命が危うくなっても、神に嘆願して、敵の脅かしに負けない事が肝心なのだ。その時、神がどのような助けをなすか、その典型がこの箇所であり、ここから大逆転が始まる。今、サタンと戦いを強いられている人は、このエステル記から勇気と知恵をいただき、信仰と祈りで勝利を得よう。「恐れてはならない」という神の御声が聞こえてくる。誰も油断する事なく、よく祈り、御言葉の剣で武装しよう。(サクマ)

 

11月29日(木)

クセルクセス王は王妃エステルに、「一体、誰がそのようなことをたくらんでいるのか、そのもはどこにいるのか」と尋ねた。エステルは答えた。「その恐ろしい敵とは、この悪者ハマンでございます。」ハマンは王と王妃の前で恐れおののいた。

エステル記7:5、6

 

ハマンは権力を求めすぎた。権力が集中するとろくな事がない。巨大な権力は人間をモンスターに変えてしまう。自分の思い通りにならない人間がいたら、その者だけでなく、その民族も全て虐殺しようと企てる事がまともな人間には到底できないし、考えられないだろう。そのように感覚が麻痺してくるのだろう。日本でも自動車会社の会長が強大な権力を持ち、ついには不正を働いて逮捕された事が盛んにニュースになっている。このような権力をキングリーパワーという。これが危険であるのは、悪魔が初めに手にしたものだからだ。人を悪魔的に変える力を持っているのだ。しかし、その者がいつまでも思いのままに振る舞えることはない。突然、糾弾が起こり、正義の裁きが行われる。悪魔が地獄行きが決定しているのと同じように、決定的な終わりが来るのだ。世の終わりには、反キリストが来る。これも悪魔的キングリーパワーだろう。その時、このエステル記を思い出して、信仰に敢然と立ち上がる人でいたい。(サクマ)

 

11月30日(金)

こうして王の命令によって、どの町のユダヤ人にも自分たちの命を守るために集合し、自分たちを迫害する民族や州の軍隊を女や子供に至るまで一人残らず滅ぼし、殺し、絶滅させ、その持ち物を奪い取る事が許された。

エステル記8:11

 

聖書の中に恐ろしい記事は少なくありませんが、この箇所は、ユダヤ民族を滅亡させようとしたハマンの計画が破綻し、本人が処刑されただけではなく、全国のユダヤ人の敵を逆に王の命令で絶滅させることになった事が記されています。人間はどうして、平和に暮らす事ができないのでしょう。自分と異なる民族への憎悪を隠さない人もいれば、迫害することや滅ぼそうとする事が歴史上何度も起こるのです。時には、同じ民族同士で争い、内戦になることも珍しくはありません。権力闘争であったり、民族紛争であったり、現在でもニュースでよく見るので、過去の話ではないのです。世界に平和を願う人は多いでしょうが、平和のために戦う人もいるのです。民族レベルではピンとこない人でも、個人レベルではどうでしょうか。どうしても嫌いない人がいたり、自分の意見を否定されたりすると、その人が敵のように感じることだってあるでしょう。そもそも、私たちは平和ということの意味がよくわかっていないのではないでしょうか。それは、個人レベルで始まっているのです。キリストは「互いに愛し合いなさい」と言いました。日本人の感覚で言うと、相手を思いやり、大事に思うことです。その時に一番重要なことは、「赦す」ということなのです。イエス・キリストが私たちに実際にやって見せて教えた事が「赦す」ことだったのです。自分が傷ついたことを赦して癒す事が人間にとっては重要なことなのです。私たちは、傷つけられた相手を赦せなくて、恨み復讐しますが、「目には目」では済まないで、それ以上にひどいことをするのです。相手が謝罪しても赦せない事が苦しみを長引かせてしまうのです。そこで、キリストは、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39)と言われたのです。心の中の苦い根を断たなければ、いつまでも苦しみは消えることはありません。イエス・キリストはあなたを助け、救いへと導きます。それを拒めば、何をしても苦しみは消えません。主は、自分を捨てて、自分の十字架を負って、従えと語りました。信仰の道は、いつでもそこから始まるのです。(佐久間)