2018年4月ディボーション

4月1日(日)

マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしにはわかりません。」

ヨハネ20:11~13

 

マリアはなぜ泣いていたのか。マリアは主の遺体を誰かに取り去られたと思ったからです。マリアはイエスが復活したことを理解していません。この話は、クリスチャンの成長の二段階を象徴的に描いているように思います。マリアはイエスに救われ、イエスの女弟子となって伝道旅行にも帯同していたようです。そして、イエスを愛して慕っていたことは良くわかります。これは、イエスを信じて救われた人の姿です。しかし、空の墓がそこにあり、これが試金石となっています。マリアはイエスが復活することが信じられなかったのです。これは、復活を信じない人(神学者でもクリスチャンでもいます)、あるいは復活の意味をまだ理解していない人を表しています。マリアはイエスが後ろから声をかけてもイエスがわかりませんでした。振り返って見てもわからなかったのです。しかし、イエスが「マリア」と呼んで、はじめてイエスが復活したことを知ります。ここで、気がつくのは、私たちも復活したイエスにお会いすることです。つまり、復活の意味を知ることです。イエスを復活させた命と同じ命を私たちもいただき、新しく生かしていただく必要があるのです。それは、聖霊をイエスが私たちに吹き入れることで実現します。聖霊は神の息です。神の息で生かされている人こそ、あなたなのです。だから、救いの神秘を知ったあなたは、生ける主を知り、イエスがどこにいるか知っているのです。もう泣くことはありません。(佐久間)

 

4月2日(月)

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。・・・だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

ルカ18:9、14b

 

鍋料理は簡単だからと安易に考えていたが、専門店で食べた時の驚きはなかった。プロの作った鍋料理は、どうやって作ったのかとそのすごさに驚嘆した。誰でもが作るような料理でも、味に相当の違いが生まれる。プロの料理人は厳しい修行の中で、美味い料理の秘訣を学んで行くわけだ。しかし、どこかで自惚れるなら、慢心してそれ以上のことを学ばなくなってしまう。聖書の中でもファリサイ派の人たちは、宗教においてまさにそのような人たちだった。真理の探求は、やめてはならない。聖書も何回も読んだ人の方がいいに決まっている。ただ、ファリサイ派の象徴的な意味は、人に誇るために読んだ回数を自慢するような人のことだ。回数が問題なのではないのに。真理を知ることへの探求が課題なのに。人の考えなど、無数にあるのが当たり前だが、自分が他人の考えを理解できないと自分が正しいと頑固になって謙虚に学ぼうとしない人は、後で後悔することになる。聖書をもっと学ぼう、真理を深く探求したいので聖霊に求めよう、とすること自体がヘリくだっているからできることなのだ。その人は求めたので、知ることになる。(サクマ)

 

4月3日(火)

それから弟子たちに言われた。「わたしにはついて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

マタイ16:24

 

自然の中に入っていこうとすると、危険が伴うために、ガイドやレンジャーのような道案内人が必要になります。神の国に入るためにも、同じことが言えます。ガイドやレンジャーは、イエス・キリストであり、聖霊であると言えます。神の国はこの世と正反対です。光と闇のような関係です。ですから、この世のことなら自然とわかっても、神の国のことは自然にはわかりません。神の国も道案内が必要なのです。まず、自分自身が一番の障害となります。罪の温床であり、欲が生きているのが自分というものだからです。そこで、ガイドの道案内に素直に従うことができるためには、自分を捨てることが不可欠なのです。しかも、一旦捨て去ったと思っていても、後で自分を取り戻すことができるのです。そこで、自分を十字架につけて殺してしまう必要があるのです。キリストに従いたいのは自分ですが、同時に逆らって自分の思い通りにしてキリストから逃げ出してしまうのも自分なのです。自分が生きている限り、キリストに従順に従うということができないのです。このような戦いがあって、初めてクリスチャンはキリストについて行くことになるのです。(佐久間)

 

4月4日(水)

兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたいので、(顔を見ないというだけで、心が離れていたわではないのですが)なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました。だから、そちらへ行こうと思いました。殊に、わたしパウロは一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました。

Ⅰテサロニケ2:17、18

 

使徒時代に福音は当時の世界に広がって行きました。イエス・キリストの福音は人々を二つに分けてしまいます。そして、一握りの人たちからキリストの教会が始まって行きました。使徒たちは、福音の宣教者であり、また教会の設立者でした。「全世界へ福音を」というスローガンのもと、使徒たちは福音を広げることに専心したのです。使徒たちの喜びは、信徒との交わりでした。福音を伝えることが命がけの時代ですから、信徒との関係がどれだけ使徒たちの励ましとなり、支えとなったかは想像に難くありません。彼らの関心は、各地の教会員の信仰の成長です。そこで、パウロもテサロニケの教会に再訪することを試みたのですが、聖書には「サタンによって妨げられた」とあります。つまり、教会には敵がいるということです。目には見えない敵ですが、パウロですら妨げられたとはっきり告白しています。イエス・キリストの教会はこのような戦いの中にいるものです。今日の聖書箇所は、教会を建て上げ、主を礼拝して行くことがサタンには脅威となり、断固阻止したいことであるということがわかる実例なのです。(佐久間)

 

 4月5日(木)

どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。

Ⅰテサロニケ3:12

 

愛の力は圧倒的です。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。」(Ⅰヨハネ4:18)。私たちは人から傷つけられたことがあるので、傷つけられることを怖がります。人間関係で愛されることを求める反面、傷つけられることも嫌なのです。そこに悩みが生じるのですが、イエス・キリストとの出会いは、驚くばかりの愛で満たされることでした。それは、恐れを締め出してしまうだけの力があるのです。クリスチャンは完全な愛を知ったので、それで愛する係りになりました。どんな人も愛に飢え渇いているので、愛されることを求めています。愛の力で壊れた心を癒して欲しいと無意識のうちに願っているのです。でも、誰がそんなことをしてくれるのでしょうか。神様の計画は、私たちクリスチャンを通して直接、神様が愛を与えるものでした。私たちが頑張る必要もなくて、ただ、通り良き管になることだけです。そのためにも、まず主があなたを愛してくださっていることを認めます。自分には人を愛する力はないかもしれませんが、主が愛を満ち溢れさせてくださるので、人を恐れなくなります。そうすると、人の痛みをいたわる眼差しが生まれます。そして、主の導かれるままに、示された隣人に無償で主の愛を与えるのです。そのために、まず主はあなたに人への愛が満ちるように働かれるはずです。これは、奇跡を間近で見る経験となるでしょう。愛は忍耐深いので、深く傷ついている人が愛で癒されるまで、あなたは愛を流し続けることができるでしょう。深い感動が待っていると思います。(さくま)

 

4月6日(金)

すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降ってこられます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っているものが、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。

Ⅰテサロニケ4:16、17

 

キリストの再臨は最初の教会から伝えられていました。今よりは切迫感があったと思います。そして、もう少し詳しく語られたでしょう。今日の聖句は、初代教会で伝えられていた内容そのものなのです。再臨の時に、生きているならラッパの音を聞くはずです。それは、まるで合図のように、キリストを信じて死んだ者の復活が起こるのです。それは、「わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」(Ⅰコリント15:51、52)。この地上では、信仰を持って死んだ人も、病気や障害で苦しんでいた人も、重荷に喘いでいた人も、クリスチャンであることによって不利益を被っていた人も、どんな人もこの世の体を脱ぎ捨てて、一瞬で永遠にふさわしい朽ちない体に変えられるのです。再臨は希望なのです。この世の苦しみから解放されるのです。イエス様にようやくお会いできるのです。話には聞いていた天国にいよいよ入るのです。最高の喜びの日です。この再臨がもうすぐ来るのです。ですから、この世に目を奪われないようにしましょう。主に心を向けましょう。空中で主とお会いするのです。(さくま)

 

4月7日(土)

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

Ⅰテサロニケ5:16、17

 

クリスチャンが心にいつも戒めておくこととして、今日のみ言葉があります。これは、無敵と言える最高の教えなのです。これをどれだけ真剣にクリスチャンが実行しているかどうかで、人生は大きく変わります。クリスチャンの力の源は、聖霊です。ですから、神様との繋がりは具体的で深いのです。なぜ、信仰の重要性が聖書で繰り返し説明されているかは、この聖霊によって生きる者とされているからです。自分の力に頼って生きることをやめ、自分を捨ててキリストに従う者となったのですから、聖霊は明確に働くことができます。しかし、聖霊の奴隷になるのではないため、私が生きることにかわりはありません。そうであれば、聖霊との関係で信仰が重要になるわけです。そして、サタンの多くの誘惑から身を守るためには、今日の御言葉が役に立ちます。この生活が体得できるために、試練はやってきます。信仰のみで勝利することを教えるためです。肉の私が残っていればサタンの誘惑はなかなか防ぐことが難しくなります。そこで、気がつくと神様を忘れてこの世に関心が移ってしまうのです。サタンが望んでいる通りになるということです。これは、防ぐことが難しいと感じるかもしれませんが、今日のみ言葉を実行すれば、意外なほど簡単に勝利できるはずです。ぜひ、覚えて自分のものにしてください。(さくま)

 

4月8日(日)

どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。

Ⅱテサロニケ1:11

 

福音の極みは、今日の聖句です。あなたは神様に招かれたのです。そうでなければ、クリスチャンになることはなかったでしょう。不思議なことに、神様を信じることのできない人は、理屈が通れば信じようとしているのですが、理屈を信じるようなことと神様を信仰で信じることには大きな相違があります。それは、理屈を求める人は、実は証拠を見せろと言っているのであって、証拠を信じたいのです。ところがクリスチャンになる人は、神様の招きを受けて信じたのです。証拠は必要なかったのです。人間の常で精進して努力しなければ、神様の良しとするような者にはなれないとどこかで思っているのですが、福音は神様が義とすると言っているわけで、人間に義になってみろとは言っていないのです。ですから、神様が義とすることを妨げなければいいだけです。自分の力が何かすればそれが神様の義とすることを妨げてしまうので、自分を捨てるようにキリストはおっしゃられたのです。それで、今日の聖句を読むと、神様が必要なことを全部成し遂げてくるださることを願うことも必要であるとわかります。これらが信仰を持って生きることなのです。(さくま)

 

 4月9日(月)

私たちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、私たちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。

Ⅱテサロニケ2:16、17

 

私たちがなぜ強いかといえば、私たちには主であるイエス様がおられ、また圧倒的な愛で私たちに必要なすべてを与えてくださる父なる神様がおられるからです。この世に従えば、滅びが待っているだけです。この世で生きてはいますが、朽ちるものではなく、朽ちない永遠に続くものがあると気づかされたのです。悪魔たちを裁き地獄に落として滅ぼすことのできる神様があなたの味方なのです。だから、悪魔に脅かされる必要はありません。それどころか対抗する権威まで授けられているのです。だから、悪に負けることはないのですから、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者となれるのです。それも、御言葉を信じる信仰によって実現できます。過去に縛られる必要はありません。イエス様の十字架がその証拠です。あなたは、新しく生まれた者に神様が吹き込まれた聖霊を信じて従う信仰を示せばいいのです。聖霊はあなたのためにいつでも誠実に働いてくださいます。あなたが悩みを抱えていれば、聖霊が解決してくださいます。それをあなたは見るでしょう。(さくま)

 

4月11日(水)

しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向った。ヤッファに下ると、折りよくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向った。

ヨナ書1:3

 

現代の世界でアメリカの大統領が物議を醸している。それは、アメリカ第一主義、つまりナショナリズムのことだ。平たく言えば、アメリカさえよければいい、という考えだ。当然、世界中から反感を買ってしまった。以前のアメリカは世界の秩序を守ろうとしていた。それが自国の利益と平和に欠かせないと思ったからだが。さて、このようなことをはじめに書いたのは、ヨナ書の著者が言わんとしていることは、神がイスラエルの民だけ救うと限定するのは間違っている。神は、罪を悔い改めたならイエスラエルだけでなく、外国人も同じように憐れみ救ってくださるというものだ。さて、物語のはじめから読んで行こう。ヨナはイスラエルの神が外国の人々の罪や救いに関わることを快く思っていなかった。ヨナの考えは、神が救くうのはイスラエルの民だけに限定するというものだったから神はヨナをたしなめる必要があった。そもそも、ヨナ書が書かれた当時は、イスラエル至上主義、他国は関係ないとするイスラエル民族主義の台頭に対し、それに反対するイスラエルの民もいたということだ。それがヨナ書の著者であった。ついでに言えば、イスラエルの民族主義が最も強くなったのは、エズラ、ネヘミヤの時代だった。ヨナは、主の召命があったにも関わらず、逃げ出した。自分の考えの正しさを譲らないと、主から逃げ出すことになるが、最悪の結果しか待っていない。教訓としておきたい。(サクマ)

 

4月12日(木)

苦難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると、わたしの声を聞いてくださった。

ヨナ2:3

 

あなたは、今日の聖句をどう読んだのだろう。これの祈りは、まさにあなたの祈りだ。あなたは、このように祈れる人だろう。実際に、試練にあえばこのように祈るはずだ。そして、主は、あなたのために答えてくださる。主は、あなたの声を聞き逃すことはない。御座から身を乗り出して、聞いてくださるお方なのだ。あなたは、だから必ず助け出される。強力な主の御腕から誰が奪えよう。主は、あなたを絶対に守ってくださる。あなたが主を逃れて背を向けた結果だとしても、あなたと主の関係は切れない。あなたは、主に降伏し、主はあなたを救うだろう。それが、あなたと主の関係なのだ。(サクマ)

 

 4月13日(金)

神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。

ヨナ3:10

 

聖書が語っているのは、悔い改めることの重要性です。人間には弱さがあり、誘惑に特に弱い傾向があります。そこで、一旦、自分が神様から見て罪人である事を知ると素直に悔い改めることができるのです。神様は悔い改めを認めてイエス様の贖いにより赦してくださいます。ここで終わればいいのですが、しばらくすれば、また罪を犯す可能性が高いのです。残念なことにまた罪を犯した時に罪を悔い改めることができれば、罪の赦しはあります。それが、何度でも続けば人間的にはもうこれ以上は赦しは無いと言いたくなると思いますが、神様はそうではないのです。神様が人を愛すると言うのは驚くべきことなのです。人間のそれとは全く違います。そこで、何度罪を犯しても赦されるからいいやと、おかしな考え方をするのも人間の特徴なのです。これは神様を侮っているとしか言いようがありません。今日のヨナ書には、ニネベの人々の悔い改めが本物であったのを神様が御覧になって、思い直され、災いをくだすのをやめたとの記録があります。悔い改めは、口先だけではダメなのです。実際に、生活を変える、悪から離れる、といった具体的な変化を伴うことが肝心です。悔い改めで難しいことは、罪の特徴である責任転嫁の問題があります。明らかに自分が悪いのに、責任を転嫁してしまうことは、悔い改めを阻むものなので罪の赦しができなくなりますから、特に気をつけていなければなりません。神様の寛容さに誠実に応えることこそ私たちが望むことです。神様は、きっとあなたが真心から悔い改めた時、災いをくだすのをやめられます。そのことに気がつくことが肝心です。(さくま)

 

4月14日(土)

神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」 彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」 すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。

ヨナ4:4~11

 

ヨナ書は実に面白い。子供でもワクワクするようなお話しなのに、読み手によって違って見えてくる。しかし、言わんとしていることは、厳しい警告ですら、憎んでいるのではなく滅ぼしたくないからで、神は人間をよく理解しているからこそ惜しむのだ、ということだ。私たちは、恥ずかしいことだがすぐに怒ってしまう。自分の思い通りにならなければ、神にだって怒ってしまうのだから情けない。ニネベの人たちが悔い改めたため、主は心を変えて滅ぼすことをやめた。それで死にたいほどヨナは怒った、というのだから読者にとってはヨナはおかしいと思えるはずだ。しかし、ヨナが特別おかしいのではなく、私たちも同じように当事者になれば頭にくるのだろう。ヨナは、神の人間への愛がどれほど深いものであるか知らなかた。そして、「右も左もわきまえぬ人間」がいたずらに滅ぼされることはないということだ。どんな人でも主は憐れみ、惜しむことを心に止めておきたい。私たちだって、とるに足りないものを惜しむことを知っているから。それから、怒るのは危険だからやめることが出来るように祈ることも必要だ。なぜなら、怒りは神に向いていることを忘れてはいけない。そして、怒ると愚か者になってしまうから恐ろしい。(サクマ)

 

4月15日(日)

ナオミは言った。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしを、主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ、全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」

ルツ記1:20、21

 

飢饉で外国に逃れ、開拓農民となった夫と二人の息子に死なれ、失意の中故郷へ帰ってきたナオミの言葉です。ナオミの名前は「甘美」という意味があり、女性の名前としては良い名前でした。それでも、人生が坂を転がるように悪くなることがあるのです。神様を信じていても、試練に遭うことは避けられません。彼女の言い分は、明らかに神様がひどいと言っているのです。私が不幸になったのは神様のせいだと言っています。さて、それでは、神様はこの彼女の言葉にどのように応えるのでしょうか。それがルツ記のテーマなのです。誰にでも心当たりがある苦難に主はどのように応えてくださるのか考えさせ、信仰を学ぶ箇所です。信仰を持っているあなたの人生は最後に報われます。驚くほどの祝福を目の当たりにするはずです。そして、その時、あなたはイエス様に感謝せずにはいられないでしょう。ですから、辛い日にはイエス様を呼び、信仰で乗り切ってください。あとで、苦労を帳消しにする大きな喜びが待っています。主への信仰は必ず報われます。(さくま)

 

4月16日(月)

ルツは言った。「わたしの主よ。どうぞこれからも厚意を示してくださいますように。あなたのはしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。」

ルツ記2:13

 

ルツはクリスチャンを象徴し、ボアズはイエス・キリストを象徴していると思って読むと、私たちとイエス様の関係が良くわかります。私たちの置かれた境遇がどうであろうとも、信仰を現すことはできます。少なくとも、イエス様に祈ることができます。ボアズがそうであったように、イエス様は私たちに驚くほどよくしてくださるのです。それがわかるためにも私たちが本来はイエス様によって恵まれている者であると信じることです。さて、ルツの言葉から覚えておきたいのは、「心に触れる言葉をかける」ことの大切さです。誰に対しても慰めの言葉をかけることのできる人になりたいですね。私たちは、いつも順境であるわけではありません。逆境の時もあるものです。その時に、多くの人が去って行くことも避けられないし、悪口を浴びせられることだってあり得るのです。そんな時に、真心からその人を認め、神様の祝福を祈れる者でありたいです。また、クリスチャンとして信仰を持って誠実に生きていれば、主は報いてくださることも御言葉から知ることができます。(佐久間)

 

4月17日(火)

どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。

ルツ記3:9c

 

ここで出てくる「裾」は言語では翼とも訳せる言葉が使われています。ボアズは、「イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れてきたあなたに十分に報いてくださるように」(2:12b)と語りましたが、今度はルツがその言葉を受けて「あなたの翼を広げて、私を覆ってください」と求婚する場面です。このルツ記は、ナオミが主は「から手で帰らせた」(1:21)と語るところから始まります。それは、夫と息子が亡くなり、子孫が絶えたことを意味しています。ところが、ここで思いもしない事が起こります。ゴーエル(最も近い親戚)の義務の問題が出てきます。つまり、家が絶えないように子孫を残す義務を負う人がボアズだったのです。ボアズは、「手ぶらで(から手で)帰すわけにはいかない」(3:17)と言います。ここで、ナオミの言った「から手で帰された」が実はそうではない事が明らかになります。主を信じているのなら、もうダメだと簡単に思ってはいけません。私たちは否定的になりやすいので、よっぽど気をつけなければいけないのです。主はあなたがしたいようにさせてくださいます。しかし、あなたのやり方ではうまくいかないかもしれません。人間的にはやはり無理だとがっかりするでしょう。しかし、主は、あなたのためにちゃんと最善を用意していると覚えておきましょう。あなたは主に祝福されているのです。(佐久間)

 

4月18日(水)

ルツは男の子を産んだ。女たちはナオミに言った。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てる事なく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。・・・その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。」

ルツ4:13b~15a

 

ルツ記は、ハッピーエンドで終わりました。しかも、最後にルツの産んだ子がオベドで、その孫がダビデであることを明かしています。ナオミからみれば、ひ孫にイスラエルの王となるダビデが出てきます。そのダビデ王の子孫にイエスが生まれてくるのです。ルツ記のはじめでナオミは夫も息子も亡くなって、何の希望もなく、家も絶えると嘆いて主に恨みがましいことを言っていました。実は、主はこのナオミの子孫にイスラエルの王が生まれ、のちには救い主がお生まれになると定めていたのです。人間の目には不思議に映ります。しかし、人間にはできないが、主には何でもできる、という言葉が思い出されます。信仰者にはこの世の人と同じような試練がきても、それは絶望で終わることはありません。必ず道が開かれ、悲しみが喜びに変わるのです。私たちは長く生きても100年でしょうが、その子孫が続き、偉大な働きをする事になるかもしれません。一体どうなるか、悲観的に考えてはいけません。主は、あなたを助けます。主は、あなたを愛しているので、祝福することばかり考えているのです。だから、あなたがこの世のことで困っても、主の御翼の陰に隠れる事だってできるのです。あなたには、思いもしなかった素晴らしい恵みに満ちた未来が待っていると思います。ぜひ、主に期待してください。(佐久間)

 

4月19日(木)

イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

マルコ1:38、39

 

イエス・キリストの目的は、実に宣教することでした。そして、会堂を巡ったのですが、宣教しただけではなく、悪霊を追い出されたのです。聖書を読むと、ユダヤ教の会堂での出来事が多く書かれています。キリスト教なら教会ということになります。その会堂で宣教されたのですが、そこに悪霊つきの人が出てきてイエスが悪霊を追い出しています。今日では、教会にも同じように悪霊つきの人が出入りする事ができるし、悪霊が教会を恐れる事なく出入りしていることを覚えておくべきです。私たちは、主に召され、救われた者です。ですから、聖書に出てくるキリストの弟子たちのように、宣教し、必要な時には悪霊を追い出すこともあるのです。ただ、イエス・キリストならともかく、私たちは安易に悪霊追い出しをすることは危険です。慎重であるべきですし、主のみ心を求めるべきです。聖霊の賜物の中に霊を見分ける賜物を与えられている人は、悪霊を追い出す働きに召されていることがあります。悪霊が人についたり、人間を混乱させり、支配したりすると、訳のわからないおかしな問題が起こったりします。そのような時でも、イエス・キリストを単純に語り、福音を語る必要があります。聖霊はあなたを強めるでしょう。そして、讃美歌も悪霊の働きを阻止する力があります。宣教は霊の戦いそのものなので、信仰が必要です。信じる者にはしるしが伴い、その中に悪霊を追い出す事が含まれています。(佐久間)

 

4月20日(金)

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

マルコ2:17

 

イエス様は医者なのです。私たちは何かしら問題を抱えて生きて来たので、時々失敗してしまいます。それが自己嫌悪に陥ったり、自分を責める結果になることも珍しくないのです。何年経っても、クリスチャンとして胸を張れるようにはなかなか慣れないと嘆く人も少なくありません。そして、自分の信仰はダメだとか、イエス様は自分を嫌っているのではないかと心配し、希望の火まで消してしまいそうになります。しかし、イエス様のおっしゃっていることをよく読んでみてください。イエス様が来たのは、「正しい人を招くためではなく」と書いてあるではないですか。それなのに、自分が正しくないからイエス様は私を救うはずがないと勝手に思い込んでいたら、なんて愚かなことでしょう。イエス様は、「罪人を招くため」来られたのです。もともと、アダム以来、全ての人が罪人なのです。しかし、自分は正しいとする人が出てきます。罪人なのに正しいと主張する人がいるという意味です。私たちは、自分の罪を知って罪人であることを認めたので、イエス様の救いにあずかる事ができたのです。その事が理解できたら、自分の弱さやダメなところがあっても、イエス様から離れることはありません。そのようなイエス様に助けていただきたいところがあるからこそ、ますますイエス様に近付こうとするのです。そこが重要なのです。それにしても、イエス様はありがたいですね。(さくま)

 

4月21日(土)

イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。

マルコ3:3、4

 

律法を与えたのはイエス・キリストでした。しかし、その律法を守るイスラエルにイエスが来てみると、こんな質問に誰も答えなかったのです。バカみたいですね。安息日を守ることが重要で、肝心な人間が置き去りになってしまったのです。そもそも、律法は愛する戒めだったのです。神を愛し、隣人を自分のように愛すことが律法そのもなのです。この場に居合わせた人たちは、宗教をやっていただけです。それでこのように障害のある人を憐れむ事ができないのなら、宗教は人間を救うことができなくってしまいます。私たちは、このような宗教を避けて、イエス・キリストを信じる道を選んだのです。クリスチャンが聖書に一致した生き方をするには、イエス・キリスト抜きにはできません。すぐにイスラエルの宗教家のようになるのがおちです。だから、聖書はいつだって、私たちがイエスの側に立っているのか、それとも誰かが作った宗教的規則を守る側に立っているのかを明確に判別するのです。宗教的規則といっても、本質は人間の考えです。それも罪人の内から出てくるものだから愛ではありません。そこにこだわると、心のかたくなな者となってしまいます。ですから、そうならないようにイエスに結びつくのです。それは、イエスを愛することです。イエスが人を恵みで救う、救われた者はイエスにならって、愛することを学び、聖霊の助けを受けて愛する者になるのです。愛は律法を全うします。(佐久間)

 

4月22日(日)

 

また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。

マルコ4:26、27

 

 神の国は神の支配という意味があります。新約聖書時代の人々にとって種はみじかなものでした。イエス様はいつでも人々のよく知っているものから譬えて話されました。私たちが義となるのは、自力で聖なる者になろうとしたり、完全になろうと努力する方法では無理です。しかし、イエス様がおいでになり、私たちは神様は愛であることを知りました。そして、愛の神様は、私たちを神様のお力で義としようと決められたのです。ですから、私たちがイエス様を信じて、聖書のみ言葉を信じるなら、まるで心の畑に御言葉の種を蒔いたように、種が成長して実を豊かに結ぶことになります。それは、神様の御力で人が作り変えられ、義とされることを教えているのです。これなら、夜昼、寝起きしているうちに神様が私たち信仰者を完全にし、聖なる者としてくださるということが納得できます。不思議ですね。(さくま)

 

4月23日(月)

「恐れることはない。ただ信じなさい」

マルコ5:35

 

クリスチャンは恐れてはいけないと何回も聞かされてきた。それでも、自分の番になれば、やはり恐れてしまうものだ。今日の聖句は、会堂長ヤイロの娘が亡くなったとの知らせが来た時のイエスの言葉だ。ヤイロにとっては、人生最大の悲劇であり、絶望と恐れが押し寄せたはずだ。だから、恐れるなという方が無理なのだ。しかし、この言葉を語ることのできる唯一のお方がいる。主イエス・キリストだ。そして、イエスは実際に死んだ娘を生き返らせてみせたのだ。だから、私たちは覚えておかなければいけない。それは、キリストの御言葉は絶対的真実であるということだ。そして、ピンチが訪れた時に、キリストがあなたに「恐れることはない。ただ信じなさい」と語っていることを思い出すことだ。主は、あなたと共に行き、不可能を可能にする。できないとあなたが恐れて、悩んだことを、主が最もたやすく解決してみせる。その奇跡は、主の御言葉の通りにあなたが「恐れずに、ただ信じた」から起こるのだ。このことを確かめるチャンスは何度もあったはずだ。今度こそ、あれこれ言ってないで、ただイエスを信じなさい。あなたは、自分の目で奇跡を見るだろう。(サクマ)

 

4月24日(火)

しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。

マルコ6:11

 

牧師になるために、文書伝道を280時間する義務がありました。そこで、神学校の夏休みに挑戦しました。そこで不思議なことを経験しました。毎日、順調に本を売り続けていたのですが、その日出かけて行った町では、どこの家も反応が悪く一軒も本が売れないのです。そんなことはなかったので、その町を見回してみたのですが雰囲気が悪いのです。その時、今日のみ言葉を思い出して、足の裏の埃を払い落とし、その町を出て、道一本隔てた隣町へ移りました。その途端に本が売れ始めたのです。その時は不思議に思いましたが、後に地域を支配する悪霊がいることを学びました。このように明確に分かる経験をすることができたのは収穫でした。たまたま売れなかったのではないか、と言う人もいるかもしれませんが、実際に文書伝道をしてみれば、私の言っている意味がわかると思います。わたしは、その時の学生文書伝道者の売り上げ一位になりました。ちゃんと真面目に文書伝道をしていたのです。神様は私を助けて導いておられました。例えば、お昼にコンビニでお弁当を買うと、レジの前に並んだ大勢の人の中で私だけにレジの人はゆで卵をくれたり、お団子をくれたり、ほかでも何かくれるのです。しまいには、家を出る前に祈っているいると今日、どこへ行けば売れるか分かるようになったのです。ある会社の社長さんは本を買ってくれませんでしたが、後から追っかけてきて、ぜひ我が社で働いてくれと、スカウトされました。だから、あの町が異常だと分かるのです。全く、門前払いで無反応だったからです。伝道してうまくいかなくても、気にする事はありません。あなたのせいではありません。全く耳を傾けてくれなければ、足の裏の埃を払い落とせばいいのです。(さくま)

 

4月25日(水)

あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。

マルコ7:13

 

イエスのこの言葉は、ファリサイ派や律法学者へ向けられた言葉だ。一番聖書に精通しているはずの人たちだ。それが、イエスに偽善者と断定された。この事は教訓となる。現代のキリスト教会でも、神の掟ではなく、人間の戒めを教えとして教えているところが無いとは言えない。私たちだって、いつの間にか自分に都合よく神の掟では無い人間的な規則にしばられてしまう事だってあり得るのだ。神の律法は良いものだ、と言う時はそれが愛であるからだ。もし、律法が曲げられる時はいつだって愛では無いことが起こっている。教会の中で愛では無いことが起これば、律法はすでに破られていることになる。そして、どうでも良いことにこだわり、愛では無い反対のものが大きく幅をきかせることになる。食事の時の手の洗い方が言い伝え通りに上手にできれば、清められると本当に思っていたのだろうか。確かに、そうした儀式的なことが大好きな人もいるだろうが、意味はない。汚れの本質を知らないから、のんきにそんなことにこだわれるのだ。汚れを清めることができるのは、目の前のイエス・キリストだけだ。そのことを知っている私たちは幸せだ。そして、私たちは、イエスを信じている。だから、イエスの新しい掟を守って、人間の作った戒めを教えるような事はしない。それができる方法が今のスクエアーにはあると思う。(サクマ)

 

4月24日(木)

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。

マルコ8:36、37

 

本当の価値とは何でしょう。私たちは、この世界に住んでいて、それぞれの人生を自分の責任で生きています。子供に将来何になりたいか聞けば、実に色々なことを言います。それこそが、その子の言葉にできる価値なのです。しかし、将来、大人になってその通りになっている人は少ないでしょう。私は小学生の時に、クラスの女の子の前で「F1レーサー」になると言ったり、もう少し知恵がついてきたら、「外交官になる」とか「弁護士」になると言っていました。それが何であるか多分理解していなかったと思います。ただ、女の子が喜んでいるのが分かるので調子に乗っていたのです。自分の息子は、幼稚園の時に、何になるのと言われて、「うさぎ」と言っていました。すごい!人間以外のものになろうとしていたのです。小学生の時には、「夢は大リーガー」と紙に書いて張っていました。私の仕事でアメリカに引っ越し、高校に入った時、野球部の大男たちを見て、すぐに夢は敗れ、サッカー部に入りました。このように、人間は年齢と共にそして少し知恵がついて自分の求める価値が変わるのですが、その価値を手に入れるために驚くほどのエネルギーを使うのです。もし、全世界を手に入れられる力があれば、全世界を手に入れようとするかもしれません。しかし、それは、この世界が全てであると考えているからです。イエス様は、「命を失ったら、何の得があるか」と言われました。確かに、命以上の価値は無いのです。そんな当たり前のことを人間は考えないのです。賢い人は、このイエス様の御言葉をよく考えます。そして、真の価値の意味を悟ることでしょう。それは、生きたかを変えるのです。仕事の種類が問題なのではありません。だから早まって仕事をやめないでください。自分を捨ててイエス様に従う生き方を実行するだけです。(さくま)

 

4月27日(金)

イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」

マルコ9:23

 

私たちは信仰の大切さを知っています。そして、聖書を読んで、信じることが計り知れない力を持っていることに気がつきます。それなのに、今日の箇所に出てきたお父さんのように、「おできになるなら」と信仰とは言えない発言をしてしまう傾向があります。人生を生きて行けば、困ったことなどしょっちゅう出てきます。その時に、クリスチャンですから、神様に頼り、祈ります。しかし、次には不安や不信仰なことを言っているのです。いともたやすく否定的な気持ちが頭をもたげてくるのです。そんな時に、今日のイエス様のお言葉を思い出してください。そして、自分が祈りの中で「できれば~」と祈っていたなら、すぐに悔い改めるのです。これからは、はっきり「信じます」と言いましょう。そして、「私は信じるので、何でもできる」と宣言するのです。どんな時でも、イエス様を信じると告白できるようにしておきましょう。そして、信じて奇跡を起こしましょう。(さくま)

 

4月28日(土)

イエスは、「何をして欲しいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなた救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

マルコ10:51、52

 

Eさんという盲人のクリスチャンがいました。彼は、立派な方で地方で治療院を開業され、毎週、その治療院を解放して礼拝を行っていました。彼は人助けをしたり、伝道したり、神様のために役立とうとされていました。コンピューターも使いこなし、メールも使っていました。健常者のように何でも見ているようでした。信仰がそうさせていたのです。さて、私たちは目が見えていると思っていますが、以外と見ても見えていないことが多いのではないでしょうか。罪人は自己中心なので、自分に都合のいいものしか見ないし、見たいものしか見ないのです。クリスチャンになったら変わったのでしょうか。弟子たちですら、イエスが五千人に五つのパンを増やして食べさせたり、四千人にも同じように七つのパンを増やして満腹にしたことの意味を悟っていなかったのです。イエスは、「目があっても見えないのか」とおっしゃいました。私たちは大丈夫でしょうか。この盲人のように、イエスに私たちがして欲しいことは一体何でしょう。それを考えてみましょう。きっと、あなたを見て人は驚くようになるでしょう。(佐久間)

 

4月29日(日)

また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。

マルコ11:25

 

祈りが聞かれないと思った時には、今日の御言葉を考えてみるといい。気づかずに赦していないことがあって、それが妨げになって祈りが聞かれないということがあるかもしないからだ。祈りの極意は、「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」(24節)だ。このことが体得できるまでになりたいのだが、今日の御言葉があることも忘れてはならないのだ。自分は赦さないで、天の父だけがあなたを赦さなければならないというのは、やはり筋がとおらない。ところが赦すことは簡単ではない。何しろ、恨みに思っているから赦せないのだ。クリスチャンにとっては、辛いところだが、避けることができない問題なのだ。自分の気持ちはどうなるのか、と言いたくなる。それを無視して、赦すというのは、まるで自分を殺したり、捨てるようなことなのだ。そうでなければ、心から赦せないからだ。幸いなことに、イエス・キリストが十字架からあなたを赦してくださいと天の父に執り成しておられる。私たちの身代わりにひどい苦しみを耐え、血を流しながら。それを見たら、主に申し訳なくて、赦せないなどと言えなくなる。そのことが分かれば、あなたは赦せるようになる。そして、あなたは祈りがかなうことを知るだろう。(サクマ)

 

4月30日(月)

はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。

マルコ12:43、44

 

献金ほど信仰と直結しているものはないだろう。だれにも強いられていないが、献金を献げる時に、いくら献げるか考える。その場合、皆が同じように考えるわけではない。神様から何かで恵みを受けたと感じた人は、多く献げたくなるかもしれないし、毎週の礼拝の時などは、金額が決まっていて何も考えずにその金額を献金袋に入れるかもしれない。収入の十分の一を献げることが聖書に出て来るので、それをどうするか考えるのも人間的だ。その人の金銭感覚がそのまま献金に現れるかというと、それも違う。信じられないような大きな額の献金を献げている人も珍しくない。わずかしか神様に献げられないことを申し訳なく感じている人もいるだろう。献金には実に、その人がありのままに出て来るのだ。しかし、イエス様が献金を献げるのを見ているとは誰も気がつかないかもしれない。今日の聖句は、イエス様が見ていて、だれが一番献げたかを示されたから、私たちの興味を引く箇所だ。なんと、貧しいやもめが献金一位に輝いたのだ。金額も書いてあるが、1日の日当が1デナリオンというからその1/64、仮に1デナリオンを1万円とすれば、わずか156円の献金で一位になったということだ。確かに、人の収入は個々違っている。しかし、生活に必要なお金は決まっているから、生活ギリギリか足りない人と有り余る人では、相当の差がある。それにもかかわらず、貧しい人が生活費の全部を入れた、というのはどうしてだろうか。それが、その人の信仰だったからだ。ここでは、もはや十分の一献金どころではなくなっている。全部献げた人の信仰が気にならないだろうか。イエス様に従った人たちの中には、数百万円もする香油を惜しげもなく、イエス様にかけた女もいた。それをもったいないと言った人もいた。イエス様に対する価値をどう見ているのかということがそんなことからもわかるわけだ。献金には必ず動機がある。それが、イエス様への感謝と愛であればどんなにいいだろう。(サクマ)