2018年7月ディボーション

7月1日(日)

主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。

創世記8:21

 

人間の罪深さはどれほどのものか、クリスチャンは知っているはずだ。罪の報いが破滅であり死であると納得してしまうだろう。毎日聞かされる悪いニュースにうんざりしているかもしれない。罪人の問題がいかに深刻であるか想像もつかない。だから、ノアの時代に罪に満たされた世界が洪水で滅ぼされることは当然のように思えるのだ。しかし、神はノアとその家族からまた新しく人間の歴史を始めたのだ。ノアが無垢で神に従順だったからこその出来事だが、神の慈しみ深さがあってのことだった。そして、罪人の洗礼を思い起こす。罪びとが水を潜って死に、その水をくぐって出てきた人はすでに新しい人で人生が新しく始まることを象徴的に描いているように感じる。もっとも、「人が心に思うことは、幼いときから悪い」と書かれている通り、洪水の後に始まった新しい人間の歴史は罪と無縁ではなく、完全に罪の問題が解決するには最後の神の裁きを待たなければならなかった。しかし、その前に救い主イエス・キリストが罪人を贖うために来られた。そして、やはり洗礼が出てくるのだ。一人でも多くの人がキリストを信じて洗礼を受けることができるように祈って行こう。(サクマ)

 

7月2日(月)

動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするが良い。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。

創世記9:3

 

人間の食べ物は、最初は菜食だった(1:29参照)。しかし、人間の罪が看過できないほどに堕落し不法が満ちて、ついに洪水で滅ぼされる事になった。そして生き残ったノアとその家族から新しく人間の生が始まった。それは、食べ物が変わったことからその変化が書かれているのは興味深い。人間の食べ物が変わるということは大きな変化だから。菜食でダメで、肉食になるが果たしてその結果は、というわけだ。食べ物が人間に及ぼす影響が人格形成にまで影響していることは指摘されているが、しかし、罪の問題で言えばやはり人間は堕落したのだ。もし、食べ物を変えて罪の問題を克服できていればどんなによかっただろう。さらに、「肉は命である血を含んだまま食べてはならない」とあるので、ユダヤ教やイスラム教の人たちは血抜きの肉を今でも食べている。これは、動物を食べるために殺すことを認めているが、むやみに命を取るべきではないことを意味している。たとえ動物であったとしても、命の尊厳は守られるべきで、いい加減に扱えるようなことではないのだ。神の創造された良い世界は、罪の侵入によってすっかり変わってしまったのである。(サクマ)

 

7月3日(火)

ノアの息子、セム、ハム、ヤフェトの系図は次のとおりである。洪水の後、彼らに息子が生まれた。

創世記10:1

 

洪水の後、ノアという一人の人から人間は増え広がった。あまりに大昔の話なので、ここに出てくる系図の人物の全てのことがわかっているわけではないが歴代誌上1:4~23に出てくる短縮形の系図と対照する必要がある。これらは、民族表と言った方がよくわかる。始まりはノアの三人の息子だ。セム、ハム、ヤフェトだが、イスラエルはセムの子孫から現れる。そして、彼らの子孫が「産めよ、増えよ、地に満ちよ」との主の御言葉の通りになったわけだ。そして、現在にまで至ることを考えると私たちはノアの子孫であると言える事になる。一旦は滅ぼされそうになった人間が、ノアによって敗者復活戦のように始まり、世界に満ちるまでになった。その人間が何をしてきたのか、そしてイエス・キリストが預言したように、終末の徴がノアの洪水の時のようになる、ということから私たちは壮大な歴史の最後の時に立っていることは間違いないだろう。いつ終わりが来ても良いように備えておきたい。(サクマ)

 

7月4日(水)

こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

創世記11:9

 

11章のバベルの塔の箇所を読んで、世界に多言語が存在する理由を知るわけですが、もともと一つの言語であったことを考えると、外国語を勉強したくない人にとっては残念な話でしかありません。さて、この箇所は実は色々なことを考えさせる箇所でもあります。それだけ、古い神話のように感じさせる箇所だからかもしれません。まず、高い塔を建てる話が出てきますから、高度の土木技術が発達していたと考えれば、専門用語が出てきたことが考えられます。誰にでもわかる日常語ではなく、専門家同士にしか通じない言葉が出来てきた、と考えれば、言葉が通じない説明にもなるわけです。さらに、バベルです。これは明らかにバビロンを背景とした物語なのです。人間が増え広がって行く過程で、神に対抗し、いや神から離れて人間中心の強大な力を求める強烈な欲求が描かれているのです。しかし、それは最後に破綻し、失敗する事になっています。さて、同じ国民でも方言があって、言葉が通じず混乱していたのですが現代はどうでしょう。情報化社会では、誰もが一つの共通語を語り、神を忘れ、強力な人間の力を誇示しようと始まるのです。しかし、バベルの塔の最後は失敗に終わりました。神への畏れや畏敬が必要なことなのに、その反対に進む時、人間は滅びへと向かう事になるのです。しかし、この後にアブラムが登場します。ここに、希望の光が灯ります。天にまで届く塔を建てて神を恐れなくてもいいように、自分の欲望のままに、したいように生きるための大きな企てが人間の救いとはならなかったのですが、小さな一人の男アブラムから、人間の救いの計画は動き出します。この章は、そのためのプロローグなのです。(佐久間)

 

7月5日(木)

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。・・・」 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。

創世記12:1、4

 

いよいよアブラハム物語が始まります。クリスチャンは、アブラハムを信仰の父と呼びます。その理由は、アブラハム物語の中にあります。その始まり部分が今日の聖句です。主がアブラムに語り、その主の言葉に従って旅立ったのが75歳の時です。今ならとうに定年となり、のんびり老後の生活を送っている歳です。運転免許証を返納するかどうか迷っているような年齢になって、住み慣れた安住の地から未知の世界へと旅立ったのです。確かに後のモーセも80歳になって主に召されて出エジプトの歴史に残る大事業をはじめました。日本は高齢化社会になってしまい、少子化もあって、高齢者が多いいびつな人口ピラミッドになっています。地方では、若い人が少ないために定年が撤廃されて、本人が辞めると言わない限り、80歳になっても働いている会社も出てきました。いずれ東京もそういう時がくるでしょう。興味深いのはサライです。飢饉でエジプトに避難する時、アブラムの心配は奥さんが美しい事でした。その心配は的中するのですが、この時のサライの年齢は70歳と思われます。どうでしょう。70歳で美しくて心配だというのは。某国民的美人女優のような事なのでしょうか。サライが高級化粧品を使ったりエステに通っていたということはあり得ません。でも、私たちは、なんとなく高齢になると元気がなくなりがちですが、聖書は75歳で外国へ引っ越しし、80歳で歴史的大事業を始め、70歳になっても美して王様にプロポーズされたりするのです。皆さんは、彼らの歳になった時に、ようやく主の御用を任される年齢になったと思えるでしょうか。年金のことばかり気にしていると、せっかくのチャンスを逃す事になりかねません。天国に帰ったときに、アブラハムやサライやモーセにまじって、あなたは何を話すでしょう。アブラハムが100歳の時に子供をもうけました、と自慢したら、私は100歳まで生きて再臨を迎えました。主が雲に乗って来られたお姿をちゃんと見ました、と言えたらいいですね。(さくま)

 

7月6日(金)

アブラムはカナン地方に住み、ロトは低地の町々に住んだが、彼はソドムまで天幕を移した。ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた。

創世記13:12、13

 

そもそもの発端は、アブラムとロトの羊や家畜が多くて同じ土地では共存できないことが牧童たちの争いの原因になった。賢明なアブラムの提言でロトと別れる事になった。そして、ロトに好きな場所を選ばせたのだ。その結果が今日の聖句という事になる。その当時は、まだ死海は存在していなかったようだ。そして、ロトの選んだ場所は低地一体で、見るからに良い土地だったのだ。さて、この物語からどんな教訓を得ることができるだろう。こうした物語では、主から召命を受けた人の信仰を学ぶ事になっているので、当然、アブラムの言動に注意を向けるべきだ。ロトの選択は、いかにも人間的なものだった。見た感じがいかにも良い場所だった。ところがアブラムは、どこでも良いと思っていたようだ。ロトとは正反対に進むことを決めていたからだ。これは主を信じる者の特徴でもある。主がアブラムを祝福してくださっているので、人間的に考えなくても良いというわけだ。事実、その後主はアブラムに語り、「さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」と言われた。だから、ここに信仰があることを覚えたい。それは、先に主の約束があって、つまり保証があってからロトに選ばせたわけではない。ロトは当然良い土地を選び、アブラムはその反対の土地を選ばなければならない。しかし、主を信じていると、それ以上の良いことが待っている事になる。自分の目に良いと思って選んだ、ロトは、さらに最悪な町へと自ら移動していく事になった。そこでの結末は最悪なものになるが、まだ気が付いていない。神の祝福は、アブラムにとっては不利と思われた選択の中にあった。信仰を理解するのはやはり難しそうに見える。そして、争いの解決方法として、先に相手に選ばせる、という知恵があることも覚えておきたい。「損して得取れ」と日本でも格言があるが、信仰者は、そもそも損得で考えていないのだ。主の御心を求めているだけだ。それは主の召命の内容になっている。その召命にいかに応えるかということが信仰なのだ。アブラムの物語からさらに学んでいこう。(サクマ)

 

7月7日(土)

アブラムは、親族の者が捕虜になったと聞いて、彼の家で生まれた奴隷で、訓練を受けた者三百十八人を召集し、ダンまで追跡した。

創世記14:14

 

ゲマトリア(数値換算)と聞いてわかる人もいると思いますが、旧約聖書が書かれた原語がヘブル語でそのアルファベットには数字の意味を持たせていたため、旧約聖書は数字に置き換えることができるのです。そこに何がしかの霊的な意味が隠されていることが指摘されています。今日の聖句にも数字が出てきます。318です。親戚のロトたちを救出するために、318人の私兵たちを引き連れてアブラムは見事親戚たちを助けることができました。この時の私兵の長がエリエゼルといいます。彼の話はこの後出てきます。エリエゼルのヘブル語の意味は、「神は助け主」です。このエリエゼルのヘブル語のゲマトリアがなんと318なのです。つまりアブラムが318人を連れて行った、ということの中に「神は助け主」という信仰が隠されていたのです。だからアブラムは、神が助けてくださったことを証しするために、ソドムの王から戦利品を何一つ受け取らなかったのです。あなたにも神の助けが必要な時があるでしょう。その時には318という数字を思い出してください。きっと、あなたを主が助けてくださいます。(さくま)

 

7月7日(土)

アブラムは、親族の者が捕虜になったと聞いて、彼の家で生まれた奴隷で、訓練を受けた者三百十八人を召集し、ダンまで追跡した。

創世記14:14

 

ゲマトリア(数値換算)と聞いてわかる人もいると思いますが、旧約聖書が書かれた原語がヘブル語でそのアルファベットには数字の意味を持たせていたため、旧約聖書は数字に置き換えることができるのです。そこに何がしかの霊的な意味が隠されていることが指摘されています。今日の聖句にも数字が出てきます。318です。親戚のロトたちを救出するために、318人の私兵たちを引き連れてアブラムは見事親戚たちを助けることができました。この時の私兵の長がエリエゼルといいます。彼の話はこの後出てきます。エリエゼルのヘブル語の意味は、「神は助け主」です。このエリエゼルのヘブル語のゲマトリアがなんと318なのです。つまりアブラムが318人を連れて行った、ということの中に「神は助け主」という信仰が隠されていたのです。だからアブラムは、神が助けてくださったことを証しするために、ソドムの王から戦利品を何一つ受け取らなかったのです。あなたにも神の助けが必要な時があるでしょう。その時には318という数字を思い出してください。きっと、あなたを主が助けてくださいます。(さくま)

 

7月8日(日)

「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」

創世記15:1

 

生きていて大変だと思うことはしょっちゅうあるでしょう。もう逃げ出したい、とか不安に押しつぶされそうだ、という時です。それでも、前に進まなければならない時、あなたの名を呼んで、「恐れるな、◯◯よ。わたしはあなたの盾である」と神様に言われたらどうでしょう。クリスチャンは、このアブラムのように祝福されているのです。ですから、人間的に考え過ぎてはダメです。確かに信仰が試されていると感じるかもしれません。でも、よく考えてみてください。「あなた一人で頑張れ、わたしは天から見ているから」と言われているわけではありません。神様があなたの盾になるとおっしゃっているのですよ。これほど心強いことがあるでしょうか。あなたは、「これは神様がアブラムに言った言葉じゃないか」と思っているのなら、聖書をもっと読んだ方がいいと思います。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。・・・あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」(ガラテヤ3:26、29)。ですから、あなたはこのみ言葉をご自分に当てはめて、信仰を大いに鼓舞してください。繰り返しますが、あなたはすでにキリストのゆえに祝福されています。目の前に何が起こっても、祝福されていることに変わりはありません。あなたが信仰で問題を解決しようとする時、あなたの受ける報いは非常に大きいのです。主を讃美しましょう。(さくま)

 

7月9日(月)

サライはアブラムに言った。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところ入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」 アブラムは、サライの願いを聞き入れた。

創世記16:2

 

この時代、子供ができないことがどんなに女性にとって大変だったかしれません。現代とは様子が随分違うのです。女性は収入源が無く、夫に食べさせてもらうほかには生きるすべがありません。夫は自分の財産が自分の子供に継承されて行くことを願います。そのためには跡取りとなる男子が欲しかったのです。当然、妻には子を産むことが至上命令となるわけです。家制度が確立していた日本でも同じことがつい最近まで続いていました。さて、神はアブラムに子孫が与えられることを約束していました。そこで、サライは子供が産めないのために自分の奴隷ハガルを側妻としようとします。奴隷の産んだ子をサライの子にすることが当時は可能だったのです。ところが、いざ、ハガルが妊娠すると女主人への態度が急変します。これがこの章の物語になっています。問題は、神の約束を信じることがサライにもアブラムにも難しかったことです。約束の子を自らの考えと行動で実現しようとしたことの愚かさが教訓として残ります。神を信じるというのはに人間の常識に縛られないことです。神にできないことはないからです。そして、神には時があるということです。その神の時を待つことも信仰なのです。自分の都合や考え通りに神を使うというようなことは勿論できません。サライは、もう少し待てば自分で男の子を産むことができたのですが、結果を見るまでは人間的に不可能なことだったのですから、サライが思い切った行動に出たことも同情できます。私たちも失敗することがあるかもしれませんが、神様の約束は変わりません。あなたは祝福されていることを忘れないでください。(佐久間)

 

7月10日(火)

わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。

創世記17:7

 

この章で、神はアブラムと契約を立てる。それは「永遠の契約」だ。しかも、アブラムだけではなく「後に続く子孫」との間にも契約を立てるというものだった。まだ見ぬ未来に及ぶ永遠の契約なのだ。契約は神が立てる関係のことだった。「あなたとあなたの子孫の神となる」とある通りなのだ。神の言葉に従順に従う、神が語り、アブラムはそれに応答する。まず、それは割礼だった。この契約の大きな意味は、1節にある。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」。「全能の神」はヘブル語で、エル・シャダイである。私たちが信仰においてアブラハムの子孫であるとするなら、間違うことのない愛の神に愛を持って従順に従うこと、それは神の御前に生きることを意味する。その結果が全き者となるのだ。それを私たちは忘れてはいけない。あなたがどんなに弱くても、主はあなたを聖なる者とし、義とし、全き者とすることができるのだ。そのことを信頼し服従することを信仰によって生きると言うのだ。(サクマ)

 

7月11日(水)

正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。

創世記18:25

 

これはソドムの物語の中の一節です。主にアブラハムが語り出します。内容は、罪を犯す者のせいで、潔白な者も一緒に滅ぼされなければならないのか、というものです。アブラハムは、神は全世界を裁くお方として理解しています。そして、その神が罪を犯す者が多いからと潔白な者までも滅ぼすべきではないのではないか、と交渉が始まります。それは、50人からはじまり、最後は10人潔白な者がいれば滅ぼさないとなりました。聖書にはレムナントという言葉が出てきますが、「残りの者」という意味です。この残りの者が持つ意味は大きいのです。数は少なくても、残りの者の故に滅びを免れることがあるからです。再臨の時にも、生き残る聖徒たちが生きたまま天にあげられることが預言されています。この聖徒たちもレムナントなのです。主が残しておく者たちです。あなたも、このレムナントとして召された者であると理解していてください。(佐久間)

 

7月12日(木)

主は言われた。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」・・・ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。

創世記19:17、26

 

ソドムとゴモラの滅亡が描かれている箇所です。日本人にとっては、自然災害の度に聞くような言葉なので、つい連想が走ります。そして、実感できる言葉なのです。今年も大雨で災害が広範囲におよび、死者も大勢でました。恐ろしいことですし、悲しみが大きいです。この創世記の物語は、自然災害ではなく、罪に対する罰であるというところが違います。ロトの妻が塩の柱になったことは、「後ろを振り返ってはいけない」という主の命令に不服従であることが結果的に滅びを招く事を教訓的に教えています。ロトもそうでしたが、簡単には町を捨てて逃げる事ができませんでした。御使に連れ出されて初めて町を出ました。このことは、アブラハムの生き方と対照的です。アブラハムは主と共に歩もうとしていたのでこの世の繁栄や快楽とは隔たった生き方をしていたのですが、ロトはそのこの世の繁栄と快楽の象徴であったソドムによそ者として生きていたのです。クリスチャンがこの世でよそ者としていきているのに似ています。よそ者というのは、神の国に生きているはずだからこの世とは一線を画しているという意味です。でも、それ以上の神の国に生きていたのがアブラハムという事なのです。信仰で生きるという事は、アブラハムのように生きる事を意味しています。この世に多くの未練を残すと肉が出てくるのでろくなことになりません。ロトの妻は、主のみ言葉に従うということがよくわかっていなかったのです。クリスチャンは、そのため、ロトの妻が塩の柱になった事を教訓のように教会で度々語られ、振り返るような信仰にならないようにと自らに言い聞かせているのです。(佐久間)

 

7月13日(金)

アブラハムは答えた。「この土地には、神を畏れることが全くないので、わたしは妻のゆえに殺されると思ったのです。

創世記20:11

 

アブラハムの答えは、興味深い。現代の日本人は、「神を畏れることが全くない」と言えるだろうか。自分は無神論者だと公然と言う人も少なからずいることはわかるだろう。しかし、テレビの旅番組などで神社仏閣が出てくると、出演者はできるだけ正式に拝礼しようとするのである。そして、日本中に数多くのお寺や神社があっても、それらがどんどん潰れて廃れたという話は聞かない。面白いのは観光地と言われるところには必ず神社仏閣があるし、観光客は喜んで自ら訪ねるのである。さて、神の存在を信じないということは、美しい人妻を見て、その夫を殺して自分のものにしようとするような人のことを言っているのだ。だから、外国で神を信じないと平然と言えば、危険人物だと認識されてしまうわけだ。日本に外国人が来てみたら、治安の良さと宗教施設の多さに気がつく。それは、「神を畏れることが全くない」人たちではないと認めることになる。罪人が、神に背を向けて逃走している人として説明されるのは、神を全く畏れないというわけではなく、自分の欲望のまま思い通りに行動するには神の存在は都合が悪いのでつい背を向けたくなるし、罪を犯せば罪責感から逃げ出したくなることを意味しているのだ。それにしても、殺されるよりは自分の妻を妹だと言う、ということはどうなのだろう。当時の社会背景が現代とは想像もつかないほど異なっていたとしても、アブラハムの行為は簡単には納得ができないだろう。しかし、わしたちも人間的弱さで何べんも失敗してきたことを考えると、アブラハムを簡単に責められないだろう。神はこの非常時に介入してことなきを得ている。問題の解決はワンパターンではない。神がアブラハムを祝福するということは、ここでも現れている。神があなたを祝福することも同じように想像を超えたものだろう。主を信じて祝福された人生を全うしよう。(サクマ)

 

7月14日(土)

神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って皮袋に水を見たし、子供に飲ませた。

創世記21:19

 

ハガルがどれほど絶望していたか、物語を読んだ者には痛いほどわかるだろう。アブラハムに暇を出され、息子を連れて女が一人荒野に出て行くしかなかった。それは、生計を立てることもできずに、荒野で野垂れ死ぬことだと悲観しても仕方がない。そして、ついに死の時が来た。水が尽きたのだ。子供の死ぬ姿を見るのは忍びないと、息子を灌木の下に寝かせて大きく距離をとった。彼女は座り込み声をあげて泣き出した。それに気が付いたのか子供も泣き出した。ところが、ここで天使が語りかける。そして、将来の保証を与える。すると、彼女の目が開かれて、井戸を見つけるのだった。これは、人間の興味深い特質が見える。悲観すると死ぬしかないとまで思いつめる危険がある。同じ人間が将来に希望を持つと生きる方法が見えてくるということだ。悲観するほどの厳しい現実があると、人間は諦めてしまう傾向がある。しかし、信仰者は神の介在が必ずそこにあるものだ。神は、信じる者にとって希望そのものとなる。神は目を開かせて、楽観的に見ることを可能とするのだ。井戸はそこにあったはずなのに、見えなかった。皮袋の水が無くなると、それは死を意味していると決めつけていたのだ。このような悲観が生じたのは彼女が自分を憐れんだことが大きい。だから自己憐憫はいつでも現実を正しく見えなくする力なのだ。否定的になり短絡的な行動を取れば、取り返しがつかない結果が待っている。信仰は人間のそんな弱さを越えさせる力そのものなのだ。それは、自分中心に物事を考えないからだ。神を中心に考えることが身についていれば、普通に生きても自分に十分の恵みが備えられていることを知るだろう。自分の微力でもちゃんと生きていけるように主は道を備えてくださる。主を信じることがどんな時でもできるように訓練されていると思っていれば、何が起こっても、主が見ていてくださると精一杯生きていけるのだ。(サクマ)

 

7月15日(日)

アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも、主の山に、備えあり(イエラエ)と言っている。

創世記22:14

 

後世の人は、この舞台となったモリヤの山を後のエルサレムであり、神殿の場所であったとしています。信仰者にとっては、とても感慨深いものがあります。クリスチャンは、犠牲となった雄羊を私たちの身代わりに犠牲となって十字架にかかられた神の独り子イエス・キリストを象徴していると考えます。それだけでも瞑想課題になります。ところで、クリスチャンたちは、色々な人生の困難に直面する時も、「主の山に備えあり」とこの言葉を唱えては、困難を乗り越えてきました。ギリギリまで試みられるとしても、最後には「主の山に備えあり」だ、との信仰を受け継いで来ているのです。キリストの贖いの十字架を受けるに値するほどの信仰は、一朝一夕には生まれないかもしれませんが、後ろを振り返ってみれば、確かにモリヤの山を登って来たのです。そうやって、信仰によって生きていけば、ヤーウェ・イルエ「主の山に備えあり」だったと主の恵みを知ることができるのです。また、自分の罪を悔い改める時、なぜ神は赦されるのだろう、と思う日が来ます。それは、主イエスが十字架にかかって自分の身代わりに罪の罰を受けてくださったからなのです。だから、赦されているのだと心から知る日が必ず来ます。その時、「主の山に備えあり」と心から感謝があふれて唱えているでしょう。(佐久間)

 

7月16日(月)

こうして、マムレの前のマクペラにあるエフロンの畑は、土地とそこの洞穴と、その周囲の境界内に生えている気を含め、町の門の広場に来ていたすべてのヘトの人々の立ち会いのもとに、アブラハムの所有となった。

創世記23:17、18

 

サラが亡くなった。127年の生涯であったから、現代から考えれば十分長生きをしたわけだ。しかし、夫のアブラハムは妻の死に嘆き悲しみ、辛い別れを経験した。残念なことに、どんなに仲の良い夫婦であっても、どちらかが先に亡くなる。長く生涯を共にして来た人生のパートナーの死は、自分の半分を失ったような喪失感があるものだ。神がアダムの助け手としてエバをアダムの一部から取って造ったことの意味が実感できるだろう。さて、その妻が亡くなって困ったのは、墓がないことだった。どこかに埋葬すればいいというわけにはいかなかった。アブラハムは寄留者だったのだ。つまり自分の土地を持っていなかったのだ。財産も増え、カナン地方の人々にも認められ、何よりも神の土地を与えるという約束が、未だ実現していなかったのだ。それが、妻の死により、墓を求めてヘト人から土地を法的に正式に購入することとなった。妻は失ったが、そのことでアブラハムは自分の土地を所有できたのだ。そこは、「ヘブロン」であった。この地名を聞くと、ダビデがユダの王になった場所であることを思い出す。このダビデがイスラエルの歴史上最も偉大な王であり、未だユダヤ人の心に生きる特別な王なのだ。そのダビデの末裔としてイエスがお生まれになった。サラが不妊であったのに神の約束でイサクが生まれたことが、後にイエスが生まれることの予型となっている。神の約束によって超自然的に生まれてくる約束の子、というわけだ。聖書の面白さがわかるだろう。(サクマ)

 

7月17日(火)

アブラハムは多くの日を重ね老人になり、主は何事においてもアブラハムに祝福をお与えになっていた。

創世記24:1

 

24章は大変美しいイサクとリベカの結婚物語です。その始まりに、アブラハムのことが書かれています。どうやら、アブラハムは自分の死期を悟って、最後の重要なしなければならない事として、息子の嫁を自分の親族から迎えるように最も信頼している僕に託したのです。これは、アブラハムと子孫に与えると神が約束されたカナンの土地をイサクが離れる事なく、神の御心に従うようにとアブラハムが考えていたからです。このイサクの結婚物語の最後にアブラハムの姿はもうありません。すでに亡くなっていた可能性があります。また、リベカの実家の話の中にも兄ラバンが結婚交渉の主役となっていて、イサク同様に家督を譲り受けていたようです。そして、53節「兄と母にも高価な品物を贈った」とあり、55節でも「兄と母は」となっていて、父がまったく出てきません。そこで、父は既に亡くなっていた可能性があります。既に、イサクとリベカの世代に物語は進展していたのです。さて、クリスチャンは聖書を読み、アブラハムの物語に信仰を持って生きる先人の姿を見て学びます。そして、自分自身も信仰を持ってからの人生を振り返れば、やはり大なり小なり波乱万丈があって、幾度も信仰を試された事でしょう。そして、初めは神も信仰も何も知らなかったのに、いつの間にか聖書の登場人物のように、神との関係を深めて行くのです。そして、信仰の走るべき道を走り通し、あとは勝利の栄冠が待つばかりだ、とパウロのような心境になるのです。アブラハムもそうでしたが、子供達への信仰の継承が最後の課題となるかもしれません。すべては、信仰と祈りの中で神が祝福してくださるでしょう。良い晩年を迎えることができるように、今、主はあなたを導いてくださいます。(佐久間)

 

7月18日(水)

ヤコブは言った。「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」とエサウが答えると、ヤコブは言った。「では、いますぐ誓ってください。」 エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまった。

創世記25:31~33

 

人間はお腹が空いた時に大事なことを決めてはいけません。脳が十分に働いていませんから。そんなことを思わせる場面です。ヤコブとエサウは双子でした。それでも、兄と弟の区別がありますから、家督の相続とか権利関係に違いが生まれます。この時代は、特に重要なことは神の祝福を長子が受け継いでいたことです。この祝福が不思議で、何事も祝福されるという驚くべきものなので、この世的にみても驚くほど繁栄して行くのです。エサウは、男性的ですが粗野で思慮にかけているところがありましたが狩が得意なので父親には好かれていました。一方のヤコブはエサウとは正反対の性格で、母親のお気に入りだったのです。それが証拠に、その日ヤコブは家で煮物料理を作っていました。そこに、狩から帰ってきたエサウが腹をすかせて、ヤコブの煮物を食べさせろと言い出します。その時、ヤコブは条件を出して長子の権利を譲るようにと、交換条件を言い出します。長子の権利がどれほど大きな意味を持つかエサウは考えなかったばかりか、煮物一杯と引き換えたのです。長子の権利は、父が亡くなると遺産を二倍相続し、家長となって一族の上に立つことのできる権利でした。もっともイサクはエサウを長子としてその後も扱っていたようです。しかし、信仰においては大いに違いが生じていたのです。アブラハムから受け継いだ神の約束を受ける当事者として地位をイサクが受けたように、今度はヤコブが受けることになるのです。27章にそのことが見て取れます。人間の教訓としては、人生は決して軽率に考えたり行動してはいけないということです。そして、何が真の価値であるかを冷静に見分けて、真に価値あるものは決して簡単に手放してはいけないということです。エサウは肉欲で失いました。それほど肉欲は注意しなければならないのです。(佐久間)

 

7月19日(木)

イサクがその土地に穀物の種を蒔くと、その年のうちに百倍もの収穫があった。イサクが主の祝福を受けて、豊かになり、ますます富み栄えて、多くの羊や牛の群れ、それに多くの召使いを持つようになると、ペリシテ人はイサクをねたむようになった。

創世記26:12~14

 

種を蒔くとは、イサクが定住したことを意味します。その前に飢饉の話があって、イサクがエジプトへ避難しようとすると神が現れ、カナンにとどまるように語ります。アブラハムとの約束でカナンを与えることが、息子のイサクに継承されていることが明らかなになります。そして、アブラハムに約束された祝福もイサクに継承されていて、穀物の収穫が百倍であることだけでなく、半遊牧民の財産として羊の群れや牛の群れ、それにたくさんの奴隷が大勢いたことを示し、神の祝福がどれほど素晴らしいことか明らかになります。それに対して、ペリシテ人がイサクを妬むようになったのです。それは、井戸での争いとなりますが、イサクは遂に広大な場所(レホボト)を得ます。それが井戸の名として示されます。これは、カナンを与えるとの約束を妨害するペリシテ人との水利権の争いとして描かれていますが、主はそうした困難の先に争いのない安心して住める広い場所を用意してくださったのです。目の前の困難や争いに遭遇しても、主の祝福は変わることはありません。そして、イサクがそうであったように、自分の力で争わずに、主の解決を求めて先に進むと争いのない神の救いが待っているのです。主に祝福されていることが目に見えるほどになると、それが敵のねたみとなっていじわるされたり、ひどい目にあうことがあります。しかし、イサクもそうでしたが、主が妨害を取り除いてくださると信じていれば、その通りになると自分の信仰に覚えさせましょう。(佐久間)

 

7月20日(金)

どうか、神が天の露と地の産み出す豊かなもの、穀物とぶどう酒を、お前に与えてくださるように。

創世記27:28

 

これは、イサクがヤコブを祝福した時の言葉の一部です。ここで、分かることは家畜を増やしてくださるように、というような言葉でないことです。ヤコブは羊飼いでしたが、エサウは猟師でした。どちらも農夫ではないのです。それなのに穀物とぶどう酒を与えるように祝福したのです。これは、土地を所有して初めて意味をなす祝福なのです。つまり、神の約束の通りにカナンの土地を与えられることを前提にしているわけです。その土地で物質的な繁栄を祝福の内容としているのです。次に続く祝福は、ヤコブの子孫であるダビデ時代に成就したとみると分かりやすいです。物質的な繁栄だけでなく、政治的な成功が伴うことこそイスラエルの願いとなっていくのです。農業を仕事としたことがないと分かりにくことですが、作物を作るには天候や土地の生産力が大きく影響します。こればかりは人間の努力や力ではどうすることもできません。ですから、神の摂理が重要になってくるのです。そこから当然のようにイサクの祝福は神の摂理に言及することになりました。現代人の多くは、農業をしませんから、神の摂理を切実に感じていないのかもしれません。猛暑が続いて熱中症になる危険があっても、農夫は自分の田畑を見に行くのです。私たちも、神の祝福を願い、日々の生活が支えられ、自分の仕事が守られ、健康で平和であることを祈るのです。主はあなたの命を守り、恵みを楽しませてくださいます。そのことを感謝したいですね。(佐久間)

 

7月21日(土)

見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。創世記28:15

 

クリスチャンは弱そうに見えても実は強い。必要ならば自分の力以上のことができる。何よりも、人間の強さは精神の力ではかられるが、クリスチャンはその点で圧倒的に優れている。それは、今日の聖句に出て来るように、「わたしはあなたと共にいる」と語られる神がおられるからだ。人間は孤独が嫌いだ。それで、自分の周りに人を置こうとするのだが、肝心な時に逃げていくような人はいても、困難に一緒に立ち向かってくれるような人はなかなかいない。そして、人生では自分がひとりぽっちだと感じる日があるものだ。そんな時でも、クリスチャンには共にいてくださる神がいるのだ。あなたがどこへ行っても、「わたしはあなたを守る」と言ってくださる神だ。これ以上の心強さはないだろう。そのことがわかると大抵の困難は耐えられるものだ。そして、自分の力に頼らないので、逃げ出すことも負けることもないのだ。あなたはどんなことが起こっても神に見捨てられることはない。そのことだけは忘れないで欲しい。神はあなたに素晴らしいことを実現しようと今日も働いておられる。自分の考えに囚われないように気をつけて、聖書の御言葉をそのまま信じてみよう。結果は喜びが待っているはずだ。(サクマ)

 

7月22日(日)

ヤコブはラケルのために七年間働いたが、彼女を愛していたので、それはほんの数日のように思われた。

創世記29:20

 

この物語を読むと、ヤコブの父の嫁探しでアブラハムの召使いが井戸でリベカと出会った場面を思い出します。ヤコブはやはり井戸でラケルと出会います。そして、リベカと違っていたのはラケルに姉がいたことです。ヤコブはラケルとの結婚をラケルの父であり伯父であるラバンに願い、それが聞き届けられたのです。ただ、七年間ラバンのために働くことが条件でした。好きな人と結婚するために七年間も働くというのは大変なことだと思うのですが、「彼女を愛していたので、それはほんの数日のように思われた」というのです。人を愛するということの不思議です。ここからもわかるように、愛はすごい力を持っているのです。そして、人間は良い目標を持つと頑張れるのです。ただ、この物語にはもう一捻りあります。婚礼が終わって朝になってみると隣にいたのはラケルではなく、姉のレアだったというのです。これがどんなにヤコブを驚かせたことか、怒ってラバンに文句を言うと、ラバンは平然と「我々のところでは、妹を姉より先に嫁がせることはしないのだ」と言い訳をします。そして、追い打ちをかけるように、ラケルもヤコブに妻として与えるからもう七年間ラバンのために働け、というのです。このために、ヤコブは二人の姉妹を一度に妻とすることになり、さらに七年間ここで働かなければならなくなりました。愛する人と結婚するための七年間は確かに短く感じたでしょうが、今度の七年間は家を買ってそのローンを払い続けるようなものです。しかも、果たして二人の姉妹を妻にして一体どうなるのでしょう。ヤコブはラケルを愛していたのです。レアはどんな思いで生きていくのでしょう。暗雲が垂れ込めてきました。それにしても創世記は人間の実験室のような気がしてきました。登場人物それそれの思惑が錯綜します。登場人物の数が多い分、複雑に人の思いがぶつかり合うことになります。さらに、共にいてくださる神はどうしているのでしょう。先の展開から目が離せません。夫は自分ではなく妹のラケルを愛しているのに、自分が姉なのでヤコブと結婚した。そう思っているレアは疎んじられていたので、夫の愛を得るために子供を産みます。「これからは夫もわたしを愛してくれるにちがいない」。レアの切ない気持ちが伝わってきますね。さあ、これから思いもよらない展開となっていきます。(佐久間)

 

7月23日(月)

ラケルは、ヤコブとの間に子供ができないことが分かると、姉をねたむようになり、ヤコブに向かって、「わたしにもぜひ子供を与えてください。与えてくださらなければ、わたしは死にます」と言った。

創世記30:1

 

さて、男性には理解不能な話が出てきました。そして、案の定ヤコブは、激しく怒ったのです。男性脳と女性脳に違いがあることがわかっていますが、学者でもない限り、それを正しく理解している人はほとんどいません。ましてやヤコブにラケルが言っている真の意味など理解できるわけがありません。ラケルが言いたかったことは、「レアばかりが子供を産み、自分が同じ妻として惨めでならない、だから自分のものである女奴隷を使ってわたしの子供を与えてください」と言っているのです。しかし、実際の話した言葉には論理の飛躍がありすぎてヤコブは、理解できないために癇癪を起こしたというわけです。夫婦喧嘩は多くの場合、このような男性脳と女性脳の違いが原因で起こっていると思われます。男性はこの記事を読んで、ヤコブにはなりたくないと思うはずです。姉妹を妻にしたために、女の嫉妬の激しさの嵐の中にさらされて、なすすべもなく子供だけがどんどん増えていくのです。子供が多いことは祝福でしたから、これも神の祝福と取れば良いのでしょうが、ヤコブはストレスがたまる日々を過ごしたことでしょう。それにしても、レアもラケルも女の意地のように子供を産むことに執着します。子供数がヤコブの愛の大きさのようにです。ここに、女奴隷までが参加して、最後にようやくラケルがヨセフを産みました。このヨセフが運命の人なのです。ところで、レアばかりに子供が生まれたのはどうしてだったのでしょう。夫のヤコブが愛したのは容姿の美しい妹のラケルでした。それで、父親にラケルとの結婚を願って夫婦となったのですが、レアの場合は、父がヤコブを騙すようにしてレアも一緒に妻とするように仕組んだものでした。当然、ヤコブとしてはラケルこそが愛する妻で、レアは騙されて結婚させられた妻でしかありません。そこで、レアは疎まれていると感じたのです。レアの子供につけた名前をみれば、ヤコブが自分を愛してくれることを願っていたことが良くわかります。神様がそんなレアを憐れんで子供を授けてくださったようにも見えてきます。ラケルにしてみれば、何ら悪いことをしているわけではありませんから、レアばかりが子供を産むことに相当心を痛めたことでしょう。そうなると、夫の取り合いよりも自分で子供を産むことにこそ自分の全てが向いたはずです。そこで、恋なすびの話が出てくるのです。めでたくラケルは男の子を産みますが、それで満足したわけではありませんでした。さらにもう一人男の子を主に願います。男性にはよくわからない女性心理です。しかし、こうしてイスラエルの十二部族の始まりとなるヤコブの子供達が生まれてきたことは興味深いことです。さらにヤコブ物語は続きます。(佐久間)

 

7月24日(火)

ヤコブは、ラバンの息子たちが、「ヤコブは我々の父のものを全部奪ってしまった。父のものをごまかして、あの富を築き上げたのだ」と言っているのを耳にした。

創世記31:1

 

これは、言いがかりです。しかし、ラバンの息子たちは本当にこのように思ったのでしょう。ヤコブの神がヤコブの羊ややぎを増やしていることが理解できなかったからです。神を信じている人たちには、神が直接働いて祝福されるものです。もちろん、本人が誠実でなければいけないし、正直に生きていることが肝心です。それは、人間ができないようなことを要求しているわけではありませんから心配は無用です。ヤコブは、義父のラバンから無理難題を突きつけられても、それで不平を言ったり、否定的にはなりませんでした。それは、ラバンの決めたヤコブの報酬が常識的には非常に不利であるのに、それがヤコブにとって有利なものに変わるのですから、神が働かれたとしか言いようがありません。ラバンはヤコブを祝福しておられる神の存在を知っていたのに、欲のために目がくらみ、愚かにも、ぶちだ縞だと報酬の条件を十回も変えたのです。このようなことがあったので、ヤコブは故郷であるカナンに帰ることができました。不当な扱いを受けて忍耐しなければならなくなっても、すぐに短気を起こしてはいけません。このことすら、神は益に変えてくださるのです。それにしても、ひどい中傷や事実とは全く違う非難や悪口を言われることはとても嫌なことです。弁明する機会も与えられないかもしれません。そして、周りの人の態度が変わって敵対的になったりすれば、そこにはいられないと思うでしょうが、ヤコブのことでもわかるように、神がそこを出なさいと示された時に出ることです。自分で勝手に決めると失敗することがあります。信仰を発揮して祈り、その祈りの結果として動くことが大切なのです。(佐久間)

 

7月25日(水)

ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」

創世記32:27

 

ペヌエルでの格闘と言われる箇所から考えましょう。ヤコブには義父であり、伯父であるラバンとの戦いに勝ち、今度は自分を恨んでいる兄のエサウとの戦いが迫っていました。もちろん、エサウのような野蛮な性格ではないヤコブのことですから、策略で対抗するしかありません。エサウはすでに400人の手勢でヤコブへと向かっています。エサウがまだ怒っていれば殺されることもあり得るのです。そこで、ヤコブの連れてきた人々や羊、牛、ラクダなどを二組に分けます。一方が攻撃されたら、もう一方が逃げることができるようにです。さらに、ヤコブは祈ります。そして、エサウに対して過分な贈り物を送ります。これがヤコブの策です。そして、ヤボクの渡しの場面になります。ここでヤコブが謎の人物と闘います。これは、ヤコブの祈りに対する答えとして、神がヤコブと闘うことがあとでわかります。ヤコブはエサウよりも神と和解する必要があったのです。この闘いを通して、ヤコブは変わるのです。以前は欺き、ごまかすような者でしたが、ラバンの下で忍耐を学び、今、「祝福してくださるまで離しません」と神と闘う者になったのです。それは、イスラエルという改名に現れています。また、イスラエルの民が歴史を通して経験する悲劇、捕囚、迫害は他に類を見ないようなものでしたが、ヤコブが経験した神との闘いのように、神にしか望みが無くて、哀歌のごとく神にうめき、罪を悔いて神との和解を求めて、もうひとたび祝福してくださるまで離しません、という神との闘いをしたでした。これは、また、私たちの信仰の歩みにも同じことが反映されています。昔から、ヤコブが夜通し神と闘ったことから、困難や悩みの中で信仰者が神と祈りの格闘をすることが教えられてきました。この長い格闘の末に、得ることのできる信仰の高きに登る経験こそがクリスチャンに必要なことであると言われたものです。さて、罪深い者が変えられるには、神と顔と顔を合わせるほどの近い経験が必要であることも心に留めておきましょう。(佐久間)

 

7月26日(木)

ヤコブはこうして、パダン・アラムから無事にカナン地方にあるシケムの町に着き、町のそばに宿営した。ヤコブは、天幕を張った土地の一部を、シケムの父ハモルの息子たちから百ケシタで買い取り、そこに祭壇を建てて、それをエル・エロへ・イスラエルと呼んだ。創世記33:18~20

 

創世記には土地の地名や人名が興味深く出てきます。また、ここで祭壇を建てて、エル・エロヘ・イスラエル(イスラエルの神である神)と名付けたりする記事が出てきます。これは、アブラハムがシケムで祭壇を建てたことにならっているようにも見えます。そもそも、ヤコブが帰ってきた場所がシケムでアブラハムがカナンで最初に訪れた重要な土地です。アブラハムはシケムで、神の約束を受けたのです。その約束の地にヤコブが戻ることはやはり当然なことなのです。「シケムの父ハモル」と書かれたシケムは人名です。ハモるは「ろば」を意味します。「百ケシタ」とあるが、ケシタは交易に用いた単位で重量がわかっていません。しかし、七十人訳聖書では、「羊百匹」とあります。それぐらいの代価を払って土地を買ったというわけですね。ちなみに前章で出てきた「ぺヌエル」には「神の顔」という意味があります。ヤコブが神と格闘して「顔と顔を合わせて神を見た」と言ったヤコブの経験と関係があるわけです。イスラエルは、「神は争った」か「神が争われるように」という意味に取ることができます。また、エルは神を表していますが、「エル戦いたもう」または「エル救いたもう」、そして「エルに対抗する」との意味にもとれます。イスラエルの歴史に現れた神そのものですね。(佐久間)

 

7月27日(金)

三日目になって、男たちがまだ傷の痛みに苦しんでいたとき、ヤコブの二人の息子、つまりディナの兄のシメオンとレビは、めいめい剣を取って難なく町に入り、男たちをことごとく殺した。ハモルと息子のシケムも剣にかけて殺し、シケムの家からディナを連れ出した。

創世記34:25、26

 

ヤコブを苦しめる事件が発生しました。娘のディナがハモルの息子シケムに凌辱されたのです。シケムはディナと結婚を望み、父親と共にヤコブのもとを訪れます。その時、息子たちが野から帰ってきて、この悲報を聞きます。彼ら互いに嘆き、激しく憤ります。そしてハモルとシケムからディナを嫁にしたいとの申し入れがあります。そのことを理由に互いに姻戚関係になることを提案してくるのです。そこで、ヤコブの息子たちはシケムとハモルを騙します。彼ら父子だけでなく、彼らの男性は全て割礼を受けることを結婚の条件としたのです。それが承諾され、割礼の痛みに苦しんでいる間にシメオンとレビは剣を持って彼らを襲います。そして男たちを皆殺しにしました。26節を見ると「シケムの家からディナを連れ出し」とありますから、ディナは凌辱された後、シケムの家に拉致されていたことがわかります。イスラエルの名誉とディナの救出を命がけでシメオンとレビは敢行したわけです。そして、他の兄弟達が略奪にやってきます。ここに記された家畜を奪い取り、略奪し、女も子供もすべて捕虜にしたことは、当時の世界で軍事的征服の典型であったのです。それにしても、古代のカナン地方で半遊牧民が一つの土地に定着することがどんなに難しいことかわかります。ヤコブの息子たちは当時の常識で当然のことをしたと思ったでしょうが、ヤコブはカナンでの自分たち一族の立場が悪くなったことを悟って心配したのでした。イスラエルはどうやってカナンを神の約束として定住地とすることができるのか、まったくまだ見えてきません。とにかくこうした出来事が後にイスラエルにどんな影響を及ぼすのか、聖書を読み進めていけばやがてそのことに気がつくでしょう。(佐久間)

 

7月28日(土)

神はヤコブに言われた。「さあ、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてその地に、あなたが兄エサウを避けて逃げて行ったとき、あなたに、現れた神のために祭壇を造りなさい。

創世記35:1

 

さて、ヤコブ物語を読んでいて、色々なエピソードがありましたがヤコブが神と出会った場所を覚えているでしょうか。そこはベテル(神の家)です。そこで、神はヤコブにこう言いました。「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」(28:15)。そして、ついに神はヤコブを連れ帰ったのです。そして、はじめは枕にしていた石を記念碑として立てましたが、今度は信仰に成長したヤコブがイスラエルとして祭壇を造るように命じられます。このベテルは、やがてイスラエルの巡礼地となり、礼拝の場所として長く重要な地となりました。またヤコブは2節で、「お前が身につけている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えさない」と家族や一緒にるすべての人々に命じました。この聖書箇所から、学ぶべきことは、神を礼拝するには、まず他の神々を放棄して取り除けることです。これは、異邦人であるクリスチャンには特に重要なことになります。家の中に何かしら宗教に関わるものがある可能性があります。ある人は、洗礼を受ける時に、結婚の時に親からもらった神棚を捨てることを躊躇しました。親の思いを考えてしまったからです。このように文化とか風習とか、先祖から受け継いだものとか、海外旅行で買ったお土産の偶像や仮面などからパワーストーンやお札、お守り、仏壇、庭にある古いお稲荷さんや祠、道端の地蔵など、きりがありません。4節には、「耳飾り」が出てきますが、これは古代近東で多くの人が普通に耳輪をつけていたのですが、三日月型のものは、月の神の礼拝と結びついていました。若い人たちがファッションとしてアクセサリーを身につけていますが、外国などで買ったものには宗教的な意味を持ったものもあるので注意が必要です。また、身を清めることと共に、「衣服を着替え」ることが出てきますが、新しい衣服に着替えることは新しい生活を象徴しています。洗礼を受けてクリスチャンになると、古い罪人という服を脱ぎ捨て、キリストという新しい服を着たのです、と教えられたりします。このように、神に召され、神を礼拝する新しい生活に、あなたも入れられたのです。それがどれほど素晴らしいことか、もっともっとわかってきます。すでに祝福された者として主に感謝して生きて行きましょう。(佐久間)

 

7月29日(日)

エサウ、すなわちエドムの系図は次のとおりである。

創世記36:1

 

36章はエサウの子孫についての記述です。イサクとイシュマエルの場合もそうでしたが、同じようにヤコブに対して兄弟のエサウの系図がここでまとめられています。ちょうど、ヤコブ物語を一区切りつけるようにこのエサウの子孫がまとめられて出てきました。内容に関しては、この記者がどのような資料を元に書いたのかはわかりませんが、複数の資料をもとに書いたようです。多くの重複が見られながらも、独立した七つの系図があります。こうした系図に興味のある人は、歴代誌上1:35~54と比べてみるとほとんどの名を発見できるでしょう。さて、このエドムはイスラエルより先に安定した王制国家を築いていたようです。そして31節以降の王の表は、エドムの王制が選挙制であったと推定できるものです。少なくとも世襲制ではなかったのです。こうして、区切ることにより、次の章から新たな大きな物語が始まるのです。それにしても、アブラハムの子孫が本流と傍流に別れても、それぞれが発展し、王を生み出している事を見ることができます。主の祝福はアブラハムとの契約の通りに現在も信仰によって継承されているのです。(佐久間)

 

7月30日(月)

一方、メダンの人たちがエジプトへ売ったヨセフは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長であったポティファルのものとなった。

創世記37:36

 

さて、いよいよヨセフ物語が始まります。この物語は、他の物語とは違って、一人の優れた語り部が語るように、非常に優れた面白い短編小説のように綴られています。この物語は、ヨセフがヤコブの年寄り子であったために溺愛することから起こる他の兄弟たちの嫉妬からくる悲劇で始まります。自分が何人兄弟の何番目に生まれ、親からどう扱われたかが本人に一生影響することは学者の説明を必要としません。ヨセフの場合は、ヤコブの愛した妻の産んだ特別な子供だったのです。ヤコブからすれば、本当に結婚したかったラケルが産んだ長男であるという意味がありました。しかも、歳をとってから生まれる子供は無条件に可愛がる傾向があります。はじめの子供達は、親がまだ若くて未熟なために子育に余裕がありません。厳しく躾けたりするのですが、末っ子は親が可愛がりながら育てることができる余裕が出てくるのです。ヤコブはヨセフを明らかにえこひいきしてしまったので、兄弟の中で立場が悪くなりました。そして、ヨセフは夢を見る者だったのです。つまり、夢をみる賜物を持っていたのです。それは未来を示すことができる夢のことです。そして、兄たちの悪意ある行動が、ヨセフを奴隷としてエジプトに送ることとなり、父ヤコブを悲嘆させることになりました。ヨセフは、エジプトの王様に近い高官の家に奴隷として売られて行きました。はたして、この先どうなるのでしょう。(佐久間)

 

7月31日(火)

ユダは長男のエルに、タマルという嫁を迎えたが、ユダの長男エルは主の意に反したので、主は彼を殺された。

創世記38:6、7

 

 

ヨセフ物語を読み進んで来た読者には、前触れもなく出し抜けにユダとタマルの物語が出て来てどうしてだろうと不思議に思うでしょう。注解書でも謎とされているものがありますが、イエスが語られた「畑に宝が隠されている」(マタイ13:44)という言葉を思い出すかもしれません。まるで、畑に宝が隠されていたように見えるからです。では、どんな宝でしょうか。物語は、ユダ族の先祖であるユダの話しです。ユダの長男エルにタマルという嫁を迎えます。しかし、エルは主の意に反したために殺されます。その内容は書いてありませんから、詳しくはわかりません。しかし、趣旨は「主の意に反した」ことです。新約聖書を読まれた方は、その一ページ目に系図が書かれている事を知っています。この系図が重要である事を印象付けられます。そして、1節に「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあります。2節には「ヤコブはユダとその兄弟たちを」と私たちが創世記で読んできた事を思い出させます。そして、3節に「ユダはタマルによってペレツとゼラを」と今日の聖書箇所が出てくるのです。本来なら、ユダでなく長男のエルの名が出てくることになっていたのでしょうが、彼もその弟のオナンもその筋書きを台無しにしたのです。重要なことは、ユダからダビデ王が生まれ、そしてイエスが生まれることだったのです。このイエスが生まれる系図をエルもオナンも断つところだったのです。ダビデ王もイエスもユダ族から生まれることになっていたので、結局、ユダからタマルは子供を得ることになったのです。さて、ここに出てくる結婚制度は「レヴィラート婚」と言います。夫が相続すべき子供がないまま死亡した時に、弟が兄嫁と結婚して生まれた子供に兄の名と財産を継がせる制度です(申命記25:5~10)。問題は、レヴィラート婚に従ったのに、ユダが長男、次男と相次いで死んだために、三男まで死ぬ事を恐れてタマルを遠ざけたことです。タマルには落ち度が無かったのに、ユダがレヴィラート婚を守らなかったから、タマルが非常手段にでたということです。このような物語を読むと、神の摂理を考えさせられます。人間は勝手な事をして神の摂理に逆らう事はできないのです。自分に与えられた人生を一生懸命に生きることが一番大切なことなのです。自分が何を選ぶかでその結果が変わってしまいます。だから、小さなことにこだわってくよくよしている暇はありません。夢と希望を持って、ちょっと勇気を出せばいいのです。今からでも遅くはありません。あなたも主に選ばれた尊い人なのです。(佐久間)