2019年3月ディボーション

3月1日(金)

神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない。

詩編49:8、9

 

人間の理解していない現実は、かなり厳しいものです。生まれてきたままであれば、皆罪人で、神の裁きを受けるからです。罪の罰は死と決まっています。今日は魂の贖う値について考えます。さて、人生が上手く行っている時には、人間が高慢になる事を私たちは知っています。そんな人たちがテレビやマスコミをいつも賑わせていますから。人の不思議は、巨万の富を稼いでも満足することはありません。だからもっと稼いでもっともっと貯めようとします。そんな人間にとって、死ぬことが定まっていることは悲劇です。何のために富を築いたのだろうと言いたくなるでしょう。苦労して残した財産は全て他の人のものになります。ただ、ほとんどの人が財産と言えないほどのものしか残せなくても、それでも子供達は遺産で争い、それが原因で絶縁することも珍しくないのです。ましてや、世界一の大金持ちになったとしても、一人の人すらその富で贖うことができないのです。これが人間の現実です。それを理解できた人が知恵を得た人と呼ばれるのです。もう少し考えてみましょう。富が何がしかの欲望を満たすことが一時できたとしても、それを上回る空しさが押し寄せてきます。洪水の水かさが増して上へ上へと逃げ惑う人のようです。急き立てられて、もっと貯めなければ安心できないと思うのですが、逆に財産が増えるほど不安が増してきます。ただ、不思議なのは、それすらも気にせずに生きる人もいることです。その人にとっては、恐ろしい裁きは突然やってきます。もっと魂のことを心配するべきです。「魂を贖う値は高く、永久に、払い終えることはない」と聖書に書いてある通りです。しかし、驚くことに、私たちクリスチャンはすでに贖っていただきました。この世の富よりもはるかに尊い主イエス・キリストの命によって、身代金を払っていただいたのです。主がご自分の命を代価にして、滅びるばかりの罪人の私たちを買い取って贖ってくださったということです。だから、私たちは、この世の富以上のものを知っているのです。神は、この尊い御子を私たちに賜ったのですから、どんなものでも必要なものはくださらないわけがありません。私たちは、こうしてこの世に勝利して生きているのです。

 

3月2日(土)

告白を神へのいけにえとしてささげ、いと高き神に満願の献げ物をせよ。それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、私はお前を救おう。

詩編50:14、15

 

シナイ山で神と出会ったように、エルサレム神殿で神と出会える、と語り、真の礼拝について神は語り出します。イスラエルの民が神殿礼拝で献げる犠牲の動物は足りているが、神が求めている礼拝はそれとは違う、と諭します。では、何をと問えば、答えは今日の聖句にあります。このことから、古代のイスラエル人だけではなく、現代の礼拝者も共通の悟りが必要です。神が求める犠牲は動物ではありません。詩編51篇でもっと明らかになります。しかし、ここではあなたの課題は、告白です。悔いる心と言っても良いのです。自分を愛するだけでは、神を礼拝できません。私たちが求められているのは、神を愛することと隣人を愛することです。ところが、これは簡単ではありません。そこで、形式だけの犠牲を献げる神殿礼拝がなされたのですが、神はそれを問題視されたのです。今日ならば、礼拝に毎週通っていれば良しということではないということです。ビデオ礼拝しか受けられない遠方の方々は、実は、神の求める真の礼拝に接近しているのではないでしょうか。一人で信仰を全うすることは全ての信仰者にとって必要なことなのです。神を愛しているか、それは自分の生活そのものか、神を愛していると何を持って言えるのか、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタイ22:37)と「隣人を自分のように愛しなさい」とイエスは旧約聖書から最も重要な掟を示しました。これが、守れていないのなら、悔い改めが必要になります。そして、その贖いとしてイエス・キリストの十字架の犠牲が満願の献げ物となるのです。ここで、ようやく神を呼ぶことができます。これが霊的礼拝です。私たちの礼拝は形骸化した礼拝ではありません。神への愛が問われているからです。神は、あなたが困った時には救ってくださるお方です。これは、本当です。このように、日々助けられて生きる人は、主への感謝が絶えることはないでしょう。この主への感謝が神への愛となり、礼拝となるのです。

 

3月3日(日)

神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味あわせ、自由の霊によって支えてください。

詩編51:12~14

 

牧師になって一年目に経験したことが、詩編51篇に書いてあります。それまで、クリスチャンとして知っていると思っていたことが単なる人間の思い上がりで、聖書に書かれたこと全てを信じることすらできなかったのです。しかも、人間の知恵でそれが正しいことだと思っていたのです。しかし、その思い上がりが目を見えなくしていました。神学校では教えてくれなかったことを、しかも決定的に重要な真理を神様が直接教えてくださいました。それは、聖書を読めばちゃんと書いてあることだったのですが、見ても見えず、聞いても聞こえず、という御言葉の通りだったのです。主は、まず、そうした人間の傲慢さに気づかせてくださり、悔い改めへと導いてくださいました。しかも、徹底的な悔い改めです。時間をかけて、罪が示されると、十字架へと向かうのです。そして、目が開けてくると、聖書に聖霊という言葉がたくさん書かれていたことに気がつきました。この聖霊が信仰者が望む正しい姿へのキーワードだったのです。詩編51篇の順番に理解できるように導かれます。清めが必要なのは、聖霊を受けるためです。聖霊の居場所は、清い心です。それは、神様が創造するしか方法がありません。だから、これは人間の努力できることではなく、ただ神様の奇跡によるのです。そこで、祈りが必要になります。願うことしかできないからです。清い心を新しく創造し、そこに聖霊を新しく注ぎ入れていただくのです。そうすれば、新しく生きた者が生まれるのです。それは、驚くほどの喜びです。他に比べることのできない無常の喜びです。個人差はありますが、その人にとって人生最高の喜びです。この聖霊が自由の霊なのです。クリスチャンが自由であると言われるのは、この聖霊のおかげなのです。ですから、神様の授ける聖霊がいただけるように、一心に祈り続けることをお願いします。聖霊に満たされ、神様の愛に満たされて、癒された者となりますように。

 

3月4日(月)

あなたが計らってくださいますから、とこしえに、感謝をささげます。御名に望みをおきます、あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深い、あなたの御名に。

詩編52:11

 

ダビデ王物語は、まるで映画かドラマを観ているようです。ダビデの逃避行で助ける者が現れると、今度はそれを見て密告する者が現れます。捕まれば殺されるのですから、命の危機です。このように、人を裏切って密告するようにという社会は恐怖以外のなにものでもありません。人を信頼できなくなります。人が人を信頼することのできる社会こそが平和を約束します。さて、彼はなぜダビデを助けずにサウル王に密告したのでしょう。そこに、その人の頼むものが誰であるかを明らかにしています。ダビデは明らかに神様でしたが密告者は、この世の権力者を選びました。それは、彼が富んでいてダビデを侮っていたからです。人間の常で、時の権力者に擦り寄るのです。しかし、信仰者は神のみを信じているので、ピンチの時こそ神様への信頼を強烈に現します。「あなたが計らってくださいますから」と心から言葉が出てきます。人が自分を陥れようとしても、神様が計らってくださるから、大丈夫だという信仰です。私たちも同じです。私たちは、主のいつくしみに生きています。主は、そのような人に対して恵み深いのです。ですから、その恵みを味わうと、感謝が溢れます。このように、とわに主の慈しみ生きて行くのですから、私たちは主への感謝を生きる限り何度も何度も口にするでしょう。

 

3月5日(火)

神は天から人の子らを見渡し、探される、目覚めた人、神を求める人はいないか、と。

詩編53:3

 

今まで、いろいろなところに行きました。そして、どこにでも目覚めた人、神を求める人はいました。神は探しているというのは本当です。確実に、それらの人たちが救いの招きを受けるのです。これはクリスチャンの場合なら、霊的な真理を求める人、信仰者としてもっと本物になりたいと願うような人に、何か天的なことが起こります。東京で、聖霊のバプテスマの真理を伝えるように導かれ、大胆に行なっていた頃、人が集まってきました。同時に、悪評を立てられたり、迫害も起こりましたが、神の助けがあったので守られました。そのような時に、西日本の長老会に招かれ聖霊の話をすることができました。東京では、聖霊のバプテスマを語るので、危険分子扱いなのでこのような機会はありませんでした。それでも、聖書に書いてあることしか行っていないので、どうすることもできないのです。ただ、初代教会の時代のように、聖霊のバプテスマを受ける人たちが出てくるし、癒しや悪霊を追い出したり、奇跡が起こるので、問題視されました。ただ、バプテスマがたくさん出て救われる人も多くいたのです。そんな時に、今度は沖縄教区からキャンプミーティングの講師に招聘され、大胆に聖霊のバプテスマを受けた証をすることができました。そして、ある牧師が自分の教会で聖霊のメッセージを語ってほしいと招かれました。そこでの講演を終えて、帰ろうとした時に、キッチンにご婦人方が数名残っておられたのですが、その方々こそ、天から見ていた神が探し出した人たちだったのです。それで、その人たちと話し、聖霊のバプテスマを祈りました。彼女たちが霊の恵みを受けたのは偶然ではありません。聖書に書かれたことは本当です。初代教会の時代だけに限定されるという意見は、現実に今も奇跡が起こっているので間違っています。あなたの上にも聖霊はのぞみ、神の愛と命が流れ出すでしょう。「目覚めた人、神を求める人はいないか」と、今も神は天から人の子らを見渡し、探されているのです。

 

3月6日(水)

見よ、神は私を助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる。

詩編54:6

 

私たちは、日々の些細なことでもすぐに感情を害したり、落ち込んだり、悩んだりするものです。そうなりたくないと思っていても、油断すればすぐに感情を揺さぶられるようなことが見えてくるのです。それでは、どうすれば心を安定させて、感情的にならずにいられるのでしょう。感情に振り回されているうちは、クリスチャンでもすぐに祈ることができません。せいぜい、後で後悔してようやく祈るというような具合です。その時に、もう感情的になって失敗したくありません、と祈ったはずです。その祈りは、どうなったのでしょう。有効なはずです。そこで、感情的になりそうになった時、すぐに大きく息を吸うことです。その一拍が大切なのです。この一拍で、これ以上感情的になれば失敗するに違いない、だから後退して当事者になることをやめよう、と自分に言い聞かせます。以前なら、感情にすぐに飲み込まれてしまったのに、その一歩手前で立ち止まれることに気がつくはずです。特に、人をコントロールしてはいけないことを思い出してください。人間関係を壊します。何の益もないのになぜ、あとあと後悔するようなことをするのでしょう。私たちがイライラする時も、主は静めることができます。つまり、自分でコントロールできることと主に頼らなければならいことがあるのです。聖書には、「神は私を助けてくださる」と、書いてあります。だから、助けていただかなければならない状況があるということです。それを見分けて、主に私たちの魂を支えていただくのです。このことが分ければ、余計なことをしなくなるし、いたずらに不安になる必要も無くなります。いつも安定して、主に感謝することが多くなります。こだわりもどんどん無くなり、人のことも大目に見ることがたやすくなります。気づけば、消極的なことや否定的なことを言わなくなっています。神への信頼感が自分の感情を安定させています。積極的に考えるようになるので、物事が好転してきます。それが普通になると、人生は楽しくなってきます。そのような所へ人も集まってくるのです。神の御力は大きいので、私たちは心配することがないのです。ありがたいですね。

 

3月7日(木)

あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる。

詩編55:23

 

 

詩編記者はこう言いました。「わたしは神を呼ぶ。主はわたしを救ってくださる。夕べも朝も、そして昼も、わたしは悩んで呻く。神はわたしの声を聞いてくださる」。このように悩むことがあります。その原因は、人です。まるで敵のように自分を困らせる存在です。詩編55篇は、まさにそのような的に悩まされた事をテーマにしています。同じように悩みに陥ると、クリスチャンは神に頼って祈ります。問題は、祈っても、すぐに敵がいなくなるわけでもないし、相変わらず脅威になっていて、心が動揺してしまう事です。そうなると、うろたえてしまうので、ますます窮地に陥ります。そこで、また、祈ります。信仰の悟りが必要です。今日の聖句を見てください。何度も聞いた言葉です。「あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる」とあります。このような約束があるのに、なぜ、いつまでも悩み続けるのでしょうか。「あなたの重荷を主にゆだね」ていないからです。自分を悩ませている事(たいていは人です)が重荷です。それが心にも頭の中にもいっぱいになって、他のことが考えられなくなるのです。苦しみがエンドレスになるので、最悪です。聖書で何か良い言葉を探したり、祈ったり、賛美歌を歌ったりして、そしてまた自分であの人はこう言った、あんな事をした、とはじめからやり直すのです。これでは主に全くゆだねていません。自分を苦しめる本人がその場にいなくても、ビデオを再生するように思い出しては苦しみを何とか克服しようとむなしく戦うのです。「主は従う者を支え」と書いてあるのに、従いません。最悪なのは、そのことに気がつかないことです。肝心な事を何もわかっていないのです。「重荷」とは何か、「主にゆだねよ」とはどうする事か、「主に従う者」とはそのような人のことか、この三つの言葉を説明できるまで考えてみるのです。「重荷」は自分で負うには重すぎる事柄です。自分に悪意を向ける人や、自分を批判して退けようとする人や、上司や同僚に先生、時には親や親類、それにライバルや利害関係で争う人、知人、友人、誰でも力を持ってコントロールしてくる人は、精神的に追い詰めて来るので脅威となります。つまり、はじめから自分の力では抵抗できない大きな力のことですから、自力で解決できないから「重荷」なのです。聖書で「重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われたのはイエス様です。だから、この問題は、イエス様のもとへ行くことで解決することです。「主にゆだねる」というのは、自分の力で何とかしようとする事をやめて、本当に主に祈って解決してくださると信じて待つ事です。だいたい、このような苦しみが続くときは、悪魔が背景にいて攻撃していることがほとんどなのです。そこで、霊的な戦いにあると自覚して、信仰で戦います。悪霊は相手がひどい事をしていても、自分が悪いからだと思わせようとします。そうなると、戦えません。そうやって悪霊は勝利してきたのです。だから、自分だけで戦うことは危険でもあります。そこで、イエス様と一緒に戦います。というか、イエス様の背後に隠れているといえばいいでしょうか。イエス様を前面に出すイメージです。イエス様が出てくれば、悪霊たちは恐れおののいて逃げ出します。イエス様の後ろからそれを見ていればいいのです。悪霊のコントロールに縛られないように、イエス様の支配に進んで従うのです。イメージとしては、車の運転を考えてください。ハンドルは一つです。だれが運転しているか、私かイエス様か、イエス様が運転して助手席に自分がいる、ということです。また、霊的に強められるように、聖霊を求めて満たされるように祈ることも重要です。動揺しないように計らってくださるという御言葉は真実です。それも、永久にです。だから、安心してハンドルをイエス様に任せましょう。

 

3月8日(金)

神を呼べば、敵は必ず退き、神はわたしの味方だとわたしは悟るでしょう。神の御言葉を賛美します。主の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。人間がわたしに何をなしえましょう。

詩編56:10~12

 

「人間がわたしに何をなしえましょう」という御言葉は、私たちが学ぶべき真理なのです。何をしても人間関係があれば、苦手な人や圧力をかけてくる人がいるものです。また、気づかずに相手に嫌われることだってあり得ます。感性の違いや感受性の違いで問題が起こって行くことは珍しくありません。それでも、経験から人はうまく人間関係を築いたり、距離を上手に取る事を覚えたりします。また、敏感すぎる人や鈍感すぎる人は、もう少し神様から助けていただき知恵を授けていただく必要があります。無防備にならずに自分を守ることも大切な事です。ところで、サタンの意味は「敵」です。そこで、聖書で敵と出てきたら、背後にサタンの存在を思い浮かべるべきです。同じように現実の世界でも、本当の敵はサタンなのです。人間を使って苦しめようと考えているような存在が見えないところにいるのです。だから、人間が敵だと考えるような状況になったら、落ち着いて、背後にサタンがいると見抜いてください。そして、「神を呼べば、敵は必ず退き」と書かれている事を覚えてください。神様はあなたの味方なのです。これ以上心強いことはありませんね。そして、神様に依り頼んだ生き方を身につけてください。それは、自分が人間を恐れなくなったかどうかで計ることができます。万が一、敵意をむき出しにしてくる人に脅かされたら、「人間がわたしに何をなし得ましょう」と唱えるのです。心にゆとりが出てくるまで続けましょう。今日の御言葉を暗唱しておけば、もっと心が強くなれます。本来、人間関係は楽しいものです。ですから、クリスチャンは罪と死とサタンによって壊されている人間関係をイエス様の御力で赦しと愛に回復する役目を担っているのです。そのために、サタンは恐れさせようとします。恐れは、不信仰なので、愛の回復という尊い役目を実現できなくなるからです。クリスチャンにとっての戦いは、愛の回復という戦いであると覚えていましょう。

 

3月9日(土)

天から遣わしてください、神よ、遣わしてください、慈しみとまことを。

詩編57:4

 

Hさんは、心の病に苦しんでいます。病名もつけられないので、対処療法のようなことしかできません、でも重症です。家族も傷つき、毎日泣いて暮らしていました。希望がどこにも見出せません。お父さんも心が弱く、Hさんに怒鳴ってしまいます。お兄さんからも嫌われ、頼みのお母さんも疲れ果て老いてきました。Hさんはイエス様を信じています。それで、夢にイエス様がよく現れるのです。とても優しく何か話しかけてくれるのです。Hさんは、それがイエス様であるか、それとも妄想なのか気にしています。近所の教会はHさんを上手に受け入れられなかったようで、教会には行っていません。聖書は一人で読んでいます。彼女の孤独と辛さは、生半可な慰めの言葉を締め出します。長続きする人間関係は家族と作業所の人と牧師以外にはありません。Hさんは、よく絶望したメールをよこします。Hさんになんて言えばいいのでしょう。大抵のメールにはその場ですぐに返事ができます。しかし、時々、パソコンの前で考え込んで返事が書けないことがあります。聖書の御言葉が一番良いと思うのですが、どの御言葉が今一番必要なのか考えてしまいます。預言者ならいいのにと思う時です。さて、今日の御言葉はどうでしょう。・・・・・そう、Hさんに必要なことは、天からの「慈しみとまこと」です。私たち誰もが、この御言葉のように祈りたいですね。

 

3月10日(日)

人は言う。「神に従う人は必ず実を結ぶ。神はいます。神はこの地を裁かれる。」

詩編58:12

 

北朝鮮のキリスト教徒への弾圧は世界で一番酷いのですが、その実態は知られていません。韓国はキリスト教国となるほど信仰熱心であることが知られていますが、実は、北朝鮮の方がもっと純粋に信仰心の熱い人たちが多いのだそうです。今もおそらく5万人ものクリスチャンが強制収容所に入れられ、生死も定かではないそうです。ニュースにもなった生きて強制収容所を出てきた女性の話に驚いたのですが、収容所で出会った人は、困難の中で伝道し、苦しみの中で異言で祈っていたそうです。詩編に出てくる詩は敵に苦しめられている人が神に、憐れんで助けてくださるように嘆願する内容のものが多くあります。これは、今日も迫害が予想されていたからです。どう祈ったら良いのかわからない時、聖書の御言葉が祈りとなるのです。異言で祈っていた人は、きっとどう祈れば良いのかわからなくなって、聖霊に祈りを任せたのでしょう。こうした迫害に遭っている人たちも、何か深い意味があってこのような状況に置かれているのです。その人たちの置かれた状況がどんなに過酷なものであるか、想像もできません。しかし、そこに祈りがあり、神は生きています、だから天からの不思議があるはずです。私たちにできることは、彼らのことを忘れないことです。そして、主に北朝鮮の迫害が止むように、積極的に祈る事です。米朝会談が話題になりましたが、トランプ大統領は、彼らのために人権問題を改善するように交渉したはずです。大きな力が働いて、主が迫害されているクリスチャンを一刻も早く救ってくださいますように祈りましょう。

 

3月11日(月)

わたしは御力をたたえて歌をささげ、朝には、あなたの慈しみを喜び歌います。あなたはわたしの砦の塔、苦難の日の逃れ場。

詩編59:17

 

若い時から親しくしていた人が亡くなると、とても悲しいものです。最近も高校生の時から知っていた人が亡くなったことを知りました。彼は牧師の子供でしたが牧師にはなりませんでした。でも、気持ちの良い男で、頭も良いし信頼できる人でした。彼の亡くなった時の年齢が61歳だったので、納得がいかないのかもしれません。100歳を超えて亡くなられる方も珍しくない時代に、どうしたのだろう、と思ってしまうのです。自分より若い人なのに、なぜ、と問いたくなります。人間にとっての本当の敵は、罪、死、サタンです。この三つの敵から救うのでなければ、誰も救われません。そして、イエス・キリストは十字架でこの三つの敵に勝利されたのです。だから、本来私たちは怖がるものがもうないのです。それなのに不安を覚えるのは、いまだに弱く、完全ではないからです。主は、そんな私達をいつでも愛してくださり、恵みを与えることを惜しみません。そのことがわかると、感謝は自然と湧いてくるのです。それでだけでもありがたいのに、いざとなれば主が私たちの逃れ場となってくださるのです。こんなに心強いことはありません。私たちは主を賛美することを知っています。その不思議もとうに味わっているはずです。ですから、死に脅かされた時には、主を賛美することです。自分に与えられた時間がどれほどあるかは誰も知りません。しかし、主は間違わないので、ちょうど良くできているのです。天国で、再会できる喜びも楽しみとなります。

 

3月12日(火)

人間の与える救いはむなしいものです。神と共に我らは力を振るいます。

詩編60:13、14

 

クリスチャンの生き方は随分独特です。この世の人とは明らかに違っています。もし、この世の人と大差無いと言う人がいれば、その人はまだ神も恵みも知らない人です。この世の賢い人ですら、その人の心で考えることがその人の人生になっている、と言うでしょう。心の不思議です。ところが人間にとって、その考えを変えることは難しいのです。つまり、楽観的に考えなさいと、言われても、それが簡単にはいかないのです。何しろ、心は勝手に何かを考え、一つの傾向を持っているからです。それが否定的だからダメなんだと言われても、そんなことはわかっているけれど変えられないと反論したくなります。そこで、この世に自己啓発セミナーのようなものが溢れていますが、限界があるのです。聴いているときはその気になれるのですが、時間が経てば元に戻ってしまいます。そのようなことを聖書は、「人間の与える救いはむなしいものです」と諭します。ですから、あなたが、自分でも頑張っているのに思考を変えられない、と嘆息するのは当然なのです。ところが、クリスチャンは自力に頼らないで、神様に助けていただくことが正しいと教えます。人間にはできなくても、神様に不可能はないからです。そして、イエス様がこの地上に降ってこられたのが私達を探し出して救ってくださることだったように、別の助け主である聖霊を送ってくださり、私たちに内住させてくださったことで、「神と共に我らは力を振るいます」と言えるようになったのです。ですから、神様にすがって生きればいいし、自分が神様に豊かに祝福されていることを認めて、感謝する習慣を身につけることです。その先には、いかに神様が良くしてくださっているかを体験して驚くほどの恵みに感謝する日々を過ごすとになります。それまでに試練をくぐる事もあると思いますが、それは、不信仰を砕くために必要な事なのです。それは否定的な思いを消し去るためと言い換えて良いのです。自分一人ではできないことが神様が共にいてできるようになるのです。

 

3月13日(水)

心が挫けるとき、地の果てからあなたを呼びます。高くそびえる岩山の上に、わたしを導いてください。

詩編61:3

 

今年も3.11を迎え、復興の難しさを実感しました。昔のような普通の暮らしが戻ることはないのですね。津波の後の無残な姿をテレビは何度も映し、嫌でも思い出してしまいます。そんな中で、三陸鉄道の女性運転士の宇都宮聖花さんが震災の後、東京の西武鉄道に就職したのに、結局、故郷に戻り三陸鉄道に転職したそうです。三陸の美しさは以前とほとんど変わらないと彼女は言います。そして、人前に出たくないが復興のために役立つならテレビに出演しようと思った、と語っていました。男性ばかりの職場で、大手鉄道会社ではしなかったトイレの掃除や車内の清掃、車両点検もなんでも頑張っている姿に感動しました。地震の時には泣いていたそうですが、一緒にいた友達が手を引いてくれて、逃げたそうです。友達も親族も知っている人たちが何人も犠牲になり、亡くなりました。どんなに悲しく、辛かったことでしょう。今日の聖句は、彼女のような人たちに知って欲しい祈りです。あれから8年の月日が流れ、いろいろなことがありましたが、心が挫けるとき、私たちは主を呼びます。不安で足元が崩れそうな時に、信仰も弱り、とうとう心が挫けてしまったとしても、私たちは主を呼びます。頑張る事もできなくて、自分を責めてしまい、失望しても、そんな時ですら、私たちは主を呼びます。そして、「高くそびえる岩山の上に、わたしを導いてください」と、願うのです。主は、あなたの声を知っています。だから、あなたが呼べば、必ず応えてくださいます。そして、あなたはキリストの上に置かれていることを知るでしょう。あなたが一番安心できる所です。そうであれば、あなたは自分の居場所を知るし、あなたのするべき使命も知るでしょう。主の恵みが今日もありますように。

 

3月14日(木)

わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。

詩編62:8

 

世の中の全ての人に好かれることは難しい。それなのに、私たちは全ての人に好かれたいという欲求があるのだ。そして、学校や会社やコミュニティーで人の集団の中に入って行き、全ての人を好きになることの難しさを知る。同時に、全ての人に好かれる事も難しいと思い知らされる。そして、自分が一緒にいてリラックスできる人を見つけようとする人は人間関係が楽になり、自分をありのままに受容してくれる人を求める人は欲求不満が募って行く。人間は自分の個性や癖を理解して、一番生きやすい方法を見つけることが最も大切なこととなる。ところが、多くの人は自分を理解しようとはしないで、苦戦している。キリスト教のすごいところは、そんな雑多な人々をありなままで全員救ってくださるイエス・キリストがおられることだ。そこで、私たちは神を知ろうとする。それが一時のことではなくて、一生のことになる。不思議だが、神を知ると自分を知ることができる。自分を知れば、悪いところを変えることができるのだ。さらに、信仰者がそのようになって行くと、「わたしの救いと栄えは神にかかっている」と人生で重大なことを悟ることができる。事実その通りなのだが、クリスチャンでもこの世の事と信仰は別物だと分けている人がいる。例えば、時給1000円で1日8時間働いて8000円稼いでいる人がいる。この人は、給料をあげるためには、働く時間を多くするしかないと思っている。しかし、時給が1600円になれば、1日5時間働けば同じ稼ぎになる。つまり、時間を多く働いて稼ぐのはその人の努力が重要になる。ところが、1日8000円でも仕事量が決まっていて、5時間で終わらせる方法を見つけられれば、時給は1600円になる。さらに、仕事をそのように効率的にこなせるノウハウがあるのなら、それがお金を産むようになる。もはや時給の何十倍にも何百倍にもなるだろう。そのようなことが可能な世界に私たちは生きているのだが、もっと安い時給でも働いている人たちもいる。その人たちは不平を言っているだろうか、たとい不平を言っていても、辞めないのはどうしてだろう。私たちは、そんな人たちを不思議に思う。クリスチャンは救いと栄えは神にかかっていると信じている。クリスチャンでも学びの浅い人は、救いだけが神の仕事だと思っているようだが、栄える事も神にかかっているのが真実なのだ。大事な事は、救いと栄えの両方が必要なことだ。お金に目がくらむ人、お金の欲に負けて行く人、お金持ちになって多くの苦労を背負う人、この世でそんな人は珍しくない。しかし、空しさがいつも心にある。救いが無いのが原因だし、避けどころと言える救い主が有るか無いかで大違いなのだ。だから、クリスチャンは、この世の人に習ったり、学んだり、するものを厳選しなければならない。すでに与えられているものが宝であることを思い出そう。超自然の力であなたを助ける主がいるのなら、あなたの人生を主に任せる事も大切になる。

 

3月16日(土)

わたしを隠してください、さいなむ者の集いから、悪を行う者の騒ぎから。

詩編64:3

 

神様にはなんでもできるので、祈りは慎重に考えて言葉を選ぶべきです。それは、今日の御言葉のように祈ることができるからです。悪い人やあなたにストレスをかける人の目からあなたを隠してもらうという祈りです。このように祈って、避けたい相手が自分に気づかないとしたら、どうでしょう。相手が見てもあなたが見えていないように感じるかもしれません。それだけでストレスが減るでしょう。また、神様があなたを隠しているように、あなたが嫌だと思う場面に遭遇しなくなれば、どんなに過ごしやすいでしょう。疲れてしまった時も「わたしを隠してください」と祈りたくなるかもしれません。神様があなたを守ってくださるので、安心ですね。

 

3月17日(日)

罪の数々がわたしを圧倒します。背いたわたしたちをあなたは贖ってくださいます。いかに幸いなことでしょう、あなたに選ばれ、近づけられ、あなたの庭に宿る人は。恵みの溢れるあなたの家、聖なる神殿によって、わたしたちが満ち足りますように。

詩編65:4、5

 

おそらく、私たちは、罪のせいで人生をよりよく生きてくることが出来なかった。ダビデでなくても、罪に気づかされれば、罪の数々に圧倒されてしまうだろう。一旦罪がわかると、最悪となる。もし、イエスが十字架で罪を贖ってくださらなければ、なんの希望もなかった。イエスを信じて救われるということは、ものすごいことだ。ダビデは天才なので、見事に言葉で表現してみせた。それは、救われた人とは、神に選ばれた人のことで、罪の問題を神自らが解決してくださり、その上で神の家である聖なる神殿の庭に住まわせてださったのだ。それには心当たりがある。イエスと父が聖霊となって、私たちの内に住まわれる。三位一体と言われるぐらいだから、説明はできないかもしれないが、言わんとすることはわかる。ダビデが詩で表したように、私たちも救われて神の神殿で満ち足りることができるようにされた、ということだ。神が住まう所こそが神殿だ。それこそが私たちだとパウロは教えている。かつては罪の道具だったものが、今や主に贖われて、神殿に変えられたということだ。だから、自分を正しく評価しよう。何しろ、自分の内には聖霊が宿り、命となってくださっているのだ。それだけではなく、聖霊は、まさに霊の実を結すばせてくださる。その実とは、キリストの品性のことで、愛という言葉で代表することができる。あなたは、いつだって聖霊の力を信じて、あなたを聖霊は何と評価しているのか知ることができる。そして、正しい自己評価が自分の自信となるのだ。このようにして、人生をより良いものへと変えることができる。何しろ、恵みに溢れた神の神殿にあなたはなっているのだから。

 

3月18日(月)

神は我らの魂に命を得させてくださる。我らの足がよろめくのを許されない。

詩編66:9

 

1テサロニケ5:23に、「霊も魂も体も」と書かれています。これが人間です。目に見えている体だけが人間ではありません。確かに、私たちの自覚として霊的な存在であると言えるのです。その「霊的」ですが、霊と魂の二つです。もちろん、目に見えません。これを一つのように考える学者もいますが、これは書かれた通りに二つととる方が良いのです。魂は肉と同じように滅びるものです。それは、罪を裁かれる神によってです。つまり、魂は死ぬことができるのです。そこで、魂は滅ぼすことができるのです。もちろん、それは神のみに可能なことです。人間も悪魔も決してできません。だから、イエスは、恐れてはならないと言われたのです。同時に、罪の故に滅びるはずの魂が、イエスによって命を与えられるのです。神はあなたの魂に命を得させてくださいます。そればかりか、あなたの人生でよろめくようなことは主が許しません。あなたは、安心して堂々と生きていけます。あなたは気がつかなくても、主のお守りがあるのです。あなたがそのように主の祝福が見えるのなら、あなたは心が楽になって感謝が自然と溢れてくるでしょう。これからも胸がドキドキしたり、不安の暗雲が垂れこめるようなことが待っているかもしれませんが、その時こそ、主があなたにどれほどの愛を注いでいるかがよくわかるチャンスなのです。あなたは、神の御業をご覧になって、喜びが爆発するでしょう。あなたではなく、神が問題を解決するのです。それも絶妙のタイミングで、これ以上ない解決を与えてくださいます。あなたは、その感動を賛美にするのです。ますます、あなたは恵みで満たされるでしょう。あなたは感謝することが多くて、感謝するたびに感動するでしょう。「主に恵まれた人」、それがあなたです。そのことを祈りの中で考えてみましょう。あなたの心に良い変化が生じるはずです。主への絶対的な信頼が、あなたを強くして行くのです。

 

3月19日(火)

神がわたしたちを憐れみ、祝福し、御顔の輝きをわたしたちに向けてくださいますように、あなたの道をこの地が知り、御救いをすべての民が知るために。

詩編67:2、3

 

私たちが祝福されていることは事実です。教会に籍をおくようになると、祝祷という言葉を聞くようになります。これは、礼拝などで定型の祈りとして何度も耳にするものです。その中で、神が御顔を向けてくださるように、という言葉が祝福を象徴的に表しています。私たちが祝福されているという事実は、個人的に生活が楽になるとか恵まれているということだけの話ではありません。「道」というのは、「キリスト教」と置き換えても良い言葉です。「福音」という方が今ではより良いでしょう。というのも、福音をすべての民が聞き、救われて、神を礼拝するようになることが目標となっているからです。ですから、教会は福音を伝える機関であり、それによって救われた人に洗礼を施し、クリスチャンとして成長し、キリストに似たものへと変えられることを手助けするものなのです。ですから、私たちは聖なる者へと変えられることを神に期待できるのですが、信仰は何もしないでおくと弱くなってしまうものなので、個人的に神との交わりが必要になります。それは、難しいことではありません。今日の祈りの通りにすれば良いからです。主の御顔の輝きを向けられた人は、信仰が燃え上がり、じっとしてはいられないのです。このような御言葉を自分の祈りにできる人は幸いです。

 

3月20日(水)

主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。この神はわたしたちの神、救いの御業の神、主、死から解き放つ神。

詩編68:20、21

 

私たちは長生きしたとしてもせいぜい百年にすぎません。しかし、私たちの神は永遠の昔からおられるお方なのです。その時間の差は圧倒的で、到底人間が神を全て理解するなどできないのです。その神はあなたを創造された主ですから、あなたを大切に思ってくださいます。初めの人間であるアダムが罪を犯したために、私たちまで罪の呪いの中で生きていかなければなりませんが、イエス・キリストが救いに来てくださったので、呪いは解かれ、罪からの救いも実現したのです。それでも、私たちの弱さは相変わらずで、今は大丈夫であっても、次の瞬間悩みの中に落ち込むことも珍しくないのです。それらが皆罪に繋がっていることも否定できません。その証拠に、私たちは自分の力でなんとかしようともがくのですが、まるで底なし沼に誤ってはまってしまった人のようになって、もがけばもがくほど泥沼に沈んで行くのです。もし、神が助けてくださらなければ、この底なし沼から出ることはできないのです。神の助けは明瞭で、岩であるキリストの上に立たせてくださいます。つまり、キリスト無しには誰も救われないということなのです。自分に囚われていると狭い独房に入れらている囚人のように、独房の中をグルグル回るいるだけで解放がありません。自分から目を離してキリストに集中するなら、驚くほどはっきりと解放があります。悪魔は、そのことを知っているので、人間を騙そうと攻撃します。それは、肝心な時に祈れなくなったり、神やキリストを忘れてしまうことに現れています。そうなると、恐ろしいほど落ち込むことになります。なぜ、こうなるかと言えば、御言葉の力を軽視しているからです。御言葉は霊であり命なのです。半端ではない力が秘められているのです。神はあなたを放って置かれるようなことはしません。毎日、あなたを担って、救ってくださるのです。これは、聖書に書かれているので真理なのです。あなたは、難しく考えすぎるようです。それは、真理からそれていく道です。自分の考えを優先すると危険なことだってあるのです。ですから、まずは今日の聖句を身につけましょう。あなたが自分ではうまく生きることができないと嘆くような日も、実は、あなたは主に担われているのです。それなのに、主の手を振り払って、自分で困難な道を歩こうとすれば、すぐに倒れてしまうでしょう。倒れてから主に起こされるよりは、はじめからイエス様の車の助手席に座っている方がはるかに良いのです。そんなことは申し訳ないと思いますか。やっぱり自力で頑張るべきだと思いますか。それなら、今日の聖句をもう一度読んでください。そして、書かれた通りにするのです。感謝が溢れ、主を讃えることがあなたのすることです。

 

3月21日(木)

わたしが受けている嘲りを、恥を、屈辱を、あなたはよくご存じです。わたしを苦しめる者は、すべて御前にいます。嘲りに心を打ち砕かれ、わたしは無力になりました。望んでいた同情は得られず、慰めてくれる人も見いだせません。人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします。

詩編69:20~22

 

「苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとしなかった」(マタイ27:34)。「そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした」(マタイ27:48)。今日の詩編にはメシア預言が書かれています。十字架の苦難が克明に預言されていたのです。十字架に釘付けにされた主が痛みで気絶しないように苦いものや酸っぱくなったぶどう酒を気付け薬のように使ったのです。主は、私たちの罪の罰をこのように完全に身代わりになって受けてくださったのです。もし、あなたが苦難や悩みの中にあるのでしたら、69篇に書かれた苦しみが何かしら共感できるでしょう。この世には悲しいことに、このような人間の苦しみがあります。誰でも、心を悩ませ苦しむことなど避けたいですが、そうはいかないことが実に多くあるのです。ですから、イエス様が救い主であると言う時、私たちは映画のヒーローのようなカッコの良いものを想像してはいけないのです。実際、イエス様の受難は、「神よ、わたしを救ってください。大水が喉元に達しました」と言わざるを得ないような、人間の味わう苦難の極みだったのです。極限まで苦しめられた十字架の主は、人類の罪を一人で身に受けて苦しまれたのです。その中に、私たちの犯した罪もイエス様を苦しめたのです。イエス様は生前、この詩編を読まれて、ご自分がどのようなことになるのか知られました。そして、この通りに預言を成就されました。それは、全て私たちの救いのためでした。そして、自分の問題で悩む人は、主が十字架でその問題をすでに解決されたことを信じていただきたいのです。全き罪の赦し、呪いからの解放、罪と死と悪魔に対する完全な勝利、流されたキリストの血による癒しと清めが、クリスチャンであるあなたのものなのです。信じることに自信が持てない人は、ありのままの自分を主に差し出してください。苦しんで疲れ果てたあなたに主は、頑張って信じろとは決して言いません。ただ、イエス様の足元へ身を投げ出せばいいのです。負いきれない重荷をおろすこともイエス様がしてくださいます。主は、あなたをいたわり、優しく声をかけてくださり、休ませてくださいます。そうやって、あなたはまず癒されることが必要なのです。主は何もかもご存知ですから、何も心配しなくていいのです。今は考えることではなく、ただ、主の御手があなたに触れて、無条件の愛と命があなたに流れ出すので、それをありがたく受ければいいだけです。主の愛があなたを強くします。

 

3月22日(金)

神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください。

詩編70:6

 

信仰のための試練は避けることができないのなら、何とか乗り越えたいと思えるのですが、この地上で経験する悲しみは、避けたいと願います。ダビデはイスラエル人の誇る偉大な王様です。でも、生まれた時は違っていました。最も貧しい身分の生まれです。兄弟の順番でも一番下です。古代の戦国時代で文明が大きく変わろうとしていた時代に生きていました。紀元前1000年頃の話です。ダビデの物語は、立身出世物語でもありますが、王になるまで死の苦しみを味わったのです。彼こそ、信仰を持った人の実験台でした。そのために、私たちには信仰と神の関係がよくわかる教科書のようなものなのです。そして、今日の箇所も敵に脅かされて苦しんでいます。もし、あなたが誰かに苦しめられているのなら、ダビデに共感できるでしょう。初めは敵がいることに戸惑い、なぜ自分を苦しめるのか理解できずに不安が増します。やがて敵の存在が明らかになると敵に負けないように頑張っているのですが、恐れが起こり、思うように動けなくなり、全ての面で追い詰められていくのです。それが、「わたしは貧しく、身を屈めています」と言う言葉で言い表しているのです。重要なことは、主がすぐに来て下さることなのです。ちょうど、雪山で遭難している人のようです。風を避けて身を屈め、食べるものもなく、寒さに震えているだけで、動けずにただ助けを待っているのです。・・・私たちは、結局、最後の助けは神であり、主こそが危機からの安全な逃れ場であることを知るのです。いつも強くカッコよく生きたいですが、そうはいかない時もあるのです。そんな時に、神にすがっても良いのです。私たちは、自分に自信が持てずに、道に迷うことだってあるのです。そんな時、神様と呼ぶことさえ忘れていることもあるでしょう。しかし、主は昨日も今日も明日も変わることなく、あなたの救い主なのです。主はあなたを救うと決めたので、絶対に助けてくださいます。主の愛は、あなたを安心させ、生きる力となるのです。主は、遅れることはありません。

 

3月23日(土)

主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく、恵みの御業によって助け、逃れさせてください。あなたの耳をわたしに傾け、お救いください。

詩編71:1、2

 

仕事を探す時、クリスチャンはお祈りします。それから、誰もがするように求人情報を見て、良さそうな所に連絡を取り、面接を受けます。これだけでも、大変そうですが、採用されるまでは気を抜けません。仕事が欲しいと何でもよくなってきますが、実は本当の問題は、勤め始めてからわかります。そう、ここは地上で天国ではないのです。いろいろな人が働いている中に飛び込むのですから、勇気もいります。実際に働いてみて、これは自分に合わないと思えば、仕事が辛くなるでしょう。しかし、クリスチャンは神様にお祈りして始めていますから、神様が関わっておられるはずです。そこで、クリスチャンは考えます。この会社は御心にかなっているのだろうか。自分勝手に決めてしまったのではないか。自分にこの仕事はあっていないとわかったけれど、辞めるべきか、それともここで働くことは御心なのだろうか。私たちは、就職は人生で大きなことなので、悩むことになるのです。どんなに有名な優良企業に就職が決まっても、いろいろな理由で辞めてしまう人は必ずいます。ファーストフードの店のユニフォームが着てみたいというだけで働く人もいれば、接客が苦手だと工場で働く人もいます。そして、クリスチャンも一般の人と同じような経験をするということも事実です。それでも、クリスチャンは神様にお祈りできるので、ダビデのように巧みにお祈りすることができます。すると、勤めてはいけない会社では、面接の時に、「異例ですがあなたはこの会社に勤めないほうが良いと思います。もっと違う聖なる所で働いた方がいいのではないですか」と面接官に言われた人がいます。不思議なことが起こることだってあるのです。焦って祈ることはないので、ゆっくり考えてダビデのように、信仰を前面に出して願いを言葉にしてみましょう。今日の聖句をそもまま祈って、最後に「主がお決めになった会社に採用され、毎日楽しく働けますように」と付け加えればいいのです。就職が決まれば、今度は、新しい職場でどうなったら良いか考え、それに、どのように楽しく生き生きと働けるか考えて、その通りに祈るのです。自分の心配事も言葉にして祈ってみましょう。あなたが採用された会社は、あなたの故に豊かに祝福されます。あなたがいることにより、会社は良くなって行くのです。あなたが主の祝福が流れる通路になっているからです。

 

3月24日(日)

王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を、助けるものもない貧しい人を救いますように。弱い人、乏しい人を憐れみ、乏しい人の命を救い、不法に虐げるものから彼らの命を贖いますように。王の目に彼らの血が貴いものとされますように。

詩編72:12~14

 

この聖句を読むと、アメリカのトランプ大統領のことを思い出しました。来年、再選を果たそうとして、公約でもあるメキシコ国境に壁を作ろうとしていることが大問題になっています。メキシコ国境の先には中南米から南米まで陸路が繋がっています。乏しい人たちは、アメリカに希望を持って住みたいのですが、アメリカにとっては、心配の種となるような人たちは入れたくないのです。それで不法に入国してくる人を阻止することがこの壁の建設です。注目すべきは、トランプ大統領を支持するのが白人の福音派(保守派)だということです。黒人やリベラルの教会の信者は不支持の人が多いのですが、好対照になっています。政教分離が望ましいのですが、福音派、特に最大教派の南部バプテスト教団は自分たちの信仰を守るために大統領を自分たちの支持者から選ぶ道を選択しました。カーター大統領の時からです。ところが、世界は大きく変わり、価値観が新しくなりました。古き良き時代を懐かしむ人たちと現代のインターネット世代には、大きな隔たりが生まれています。女性の地位向上やいろいろな性のあり方を認める考え方など、私たちの周りにも声が聞こえてくる問題です。セクハラやパワハラなどのハラスメントも社会問題となり、会社などの教育も進んでいます。また、貧富の差が大きな社会不安を引き起こしていることも事実です。こうした世界を眺める時に、今日の聖句は意味があります。アメリカの大統領は、ここに出てくる王であることを求められていたのではないでしょうか。そして、どこの国の元首もこの聖句の王のように振る舞うことが期待されているのです。イスラエルの歴史ではソロモン王がこの詩編の作者とされ、自ら王の正しい姿を主に願ったとされています。神の助けなしには、理想の王にはなれないということでしょう。人間の歴史で真にこの詩編の王であったのは、イエス・キリストだけです。「主が私たちの王としてこの地を治めてくださいますように」と、今こそ祈りましょう。

 

3月25日(月)

あなたがわたしの右の手を取ってくださるので、常にわたしは御もとにとどまることができる。

詩編73:23

 

私たちが信仰を持ち続けられるのは、主が私たちの右の手を取ってくださるからなのです。それだけでも十分ありがたいことなのですが、父なる神様は、懸命に私たちを成長させることができます。そして、それは、私たちにとって必要なことなのです。そのようなクリスチャンの成長段階で、何かがきっかけで自信を失う人が出てきます。ダビデのような勇敢な軍人でもそうでしたから、人間が信仰に成長する時には避けられないことなのかもしれません。賢い人は、このような経験から何かしら学びます。だから、それで終われたらいいのですが、厳しい経験なので、自信を失ったままになることがあるのです。もともと人間が持っていたのは肉の自信であることから、肉もろとも自信も砕かれてしまうことがあるわけです。すると、昔の記憶にある自信が砕かれているのですから、元に戻れないことになります。実は、主は、そんな時でもしっかりとその人の右の手を取っておられるのです。それは、主から離れていかないようにです。自信が持てなくなると、信仰まで自信がなくなるのです。それが、霊的危機です。実際には、肉的な自信が砕かれたので、霊的自信が現れてくるはずです。それは、聖なる自信です。決して高慢にならない謙遜な自信となります。そのために信仰も揺るがないものとなるのです。ところが、本人は肉的な理解しかないので、肉的自信はなくなったを喜べませんし、まさか何も自分はしていないのに聖なる自信がすでに神様から与えられているとは気がつかないのです。悲喜劇と言いましょうか、本人には深刻な問題になっているので、気づきが与えられるまで、不安に押しつぶされそうになっているかもしれません。しかし、一旦気づけば、理由の無い自信がいつも自分を支えていることに気がつくでしょう。それがあるので、不安が訪れても、追い返すことが容易にできます。そうなると、何歳になっても、挑戦する気概が衰えることはありません。それは、素晴らしいことで、神様の恵みを目で見ることができるので、感謝が絶えない生活が送れるようになります。もし、あなたが自分の右の手を霊的な目を開いて見ることができるのなら、主の御手が優しく包んでおられるのが見えることでしょう。

 

3月26日(火)

どうか虐げられた人が再び辱められることなく、貧しい人、乏しい人が、御名を賛美することができますように。

詩編74:21

 

不思議なことに、神の民が神を知らぬ民にひどい目にあうことがあるのです。聖書を読めばそのような話がすぐに見つけられます。神がすぐに介入しないので、敵は神の神殿まで壊し、嘲るのです。そこで、神の民は必死に祈ります。これは、何を意味しているのでしょう。どうして神はいつも敵から守ってくださらないのか、放っておくのか。神の民を苦しめる者は、神の民だけではなく神をも侮って汚しているのに、どうしてその非道を見過ごしにしているのだろう。そのような疑問を持つのは、無責任な読者に過ぎ無いからだろうか。神の民は、自分たちの不信仰や罪の責任を感じているのかもしれない。そのせいで、罰を受けていると感じているのかもしれない。ここまで追い詰められないと、悔い改めることができなかったから、本心に立ち返って神の元へ帰るための試練だったかもしれない。それにしても、現代のクリスチャンはどうなのでしょう。信仰熱心だと自慢できる人はいいだろうが、自分の信仰に自信が持てない人は、どうなるのでしょう。実際には、自分の弱さに気がついているので、神のことも、祈ることすら忘れて、まるで自分勝手に生きていると自分を攻めたくなる日があるでしょう。そして、もし、神が口うるさく、一つ一つの罪を細く指摘するならば、何もできなくなってしまうのです。だから、神は私たちが自由意志を持って、弱くても信仰を奮い立たせて生きていけるように、慈悲深く見守ってくださっているです。その結果が思わしくなくてご自分まで神を知らない人たちからひどい扱いを受けても、耐えて、私たちが悔い改めて心を神に戻して帰ってくることを待たれているのです。神は寛大な天の父だからです。もし、この地上であなたが誰かにひどい目にあったり、辛い目にあわされたりするならば、神は黙っていません。再び辱められるこのがないようにしてくださいます。私たちは、この地上では、貧しい者、乏しい人と言われるような者かもしれない。しかし、主は、あなたを助けるために力をふるって働き、あなたが喜んで安心できるようにしてくださいます。あなたが心から溢れる感謝を止めることはできません。あなたは何にもできなかったかもしれませんが、主はあなたのために勝利してくださるのです。だから、元気を出しましょう。主の名を呼びましょう。

 

3月27日(水)

そうです、人を高く上げるものは、東からも西からも、荒れ野からも来ません。神が必ず裁きを行い、ある者を低く、ある者を高くなさるでしょう。

詩編75:7、8

 

毎日の出来事の中で、楽しいことばかりなら良いのに、嫌なことも、心を痛めることも、不安になることも、残念ながら起こるかもしれません。そんな時に、クリスチャンはどうやって乗り越えることができるのでしょう。心を深く傷つけられた出来事は、時間の経過だけでは癒されることがありません。ただ、忘れようとしているだけで、何かのきっかけで簡単に心がどうしようもない不安と暗黒の淵に引きずり込まれてしまうのです。時には、苦しめる人がいるかもしれないし、信仰を嘲る人が出て来て悲しむかもしれません。ところが、クリスチャンであっても、自力では簡単に解決できないので厄介です。イエス様が実際にその人の所へ来てくださって、癒してくださらなければどうしようもないのです。聖書には、大勢の人々がイエス様を追いかけて御元へ行った記録があります。ですから、私たちも、脅かす者や、苦しめる者、あるいは忘れられない出来事に、対して自分の心のかで戦うのではなく、祈りで解決をはかることが肝心です。主イエス様こそが、どんな問題でも解決してくださる救い主なのです。自分の中の声を無視しないで、弱さを主にさらけ出すことです。なぜ、自分ばかりが・・・と心の中の苦しさを吐き出すことです。主は、驚くほど優しく、同情し、理解してくださいます。あなたを苦しめた者は、主が裁きます。人間はあなたの永遠の命を奪うことはできません。あなたは、主に癒されることを願い、求めるべきです。そして、すっかり癒されて、神の子として生きるのです。あなたの役目は、主を賛美することです。毎日毎日、主をほめたたえ、感謝を献げるのです。それができない日は、「イエス様、来てください」と主を呼び求めるのです。あなたはイエス様の意味がわかるでしょう。

 

3月28日(木)

神は裁きを行うために立ち上がり、地の貧しい人をすべて救われる。

詩編76:10

 

貧しい人はどこの国にもいます。そして「貧しい人をすべて救われる」と、聖書に書かれているのを読む時、この貧しい人とは一体誰のことだろうと考えてしまいます。なぜなら、貧しさの故に罪を犯す人も堕落する人もいるからです。そういえば、イエス様も「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」と、教えられました。周りを見渡せば、豊かだと思っている日本でも、貧しさのゆえに食事が満足に食べられない子供達がいると聞くと、ちょっと悲しくなります。子ども食堂もあちらこちらにできてきました。神戸の親戚のおばさんがご主人を亡くし、大丈夫かと気になっていたら、クギ炊きを送ってくれました。神戸の人は季節が来るとクギ炊きを作って色々な人に送る風習があるのです。家内がお礼の電話をすると、おばさんが子ども食堂を手伝っていることを聞きました。主人に先立たれ、どれだけ寂しい思いをされているのかと心配していたのですが、地域の子供達のために頑張っていることがわかり、いいなぁ、と感心しました。この地上で、人間は助け合って生きていくことが何より大切なことなのです。神様は天からこの地上を見て、困っている人や、孤独な人や、助けを必要とする人などを見つけると、誰かをご自分の代わりに遣わしたいと思われているはずです。その誰かが、神の民であり、クリスチャンです。私たちは、それほど偉大な働きはできないかもしれませんが、主が教えられたように、小さなものの一人に冷たい水いっぱいをあげることはできるはずです。その時に、クリスチャンは気づきます。この小さな者は、実はイエス様なのだ、と。そのようなわけで、私たちは、自分よりも劣っているから助けてやろうといった、上から目線で他人を見ることはありません。それよりも、誰かと会うたびに、もしかするとこの人はイエス様ではないかと思うのです。ですから、イエス様にするように、他人にもするようになります。その結果、へりくだった人になって行きます。80歳のお婆さんが、団地の70代の一人暮らしの老人を助けて、代わりに買い物をして重い荷物を運んでいる姿を見て驚きました。彼女はボランティアをしているのです。年齢に関係無く、いつまでも誰かの助けになれることを知って、そうなりたいと思いました。神様は最後に裁かれるでしょうが、心配しないで、自分らしく、ありのままに生きて行けばいいのです。人を助けるどころか、人に助けられて生きてもいいのです。神様には、何か良いお考えがあるからです。詩編を一つ暗唱して、誰かに聞かせてあげることだって、その人を励ましたり、喜ばせたりできるのです。小さなカードを手作りして、聖書のみ言葉を人に贈ることもできます。小さな奇跡は意外と短にいつでもあるものです。あなたが心にしたいと思ったことをしなさい。

 

3月29日(金)

神に向かってわたしは声をあげ、助けを求めて叫びます。神に向かってわたしは声をあげ、神はわたしに耳を傾けてくださいます。

詩編77:2、3

 

人は、何か問題が発生した時、その解決を求めて聖書を開くことがよくあります。逆に言えば、困らなければ聖書を読むことをしばしば忘れているのです。クリスチャンだって、困った時の神頼みをするわけです。そして、詩編を開くと、聖徒も神に助けを求めているのです。それなのに、神に助けを求めずに自分の力でなんとかしようと頑張っている人も出てきます。ご苦労なことです。まず、神をすぐに忘れてしまう人は、神を求めるように困ったことが起こることがよくあります。そのような体験をしたクリスチャンの声を実際に聞くから間違いありません。ただ、神はクリスチャンを愛していますから、基本的に苦しめたいと思いません。困らせたいとは思っていないのです。それでも、何かクリスチャンが悩むようなことが起こるのは、一つは罪の世界に生きているからであり、二つ目にはその人の信仰を呼び覚ますためです。つまり、神が生きて働いておられることを知るためです。神に助けを求めることは悪くありません。緊急の時には声をあげるべきです。そして、大切なことですが、神はあなたの声をちゃんと聞こうと御座から身を乗り出して、耳を傾けて懸命に聞かれるのです。試練とは、神がいない世界にいるように感じる経験です。神はあなたの声が好きです。あなたの祈りも好きです。うまく祈れないと嘆いている人は、自分の内におられる聖霊が代わりに天の父に執り成してくださっていることを信じてください。そして、ちゃんと祈れずにすぐに雑念に負けてしまう人は、声を出して祈ることで克服できます。声を出して祈ることは、良いことです。そして、助けを求める時には、叫けぶのです。声が出せなくても叫ぶことはできます。魂が叫ぶことができるからです。自分の本心から、つまり魂からの叫びは、雑念などには左右されません。本心に立ち返った祈りは神にすぐに届くのです。主があなたのために動いて偉大な御業がなされ、速やかに完全に助けていただけますように。神に声をあげましょう。

 

3月30日(土)

神は御心に留められた、人間は肉にすぎず、過ぎて再び帰らない風であることを。

詩編78:39

 

 

イスラエルの民にとって子々孫々忘れては行けない重要なことは、出エジプトの出来事でした。それは、旧約聖書をよく読めばすぐに理解できます。そして、それは、私たちクリスチャンにとっても重要さは変わりません。神の人間救済の原型とでも言えば良いのでしょうか。神が天に留まらず、神の民の救済のために力動的に動き回られることがわかります。敵との対決でも神が前にできてきて戦ってくださいます。荒野の旅でも、岩から水を大河のようにほとばしり出させ、天からはマナを降らせました。霊的には霊の糧はイエス・キリストであることを象徴しています。それに対して、人間はそれでは満足せず肉の欲望を満足させようとしました。それが、神の怒りを引き起こし、大きな教訓となったのです。しかし、イスラエルの民は、懲りることはありませんでした。何度も何度も主を裏切り続けたのです。それで、今日の御言葉が出てきます。しかし、皮肉なことにイエスはヨハネの福音書で、聖霊が風のようなものであると語りました。悔い改めても何度も神を裏切ってしまう人間が風であるのなら、その風のような人間を生まれ変わらせるような風を与えて、本質的に変えてしまおう、とキリストは超越的なお考えを示されたのです。そして、それは現実となり、今や聖霊に満たされて人間が神の子となって新生することができるのです。ただの風であれば、なんと空しいことでしょう。しかし、イエス・キリストが救ってくださいました。神でなければ決してできない方法で完全な救いを与えてくださったのです。

 

3月31日(日)

わたしたちの救いの神よ、わたしたちを助けて、あなたの御名の栄光を輝かせてください。御名のために、わたしたちを救い出し、わたしたちの罪をお赦しください。

詩編79:9

 

 

イスラエルの民は、自らの罪の結果、外国人の軍隊に最も聖なる神殿を破壊され、神器を略奪されました。貴族も一般人も大勢が捕虜となって異国へと連れ去られたのです。世界で最も壮麗で偉大なエルサレム神殿が、なんと廃墟となってしまいました。その周りには大量の血が流され、殺戮の場となり、累々と続くしかばねは放置されたままでした。そして、生き残った者は、詩編79篇のように祈ったのです。さて、ここに私たちへの教訓はあるでしょうか。確かに、罪を犯してはいけない。神を裏切ってもいけない。戒めが形骸化してはいけない。こうしたことは誰でも思いつきます。イスラエルの民は、律法に従って犠牲の動物が数え切れないほど献げてきたはずなのに、一体何が問題だったのでしょう。それは、「神の求めるいけにえは、打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心」なのだ、ということを忘れていたことでした。私たちも、このことを忘れてはいけません。この世のことに心が奪われていると、簡単に堕落するし、自分の信仰がどうなっているか知らないうちに、神からとうのいてしまうことだってあるのです。その結果、たとえ罰を受けても、それは魂を救うことであって、滅ぼすことではありません。神は悔い改めへと導きたいのです。神の御心は全ての人を救うことなのです。ところが、罪はその御心をあざ笑うかのように、人々を滅ぼしてしまうのです。罪は、人間が考えているより遥かに深刻で恐ろしいものなのです。何しろ、イエス・キリストが十字架で死ななければならないほどの恐ろしいものです。そして、私たちは今でも罪と戦っているのです。もっとも、勝つ方法はただ信仰だけなのですが、信仰の力を軽視している人は多いのです。自分と切り離した神の側に勝利の力があるのに、それを信じて自らも勝利する信仰が悟れない人は少なくありません。そこで、あなたがキリスト者と呼ばれる存在であるのなら、今日の詩編の意味を考えて見てください。神はわたしたちを助けることで御名の栄光を輝かせることができるのです。だから、助けてください、と詩編記者は言いました。これは私たちも同じなのです。神は罪人を救うことができるのです。ご自分がたとえ犠牲を払われても、罪から贖い出すことができるのです。人間が自分を救うことは全くできません。神にしかできないのです。その神が義人ではなく、罪人を救うのはどれだけ大変なことでしょう。人間は自分を救うために義となることができないのです。だから、「打ち砕かれ悔いる心」を主に差し出すしかないのです。それこそ主が求めるもので、神が力をまとって動き出し、神がその人を義とするのです。そのような神がどこにいるでしょう。それだから、御名の栄光が輝くのです。この方こそ、唯一の神であり、私たちの主なのです。