2019年2月ディボーション

2月1日(金)

御力を表される主をあがめよ。力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう。

詩編21:14

 

賛美に力があることは昔から言われてきましたが、現代でもその不思議を体験することは容易です。どんな時でも、賛美歌を歌ったり、賛美歌を聴いたりすれば、たちまち気持ちは天国へ昇り、神の支配の中に入れられたことがわかります。少し前までは賛美歌といえば、昔からの伝統的なものでしたが、言葉の変化で歌詞が変わり、それに合わせて曲が少し変わり、さらにはワーシップソングと言われる現代の賛美歌がたくさんできてきました。それを止めることはできませんから、教会の礼拝にも変化が訪れたのです。説教学の大家であるK先生は、方々の教会に説教を頼まれて礼拝に出席して見ると、賛美歌が伝統的な曲からプレイズと呼ばれるワーシップソングまで様々であるけれど、目を閉じて聴いていると、どこでも聖霊が働いていることを確かめることができるとおっしゃっていました。私は古い賛美歌も好きですが、ワーシップソングを礼拝では使うようにしています。理由は、ワーシップソングで聖霊が満ちて来た礼拝や集会を体験して来たからです。伝統的な賛美歌で同じような経験をしたことはなかったのです。だから伝統的な賛美歌がダメだと言っているのではありません。伝統的な賛美歌でも聖霊に満たされるのかもしれません。ただ、牧師になる前の信徒時代に賛美歌で聖霊に満たされるような経験はなかったのです。神様が御力を表されるのを見たいし、あがめたいのです。聖霊に満たされ、力を受けたいというのも本心です。悪魔と戦うときも、癒しを行うときも、神様の愛が流れるときも、主を賛美することが重要なのです。あなたの好きな賛美歌を今日も歌って見ましょう。あなたの真心をもって主を賛美しましょう。率直に愛込めてあなたの神を賛美しましょう。

 

2月2日(土)

わたしは水となって注ぎ出され、骨はことどとくはずれ、心は胸の中で蝋のように溶ける。口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。

詩編22:15、16

 

詩編22篇は、メシア預言の一つです。主イエスが十字架で苦しまれることがここに預言されていたのです。有名な十字架上でのイエスの言葉が、2節に出て来ます。我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになるのか。十字架がいかに過酷であり、イエスがどれほどの恐ろしい苦しみを味わったのか、しかも、弟子たちですら見捨てて逃げ出し、刑吏や処刑を見ていた人の残酷な振る舞いがそのまま預言されていたのです。今日の聖句は、ヨハネの福音書の19:34「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た」とある箇所の元の預言です。これは、心臓が破裂した時に血と水が分離することがあるそうで、そのために「血と水が流れた」という記事になったのです。イエスの上に、全人類の罪が置かれ、その恐ろしいまでのストレスが心臓を破裂させたのです。つまり、私たちの罪がイエスの命を絶ったということです。天の父は、私たちを罪のゆえに滅ぼすこともできたのですが、憐れんでくださり、私たちを救うために御子イエスを「塵と死の中に打ち捨てられ」たのです。イエスがこれほどの苦しみに遭わなければ誰も救われることはできませんでした。だから、クリスチャンはこのイエスの故に生きているのですから、でたらめに生きることなどできないのです。天の父と御子イエスの愛に応えて生きるのです。あなたはこのような意味で特別な存在なのです。ですから、あなたは主の愛を信じて生きていけばいいのです。

 

2月3日(日)

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。

詩編23:1~3a

 

私たちが悩むのは、自分で人生を望み通りにしようとするからです。聖書は、私たちは羊である、と教えています。羊には羊飼いがいます。私たちの羊飼いはイエス・キリストですから良い羊飼いです。良い羊飼いは、将来を見通し、計画を立て、何一つ困ることのないように安全を図り、愛情を注ぎ、健康を管理し、敵から守り、食べ物や飲み水を与え、飽きることのない楽しい人生へと導いてくれるのです。つまり、羊飼いイエスに人生をゆだねて、どこまでも従順に生きるなら、悩みは消えてしまうのです。人生に欠けがないと言える人は本当に幸せな人なのです。皆さんは、平和のイメージを思い浮かべることができますか。詩編記者は、「青草の原に休ませ」と書きました。青空の下、牧場の広々とした原に羊がのんびり草を食べたり、寝そべったりしている光景が浮かびますか。次に、「憩いの水のほとりに伴い」と書きました。小川にきれいな水が流れています。周りに敵はいません。乾いた喉を冷たい水が潤します。いっぺんに生き返った気がします。こうした光景は本当にあります。だから、想像することは容易いのです。私たちは、さらに霊的に考えます。主イエス・キリストが私の牧者であること。この地上での人生は主によって確実に正しい道へと導かれます。気がつけば、肉の思いが消えて、私には何も欠けることがありません。霊的な安息が与えられ、命の水を自由に飲むことができます。そして、罪の故に死んでいた魂が、主イエス・キリストによって生き返らせていただけるのです。だから、生き方が変わります。良い教えで変わるのではありません。また、難行修行によって変わるわけでもありません。あなたの良い行いやあなたの義によって変わるのでもありません。ただ、羊飼いイエスが変えてくださるのです。この恵みを体験しましょう。

 

2月4日(月)

どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか。それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく、欺くものによって誓うことをしない人。主はそのような人を祝福し、救いの神は恵みをお与えになる。それは、主を求める人、ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。

詩編24:3-6

 

初めて読むと、これは人となられた主イエスのことだと思うでしょう。しかし、何度も読んでみると、この人こそが天国に入る人だと気がつきます。問題は、自分がここに書かれたような者ではないということです。自分が罪人であることを知らないで生きていた時なら、何の意味もない詩です。それが、自分こそが罪人の頭だと思い知らされた日があったのです。それは、とても恐ろしいことです。自分が呑気に正しい人だと思って生きていたのに、実はイエス・キリストを十字架につけて死なせた張本人であることを知ったのです。自分が汚れていいることに気がつけば、清めていただきたいと願うのは当然です。清めることができるのはイエス・キリストだけで、しかも、十字架で流された血潮で清めていただくのです。そのことが聖霊の助けで実現します。自分ができることは、罪がわかったのなら、悔い改めることだけなのです。このことが人に起こることをコンバージョーン(回心)とよんでいます。ここで初めて、神を求めるようになります。洗礼には力があるので、受洗後には、クリスチャンとしても新しい人生が始まります。それで、すぐに「潔白な手と清い心をもつ」ことができればいいのですが、そう簡単ではありません。過去の記憶がそっくり残っています。罪人の時の悪い癖も消えていないなら、大きな課題になります。ライザップのコマーシャルを覚えていますか。太っていた人がトレーニングを受けて見事に引き締まった体に変身する姿を映していましたが、まさに聖霊のトレーニングを受けて、だんだん気がつかないほどゆっくりとキリストに似せて造り変えられて行くのです。その歩みは人それぞれですが、神を欺くことはできません。正直に生きることになります。このように信仰によって変えられて行く人は、主を求める人なのです。その意味を考えてみましょう。

 

2月5日(火)

わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず、慈しみ深く、御恵みのために、主よ、わたしを御心に留めてください。

詩編25:7

 

何十年も生きて、過去を振り返り、後悔することは多いだろう。あの時、こうしておけば良かったと思っても今更どうすることもできないのに、何度も考えてしまうかもしれない。人生には実に選択肢が多いものだ。若い時には、その意味もわからず、考えも無しに勢いで重大な人生の選択をしてしまう。だからこそ、年を重ね、分別がつく頃には、若い時の後悔が悩みとなってしまう。これは変えられないので、負い目になってしまう。しかも、「若気の至り」と言う言葉があるように、未熟ゆえの罪も神への背きも数知れずあるのだから、後悔のタネは尽きない。それでも、嫌なことは忘れるという特性が人間には備わっているので、平気でいられるのだろう。しかし、クリスチャンになり、聖書を読むようになると、自分を知るようになる。それは、神を知ったからだ。実は、私たちは、自覚しているかどうかによらず、大人になるまでに周りにどうみられるかという私のイメージを作りあげ、その鎧のようなものを着て生きているのだ。多少はイメージを良くすることはできるかもしれないが、肝心の本体である私はイメージの鎧の中に隠れている。それが、キリストと出会い、このイメージが意味のないものとして捨てなければならなくなった。本当の姿をさらして生きることを求められているからだ。なぜならば、この本当の自分の姿こそが神に似せて造られた神の像だったからだ。罪のために傷んではいるがリフォームできる。実際には、信仰者は詩編記者のように祈るだろう。そう、主の憐れみによって、私たちは御心に留めていただき、刷新されるわけだ。神の像を回復するために。

 

2月6日(水)

主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません。

詩編26:1

 

人間の人生はいろいろなことが起こります。その中で信仰を守り通していることは、すごいことなのです。「あなたの裁きを望みます」とは、神様の支配に服します、という意味です。神様がわたしにとって良いと思われることをしてください、と言い換えても間違いではありません。「完全な道」と聞けば、自分はダメだと思う人はいるでしょうが、これも、キリストのことだと言えば納得できますか。キリストという道を歩んできた。つまり、キリストを信じて行動してきた。どんなこともキリストを通して考えてきた。「イエス様どうしましょう、正しい選択ができますように」と祈ってきたり、イエス様なら、このような時にどうなさるだろうと考えながら生きてきた、ということです。「主に信頼して、よろめいたことはありません」とは、神様を信じることをやめようとしなかった。いざという時に自分の考えではなく、神様の御心がなるように祈って生きてきたということです。不思議に思いますが、たったこれだけのことで素晴らしい人生を歩んでくることができました。神様は生きておられます。ハレルヤ。あなたが主を信頼していれば、あなたは困ることはありません。恵まれた人生を歩むことができるのです。たとえ万が一、困難が襲ってきたとしても、この聖句をあなたが祈りとできるならば、主が働いて助けてくださいます。結果、あなたは主に守られ、奇跡を経験できます。少し大切なことに触れますが、あなたが自分を見ていると、自分は裁かれたらおしまいだから裁かれたくないとか、自分は完全ではないからまだまだダメだとか、自分は信仰が弱いので主を信頼し切っていないと言い出します。しかし、自分ではなく主を見れば、今日の説明の通り、私ではなく主が助けてくださり、祝福してくださることがわかります。どちらを選ぶべきかは明白ですね。

 

2月7日(木)

わたしは信じます、命あるものの地で主の恵みを見ることを。主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。

詩編27:13、14

 

人間はどうして不安になるのでしょう。いや、それよりも重要なことは、不安をどのように解決すればいいのでしょう。クリスチャンでも不安になり、悪い方へとついつい考えてしまうことがあるでしょう。私たちは自分がもっと強くなれば不安に打ち勝つと思っているのでしょうか。それでは、いつになれば強くなれるのですか。実は、クリスチャンは弱さの中で主が働かれることを知っているのです。だから、自分の力を誇示しないほうがいいのです。そうではなく、ありのままで、主を信頼することです。そして、困った時には、神様に近づくことです。不思議ですが、貧しい国や迫害が厳しい国のクリスチャンの方が不安なはずですが、それをまるで燃料にしているかのごとく信仰の炎を燃え上がらせている証しが実に多いのです。日本のように平和で豊かな国にいても、不安になるのはなぜでしょう。多分、主の教えを守っていないか、理解していないからではないでしょうか。例えば、主の祈りは誰でも知っていますが、これをよく考えてみると、不安を全て消してしまうための祈りになっています。私は、毎朝、主の祈りを唱えますが、一つ一つの祈りを広げて祈ります。その中に、具体的な人の名前や助けていただきたい内容を入れています。この主の祈りは効果が高いです。忙しい人でも、すぐに祈れます。そして、さらにダビデの詩編を祈りにすることもお勧めです。一体、何と戦っているのか納得できます。そして、敵に悩まされたり、圧迫されたり、陥れようとする人だっているかもしれません、あなたの悪口を言いふらしている人がいても不思議ではありません。悪魔は情け容赦ないのです。それは、神の子が悪魔、悪霊を追い出すことができるからです。だから、脅かして不信仰におちいらせようとしているのです。そんな時、今日の聖句を唱えるのです。私たちは勝利しなければなりません。どんな時にでもです。自分の思い通りにしようとすれば、不安の種を蒔いているようなものです。自分よりも賢く間違わない確かな方であるイエス様に全てを任せなさい。不安になるのがバカバカしくなります。恵みを見ることを信じましょう。

 

2月8日(金)

主をたたえよ。嘆き祈るわたしの声を聞いてくださいました。主はわたしの力、わたしの盾、わたしの心は主に依り頼みます。主の助けを得てわたしの心は喜び踊ります。歌をささげて感謝いたします。

詩編28:6、7

 

子供でなくても不思議に思うのは、何十億という人間がいて、その中の多くの者が神様と呼び、祈るのに、どうして自分のような小さな者の些細な問題を主は賢明に解決して祈りにちゃんと応えてくださるのか、ということです。神様だから全能でみんなの祈りを全て聞くことができるのだ、と言われればそうなのだろうが、一国の元首とか、マザーテレサのような偉大な人とか重要な人物のもっと大事な祈りがあるのに、小さなとるに足りない自分の祈りを聞いていただいて、主をわずらわせていいのだろうか。こんなことを言う人に何人も出会いました。神様はお忙しいのだから、わたしのような者が邪魔してはいけない、と言う人もいます。はたして、本当でしょうか。主はそれほど小さくありません。人間と同じなら、疲れもするでしょうが、桁違いの能力があるので神様なのです。それに、皆さんは神様の愛の対象なのです。多くの人が自分の価値を過小評価しています。正しい自信を持てば、もっと生き生きと活躍できます。イエス様は皆さんにとって最高の先生です。いろいろなことを教えてくださいます。間違った考えを正して、神様を知ることが重要です。それは、日々の生活の中で、まず「天のお父さん」と呼びかけることから始まります。あなたを悩ませる問題があれば、主によって勝利すべきです。今日の聖句でなんと言っているか注意深く読んでください。そして、ここに書いてある通りに信じてください。信じた通りになります。そうしたら、喜びがあふれますから、主を賛美してください。ますます、力に溢れることができます。主への感謝は体を健やかにします。あなたが自分の力以上のことができるのは、「主はわたしの力」と信じたからです。踊り出すほどの喜びは主に助けられた者のものなのです。ハレルヤ!

 

2月9日(土)

神の子らよ、主に帰せよ、栄光と力を主に帰せよ、御名の栄光を主に帰せよ。聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。

詩編29:1、2

 

あなたは理解しているだろうか。イエス・キリストに出会い、信じて救われたことが、どれほど栄光に富んだことであるか。あなたは、罪の中で死んでいたので、いつでも「私が、私が」と自己中心にしか物事を捉えることができなかった。自分は正しいと何の根拠も無しに自己主張していた。それは、自分の考え方に固執していて、他の考えを受け入れることができない不自由なものだった。つまり、真理を聞いても無意識のうちに、いつでも自分の考えに合わせようとして真理を捻じ曲げ、結局真理を理解しそこなっていたのだ。それでも、あなたの心には真理に対する渇望があった。だから、心の空しさを知っていた。そして、真理を求め始めたが自分のプライドが障壁となって立ちはだかった。だから、心の最も深い所で求めている真理を得るには、このプライドを砕くしかないのだが、それは簡単なことではなかった。時間も随分かかったし、試練もくぐった。自分の家族や友人たちも偶然そこにいるのではなかった。何もかも主があなたを選んで召していてくださったから、いろいろなことが起こったのだ。そして、福音を信じたあなたに主は、神の息を吹き込むことで死んでいたものを生かしたのだ。あなたを覚醒するには、聖霊に満たされることしかない。あなたは、相変わらず肉をまとっているので、肉に属すると無意識の内に受け入れている。しかし、信仰は全く別の道を示している。イエス・キリストという光の道だ。それは、目に見える世界を超越している。あなたが信じた通りになる、と教えた通りに、あなたの信じている通りにしかならない。だから、あなたの不平不満の原因はあなたの信じていることに問題があるわけだ。それは、あなたの価値観とか、詮索好きな性格とか、否定的な考え方とか、悲観的な受け止め方とか、言葉をべていけば、ああ~と納得できるだろう。しかし、それらは、すべて変えることができる。そう言われても、そう思えないのは、そう信じているからだ。信じている、とはそれほど強いものなのだ。だから、神は、私たちがもともと霊的な存在であることに気づかせてくれた。肉などは上着のようなものだ。私たちが霊的存在であれば、神も霊なので、交わることができるというわけだ。そこで、神の霊をその人に満たして、聖霊漬けにすることで本来の正常な状態に戻し、しかも、神の子とされたのだ。神と一つになって、まだ罪人の考え方をすることはできない。だから、信じることが全く変わるというわけだ。そして、その結果が素晴らしい。幸いにも、その人は、今日の聖句のように、聖なる輝きに満ちる主にひれ伏すのだ。

 

2月10日(日)

主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐れみを乞います。わたしが死んで墓に下ることに、何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ、あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。主よ、耳を傾け、憐れんでください。主よ、わたしの助けとなってください。詩編30:9~11

 

私たちは神様を知っているので、祈ります。初めの祈りは、神社で祈るようにお願い事ばかりでしたが、「ご利益ではない」と、たしなめられ、祈りを考えるようになったことでしょう。そこで、詩編30篇を教材にして、祈りを考えてみることは意義があります。例えば、今日の聖句です。「主よ、わたしはあなたを呼びます」と言います。祈りは、主を呼ぶことだと知ることができます。また、私たちの神様は遍在のお方ですから、神社の神のように社に留まっているような方ではありません。だから、あなたのいる所で主を呼びます。これは、まるで子供が父親を呼ぶようなものです。特別な関係があります。その中で、「主に憐れみを乞う」ということを忘れてはなりません。ダビデの面白さは、自分が死んだら神様に感謝も献げられないとユーモアさえ感じてしまう抜群の祈りです。神様もこれには苦笑いしながら可愛いダビデを助けようと思うでしょうね。ダビデのような天才的詩人でなくても、真似することも、ヒントを得て祈ることもできます。何より、神様にどう接すればいいのか知ることができるのです。神様はきっと、あなたに主は憐れみ深いので、その憐れみにすがっても良いのだ、と教えているのです。私たちの種は、どんな祈りを献げるのかきっと楽しみにしています。つたない言葉でも一生懸命に祈れば、主は憐れみをかけてくださるでしょう。早速、祈ってみましょう。

 

2月11日(月)

命は嘆きのうちに、年月は呻きのうちに尽きていきます。罪のゆえに力はうせ、骨は衰えていきます。わたしの敵は皆、わたしを嘲り、隣人も、激しく嘲ります。親しい人々はわたしを見て恐れを抱き、外で会えば避けて通ります。

詩編31:11、12

 

人の人生は同じことの繰り返しのようで、実は刻々と変化しています。親しい人でも、自分が貧しくなったり、周りから批判を浴びるようになれば、途端に距離を取り、避けるようになるものです。まして、敵が現れると、悪夢のようにひどいことが次々に襲ってきます。およそ考えられないような悪意が向けられ、誹謗中傷や亡き者にしようと攻撃が繰り返されるのです。これは、小説やテレビドラマだけの話ではありません。特に、正しい人がその言動のゆえに攻撃されることは珍しくありません。この詩編詩人も、命を脅かされています。精神的な苦しみもピークに達しているようです。彼は、主を頼り、身を寄せます。そして、自分の力ではなく、神様に敵に立ち向かって欲しいのです。それで、このように訴えています。しかし、彼は「主よ、わたしはなお、あなたに信頼し、『あなたこそわたしの神』と申します」。このように信仰告白し、さらに、「わたしにふさわしいときに、御手を持って、追い迫る者、敵の手から助け出してください」と祈りました。このように敵に対処するには、信仰告白とふさわしい時を主に委ねることなのです。自分の考え通りなら、すでに自分の力で敵に勝っています。しかし、恐れが増すばかりで、自分の力ではどうすることもできない時にこそ、全面的に主の御力にすがるのです。その時に、主に指図するのではなく、自分を明け渡して、ゆだねるのです。ダビデ王はそうやって、敵に苦しめられることはあっても、必ず勝利したのです。あなたも、信仰の勝利者になれます。何が敵かあなたはにはわかっているはずです。勝利の秘訣がわかれば、もう恐れることはありません。主こそ、あなたの勝利の秘密なのです。

 

2月12日(火)

神に逆らう者は悩みが多く、主に信頼する者は慈しみに囲まれる。

詩編32:10

 

自分の感情やプライドに支配される人がいます。その結果、神に逆らうことになるなら、愚かなことと笑ってはいられません。大変危険です。クリスチャンでも悩みの多い人がいます。それは、主に信頼することがなかなかできないからだと聖書は教えています。自分の主観的な思いや見当違いな詮索が正しい道から外れる原因です。主に信頼する人は、当然ですが色々余計なことを考えて心配しません。将来の事を不安に思う人はこの世でたくさんいます。それは、肉の特徴です。肉という象徴的なキリスト教の専門用語が指し示す人の姿は、自分だけの力で生きると考える人です。当然、目に見えない神を信じませんから、霊である神を認めていません。そのために、神の助けといった超自然の助けは期待できないのです。そうなると、自分の力で解決できないことは全て不安になってしまいます。未来のことなどわからないので大きなストレスになります。ところが、神を信じ、神を知った人たちは、自分以外の全能の力が助けてくれる事を体験します。そうなると、恐れや不安を感じなくなってきます。そうなるまでには、信仰の試みを越えなければなりません。それは、神ではなく自分に頼る心を砕くためです。聖書に書かれていることすら、自分に都合よく理解し、自分の信じていることと矛盾することは聖書であっても一切無視します。だから、聖書が難しくてわからない方が良いのです。それでも、助けが必要だし、祝福も欲しいのです。ちょっと考えればわかることですが、主に対する信頼は、一朝一夕に持てるものではありません。ただ、主を信頼することに集中するなら、主の慈しみに囲まれていることに気がつくのです。そうなると、自然と感謝が出てくるようになります。感謝からは喜びが湧いてきますから、笑顔になり、周りの人たちもつられて笑顔になりますから、対人関係も好転します。朝、今日も主が私を祝福してくださると信頼を言葉にしてみます。誰かが、何か困ったことや否定的な問題を持ってきて、嫌な事をあなたに言っても、あなたは、「それでも、私は主を信頼します」と宣言するのです。主は誠実なお方ですから、あなたが示した信頼に見事応えてくださいます。本当に信頼しなければなりませんから、はじめはちょっと大変かもしれませんが、すぐに主が活動的ですぐに行動されるお方である事を知るでしょう。こんな事を何年も年十年も繰り返していけば、いつか、主への絶大なる信頼があなたのものとなるのです。

 

2月13日(水)

我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾、我らの心は喜び、聖なる御名に依り頼む。主よ、あなたの慈しみが、我らの上にあるように、主を待ち望む我らの上に。

詩編33:20-22

 

 ウエスト・ロサンゼルス教会の牧師をしていたときに、最もアメリカを感じた。ダウンタウンにあり、日本人教会のはずなのに、礼拝には色々な国の人たちが集まってくる。日本語の通じない人たちが多数で、なぜこの教会に来るのかが良くわからなかった。黒人も、白人も、ヨーロッパからの移民も、イラン人も、もちろん日本人も、とにかくいろいろな人が毎週やってきた。彼らは皆良い人たちで居心地はよかった。毎回、礼拝の後には皆んなで食事をし、それは教会らしい楽しいものだった。教会の中心メンバーはいわゆる日系人たちで、中には太平洋戦争の時に捕虜となって収容所に入れられていた人たちもいた。また、自宅が元大統領のレーガンの近所で、遊びに行くと広大な敷地のフェンスを壊して鹿が現れたりする、スケールの大きさにアメリカを実感したものだ。だいたいアメリカに単身渡って見事市民権まで取る人たちは、一癖も二癖もあって、根性が半端ではない。その二世たちはアメリカ人となり、それでも日本人の誇りも持っているが、日本人から見れば日本人でもアメリカ人でもないように見えるかもしれない。しかし、信仰は国籍を越え、万国共通なのだ。彼らも、主の再臨を待っている。いや待ち続けてきたが、いつしか死の方が早く来る事を受け入れている。主は、彼らの助けであり、人生の危険な場面でいつでも盾となった。信仰によって、喜ぶことが多かったし、人種差別のある白人社会の少数派だから、聖なる御名に依り頼んで生きてきたのだ。メキシコ人の夫婦が理事になった。夫は庭師で英語はうまく話せないが良い人だ。奥さんはおしゃべり好きで、愛想の良い人で、夫よりも大柄な人だった。黒人の大学院生の女性が教会書記になった。アメリカ人の青年も理事になった。だんだん、日本人教会が国際教会のようになったが、彼らはアメリカ人の教会ではなく、日本人の教会の方が居心地がいいのだ。どの教会よりもゆるやかで安心していられる面白い教会だった。そして、国籍や肌の色など関係なく、神の家族という温かさをいつも感じることができた。この教会の兄弟姉妹もまた、主を待ち望み、神の慈しみによって生かされているのだ。私たちがたとえ一人で礼拝をしていても、こうした神の家族が世界中にいる事を覚えて欲しい。天国でおびただしい群衆が自分の家族である事を見る日が来るだろう。

 

2月14日(木)

味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。

詩編34:9、10

 

聖書の中には、信仰者を励ます言葉が随所に置かれています。この御言葉もその一つです。クリスチャンはこの御言葉を覚え、信じることになります。主が恵みを味わい、見よ、と願っているからです。あなたは、恵みから恵みへと生きることが可能です。実際の生活では、思い通りにいかない事で悩むこともあるでしょう。また、試練の時には、苦しむこともあるでしょう。それでも、永く生きて、自分の人生を振り返るなら、あなたの覚えていることは主の恵みばかりとなるのです。もしそうでないと言うなら、それは、不信仰であったか、あなたが自分の考えにこだわって、主の御もとへ身を寄せなかったからです。あなたは、「私の人生は主の恵みを味わうためのものだ」と言って、本当に信じることです。主の恵みを味わい、見たなら、あなたの信仰は大きく変わります。悪魔が否定的な事を耳元で囁いたとしても、以前と違って、いともたやすく打ち勝つでしょう。そして、あなたが以前には将来のことが不安で、考えれば悩み始めていたのが、現実を見て、「主を畏れる人には何も欠けることがない」と聞いたとおりだ、とわかり、心から感謝が湧いて来るのです。若い人は主のために一生懸命に生きなさい。多少、失敗しても大丈夫ですから、主に仕えることです。自分のために生きようとすれば、いつも悩みが心を脅かします。しかし、主のために生きることが本来の人間の姿なので、あなたは重荷をおろして、気持ちが楽になり、何をしても楽しくなってきます。このように、信仰によって生き始めると、あなたを祝福する者は主に祝福され、あなたを苦しめる者は、主が苦しめることになります。あなたは、主を知ろうと主に近づくのです。主もあなたに近づき、あなたは聖なる者となるのです。

 

2月15日(金)

わたしが正しいとされることを望む人々が、喜び歌い、喜び祝い、絶えることなく唱えますように、「主をあがめよ、御自分の僕の平和を望む方」と。

詩編35:27

 

この世で活躍しようと望めば、平和に暮らすことが難しくなります。ライバルが現れ、あなたと競い、足を引っ張ったり、あなたに打ち勝つために悪意を向けて来ることだってあるでしょう。あなたがお金儲けをしたり、幸せに暮らしていれば、それを聞きつけた人があなたのお金を狙ったり、幸せを妬んであなたの持ち物を奪おうとするかもしれません。何よりクリスチャンが辛いのは、悪意に耐えることです。仕返しをしないからです。それどころか、ひどいことをした人を赦し、更に祝福するのですから大変です。それも、心からしなければなりません。この世の人たちは、誰かが偽りの噂を流すと、それが面白くてならないようで、人々にその噂を広めるのです。クリスチャンであっても、未熟な人はその罠にはまります。神様は全てをご覧になっているのに、気がつきません。そして、悪口が本当かどうかを確かめることもなく、周りに広めてしまうのです。悪魔を喜ばせていることに全く気がつきません。ところが、本当にすばらしいクリスチャンがいます。その人は、今日の御言葉の通りにします。人を裁かないのです。それどころか、「わたしが正しいとされることを望む人々」なのです。ですから、心配して執り成して祈ってくれるでしょう。悪魔が結局負ける理由は、このような正しい人がいるからです。肉の弱さをいつまでも捨てられずに持って入れば、このように正しい人にはなれません。人の不幸を喜ぶような肉の小さな心に振り回されて生きるでしょう。そのような人が主の裁きに耐えられるはずがありません。私たちは時に、このような誘惑にさらされるし、また、ひどい悪意ある攻撃にさらされて、誹謗中傷や攻撃を受けることだってあるかもしれません。その時に、ダビデのように信仰で乗り切ることができれば、信仰者として理想の成長を実現するだけでなく、解放と勝利が与えられ、平和と恵みの報いがあるでしょう。

 

2月16日(土)

あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ、あなたの家に滴る恵みに潤い、あなたの甘美な流れに渇きを癒す。命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。

詩編36:8-10

 

神様はあなたにも公平です。あなたが神様を信じることができ、信仰を持って生きることがどんなにすばらしいことか、わかるでしょうか。あなたが不安に思うことは、主が解決してくれます。そのことが確信できるまで祈ることができます。自分だけではなく、子供達や家族のことも心配するようなことがあっても、主に祈り、主の助けに信頼することができます。信仰者として成長を願うことは正しく、自分の力に頼っていた時には知ることのない恵みの世界に生きることができます。この世は暗闇なので真理を見ることができません。だから、自分の罪も見えずに平気でいられます。しかし、主に出会い、主が光であることを知りました。主の光だけが闇に輝いているのです。その光が私たちを照らしたのです。それで、自分の罪を知り、十字架へと導かれたのです。罪の赦しは死から命への道です。私たちは、この世で辛くなれば主の御翼の陰に身を寄せることができるのです。主の元には、私たちを癒す命の水があり、求めれば甘美な生ける水で渇きを癒していただけるのです。この神の国に、あなたはすでに招かれたのですから、勇気を持って生きることができます。

 

2月17日(日)

主に自らをゆだねよ、主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい

詩編37:4、5

 

聖書を通して、主はあなたにこれだけはっきりと良いことを教えてくださっています。だから、あなたは幸いな人なのです。それなのに、悩んでいたり、人生がうまくいかないと思っていなるなら、神様と張り合うことはすぐにやめることです。つまり、自力で頑張ることをやめ、主にすべて委ねることです。あなたは、こうなりたい、あーなりたいと、フラフラ足元が定まらない人のようになっていませんか。私たちはかなりせっかちですから、主にまかせることが本当に下手です。神様はすべてに時あり、と何事にも時が定まっていることを教えています。ですから、主にゆだねたら、すべてがうまく行くと喜んでいましょう。あなたの願いが御心に適っていれば、あとは主が計らってくださいますから、楽しみに待っていればいいわけです。もし、間違った願いをしていれば、聞かれませんが、間違っていることも教えてくださいますから、いずれにしろ、主のやり方が最善であると信頼していましょう。あなたの心の願いがかなえば、主に最大の感謝を忘れないようにしましょう。あなたがいつも喜んでいれば、それこそが信頼の証になりますし、主はちょうど良いタイミングで心の願いを適えてくださいます。

 

2月18日(月)

主よ、わたしを見捨てないでください。わたしの神よ、遠く離れないでください。わたしの救い、わたしの主よ、すぐにわたしを助けてください。

詩編38:22、23

 

どんな人にも欠点があり、弱点があります。もっと意思が強ければ大丈夫かといえば、そうでもないし、自分の頑張りとは別のところに弱点があります。つまり、人間として精進して努力してもどうすることもできないことが残るのです。それを隠しているのですが、誰かに直接指摘されたり、弱点に触れられると、どうしようもなくなってしまうのです。せっかく信仰を持っているのに、悪魔はその信仰を不信仰に変えるために、人間の弱点を見つけ、巧妙に攻めてきます。ダビデもあっけなくやられてしまいました。詩編38篇を読めば、その惨めな様子が見えてくるでしょう。人間が見えるのはあくまでも人間です。ですから、誰かに苦しめられていると感じているのです。しかし、本体は霊的なものでサタンです。イエス・キリストのすごさは、このサタンに究極的に勝利できなければ意味がないことを知っていたので、悪魔に打ち勝つことができる権威を授けてくださったことです。それは、主イエス・キリストの御名を使ってサタンを追い出すことができる力です。これは、信じる者のしるしの一つなのです。さて、いずれにしろ、弱点を持った罪人が天国に入るための試練のようなもので、人間を苦しめる役をサタンが担っているわけです。サタンは霊的存在なので、現代人はサタンを理解していません。教会に集うクリスチャンでも知らない人は多いし、牧師や神学者ですらサタンを認めていない人がいるのです。しかし、苦難に遭って追い詰められると私たちは、今日の聖句のように言うのです。ダビデは、結局、主に助けていただきました。このような経験を通して、多くを学び、また信仰者として成長して行ったのです。主は、あなたを滅ぼそうとしていません。その逆です。あなたを救い、聖化しようとされているのです。あなたの目指している目標は、主イエス・キリストのようになるです。この世のどんな宝も朽ちて行きます。永遠に耐えられるものだけが真の価値あるものです。それが、私たちには主イエス・キリストです。それは、真理、命、道なのです。ここまで知っているので、道を故意にそれると懲らしめのため敵に打ちのめされるかもしれません。そうなりたくありませんから、主イエス・キリストから目を離さないでいてください。困ったことが起これば、それは何か信仰のテストが始まったと知ることができます。祈って、信仰で解決できます。それを体験しなければ、人は信仰者の標準に達することができないのです。心配せずに、まず主に祈り始めましょう。そして、聖書から答えてくださいと願いましょう。あなたは主に出会った者なので、きっと啓示が何かしらあるでしょう。そして、主は「信じるか」と聞かれているでしょう。あなたの答えは自然と口から出てくるはずです。

 

2月19日(火)

わたしは口を閉ざして沈黙し、あまりに黙していたので苦しみが募り、心は内に熱し、呻いて火と燃えた。わたしは舌を動かして話し始めた。「教えてください、主よ、わたしの行く末を、わたしの生涯はどれ程のものか、いかにわたしがはかないものか、悟るように。」

詩編39:3~5

 

この詩編は、舌の問題からはじめられています。舌で過ちを犯さないように、と口を閉ざします。なぜなら、神に逆らう者が目の前にいるからです。一緒に話し出したら、過ちを犯しそうです。そんな状況は、決して珍しくありません。私たちもクリスチャンがほとんどいない国で生活しています。ですから、神をも恐れぬ者が時に誘惑してきたり、攻撃してきたり、という危険がないとは言い切れません。近所の人と立ち話をしていても、つい一緒に知っている人のゴシップや他人の悪口を言ってしまうかもしれないのです。そんな傲慢な私とは何者なのか、と主に言われたら、答えようがありません。だから、もう神に逆らう者の前では、沈黙していようと決心するのですが、なんとそれがどんなに苦しいことであるか、心の中がまるで火事になったかのように耐えられず、とうとう口を開くことになります。それは、自分がいかに空しい存在であるかという主への訴えです。「主よ、それなら、何に望みをかけたらよいのでしょう」。詩編詩人が言えたのは、「わたしはあなたを待ち望みます」と言う祈りでした。結局、信仰者にとって、この世の人生は簡単ではないのです。自分がどんな存在であるかを無視することができません。罪はいつも人間を苦しめます。その罪と無縁になれないのです。そうであれば、主にすがるしか助かる道はありません。祈りは涙となり、主の憐れみにすがるのみです。そうやって、信仰者は天国への道を進んで行くのです。

 

2月20日(水)

わが神、主よ、あなたは多くのことを、奇しき業と計らいを、私たちのために成し遂げられた。あなたに並ぶ者はありません。わたしがそれを語り伝えようにも、おびただしくて数えきれません。

詩編40:6

 

詩編記者は、絶体絶命のような危機の中でこの詩を書きました。苦しい目に遭えば、誰でも神様に祈るものです。それでも、霧がいきなり晴れるように、問題があっという間に解決するようなことはないかもしれません。ひょっとすれば、ダビデのように命の危険に脅かされてというようなことは、なかなかないかもしれませんが、悩んでいる時は死にそうになっているかもしれません。そうなると神様にすがって祈るでしょう。それでも、すぐに問題が消えて無くなるといはないでしょう。なぜならば、本当の問題は自分が思っているようなことでは無いからです。もっと深くて深刻な霊的な問題を解決しようと主は見ているのです。それでも、主は憐れみ深いので、一つ一つの問題を祈りのたびに聞いてくださり、解決してくださいます。しかし、主の目的は、かたくなな心を砕くことなのです。なんやかやと言い訳をして、自分を正当化しようとする傲慢な心があるかぎり、罪の問題は解決できないからです。信仰は、自己正当化を放棄して、主に降参する心から出るものです。私たちが神様のことを考えると、あまりにも良いことばかりを自分のために主が成し遂げてくださったと感謝しか出てきません。主がこんな良いことをしてくださったと数え上げようにも、あまりにも多すぎて数えきれないのです。それほどまでに私たちを愛してくださっている神様が、私たちが敵に脅かされていたり、病気や大きなトラブルに巻き込まれていたり、生活が破綻して人生がダメになるような危機に遭遇しているのに、なぜ何もしてくれないのか、と不思議に思うかもしれません。実は、主は私たちを愛していると明言されていますが、愛されている私たちはどうでしょう。知らん顔しているのではないでしょうか。主を信じると言いながら、主を愛しているかどうかどうもはっきりしません。いつでも、自分が第一になっているからです。そこで、自分中心を砕き、自己愛を砕いていただかなければ、神様との愛の関係に入れないのです。そのために、クリスチャンがこのような試練を経験することがあるわけです。私たちが見事に、この試練に勝てるように、御子イエス様を自分を捨てて十字架に掛かられることによって、私たちへの愛を明らかに示されたのです。砕かれた魂にはこの愛が良くわかります。そして、この砕かれた魂こそが主が受け入れてくださる献げ物なのです。たとえ試練に遭遇しても、主を信じて、主を待ち望むことです。

 

2月21日(木)

幸いな者、弱い者を思いやる人は。災の日に、主はその人を救い出してくださる。主が守り、生かし、彼はその地で幸いな人と呼ばれる。その人を敵の思いのままにさせないでください。主は彼が病のとこにあっても支えてくださる。

詩編41:2~4

 

世の中には弱い人があふれています。ニュース解説者は、貧富の差がどんどん広がっている、と警鐘を鳴らします。一方で、若い人たちはアルバイトでも十分暮らせるのに、なぜそんなに頑張って働けというのだろう、と若者の代表のようにテレビで若手コメンテーターが率直に意見を言っています。日本の社会が大きく変化しているのを毎日実感させられているのに、それぞれの世代で今社会で起こっている変化を異なった理解をしているのにも驚かせられます。子供が父親に虐待された挙句に殺されてしまった事件で、今までの法律や社会の対応ではやっていけないことが明白にわかったのに、年配の解説者は、政府が法整備することに反対していました。その理由があまりにもお粗末で、時代遅れであることに驚きました。今だに昔の教師の体罰や親だからしつけのために叩いたりするのは、悪いことではないという自分の子供時代の話を元に判断しているのです。それが、現実を無視した古い固定観念で、どんなに恐ろしいことであるか理解していないのです。世界はとうに変わってしまったのに、日本人の無責任さで現実を見ようとしない。過去の自分の良い思い込みが自分の常識の基礎になっているのなら、社会のほんのうわべだけを見ていることに気がついて欲しいし、子供の命が関わっているような深刻な問題が日本の恥文化の中で犠牲となってきたのです。都合の悪いことは隠す、見て見ぬ振りをする、家の恥となるなら黙っていた方が良い、といった悪い文化が女子供を犠牲にしてきただけなのに、いまだに女子供を見下し、ひどいことを平気でする人たちがいるのです。だから、年長の解説者がメディアで児童虐待の防止のための法整備を邪魔してほしくないと思ってしまいます。アメリカでは、近所で児童虐待が起こったことを知ったなら、警察への通報義務があります。それを怠ると罰せられます。女性に対しても同じです。例えば妻に対して夫の虐待があれば、警察に通報するとすぐに来て逮捕します。本当に暴力をふるった夫に手錠をかけます。留置所に入れられ、もう妻に接近することもできません。そして、一年間、専門のカウンセラーにDVの治療を受けなければなりません。日本では、殺されなければ、どうにもなりませんがそれでは意味がありません。だから、古い考え方で弱い者を守ることを邪魔しないで欲しいのです。グローバル化と呼ばれるようになって、世界は刻々と変化し、その流れに日本も抗うことができません。昔は良かったと年寄りが言うのはいいですが、社会の変化に適応して、弱い者を助けようとする新しい考え方を否定してはいけないのです。神様は全てをご覧になられていて、弱い者を思いやる人に報いてくださいます。自分のことだけ良ければ良いという考えではいけないのです。自分の周りの人たちに少し心を配ってみましょう。

 

2月22日(金)

鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように、神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める。神に、生ける神に私の魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰げるのか。

詩編42:2、3

 

魂の飢え渇きというものは確かにあるものです。普段は忙しく働き、充実していても、何で満たせばいいのかわからない魂の問題が人間には存在します。これは、お金では満たすことができません。魂はお金を必要とはしていないからです。ただ、お金が必要だということは悪いことではありません。それどころか、日々の暮らしで必要なものです。それで、人間はお金を稼ぐために額に汗して働くのです。労働は尊い、という言葉もあります。お金があれば大抵のことはできるでしょう。しかし、お金が万能でないことは明らかです。幸福は買えないし、愛も買えません。そうした目に見えないものの価値は、魂にとっては重要になります。魂とは、私が生きているということそのものです。そこで、魂が渇いてしまうことは非常に危険なことなのです。肉は神を求めないでしょうが、魂は神を切望します。神によらなければ魂は満たされないからです。神に愛されることで、魂は渇きを癒されるのです。ところが、この世では、いろいろな問題が次々に現れます。そのようなことが続くと悩みが増して、魂は渇いてあえぎ出します。不調になるのです。私たちは、そうなると鹿が谷川の水を求めるように、神を求めます。ですから、悩み始めた時、悩みの中に止まっていてはいけません。すぐに神を求めて祈るのです。祈りの中で悩みを解決するのです。それは、神を待ち望むことなのです。あなたに神は御顔を向けてくださるでしょう。

 

2月23日(土)

私の魂よ、なぜ打ち沈むのか、なぜ呻くのか。神を待ち望め。

私はなお、神をほめたたえる、「御顔こそ、わが救い」と。

わが神よ。

詩編43:5

 

人生はかっこよく生きたほうが良い。それは、見かけのことではない。イエス・キリストを信じて生きることを言っている。周りを見回せば、神を信じていない人がたくさんいるだろう。家族や親戚、友人、知人、近所の顔見知り、その中にクリスチャン入るだろうか。もし、一族がクリスチャンならそれは恵まれている。普通は、クリスマスにケーキを食べても、イエス・キリストが誰であるかなど知ることはない。信仰の話をすれば、嫌われるかもしれない。そして、信仰を持っているからこそ、優越感に浸っていれそうなものなのに、実際には、普通の人に起こることは等しく自分にも起こる。病気だってするし、惨めにもなる。敵に脅かされて、馬鹿にされるかもしれない。失敗もするし、恥もかく。なぜ、もっと神様が超自然の力で助けてくれないのかと文句の一つもつきたくなる。クリスチャンなのだから、もっと立派にできないのかと泣きたくなる日もあるだろう。すぐ腹を立てて、言っちゃいけないことも言って、大切な人を傷つけてしまう自分が情けなくて落ち込むことだってあるだろう。クリスチャンだと胸を張って良い証を立てるはずが、随分と失敗ばかりしている。このどこがかっこいいと言えるだろうか。ところが、イエス様の弟子たちときたら、情けない奴らばかりだった。イエス様が捕らえられる時に、皆逃げ出した。私はイエス様の弟子です、とは誰も言えなかった。そのことが聖書に書き残された。一人ぐらい、イエス様を助けようとして殉教しても良かっただろうに、と無責任に思うかもしれないが、イエス様は弟子たちの誰一人責めることをされなかった。復活の後も弟子たちをいたわっているのがわかる。そして、ペンテコステの日が来た。その時から、弟子たちは変わった。イエス様の使者として日本の国会のような所でも、恐れずにイエス様を証した。クリスチャンのかっこよさは、イエス様のために生きることを理解した生き方のことだ。それは、義のために一命を賭す本物の武士のような生き方に似ている。弱い自分でもかまわないが、今日の詩編記者のように言えることが条件だろう。

 

2月24日(日)

我らの主よ、目覚めてください。なぜ、眠っておられるのですか。私たちを永遠に捨て置かず、起き上がってください。なぜ、御顔を隠されるのですか。私たちの苦しみと受けている虐げをお忘れですか。・・・立ち上がり、私たちを助けてください。あなたの慈しみのゆえに私たちを贖ってください。

詩編44:24、25、27

 

イスラエルの苦しみは、歴史に残り、世界中の人々が知ることになりました。私たちの理解を遥かに超えた苦難です。それが彼らの罪の故であれば、納得できるのでしょうか。この詩の最後に、「あなたの慈しみのゆえに私たちを贖ってください」とあります。この祈りは、やがてイエスの登場によって神に聞かれたことがわかります。つまり、イエス・キリストが十字架で血を流して死んだことです。命の代価で贖ったということです。なぜ、神の独り子が犠牲を払わなければならなかったのか、聖書を読めば明らかですが、ユダヤ人たちは助けに来られたイエスを殺したのです。こんな人たちのために尊い御子が犠牲を払ったことに驚きます。しかし、その理由は「あなたの慈しみのゆえに」、だったのです。これほどの愛を知らないために、イエスのしてくださったことに感謝して、人生を変えるチャンスを逃している人々がいるのです。だからこそ、クリスチャンは贖われた者として生きて見せる必要があります。この世界にも驚くほの恵みがあり、助けがあることを知らせたいのです。無条件に愛されていることを告げたいのです。

 2月25日(月)

私の心に湧き立つ美しい言葉、私の詩を王のために歌おう。私の舌は巧みに物書く人の筆。あなたは人の子の誰よりも美しく、その唇は優雅に語り出す。それゆえ神はあなたをとこしえに祝福された。

詩編45:2、3

 

詩は魂の声、舌をもって巧みに語るのは、詩人。詩人の心には美しい言葉が湧き立つという。その言葉をもって、王をほめ歌う。ダビデ王は、誰よりも美しく、その唇は優雅に語った。それゆえに神はダビデ王をとこしえに祝福された。さて、ここまで読んで考えさせられた。水野源三さんは、瞬きの詩人と言われた。9歳の時に罹った赤痢で脳性麻痺となり、目と耳以外機能を失った。彼の母親が五十音表で指差し、それに瞬きで合図し言葉を伝えるようになった。12歳の時に母親が聖書を与えた。それを読み、クリスチャンになった。18歳から詩を創りだし、イエスへの信仰を素朴に詩とした。口で優雅に語り出すことはできなかった。しかし、彼はイエス・キリストを愛し、私たちに神の愛を気づかせてくれた。「もしも私が苦しまなかったら 神様の愛を知らなかった もしも多くの兄弟姉妹が苦しまなかったら 神様の愛は伝えられなかった。 もしも主なるイエス様が苦しまれなかったら 神様の愛はあらわれなかった。」(「苦しまなかったら」水野源三) 福音が伝えていることは、ただ恵みで救われたことだけでなく、新しく生まれて神の子になったということだ。それだから、あなたは祝福されていることを知ろう。あなた自身が美しい言葉、あなたを通して主イエス・キリストを世に現している。そのことを誇りとして主を賛美する詩人のように生きようではないか。

 

2月26日(火)

神は我らの逃れ場、我らの力。苦難の時の傍の助け。それゆえ私たちは恐れない、地が揺らぎ、山々が崩れ落ち、海の中に移るとも。

詩編46:2、3

 

旅行番組が人気です。各地の名所旧跡めぐりはもとよりグルメや温泉も外せません。しかし、良縁に恵まれる神社やインスタ映えする寺社も人気です。ところがキリスト教の教会にはまず行きません。テレビ受けするものが無いからです。例えば、ある大きな神社にお守りを売る場所があって(しかも複数)、一体何種類あるのか数えきれないほど色とりどりに置かれています。何でも人が考え得るあらゆるご利益が得られるようになっているのです。そもそも、キリスト教にご利益はありません。自分さえよければ良いという考えが無いからでしょう。その代わり、寺社を巡っても無いものがあります。教会だけに、罪からの救い、新しく生まれること、聖霊が天より注がれて人の内に宿ること、その聖霊の賜物が超能力のように与えられること、その力で困っている隣人を助けるができます。そして何よりも、この世のいかなる困難もキリスト教の神のみが逃れ場となり、すぐそばにある助けとなってくださるのです。確かだと思っていた大地や山が天変地異で揺れ動いたとしても、クリスチャンは恐れなくても良いのです。必ず助けてくださる神があなたの主であるからです。そのことがわかれば私たちに恐れはありません。どんなピンチに遭遇しても必ず逃れ道があります。八方塞がりになったと思っても行き詰まらないのです。だから、心にゆとりを持って生きることができます。心配するだけ損だと気がつくからです。今日も主に守られて、元気に一日を始めましょう。

 

2月27日(水)

神は歓呼の中を上られる。主は角笛の響きと共に上られる。教え、神に向かって歌え。歌え。我らの王に向かって歌え。

詩編47:6、7

 

讃美歌を歌うことが賛美だと思っていました。クリスチャンになる前に導かれて行った教会は、大きな教会でした。それから、不思議な導きで、その教会の神学校に入りました。同じキャンパスに高校も有って、礼拝には大勢の人が集まります。そこでの賛美は大変感動的なものでした。音楽教育はキリスト教の学校では秀でたものがありますから、皆パートをとって豊かなハーモニーが天国へと誘っていました。母教会にも立派な聖歌隊があり、優秀な指揮者がいました。パイプオルガンも有って、心踊る賛美が天に上って行きました。東京神学大学の礼拝は、また趣が異なっていました。改革派の礼拝です。礼拝の中心は説教であることが特徴です。そこでも賛美歌が歌われ、み言葉へと魂が誘われて行きました。ルーテル神学大学での礼拝は、儀式的でしたが、音楽が巧みに使われていて、伝統を感じられました。小さな教会の礼拝も心に残ります。冬の苫小牧教会に札幌から車で朝早くに出発して着くと、古い小さな教会の中央に昔懐かしい大型のストーブがあって、冬の間はそのストーブを囲むように長椅子が置かれています。そこに、数名の忠実な信徒が集まってきます。この人たちが歌う讃美歌も王である主への歓呼となりキリストが通ります。こうした伝統的な礼拝とは違って、コンテンポラリー礼拝と呼ばれる、バンドが演奏してワーシップソングと呼ばれる現代賛美歌も世界各地で勢いを増して、アメリカのテレビ礼拝では主流派になっています。黒人教会のゴスペルは音楽の才能に溢れています。特別な魅力があります。彼らも昔から、主を王様と崇め、自分たちを助けに来てくれることを信じて歓呼の叫びをあげ続けたのです。主は王としてその歓呼の中を上られます。メシアニックジューの人たちは、角笛を吹き鳴らし、大きな旗を振り賛美します。フォークダンスのように踊り出し、全身で喜びを現し、主を賛美します。その歓呼の中を主も行進されたます。私たちは、賛美の上に主が住まわれることを知っています。どんな時にも、主を賛美すれば悩みは消え、悲しみは喜びに変わります。主がいなくなったと思っていても、讃美歌を歌い出すと、主が共にいてくださることがわかるのです。そうです、どんな礼拝でも、主を賛美する時、それが王様を迎える歓呼なら、主は王として賛美の中を通られるのです。一人で家にいる時も、車の中で賛美する時も、礼拝の中で心から賛美する時にも、主はその賛美を喜んでお受けになられるのです。歌え、我らの王に向かって歌え。

 

2月28日(木)

この神は世々限りなくわたしたちの神、死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。

詩編48:15

 

テレビにお坊さんが出て、葬式の常識について説明していました。勿論、キリスト教とは大違いです。仏教は、死んでから修行するのですから大変です。死んでから49日は旅に出るので、香典には御仏前と書いてはいけないとか、宗派によっても違いがあるとか、焼香の回数は決まっていないとか、革製のバッグや靴は履いてはいけない、男性の喪服の背中は割れていてはいけない(ベント)それらがマナーとして覚えておくべき事として説明していました。キリスト教では、宗派や国によって違いがありますが、当然、仏教のような決め事がありません。アメリカで葬式に行くと、普通のスーツに色物のシャツに色のついたネクタイで参列している人もいました。日本人の華道の先生のお葬式には日本と同じような喪服姿で日本にいるような錯覚を覚えましたが、アメリカ人のお葬式には悲しみの中にも希望があり、美しい音楽が何曲も献げられました。私は、長い間クリスチャンとして生きてきて、自由にされました。お葬式すらも人間的なものに縛られることがありません。日本人が恥を書かないようにとマナーとして守っているものも、それらが神様とも永遠の命とも何の関係もない事を知っているからです。私たちは、故人とのお別れであっても、神様を礼拝し、讃美するのです。私たちは、この命の日のどこかで主と出会い、悔い改めてイエス様を信じて救われました。その主は、木や石で人間が作ったような偶像の神とは違い、今生きておられる神様です。私たちが弱くても、悲しみを持っていても、主は私たちを受容し、慰め、誠実に愛してくださいます。私たちが何度も助けられ、励まされて、導かれてきました。そして、私たちは知っています。たとい、死んだとしても、それで終わりではないという事を。私たちの神様は死を越えて、導いていかれるのです。永遠の御国へと、主は連れて行ってくださるのです。そのことが、私たちの確信です。