2018年6月ディボーション

6月1日(金)

主イエスは、ご自分の持つ神の力によって、命と信心とに関わるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。

Ⅱペトロ1:3

 

 

今日の聖書箇所(特に11節まで)は、驚くべき約束だ。なぜなら、「これらをのことを実践すれば、決して罪に陥りません」と書かれているからだ。クリスチャンがなぜ成長したいと思っているかと言えば、まさに罪に陥ることのないようになりたいからだ。どんなに、正しい生活を送っていても、罪に陥る危険がなくなることはないと感じている人は、どうすればいいのかと思っている。しかし、まず、今日の箇所を読んでみると、意外なことに主イエスはもう既に命と信心とに関わるすべてのものを、私たちに与えてくださったのだ。つまり、何かを自力で獲得する必要はないということだ。既に与えられているのだから、何かが足りないのでそれを獲得するために修行する必要はないということだ。つまり、「完全な者」とか「聖なる者」になりなさい、という御言葉は不可能なことではないということだ。それだけではない、こうした恵みが与えられた理由が、主イエス・キリストを認識させるためであることだ。つまり、もっと主イエスを知ることができるのだ。そして、最終的には「永遠の御国に確かに入ることができるようにな」ると書かれているのだ。そのためには、5~7節に目指すべきことがリストとして書かれている。このことの意味に気づける人は幸いなのだ。生かされている日々を怠惰で身を結ばない者とならないために、よく考えてなすべきことを見失わないようにしよう。(サクマ)

 

6月2日(土)

人は自分を打ち負かした者に服従するものです。

Ⅱペトロ2:9

 

小説やテレビドラマに弁護士を主人公にしたものが多くあります。いかにも戦いがあり、人生ドラマがありそうですから観る者を飽きさせません。裁判場面では、誰が何をしたか、何を言ったか、すべて明らかにされ、裁かれるのです。聖書にも同じことが書かれていて、最後にはすべての人が裁かれるのです。幸い、私たちはクリスチャンになりました。キリストを信じて救われたのです。罪を悔い改めて赦され、新しい命に新生したのです。ところが、サタンはクリスチャンを憎みなんとか滅ぼそうとして、誘惑し、異端の考えを吹き込み、つまずきを置くのです。こうした攻撃は、人の弱点をついてきます。ですから、弱点を克服する必要があります。そのために必要な信心はすべて主が与えてくださいます。時に、試練が弱点克服の信心を引き出すために有用であることもあります。しかし、試練に打ち負かされては元も子もないので、「主は、信仰のあつい人を試練から救い出」(9)します。こうやって、クリスチャンは戦いがあることを学びます。しかも、それは信仰を持つ前の罪に引き戻すサタンの罠なのです。救われた人が再び堕落すれば、それは前よりひどいものになります。だから、打ち負かされないようにしなければなりません。(佐久間)

 

6月3日(日)

その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、溶け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。

Ⅱペトロ3:12、13

 

ペトロは、ノアの時の裁きは水であったが、終末の裁きは火でなされると語ります。そして、今日の御言葉のように預言します。これは、核兵器の恐ろしさが現実にある世界ではそれだけであり得ることだと納得してしまいます。残念なことですが、この世界はいつまでも続くことはないのです。破滅的な終わりだけなら、それも残酷で希望がなくなりますが、主は新天新地を約束されました。ですから、悪くなる一方の世界が滅びに向かっていることを知らせることは大切ですが、誰が聞く耳を持っているでしょう。誰も聞いてくれないと思っている人は、まだ聞きたいと思っている人に出会っていないだけです。人の関心は自分のことです。だから、個人伝道は効果的なのです。親切であったり、優しく接してくれるあなたに、心を開く人は出てきます。パウロやペトロのようにはできなくても自分らしく伝道することは難しくありません。牧師に知人を引き合わせることだけでも大きな伝道なのです。まずは隣人を愛することから始めたいですね。(佐久間)

 

6月4日(月)

彼らはこう答えた。「捕囚の生き残りで、この州に残っている人々は、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けています。エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです。」

ネヘミヤ1:3

 

ペルシャの王アルタクセルクセス王の第20年キスレウの月から、ネヘミヤの物語は始まる。紀元前445年の12月か前444年の1月のことであった。それは、エズラのエルサレム帰還、律法による宗教改革から12、3年後のことである。ハナニが幾人かの人たちとユダからネヘミヤを訪ねて来た。そこで、エルサレムの状況を聞いてその惨状にショックを受け、幾日も断食し、ネヘミヤは祈り始める。前586年にユダ王国の首都エルサレムは破壊され、貴族、そして民がバビロンに捕囚となった。その後、ペルシャ王クロスが、前539年にバビロニヤ帝国を倒し、ユダヤ人はエルサレムへの帰還が許された。大きな困難の中で神殿は再建され、前515年に神殿は完成した。さらに、学者エズラが前458年に帰還し、宗教が正され、教育がなされて良くなっているはずだった。ところが報告を聞いてネヘミヤは現実を知ったのだ。神殿の再建はなったが、城壁の修復は敵の妨害などがあって、進まないどころか放置されてしまったようだ。周りの多民族からはあざけられ、もはや看過できない状況にあったのだった。ネヘミヤは悔い改めから始めた。先祖から積み重ねて来た罪を悔い改めたのだ。なぜなら、神の赦しと神の力なしには本当の再建はならないし、エルサレムの破壊と惨状は罪の結果起こったことであり、それが未だにそのままであるということは、罪の問題が払拭されていないからだ、とネヘミヤが思っても不思議ではない。いつでも、悔い改めの祈りから、事態は動き出す。主は決して見捨てないから、悔い改めの祈りから始めれば道は開けるのだ。(サクマ)

 

6月5日(火)

そこでわたしは反論した。「天にいます神御自ら、わたしたちにこの工事を成功させてくださる。その僕であるわたしたちは立ち上がって町を再建する。あなたたちには、エルサレムの中に領分もなければ、それに対する権利も記録もない。」

ネヘミヤ2:20

 

ネヘミヤは王にエルサレムの町の再建を願い出る機会に恵まれた。もちろん、その背後に神の働きがある。それでも、ネヘミヤは命の危険を覚悟して王に願わなければならなかったことは教訓となる。ネヘミヤがどれだけ祈っていたか、その結果として、願いがかなう時、信仰は最高潮に高められ恐れを越えることができる。ネヘミヤは用意周到に王の書状を得て、王の好意で将校と騎兵に守られて旅を急ぎ、エルサレムに到着した。そして、敵が登場する。ユダヤ人を苦しめていたのは、サマリアの総督であったらしいホロニ人サンバラトとアンモン人の僕トビヤ、彼は王の僕という意味でアンモンの総督であったと思われる。サマリヤは神礼拝と異教の偶像礼拝を混交させた宗教となっていたが、彼らはユダヤ人と同じ神を信じていると考えていた。そして、ネヘミヤが鼓舞してユダヤ人たちが町の再建に立ち上がった時にもう一人敵が加わった。アラブ人ゲシェムだ。彼は、アッシリア王サルゴンによって前715年にサマリアに移住させられたアラブ人の子孫と思われる。つまりサマリアこそが敵の中心であったということだ。彼らは脅しをかけてきたが、それに対してネヘミヤは反論した。それが今日の聖句である。新約聖書でユダヤ人がサマリア人を忌み嫌い、汚れた者とみなす理由がこうした歴史的背景からきていることがわかるだろう。それにしてもネヘミヤは敵にも味方にも共に覚悟を迫ったわけだ。それらが神への信仰に裏打ちされていたので、凄みがあるわけだ。(サクマ)

 

6月6日(水)

大祭司エルヤシブは、仲間の祭司と共に羊の門の建築に取りかかり、それを奉献し、扉を付けた。次いでハンメアの塔まで、更にハナンエルの塔まで奉献した。

ネヘミヤ3:1

 

3章は工事分担リストです。名前の羅列でつまらないと思うかもしれませんが、この神の大事業に誰が何をしたかという記録は、イスラエルにとって重要なものです。スクエアー・ジャパン・チャーチの創立礼拝の参加者名簿のように、どの教会にも設立時のメンバーが名簿として記録されています。また、教会堂を建設したときの献金者リストなど、その教会の人たちにとっては重要なものなのです。この工事には、実にいろいろな人たちが参加しています。大祭司エルヤシブは、「神は回復する」という意味の名です。彼は、バビロンから帰還した大祭司ヨシュアの孫です。彼は、工事の妨害をしたネヘミヤの最大の敵であるトビヤと親しい関係だった。さらに、彼の孫は、敵であったホロニ人サンバラトの「婿」であった。つまり、最高指導者から背信の者が出たということです。今日もキリスト教会の有名な牧師や伝道者などがスキャンダルで失墜することは珍しくありません。悪魔は、誰を倒せば良いのか知っているのです。ですから、指導者のための祈りは重要です。「羊の門」は神殿の北側にあり、犠牲の動物が運ばれる門でした。興味深いのは、テコアの人々が働いているのに、その貴族たちは工事に加わらなかったというのです(5節)。ネヘミヤに協力しなかった身分の高い人たちがいたということです。社会的に力のない庶民たちが神の町の城壁を作り上げたということは、意味深いことです。(佐久間) 

 

6月7日(木)

「敵を恐れるな。偉大にして畏るべき主の御名を唱えて、兄弟のため、息子のため、娘のため、妻のため、家のために戦え」

ネヘミヤ4:8

 

人生に戦いはつきものです。自分の計画を妨害する者が現れるかもしれないし、敵意をむき出しにする者が現れるかもしれません。それがどんなに理不尽なことであっても、相手はやめないのです。神様を信じているのだから、そんなひどいことが起こるはずはないと思っているなら、根本的に考えが間違っているかもしれません。聖書の中に試練という言葉は繰り返し出てくるし、試練が嵐のように襲ってくる話をいくつも見つけることができます。ある人は、そのような時に恐れてしまい、神様への不信を口にします。別の人は、同じような苦境に追い込まれていても、恐れずに、これを乗り切れば良いと思い、そのように祈るのです。簡単に失敗する人は、すぐにあきらめる人です。あきらめた時点で敗北が決まるのです。でも、あきらめなかったらまだ結果は出ていないのです。心が折れそうな時に、「偉大にして畏るべき主の御名を唱え」るのです。さらに、人生を勝利に導くために大切なことは、何のために頑張っているか、ということを明確にするのです。ネヘミヤは「家族のため、家のため」とはっきり言いました。敵を恐れずに打ち勝つには、主を信じることと家族のために戦っているこということを明確にすることです。自分のためだけだとあきらめてしまうかもしれませんが、家族のためだと簡単にはあきらめられないのです。こうして自分の底力を出すことができれば、次に情報と戦略が大切です。ただ恐れるだけの人たちは、脅かす者に支配されてしまうのです。だから、私たちの神様だけを畏れ、正しいことを勇気を持ってやり遂げることです。神様は必ず助け、守ってくださいます。(さくま)

 

6月8日(金)

神よ、わたしがこの民に尽くしたすべてのことを快く心に留めてください。

ネヘミヤ5:19

 

敵との戦いと再建の工事をユダの民の一致で乗り越えようとしていたのに、肝心の内部に問題が露呈した。問題の内容は、限度を超えた貧富の差であり、また政治がそうなるように動くことだ。何か、最近の日本でも同じようなことを見聞きしている。いわゆる格差社会だ。貧しいグループもさらに三グループに分かれている。第一は、土地や財産を持たないで労働に頼る人たちだ。その人たちが生活を維持できないほど困窮してきた。第二は、自分の畑や土地を持っていて、家族を何とか養えていた人たちだ。ところが飢饉がゆとりのない彼らの生活を破綻させていた。土地や畑を抵当に入れることになった。第三のグループは、自作農だが「王の税」に苦しめられ、結局土地や畑を担保に金を借りることになった人たちだ。この人たちが根をあげて叫び始めたのだ。このままでは、町の再建どころではない、内部から崩壊して行くことになる。ネヘミヤは、熟考した。そして、大集会を開き、そこで富める者たちが困窮した同胞を助けずに苦しめている事実を突きつけ、貸した金を全て返済免除にし、担保に取り上げた土地や畑を無条件に返すように訴えた。それは、まず自らが率先して行うと宣言したのだ。それには、富めるユダヤ人たちも文句を言えなかった。そして、神の御前に「アーメン」と誓わせられた。国の指導者がネヘミヤのようにすれば、その国民はどんなに良いだろうか。これは、神を恐る者だけができることなのだ。それは、どう生きるかということになる。ネヘミヤは富める者であったから、富むことが悪いとか富んではいけないという意味ではない。彼が富んでいなければ、この奇跡の改革はできなかっただろう。ただ、富める者が神を恐れなくなる時には、同胞を搾取することも、同胞の子供を奴隷にすることでもやってしまうということだ。ネヘミヤは、今日の聖句のように祈ることができた。このように祈れたら幸いだ。(サクマ)

 

6月9日(土)

彼らは皆、わたしたちの手が弱くなり、工事は完成しないだろうと言って、わたしたちに恐怖を与えている。神よ、今こそわたしの手を強くしてください。

ネヘミヤ6:9

 

神の働きをする者は、ネヘミヤの窮状を理解できるだろう。工事が完成に近づくと敵も必死になる。誹謗中傷も武力による脅しも功を奏することはなかったので、いよいよネヘミヤを亡き者にするしかなくなったのだ。そこで、謀略を巡らすことになる。このことがどんなに大きなストレスを生むか想像できるだろうか。信仰者が正しく生きることは、一番の力となる。それがなければ、神の働きはできない。そのような者には、悪魔は人間が一番弱い恐怖で攻撃してくる。人間の心が動揺すれば信仰も揺らぐと思っているのだ。それに対抗する方法が、祈りだった。長々と祈る必要はない。ネヘミヤはこんなに短く祈った。それで、十分だった。教会建築も建てるまで大変だが、それでも教会員は頑張ることができる。ところが、不思議なことに教会建築が完成した後に問題が起こってくる。建物を建てる大変さとは別に、キリストの体である霊的教会、つまり教会員を一致させ建てあげることこともまた大きな挑戦となるのだ。普通、教会堂が新しく建てば、人が増えると思うだろうが、実際には減る場合が結構あるのだ。私がまだ青年だった頃に所属していた教会が建て替え、新しく完成した。立派な250人席の会堂には人がまばらにしかいなかった。建て替えに反対の人たちとの争いがあり、多くの人が去って行った。しかし、ありがたいことに、そこから神様が霊的教会を建て直された。やがて教会には人があふれ、補助席をたくさん出さなければならなくなった。この間、残った教会員は弱そうに見えたかもしれないが、その人たちが信仰で忍耐し、新しい牧師が与えられ、教会は息を吹き返したのだった。さて、私たちはネヘミヤに倣って、神様を信じて祈りで勝利する者になりたい。(サクマ)

 

6月10日(日)

わたしは、兄弟のハナニと要塞の長ハナンヤにエルサレムの行政を託した。このハナンヤは誠実で、誰よりも神を畏れる人物だった。

ネヘミヤ7:2

 

いよいよ城壁が完成し、扉が付けられた。扉を閉めれば要塞となる。そして、一刻も早くに神殿が機能するようにネヘミヤは動いた。門衛は安全を守る守備のためにすぐにも必要だった。詠唱者とレビ人を任務につければ、神殿奉仕は正常に動き出すのだ。そして、行政者を選んだ。その基準は、「誠実で、だれよりも神を畏れる人物」であった。この頃、敵の内通者がまだまだいたので、本当に信頼できる人しか選ぶことができなかった。初代教会の最初の役員選出は、「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人」(使徒5:3)が条件だった。現代の教会も役員を選ぶなら同じで基準で良いだろう。ただ、別に役に選ばれなくても、神に仕え、誠実で、だれよりも神を畏れる人だ、と認められるような人になりたい。(サクマ)

 

6月11日(月)

今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。

ネヘミヤ8:10

 

8章は感動的な箇所です。一旦は国が滅ぼされ、バビロンに捕囚となり、全てを失ったユダヤ人たちが、神の憐れみにより、帰還したのです。そして、敵との戦いの末についに神殿と城壁を再興しました。エズラやネヘミヤには神を礼拝する民の国を実現しようとしていたのです。彼らは律法を学び、神を礼拝する民を整える事を目標としていました。第七の月の一日に、いよいよ理解できるすべての男女を集め、エズラが律法を朗読したのです。これらはたぶんモーセの五書の断片を集めたものだったかもしれません。そして、レビびとの律法の説明がありました。この集会は、レビ記23章24、25節のいわゆる「ラッパの祝日」と呼ばれた律法に則った事でした。この時の人々の感激は大きなものだった。彼らは泣いた。しかし、泣いてはいけない。「我らの主にささげられた聖なる日だ」から。十日には「贖罪の日」、十五日には「仮庵の祭り」が定められていて(レビ23:24~34参照)、安息と罪の赦しを祝う最も重要な祭りの月でした。ですから、悲しむのではなく、主を喜び祝うのです。このように現代でも主を喜ぶ礼拝は力となるのです。私たちが主を信じて生きるというのなら、主を喜ぶことは、あなたがたの力である、という真理を覚えておきましょう。事実、その通りなのです。(佐久間)

 

6月12日(火)

律法に立ち返るようにと、あなたは彼らに勧められたが、彼らは傲慢になり、御命令に耳を貸さず、あなたの法に背いた。これを守って命を得るはずであったが、彼らは背を向け、かたくなになり、聞き従おうとはしなかった。

ネヘミヤ9:29

 

イスラエルの歴史は、神への背きの歴史であった。どれほどの大きな恵みをいただいても、平和になれば傲慢になって、神を裏切ることの繰り返しだった。預言者も平気で殺し、忠告に耳を傾けることもなかった。その結果、自業自得で敵にひどい目にあうと苦しさから神に叫び、その度に救っていただいた。そして、律法を守るように示され、そうしておけば幸福に生きることができたのに、彼らはまたしても神に背を向けて偶像に心を向けるのだった。仮庵の祭りの後、イスラエルの民は悔い改めたのために集まった。レビびとが指導し、たぶんエズラが祈った。それは、イスラエルの歴史であり、罪を犯したことの悔い改めであり、神へ罪の赦しと救いの嘆願であった。律法への立ち返りは、神との正しい関係をどのように実現するかであり、神の民の考え方、生き方の明確なモノサシであった。それが、どうしても守れないというのだ。その事を罪と言っている。そこで、イエス・キリストが救済に来られ、人間の罪の問題を解決するために十字架の道を選ばれた。そして、復活され、昇天の時の約束の通りに、信仰により、キリストによる罪の贖いと清めを受けて、さらに約束の聖霊が降り、罪にキリストと共に十字架に死んだ者がイエスの復活と同じに新しい命に生き返るという福音が与えられた。自分の力で律法を守り義となろうとしたイスラエル人は、自分の力に頼ったので傲慢になり、失敗した。キリストを信じた人たちは、自分の力に頼らず、へりくだって、キリストにあって生きる道を選んだ。それは、神が義としてくださる信仰による義の道だった。具体的に聖霊が信仰者の内に宿り、神でなければできない愛の業が現れるようになった。それが律法を実現する方法だった。キリストが来られなかったら、こうした救いは未だ起こっていなかった。主の恵みに感謝して、その御名を讃美しよう。(サクマ)

 

6月13日(水)

これらすべてを顧みて、わたしたちはここに誓約して、書き留め、わたしたちの高官、レビ人、祭司の捺印を添える。

ネヘミヤ10:1

 

イスラエルの民は、ここで誓約をすることになった。聖書によく出てくる契約は神とその民との間で結ばれたが、人間の方で反抗し、破ることがしばしばだった。そこで、この時に彼らは、神に対して悔い改めが具体的になるように誓約をすることとなった。それは、律法を遵守する誓約であった。民の指導者が率先して誓約し、続いて理解できる者たちがすべてモーセによって授けられた神の律法に従って歩むことを誓約したのだった。そして、具体的な誓約の内容が七つ列挙されている。①雑婚の禁止、②安息日の遵守、③安息年の規定の遵守、④神殿での奉仕のための献げ物の規定、⑤祭壇の薪の奉納の規定、⑥地の産物の初物、および息子の長男、家畜の初子の献げ物規定、⑦十分の一の献げ物の規定。これらはキリスト教にとっても関わりがある。一番わかりやすのが十分の一献金だろう。「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」(2コリント9:7)。彼らは、こうして決意したのだが、人間的な意思の働きだけで果たしてうまく行くのだろうか。この疑問はさらに先に持ち越され次の章へと向かう。(サクマ)

 

6月14日(木)

民の長たちはエルサレムに住んでいた。ほかの民はくじを引き、十人のうち一人が聖なる都エルサレムに来て住み、残りの九人が他の町々にとどまるようにした。民は、進んでエルサレムに住むすべての人々を祝福した。

ネヘミヤ11:1、2

 

この当時、エルサレムは敵の攻撃の的であったために危険であった。それでも、礼拝を執行しなければならないし、守備のためにも誰かが住まなければならなかった。そのため、民の指導者がまず住むことになった、それだけでは足りないので、くじ引きで住む者を決めることになった。十分の一の確率でエルサレムへの移住者を決めたのだ。彼らは、常識的に考えれば困難を伴う危険で不利な条件であったがあえてエルサレムに住もうと従った。確かに、クリスチャンにもそれぞれに役割がある。ある者は、郷里を捨てて見ず知らずの土地に行って住まなければならないかもしれない。それも、クリスチャンが一人もいない所に派遣されることだってある。ジャングルの奥地に暮らす未開の裸族のために遣わされた夫婦がいた。そこで子供が生まれ、成人して彼も父の仕事を引き継いだ。二世代に渡る献身が福音を全ての人に伝えるようにとの主のご命令に従ってなされているのだ。その人と知り合って、話を聞かされて感心したものだが、クリスチャンにはそれぞれの持ち場があることを確信した。私には到底できないことなのに、彼は楽しそうに自分の働きを語るのだった。カウボーイハットを少し小さくしたような帽子を売っていた牧師がいた。彼は、マレーシアの田舎からやって来た留学生だったが、学資の足しにと売っていた。多分、彼の任地で私が働くことは難しかったはずだ。でも彼にとっては容易いことだった。誰でも、時には、不本意な所に置かれることだってあるだろうが、それが信仰の成長に欠かせないことであったと後で気がつくがあるのだ。神様は間違わない。自分の考え通りにいかなくても主はもっと良いことを用意していることを信じよう。大変だと思うときこそ、主がチャンスを与えてくださったと喜んでみよう。(サクマ)

 

6月15日(金)

エルサレムの城壁の奉献に際して、人々は、あらゆる所からレビ人を求め、エルサレムに来させて、感謝の祈りと、シンバルや竪琴や琴に合わせた歌をもって、奉献式と祝典を行おうとした。

ネヘミヤ12:27

 

12章は、城壁完成の奉献式と祝典の記録が書かれています。ネヘミヤの目的が全て達成されたのです。ですから、この章はネヘミヤ記のクライマックスでもあります。奉献式の記録から、古代のイスラエルでも音楽は重要だったことがわかります。神様に直接奉仕するレビ人が式典に合わせて集められます。エルサレムで常勤で働くレビ人と大きな祝典や祭典の時に集められ、普段はエルサレム近郊に村を作って生活している非常勤のレビ人がいたこともわかります。式は、二隊に分けられた聖歌隊が楽団と共に右回り、左回りに城壁の上を行進して始まりました。それは大変感動的なもので、神様の祝福と恵みを喜んだのです。それは感謝となり主への献げ物となり、さらに深い大きな喜びとなったのです。その喜びは、女も子供も全ての人々に広がり満たされたのです。そして、あまりにも喜びが溢れて遠くまで広がって行ったのです。彼らのこの日までの苦楽は信仰を成長させ、大いに報われたのです。そして、12章の終わりには、祝典が喜びのうちに終わり、いよいよ信仰生活が始まりました。この信仰生活が継続されることこそが大事なのです。神殿が正しく運営されていくために、人々は十分の一の献げ物の義務を果たし、祭司やレビ人が神殿奉仕に専念できるように仕組みを作ったのです。現代の教会も同じように、信仰生活を守り、教会や伝道を支え、主に忠実であることを第一にしているのです。なぜなら、信仰は喜びとなり、礼拝も献げ物も喜びとなるからです。それは主が生きておられるからです。信仰は必ず報われます。今日も神様の祝福があなたの上にありますように。(さくま)

 

6月16日(土)

あなたたちは安息日を汚すことによって、またしてもイスラエルに対する神の怒りを招こうとしている。

ネヘミヤ13:18

 

これはどういうことだろう。神殿を再興し、城壁も修復した、そして宗教改革もやった。彼らは律法を守り行うと約束したはずなのに、それなのにやすやすと罪を犯してしまうのはなぜだろう。エルサレムが敵によって攻め滅ぼされ、多くの者がバビロンに捕囚となった。それは神への罪が原因だった。そう学んだのではなかっただろうか。敵に脅かされ、苦労して城壁を建設していた時は、信仰に燃えていたのに、今、神殿で礼拝ができるようになったのに、それが日常になったら、あっという間に神の怒りを招いた同じことを始めたというのだ。敵は、霊的にはサタンだ。その敵に神殿の聖なる場所を提供してしまった。それは、教会の中にサタンの場所を与えたということと同じことだ。神殿奉仕者への給料が滞った。それは十分一の献げ物が疎かにされたからだ。生活ができないために彼らは自分の耕地へ逃げ帰ってしまった。これでは神殿が放置されてしまう。そして、安息日がエルサレムですら正しく守られなくなった。人間は罪深い。そして、ネヘミヤがエルサレムに戻ってきた。霊的にはネヘミヤは聖霊を象徴している。聖霊が来なければ、人間は義となれないことがよくわかる。サタンはあの手この手で攻撃をやめない。大祭司ですらサタンの手に落ちてしまうのだから、自分の力を過信しないことだ。そして、聖霊を求めて助けていただかなければ敵に打ち勝つことすら難しい。聖霊の働きを軽視してはいけない。聖霊の力によって勝利しよう。クリスチャンにとってネヘミヤの思いと行動を理解することは自分の信仰に役立つことなので考えてみよう。(サクマ)

 

6月17日(日)

キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。

ガラテヤ1:6

 

パウロも言うように、「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく」(7)、教会の中で大胆に語られている福音でないもののことです。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。」(4)。これが福音です。しかし、これでは私たちは何もしないでキリストだけが働いたことになって、それで救われることは正しくないと考えるのが人間なのです。少なくとも、この社会では子供の時から自分で努力することを教えられてきたのです。しかし、福音は、私たちが頑張るのではなく、キリストだけが犠牲を払って救ってくださるから、信じなさい、と言うのです。どうもパウロが言っている福音は、人間が知っている正しい考えとは違っているのです。人間的には福音を聞くと憤り、怒りが湧いてくるのです。だから、拒否し、信じないと頑張るのです。これがもっと、難行修行をしたり、善行を積んだり、律法を守り行うように、と言われるとなんとなく納得が行くのです。しかし、あまりにも簡単で安易に感じて、受け入れがたいのです。これは、罪を正しく理解していないからです。そして、自分のプライドを傷つけるからです。残念ながら、キリストの恵みを理解したはずのクリスチャンがやはり同じように失敗することがあるので、聖書に書かれているのます。罪とは自分の力で神に従えず、自己中心に物事を考えてしまうことです。パウロは、福音を知っている人が簡単に離れてしまったことにあきれたのです。そうならないために福音を理解しましょう。(佐久間)

 

6月18日(月)

人は律法の実行によってではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。

ガラテヤ2:16

 

これがキリスト教信仰です。ただ、信じるだけではダメだと言う人が必ず現れるのですが、それは信じるだけなど安易すぎると言うのです。だから、ちゃんとしなければいけないと頑張るわけです。でも、今日の聖句を読んでみると、「律法の実行によっては、だれ一人として義とされない」と書いてあるのです。それでも、反対する人は、信じていれば何をしてもいいのか、とかみつくわけです。実は、ここで焦点がずれてしまっています。私たちはクリスチャンになる時に、自分が罪人であることを認めたのです。その罪の問題を解決しないでは義となり得ないのです。罪人自身が何をしても罪人なので、自分で自分を義とすることができないのです。私たちを義とすることができるお方は、ただ一人イエス・キリストだけです。だから、イエス・キリストによって義としていただくのです。その方法がイエス・キリストへの信仰なのです。まず、ここを納得しなければ、先に進めません。あなたは、キリスト・イエスのゆえに神様があなたを義としてくださると信じますか。信じていると言うのなら、疑わないことです。すでに良いことがあなたのために始まっているのですから。(佐久間)

 

6月19日(火)

あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが、“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”で始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。

ガラテヤ3:2、3

 

リバイバルという言葉を聞くことがあると思います。これは、聖霊の力を失った者が聖霊を受けて覚醒することを意味しています。大勢の人の上に大雨のように聖霊が降るのですから、大変な騒ぎになります。そうしたことが歴史上、初代教会のペンテコステから現代まで続いています。個人的に聖霊を受けることを聖霊のバプテスマと言いますが、使徒言行録を読めば、初めからクリスチャンは全員、水のバプテスマと聖霊のバプテスマを受けていたことがわかります。しかも、その時、異言を語ったり、預言をしたりといった聖霊の賜物が伴っていました。彼らは、その聖霊の賜物を活用して伝道したため、短期間でキリスト教の福音が当時の世界に広がったのです。今日、教会に力がないという時には、聖霊が忘れられていることがあるのです。また、聖霊を受けていても、キリスト教会の内部でも現代でも聖霊のバプテスマが力を持ってあることを否定する傾向が強いのです。それでも、真理を求めて聖霊のバプテスマに行き着く人もいます。それで、大きな喜びを経験していながら、教会の無理解や聖霊に対する懐疑的な力に負けてしまうこともあります。それよりも深刻なことは、聖霊のバプテスマを受けていながら、いつの間にか人間的な考えになり、自分の力で義となろうとしてしまうことです。聖霊を受けた人は、サタンの攻撃を受けることになるので、誘惑に負けることが起こるかもしれません。それは、いつの間にか、気がついたら信仰が停滞していると不思議に思うかもしれません。いずれにしろ、信仰が重要なのです。人間の常識に縛られたり、いかにも理性的で正しそうに見える人間的な考えには注意しましょう。イエス・キリストに心を向け続けなければ、厳しい戦いになります。しかし、イエス・キリストに対する信仰は、確実に霊的成長と成果をいただけます。自分の感情に振り回されずに、聖霊に祈ってみましょう。パウロに呆れられないようにしたいですね。(佐久間)

 

6月19日(火)

あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが、“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”で始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。

ガラテヤ3:2、3

 

リバイバルという言葉を聞くことがあると思います。これは、聖霊の力を失った者が聖霊を受けて覚醒することを意味しています。大勢の人の上に大雨のように聖霊が降るのですから、大変な騒ぎになります。そうしたことが歴史上、初代教会のペンテコステから現代まで続いています。個人的に聖霊を受けることを聖霊のバプテスマと言いますが、使徒言行録を読めば、初めからクリスチャンは全員、水のバプテスマと聖霊のバプテスマを受けていたことがわかります。しかも、その時、異言を語ったり、預言をしたりといった聖霊の賜物が伴っていました。彼らは、その聖霊の賜物を活用して伝道したため、短期間でキリスト教の福音が当時の世界に広がったのです。今日、教会に力がないという時には、聖霊が忘れられていることがあるのです。また、聖霊を受けていても、キリスト教会の内部でも、癒しや奇跡のように現代でも聖霊のバプテスマが力を持って現れることを否定する傾向が強いのです。それでも、真理を求めて聖霊のバプテスマに行き着く人もいます。その結果、大きな喜びを経験していながら、教会の無理解や聖霊に対する懐疑的な力に負けてしまうこともあります。それよりも深刻なことは、聖霊のバプテスマを受けていながら、いつの間にか人間的な考えになり、自分の力で義となろうとしてしまうことです。聖霊を受けた人は、サタンの攻撃を受けることになるので、誘惑に負けることが起こるかもしれません。それは、いつの間にか、気がついたら信仰が停滞していると不思議に思うだけでサタンの攻撃だと気がつかないかもしれません。いずれにしろ、信仰が重要なのです。人間の常識に縛られたり、いかにも理性的で正しそうに見える人間的な考えには注意しましょう。聖書に書かれたことが基準です。イエス・キリストに心を向け続けなければ、厳しい戦いになります。しかし、イエス・キリストに対する信仰は、確実に霊的成長と成果をいただけます。自分の感情に振り回されずに、聖霊に祈ってみましょう。パウロに呆れられないようにしたいですね。(佐久間)

 

6月20日(水)

あなたがたが子であることは、神が「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。

ガラテヤ4:6

 

私たちはあまり実感していないかもしれませんが、クリスチャンになり、聖霊を送っていただき、神の子としていただいたのです。実感がないと思っているのは、自分で努力して変わったという経験がないからです。もし何か宗教的努力をしていて自分を変えようとしていたなら、それは見当違いなことをしているのです。神様の力を侮ってはなりません。神様はあなたが汚れていようと、罪深いことをしてきたとしても、福音を聞いてすぐに悔い改め、イエス・キリストを信じたなら、キリストの故に救ってくださるのです。そのことを私たちは信じています。だからと言って、いつまでも以前のまま肉の人でいいというわけではありません。信仰による義を深く理解する必要があります。神様がおっしゃっていることをことごとく信じることが大切です。聖書を読む理由はそこにあります。それでも、何かしら神様が自分を義とすることを実感したいと思うのも理解できます。それが、実は聖霊を人の内側に住まわせることだったのです。それは、御子の霊なので、自分の内にイエス様の命が宿ったようです。それで、父よ、と呼ぶ声が内側から出てくるのです。これほどの大きな奇跡はありませんから、そのことを早く実感する必要があります。ガラテヤの人たちは、聖霊のバプテスマは受けたのですが、その後で権威ある人たちがきて、律法を守って義となるように説得されると、神の約束を信じることを忘れたのです。この手が人間を誘惑するには効果があるとサタンは学び、今も同じ方法でクリスチャンを攻撃しています。聖霊のバプテスマは必要不可欠ですが、それだけでは不十分なのです。本人の信仰が重要なのです。信じることを軽んじないことです。イエス・キリストの助けはいつでもありますから、信じることをもっと大切に考えておきましょう。(さくま)

 

6月21日(木)

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。

ガラテヤ5:22

 

クリスチャンが救われ、キリストのゆえに自由にされて、その自由をどう使うのかが聖書に示されています。「この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」(13)とあります。自由意志が保証されていることがここでもわかります。その自由を用いて「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」(16)と書いてあるのです。そこで、クリスチャンは聖霊の導きに従う意思を示すことです。わかりやすくいえば、祈ることです。聖霊に対して無頓着では、肉の欲望を満足させようとするサタンの誘惑に勝つことは容易ではありません。聖霊を信じ、意識し、聖霊の働きに協力し、何があっても聖霊が自分のために働いてくださることを信頼するのです。聖霊が信仰生活を導いておられることは明らかなのですが、見ようとしなければ気がつきません。聖霊は敵とも戦って守ってくださいます。そして、一緒に生きていることがわかれば、神様に対する喜びも増し加わります。今までとは違った見方ができるようになり、以前の「自分自身の欲望に引かれ、そそのかされて、誘惑に陥る」(ヤコブ1:14)という悪循環を断ち切ることができるのです。そのために、自分の内に聖霊がいてくださることを信じていると意識してみましょう。讃美し、感謝の祈りをささげるのです。そして、聖霊の導きに従うことです。きっと、あなたは聖霊が導いてくださることを知るでしょう。その時、聖霊に服従することができるように祈っておくと良いでしょう。神の国に生きることがきっとわかるようになります。そして、気がつくと、聖霊の実が実っていることを知るようになるでしょう。キリストの品性が自分を通して現れるようになるからです。やはり、神様が恵みで義としてくださるということです。(さくま)

 

6月22日(金)

自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。

ガラテヤ6:8、9

 

イエス様を信じることが私たちを良く変えてきました。失敗することはあっても、イエス様はそれを教訓にしてくださり、学ぶ力を与えてくださいます。自分の力を誇れば、すぐに試練にさらされて、高慢が砕かれます。そのような時でも信仰によって乗り越えるようにと導いてくださいます。そこで、私たちは「たゆまず善を行いましょう」とのお勧めに励まされてきたのです。クリスチャンになる前にはまさに肉に蒔いていたので、刈り取るものは悪いものでした。そのままであれば、きっと滅んでいたに違いありません。しかし、イエス様が探しにきてくださって、「滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ」(詩篇40:3)てくださり、キリストという岩の上に立たせてくださったのです。だから、救われてクリスチャンになった後には、霊に蒔く者として生きたいのです。肉に蒔くとは、結局自滅してしまうようなことを考えたり、行動したりすることです。霊に蒔くとは、聖書に一致した考えや行動をすることです。ここでは、善を行うことと覚えておけば簡単ですね。この世の損得や自分の欲望を満足させることは肉に蒔くことなので悪い結果を刈り取ります。たとえ他人から認められなくても、善を行い続ければ、大きな報いを神様からいただけます。(さくま)

 

6月23日(土)

救う者たちがシオンの山に上って、エサウの山を裁く。こうして王国は主のものとなる。

オバデヤ21

 

オバデヤ書はあまり馴染みがないかもしれません。中心主題は、エドムという王国です。今のヨルダン王国の一部が領土でした。ヘブライ人のパレスチ定住の少し前、紀元前1300年頃に定住したようです。世界遺産の好きな人は、ペトラ遺跡というのをご存知だと思いますが、その辺りに首都があった可能性があります。イスラエルとエドムには初期から緊張状態がありました。特にエルサレムとユダの陥落(BC587-6)後の数十年の出来事がオバデヤ書に関係していると想定できます。エドムはユダの陥落、捕囚でその地を占領し、生き残りの人々に残忍な行為を加えたのです。その行為に対する審判が本文となっているようです。最後の21節で、エルサレム、そしてイスラエルの主による回復が預言されて閉じられますが、人類の歴史の支配者は主であり、その最後の審判によりこの世は終わり神の国へと移ることをも予見しているようです。イエス・キリストの到来により、神の国の宣言がありました。今、私たちはキリストの教会で神の国を待ち望んでいるのです。(佐久間)

 

6月24日(日)

 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」

創世記1:26

 

創世記1章26節以下の人間が神の像であることを語っているような別の聖書箇所は詩篇8篇に見られます。興味深いことは、8篇はヤハウェに呼びかけているのに「エローヒームより僅かに劣るものとして人を造り」(新共同訳6節)となっています。このことは人間がヤハウェではなく、「天使」に結びつけて神の像と言っていることを意味しています。つまり、「我々」という複数形の意味は、人間を直接神に結びつけてしまうことを防ぐためなのです。神の周りには神的な存在として聖天使たちが取り巻いている、その神的な存在の群れと一緒におられる神が我々という複数形の中に隠れている、これは旧約聖書の中に見られることです。私たちが覚えておきたいことは、神が人間を創造された時、人間の本質が神の似姿として造られたということです。「エローヒーム」を古代のイスラエル人は、特に「賢明さ」と「善良さ」という言葉で表現したことから、私たちが本質的にこの賢明さと善良さを持っている存在であることを意識していたいのです。

 

6月25日(月)

ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。

創世記2:17

 

 

善悪の知識は、魔力と呪文に関する知識を意味すると考えられて来ました。実際、バビロニアの宗教にはよく見られました。人間が自分を取り巻く敵や味方を魔術や呪文でコントロールしようとしていたのです。こうしたことは、日本も含めて古くから宗教に見られるものでした。ただ、旧約聖書ではこれらを厳しく禁じています。ヘブル語から考えて行くと、「善悪」とは、知識の全体のことなのです。人間は神のように知識の全てを知る者ではありません。限界性があるのです。そのために、神の権威に従順に従うことを選べる被造物であるということです。ところが「全ての知識を知っている」人間になろうと独力でそれを行うこともできるのです。それは、神から独立して生きることを主張することです。当然、彼には責任が伴うのです。(佐久間)

 

6月26日(火)

女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。

創世記3:6

 

テレビを見ると女性向けに美味しいグルメ特集がいつでも出て来ます。これは、創世記の昔から始まったことなのかと思わず納得してしまいます。さらに、「目を引き付け」は今流に言えば、「インスタ映え」となって、おいしそうなものを写真に撮る女性の姿が思い浮かびます。「賢くなるように唆していた」というのがアダムではなく、エバに対してのものであることは興味深いことです。もし、男をそそのかすのなら、「強くなる」「たくましくなる」というような言葉が並ぶかもしれません。少なくともエバにとって「賢くなる」ことは誘惑になったというのです。勿論ここでは、知識と関係して、「全てを知りたい」ということなのでしょう。それで、詮索好き、というあまり芳しくないものに気をつけなければならなくなります。さらに、今流行りの試食の列に並んだ奥さんがご主人の分も取って渡している姿を見ると、「彼も食べた」という場面を思い出してしまうのです。創世記には、男女の原型が映し出されているのですね。(佐久間)

 

6月27日(水)

カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍。

創世記4:24

 

毎日のように殺人事件がニュースとなり、テレビドラマでは簡単に人殺しが起こる。私たちは人殺しに慣れてしまったのだろうか。創世記の四章は、カインとアベルの物語か書かれている。人類最初の殺人事件だ。しかも、兄が弟を殺すという悲惨なものだった。弟は兄に対して何か悪いことをしただろうか。弟がしたことは、神に対して正しい心で犠牲を献げたことだった。それに対して兄は、明らかに正しい心で神に献げ物をしていなかった。兄弟それぞれの神との関係が彼らに緊張を引き起こした。少なくとも、兄は異常な恨みを弟に対して持った。それが、弟を殺す原因となった。兄は神に問われて、「知りません。私は弟の番人でしょうか。」と答えた。神に自分の罪を隠すことなどできないのに、人は自分の罪を素直に認めることができない。そして、彼は罪人が繰り返し語ってきた言葉を二つ言った。弟がどこにいるかを「知らない」と言った。隣人に対する無関心、無責任、無関係を表す言葉だ。キリストは新しい掟として、「互いに愛し合え」と言われた。この掟の正反対が「知らない」という言葉に表現されている。そして、もう一つは、愛し合うべき相手を、その人の番人か?と言ったことだ。カインの言葉はある意味正しい。私たちは、主イエスの掟を守るために、相手のことを気遣い、いつでも大丈夫かと心配するのだ。彼あるいは彼女がどうしているかと心を尽くしているべきなのだ。ただ、隣人の自由を損なわないので番人とはいえないだろう。しかし、レメクとは何者だろう。カインが弟殺しの無法者であっても、七倍の復讐という威嚇によって守られたのだが、レメクはもっと悪い者で、自分のためには些細なことでも七十七倍の復讐をしようとする者だった。人の罪はエスカレートしていくものなのだろう。しかし、イエスは「七の七十倍までも赦しなさい」と命じられた。イエスに出会った者、その名を信じた者は、このことを忘れてはいけない。罪はキリストによって終わらせることができるのだから。(サクマ)

 

 6月28日(木)

エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。

創世記5:24

 

5章はアダムの系図です。異常に長命であることが特徴です。その中でエノクは特異な存在です。「エノクは365年生き」て、神が取られたのでいなくなった、というのです。「取られた」という同じ語は、列王記下2:1、10で出てきます。それはエリアが生きたまま天にあげられる話の中で出てきます。そこで、生きたまま天にあげられた人としてエノクとエリアが記録されているのです。エリアは大預言者としての特別な働きから理解できます。そして、エノクです。彼が生きたまま天にあげられた理由は、「神と共に歩」んだからというのです。これこそが、私たちが知りたいことです。信仰者がどのように生きたら、死ぬこともなく天にあげられるのか、そのような生活とはどのようなものだったのか、知りたくなります。ただ、大きなヒントはここにあります。「神と共に歩み」という言葉にです。私たちはどれほど神と共に歩むことを意識しているでしょう。自分の忙しい生活の中でどれだけの時間、神と共に歩んでいると言えるでしょう。ある社会的にエリートの求道者の男性が、いよいよバプテスマを受けるかどうかという時に、安息日を守って礼拝することができるのかという最後の問いに引っかかってしまいました。彼は「定年を迎えて仕事をしなくてもよくなれば時間ができるから、そうなれば安息日を守る」と言ったのです。その時の牧師は、理事会にかけてなんとかバプテスマを受けさせようとしたのですが、理事会は「ノー」と言ったのです。それは、その教会が安息日を守る教会だったからです。私たちがもしエノクに倣う者となりたいと願っているのなら、仕事も学校もいかなるものも神と共に歩むことのさまたげにはならないということです。神は願い事をかなえる存在と思っている人もいます。しかし、罪と死と悪魔に打ち勝ち、私たちをそれらから救い出す神として知っている人には、自分を無条件に愛してくださる神として関係ができているのです。ですから、この世のいかなるものも神に優先するものはありません。あなたが神と共に歩むことを願うなら、神を愛し、神に近づき、神を求めなさい。それがどんなものであるかは体験するだけです。あなたは恵まれているのです。(佐久間)

 

6月29日(金)

その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。

創世記6:9

 

人の悪が地上に蔓延し、人々は常に悪いことばかり思い計っていた。そして、とうとう神は地上から人間を一掃するしかないと心を痛められた。そして、一度人間は滅ぼされたというのだ。ところがここに一人の無垢な人が登場する。それがノアだった。終末はノアの時代と同じようになることがイエスによって語られている。そして、世の中が恐ろしいまでに悪くなっていることに世界中の人々が苦しんでいる。間も無くこの世界は神によって裁かれ、恐ろしい破滅がくるだろう。その時に、多くの人々が恐怖で気絶すると言われている。しかし、それほどの悪が世を支配しても、ノアのような人は残るのだ。ノアは「無垢」と言われているが、同時に「神と共に歩んだ」とあり、エノクのことを思い出す。エノクも神と共に歩んだのだ。我々はどうだろう。無罪という意味での無垢では当然ないだろう。しかし、この世に流されない神に従順な生き方ができた人であったろう。私は、信者には、「いつでも神を第一にするように」と語る。それが安全で幸せに生きる方法であることを知っているからだ。そばに誰もいなくても人の物を盗んだり、悪を働くことをしない、という人は結構いるだろう。しかし、自分を傷つけ苦しめる者に復讐しない、いやそれどころか赦すことができる人は少ないかもしれない。これは程度にもよるが、何事にも忍耐の限度があるのだから、高潔だからという理由ではやはり赦せないものだ。ところがキリストが赦せと言えば赦す人が出てくるのだ。どんなに苦しいことだろう。しかし、キリストの命令を実行する人たちは、自我には縛られていない自由な人と言える。それだけでなく、心の傷が癒されている場合があるのだ。赦す事によってもうその事で苦しむことから解放されてしまうからだ。それよりも、神が人を見るように相手の心の様子まで察してしまうことがある。神と共に歩むとはそのように神への従順によってもたらされるものだ。神を第一にすれば、多くの悪や罠から守られる。心の不安すら消え去る。主を喜ぶことはたやすくなり、健康も健やかになる。そして、何よりも最後の神の裁きに耐えることができるのだ。(サクマ)

 

6月30日(土)

主はノアに言われた。「さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている。

創世記7:1

 

 

信仰を持っていて何になるのかと思うことがあるかもしれません。しかし、聖書を読むとその信仰が人を救うことを繰り返し見せられます。ある人は、神に頼らず自分の力で人生を生きたいと考えます。もちろん、信仰者も一生懸命に生きなければなりませんから、神に依存して何もしないというわけではありません。最善を尽くす誠実さがあるはずです。それでも、試みの時があって、倒れそうになることだってあるでしょう。クリスチャンはすぐに神に祈り頼ります。ところが神に招かれていながら、窮地に立たされても自分の力で頑張らなければと、神には頼ろうとしない人もいるのです。それがどんなに辛いことかと心配になります。一方でノアという人がいます。ノアが一体どうやって神に認められたのか気になりませんか。この頃、地球ではまだ雨が降ったことがなかったのです。そのような状況で、雨が降ると言われても、誰も信じなかったのです。ただノアを除いて。自分の考えを絶対とするのか、神のみ言葉を絶対とするのか、この違いが決定的になりました。私たちは神に従うと認められたいのですが、自分の考えやプライドが邪魔して、神に従うことができなくなるかもしれないのです。この一点を越えることができるかどうか、試されていると考えて信仰生活を送りたいものです。(佐久間)