2019年5月ディボーション

5月1日(水)

わたしの家においては、人を欺く者を座に着かせず、偽って語る者をわたしの目の前に立たせません。

詩編101:7

 

ダビデは、主の御前に清くあろうと努力しました。それは主に嫌われたくないからです。この世には自分の王座を奪おうとする者も、欺いて自分に有利に計ろうとする者もいるのです。そして、一番困るのが嘘を上手につく人です。これはとても怖いことです。自分の知らない間に悪事が計られていても気がつきません。自分に忠実な人と思っていて油断したがために、悲劇が降りかかると言うようなことは、実際にあるものです。本来は、教会形成は骨の折れる仕事ですが、やりがいがあります。もちろん、教会は建物や組織ではありません。個々の信仰者の集まりです。つまりは、神の民のことです。それが、未熟では大変なことになります。実際、モーセが率いて荒野を旅した時の困難を思い出していただければ今日の教会のことも同じだと気がつくでしょう。ダビデは、戦国時代の武将ですから、家来も武士達です。そこで、ダビデの三十勇士のような勇敢で信頼できる武士団を作り上げて行きます。しかし、軍の長であったヨアブのような側近が問題を起こすこともあったのです。結局、どんな組織でも人に恵まれるかどうかが一番重要なのです。そこで、ダビデのように厳しい人選をすることも必要だったのでしょう。一方、教会はこの世の罪人がイエス・キリストを信じて救われ、教会の一員となって、主に訓練されながら、キリストに似た者になろうとしている者の集まりです。キリストの体に例えられることもあります。当然、いろいろな人が集まります。およそ、この世のルールが通用しません。この世にはある身分の優劣も無いし、いかなる差別も無いのです。それだけに、人間の力ではどうしようない難しい問題のある人も来ますし、主でなければ何ともならない人たちも来ます。モーセが悩まされたことは、現代でも変わらないのです。そこで、ダビデのように、厳格に人選すればいいと考える人も出てきます。しかし、それでは、教会とは言えないでしょう。主が招いて、それに応えた人ならば、教会に来る権利があります。難しい人が来るならば、それは牧師か誰かを訓練するためでもあるのです。ただ、教会は何十年も同じ人たちだけで続いていると、だんだん、よそ者を入れたく無いという心理が働くことがあります。それは、大変問題がありますから、そうなったら、外科手術が必要なほどの重病なのです。さて、神の民の群れを守るという点で考える時には、絶対ダメな人がいます。それが今日の聖句に出てくる人たちです。詐欺師や大うそつきは群れを死なせる危険があるのです。ある開拓教会で、一人の人を欺く者が訪ねてきました。それから、間も無く、この教会を開拓した創設者の牧師が追い出され、教会の長老や重要メンバーが次々にいなくなり、この教会は死にました。これほど恐ろしい人がいるのです。せいぜい、私たちも正直者でいたいものです。

 

5月2日(木)

後の世代のために、このことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」

詩編102:19

 

何と素晴らしい真理だろう。私もあなたも、主を賛美するために創造されたのです。では、あなたはどれほど主を賛美しているでしょうか。Matt Redman の10,000 Reasons  という賛美歌があります(YouTubeで聴けます)。日本語の歌詞も二種類あって、最後の方に涙が出てきてしまう歌詞があるのですが、それが、「弱って立てなくなり、終わりが迫る頃、まだ私は歌うだろう。永遠に止まぬ賛美を。主を讃えよ、魂よ、聖なる御名を。心すべて献げ、賛美します」。曲も素晴らしいのですが、自分が歳をとっていよいよ立てなくなり、弱ってきた頃に、それでも私は歌うだろう。「愛あふれ、優しい神、あなたのしてくれたことを何も忘れないように、歌をくれたあなたへ」。スクエアーJCの礼拝で、私は歌は上手く無いけれど、賛美を続ける理由はここにあると思います。神様へ素直に自分の気持ちを伝られるし、神様がどれだけ自分に良くしてくださったか、そのことを決して忘れないように、歌をくださったのです。昔、牧師になりたての頃、歌に自信のない先輩牧師が家庭集会などで、自分が賛美歌をリードしなければならい時が困ると漏らしていました。音痴の先生が賛美歌を教えてはいけないとどこかで思っていたのです。そこで、賛美歌は形式的に一曲歌うか、歌わないでいきなり聖書研究を始めたりしていたのです。牧師は、人前で歌わされることが多い仕事なので、歌の上手な牧師は活躍できます。しかし、そうでない人はヤケクソとは言いませんが、それに近い感じで歌っていることがあるのです。しかし、この歌のように、神様の良いことすべてが私に歌を歌わせ続けているのです。私たちの心には、神様が私たちのためにしてくださった愛の業が思いつくだけでも10,000もあって、私たちは賛美せずにはいられないのです。きっと、一万年もそれ以上永遠に偉大な主を賛美し続けるでしょう。そのことは、私たちが創造された理由だからです。ハレルヤ。

 

5月3日(金)

主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにしてくださる。

詩編103:3~5

 

クリスチャンは今日の聖句を体験した人たちです。罪は人の心を蝕みます。ですから、放っておいて良いものではありません。でも、イエス様を知らない人たちは、罪の赦しを知りません。それほど深く愛されたことがないのです。また、「病をすべて癒し」と書いてあるので、病人をお見舞いに行く時などは、この聖句を読むことがあります。このとおりにしてください、という意味で読み、祈ります。私たちが生きているのは、自然なことではありません。自分の寿命が何歳か自分はでは決めることができません。それでも、きっと歳をとって老人になってから死ぬだろうと何となく思っているのです。クリスチャンは、キリストのため神のために生きると知っている人です。それは、イエス様が信じる者は死んでも生きると言われたから、永遠の命をいただいたと理解できます。そのために、死を恐れなくても良くなりました。それに、日々、私たちは主の慈しみと憐れみによって守られているのです。この地上生涯が続く限り、良いものに満ち足らせてくださいます。だから、お金のことをあまり心配しなくてもよくなります。それに、クリスチャンになることは、究極のアンチエイジングなのです。「若さを新たにしてくださる」と約束がありますから、老いることを恐れることも、心配することもありません。あるがまま、主の愛を理解して、知恵を授けられ、聖書が聖霊の助けを受けて読むことができ、人を助けたり、愛したりすることができる喜びを知ります。そして、神様の愛を楽しみ、恵みを味わうことが許されているのです。主をほめたたえずにはいられません。「わたしたちの魂よ、主をたたえよ」。

 

5月4日(土)

人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く。

詩編104:23

 

今年も田植えが無事に終わったようです。機械が植えるので、労力も大してかからず、あっという間に終わってしまいます。機械が植えた苗は整然と並び、とても美しいです。いつも東京へ車を走らせていくと、山あいに、狭い田んぼが並んでいて、そこをかなり高齢のおばあさんが田植えの準備をして田んぼの周りの土を綺麗に整えて行きます。今時は機械でやっているのに、人力でやるのですからおばあさんのことが気の毒になります。そして、自分の手で苗を植えて行くのです。苗の列がうねうねと曲がったりしていて一眼で手作業であることがわかるのです。昔は、日本全国どこでもこのような田植えの姿が見られたのでしょう。今日の聖句は、そのことを詩にしました。「人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く」。これが、神の定めた人間の生き方でした。この詩編は自然界のすべてが神のなさることであることを歌っています。そして、人間もまた一生を働いて生きて行くのです。長生きになって、定年が延長されると言われていますが、その是非はともかく、ミレーの描いた農夫のように、畑に立って神に祈る姿は意味のあることなのです。現代人は、大地から離れ、人工物の中で無機質なものに囲まれて働いてきました。それがどれほど人間性を阻害してきたことか。ゴールデンウィークで人間性を回復しても、また同じ場所に戻って行くことが人間にとって厳しい現実なのです。人は、神と共に生きて行くことが一番幸いなのですが、神の定めた生き方ができるように祈る必要があります。

 

5月5日(日)

それゆえ彼らは主の掟を守り、主の教えに従わなければならない。ハレルヤ。

詩編105:45

 

出エジプトの記録が詩編記者によって詠まれています。それがどれほど大きな主の救出劇であったか、子孫が決して忘れてはいけないことなので、詩にして暗唱していたのです。私たちクリスチャンも、この世の王と豪語する悪魔の奴隷であったために、罪に閉じ込められ、救いの望みのない者でした。それが、イエス様が救いにきてくださり、十字架の犠牲を払って、完全に救い出してくださったのです。その恵みの大きさは測ることができできません。今も、私たちは天のカナン目指して旅を続けていますが、荒野の試みに負けずに、主を信じ続けて行きたいのです。この神様でなければできない救いと導きが、最後には神の国へと続き、罪も病気も老いも無い神の愛の世界で幸福に永遠に生きるのです。地上では、誰しも何かしら問題を抱えていますが、それらを通して完全な者へと変えられているのです。病気のような嫌なことですら、主に頼り、忍耐し、自我を捨て、祈り、信じる信仰を強め、御言葉を読み、たとえ死んでも生きると、本物の信仰者へと造り上げるのです。私たちが神様を信じていること自体が特別な恩寵なのです。皆さんは、神様を理解することのできる特別な感性があるのです。それで、神様がわかるのです。そのような人たちは、過去がどうあれ、今は罪を贖われて正しく生きることができます。そして、神様の強い御手がいつでも働いて、守られ、食べ物も着るものも住むところも与えられ、危機が訪れても、不思議と守られ、必要ならば奇跡も経験できるのです。何よりも、わずかなもので幸せを感じ、少ないものも人と分かち合い、自然の風や鳥の声、太陽の光や木々の緑の美しさに感動し、道端の花にも優しさを感じられるのです。私も毎日、神様に恵まれていることを感謝する幸いに恵まれています。それで、今日の聖句の通りだと思うのです。ハレルヤ。

 

5月6日(月)

わたしたちの神、主よ、わたしたちを救い、諸国の中からわたしたちを集めてください。聖なる御名に感謝をささげ、あなたを賛美し、ほめたたえさせてください。

詩編106:47

 

マーリン・キャロザースの『賛美の力』という本があります。この本が世界中の必要な人たちに届き、多くの奇跡が起こりました。そして、信仰の意味がここからわかりやく理解できるようになりました。ある時、アメリカから電話がかかってきました。日本人の女性からの電話でした。彼女の話によると、アメリカ人のご主人が警察に逮捕されてしまったというのです。たいそうショックを受けていて泣いていました。どうすればいいかというのです。弁護士なら法的な助けをしたでしょうが、彼女は牧師に電話してきたので、『賛美の力』と同じ著者の『獄中からの賛美』を自分で読み、またご主人に持って行って読むように勧めました。このご夫妻は未信者でしたが、特に宗教に興味のないご主人がこのような本を読むか懸念していましたが、初めに奥様がイエス様を受け入れました。そして、奥様の持って行った本で、ご主人が監獄の中で改心しました。そして、結局、刑務所で刑に服すことになりましたが、彼は救われてすっかりかわり、喜びにあふれて、刑務所内で伝道を始めたのです。奥様は、ご主人が信仰を持って刑に服したので、日本に帰り、教会に行くようになり、洗礼を受け、教団の英語学校で働くようになりました。とても魅力的な素晴らしい方です。その方とは、電話だけであったことはなかったのですが、ある時、横浜にある教会に行くことになって、そこで昼食の時間に彼女がそこにいたのです。感動的な対面となりました。神様は、どこにいても、たとえそれが最悪の刑務所であっても、救うことができるのです。それは、この世で神様を知らずに悪いことをして生きてきた人であっても、救いのチャンスが与えられることを証ししています。それにしても、『獄中からの賛美』という本があって、それを獄中の人に読んでもらって、その人が救われるという不思議な経験でした。そうそう、彼は聖霊のバプテスマも受けたそうです。本当にリバイバルしたのですね。

 

5月7日(火)

苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから導き出された。主は嵐に働きかけて沈黙させられたので、波はおさまった。彼らは波が静まったので喜び祝い、望みの港に導かれて行った。

詩編107:28~30

 

他の人にとってはわかりませんが、自分にとっては苦難だ、と言いたくなるようなことが起こることがあります。私たちは、人生という大海原に船を漕ぎだした商人のようなものです。生きている限り航海をやめるわけにいきません。風がやみ凪になって停滞すると弱音を吐き、嵐に遭遇すると恐ろしさに震え、自分の無力を痛感することになります。何でも自分の思い通りにしたくても、そうそう思うようには行きません。何かこの世の事に熱中すれば平気で神様を忘れ、罪を犯すかもしれません。しかし、困れば神様頼りで、本心に立ち返り、悔い改めるのですが、そうなると悪霊は面白くありません。そこで、新たな誘惑を考えます。そんなことを何度も繰り返しているといい加減嫌気がさしてくるでしょう。そんな時に、航海中の船を大嵐が襲いかかります。これは、いつものとは桁違いに大きな嵐です。もし、主が助けてくださらなかったなら、死は免れなかったでしょう。しかし、主は嵐を鎮め、波がおさまります。もうダメだと諦めていた人も主の救いの確かさを知ります。ですから、お祝いです。礼拝も実はお祝いなのです。讃美の献げ物を主に献げましょう。主の御力で試練を乗り越え、勝利できたことで、クリスチャンは信仰の力を目の当たりにすることができます。彼らは、このように信仰の経験を積みながら望みの港である天の家郷へと導かれて行くのです。

 

5月8日(水)

どうか我らを助け、敵からお救いください。人間の与える救いはむなしいものです。神と共に我らは力を振るいます。神が敵を踏みにじってくださいます。

詩編108:13、14

 

クリスチャンは霊的な生活を送ることが重要であることを知っています。そのために、聖書を読み、祈ります。主を礼拝することはとても重要なことです。聖書にはアブラハム、イサク、ヤコブの時代から、彼らが個人的に祭壇を築いて礼拝していたことがわかります。初代教会では、家の教会が始まりで、小さな群れがやがて世界に福音を轟かすものへと成長して行きました。その福音伝道は今日まで続いています。その間、一番の敵は悪魔、悪霊たちでした。そのような霊の戦いなので、理解されないことも多いのですが、天の軍勢と悪の軍勢がぶつかり合っているのです。そして、その戦いももうすぐ終わろうとしています。いよいよ時が満ちてきたのです。黙示録の預言通りに主は裁きを携えて再びこの世界へ降ってきます。そのために、時の短いことを知って、サタンは最後の悪あがきをしているのです。クリスチャンは、傍観者でいることができません。戦闘員そのものです。その自覚のない人も、容赦無く敵は攻撃してきます。残念なことに、霊的なことに無頓着な人たちは、自分の身に起こる災いも敵の攻撃であることを見抜けません。霊的覚醒が必要です。昔からキリスト教会では、リバイバルを求めてきましたが、神の霊による覚醒無しには、人間は勝利することすら難しいのです。そこで、神と共に戦う必要があります。そうすれば、敵を打ち破ることができます。まずは、「どうか我らを助け、敵からお救いください」と祈ることです。そして、神と共に力を振るってください。聖霊が自分のうちに宿り、主と自分が一つであることを信じるのです。自己主張をやめて、主に服従するのです。主の愛があなたを勇気づけます。主はあなたと共に戦い、勝利します。

 

5月9日(木)

主よ、わたしの神よ、御名のために、わたしに計らい、恵み深く、慈しみによって、わたしを助けてください。

詩編109:21

 

罪の世界で神もなく生きている人たちの中には、幼い時から辛苦を舐めてきた人たちも少なくないのです。皆が恵まれた家庭に育てば良いのですが、家族だけでなく親族まで広めれば問題がすぐにも浮かび上がります。長じて大人となり、社会に出て行く頃には何かしらの重荷を背負い、それをおろすことは許されないのです。どうしてか敵が現れて、自分の足を引っ張り、陥れようとしたり、誹謗中傷し、あからさまに敵対することも珍しくないのです。特にダビデのように人には、いつまでも敵が入れ替わり立ち替わり現れてきます。そこで、一体信仰者は何を経験しているのでしょう。最も正しいことは、神の御手で全てのことが自分の益となるとように意図されていると理解することです。そうであれば、いたずらに被害者感情を膨らませる必要がなくなります。逆に、オリンピック強化選手にでも選ばれたように、自分を鍛え上げるための成長の場に置かれていることを理解して、奮起するでしょう。信仰者にとっては、謙遜と従順を学ぶために欠かせない試練となります。人間は自分に対しても嘘をつけるので、その都度、自分に都合よく受け取ろうとして、現実を見ないことがあります。それでは、疲れるだけで悪い選択となりますから、結果が悪くなります。本当に、神様以外に助けてくださる方がいないと、本心からわかるまで、敵が脅威となるでしょう。そして、今日の聖句のように祈ることができるのです。神によって人が変わるというのは、このように具体的な経験を通してなのです。

 

5月10日(金)

わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」

詩編110:1

 

この詩編110篇は新約聖書に頻繁に引用される詩編です。1節のはじめに「主」が二回出てきます。そこで、ちょっとした混乱が起こります。実は、はじめの「主」は原語ではアードーン(単数形)で、神だけではなく、目上の者や家長などにも使われていました。もう一つの「主」は、ヤハウェのことです。つまり、「わが主(ダビデか後のユダの王)へのヤハウェの御言葉」となります。この詩編がダビデか他の南王国ユダの王の就任式の式文として作られ、シオン(南王国ユダの首都)で実際に使われたと一般的に考えられています。しかし、やがて王と祭司の両方の働きができるのは終末のメシアのみと考えられるようになり、この詩編もキリストに結び付けられるようになり、メシア的に解釈されるようになりました。「あなたの敵をあなたの足台としよう」という箇所は、古代オリエントの戦いで、戦勝者は敵の王あるいは武将の首を足で踏みつけたことによります。キリストの勝利にも同じ描き方をしています(一コリント15:25参照)。「右の座」も、王の嫡子、あるいは王に準じる者の位を表すものです。天上のイエス・キリストの権威と立場を表すために新約聖書に多用されています。ナザレのイエスが来るべきメシアであり、十字架につけて殺してしまった、イエスが復活の主であって、実に敵を打ち破り完全勝利を収めて、天の王の独り子であることを明らかにします。このキリストが私たちの罪を贖うために十字架にかかり、十字架に信仰で罪もろともに死んだ私たちをキリストを復活させた同じ命に生かしてくださるお方なのです。イエスこそが、あなたの救い主であり、希望なのです。あなたに代わって敵と戦ってくださるのです。そして、勝利はすでに決まっていて、信仰を持っているあなたの上にキリストの勝利が輝いているのです。主に感謝して賛美しましょう。

 

5月11日(土)

主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。

詩編111:10

 

現代人は、無神論であることを普通にしようとしている。その割には、御朱印を集めて嬉々としていたりしている。テレビを観れば神社仏閣を取り上げたものが多くみられる。もはや、大人のテーマパークの如しである。お土産品も事欠かない、観光の要素が実にうまく備えられている。そこで、面白いのは、神社で拝まれているものは何かということだが、歴史上の人物であることも珍しく無いし、天皇から送られた銅製のムカデ一対が祀られていたりする。だから、当然、「愛」とは無縁なのだ。ご利益が金儲けであったりすれば、願い事が書かれた絵馬も具体的で金欲に満ちたものなので、呆れてしまう。彼らに取っての神様は、人との関わりを大切にするような慈愛の神様ではないようだ。彼らの困りごとを解決したり、欲を手っ取り早く満たしてくれる神様であって欲しいのだろう。それがどんなに空しいことか分かれば、こんなに大勢の人々が観光地になるほど訪れることはないはずだ。さて、私たちの信じる神様は、人に良いことしかできない。そして、自由意志を尊重される。そこで、手取り足取りというような接し方をしないのだ。その代わり、知恵を与えるお方なので、静まって考えなければならない。歴史を通して人間に一番必要なことは、実は思慮深さなので、昔の人は知恵を求めた。歴史の教科書に名を残すような偉人は、思慮深い人たちだった。では、どうやって思慮を得るかと言えば、主を畏れることだと聖書は教えているのだ。信仰者にとっては、最も重要な教えであるので、瞑想課題にして聖書を調べてみてはいかがだろう。

 

5月12日(日)

主に従う人はとこしえに揺らぐことがない。彼はとこしえに記憶される。彼は悪評を立てられても恐れない。その心は固く主に信頼している。

詩編112:6、7

 

「主に従う人」とあなたは呼ばれているでしょう。それは、この世では神様を信じない人たちから価値の無いことと笑われるかもしれませんが、やがて、神様の裁きが降る日が来ます。その時には、大逆転します。「主に従う人」には、特別な恩寵が用意されています。「とこしえに記憶される」という御言葉がそれです。この世では、人は必ず死にますし、歳をとれば嫌でも衰えてきます。そして、死ねば忘れ去られ、何も残らないのです。しかし、「主に従う人」には永遠に記憶されるという特上の価値が与えられるのです。忘れ去られる者の価値はあるとは言い難いのですが、永遠に記憶される者の価値は圧倒的です。このように、「主に従う人」には、他にも大きなメリットがあります。それは、「悪評を当たられても恐れない」という凄さです。ほとんどの人が人から良く思われたいと願っていますが、それはなかなか難しいことなのです。正しいことをしていても、理解されないこともあるし、誤解されることもあります。ただ気に食わないと言われるかもしれないし、直感で嫌われるかもしれません。いずれにしろ、罪人の常で人の悪口が好きなのです。その誘惑は強くて、悪口を言っては盛り上がるグループの中で一人だけ悪口を言わないでいることは難しいことです。そこで、仲間外れにされるかのしれません。とにかく、いわれのない悪評を立てられて、弁明もできないでいると、かなり精神的には辛くなりますから、恐れがやってきます。ところが、例外があるのです。それは、「主に従う人」です。その人の心は固く主に信頼しているのです。このことは、すべてのクリスチャンが実践して欲しいのです。悪口は傷つきますが、それをも超越して平気でいられるのは、クリスチャンの目指すところでしょう。信仰が日々強められていけば、その人は「主に従う人」になれるでしょう。その人の人生を誰も邪魔することはできません。主の愛はますます豊かにその人に注がれるのです。主を信頼しましょう。

 

5月13日(月)

ハレルヤ。主の僕らよ、主を賛美せよ。主の御名を賛美せよ。

詩編113:1

 

クリスチャンが幸福になるにのはどうすればいいのか考えてきましたが、結局、この聖句にある通り、主を賛美することに尽きると思います。毎朝、目を覚ました時から、主への感謝を言葉にして始めると、一日が終わり夜に眠りにつく時まで主への感謝の通りに、まさに主への感謝に満ちた一日であったことに気がつきます。こんなことを毎日続けているとありがたくてなりません。祈りもことごとく聞かれて、祈ることの大切さを知る者にしていただいたことを感謝せずにはいられません。クリスチャンが恵まれていることは自分の生活を振り返ればわかるはずです。聖書は、誰でもわかるようにやさしい言葉で繰り返し語っています。「私は恵まれている」と声に出して言ってみましょう。「主に愛され、主に大切にされている」と認めてみましょう。「私は思い煩うことをやめて、まず神の国と神の義を求めます」このように信仰の原点に立つようにします。神の支配を認めるなら、神はあなたのために何でも良いことができます。あなたの必要を知っているので、それを必ず与えてくださいます。主の祝福は具体的です。ですから、祝福を受け取る手が必要です。それは、信仰の手です。それは、肯定的な言葉です。どうしても、否定的な言葉がすぐに出てくるようなら、今日の御言葉を口ずさみ、実際に主を賛美してください。これが習慣になれば、肯定的な良い言葉がいつでも口から出てくるようになります。言葉の力を軽視してはいけません。主を賛美して、心が喜びに満たされるまで、感謝することです。そのようにして、一日を始めれば良いのです。聖霊が心に生きていれば、同じ聖霊に満たされている人と会えば、「主をほめよ」と言っては、賛美する大きな喜びに満たされます。この地上にいながら天の国にいるのです。ハレルヤ!

 

5月14日(火)

地よ、身もだえせよ、主なる方の御前に、ヤコブの神の御前に、岩を水のみなぎるところとし、硬い岩を水の溢れる泉とする方の御前に。

詩編114:7、8

 

この詩編も出エジプトの出来事をテーマにしています。私たちクリスチャンは、もちろん、出エジプトの出来事をよく知っています。そして、その出来事がそのまま罪人の贖いと救いであると知っているのです。また、私たちが何のゴールも知らずにただ生きているかどうか、不思議なことに多くの人間は死ぬことが決まっているのに、死の先を知ろうとはしません。病気などで死の宣告を受けた時にうろたえるのですが、その時ではもう手遅れです。無知であっていいはずはないのですが、命のことや死のこと、そして罪からの救いと、神様の裁きが何であるかなど、無知では済まないことがあるのです。歴史的に、出エジプトの出来事は、高校の歴史の教科書に載るぐらいですから、人類にとっての神様の啓示に他なりません。偶像が頼りにならないのは子供でもわかるはずなのに、立派な大人が偶像に安易に帰依してしまうのは、人間の弱さの故でしょう。しかし、エジプトの奴隷であったイスラエルが主の救いを体験します。主の御力は大きく、他の民族をことごとく打ち、イスラエルに勝利をくださいました。それゆえに、身もだえして怖れよと、詩編記者は言います。今日、私たちクリスチャンは、古代のイスラエル以上に、救いの確かさを自分を見てではなく、主の御言葉を信じて確信しています。それは、同時に、世界が震え上がるようなことなのです。私たちが救われて主が私たちの神様になったのですから、本物の神様の弟子になったということなのです。この神様は全能で不可能がありません。あなたを幸せにすると決めているので、何があっても恐れずに、不信仰にならないで、主を絶対的に信頼します。そうであれば、「岩を水のみなぎるところとし」という御言葉は真実で、あなたが無理と思っていることでも、岩から水を出された主は、ちょうど良いタイミングであなたの困難を最高の解決へと導きます。そのような奇跡をあなたは見ることになります。

 

5月15日(水)

偶像を造り、それに依り頼む者は、皆、偶像と同じようになる。

詩編115:8

 

『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めなさい。わたしは彼らをいやさない。』(マタイ13:14、15)。これは、イエスがイザヤの預言を引用した箇所です。詩編115篇の5〜7節に偶像のことが書かれていますが、イエスの語られたことと重なります。イエスの場合は、イエスを見ても信じられない人やイエスがわからない人たちに対して語っているのです。その中には宗教家もいて、彼らにとっては、安息日や律法に関わる規則がまるで偶像のようになってしまっていたのです。だから、イエスがわからなずに、批判し、憎しみを深めていったのです。この世界では、偶像が満ちています。そして、その偶像と同じようになるとの御言葉は、恐ろしくも事実なのです。このような世界が良くなるはずはありません。イエスはこのように人を二つに分けていくのです。クリスチャンは、もっとイエスに近く必要があります。自分の知恵に頼らずに、へりくだって聖霊に頼るべきです。愛はいつでも流れ、満たし、あなたをキリストのように変えてくださるのは聖霊の働きなのです。その聖霊が力を発揮して、あなたをリバイバルさせてくださいますように。

 

5月16日(木)

わたしは信じる、「激しい苦しみに襲われている」と言うときも、不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。

詩編116:10、11

 

クリスチャンも普通の人間なので、人生の喜怒哀楽と無縁ではありません。人間として当たり前に成長して、徳を積むことも大切です。しかし、自分の個性があって、必ずしも思うようにいかないで人間関係でも苦労することがあるかもしれません。他の人のようにうまくやれればいいのに、と嘆く日もあるでしょう。でも、心配することはありません。信仰がありますから、なんとかなります。最悪なことになって、激しい苦しみに襲われていたとしても、神様を信じることができるし、逆に信じなければ耐えることもできないでしょう。困るのは、不安がつのる時です。落ち込んで何もできなくなるかもしれません。また、普段は大丈夫でも、一旦精神が不調に陥ると「人は必ず欺く」と思えてくるかもしれません。特に、親しい人に傷つけられたことがあれば、なおさらそう思ってしまうかもしれません。実際には、人との良い関係が人間には必要です。学校や会社のように、友達になるために集まっているのではなく、勉強や仕事のために集まる集団では、相性の悪い人もいれば、自分には理解不能の人もいるかもしれません。好き嫌いが激しい人にとっては、とても辛く感じる場所となることもあります。これは、クリスチャンである無しに関係なく、起こることです。その中で、私たちは神様を信じるわけです。その時の信仰経験が実に貴重で大きいことなのです。それは、主が生きて働き、困難や不安から助け出してくださるからです。神様がいないと言う人の人生では決して起こらない奇跡がいともたやすく信じる人に起こるのです。人間は、苦境に陥るとその人が信じいていることが隠すこともできずに白日に晒されます。それで、詩編記者は、信仰を表明しているのです。この人の経験から出てきている言葉なのです。私たちも、主を信じることをもっと意識していいのです。いつでも、主の恵みに生きていて構わないので、それを可能とする信じるという基本的な生き方に注意を向けるようにしましょう。

 

5月17日(金)

主の慈しみとまことはとこしえに、わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ。

詩編117:2

 

信仰生活は、油断しているとたちまち堕落して行きます。だからと言って反対にカルトのような狂信は恐ろしいだけです。では、どのような信仰生活が良いのでしょう。それは、朝に祈り、御言葉に養われている信仰生活です。難しくありません。ところで、悪魔はクリスチャンを観察していて、その弱点を突いてきます。それがいかに巧妙か驚くほどです。大抵は罪の問題から始まります。あからさまな罪はすぐにわかることなので、あまり心配ないのですが、自分が正しいという思いが強いとそれを利用されます。大抵は牧師と対立させます。牧師が自分の思う通りにならないと急によからぬ思いが入り込んでくるのです。これが悪魔が教会そのものを倒すために使う最悪な手なのです。悪魔が介在すると、牧師に敵対する当事者を悪魔が守ることになります。悪魔が働いても気がつかない牧師も少なくありません。霊的なことを見分けることができないのです。だから、善悪の大争闘は想像以上に厳しいのです。さて、教会には祈り手がいるはずですし、このような危機の時のために主が用意している神の器がいるものです。それで、ついに霊的戦いが始まります。牧師を支持する人も出てくるので、牧師に敵対する側は牧師を追い出すことを画策します。これが異常なことであることに気がつきません。例えば、エルサレム神殿の祭司を追い出そうとしたら、それはできないことで、もし祭司が罪を犯していれば、エリやエリの息子たちのように神様が打つでしょう。さて、教会で露骨に戦いが始まると信仰の弱い人は教会を去って行くことになるます。信仰に問題がある人は、牧師の敵側のリストに名前を書きます。だから、後で誰が問題の人たちであったかが明確に残ります。当事者たちは、到底クリスチャンとは思えないことを平気でします。そして、悪魔が利用できると思う第三者が巻き込まれます。教会が受けるダメージを大きくするために悪魔は奮闘します。このようなことにならないために、正常な信仰を学び、霊的に健康でありたいのです。そこで、神様との関係をいつでも点検する必要があります。正常であれば、今日の聖句のように賛美しているでしょう。主の慈しみがわかるからです。しかし、教会の中で紛争を起こすと、悪魔は勝利を与えてくれても、その後に悪魔の奴隷にされてしまうので、大変なことが待ち受けています。そこから抜けるのは大変なことなのです。だから、本心に立ち返り、御言葉と祈りに専心する必要があります。また、霊的な助けも必要になります。このように、神様を侮ることにならないように、神様に聞く信仰を忘れないようにしたいのです。神様に守られ、いつでも主の平和がありますように。

 

5月18日(土)

主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう。

詩編118:6

 

人間を恐れると、神様をないがしろにして、信仰は嘘のように消え去るものです。あなたは、人間を恐れますか。あなたを脅かすからですか、何かいじわるされたり、嫌なことをされたからですか。もっと理不尽な目に遭わされて苦しんだり、涙をこぼしたことがあったかもしれません。さて、クリスチャンのあなたはそんな時にどうするでしょう。神様に訴えますか。それとも、ひどい目に遭わせた人を赦そうとして苦しみますか。今日の詩編を書いた人は、苦難に遭った人です。その苦しい時に、神様を呼び求めて、助けられた経験がある人です。それは、イスラエルの民に共通する経験でした。だから、118篇の1~4節を見ると、交読文になっていて、上の句を司会者が、下の句を会衆が応えているのです。その言葉は、「慈しみはとこしえに」でした。神様があなたが苦しんだり、困った時に、助けてくださる理由は、主が慈しみ深いからです。その慈しみはあなたにも向けられています。それで、ようやく人は悟ります。その悟りが、今日の聖句なのです。人は、隣人を愛することを忘れると、赦すことができなくなります。そして、ゆとりを失い、その人の心の動機を読み取ることができなくなります。人の言動には必ず理由があります。それが理解できると、優しさが出てきます。明らかに敵対してくる人には、憐みが生じます。それは、神様がその敵対している人を罰するからです。だから、その人が悔い改めて、正しい判断ができるよう主の助けがあるように祈ります。それから、仕事でも、様々な人間関係でも、私たちが正しければ、恐れる必要は無くなりますから、誠実に生きることも重要なのです。愛は私たちの心を大きく寛大にします。それは、クリスチャンが毎日体験すると良いことであり、そうであれば幸福感がいつもあることになります。愛が心にあれば、人間を恐れなくなり、それは相手にも伝わるのです。緊急の場合、敵が現れたら、頭に血が上り、感情が爆発するかもしれません。そうすると後で後悔することになり、惨めになります。そこでそうなる前に、今日の聖句を暗唱してみましょう。相手は、無駄骨を折っているのですが、その企ては主が粉砕します。私たちは、その人にひどいことが起こらないように祈っているだけです。それだけでも、怒りは静まり、憐みが愛を引き起こします。クリスチャンは、このようになるために、長い時間をかけて訓練されるのです。誰でも、失敗するものですから、へこたれずに何度でも挑戦しましょう。人を自分の思い通りにしようとしていないか反省してみましょう。相手には見返りを求めてはいけません。あなたは主に守られているし、呼べばすぐに主が助けに来られるのですから、感情的になることも主に明け渡してしまいましょう。それがあなたの重荷になっていることを主はご存知です。安心して休ませていただければ、平安が心の全てに満ちて行きます。あなたはすでに恵まれた人なのです。

 

5月19日(日)

いかに幸いなことでしょう、まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。いかに幸いなことでしょう、主の定めを守り、心を尽くしてそれを尋ね求める人は。

詩編119:1、2

 

私の学んだことのある神学校には、祈りの園があります。自然の山の中に祈りの場が設けられている所もあれば、中央に丸く円形の池を作り、その周りに通路が作られ、かすかに賛美歌が流れています。そこが祈りの庭なのです。そこだけ、天国に入ってしまったのかと思える白い場所なのです。祈りの園が造られていない神学校では、祈りの道があります。森の中を抜けていく道です。そうした思索の場であり、祈りの場である神との交わりのできる環境が重要なのです。非日常の特別な場です。そうした祈りの場に神学生は出て行くのです。真剣に神を求めることのできやすい場が人間には必要なことなのです。このように、神を求める人生は、必ずしも牧師になろうとするものだけに必要なことではありません。家庭の主婦も、学生も、会社員も、公務員も、どんな人にも必要なことです。教会では、時に自然の近くに泊まり込みで修養会を開くことがあります。一日中神様のことだけを考える時間です。朝夕に神を礼拝し、講師のお話を聞き、信徒の証を聞き、賛美歌を一緒に歌い、祈るのです。毎日の忙しさから離れて、主の道を求め、その道をちゃんと歩けるように心を尽くすのです。ここでは、こうでなければいけないとか、誰かを批判するようなことは一切ありません。ただ、聖霊の流れるままに身をゆだねます。自分がキリストの蒔かれた種であり、この世界という畑で芽を出し成長するのです。そのことで、この世界が揺るがされるのです。律法主義者は、自力で律法を守ろうと奮闘しています。だから、人を裁きます。しかし、キリストの弟子たちは、名も無い、律法すら守れない弱い人たちですが、それだけに、イエスをキリストと信じたのです。父なる神が憐れんで、キリストを通して信じる者を救うのです。つまり、父が御子と一緒に信じる者たちを義として下さるのです。そして、救われた者たちは、聖霊を新しい命として生きるのです。主を信じる者が敬虔に生きることは良いことです。神の支配にとどまり、恵みを味わいましょう。心から賛美が溢れる人生ほど幸せなものはありません。

 

5月20日(月)

主をたたえよ。主はわたしたちを敵の餌食になさらなかった。仕掛けられた網から逃れる鳥のように、わたしたちの魂は逃れ出た。網は破られ、わたしたちは逃れ出た。

詩編124:6、7

 

昔、かすみ網と呼ばれるものがありました。野鳥を獲るために仕掛ける細い糸で見えにくくした捕獲網の子です。これを林や薮などの中に仕掛けて鳥を獲っていました。しかし、今は野鳥を保護するために禁止になっています。それほど、容易に捕まってしまう恐ろしい罠でした。この罠にかかると絶体絶命でした。詩編に出てくるものも似たようなものだったと思います。このように仕掛けられた網にかかった鳥のように、人間も時に災難に遭うのです。その時に、自力で救いを得ることができなくても、神様が助けて下さることを詩にしたのです。あなたには、万が一ひどい罠にかかった鳥のようになっても、必ず助け出して下さる神様がいます。敵であるサタンが仕掛ける罠ですが、引っかからないとは言っていません。自分の弱さが災いすることだってあるかもしれません。しかし、一生懸命に生きていても、罠にかかってしまえば、意外なほど無力になるのが人間なのです。だから、神様が力づくで助けなければ、どうなっているかわかりません。そのようなことが今までにもあったのではないでしょうか。気が付いていたかは別ですが、神様はあなたの知らない所でも何度でも助けておられます。あなたは、そのような主を信じているのです。

 

5月21日(火)

主よ、良い人、心のまっすぐな人を、幸せにしてください。

詩編125:4

 

罪人であった人は、どこかで過去に縛られているかもしれません。今は、救われてクリスチャンと呼ばれ、良い人と周りから言われたりします。それは、本当のことなのですが、本人がどこかで否定してしまい、自分はそれほど良い人ではないと思ってしまう傾向があります。それだけ真面目に信仰をしているわけです。教会で信者さんをたちを見ていると本当に良い人だと感心することがしばしばあります。それなのに、本人が自分は良い人ではないと言い出すとビックリします。悪魔に脅されたのか、過去の過ちを思い出さされたのか、前ではなく後ろを向かされてしまったようです。「義人は信仰によって生きる」との聖書の御言葉は真理です。クリスチャンこど義人なのです。それは、本人が素晴らしいからでも、良い行いをしたからでもありません。神様が義とすると決めて、働いて下さるからです。それなのに、本人が自分を見てダメだとか、義人にはなれない、などと言うのはルール違反です。神様がダメな人を憐れんで義として天国へ行けるようにしようとされているのですから、感謝して、ありがとう、ありがとう、と神様の義として下さるお働きを邪魔しないことです。私たちは、悔い改めることを教えられ、心から悔い改めることを知りました。イエス様の十字架の意味も知らされ、聖霊が働かれて心が変わる回心もしたのです。それなのに、ロトの妻のように後ろを振り向くのはなぜでしょう。悪魔の誘惑なら、断固拒否して、聖霊に心をゆだねましょう。そして、神様によって義人とされたことを信じましょう。そのことがいつでもできるのには、「心のまっすくな人」としていただけるように祈ることです。その人の人生が幸せになることは容易いのです。なぜなら、人のことをあれこれ詮索する必要がなくなるからです。自分の人生は主のものなのです。だから、周りの人が自分をどうしようと大したことではありません。神様に人間が勝てるはずはないからです。神様は、クリスチャンを愛しているのです。その愛は、人間とは違って半端ではありません。徹底しているのです。それが人間にはわからないので、心が迷うのです。良い人なのに心が迷う人は、幸せになることを自ら台無しにしてしまいます。だから、悔い改めて、主に救われて良い人としていただいことを認め、心のまっすぐな人に変えていただき、幸福な人生を実現するのです。これは、すぐに始めることができます。

 

5月22日(水)

涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる。

詩編126:5、6

 

テレビのニュースを見ていたら、アメリカのロースクールの卒業式が映っていました。それであることを思い出しました。アメリカにいた時に、友人の大学院の卒業式に出席したことがありました。壇上で赤い博士フードをかけていただくのですが、友人の番になった時に、総長が私を呼んで、一緒に友人に博士フードをかけてあげるように言われました。壇上には博士ガウンを纏った教授たちが揃っていたのですが、総長は私が友人であることを知っていて、特別に機転を利かせてくださったのです。私はその神学大学院の日本校の教授になっていたので、資格はあったのだろうと思いますが、伝統的な卒業式では異例なことだったと思います。ただ、大変感動したことを覚えています。博士になるには大学を出て神学校に入るか直接神学校に入るかして、修士課程で2年ほど学び、さらに博士課程で3~5年学びます。それが長い道のりで大変であることは事実ですが、その苦労して蒔いたものが実り、刈り取る喜びの日が来るのです。人生には、このように、苦労してついに刈り取りの喜びを得ることが実に多いのです。伝道もそうですし、昔の農業では自分たちの食べる種を食べずに蒔いたのですから、「涙と共に蒔く」という言葉どおりでした。もし、あなたが何かをしようと決めたら、そこにはきっと「涙と共に蒔く」という経験が待っているでしょう。でも、蒔かなければ刈り取ることもできないのです。時はあっという間に過ぎていきますから、刈り取ることのできる人だけが喜び収穫を得ることになります。日本という国がどこにあるかも知らなかった宣教師がマカオで日本のことを知り、福音を伝えるために命がけで海を渡ってきました。それがどれほどの苦労であったか想像を絶するものがあります。しかし、今日の御言葉の通りになりました。戦後の国敗れた惨めな日本に、欧米から宣教師たちが次々にやって来ました。日本で迫害され続けた禁教のキリスト教が堂々と講演会を開き、大勢男女が洗礼を受けました。今日の教会を築き支えて来られた先輩たちです。その方々もだんだん眠りにつき、情熱も熱が冷め、試されているような時を通っているのが現代です。誰が、今日の御言葉のように「種の袋を背負い、泣きながら出て」行くのでしょう。新しいチャレンジがここにあります。自分で限度を設けない限り、神様の無限の力が注がれるのです。さあ、あなたも種まきをしましょう。

 

5月23日(木)

朝早く起き、夜おそく休み、焦慮してパンを食べる人よ、それは、むなしいことではないか、主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。

詩編127:2

 

現代人にとっては、耳の痛い聖句です。忙しい毎日をイライラしながら生きていくことにどんな意味があるのだろう。確かに、考えればむなしいことに思えてきます。神様が生きていることを知っている人には、同じようなむなしくなる生き方をしないように知恵が与えられます。私たちの神様は私たちを愛してくださり、家庭を幸福にすることも、いつでも守っていてくださることも、無理してあくせく働かなくても、安心して眠りにつけるようにしてくださいます。神様を信じるということは、想像以上に素晴らしい全てに祝福された生き方なのです。人間として当たり前の幸せが、罪の世界では当たり前に享受できません。収入の多い少ないにかかわらず、悩みから解放されることがありません。どんなことでも悩みの種になります。しかし、神様が共にいてくださることを知るなら、愛されて生きる喜びがあります。自分の価値が初めて高いと納得できるのです。そして、1日が終わり、夜に眠りにつく時にも神様への感謝があります。言葉にして感謝するなら、喜びが心を満たすでしょう。小さなことへ目が止まり、そこにも神様の愛が感じられるようになると、楽しみはどこにでもあることがわかります。病気で辛い思いをしている人も、イエス様は一番心をかけてくださいますから、この苦しみの中にも自分のためになる意味あることが隠されていると信じて、忍耐して辛い時期を乗り越えることです。忍耐したご褒美はちゃんとあるものです。主は祝福を惜しみません。それよりか、恵みを受け取らない不信仰を残念に思われているでしょう。何事も主が共あることで、最高の祝福になることを覚えていましょう。恐怖や脅威となるものが何一つ近づくこともできないように、主が盾となって、また城となって守ってくださいますように。主が良くしてくださることを何一つ忘れないようにしましょう。

 

5月24日(金)

いかに幸いなことか、主を畏れ、主の道に歩む人よ。あなたの手が労して得たものはすべてあなたの食べ物となる。あなたはいかに幸いなことか、いかに恵まれていることか。

詩編128:1、2

 

あなたが神様を信じていることが、どれだけ幸福なことかわかるだろうか。あなたは誰とも比べる必要がない。神様を信じない人たちは、自分で頑張るか他の人間に頼るしかない。しかし、人間は神様ではないので限界がある。しかも、人間は裏切ることすらある。自分が勝手に信頼していて、相手はそれほどの思いを持っていないというようなことは普通にある。だから、人間を頼りにする人は、どこかで裏切られたと泣くことになる。相手にも問題があるかもしれないが、多くの場合、自分に反省するべき責めがあるものだ。それが、自己中心に物事を見る人たちには気がつくことができない。それで、人間不信に陥ることになる。ここに至れば、この人は不幸という他ない。一方、主を畏れる人は、完璧というわけではないが、自分が神様から信頼されていることを知る。それが自分に自信を持つきっかけとなる。そこで、なんとか神様の信頼に応えたいと思い始める。そのこと自体は良いことだが、大抵は空回りすることが多い。そうではなく、自分の置かれた場所で、普通に暮らすことが良い。その時に、自分の稼ぎが多くても少なくても神様に感謝することができるかどうかだ。毎日が心配しないで暮らせることが幸福なのだから、そのことに満足して、一つ一つ神様に感謝するへりくだった心が大切なのだ。そのようになれば、災いは避けて通り、あなたを害するものは消えて無くなり、家族の喜びを目にすることができる。あなたが完璧だから、神様がそのように祝福しているのではない。あなたは未だ欠けがあるかもしれない、自分でも気がついている問題も残っているかもしれないが、それだから神様が祝福しないということはないのだ。一見、平凡な生活にあなたが不平を言わずに、神様が食べるものも着るものも、家にあるもの全部を与えてくださった、と喜んで感謝しているか。それが、「主を畏れる」という言葉を意味しているか考えてみればいい。足りない、不満足だ、というのではなく、必要なものは祈って求めればいい。それは、かなえられる。その内容に、神様が天才的に信ずる者にちょうどよくくださることを知るだろう。そして、またしても喜びが溢れてくるはずだ。「あなたはいかに幸いなことか、いかに恵まれていることか」。

 

5月25日(土)

主は正しい。主に逆らう者の束縛を断ち切ってくださる。シオンを憎む者よ。皆恥を受けて退け。

詩編129:4、5

 

不当な仕打ちを受け続けることがあります。それは、学校であったり、会社であったり、町内会であるかもしれないし、親族や家族からかもしれないし、どこにでも呪いのようなひどいことが隠れています。そもそも聖書の中のイスラエルの民は、そのようにして生きてきたことが書かれています。それでも、神様の助けがあって、絶滅することもなく、最後には勝利しています。その背後には人間の罪の問題が横たわっています。自分ではどうする事もできない家系の中にある罪の問題など、生まれてくる子供を傷つけてしまう可能性が大きいのです。お父さんの虐待で死んでしまった女の子の事件がニュース番組で何度も取り上げられていますが、本来ならあり得ない事件なのです。ところが、アメリカでは法整備が進んでいますから、専門家が関わって警察もすぐに対処します。しかし、日本のようにどこか他人の家の問題には立ち入れない、とする古い体質が多くの悲劇を生んでしまったのです。弱い子供を社会全体で守らなければならない、と建前では分かっていても放ってきた事実があるのです。そして、悲劇が起きてようやく今頃になって法整備が始まりました。アメリカで知り合いの家庭で、ご主人が失業から心を病み、とうとう奥さんに暴力を振るってしまいました。それで、警察に通報され、警察はすぐにご主人を現行犯逮捕しました。それで、留置所に入れらてしまい、裁判所からDVの心理学的ケアーの一年間のコースを受けるように命令されてました。当然家族にも会えないことになりました。奥さんは愛想をつかして離婚になりました。これが日本なら、ご主人はすぐに家に戻ってきたはずです。恐怖以外の何物でもありませんね。いつか夫に殺されてしまうまで終わらない地獄だと観念するでしょう。クリスチャンだから、大丈夫ということでもありません。悪魔は隙を狙っています。やはり、アメリカで同僚の牧師が、子供の虐待の事実を知ったので、警察に通報したと話していました。それは、虐待の事実を知って警察に報告しないと罰せられるからです。日本人学校の先生がインターネットで小児性犯罪者の住んでいるところが調べられることがわかり、調べてみたら、学校の周りにたくさん住んでいることがわかりました。ゾッとしますね。日本では人権問題があって、そのような仕組みがありません。アメリカとの文化の差なのでしょう。私たちの祈りの課題は多いのです。神様にしか解決できない問題が多くあります。それを一人の信仰者が主に祈ることで本当に解決することができるように、イエス様が道を開きました。イエス様のおかげで希望が生まれたのです。私たちは決して人を裁くべきではありません。どんな人をもです。それは、神様の役目だからです。それに、罪人であった私たちも罪を赦され、救われたのですから、何もわからないのに勝手に人を裁いてはいけないのです。主に祈って、ゆだねて、解決するのです。忍耐がいることですが、これが信仰なのです。

 

5月26日(日)

深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。

詩編130:1、2

 

思い悩みが人を苦しめます。その原因が自分以外の他の人であることはよくあることです。気の弱い人や感受性の強い人は、些細な心無い言葉に深く傷つきます。自分は強いと思っている人でも、周りの人たちの気持ちを無視して、たかをくくっていると思わず反撃に遭います。それが自分を追い詰めることになるとは思いもよらないでしょうが、一旦対決が明確になれば、自分に不利となることが次々に出てくるでしょう。強いと思っている人ほど、そのような危機に弱いものです。最悪、心か体かの病気になることも珍しくありません。また、ショックを受けるようなことが起こっても人間はなかなか立ち直れなくなります。倒産や火事や地震に事故など、災いが襲ってくることも人ごとではありません。震災被害に会われた人の心のトラウマも、長い時間苦しめるでしょう。ですから、何の保証もない世界に生きていることを忘れてはいけません。自分はいつか死ぬ者であると自覚している必要があるのです。それが今日であってもおかしくないのです。それで、朝、神様に今日も目が覚め生かされていることを感謝するのです。きっと、意味のある一日が始まるはずです。一日の初めに主の祈りを意味を考えながら唱えます。主が弟子に教えた祈りなので、私たちに毎日必要な祈りなのです。そのようなことも意味がわからずにないがしろにしていると、ある日、試練が始まります。その時に、この詩編を思い出して祈るのです。試練の中にも希望があるからです。まずは、今日の聖句です。深い淵に落ちてしまったら、自力では出れないでしょう。だから、真剣に神様に祈るのです。私たちは、自分の神様を知っているのです。名前を呼べます。これほどの幸はありません。主の名を呼びなさい。あなたの声が天の御座に届くように心を注ぎだします。聖霊の助けがいります。聖霊を求めることです。罪が示されたら、イエス様の十字架に向かいなさい。そこで、イエス様にすがるのです。悔い改めて罪を全て告白します。そして、十字架の血潮で罪の汚れをことごとく清めていただくのです。時間がかかってもやりきるのです。そして、主の御言葉を求めなさい。主が来られれば、問題は解決します。主にすがって祈ることを覚えましょう。このように深い悩みは辛いことですが、祈りを知ることになります。そのことがどんなに人の救いに必要なことか、一人一人が体験して知るのです。

 

5月27日(月)

主よ、わたしの心は驕っていません。わたしの目は高くを見ていません。大き過ぎることを、わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。

詩編131:1

 

物事をポジティブに考えることが良いと言われていますが、それが単に高慢から来ているなら災いを避けることはできないでしょう。事実、自業自得で打ち砕かれた人が「身から出た錆です」とつぶやくのを私たちは知っています。クリスチャンとして長く生きていると、砕かれる経験を幾度として、だんだん高慢の鼻をへし折られてしまうのです。「主が望まれれうのならこれをしよう、あれをしよう」と言うのは良いのですが、自分の欲がそう言わせているのなら、その結果も自分で刈り取ることになります。何事にも原因と結果があるわけです。反対に消極的すぎてもネガティブの悪い面が出てくるので、良い結果を期待できません。詩編記者は、バビロン捕囚の経験を教訓にしているのかもしれません。大きな試練に遭遇し、自力で解決できないと自分がどのような者であるかを知ることになります。そして、神様に助けを求めますが、これは困った時の神頼みとは少し違っています。初めは確かに助けてとしか言わないでしょうが、聖書を開き、神様のみ声を聞こうとし始めると、ようやく神様が何かを自分に語っていることに気がつきます。まず、祈ることがよく分かっていないと祈ることを教え始めます。そのためには、祈りのことを教えているキリスト教書籍が役に立つこともあります。また、御声を聞けない人は、誰かメッセンジャーが遣わされてきます。それは一人ではありません。人間の能力は段階的にしか理解できないので、聖霊が順番に教えてくださいます。この世のことばかり考えている人は、神様の支配が始まっていることを理解できません。そこで、神様の支配がすでに始まっていることを理解させようとされます。そのためには聖霊に満たされるような宗教体験も必要なのです。個人的にリバイバルし、刷新されるのです。これらが誰に対しても開かれていることで、特別な人だけの特権ではありません。主を求めて、祈り、信じることです。ある人には奇跡がよく起こるのは、神様の支配の方にいるからです。キリストの恵みを今日も味わいましょう。

 

5月28日(火)

わたしの慈しみに生きる人は、喜びの叫びを高くあげるであろう。

詩編132:16

 

今までの人生を振り返ってみた時に、神様の御手を見る人は幸いです。私たちは、自分が何者であるか知っていますから、自分が特別に優れているとか、誰よりも正しい人間だと思っていません。むしろ、どこかで欠点や弱さを気にしているものです。しかし、理由はわかりませんが、イエス様に救われました。それからの人生は、主の慈しみに生きる人生でした。もっとも、それを認めなければ別ですが。大事なことは、過去の自分にこだわっていると、主の慈しみがわからなくなるということです。重要なことは、現在なのです。今を生きなければいけないからです。幸いなことに、イエス様があなたの主で、イエス様はいつでもあなたに対して慈しみ深い主なのです。その証拠は、あなたがだんだん良くなっていることです。どうですか、あなたは自分がだんだん良くなっていることを知っていましたか。もう少し深く考えてみましょう。人生で誰でもが感じる不安や心配が、クリスチャンであるあるあなたはどうやって乗り切ってきたのでしょう。あなたは、感情に支配されていたら、自滅する危険があることを知っているはずです。そして、感情を爆発させれば大きな後悔と自尊心を傷つけてしまうことをも理解してるでしょう。それは、あなたの負い目になって、信仰の妨げになるのです。だから、天の父は、あなたを救っただけではなく、あなたの助け主として聖霊を送ってくださったのです。聖霊があなたを助け、訓練し、正しく導くインストラクターのように働いてくださるからです。そうやって、古い人の感情的で欠点に負けて、欲が捨てられず、気分に支配され、コンプレックスを抜け出せないでいる悪い癖も、これらすべてが信仰を台無しにしてしまうのです。このような人を生まれ変わらせるために聖霊が働いてくださっているのです。あなたに必要なことをことごとく熟知していますから、人生をいたずらに過ごすのではなく、あなたを完全にするために時間も環境も人間関係も何もかも使います。ただ、あなたが主の慈しみを認めるなら、あなたはいっぺんに自分を神様の支配下に置くことができるのです。それは、楽しいことです。主に親切にしてもらい、慈しみを受けていることを認めるなら、目が開けるでしょう。自分が経験してきたことが主の慈しみであったと確かめることができます。そのようにして主の良くしてくださったことが喜びになり、喜びはあまりにも大きくて叫びとなるほどなのです。クリスチャンは誰でも、そのようになることを期待されています。

 

5月29日(水)

見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。

詩編133:1

 

「わたしは彼らを諸国の間にまき散らしたが、遠い国にあっても彼らはわたしに心を留め、その子らと共に生き続け、帰って来る」(ゼカリヤ10:9)。それは、イエス・キリストの到来により実現する。「散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ」(ヨハネ11:52)とイエスは十字架の道を歩まれた。そのように死なれたイエス・キリストによって起こったのである。そして、主の再臨の時にこそ、天使たちによって四方から聖徒たちが最終的に集められる。それまで、神に召された者たちは、散らされたまま、イエス・キリストに対する信仰で一つに結びついている。それは、たった一人で遠い国に置かれ、異教徒や神を信じない人たちの間で信仰を守り通さねばならないことである。ただ、イエス・キリストへの信仰と聖霊による一致において私たちは一つにされているのである。スクエアー・ジャパン・チャーチに属している人たちは、まさにそれぞれ遠い所に住んでいて、普段は一人でビデオ礼拝をしている人たちも少なくない。それは、聖書の預言であり、それでも礼拝に出席できて兄弟姉妹と共に座っている、ということが起こるのは、本来は終末にだけ起こることの先取りであって、ただ主の恵みである。兄弟姉妹と和合して共に座っている、この光景がすべての聖徒に与えられていない。その光景を思い浮かべ、一人で遣わされた地でキリストの種子となって、待っている人たちが全世界にいる。パウロも宣教者であったから、牢獄に入れられ、時に孤独にされた、弟子のヨハネもパトモス島に流刑になり、そこで主の啓示を受けた。彼らもまた、主の再臨を待ち望んでいたのだ。だから、それぞれ、自分の召命に忠実に応え、天命を全うすることだ。今日の御言葉の通りに兄弟姉妹がキリストにあって、共にある日がもうすぐ来るだろう。

 

5月30日(木)

天地を造られた主が、シオンからあなたを祝福してくださるように。

詩編134:3

 

主を信じる人は、すでに祝福されています。ですから、今日も祝福の日です。自分が主に仕える者であることを誇りとして、その聖なる仕事が主を賛美することであると心に覚えましょう。「主をほめよ」という言葉が聖徒たちの挨拶です。聖霊のバプテスマを受けた後に、このことを知りました。聖霊に満たされていると主をほめたたえることが何よりも嬉しいので、そのことを知っている人から、「主をほめよ」と言われると賛美が溢れるのです。相手にも「主をほめよ」と言えば、とめどなく主への賛美が出て来るでしょう。このような所に、聖なる主の臨在が現れます。天上では天使たちが大声で、「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です。」(黙示録5:12)と賛美し、地上でもすべての被造物が「玉座に座っておられる方と小羊とに、賛美、誉れ、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように。」(同5:13)と賛美をささげます。また、ヤコブ書には「あなた方の中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい」(5:13)とあります。私たちがクリスチャンとして生きていけるのは、祈りと賛美によるのです。イエス様が10人の重い皮膚病の人を癒した話があります。イエスは、彼らに「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われました。そこへ行く途中で彼らは癒されたのです。「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た」のです(ルカ17:15)。彼はサマリア人でした。そこで、イエスは「この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」(18)と言われました。私たちは、困ればすぐに神様に祈り、イエス様に問題を解決してほしいとすがります。それは、必ず聞かれて、助けていただけるのです。しかし、その時に、すぐに神様の元へ行って、賛美するだろうか、という問いを考えてみる必要があるのではないでしょうか。私が中学生の時に塾に行く日に東京では珍しく大雪になったのです。それで、塾が休みだと喜んだのですが、次の回に塾に行くと、先生がポツリと「雪でも誰か一人は来ると思って待っていたのに」と言われました。その時、しまったと思ったのです。自分一人でも来るべきだったと後悔しました。雪で誰も来れない日だからこそ、平気な顔をして行くべきだったと、その後何年経っても忘れることができません。もし、自分がイエス様の元に戻ってこなかったユダヤ人の一人であったら、中学の時の後悔と同じ後悔をしたのではないか、と思えてきます。イエス様との関係が、たった一人でも戻って来る人でありたいものです。

 

5月31日(金)

ハレルヤ。賛美せよ、主の御名を、賛美せよ、主の僕らよ、主の家に、わたしたちの神の家の庭に居並ぶ人々よ。主を賛美せよ、恵み深い主を。喜ばしい御名をほめ歌え。

詩編135:1、2

 

信仰を持つということは、自分の神様を知ることが前提です。その神様は決して偶像ではいけません。心に語りかけてくる神様が人間には必要なのです。困った時、辛い時、病気の時、失敗した時など、どん底に突き落とされたような時に、そこで待っていてくださる神様。八方塞がりになった時にも行き詰まらないように助けてくださる神様が私たちには必要なのです。人にも見捨てられ、自分の不甲斐なさに悲しくなっても、イエス様は私たちの手を取って、一緒にその辛さを味わってくださるのです。私たちの喜びを一緒に喜び、悲しみを共に泣いてくださる神様なのです。人間にとって大事なことは、理解されることです。主は、あなたの良き理解者です。あなたが弱くて何にもなれなくても、それでも愛してくださいます。あなたが何が必要か知っていて、それを与えてくださるお方です。その主は、生まれた時から、慈しんでくださり、憐れみを惜しまず、恵みを味わうようにと人生を楽しいものにしてくださいます。私たちが年老いて弱った時に、一緒に歩いてきたイエス様は、立ち止まり、御手を差し出して、「さあ、一緒に天の国へ帰ろうと」とおっしゃるのです。私たちが主を賛美する理由は数え切れません。賛美することは、わたしが主に救われたことを確かにするのです。霊の目が開かれるなら、「私たちの神の家の庭に居並ぶ人々」がきっと見えるでしょう。彼らは、私たちと同じように主に愛された幸福な聖徒たちです。この大勢の兄弟姉妹と共に主を賛美するでしょう。それがどんなに大きな感動となるでしょう。ハレルヤ。ハレルヤ。大滝のとどろきのような賛美は、現実となり、あなたはすでに天の国に入ったことを知るのです。「主を賛美せよ、恵み深い主を。喜ばしい御名をほめ歌え」。