2018年9月ディボーション

9月1日(土)

これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

ヨハネ20:31

 

ヨハネによる福音書が書かれた目的が今日の聖句です。あなたはどうでしょう。「イエスは神の子メシアである」と信じましたか。そして、「信じてイエスの名により命を受けましたか」。クリスチャンとしてちゃんと考えてみましょう。わたしがイエス・キリストを信じて洗礼を受けたのは、19歳の時でした。高校生の頃はまだまだ学生運動が激しくて卒業式もありませんでしたから、友人に神様を信じる人はいませんでした。学生運動をしている友人はいました。学校でもバリケード封鎖があり、学校に入れないことがあって、その日から教師にとっては地獄が始まったと思います。秩序が破壊された感じでした。ですから、虚無的な空気が満ちていて、無気力、無関心、無責任、のいわゆる三無主義世代です。それだけに、なんとか人生の意味を知ろうとしていたし、どう生きればいいのか探していました。そのような時に不思議な方法でイエス・キリストを知ったのです。洗礼を受けた時は聖書の知識もほとんどありませんでした。でも、聖書は何かを語りかけていたように思います。イエス・キリストを信じることができたので、恵まれた人生が始まりました。今では、多くの人にイエスを信じて、イエスの名によって命を受けるように、ヨハネと同じようにイエスを証することができるようにと願っています。ヨハネは福音書を書きましたが、私は説教したり聖書を教えています。ある人はイエスを信じる主婦をして証しています。クリスチャンはいつでもイエス・キリストを知らない人に証言しようとする人なのです。どうしてそうするのかわからない人は、もう一度ヨハネの福音書を読んでみたらいいと思います。イエスを信じたら黙ってなんかいられないのです。罪人が死んでいることを知っているでしょう。死んだ者が生きるには命を与えていただくしかありません。その命を与えてくださるお方がイエス・キリストなのです。だから、このことを人々に伝えることが重要なのです。この働きは2000年も続いてきたのです。そして、ヨハネは現代でもイエスはキリストであると証言し続けているのです。(佐久間)

 

9月2日(日)

シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。

ヨハネ21:11

 

イエスが言われた通りにしたら、徹夜で漁をしても一匹も取れなかた魚が大漁で網を引き上げることもできなかったという話です。では、なぜ魚の数が百五十三匹なのでしょう。そもそも聖書を読んでいる人には、ここに出てくる弟子たちがイエスに召された時に、「人間をとる漁師にしよう」と語られたことを覚えているでしょう。つまり、魚は福音を信じて救われる人々の象徴です。初代教会時代は、ローマの迫害があって、キリスト教徒は十字架をシンボルとするとすぐにバレてしまうので、魚をシンボルにしていたのです。魚を意味するギリシャ語(イクスース)のアルファベットがちょうど、「イエス・キリスト・神の・子・救い主」というギリシャ語のそれぞれの頭文字となっていたのです。それで、クリスチャンを表すマークとして使われました。このクリスチャンたちは、「神の子たち」と呼ばれます。イエス・キリストを信じて救われ、神の家族に入れられたからです。この「神の子たち」を表すゲマトリア(数字がない時代にアルファベットに数字の意味を持たせたので言葉も数字に変換することができた)が153なのです。また、「共同の相続人」(ローマ8:17)というギリシャ語も153の倍数です。さらに、「網」も「魚」も153の倍数なのです。今日の聖書箇所には、イエス・キリストを信じて救われる「神の子たち」が暗示されています。イエス・キリストの弟子たちが人間をとる漁師になることが象徴的に示されていたのです。自分の考え通りではなく、イエスの御言葉の通りにしたら伝道はうまく行くはずですね。(佐久間)

 

9月3日(月)

そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、国民に警告した。「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。

出エジプト1:8、9

 

現代の移民問題のように、異民族が増え始めると必ずトラブルが生じます。イスラエル人はエジプトにおいても独自の文化と宗教を守って、エジプト人にとっては異質な存在のままでした。本来、エジプト人は異民族を差別して同化しない民族でしたから、ゴシェンにいる分には問題がなかったし、イスラエル人にとってもカナンよりも随分と住みやすい安定した良い土地だったのです。しかし、ヨセフも亡くなり、時代は確実に流れて行ったのです。そして、ある学者によれば新しい民族が侵略してきたために、王朝が変わったと言います。そうなるとヨセフのことなど何も知らない王様が統治するのですから、まず脅威となるイスラエル人の看過できない増加は緊急の政治課題となったのです。この急激な変化はなぜ起こったのか、あなたはどう思いますか。ヤコブたちはカナンでも寄留民でしたが、神の祝福としてカナンを与えるとの約束がありました。ですから、エジプトでの生活は一時的なものでなければならず、ヤコブの子孫たちは必ずカナンへ帰る必要があったのです。しかし、彼らはそのことを忘れ、暮らしやすいエジプトにいつまでも定住してしまったのです。そして、いよいよ神はヤコブの子孫を本来の約束の地へ戻そうとされていたのです。その物語がいよいよ始まりました。それにしても、民族の数が多ければ脅威となるというのは、しまいには彼らの願う通りに変わって行くことが目に見えているからです。アメリカにいた時に、世界総会で最近問題になっているのは、アメリカ人の白人が始めた教会なのに、今やスペイン語を話す人たちの数が増して、代議員制で多数決で物事を決めると白人が巻けるようになって、スペイン語を話す人たちの都合のいいことばかりが決まってしまう、と嘆くようになり、さらに悪いことに、世界総会の予算の大半がアメリカ人の白人たちが献金していたのです。それに比べ、スペイン語を話す人たちは数は圧倒的に多いが、献金額は驚くほど低いのです。国による経済力の問題ですが、多くの犠牲を払って献金している人たちが自分たちの意見が通らないでお金を勝手に使われることに我慢がならなくなってきたのです。そこで、北米支部は世界総会から脱会すると言い出し、キャンペーンを始めたのです。その中には、文化の違いも鮮明になりました。カリフォルニアの信者は女性の牧師を認め、洗礼を授ける権威である按手礼を女性に授けるように議題を何度も提出したのですが、スペイン語圏の信者には、あり得ないことであって、女性が男性の上に立って権威を持つということは絶対に認められないと拒否されて、否決されてしまうのです。こうしたことが、グローバル時代と言われるようになってから、問題が次々に出てきたのです。北アジア圏では一昔前までは、日本が金持ちだったので、信徒数が最も少ない国の一つなのに、献金額が一番多かったのです。それで、お金を出す係のようになってしまい、比例代議制では意見が全く通らないという事態になったことがありました。このように、国や民族の問題は終末預言にまで出てくるほど、最後まで揉める原因となるのです。さて、出エジプト記から何が学べるか楽しみです。通読しましょう。(佐久間)

 

9月4日(火)

その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」

出エジプト2:10

 

誰もが知っている名前があります。その名を聞くと偉大な働きがあったことを思い出します。今日登場するモーセもそのような人です。偉大なモーセがどのように生まれたのか、大変興味深く描かれています。あまり詳しいことは書かれていないので、読者や学者たちはいろいろと想像をたくましくさせてモーセについて語ります。本来は、生きていけなかた赤ん坊が、不憫に思った親や姉によって隠して生かされ、それが王女の目に留まり、乳離れするまで実の母のもとで育ち、やがて王女の子としてエジプトの王宮で育つことになったのです。それだけでも数奇な運命をたどっていることがわかります。考古学者はモーセの存在を調べました。そして、記録にラー・モーセという名を見つけました。これは、エジプトのファラオが太陽神ラーの子供であるとしたことから、王家の者の名には「ラー」がつけられていたのです。そこで、王族としてモーセが生きていたことが明らかにされています。さらに、「水の中からわたしが引き上げた」という箇所を読むと、どうしても洗礼の時に水の中から引き上げることを思い出してしまいます。水に放り込まれて死ぬことになっていた者が、引き出されて王族として生きる者となる、これはまさにクリスチャンが水から引き上げられて新しい命に生まれ神の家族とされることに似ています。聖書にはこうした預言のような不思議な仕掛けが多くあります。少なくとも、クリスチャンの皆様はどのような境遇にあろうとも、イエスの兄弟姉妹であり、神の子であることを覚えていてください。この世でどのようなことになっていても、あなたが特別な存在であり、王族の一人であることを忘れないでください。気高く生きることができます。モーセは、レビ人の両親に真の神を拝むことを教えられていましたが、王宮では偶像を拝むように教えられて育ちました。そのために、エジプトの異教の教えを払拭する必要がありました。ですから、結局は王宮を後に逃げ出すことになるのです。ミディアンの荒野が、モーセの再教育の場となりました。私たちもこの世の無神論や異教の考えを払拭する必要があります。そして、正しい神の教育と知識を学び、神の訓練があります。それらが私たちを神の国の住民へと変えていってくれるのです。大いに恵まれた人生を歩むことができます。(佐久間)

 

9月5日(水)

神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。・・・」

出エジプト3:12

 

私たちの人生は平凡であっても、時に大変な思いをしたり、悩みに突き落とされたり、どうしたらよいか途方に暮れることだってあります。しかし、神様は「わたしは必ずあなたと共にいる」と言ってくださるのです。先日、高速道路を車で走行しているとエンジンの調子が悪くなり、警告灯がつき、異臭がしてきたのです。それで、高速道路を降りなければと思いましたが、もう少し先で出たいと思い、さらに次の出口からなんとか出たところでエンジンが止まり、路肩にちょうどよく止まりました。それっきりエンジンはかからなくなりました。ロードサービスを呼び、目の前の高速道路の事務所に行くと、すぐに職員の方が二人出てこられて、待避所まで車を押してくれました。家族も安全に誘導していただき、避難できました。そして、職員の方が親切に同乗していた娘と孫たちをバス停か駅まで歩るいて行けるので、道を教えてあげると安全に誘導してくれたのです。夜になり、どうやって帰そうかと困っていただけに助かりました。その後、別の方が冷えた麦茶のペットボトルを持って来てくださり、親切にしてくださいました。そして、ロードサービスの方が来て、車を積んで自宅まで運んでくれたのです。その方もとても親切な方で助けられました。車が故障して動かなくなった時には、さてどうしようと困りましたが、神様が全て助けてくださったのです。それで、思い出したのですが、今までに車が故障した時には、必ず困らないところで止まるのです。ある時は、エンストしたところが、タクシー会社の修理工場の目の前で、すぐに修理工の人が走って来て助けてくれました。また、渋滞の中、三車線の道路の一番外側にいた時に、いきなりエンジンが止まり、エンジンがかからなくなりました。それなのに車が動き、渋滞しているはずなのにそのまま三車線を移動して、ちょうどバスの待避所にそのまま入っていけたのです。エンジンが止まっているのにどうして動いたのかも不思議ですし、渋滞している三車線をどうやって移動したのかも不思議でした。ましてや安全に止まれる待避所にぴったり入れたのは奇跡です。そして、やはり目の前に修理工場があって、すぐに修理工の人が道具を持って来てくれて家に帰れました。冬の北海道では、札幌から苫小牧へ礼拝奉仕のために時々行っていました。冬になると近道の山越えの道が閉鎖され、ゲートが閉められるのです。それが、天気や状態が良いと開くことがあって、その日も朝は閉まっていたのに、帰り道に行ってみるとゲートが開いていたのです。それで、近道なので山越えの道に入って行きました。すると、すぐに電気系統が異常になって、すべて電気系統が止まってしまいました。ヒーターも止まってしまい、天候も悪くなってきたのです。もし、山の中で車が動かなくなってしまえば、命に関わります。そしてゲートを閉められたら、ほかの車が通らないので発見されることもありません。絶体絶命のピンチです。たった一台、雪の山道をゆっくり下って行くのです。不思議なことにエンジンだけはちゃんと動いているのです。だから、神様に無事に下山できるように祈りながら運転していました。そして、とうとう、危険な山道を抜けることができ、麓の青年の家の駐車場にとめた途端にエンジンが止まり、それっきり動かなくなりました。この時も、神様が一緒にいてくださったので、怖くはありませんでした。アメリカでもタイヤを20本以上買い替えましたが、タイヤが裂けたりして使えなくなるのです。普通ではあり得ないことです。これは、サタンが命を狙っていたのだと思います。その時も、神様が不思議な方法で守っていてくださったので、事故にならず、危険な目にも遭うことはありませんでした。自動車で何度も問題があっても、いつでも守られていました。これだけでも、神様が一緒にいてくださったおかげだと納得できます。あなたのことも神様は覚えていてくださるので、「わたしは必ずあなたと共にいる」とおっしゃています。事実、あなたは特別に守られているはずですよ。(さくま)

 

9月6日(木)

途中、ある所に泊まった時、主はモーセと出会い、彼を殺そうとされた。ツィポラは、とっさに石刀を手にして息子の包皮を切り取り、それをモーセの両足に付け、「わたしにとって、あなたは血の花婿です」と叫んだので、主は彼を放された。彼女は、そのとき、割礼のゆえに「血の花婿」と行ったのである。

出エジプト4:24~26

 

モーセは神に召された時、すぐには受け入れなかった。あまりにも困難な使命であったからで、自分の能力では無理だと思った。しかし、神が人選を誤るわけもないし、神の計画は完全なのだ。それをモーセは断ることによって神が間違っていると言っているようなことになることを悟れなかった。しかし、モーセの偉大さは一旦神に服従すると決めたら、徹底していたことだ。全力を尽くして、主にへりくだり、従順に仕える、これがモーセだった。モーセは舅に別れを告げ、家族を伴ってエジプトに出発した。その途中で、事件が起こった。主がモーセを殺そうとされたのだ。聖書を読むと難解でわかりにくいのだが、これには大きな意味がある。モーセが結婚したツィポラは、息子に割礼を施すことに反対したようだ。そのために、これからイスラエルの民を説得してエジプトを脱出するためにファラオと対決することになるモーセが息子に割礼を施していないことは問題となり、イスラエルの民に律法を守らせることに支障が出ることが予想できた。そこで、イスラエルの偉大な指導者になるモーセに、指導者の条件を完璧に満たさせる必要があったのだ。奇跡を通して民の理解を得ることだけでは不十分だった。神の祝福の契約が守られる必要があったわけだ。ツィポラは自らの手で割礼を施した。これで、モーセの障害はなくなった。どんなに小さな者でも、神に忠実に生きることはできる。自分が理解できないことでも主が定めたことは間違いなく重要なことで、それを守ることは祝福になる。人間的になり過ぎると、取り返しのつかない失敗を犯すかもしれない。だから、主への絶対的な従順が求められる。主を信頼して尻込みしないようにしよう。自分勝手に解釈しないことが大切で、聖書を調べ、主に祈って聞くことが必要だ。祈りは心を潤す生ける水をもたらす。主を信頼して前に進もう。(佐久間)

 

9月7日(金)

その後、モーセとアロンはファラオの元に出かけて行き、「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい。』と。」

出エジプト5:1

 

エジプトのファラオとの交渉が始まりました。どのように交渉したのか、ここにモーセたちの言葉が書かれていますが、驚くほど単刀直入、社交辞令もなければ、有無を言わせぬ紋切り型です。しかし、これは、「主がこう言われました」とありますから預言でした。モーセたちは主の言葉を伝える預言者だったのです。しかし、エジプト人は理解できませんでした。こんな交渉は話にもならないと思ったでしょう。だから、ファラオは「主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか」と全面的拒絶反応が出ています。それだけで済めばいいのですが、事態は最悪の結果に向かいます。怒ったファラオが労働条件を悪化させたのです。無理難題がイエスラエルの上に大きくのしかかります。さて、このような話しは、現代でも普通にありそうです。経営者と労働者の争いです。当時のイスラエルの民は奴隷だったために安息日も守れなくなり、律法もわからなくなっていたのです。そのような状況で苦しんでいるイスラエルを助けるために主が始めたことは、ファラオを怒らせて重い苦役を彼らに負わせるだけのことに見えます。モーセは余計なことをしたと恨まれることになりました。しかし、これからが決して忘れることのできない主の戦いなのです。その口火をモーセが切り、主がファラオを打ち負かすのです。(佐久間)

 

9月8日(土)

わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。

出エジプト6:6、7

 

これはまるで罪人として生き、この世の重荷に喘ぎ、罪と死と悪魔の支配に奴隷のように苦しむ人間に語っているようです。このイスラエルの民の救出は、多くの知恵に満ちているのです。私たちはその一部からでも知恵をいただき、自分の慰めとすることができます。私たちの問題は、聖なる者になれない、完全になれない、と思っていることです。少しは頑張って見るのですが、すぐに諦めてしまいます。それでも、教会の教えに従順になろうとして、また立ち上がり挑戦するのですが、長続きしません。そのうち、それが普通になてしまい、現状維持のまま日が過ぎて行くのです。何か大きなキリスト教のイベントに出れば、有名な説教者のメッセージを聞けば、特別な宗教経験ができるように偉大な神の人に祈ってもらえれば、と求めて行くのですがその時だけの昂揚感で終わり、また冷めてしまうのです。さて、どこに私たちを満足させるものがあるのでしょう。この答えは、各自が見つけるべきですが、私は今日の聖句にあると思います。私が、ではなく、神が私たちを神の民としてくださり、神が私たちの神となるのです。そのために必要な審判も贖いも神がなさるのです。神が動かれ、働かれるのです。そして、神があなたに語りかけているのです。ただ、そんなことは、わからないと言うのなら、イスラエルの民と同じかもしれません。イスラエルは重労働のため意欲を失って聞こうとしなかったのです。それは、現代では、悩みやストレスかもしれません。あまりにも人生が過酷であれば意欲を失うからです。それで、本来は天の御座におられるお方が、立ち上がり、自ら動かれて、出てこられるのです。あなたの神であること、その名はヤハウェである、と御名を告げられたのです。それは、個人的なことであり、その他大勢ではなく、あなたの個人的な神であることを示しているのです。だから、あなたは特別な存在で、驚くべく神の御業を見ることになるのです。何十年も信仰を持ち続けられて、本当によかったと感謝の気持ちが湧いてきます。ただ、恵まれていただけのように思えます。だから、安心して普通に生きればいいと思います。今日も恵みの日です。主に感謝いたしましょう。(佐久間)

 

9月9日(日)

アロンが自分の杖をファラオとその家臣たちの前に投げると、杖は蛇になった。そこでファラオも賢者や呪術師を召し出した。エジプトの魔術師もまた、秘術を用いて同じことを行った。それぞれ自分の杖を投げると、蛇になったが、アロンの杖は彼らの杖を飲み込んだ。

出エジプト7:10~12

 

どこにでも呪術師がいるものです。秘密の言葉や行為で神を動かし自分の思い通りに操作する者たちが昔からいるのです。彼らのやっていることは、今日のマジックのようなことをして人心を惑わすだけでなく、悪霊と関わってサタンの力を用いて驚くようなことをしたのです。エジプトの魔術師もそのような人たちでした。それでも、アロンがしたように杖を投げてそれが蛇になるというようなことの真似はできました。サタンは創造する力がないので、命を造ることができません。それで、マジックのようなことをして、蛇に似た作り物を利用したのです。サタンは非常に警戒していました。キリストの到来を恐れていたのです。モーセが奴隷となていたイスラエルの民を解放することは、やがて来られるキリストが罪人たちを罪と死と悪魔から解放することの予表と知っていたのです。ですから、モーセが神の力で奇跡を行うことを恐れ、なんとしても阻止しようとしていたのです。それは、キリストが到来されたら、奇跡を行なってごご自分が誰であるかを証することがわかっていたため、なんとしても妨害したかったのです。サタンは、モーセを通して神様が働かれる御業をすぐに真似て偽物で人々を騙し、神様の働きを妨害したのです。それは、今日も同じです。キリスト教会で何か良いことが始まるとすぐに同じような偽物が始まるのです。キリスト教の癒しの集会で聖霊が働き、多くの人々がその場で倒されて癒しが起こりました。そのようなことが盛んに起こると、ある時、新興宗教の女教祖が手をかざして笑いながらその手を降ると、会場にいた信徒たちがバタバタと面白いように倒れていくのです。それをテレビで放映したのです。これは、アロンの蛇と魔術師の蛇のようでした。異言も実際にあるのですから、それに対しても偽物があります。最悪なのは、悪霊によって異言を語ることがあることです。つまり、カルトのような宗教で、そのようなことが起こったり、悪魔の虜になった者がわけのわからない言葉を語り出したりすることがあるのです。英語を話す霊が降ってきて、それ以来英語ができるようになったという人と出会ったことがありました。目の前で英語を披露してみせました。このように、私たちの身近にも神様の御業を真似て偽物が活発に働いていることを覚えていましょう。(さくま)

 

9月10日(月)

魔術師も秘術を用いて同じようにぶよを出そうとしたが、できなかった。ぶよが人と家畜を襲ったので、魔術師はファラオに、「これは神の指の働きでございます」と言ったが、ファラオの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかった。主が仰せになった通りである。

出エジプト8:14、15

 

エジプトにくだされた災いは、8章では蛙の災い、ぶよの災い、あぶの災い、と続きます。これまで魔術師もモーセに対抗して、同じことをやってみせていました。そしてついに、ぶよを出そうとしますができませんでした。その時、魔術師がファラオに告げたのが、「これは神の指の働きでございます」との敗北宣言です。「神の指」とは神の力のことです。すでにお気づきの方もおられると思いますが、だんだん災いが重くなってきています。人間は災いが起これば、困ったり、恐れたりしますが、それが通り過ぎればすぐにもとに戻ってしまうところがあります。せっかく、反省したり、今度こそ正しいことをしよう、などと決心するのですが困難が過ぎ去れば、何もなかったかのように自分の欲望や自我をまた通そうとするのです。それがどんなに危険なことかわかっていないので、真剣に取り組まないわけです。神の力を過小評価してはいけません。ある人が「これは懲らしめで罰ではない」と神に語られた体験を教えてくれました。私たちが覚えておかなければならないのは、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)とお語りになられたことです。つまり、神は驚くほどの決意を持って私たちを愛してくださるということです。そして、イエス・キリストを信じた私たちに、神は天の父として接してくださっているということです。だから、いたずらに私たちをひどい目に遭わせるようなことはしません。天の父は、私たちを造り変えて義とし、天国へ行けるように働いてくださるのです。そのためには、罪の問題を放置できません。それで、人間の弱さをいつまでも克服できないとその人にとって一番良い方法で助けるのです。それが時には神の力を用いることもあるし、愛されているからこそ、懲らしめられることもあるのです。罰は十字架でイエス・キリストが引き受けてくださったのです。何があっても愛は変わっていません。あなたがどれほど神に愛されているか理解できるといいのですが・・・、ただ信じる信仰が神の愛を知る方法なのです。(佐久間)

 

9月11日(火)

しかし、あなたもあなたの家臣も、まだ主なる神を畏れるに至っていないことを、わたしは知っています。

出エジプト9:30

 

疫病の災い、はれ物の災い、雹の災い、とさらに深刻な災いがもたらされますが、ファラオは頑迷に主に逆らい続けます。私たちも頑固になる時がありますが、ほどほどにしなければ、予期せぬ災いが待っているでしょう。後悔先に立たずです。クリスチャンにとって、信仰面で初めに理解しなければならないことは、主を畏れる、ということです。聖書を読み始めると主を畏れることが出てきます。そして、これは私たちにも求められていることであると知ることになります。ファラオの場合は、災がだんだんエスカレートして命に関わる災が本当に起こることを目の当たりにしました。それで、一時しのぎのように主の命令を聞くようなことを言うのですが、それは、いわゆる主を畏れることとは異なっていました。ご利益信仰の変形のようなものです。これと同じことが現代人にも現象として起こっているのです。モーセはそのことを見抜いていて、今日の聖句の言葉を語ったのです。「神を畏れるに至る」。この意味を考えることは信仰者としては意義があります。神に対する絶対的な畏敬の念があるかないか。愛の神であるから、その神との関係も愛であるのはもちろんですが、その愛の中に神への聖なる畏れがあるのです。それは、例えば、主のご命令に素直に従うようなことです。クリスチャンの謙遜やへりくだりは、主への畏れからきているのです。それが、敬虔な生き方へとクリスチャンを整えて行くのです。そのような生き方は、清浄な空気の中にいるようで、呼吸が楽なのです。主を身近に感じながら穏やかに生きる姿なのです。主と生きる人は、あなたです。ですから、そのように導かれています。気負うこともありません。イエス様の恵みを見つけては感謝して生きることです。(佐久間)

 

9月12日(火)

主よ、帰ってきてください。いつまで捨ておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。朝にはあなたの慈しみに満ちたらせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。

詩篇90:13、14

 

長い人生の間には、失敗を何度も繰り返すものです。それが生き方であったり、選択の失敗であったり、信仰の問題であったりすると、神様との関わりを強く意識することになります。つまり、私たちは、うまくいっている時には神様をすぐに忘れて自分の思い通りにしようとする傾向があるのです。それが、後で負い目になると神様の罰があるのではときになるのです。そして、ある日、災がやってくると、「ああ、これは自分の罪のせいだ」と思ってしまうのです。今日の聖句は、神の人モーセの詩です。モーセがどれほど大きな試練をくぐり抜けてきたか、私たちは知っています。偉大な信仰の聖者です。そのモーセが、神様に帰ってきてくださいと言わなければならないことがあったのです。これは、祈りですから、「いつまで捨て置かれるのですか」との言葉で、切実な状況にあることが伺えます。厳しい困難な状況に置かれた時、信仰者でも「助けて」と悲鳴をあげます。弱さがあってもダメとは言えません。それよりも、主が弱っている時のあなたを力づけてくださる存在であることを覚えましょう。そして、試練には終わりがあることを忘れないでください。人間的には否定的な思いに打ちのめされそうになっても、御言葉は確実に希望を示しています。何故ならば、私たちの神様は慈しみ深いからです。あなたの主は、あなたの生涯を喜びで満たし、神様への感謝でいっぱいにさせてくださいます。あなたは今苦しんでいても、しばらくすれば、喜びで歌い出す日が来ます。だから、主にこのモーセの祈りをあなたの祈りとして祈って見ましょう。喜びはあなたのものです。(さくま)

 

9月13日(水)

モーセは言った。「主はこう言われた。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中を進む。その時、エジプトの国中の初子は皆、死ぬ。王座に座しているファラオの初子から、石臼をひく女奴隷の初子まで。

出エジプト11:4、5

 

最後の災いです。神に逆らい続けると最後がいかに恐ろしいかよくわかります。人間の愚かさは、ファラオを見ているとよくわかります。ファラオは己を神の子としていたし、プライドが高くて、それが災いしてしまいました。これは、象徴的にも神の民と真の神を認めない人たちとの違いを見せているし、ファラオはサタンの象徴と見れば、サタンが人間を奴隷のように扱っていることや、神に純粋に反抗していることが見て取れます。これらの10の災いは現代に至るまで覚えられてきました。そして、世の終わりにもこれと同じようなことが起こることが預言されています。そこにはエジプトのファラオは登場しません。その代わり、ファラオのように神に不服従の人間が描かれています。サタンは教会に対して怒りを発します。これは最初から霊的戦いなのです。それだけに、決定的な裁きが最後に待っているのです。また、神の民を苦しめる者を主は容赦しません。ですから、私たちは、いたずらに終末を恐れる事もないし、またいい加減な信仰生活でいいということでもありません。主はあなたを助けてくださることがきっとはっきりわかる日がやってきます。ですから、エジプトに心惹かれないようにしなければなりません。このエジプトを出て行くからです。主の備えてくださる新天新地が私たちのゴールです。主の保護のもと、安心して信仰の道を進んで行きましょう。(佐久間)

 

9月14日(木)

そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝まで誰も家の入口から出てはならない。

出エジプト12:22

 

「一束のマヨナラ(ヒソプ)」は野生の小さな植物です。一部がはけ状になっているので、血を刷毛のように塗るには適しています。鴨居と入口の二本の柱は、イエス・キリストの十字架を連想させます。縦の木と横の木です。罪の支払う報酬は死である、と言いますが、キリストは私たちを救うために、十字架で血を流し、死を過ぎ越させてくださったのです。そのことの予形のように見えます。私たちにとって、キリストの十字架は特別なものです。クリスチャンでない人たちが十字架をアクセサリーにしているのは、ちょっと抵抗があります。なぜならば、十字架は象徴的な信仰の対象になっているからです。そして、そこには、血が必ず伴います。そして、死が通り過ぎて行くのです。そのような宗教的なものをアクセサリーやファッションとするのは残念なことなのです。そして、入口は家の中の最も神聖なものなので、保護しなければなりません。この過越の祭が家族で守られるものであったのは、一匹の羊かヤギを家族で食べることが規定されていることからもわかります。それだけに、朝まで家から出ることが禁じられていたのです。現代のように家族がバラバラになると、いろいろな社会問題が出てきてしまいます。それだけに、家族が揃って何かをすることは大事なことです。機会があれば、家族が揃って食事をすることが、大事なことなのです。ユダヤ人は、そのようなお祭りを未だ守っているのです。それなのに、イエスのことが救い主だとは思ってないのです。これ以上ないわかりやすい十字架のしるしが無視されるのは嫌ですね。機会を捉えては十字架のイエスを証言しましょう。(佐久間)

 

9月16日(日)

モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」

出エジプト14:13、14

 

 

信仰の戦いは誰にでも何かしらあるものだ。はじめ、モーセはエジプト人との対決に自信がなかった。それで神の直接の召命にもかかわらず、なんとか逃れようとしていた。そのモーセが驚くほど力強いリーダーに成長している。重要なことは、救われた人たちは神の召命に信仰で応えた人たちなのだ。はじめは心もとない新校舎であっても、神と共に歩んでいけば、神を正しく知るようになり、信仰体験を積み重ねることなる。それでも、敵がいて、それが強敵のサタンとその手下たちなのだ。なかなか諦めることをしない。神へ公然と反抗し、クリスチャンをも滅ぼし尽くそうと企み、罪を犯せばそれを神に訴える者なのだ。それでは、どうすればいいのか。答えは簡単で、はからずも今日の聖句で、モーセが答えている。ここで理解しておくべきは、「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」ということだ。人間的な力で悪魔に打ち勝ち見事に立派な功績をあげることを考えているのなら、惨めな結果しか待っていないのだ。主があなたのために戦って勝利を与えてくださるのだ。残念ながら私たちの力では到底足りないのだ。そこで、いち早く悟り、主が私たちのために戦ってくださることを信じて、静かにすることを「信仰による義」と言えばわかるだろうか。義人は信仰によって生きるということだ。それにしても、「恐れてはならない」と自分に言い聞かせなければならない時もあるから、今日の御言葉を覚えておこう。(サクマ)

 

9月17日(月)

もしあなたがたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、神の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である。

出エジプト15:26

 

この箇所は、22節からの物語の中で主が語られた御言葉です。イスラエル人たちは、葦の海の奇跡を経験し、神の偉大な御力を目の当たりにしました。その大きな感動は「海の歌」として記録されました。ところがそれからわずか三日で彼らは不平を言い出すのです。飲み水がなかったからです。そして、ようやく見つけた水は苦くて飲めなかったのです。彼らは「何を飲んだらいいのか」と不満を口にします。ここまで読めば、彼らを同情的に見て、しかたないことだと思うかもしれません。しかし、それではこの世の人と同じ感想になってしまいます。実際、彼らは神への信仰を欠いたので、神を試みたのです。マラ、またはマッサ(「試み」、「挑戦」の意)という言葉が暗示しているように、神への試みがあったのです。これは、私たちにも関係があります。天国への道をたどっている私たちは、悪魔の手から力づくで神が救い出してくださったので、罪と死と悪魔の奴隷に戻る必要がないのです。しかし、奴隷根性とでも言いたくなるような否定的感情があって、何が起こっても神を信じるということがなかなかできないのです。目先のことで一喜一憂するクセが抜けません。そして、自分の思い通りにならないと神に対しても不平を言いだすのです。これが正しくないことはクリスチャンにはわかると思いますが、ご利益ばかりを要求するのが信仰だとどこかで刷り込まれているのかもしません。そこで、まず神の声に必ず聞き従って、そのことから神の目にかなう正しいことを理解して行うようになること。さらに神の命令に耳を傾けてすべての掟を守るようになること。このようにして古い死に至る病から救われるのです。人間は罪の奴隷だったので、自然に誤った考え方をするため、真理を知る必要がありました。真理によらなければ自由になれないからです。その新しい考え方が身につくためにも荒野の経験が必要だったのです。私たちが喜んでいいのは、「わたしはあなたを癒す主である」と語ってくださったことです。私たちは主によって癒されて、考え方を変え、心を変え、生き方を変えるのです。(佐久間)

 

9月18日(火)

「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。」

出エジプト16:4、5

 

食欲の話が出てきた。人間は生きるために食べなければならない。そのための歴史と言えるぐらい人間にとっては食べることが重要だ。だから、食欲のことを悪く言うことはできないが、場合によっては罪になることがある。今回は、この最悪のケースだった。詩篇78篇は、そのへんのことを的確に説明している。「彼らは重ねて罪を犯し、砂漠でいと高き方に反抗した。心のうちに神を試み、欲望のままに食べ物を得ようとし、神に対してつぶやいて行った。『荒れ野で食卓を整えることが神にできるのだろうか。神が岩を打てば水がほとばしり出て川となり、溢れ流れるが、民にパンを与えることができるだろうか、肉を用意することができるだろうか。」(17~20)その結果、「主はこれを聞いて憤られた。・・・怒りはイスラエルの中に燃えさかった。」(21節) 何が一体問題だったのだろうか。「彼らは神を信じようとせず、御救いに依り頼まなかった。」(22節)と書いてある。自分の調子の良い時だけ神を信じていると思っていても、いざ大変な状況になると自分の本当の姿が出て来るものだ。荒野の生活も旅も続くが、主に依り頼んでいるかどうか、これは試みられると真実がわかって来る。だから、主への真実の信仰は大切なことなのだ。食欲がただの欲望に過ぎなければそれは罪になる。神の怒りを引き起こす簡単な方法となる。私たちは、主が生きて行くための食欲を満たすためにマナを降らせたことを知っている。後に、イエス・キリストこそが天からの命のパンであって、永遠の命をもたらすことを知るようになる。今日、私たちは主に従順であることが求められていることを再度確認し、欲望から不平を言わないように注意することにしたい。(サクマ)

 

9月19日(水)

モーセの手が重くなったので、アロンとフルは石を持って来てモーセの下に置いた。モーセはその上に座り、アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。その手は、日の沈むまで、しっかりとあげられていた。

出エジプト17:12

 

アマレクはサタンの象徴として読むことができます。神の民を苦しめ弱いものから襲って脱落させる存在です。だから、神様は決してアマレクを、そしてサタンを赦さないのです。ここで、興味深いことは、モーセが丘の頂に登り、高いところから戦いを見ながら、モーセは手を上げたのです。するとイスラエル軍が優勢になりました。しかし、モーセが手をあげているのに疲れて手が下がると、今度はアマレクが優勢になるのです。そこで、一緒にいたアロンとフルが石の上にモーセを座らせ、その両横にアロンとフルが立って、モーセの手を支えることにしたのです。そのことがあって日の沈むまでモーセは手をあげ続けることができました。そして、アマレクにイスラエルは勝利することができました。このことから、教会とサタンの戦いも同じような原理にあることに気がついた人たちが出て来ました。モーセの役を牧師が、アロンとフルの役は牧師を支える信徒で、その信徒も祈りで支える祈り手のことです。これは、明らかに霊的な戦いです。霊的なことゆえに祈りと信仰の戦いになります。牧師一人ではやはり限界があるので、信徒もそれぞれの役割を果たすことになるのです。全ての信徒が悪魔との戦いに勝利することができるように祈り続ける必要があるのです。(さくま)

 

9月20日(木)

このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負いきれないだからだ。

出エジプト18:18

 

世界一ひとつの教会で信徒数が多い韓国のヨイド純福音教会の牧師は、はじめ誤解していました。それは、自分が洗礼を授けないければ祝福されないと本当に思っていたのです。ところが、信徒数が多すぎて過労が重なり、それでも多数の人がいっぺんに洗礼を受ける日に倒れてしまいました。入院先で医師はもう牧師の働きはできないと宣告したそうです。神様は、牧師だけを通して働くわけでもないし、信徒の有能な人を用いるべきだったのです。それを教えるために、牧師は何年も病気が癒さなかったのです。その間に教会員が動員され、後に世界に広がる、区域礼拝、つまり小グループ伝道が始まったのです。今日のモーセの話は、モーセ一人が民の様々な問題を裁いているという不健全な方法を、しゅうとのエトロが問題を指摘して、良い方法を教えるという話です。確かに、問題が起こった時には、誰かに相談することは必要です。一人で抱え込むことは賢明ではありません。ただ、問題解決には能力が要求されますから、モーセのように、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長、と分けて問題の大きさに応じて解決処理できるように仕組みを作ることは正しい方法なのです。面白いことに、一番多い事件は十人隊長が処理できるものです。当然のことながら、十人隊長の数が一番多くなります。これは、人間の問題は、弁護士や裁判官にすぐ頼らなければならい問題は少ないということです。身近な人で信頼できる人にまず相談してみることです。その人が解決できなければ、解決できそうな人を紹介してもらえる可能性は大です。さて、あなたはどんなタイプの人ですか。全部、自分でしなければ気が済まないタイプですか。有能であることは良いことですが、何から何まで自分の力でやっていれば疲れ果てて倒れてしまいます。ですから、他の人に助けてもらうことを覚えるとよいのです。神様はあなたの能力以上のことを要求されたりしません。あなたが考えるべきは、自分を忙しくさせることではなく、楽しいことを考えるべきです。人生は、楽しく考えて生きて行くことができるのです。大変なことでもやり遂げれば満足感があり、そんな自分を褒めてあげることも楽しいことです。聖書は、色々役に立つ知識も授けてくれるのです。(さくま)

 

9月21日(金)

シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。

出エジプト19:18

 

これは、イスラエルの民の見ている前で、神がシナイ山に降るという驚くべきことが起こった時の様子です。神に近づくことがどんなに恐ろしいことであったか、想像がつくだろうか。これは、神がイスラエルの民と契約を結ぼうとされたからだ。契約は個人と個人、あるいは共同体との間に成立するものです。それが神とイスラエルの民の間の契約を結ぼうとしています。契約には義務が発生します。ここでは、法的な行動の基準が意図されていました。つまり十戒に象徴される律法です。そのために、神みずからが直接人間のもとへ降ってこられたのです。神は何か人間的なもののような気がしているかもしれませんが、ここでわかるように、圧倒的に人間の理解を超越されたお方です。人間が理解できる許容範囲をはるかに超えています。そして、聖なる神に会うことが、身を清め、衣服を清め、清いものとなることが求められていることに気がつきます。そこで、私たちも神に近づこうとするときには、清めを意識する必要があります。礼拝に出席することもキリストによる清めが必要なのです。全山が激しく震えるほどの神の臨在は圧倒的なものですが、クリスチャンはこの力ある神と生ける交わりを経験できるのです。そのような者が力がないわけがありません。正しいことのためにその力を使うのです。目の前に困難があっても途方にくれる必要はありません。信仰をそのときこそ発揮するチャンスなのです。そして、主の御心を知ることができるように祈りましょう。(佐久間)

 

9月22日(土)

わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、

出エジプト20:5b、c

 

あなたが信じた神は、最高の神です。ここでは熱情の神と言っていますが、それは善に対する熱情であり、また愛に対する熱情であり、正義に対する熱情です。あなたがどうあろうとも、あなたが高価で尊いと見て救うことを決意し、独り子イエスが命を犠牲にしてまであなたの罪を贖い、あなたがついには神の子になるという驚くべきことを神ご自身がなさることを熱情の神と表現していると言えば、理解できるでしょうか。それほどまでに人を救おうとする神を否むとすれば、その結果は、その人自身の責任で地獄へ投げ込まれることになるという恐ろしいものです。「三代、四代までも問うが」というのは、神のしつこさ、執念深さを表しているのではありません。そうではなく、神を否むことで地獄へ行くことになる人の影響力が家族にも及ぶことから、その家族も一緒に地獄へ道連れになるということです。一家族が三世代か四世代が単位となるので、そのことを聖書は言っていることになります。また、古代の法の反映でもあります。現代は、核家族化が進み、昔のようにおじいさん、おばあさん、お父さん、お母さん、子供夫婦、その子供たち(孫)、あるいは孫夫婦と赤ちゃん、などという大家族が一緒に一つの家に住んでいるということは珍しくなりました。それでも、最近、テレビにそのような大家族が住める家を建てた人の紹介がありました。五世代四家族世帯です。神によらなければ救いは無いのですから、神を否むということは、本当に恐ろしいことなのです。しかし、ありがたいことに、神は人間の救いのために情熱を傾ける神であるというのです。だから、罪人であっても救われるし、その人が救われれば家族もまたその恵みに預かれるようになるのです(使徒16:31参照)。一つの戒めでも、いろいろなことを考えることができるのですね。(佐久間)

 

9月23日(日)

もし、彼が別の女をめとった場合も、彼女から食事、衣服、夫婦の交わりを減らしてはならない。もし、彼がこの三つの事柄を実行しない場合は、彼女は金を支払わずに無償で去ることができる。

出エジプト21:10、11

 

新共同訳の21章は「奴隷について」という見出しから始まります。これは貧しい者を意味しています。人間の中に貧しい人がいることは現代になっても変わりません。神様は、その貧しい人たちを見捨てているわけではなく、逆に彼らを守ろうとしています。今、私たちが読んでいる律法もただ規則が与えられたということではなかったのです。そこに神様がおられることで成り立っていました。神様が見ているぞ!というわけです。そうでなければ、弱い立場の人はいつでも虐げられて、守られることはありません。でも、イスラエルの民の中で律法が機能したのは神が一緒におられたからです。そして、私たちは人間が本当に貧しくなると娘を売ることだってすることを思い出します。NHKの朝ドラで皆が涙した「おしん」のように、貧しさのゆえに娘が売られたのです。その中で、ある娘は主人の息子の嫁になることもありました。しかし、その息子が他に妻を迎えると、疎んじられてひどい扱いを受けかねないのを神様は知っていて、今日の聖句にあるように神様と約束させたのです。貧しさは罪の世界に特有なことなのです。貧しさのいけないところは、その人の尊厳を踏みにじることです。だから、イエス様が来られた時には、貧しい人への慈しみに富んだ配慮があふれていました。それにしても神様が人の心を知って、配慮していてくださることをありがたく思います。(さくま)

 

9月24日(月)

もし、隣人の上着を質に取る場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。

出エジプト22:25、26

 

旧約聖書のクラスでF先生がこんな話をしました。「日本が戦争で貧しい時代のこと、あるご婦人が質屋を訪れた。ふろしき包みの中から、着物を取り出し、恥ずかしそうにお金に替えて欲しいと言った。主人は、この人のご主人は戦地へ行っていて、生活に困っているのだろうと考えた。そこで、その着物を預かり、少し多めのお金を渡した。そのご婦人はその金を受け取り、帰ろうとした。その時、質屋の主人が呼び止めてこう言った。『あの~。奥さん、お預かりしたお着物は良いものなので手前どもでは保管が難しいと思います。それで、奥さんにお願いなのですが、このお着物を預かっていただけないでしょうか』。そのご婦人はとても驚いた様子だったが、質屋の主人の気持ちがわかったので、涙を浮かべて、『それではお預かりします』と深々と頭を下げて持ち帰って行った」。そして、F先生は、今日の聖書箇所を開いて読み聞かせたのです。あなたはどう思われましたか。(さくま)

 

9月25日(火)

見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わして、あなたを道で守らせ、わたしの備えた場所に導かせる。あなたは彼に心を留め、その声に聞き従い、彼に逆らってはならない。彼はあなたたちの背きを赦さないであろう。彼はわたしの名を帯びているからである。

出エジプト23:20、21

 

ここに出て来る使いは、天使のことです。つまり、神の民には天使が遣わされることがあるということです。あなたは、神様の存在がよくわかっていないかもしれませんが、あなたの知らないところで、天使に助けられたり、導きを受けたりしていると思います。また、声を聞くことだってあるかもしれません。おそらくは危険が迫っていたり、悪魔に騙されそうになっている時など、緊急の危機を避けるために声を聞いたかもしれません。幸い、そのような危機に遭遇していなければ、声を聞いていないかもしれません。声を聞いても聞かなくても、天使があなたを道で守っているのです。それは、私たちには主の備えられた場所があって、そこへ導かれているのです。私の人生を振り返っても、絶妙のタイミングで全てがうまく導かれたと驚きます。この危険な悪魔のいる世界で、無事に目的地である天国までたどり着くには、やはり天使の具体的な助けが必要なのです。ですから、この世の人のようにいい加減に自分勝手に生きてはならないのです。聖書を与えられているように、神様の御言葉によって生きていく必要があるのです。聖霊はあなたの内側に住んでいて、あなたを助け、外では天使があなたを守っているのです。神様は色々な方法であなたを天国へと導いているのですね。今日も安心して、感謝のうちに一日を過ごしましょう。(さくま)

 

9月26日(水)

主が、「わたしのもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい。わたしは、彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける」とモーセに言われると、モーセは従者ヨシュアと共に立ち上がった。

出エジプト24:12、13

 

人間にとって、教えることは重要なことです。どの国も良い国へと発展させようとすれば、教育が重要であることを知っています。しかし、財政難になると一番はじめに予算を削られるのも教育費です。子供達は将来への投資で、選挙できる有権者ではないからです。しかし、イスラエル人は教育に力を注ぎ、世界で最も優秀で頭のいい民族と思われています。その理由を皆知りたがりますが、今日の聖句を読むと納得できます。神様が直接教えると語られています。それも、教えと戒めを石に記して授けています。パピルスでも羊皮紙でもありません。石です。それは、この教えが不変の教えだという意味です。古いラビの言い伝えによれば、この石はサファイアであったと言われています。多分、10節の「その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり」とありますから、そこから来ていると思われます。さらに、「それはまさに大空のように澄んでいた」と書かれていることから、空の上の天を現していると理解できますから、天の御座におられる神様を象徴的に現していることもわかります。いずれにしろ、そのように神的なあるいは天的な教えであり、戒めであったのです。それが、神様によって教えられることから、イスラエルの民はそれを学ぶことのできる年齢になれば義務として一生学び続けることになったのです。膨大な分量というのではなかったので、いやむしろ少ないものだったために、繰り返し学ぶことでより深く考えるようになっていったのです。人生経験を積む旅に、その教えの深さ広さを理解できるようになったはずです。私たちクリスチャンにしても、聖書は持っているだけでありがたいものという性格のものではなく、読むというよりは学ぶもの、あるいは考えるものなのです。さらに、私たちには特典があって、イエス様が父なる神様にお願いして、聖霊を使わしてくださいます。それを真理の御霊と呼んでいますが、その聖霊こそが御言葉を解き明かしてくださるのです。この御言葉が私たちを造り変える力となるので、おろそかにはできないのです。人を形成しているのは考え方が大きいので、御言葉によって考え、悟り、生き方まで主の御心に適ったものへと変えて行くことができるのです。モーセの場合は、神との契約を締結することへと繋がっていました。私たちの場合は、キリストが十字架で血を流されて契約が結ばれているのです。血は命なので、キリストと信じる者が共に一つの命に生きることを意味していたのです。(さくま)

 

9月27日(木)

四つの金環を鋳造し、それを箱の四隅の脚に、すなわち箱の両側に二つずつ付ける。箱を担ぐために、アカシヤ材で棒を作り、それを金で覆い、箱の両側に付けた環に通す。棒はその環に通したまま抜かずに置く。

出エジプト25:12~15

 

幕屋建設の指示が主から出された。興味深いのは、一番はじめに指示されたものが箱だった。これは、契約の箱と呼ばれるもので、聖所の中でも最も重要なものだった。箱はアカシヤ材で作られた。アカシヤ材は、荒野に育つシュティムという木から取られた材木だ。これは、主イエスの人性を現し、そのアカシヤ材を覆った純金は、主イエスの神性を象徴している。その箱の四隅に金の環が付けられた。その環に棒を通してお神輿のように祭司が担いで運ぶのだ。その棒もアカシヤ材で造り、金で覆った。このように箱の環に通された棒は、最終目的地の神殿の所定の場所に据え付けられるまで外されることはなかった。これは、イエスラエルの民が荒野を旅したように、クリスチャンもこの世では寄留者にすぎないことを教えている。箱を運ぶことができたのは、祭司だけだった。それは、イエス・キリストを正しく理解しているのはクリスチャンだけであることを象徴しているのだ。聖所の教えるものは主イエス・キリストであり、また、三位一体の神であり、キリストによる罪人の救済であり、教会であり、クリスチャンについてである。そのために、少しずつ聖所に隠された真理を学んでみたい。紙面の都合で一部しか解説できないが、ご自分でも祈って考えて欲しい。何か良い発見があれば、喜びも大きくだろう。(サクマ)

 

9月28日(金)

幕屋の壁板をアカシヤ材で作って立てなさい。一枚の壁板は縦十アンマ、横1.5アンマ、出エジプト26:15

 

聖所の壁はいったいどうなっていたのだろう。それは、荒野で手にはいるアカシヤ材の板を並べて立てて繋いだものだった。一枚の大きさは、高さが5メートル以上、幅が75センチ以上だった。上等の木材とは到底言えないものだったが非常に重かった。それを荒野の砂地の上に壁となるように立てなければならなかった。そこで、銀の台座が板1枚に2個使われた。それらの銀は、出エジプト記38:25~28によれば、20歳以上の登録された者が聖所のシェケルで半シェケル献げた贖い銀を使ったものだった。銀はキリストの贖いを象徴していた。半シェケルはわずかな金額だった。金持ちも貧乏な者も金額は同じだった。どんな人もキリストの贖いによらなければ救われないことを教えている。さて、一枚の板を立てるのに銀は1台50キロで、2台使われたので100キロ使われた。現在の相場で410万円ぐらいの値段になる。これが50枚の板に100個の台座が使われたので、2億円以上の値段となる。板は人性を象徴していたように、クリスチャンを表している。そのクリスチャンは罪人であったが、キリストの十字架の贖いによって立つことができた。つまり、銀の台座は高価で尊いキリストの十字架の犠牲を表していたのだ。それは自分の功績や修養や苦行など人間の力ではなく、キリストの十字架の贖いによって神の御前に立てる人になれることを教えている。しかも、1枚で立つのではなく壁となるように何枚もの板がつなぎ合わされて一つになって立つのだ。そして、その板は金箔で覆われた。金は愛を象徴するので、愛です覆われたいるという意味になる。しかも、その板を支える横木も金箔で覆われた。これは、「互いに愛し合いなさい」という主の新しい掟を表している。また、「一枚の板の下に作る二つのほぞ」(19)とあるが、「ほぞ」という言葉には「手」という意味もある。信仰という手で救いを受け取るという意味がある。では、「二つ」とは何か。一つは、イエスが十字架で贖いを完全に完成させたこと。二つ目は、この贖いが神に完全に受け入れられたことのしるしとしてイエスが復活したこと。それは次の御言葉に証言されている、「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」(ローマ4:25)。このように、聖所は、キリストとクリスチャンのことを象徴的に教えている。銀よりも無限の価値のあるキリストの救いに感謝と喜びを献げたい。(佐久間)

 

9月29日(土)

アカシヤ材で祭壇を造りなさい。縦五アンマ、横5アンマの正方形、高さは三アンマとする。祭壇の四隅にそれぞれ角を作り、祭壇から生えているように作り、全体を青銅で覆う。出エジプト27:1、2

 

 

アカシヤ材はキリストの人性と屈辱の象徴である。祭壇は、このアカシヤ材で造られ、それを青銅で覆った。この祭壇の上で犠牲の動物が焼かれた。網目作りの格子がつけれられていて、その上に犠牲を置き、下から薪で燃やされたのである。青銅は贖いの意味を持つ。それは、人間の罪をキリストが十字架で犠牲となって死ぬことにより、神の罪への怒りと裁きが全うされたという意味がある。聖書の「青銅」は正しくは「銅」と訳すべきだ。青銅は銅ほど火に強くない。さて、祭壇のサイズが指定されている。縦横五x五アンマの正方形であった。実は、ゴルゴタの丘でキリストは五つの傷(両手、両足、脇腹)をおわれたが、それはまた五種類の傷(打撲傷、裂傷、刺し傷、貫通傷、裂傷)であった。祭壇が正方形であるのは、東西南北、全世界の全ての人々に向けられた福音であることを意味している。祭壇自体が十字架の象徴であったから、イエス・キリストを信じる者が誰でもキリストの贖いによって、神の裁きである死から免れることができるのだ。祭壇の高さは三アンマで、三は特に聖霊について用いられる数字である。つまり、聖霊がキリストの十字架の死にも、また復活にも関わっていたことを祭壇は示しているのだ。また、四隅の角は、キリストが罪に打ち勝つ力を象徴している。だから、祭壇を通してのみ神のみもとへ来ることができるのだ。キリストの愛と恵みは深い。その愛にあなたは生かされている者なのだ。(サクマ)

 

9月30日(日)

次に、祭司としてわたしに仕えさせるために、イスラエルの人々の中から、兄弟アロンとその子ら、すなわち、ナダブ、アビフ、エルアザルとイタマルを、アロンと共にあなたの近くに置きなさい。

出エジプト28:1

 

モーセが神から指示されたのは、血肉の兄弟アロンを祭司とするようにということだった。これは、主イエスが私たちの長兄となり、私たちは主イエスの兄弟となることの預言となっている。そして、アロンの子らも祭司とするように命じられたが、アロンと共にいる時にだけ祭司として奉仕できることを示唆している。これらは大切な預型となっている。私たちがキリストを信じて救われた時、古い人に死に、新しい人として聖霊をいただき生まれた。それは、神の子となることでもあった(Ⅰヨハネ3:1)。そして、「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司」(Ⅰペトロ2:9)とあるように、主イエスが大祭司であり、クリスチャンのあなたたちは大祭司イエスと一緒に働く時に祭司となり、しかも、王である祭司となるのだ。アロンがそうであったように、大祭司イエスは私たち無しでは働かない。私たちは、主イエスの手足であり口であるからだ。私たちを通して働かれるのだ。だから、あなたたちはこの世で主イエス・キリストを代表する者とされている。それは、人間的な努力や肉の力で得たことではなく、もっぱら神のお働きによるのだ。そして、御言葉によると、「わたしに仕えさせるため」とあるので、あなたは神に仕える者であることを忘れてはいけない。神のみ心をこの世で実現させることこそがあなたの使命なのだ。あなたの受ける報いは大きい。天に帰った時に、そのことが明白にわかるだろう。(サクマ)