2018年8月ディボーション

8月1日(水)

「あなたの奴隷がわたしにこんなことをしたのです」と訴える妻の言葉を聞いて、主人は怒り、ヨセフを捕らえて、王の囚人をつなぐ監獄に入れた。ヨセフはこうして、監獄にいた。

創世記39:19、20

 

ヨセフが気の毒になります。ヨセフの例のごとくに悪いことをしていないのにひどい目にあうことがクリスチャンにも起こり得るということです。ヨセフは、奴隷として売られましたが、「主がヨセフと共におられたので、彼はうまくことを運んだ」(2節)のです。それで、主人はヨセフに全幅の信頼を置くようになります。ところが、主人の妻が悪女でした。確かに、「ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた」(6節)ので、彼女はヨセフに目をつけたのでしょう。主人の妻の方からヨセフに言いよるようになりますが、ヨセフは頑なに拒み続けます。それが、主人の妻の心を一変させるのです。自分の思いがかなわないとみると、手のひらを返したように、ヨセフに悪意を向けます。主人に嘘をついてヨセフを陥れ、ヨセフに復讐するのです。このような時に神様が助けたらいいのにと思いますが、決してそうしません。もっと思慮深い神様は先の先まで見通してヨセフがどうするか試験をしているかのようです。ヨセフは、王の囚人をつなぐ監獄に入れらます。これが「王の囚人をつなぐ監獄」であることに神様の意図が感じられます。神様がヨセフを見捨てていない証拠は、またしても「主がヨセフと共におられ、恵みを施し」(21節)と書かれていることからわかります。普通の人なら、監獄に無実の罪で入れらただけで、絶望してしまうでしょう。しかし、そうはならなかったのです。あり得ないことが起こりました。監守長がヨセフを信頼して、監獄の一切をヨセフの手にゆだねるようになりました。「ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからで」(23節)す。神様を信じる人には、このようなことが起こるのです。神様には大きなご計画があって、ヨセフが考えてもみないことを実現しようとされています。創世記の最後までヨセフ物語が語られるのですが、ヨセフが夢でみたことが成就するのです。このような物語を知っている信仰者は、何が起ころうが、それがたとえひどい目にあうことであったとしても、その先に目を向けることができます。それも、希望を持ってです。「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(ヘブライ12:11)。ヨセフの秘訣は、主が共にいてくださるといつでも信じていたことです。自分に頼る必要はないのですね。そんなことをすればすぐに絶望に陥るだけです。主が共にいてくだされば、監獄ですら、自由が与えられ、支配されるのではなく、支配する方に回ることができるのです。この事実を心に留めておきましょう。(さくま)

 

8月2日(木)

「我々は夢を見たのだが、それを解き明かしてくれる人がいない」と二人は答えた。ヨセフは、「解き明かしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてください」と言った。

創世記40:8

 

人は夢を見るのですが、朝になっても忘れることのできない夢を見ることがあります。それが良い夢でも悪い夢でも気になるわけです。夢の意味がわからないからです。創世記四十章を読むと、ヨセフが夢を解き明かす人であることがわかります。そして、重要なことですが、「解き明かしは神がなさること」とヨセフを通して語られています。そこで、時には夢を用いて神が預言されることがあることがわかります。ダニエル書などにも夢の解き明かしが重要な意味を持っている箇所があります。人間が毎日見る夢が全部、神の預言とは思いませんが、クリスチャンのように信仰を持っている人には、夢の啓示がある可能性は否定できません。朝になって夢を覚えていない人は、夢を見ないと言いますが、脳の仕組みで前日の出来事が寝ている間に脳で整理される過程で夢を見ているようですから、自分の顕在意識ではさほど気にも留めていないようなことでも、潜在意識では大きな問題になっていることがあるのです。それが、夢で現れているために、正夢を見たとか、夢を気にする人が出て来るわけです。しかし、神からの啓示は明らかに将来に意味を持っています。今日の聖書箇所では、ヨセフが王の監獄に入れられているところからいかにして脱出できるのか、それが夢の解き明かしと関係がありそうなことが感じ取れれば良いのです。それにしても、面白いストーリーが展開しています。(佐久間)

 

8月3日(金)

ファラオが夢を二度も重ねて見られたのは、神がこのことを既に決定しておられ、神が間もなく実行されようとしておられるからです。

創世記41:32

 

幻を見たという人はほとんどいないでしょうが、夢を見たという人は大勢います。そのような誰にでも起こる夢を通して、神が人に語りかけてもファラオの見たような夢ならば、夢の解き明かしが必要になります。夢を見た本人でも意味がわからないということがあるわけです。ファラオの見た二つの夢はヨセフの解き明かしによって、一つの同じ意味であることが明らかになります。しかし、二度も重ねて見せられたということから、ヨセフは神が既に決定していることだと断定します。「神が間も無く実行されようとしておられる」。その内容は、七年間の豊作とそれに続いて起こる七年間の飢饉でした。その対策をヨセフが見事に語ると、ファラオは即決でヨセフをファラオの次の位につけます。そして、この非常事態の対応を全てヨセフに任せました。これほどの立身出世は世界中のどこにもないでしょう。半遊牧民のヘブライ人ヤコブの十一番目の息子で、父に特別に愛されたために兄たちの嫉妬をかい、それがもとで奴隷としてエジプトに連れて来られ、そこでもヨセフが主人に気に入られたのに、主人の妻の誘惑を拒み続けたことで故意に罪に落とされ、王の監獄に入れら、そこで夢の解き明かしをしたことから、ついにファラオの夢の解き明かしをして実質国を動かす王の次の者になれたのです。そのことが次の奇跡に繋がっています。神は偉大な舞台監督のようです。あなたの人生にも深く関わり、自由意志を保証して、あなたを神の国にふさわしい者へと造り変えられておられるのです。ですから、あなたの人生で主への誠実さはいつでも求められていますので、主にお仕えして生きて行くことです。それは、あなたにとってワクワクするような感動体験へと繋がっているでしょう。ヨセフをご覧なさい。奴隷でしかも冤罪で囚人というどん底から、世界一の大国の実質トップに一日で上りつめたのです。それも、神のなされる業なのです。だから、神を知らない人のように否定的に考えて生きてはいけません。何でもできる全能の神があなたの主なので、どんな時も主が共にいてくださり、あなたのすることをことごとく祝福されるのです。だから、何が起こっても肯定的に考えましょう。最悪と思ったことを主が最善に変えてくださる、と大胆に告白しましょう。自分が信じていることが心から出てくるので、自然と肯定的な言葉が口から出てくるように、主を信じましょう。(佐久間)

 

8月4日(土)

「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった。」

創世記42:21

 

嫉妬やねたみは、不信仰の代表的なものです。信仰は神の国を見ることですが、不信仰はこの世を見るものです。そして、厄介なことにこの世は滅びる定めなのです。その世界だけを見ているのなら、この世の人間と変わることはありません。人間の心の中で醜いものが頭をもたげてくると、正しい判断ができなくなります。嫉妬やねたみの恐ろしさは、人間としてやってはいけないことを感情に任せてやってしまうことです。しかし、その報いは決して小さなものではありません。後悔先に立たずと言いますが、まさにその通りになります。この物語には、そのことが明確に出ています。さて、被害者であったヨセフは、夢に見た通りに、兄たちが自分にひれ伏す姿を見たのです。複雑な感情が湧いてきたはずです。懐かしさとひどい目にあわされた恨みです。しかし、ヨセフは彼らを懲らしめることにしますが、家族への情愛の方が優っていたのです。そして、同じ母の弟であるベニヤミンに会いたいと願ったのです。負い目のある人は何年経ってもその負い目に苦しめられることになるのです。ところが、未熟なうちはそれがわからないのです。不信仰の感情のままに行動するほど危険なことはありません。まさに、悪魔にスキを作ることになります。このようなことになれば、どんなひどい結果が待っているかわかりません。そこで、そうならないために、主に信仰を育てていただくことが肝心なのです。信仰は目に見えないものを見ることです。ヨセフは、その信仰でここに至りました。(佐久間)

 

8月5日(日)

ヨセフは同じ母から生まれた弟ベニヤミンをじっと見つめて、「前に話していた末の弟はこれか」と尋ね、「わたしの子よ、神の恵みがお前にあるように」と言うと、ヨセフは急いで席を外した。弟懐かしさに、胸が熱くなり、涙がこぼれそうになったからである。ヨセフは奥の部屋に入ると泣いた。

創世記43:29、30

 

昔、離れ離れになった親子が感動的な対面をするテレビ番組がありました。どうして離れ離れになったのか、どんな苦労をしてきたのか、親に一目会いたい、と丹念にいきさつを見せます。そうやって、この対面のお膳立てをするのです。そして、ようやく会うことができた時に、必ず二人は抱き合って泣くのです。一方は「会いたかった」と、そして、もう一方は「ごめんね」と謝るのです。さて、ヨセフの気持ちを想像して見ましょう。自分の弟を眼の前にした時、自分が兄であることを告げて抱き合って泣きたかったでしょう。しかし、自分をひどい目に合わせた兄たちが一緒にいたのです。それで、ヨセフはまだ身分を明かしませんでした。彼は頭がいいですから、兄たちが当然受けなければいけない罰を考えていたのです。そうしなければ、完全な和解ができないからです。しかし、ヨセフは弟に対する感情の高まりに抑えきれなくなって、急いでその場を離れます。そして、一人になって泣いたのです。肉親の情というものは、深くて離れがたいものがあります。それだけに、一旦こじれると深い溝ができることもあります。ヨセフが17歳ぐらいの時に、奴隷として売られ、それからエジプトの高官に出世したのが30歳ですから、その間、家族の誰とも会うことができなかったのです。それが、今眼の前に兄弟が揃ったのです。ヨセフの複雑な気持ちがわかるでしょうか。あなたがヨセフの立場なら兄弟をどうしたでしょうか。それにしても、人間は何歳になっても親兄弟にこだわりを感じ、時に競争相手になり、嫉妬したり、振り回されたり、憎んだり、そして愛するのです。肉親の難しさです。(佐久間)

 

8月6日(月)

ベニヤミンの袋の中から杯が見つかった。

創世記44:12

 

人生に思いがけない不幸が起こることがあります。ベニヤミンだけではなく、他の兄たちにとってもこの度の出来事はそれにつきます。自分たちは無罪であっても、証拠が出てきたのです。どう言い訳しても証拠を消すことはできません。たとえそれが仕組まれたものであっても、エジプトのファラオの次の権力者に勝てるはずがありません。その時、ヨセフはどんなことを考えていたのでしょうか。実の弟であるベニヤミンだけを残したいとただ思ったのでしょうか。それだけでなく、兄たちへの恨みを晴らそうとしたのでしょうか。彼らがヨセフの前に連れてこられたときに、思いがけないことが起こりました。ユダが進み出て、ヨセフに正直にヤコブとのやりとりを話し、末の子であるベニヤミンを連れ帰らなかった年老いた父は死んでしまうだろうと訴えたのです。そして、ユダはベニヤミンの代わりに奴隷となるからベニヤミンを父の元へ帰らせて欲しいと嘆願したのです。ユダは、ヨセフを奴隷に売ろうと言い出した人でした。しかし、年月が経ちユダも変わったのです。この何の覚えもない突然の不幸と思ったことは、実は不幸ではなかったのです。ヨセフに酷いことをした兄たちがヨセフを殺そうと相談し、奴隷に売ってしまおうと言ったまま、何にも変わっていないのか、それとも後悔し、反省して変わったのか。そのテストになっていたのです。私たちにとっても、思いがけないことが起こって途方にくれるようなことがあっても、これは自分を試しているのだ、ならば誠実に主に向かおう、と思う方が良いのです。神の民に起こることは、ことごとく益となり、信仰で乗り越えられるからです。だから、クリスチャンであることは素晴らしいことなのです。(佐久間)

  

8月7日(火)

神がわたしをあなたたりより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。

創世記45:7、8

 

ついにヨセフは兄弟たちに自分の素性を明らかにしました。兄弟たちの驚きは、混乱と恐怖すら覚えたことでしょう。そこで、ヨセフは安心させようとして、今日の聖書箇所のように言いました。兄弟たちのせいでエジプトに奴隷として売られたとは言わなかったのです。そして、ヨセフの言い分では、神が遣わしたのだ、と言うのです。それは、アブラハムとの間に交わした契約がここで途切れることのないように、神がヨセフをエジプトに遣わし、「ファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださった」というのです。ここで、残りの者(レムナント)という言葉が出てきます。これは、旧約聖書に見られる独特の言葉で、レムナントは大きな艱難や悲劇的出来事、あるいは神の裁きを通って、それでも生き残っている者のこです。主の再臨を迎える時には天変地異や無政府状態など、破滅的なことが起こると言われていますし、個々の信仰の吟味や試練などを忍耐して通り抜ける人たちがやはりレムナントなのです。ヤコブから生まれた十二人の息子たちがイスラエルの国家の始まりとなって行くのに、彼らは神の民として問題があったのです。それが、こうした一連の艱難を通して、良い者へと帰られていったのです。その奥義のカナメのように役をヨセフが担ったわけです。私たちも、自分が神のための器であることをよく理解していないかもしれません。自分の人生に楽しいことや恵みばかりがあることを願いますが、自分の中に問題があることも知っているのです。それをどうやって解決するのか、自力では難しそうなので、放っておくのが普通でしょう。ところが、クリスチャンになった人には、まるでインストラクターがついたかのように、色々大変なことが出てくるのです。その度に神に祈って解決するのですが、それ自体に意味があるのです。へりくだって神の御心に服従するようになるまで、この訓練は続くのです。成果を最大にあげるためには、ヨセフのようにどん底に落ちることが早道なのです。肉的なプライドも打ち砕かれ、忍耐を学び、主に服従することを身につけることができるからです。神を自分の思い通りに利用しようとすれば、最悪の結果しか期待できません。自分では理解できなくとも、神を信頼することです。飢饉で死ぬ人も出るのですが、それが七年間続けば、餓死する人たちが増えるでしょう。この時、ヤコブができたことは、エジプトへ食料を少し分けてもらいに息子たちを使わすことだけでした。しかし、その最悪の時に、何年も前から主はちゃんと準備をしておられたのです。だから、ヤコブたちは心配いらなかったのです。それが分かっていればですが。人間お常識ではあり得ないことを、信仰者は何度も経験し、神が備えておられることを知るのです。それも、神レベルの祝福を用意してくださるのです。感謝しかありませんね。今、心配している方は、やがて神の恵みを見ることになるのです。自分のためにこんなに良くしてくださると大喜びするのです。(佐久間)

 

8月8日(水)

ヨセフは父を見るやいなや、父の首に抱きつき、その首にすがったまま、しばらく泣き続けた。イスラエルはヨセフに言った。「わたしはもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから。」

創世記46:29、30

 

何歳になっても息子にとって父は特別な存在といえる。特に、可愛がってくれた父と息子は愛で結びついているものだ。ヨセフのように、悲劇が襲って生き別れになってしまった場合、時は止まってしまう。だから、今、父との再会が実現した時に、ヨセフはエジプトを治める者からヤコブの息子に戻ってしまい、子供のように泣いたのだ。年老いた父の愛は深く、死んでいたと思っていたヨセフの顔を見ることができたので、もう死んでもよいと言った。歳をとると人はこの世への未練を失い、物事に執着しなくなる。死期を考えるようになるからだ。ヤコブにとっての心残りは消息を絶ったヨセフのことだった。あれ以来、ヤコブの人生から光が失われたように感じ、寂しさがヤコブの悔いとなった。それが、なんということだろう。主がヤコブに光を戻してくれた。主の祝福は驚くような事実としてヤコブの目の前に開けている。死んだはずのヨセフが生きていて、エジプトを治めるものとなり、今、ヤコブ一族全員を救ってくれた。そして、主もヤコブたちがエジプトへ行くことを認めてくれたのだ。ヤコブが会いたいと願ったヨセフがとうとう目の前に現れ、抱きついてきて泣いている。これは夢ではない、現実だ。主の祝福は完全だった。一人の子供も損なわれずに、ヤコブが祝福された者であることを主によって見せられている。大きな喜びがヤコブを満たした。歳をとってもう喜びなどないと思っていたのに、最後に人生最大の喜びが備えられていたのだ。さて、クリスチャンのことも少し考えてみたい。クリスチャンも神に祝福された者だからだ。その祝福はあまりにも大きなもので、人生という大きな時間全体を通して現されるのだ。一時、あるいはもっと長い年月、辛いことや悲しいことばかりであったとしても、人生全体を通して見れば、大きな祝福が見えて来る。そして、神を信じてきて良かったとつくづく思うはずだ。感謝をもっと多く主に現すべきだったと思うことだろう。晩年になれば主の祝福の意味がわかるからだ。そして、その祝福を味わうことができる。だから、クリスチャンとして一日一日が尊いことを覚えて生きよう。どんな日が来ようとその日も主は祝福されている。それを認めて感謝できれば、幸せはその人のものなのだ。(サクマ)

 

8月9日(木)

「ご主君には、何もかも隠さずに申し上げます。銀はすっかりなくなり、家畜の群れもご主君のものとなって、御覧のように残っているのは、わたしどもの体と農地だけです。どうしてあなたさまの前で、わたしどもと農地が滅んでしまってよいでしょうか。食料と引き換えに、わたしどもと土地を買い上げてください。わたしどもは農地とともに、ファラオの奴隷になります。・・・」

創世記47:18、19

 

飢饉が激しさを増してきました。「世界中に食料がなくなった」のです。ヨセフから食料を買うために、銀を支払い、家畜を支払い、とうとう最後に残ったのは、体と農地だけになりました。それが、今日の聖句です。人間は、奴隷になっても生きようとすることがわかります。ですから、銀も家畜も自分自身も農地もみなファラオのものとなったのです。ファラオがヨセフを囚人からエジプトを治める者に指名したのは、ファラオにとって正しかったことになります。そして、ヨセフの年貢の定めは民から感謝されました。生きる希望をもてたからです。自然災害のように自分の力ではどうしようもないことがあるのです。人口が増え続け異常気象も重なって、いずれ食料危機が来るとも警鐘が鳴らされていますから、遠い昔の他人事などと考え、自分とは無関係と思っていてはいけないのです。現在の豊かさを享受できるときに、備えることも忘れてはなりません。子供が飢えない世界を作ることが大人たちの責任です。飽くなき利益を貪るだけの世界は、貧富の差を生み出します。全員で分け合って食べることを忘れると、必要ないのに誰かの食べる分も奪ってしまうかもしれないのです。現在もヨセフのような信心深い賢明な人を指導者に立てて、神様がこの世界を支配してくださることが人間にとって最も良いことなのです。物事を神様の目を通して見る者のようになりたいですね。(さくま)

 

8月10日(金)

そして、ヨセフを祝福して言った。「わたしの先祖アブラハムとイサクがその御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ。わたしをあらゆる苦しみから贖われた御使いよ。

創世記48:15、16

 

七十人訳聖書では、「彼は彼ら(エフライムとマナセ)を祝福した」としています。この読み方の方が15、16節の文脈と祝福の内容に合っています。ヘブル語本文では、今日の聖句のように「ヨセフを祝福して」となります。そうであれば、ヨセフへの祝福は、その子たちへの祝福を意味していたことになります。さて、祝福の内容です。初めに信仰の父であるアブラハムが出てきますから私たちとも関係があります。「アブラハム・・・がその御前に歩んだ神」。私たちの信仰生活が、アブラハムやイサクが神の御前に歩んだように歩むことが必要です。「牧者なる神」、私の羊飼いとしての神。ヤコブが自分の人生を振り返った時の実感がこの言葉に現れています。私たちも羊として牧者が必要です。私たちはイエス・キリストを私の牧者と理解しています。至れり尽くせりで私たちをお世話してくださるイエス・キリストを知っています。もう一つは、「あらゆる苦しみから贖われた御使」あるいは、「私のゴーエールとして働かれた」神あるいは御使です。ゴーエールというヘブル語は、もっとも近い親類の男子を意味します。彼の責務は、①レヴィラート婚(38章参照)と②負債のゆえに奴隷となった兄弟の自由を買い戻すことです。そしてそれは、エジプトでの奴隷状態から民を解放して救った神の行為を書き記す時に使われた言葉なのです。「あらゆる苦しみ」は「すべての困窮から」私を解放したと訳すことができます。これらのことがクリスチャンにも反映しているのです。そして、出エジプトの出来事が救いの青写真となっていると見ることができることから、クリスチャンも自分の神を知るために、今日の聖句は人ごとではないのです。神は族長たちにされた恵みと祝福を今も信じて救われた者たちへ同じように惜しまないのです。私たちは勝手に自由気ままに生きているのではありません。神に導かれて生きているのです。牧者であるイエスは、あなたが困らないように全てを面倒見てくださいます。その導きに従う限り、間違うことなく御国の門にたどり着くでしょう。どんな困難でも、あらゆる苦しみでも、主は贖ってくださいます。あなたを罪と死と悪魔の奴隷からイエスの命を代価として支払って、買い戻し、自由にしてくださったのです。その御恩に報いて生きる者が私たちなのです。(佐久間)

 

8月11日(土)

どうか、あなたの父の神があなたを助け、全能者によってあなたは祝福を受けるように。

創世記49:25

 

ヨセフの祝福は際立っていました。他の兄弟と比べれば破格の祝福です。物語を読んで来た読者は、その祝福の理由を理解できるでしょう。そこで、このように考えてみました。これは人間の個性や人格をイスラエルの十二人兄弟をモデルに十二のパターンに分けているように見えます。あなたなら、どの人を選びますか。勿論、ヨセフでしょうか。ユダと言う人もいるかもしれません。他の兄弟はどうも選びたくありません。そこで、ヨセフですが、その詩は宗教的です。クリスチャンの理想像かもしれません。神の御前に忠実で正しい者として生きるためには、生まれたままの人ではダメだったのです。彼は、大きな試練の中で精錬された金や銀のようです。金や銀は純粋なものとなるように、火で精錬されるのです。クリスチャンもそのように試練を通して不純物を焼いてしまう必要があります。ヨセフも神に頼らなければ、一日もやっていけないような状況に追い込まれたのです。それでも自我を通そうとする人もいれば、自分の余計なものを捨てて焼き払い、神に従順になって主の御心を実現できる人になるヨセフのような人もいるのです。辛いことや試練があれば、自分が神の子に整えられていると理解しましょう。自分が捨てなければいけないことは意外なほど多いのです。そうやって身軽になっていけば、聖霊がその人に賜物としてキリストの品性を分け与えてくださるのです。この品性を身につけた人が神の人と呼ばれるのです。当然、祝福を受けて生きることになります。(佐久間)

 

8月12日(日)

ヨセフはイスラエルの息子たちにこう言って誓わせた。「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。その時にはわたしの骨をここから携え上ってください。」

創世記50:25

 

日本人は骨にこだわる国民だと思います。そして、またヨセフも同じよう骨を約束の地カナンへ持ち帰って欲しい願い、家族に誓わせたのです。ヨセフの意識はアブラハム、イサク、そしてヤコブと続く族長との間にパレスチナの土地を与えるという神の約束にあります。言葉を変えれば神との契約があるということです。エジプトは緊急避難の場所であって、定住する場所ではありません。どんなに快適で住みやすくても、それはあくまでも人間的な判断であって、何の意味もないのです。しかし、ヨセフはエジプトに住み続けることはないと知っていました。やがて主がヤコブの家族をカナンへ連れ帰ると信じていたのです。その時に、骨をエジプトに置いてはいけないと考えていました。アブラハム、イサク、ヤコブと同じ墓に葬られたいと願ったのです。死んでもまだ居るべき場所があるとすれば、それこそがカナンであったのです。さて、我々はどうでしょうか。最近の日本で少子化で墓を守れないという厄介な問題が出て来ました。死んだら海に遺骨をまいて欲しいという人も出て来ました。高額の墓を買っても誰が守るのか、といった深刻な問題を抱えている時代に私たちは生きているのです。2024年には3人に1人が65歳以上の超高齢者大国になると言われています。2039年には深刻な火葬場不足に陥ると推計されていて、さらに墓を守る人がいない、いわゆる「無縁墓」が大量に出ることが予想されています。実は、東京圏ではすでに、火葬場が取れずに1週間や10日ぐらい待たされることが生じているのです。そうなると、遺体を預かる「遺体ホテル」と呼ばれるサービスも登場して来ました。当然、葬儀費用も値上がりします。その中で、東京圏の人たちは斎場も火葬場も満員なら、いっそ個人の故郷で葬儀をしてはどうかということで、「お葬式は故郷で」と呼びかける自治体まで出ているそうです。これなどは、ヨセフやヤコブの例と似ています。日本に住む私たちにとっては、骨の問題はどうでもよさそうですが、外地で客死した教会員が遺骨となって帰国し、教会でお葬式を取り行ったことがありました。何か、死ぬことも簡単ではなくなって来た感じがします。できることなら生きたまま再臨を迎えたいものです。(佐久間)

 

8月13日(月)

わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵の上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。

ヨハネ1:16、17

 

わたしたちが受ける恵みは、イエス様からいただく恵みです。それは、一回だけの限りある恵みはありません。恵みを受けたら、更にその上に恵みを受けるというものなのです。この世のはかない限りある恵みとはわけが違います。この世のどんな欲しい物でも、手にした時から色あせて欲しい物ではなくなるのです。だから次に欲しい物を見つけて満たされようとしますが、空しくなるだけです。イエス様はそのようなものを与えようとはしません。生きて行く時に感謝が生まれるような恵みを与えるのです。それは、住む家があると気がつく時に生まれる感謝だったり、お金に不安を覚えるような時に予期せぬお金が与えられたりする時に感じる感謝です。また、自分がちっぽけな存在だと思えて自信がなくなる時に誰から認められたり、褒められたり、感謝されるようなことが起こる時です。また、祈りに明確に応えが与えられる時、イエス様が自分だけがわかる小さな喜びを与えてくださる時、そして、讃美歌のように恵みを数えた時に心が震えるような感動を覚える時にです。自分の罪のためにイエス様が黙って十字架にかかってくださったことが恵みだとわかった時に、私たちは救われました。そして、聖書を読み、調べ、宝が真理のことであるとわかり、その真理がわかると、今まで自分を縛っていた意味のない事や苦しめていたことから自由になるのです。こうした喜びの生活は、イエス様を抜きにしてはありえないのです。クリスチャンは特にイエス様中心に生きることを知ると、素晴らしい人生を歩めるようになります。特別な人だけがなるのではなく、誰でもイエス様を中心にするならこの恵の世界を生きることができるのです。(さくま)

 

8月14日(火)

イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

ヨハネ2:4

 

カナの婚礼の話しで、婚宴でぶどう酒がなくなるという緊急事態が起こりました。おそらく、イエスが連れて行った弟子たち五人分が予定になかったためと思われます。ユダヤ人の祝宴にはぶどう酒は不可欠なものでした。そして、婚宴で飲食が足りなくなることは新郎新婦にとって大変恥ずかしいことで、面目を失うことになるわけで、絶対に避けなければいけない事態に陥ったのです。そこで、マリアはそうした緊急事態を仕切る役であったようで、イエスに頼みました。その時の答えが今日の聖句です。ヨハネの福音書は読んですぐにわかる物語と、もっと深い意味が隠されていて、それらを読み解くと真理が見えて来るというような文書なのです。さて、イエスはこの時、どんな語調で話したかで様子が変わります。怒ったようにきつい調子で言われたのなら、本当にマリアを非難していて拒否しているとなるのでしょう。しかし、イエスは穏やかに話していたのなら、だいぶニュアンスが変わります。バークレーは次のように訳しています。「心配しないで下さい。あなたは、どんな成り行きかよくおわかりにならないのです。この事態を私に任せて下さい。そうすれば、私のやり方でそれを収拾しましょう」。「婦人よ」これは、古代の用例を見ると尊称であり、丁重な言い方なのです。さて、もう少し、別の見方をしてみましょう。イエスは、「わたしの時はまだ来ていません」とおっしゃいました。福音書でイエスの時とは、①メシヤとしての顕現と②十字架と死のことです。私たちは、聖餐式でパンとぶどう酒がキリストの十字架で裂かれたお体と流された血を象徴すると考えます。すると、今ぶどう酒が無くなった、と言われてイエスが大勢の人の贖いとして血を流すことをお考えになられたことは想像できます。イエスは婚礼の花婿としてご自身を理解していました(マタイ9:15等参照)、ですからマリアが婚礼のぶどう酒が無くなったとイエスに言われた時に、イエスが罪びとの救いのために血を流す時はまだ来ていないという意味でここに書かれたと理解してもいいだろう。また、ぶどう酒を作るために水をかめに満たし、それがぶどう酒になったことも、血と結びつけると、「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです」(Ⅰヨハネ5:6)に繋がります。いろいろ考えてみて下さい。(佐久間)

 

 8月15日(水)

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」

ヨハネ3:3、4

 

ヨハネは学ぶべきことが多すぎる。ニコデモがファリサイ人であったことはどんな意味があるかを知ることはクリスチャンにとっても大切なことだ。律法をどのように守っていたかを知ることもこれからキリストが語ることを理解する上では必要だろう。ファリサイ派の考えていたこと、そして実際に実践していたことは、おそらく人間が考え得る自力で義を勝ち取る最良の方法なのだろう。しかし、彼らは罪人の意味を軽く考えていた。神の独り子が死ななければならいほどの事とはわかっていなかったのだ。人間が宗教的な努力で神に義と認められ天国へ行けるということはできないことなのだ。それは、ニコデモがおそらく感じていたであろう、努力して律法を遵守していても満たされない心の渇望感だ。そして、イエスの語られた、「もう一度」と訳された言葉、アノーテン(ギリシャ語)が三つの意味を持っている事もニコデモがすぐに理解できかった理由だったろう。三つの意味とは、①初めから、完全に、根本的に。②第二回という意味でのふたたび、もう一度。③上から、つまり神からという意味。イエスは、人の救いは神の国へ入ることであり、神の国へ入ることは、新しく生まれることだと教えている。福音が意味するところは、神が人を義とする、ということだ。それは、人がどんなに頑張っても罪を犯し続ける存在だから、義とはなり得ないからだ。そこで、罪の問題を根源的に解決することが必要で、罪を贖う必要があった。それは、スピード違反した人が罰金を支払うことで赦されるようなことだ。罪の支払う罰金は死だ。罪を犯したことのない人が罪を犯した人の身代わりに死ぬことで罰金を支払い、赦されるということなのだ。罪は汚れでもある。神は聖である。人間の本来の罪のない姿は聖であって、神との自由な交わりができるのだ。そして、イエスはこれらのことを全てできる唯一の人だった。イエスは、罪人が救われる唯一の道なのだ。他には何もない。イエスを信じるということは、イエスの語った言葉を全て信じるということだ。そして、罪を赦され清められたなら、新しく生まれるために神の息である聖霊を求めて受けなさいと教えている。それは、まるで新しく生まれ変わることなのだ。その時、神の支配する世界に生きることができると言いたいのだ。この真理を理解できるように、ヨハネはこのような問答形式で考えぬき、自ら解決して真理に到達できるように教えているのだ。あなたの知りたい重要な真理は本書に書かれている。聖書をあちこち開いて調べてみよう。(サクマ)

 

8月16日(木)

目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。

ヨハネ4:35、36

 

私の住んでいる所の稲の刈り入れが既に始まっています。稲の穂が重そうに垂れています。農夫はいつ刈り入れをするか稲の様子をよく見ていて、その時を見逃しません。今日のイエスの話しも、刈り入れのことです。もっともそれは、人の魂の刈り入れのことです。私が牧師二年目に札幌から東京に転勤になりました。そこで、毎年たくさんの青年たちがバプテスマを受けました。ある時、前任者が私にボヤいて、「自分はいつでも種まきばかりで、他の人が刈り入れをしている」と言いました。確かに、伝道して求道者を見つけ、聖書研究を授け、バプテスマへと導くのですが、その最後のバプテスマが数として評価される傾向があるのです。牧師会でも教会・牧師毎のバプテスマ数が表として配られ、成績が一目瞭然となるのです。しかし、伝道の難しいと言われる東北や北陸などの牧師は毎年バプテスマ0名が続くことがありました。それに、イエスが語られた通り、刈る人だけではなく、蒔く人も必要なのです。ある新興宗教の幹部を務めた信者がキリスト教に改宗したことがありました。その人は、積極的に種を蒔く人だったのです。ちょっとマネできない才能の持ち主でした。人を集めてくるのが得意なのです。そのような人は滅多にいませんが、新興宗教で急激に発展しているところには必ずそのような人がいるものです。また、伝道資金を集めてくる達人も必ずいます。そうでなければ、発展することはできないからです。戦後の日本伝道もアメリカの教会が大きな犠牲を払って献金を献げてくれたことが大きかったのです。そして、異国に福音を伝えることを志して日本へ来られた宣教師たちが献身的に種を蒔き、刈り入れたのです。アメリカの教会の凄さは、世界中に宣教師を遣わすことを自分たちの使命と思っていることです。私たちは種を蒔くのが好きか、刈り入れることが好きか、分かれるかもしれません。両方ともできる人もいるでしょう。しかし、イエスの弟子として召されたのですから、主に祈って種蒔きか刈り取りか両方かできるように願ってみることは御心にかなっています。自分にはできないと決めつけることをしないで、主に願ってみることです。きっと心踊る感動の経験へと導かれるでしょう。(佐久間)

 

8月17日(金)

この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。

ヨハネ5:15、16

 

イエスはベトザタの池で病人を癒しました。その男は38年も病気で苦しんでいたのです。その人をイエスは癒しました。彼の喜びはどれほど大きなものだったでしょう。ところが、その日は安息日だったのです。だから、病気を癒したイエスはすごい、とはならないで、逆に安息日を破ったと非難されたのです。そればかりか、イエスを殺そうと狙われるようになりました。イエスは大勢の病人を癒していたのです。今日の教会はどうでしょうか。病人が奇跡的に癒されたということはなかなか聞かなくなりました。それどころか、教会で、癒しの祈りをして本当に癒された、ということが起こると、そのことを信じないばかりか、避難し、その奇跡を否定してしまうようなことが実際に起こっています。私も教区に呼び出されて事情聴取を受けて、牧師たちがいかに癒しの奇跡を信じないのかを見せられました。その時、教区長が問い詰めたのは、「あなたは本当に癒しを行なっているのか」ということでした。教会で病人のために癒しの祈りをすることはどこでもやっているでしょうが、実際に奇跡的に癒されると問題になるのです。祈っても癒されないと問題にはなりません。本来は、逆でなければいけないでしょう。昔も今も変わらないことを見せられてきました。安息日は十戒に出てくるのですから、当然守るものです。しかし、今日、安息日を文字通りに守ろうとしている教会はほとんどありません。日曜日に礼拝をしている教会がほとんどです。逆に安息日を守ると、律法主義かユダヤ教のようにみなされて非難を受けることがあるのです。確かに、安息日遵守者にとって、今日のイエスの行動は安息日を破ることと映る可能性があります。しかし、律法は自分を愛するように隣人を愛する、ということを実践することなのです。そうであれば、目の前の憐れむべき病人をすぐに癒すことは律法を守ったことになります。そのことが否定されることは、愛することを否定することになるのです。人間的に考えすぎてしまうと、本来の目的を逸脱することがあるのです。形式的になりやすいことは特に注意が必要です。(佐久間)

 

8月18日(土)

命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。

ヨハネ6:63、64

 

「イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(35節)。私たちはイエスが飢えと渇きを癒すお方であることを知っている。それはイエスこそがメシアであるからだ。一方、ユダヤ人たちはイエスが本物のメシアであるか試した。それは、メシアは偉大なモーセ以上の者であるはずだという考えから始まる。モーセの最大の業は、マナを降らせたことだった。だから、イエスが地上のパンではなく、天からのマナを降らせることを求めていたのだ。それに対して、イエスはモーセがマナを与えたのではなく神が与えたことに気づかせ、マナは神のパンの象徴に過ぎないことを示した。それは、肉体の飢え渇きを満足させる以上のことが人間に必要だからだ。そして、イエスこそが人間に命を与え、豊かに満たすことのできるお方なのだ。イエスはそのことを話した。イエスを信じる者が命を得ることができることを教えたかったのだ。だが、イエスの言葉を聞いて信じた者と信じなかった者に別れた。メシアを待望し、永遠の命を得ようとしていた人たちが、今、メシアの言葉を聞いている。人間の勝手な思い込みから来る感情やちっぽけな狭い心で考えた同しようもないこと、そして、つまらないプライドや自己中心な理屈は人間に害こそあっても何の救いもならない。人間の心は気をつけないとすぐに曲がってしまう。愛とか喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制、こうした品性はまっすぐな心にしか実を結べない。多くの場合、無力な子供時代に心を傷つけられ、愛されずに、失望させられ、罪を見せつけられ、心を曲げさせられてしまう危機があるものだ。不思議なことに、同じような恵まれない環境に育っても、本人次第で良くも悪くもなる。だが、だれかがその人に愛情をかけて入れば、それだけで立派に生きていける。そうしたことを私たちは見聞きして来たはずだ。そして、ここにイエスがおられる。どんなに惨めで飢え渇いていても、イエスこそが探し出してくださり、慈愛の眼差しを向けて、いたわり、優しく癒してくださいるのだ。それで、死にそうになっていた魂が一気に命に溢れ、癒されるのだ。イエスは私たちが何者かを気づかせてくださる。生きることができるようにと聖霊を満たしてくださる。汚れた心が清められ、イエスこそが命のパンであることを知る。人はパン無しに生きることができないように、イエス無しには生きられない、新しい命を与えられるのだ。そこに救いがある。イエスを信じると言うのなら、イエスによって自分が変わるはずだ。それはイエスを仰ぎ続ける中で起こる。肉の行いにはよらない。肉は何の役にもたたない。私たちは、聖霊によって自分の義ではなく、主イエスの義が自分のうちにある者へと変えられる。間抜けなユダヤ人のようにはなりたくない。イエスの言葉を信じよう。(サクマ)

 

8月19日(日)

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスはご自分を信じる者が受けようとしている“霊”について言われたのである。

ヨハネ7:37~39

 

イエスはメシアとして来られたのです。救世主ということです。人を清めて再生するには、神の創造の力によらなければできません。創世記1章2章に書かれた人間の創造のようなことをしなければ、人は新生することはできません。それと重要なことは、イエスのもとに来ること、自分が渇いていると自覚していること、そして、イエスに信仰を現すことです。イエスはどうやって人を新生させるのでしょうか。それは、水に浸ける洗礼のように聖霊にその人を浸けてしまうことです。その人から川のように聖霊があふれるようになるほど聖霊漬けにするわけです。肉が文句を言えないように、肉の常識を持ち出して神に対抗しないように、聖霊が圧倒するわけです。せっかく渇いていることを認めたのです。それを癒すことのできるのはイエスだけだと信じたのです。ならば、自分の考えを放棄して、素直に命の水を飲めばいいのです。でも、とか「たら、れば」を言っているようでは信じたことにはならないし、渇いているのに自分で何とかすると言っているようなものです。聖書はいつでも、イエスを信じた人と信じなかった人を描き出します。イエスに出会うということは、信じるか信じないかのどちらかに分かれてしまうのです。その結果は、大違いです。生きた水が川となって自分の内から流れ出る経験を期待したいですね。(佐久間)

 

8月20日(月)

イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

ヨハネ8:7

 

SNSの普及によって、今日のイエスの言葉は十分考慮しなければならない。人を誹謗中傷してはいけないことを知っているのに、匿名性があると人は平気で人を裁く傾向がある。その人がどのような経緯があり、動機がどうして生まれたのか、一体本当はどうであったのか、など正確な情報も確かめずに、みんなで寄ってたかって言いたい放題に一方的に書き立てというのは、どうしてだろう。そんなひどい言葉を目にするとそれだけで気持ちが暗くなる。当事者はどれほど傷ついているだろうかと心が重くなる。気をつけなければいけないのは、私たちは、面白半分に人を裁くことがある。それほどの罪の意識はない。だから、反省することがないのだ。さて、今日の場合はどうだろう。姦通の現場で捕まった女がイエスのもとへ連れてこられた。連れて来たのは、イエスを陥れようとする、律法学者やファリサイ派の人々だ。彼らの意図は、イエスを窮地に追い込むことだった。ユダヤ人の律法では姦淫は重い罪だった。律法の三大犯罪は、偶像礼拝、殺人、姦淫だ。石打ちによる処刑は、婚約しているにもかかわらず姦淫を犯した女に行われる刑であった(申命記22:23、24)。さて、どうしてイエスがここで窮地に陥るかと言えば、もし、イエスが石打の刑を認めれば、イエスは愛と憐れみの方という信頼を失い、罪人の友とは二度と思われなかっただろう。そして、死刑を指示したのだから、当時の支配者であったローマ人のローマ法に抵触した。つまり、ユダヤ人には死刑を宣告したり執行する権限が無かったのだ。また、逆にこの女を赦せと言えば、イエスは律法を破るように教え、このような不義に甘く、姦淫を助長しているとさえ言われただろう。私たちは、人を裁こうとする時に、この聖句を思い出さなければならない。自分がしようとする事は石打の刑と同じことではないと言えるかどうか、そもそも「罪を犯したことのない者」と言われれば誰が石を投げることができるだろう。イエスは全てを知っているから、人の罪も知っている。それを書き出して示さなければ、まるで罪を犯したことのない人のように高ぶって他人に石を投げようとするのだろうか。皆んなで裁けば怖くないというのが一番恐ろしい。ちゃんと自分で考えられる人になりたい。私たちが求められていることは、罪を犯した人を殺すことではなく、その人が悔い改めて罪を犯さなくなるように働きかけることだ。何もしないで見過ごせと言っているのではない。イエスは、「これからは、もう罪を犯してはならない」と言われた。罪の問題は根が深い。イエスから学ばなければならない。(サクマ)

 

8月21日(火)

彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまづくと、イエスは言われた。「わたしがこの

世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」

ヨハネ9:38、39

 

9章は生まれつき目の見えない人の話です。イエスが安息日に盲人の目を癒されたことが語られ、それが宗教家たちの間で大問題に発展するいきさつが描かれています。そして、イエスの御言葉は私たちに大切なことを教えています。イエスが人と出会うなら、それが裁きになるということです。イエスに愛や慈悲を見出すことができる者は、この盲人のように癒され救われるのです。ファリサイ派の人たちは、イエスを見ても、認めることができませんでした。盲人の目を見えるようにしても、イエスが誰かわからないのです。どの教会にも教理があり、規則が何かしらあるものです。それが長く守られてくると権威をおび、いつしか形骸化することがあります。安息日を休むように、モーセに示された時、詳しいことはありませんでした。ですから、ここでファリサイ派の人たちが安息日に盲人の目を癒すことがいけない、と言うのは彼らの解釈でしかありません。ユダヤ人たちは、罪を犯し続け、それが最後には国を失い、バビロン捕囚になったことから、もっと律法をちゃんと守らなければならないと思い、専門家を養成し、律法を厳格に守ることができるように細則を増やして対応しました。しかし、いよいよキリストが来られた時に、彼らは肝心のキリストを見ても見えなかったのです。皮肉なことに、弟子たちですら生まれた時から目が見えなかった人を罪と結びつけて罪の因果応報だと思っていたのですが、イエスはそうではなく、神の栄光が現れるためだとおっしゃいました。事実、目が見えないことを罪と同一視していたユダヤ人に、イエスを通して盲人の目が癒されて見えるようになったことが示されました。本来ならば、奇跡を喜び、神を讃えるべきだったのですが、彼らはイエスが安息日にしてはならないことをしたと怒り、証人である見えるようになった盲人を否定し、非難したのです。彼らは、自分たちが正しい、見えると言い張りましたが、イエスが誰であるか全く見えていません。盲人が見えるようになったと言い、それがファリサイ派の人たちの目の前で見えているのに、心が頑なで認めることができなかったのです。私たちも、人ごとではありません。自分が信じられることだけ信じるというような信仰は、いつか破綻します。私たちが求められているのは、「主よ、見えない私を見えるようにしてください」との祈りです。そして、「主よ、信じます」という心からの告白なのです。すでに、良いことが始まっているのです。キリストは来られたのです。キリストはあなたを探してくださるお方です。あなたが見えないと思っていても、あなたを励まし、信仰を引き出して、見えるようにしてくださるのです。主があなたに要求することがあるとすれば、それは目に塗られた泥を池に行って洗うぐらい簡単なことなのです。あなたに主は奇跡を行います。それで、あなたは見える者になるのです。(佐久間)

 

8月22日(水)

わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。

ヨハネ10:11

 

人間は恐ろしいことが苦手です。だから、誰かに頼りたいのです。もちろん、誰でもよいということではありません。本当に頼って大丈夫な方に頼りたいのです。私たちが幸運だったのは、私たちにはどんな時でも頼れるイエス様がいることです。イエス様のイメージがよくわからないという人は、今日の聖書箇所から、イエス様が良い羊飼いであることを覚えるのがいいと思います。とてもイメージしやすいからです。私たちは羊です。羊は、牧場のような所で実物を見たことがあるかもしれません。羊の特徴は方向音痴なのです。だから、道に迷うわけです。羊飼いが必要なわけがわかりますね。パレスチナの羊飼いには二種類あって、雇われ羊飼いと、自分の羊を飼っている羊飼いです。当然、雇われの方は危険が迫れば羊を置いて逃げ出してしまいます。でも、自分の羊を飼っている羊飼いは、熊やライオンあるいは狼のような羊の命を奪う恐ろしい獣だって、逃げ出すことはありません。命がけで立ち向かい、羊を守ってくれるのです。だから、イエス様は良い羊飼いであると明言されたので、私たちはすっかり安心できるのです。それこそ、陽気にメーメー鳴いていればいいわけです。「羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」と書いてある通りです。イエス様はあなたの名前を知っているし、あなたを名前で呼んでくださるのです。あなたは、イエス様の声を聞き分けるのです。だから、正しい選択ができるし、怖いと思う時だって勇気が出てくるのです。私たちがイエス様を羊飼いとして信じているのは、御言葉の通りにイエス様が私たちのために十字架で命を捨ててくださったからです。だから、イエス様でなければダメだし、イエス様を愛しているのです。でも、それ以上にイエス様が愛してくださるので、何があっても大丈夫なんだな~ってわかるのです。さあ、今日もイエス様が先頭に立って私たちを連れ出します。きっといいことが待っていますね。(さくま)

 

8月23日(木)

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

ヨハネ11:25、26

 

イエス様は何を言われたのだろう。その意味を考えてもわからないという人は多いのです。そこで、はじめの主の言葉に注目すると、「わたしは復活であり」とあります。復活は、死んだ後のことです。そこで、罪人が肉の体で死ぬことはあっても、イエス様を信じた人は、その死に負けることはないのです。イエス様が十字架で死に勝利されたからです。それは、三日目に墓から復活されたことで証明されています。ここで、これは霊的なことを教えているとわかります。そもそも、私たちは洗礼の時に罪人に死んで水のお墓に埋葬し、水から出る時にキリストの復活の命によみがえると教えられたのではないでしょうか。聖霊のバプテスマを受けると霊的覚醒を経験し、霊の目が開かれるというメリットがあります。それは、神の国に生きることができるようにです。神の国は確かにありますが、それは神が霊で目に見えないように、神の国も肉の目には見えないのです。もちろん、神の国とは神様が支配する国ということですから、神様がお働きになることを信じる信仰によって実現しています。イエス様がラザロの復活を弟子たちに見せる必要があったようで、「目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた」とあるように、信じることのレベルを測るものがあれば、明らかに最高値を記録したはずです。人間は、イエス様の行った奇跡を見て、信じたのです。そこで、現代人はイエス様の奇跡を聖書時代のようには見ることができませんから、信じること自体が同じではないのです。聖霊のバプテスマはそれを補うような働きがあります。聖書に書いてある通りに聖霊の賜物が信者に現れると、信じるというレベルが上がります。もちろん、奇跡主義ではありませんから、奇跡が起こらなければダメだとは思います。しかし、明らかに信じることが問題になっているのですから、霊的な覚醒が必要なのは間違いありません。信仰を持って眠りについた人たちは、再臨の時に復活するのですが、一晩寝て起きたような感覚だと思います。復活がある死と復活の無い死では雲泥の差です。やがて、信仰者はこの御言葉の意味を自らの体験を通して知ることになります。イエス様を信じる人は幸いです。(さくま)

 

8月24日(金)

弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。

ヨハネ12:4~6

 

今日の聖句は少し長い箇所です。これは実に、悪いことをしている人間が何をするかという実例としてよくできているのでここから学んでみたいと思います。イエスの弟子の一人であるイスカリオテのユダがなぜイエスを裏切ったのか考えるには、この箇所も見落としてはいけません。彼は、イエス一行の会計係りだったのです。人の金に手を出せば、これは泥棒です。その盗人がイエスの弟子の中にいたのです。さて、12章のはじめに出てきた物語は大変美しいものです。マリアが高価なナルドの香油をイエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐったという話です。この香油の価値が300デナリオン(現在の金額にするのは難しいですが1日1デナリオンの日当と言われていますから、300日分の賃金に相当すると思われますから、概ね年収分ぐらいです)とユダは言っています。こっそり悪いことをしている人は、逆のことを強調して声高に話すものです。つまり、マリアは非常に高価な香油をイエスに惜しげも無く使いましたが、ユダはそれを無駄だと言ったのと同じ反応をしたのです。そして、香油をお金に変えて貧しい人に施せ、と言うのは、自分がお金に執着していて、預かったお金も使い込んでいることを意識しているからこそ、心にもないことを言い出し、貧しい人への施しという見え透いたことを言ってしまったのです。ここで、ユダの過ちは、①イエスの価値がわかっていなかったこと。イエスがメシアであれば、高価な香油を注ぐことは当然なことだったのです。しかし、ユダはこの地上の革命家としてイエスを持ち上げたかったようです。イエスの側近として寝食を共にしてきたのに、イエスのことを何もわかっていなかったのです。②イエスは、「枕するところもない」とおっしゃいました。無一物で無私であったのです。それだから、イエスは貧しい人そのものだったのです。天の王子が人間の最底辺にまで身を落として罪人を救おうとされたのです。だから、貧しい人へ施せ、というユダの言葉をマリアは行なっていたのに、ユダは何も見えていなかったのです。それは、心にやましさを持って、それを隠して生きていたからです。イエスを理解するには、私たちも自我を捨て、自分へのこだわりを一切捨てるべきです。自分を誇れるものも、逆に自分の負い目も、イエスの御前に立つためには捨て去らなければなりません。イエスはあなたを責めることはしません。あなたを受け入れてくださる主なのです。ユダのようにイエスのそばにいてもイエスを見ようとしない人になってはいけません。イエスを見なさい。ただそれだけでいいのです。(佐久間)

 

8月25日(土)

ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。

ヨハネ13:14

 

洗足式を行なっている教会は少ない。これも教会の考え方なので、こうでなければいけないとは言い難い。式となれば、形式的になりやすい。例えば、「上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた」と聖書に書いてあると、まず、上着を脱ぎ、腰にタオルをまかなければ正式ではない、とか言い出す人が現れる。一方ではそのようなことは全く考えずに足を洗うことだけ考えている人がいる。当然、その人を正式にやっていると思っている人は注意することになり、相手は嫌な気分になる。厄介なことは、形式はイエスでない後世の誰かが考えたもので、本来何の意味もないのだ。ところが、牧師が何がしかのこだわりを聖書的に語り教えると、その時の信徒で忠実にそれを守ろうとする人が現れる。その人は、先生の教えを忠実に守ることだけを考えて、教えを守らない人を厳しく注意するようになるのだ。これでは、完全に趣旨を逸脱している。同じ13章にイエスは、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい」(34節)と命じている。「互いに足を洗う」ことと「互いに愛し合う」は、実は同じことを言っているのだ。自分を人の上に置くと、争いが避けられない。そこで、弟子たちは誰が一番偉いかで競っていたのだ。それをイエスは危惧して、最後に自らの手で弟子たちの足を洗い、一番偉い者が一番へりくだって人の人の下に自分を置くことを示した。そのことができれば、互いに愛し合うことは可能となり、律法の求める愛が成就できると教えたかったのです。それは、ノアの時代の罪のとめどもない拡大を再現しないためのたった一つの秘策だったのです。互いに足を洗っても互いに愛し合うことができないのなら、洗足式など意味がないことになります。イエスは、「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。」(10節)と語られました。クリスチャンでも、生きていけば失敗もするし、愛ではないことをしてしまうことだってあるのです。そうしたことを放っておかないで、赦したり、祈ったり、へりくだって相手の足の汚れを洗ってあげるような事をすること、それが互いに愛し合うという意味なのです。このことが実践されているかどうか、それが大切なことなのです。(佐久間)

 

8月26日(日)

心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。

ヨハネ14:1

 

聖書の御言葉を信じて読む人がいます。言い方はおかしいですが、その通りにしている人がいるわけです。本当に不思議なことなのですが、そうやって読むと効果があるのです。クリスチャンだって、心を騒がせることはあります。そのような日がやってきます。その時です。この御言葉がよみがえってくるのです。ある人は神の声として聞いているし、ある人は突然この御言葉を思い出して神を信じるのです。タイムリーという言葉がありますが、まさに絶妙のタイミングで心にこの言葉が聞こえて来るのです。おそらく、困った時、落ち込んだ時、心が不安でどうにかなりそうな時、そんな時に、今日の御言葉を思い出してください。それができれば、神を信じ、イエス・キリストを信じるということが心からできるのです。その効果たるや驚くばかりです。今まで、悪いことが起こった、さあ、どうしよう、と心が不安で否定的になってしまっていたのに、その不安が消え去るのです。そして、逆に困ったと勝手に思い込んでいたが、実はこれは飛躍するチャンスではないか、と見えなかったものが見えてくるのです。人間は怠け者なので、現状維持を選びやすいのですが、社会の流れを見ればすぐにわかるように、変化し続けているのです。それなのに、消極的になって立ち止まっていては、おいていかれるだけなのです。何も難しい事をしなければならないということではありません。ただ、神を信じ、イエス・キリストを信じることなのです。それだけなのです。それがわかると次に何が起こるのかワクワクしてきます。主は、働かれるからです。それこそ、夜も寝ずに働いてくださいます。だから、神を信じた人は、感謝するようになり、いつも喜ぶようになるのです。何より、本当に大切な事を知ることができるようになります。今、自分の力ではそうすることもできないような困ったことが起こっている人は、大チャンスが巡ってきたのです。この御言葉を信じて、実行してください。(佐久間)

 

8月27日(月)

わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

ヨハネ15:9、10

 

今日のイエス様の御言葉は私たちにとって重要なことなので、少し考えてみましょう。イエス様は「わたしの愛にとどまりなさい」とおっしゃいました。もちろん、私たちは、「はい、その通りにします」と答えるでしょう。では、イエス様の愛にとどまるとはどのようなことでしょう。今日の聖句の後半を読むと、「わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」とあります。イエス様の掟とは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(12節)。つまり、愛しなさい、と言われたのです。そして、愛されなさい、とも言われたのです。こんなすばらしい掟はありません。あなたは愛し愛されという人生を歩んでいく事を考えていればいいわけです。クリスチャンは、イエス様を信じて、神の国の到来を知った人です。神の国には互いに愛し合う人しかいないのです。ですから、この地上にいても神様の支配に従順に服している人は、イエス様に最初に愛されて愛を知った人のはずですから、愛する意味を知っています。また、愛される意味はもっと理解しているのです。それで、掟を守るために、まず必要なことがイエス様とつながっていること。それから、イエス様の御言葉を内にいつもあるようにしていること。その上で、神様に願ったことがかなえられた事を体験することです。その人は、互いに愛し合うという掟を守ることができるでしょう。自分の力で掟を守ろうとすれば、難しい挑戦になります。もっと、イエス様の恵みを信頼していいのです。愛したり、愛されたり、こんな楽しい喜びはありません。それが掟なのですから、クリスチャンはやめられません。(さくま)

 

8月28日(火)

これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。

ヨハネ16:33

 

クリスチャンになってよかったと思うことは多いのですが、それでもこの世を生きているので苦難と言えるようなことが起こるのです。それは、意気消沈したり、もっと落ち込むようなことかもしれませんが、そこでやられっぱなしというわけではありません。イエス様は、そのような大変な日が訪れることを前もって知っていました。それで、私たちに「勇気を出しなさい」とおっしゃったのです。そうです、苦難がきたら、「大変だ!」と、うろたえて、いたずらに困ってばかりではいけないのです。まずは、イエス様のみ声を聴きましょう。「勇気を出しなさい」、心に響くみ声を聴くのです。そして、「そうだ、勇気を出そう」と自分に言い聞かせるのです。これがただの空元気に終わらないのは、イエス様には根拠があったからです。それが、「わたしは既に世に勝っている」という力強い勝利宣言なのです。イエス様が勝利しておられるのなら、なぜ、私たちがこの世で恐れたり、悩む必要があるでしょう。勇気を出して、自分の信仰を揺るがせないことです。別に戦う必要すらありません。既に勝負が決まっているからです。クリスチャンはイエス様によって、この世に勝利しているのです。だから、何か不合理な目にあったり、迫害されたりしても、勇気を出してください。イエス様はお弟子さんたちに言いました。「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」(2節)。これは、現代でも同じことが起こることがあるのです。最悪の自体ですね。でも、イエス様に励まされて、お弟子さんたちは見事に勇気を出して、勝利したのです。私たちも、苦難に遭った時は、「イエス様が既に勝利しておられるから大丈夫だ」と言い聞かせ、信仰を鼓舞しましょう。勝利が確定している戦いなので、心配しなくても大丈夫です。(さくま)

 

8月29日(水)

わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。

ヨハネ17:15

 

ヨハネによる福音書は他の福音書とは随分変わっていますが、17章もイエスの祈りだけが書かれているのです。しかし、イエスが弟子たちのために祈る言葉を私たちも知ることができます。そして、イエスが天で今でも信じるもたちのために執り成して祈っていてくださるお方だと理解できるのです。イエスが地上に人となって来られたのには、私たちを救うという使命がありました。それは、同時に罪と死と悪魔に勝利することでもあったのです。そして、イエスはその目的をことごとく成就されました。それで、私たちはイエスを信じるだけで救われたのです。ここで、今日のみ言葉に焦点をあててみましょう。私たちは、時々この世の生活が大変になると、もうこの世から取り去っていただき天国へ移して欲しいと思うことがあります。しかし、それが主の御心ならばバプテスマの時に、すぐに天国へ召されていたでしょう。ところが、そうはなっていません。イエスは、弟子たちもこの世では憎まれるとわかっていました。そして、現代のキリストの弟子であるクリスチャンも全く同じであることを主はご存知です。イエスは、弟子たちをこの世から取り去ることを考えていなかったのです。そうではなく、この世で福音を語り伝えることを弟子たちの使命とされたのです。そこで、この世に残ることになったので、悪い者から守ってくださるように父なる神にお願いしたわけです。それは、あなたにとっても重要なことです。悪い者から守られているからです。時には、悪霊の攻撃を受けることもあるでしょうが、それで殺されることもないし、ひどい目にはあうかもしれませんが、最後にはいつも勝利しています。パウロもユダヤ人に憎まれ、命を狙われ、恐ろしい目にもあいましたが次々と人々が救われ、各地に教会を建てていったのです。私たちはパウロにはなれないかもしれませんが、自分の役割は決まっているのです。心に願いが起こされるのでわかります。そして、神のみ心が必ずなります。心配することなど何もないのです。無理なことを要求されないからです。それに、聖霊が導きを与え、いつでも一緒にいてくださいます。イエスは恵みを与えてくださり、父なる神は無条件にあなたを愛し続けてくださいます。だから、神の子のあなたは勝利し続け、主のご計画の通りに使命をやり遂げることでしょう。主イエスを信じましょう。(佐久間)

 

8月30日(木)

そこで、ピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたがたが言っていることです。わたしは真理について証をするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

ヨハネ18:37

 

「わたしは真理について証をするために生まれ、・・・・」。この箇所は急に難しく聞こえます。それは、「真理」と言う言葉が出て来るからです。ギリシャ語の大家である織田昭師は、「真理」と言う訳語がよくないと言います。そして、代わりに「真実」と訳し変えています。そうすると、次のような訳になると言います。「本当の所はどうなのか......私の王権 についてだが――私がここに来ている目的は、それを知らせるためだ。それ を受け止めようとしてここにいる人たちはその私についての本当のことを拠り所に生きようとしている。」と意訳しています。さらに、旧約聖書に真実の語源を探すと、「神の真実」に使われている「真実=エメト」(ヘブライ語)が七十人訳(ギリシャ語訳旧約聖書)では、「アリーティア」(「アレテェイヤ」と教えられた人もいます)になっています。これは、今日の箇所で「真理」と訳された原語です。このように、イエスが王の王であることを意味していると解釈する人もいます。また、新共同訳のように「真理」とするならば、真理はキリストの人格とその救済の行為を示す、と解する人もいます。さて、ヨハネ14:6でイエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と語られました。罪人が「神に背を向けて逃げている人のことだ」と言うのなら、罪人が救われるとは、「人が向きを変えて神のもとへ行くこと」といえます。しかし、罪の問題を解決しなければ、当然神のもとへ行くことができません。その唯一の解決がイエス・キリストなのです。キリストという道を通らなければ父のもとへは行けません。罪を正す方法は真理を知ることです。この真理は、神が愛であることを正しく教えることです。また、神の御言葉が真理です。そして、人間や悪魔が神について偽りを語ったことを神の御言葉で正すことが人を自由にするのです。その御言葉の解釈で偽りを語ろうとする悪魔の力がありますが、単純に聖書に一致していないことから欺瞞であり誤謬であることがわかります。しかし、実際にはそれほどうまくいってはいません。それというのも、真理の御霊である聖霊が働いて解き明かさなければならないのに、それを無視して人間の知恵に頼ろうとするので、書いてあることを無視するようなことが起こるのです。「真理について証をするため」というのは、モーセの律法を守ることができなかったので、イエスが人となって実際に守れることを実践して見せたことです。その時の律法学者やファリサイ派の反応は、イエスが律法を破っていると怒ったことです。この彼らの怒りのもとが聖書解釈の誤謬であり偽善的信仰の欺瞞なのです。これはいつの世代でも起こってきました。それから目を覚まして自由になるには真理を知る以外にはないのです。その真理をイエスが生きて見せたのですが、イエスを信じた人とイエスを憎んだ人に分ける結果になりました。そしてイエスを信じ、御言葉を聖霊によって理解して自由になり、その人が御言葉を信じて聖霊を受け、神の子に変えられるのです。このためにイエスは旧約聖書の預言をことごとく成就したのです。(佐久間)

 

8月31日(金)

しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。

ヨハネ19:34

 

イエスは十字架で驚くほど短い時間で死んだ。兵士が念のためにわき腹を槍で刺すと、すぐ血と水とが流れ出た、とある。これは、専門家によれば、心臓が破裂すると血と水に分解するという。つまり、十字架刑は通常なら一週間とかもっと長い時間苦悶しながら生き続ける残酷な刑であるのに、それがわずか6時間ぐらいで亡くなったのは、心臓破裂による、というのだ。それは、異常なほどの過度のストレスがかかることによって起こるそうだ。つまり、イエスは私たちすべての人間の罪を一身に背負って犠牲となって死なれたことを物語っている。さて、ヨハネ6:54でイエスは「わたしの血を飲む者は、永遠の命を得る」と語り、また、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」(4:14)とも言われた。つまり、血も水も「永遠の命を与える」ことを象徴的に現しているのだ。キリストの十字架の意味が永遠の命を与えることであることが示されていたのだ。イエスの犠牲無しには誰一人救われないことがわかる。また、過越祭の掟を読むと、「一匹の羊は・・・その骨を折ってはならい」(出エジプト12:46)とある。イエスが十字架に架けられたのは過越祭の時であり、「一匹の羊」はイエスのことであり、「その骨を折ってはならない」とあるので、イエスの足が折られなかったことが明確にしるしとなっている。特別な安息日が迫っていたので、十字架で汚れることを嫌い、日没前に、イエスたち十字架に架けられた者たちの足の骨を折って窒息死させようとしたのだ。両方の腕をあげていると呼吸ができなくなるので、横隔膜を下げて息ができるように、普通は足を踏ん張って体を上にあげるのだ。その足の骨を折ればもう息ができなくるので、兵隊たちはイエスの両隣の囚人たちの足の骨を折った。しかし、イエスは既に死んでいたのだ。これらの旧約預言の成就がイエスに現れて、彼こそがメシアであり、イエスによって死が過越たことが明らかになった。私たちがイエス・キリストを信じて救われたということは、このように罪と死にキリストが勝利されたこと、そして永遠の命を与えてくださったこと、このことが今日の御言葉からわかることなのだ。(サクマ)