2019年7月ディボーション

7月1日(月)

親切な言葉は蜜の滴り。魂に甘く、骨を癒す。

箴言16:24

 

私たちが聞きたいのは、親切な言葉です。それなのに、この世界では滅多にけくことのない言葉かもしれません。少なくともそのような生活を送ってきた人は、親切な言葉は語ってはいけないと無意識に思っている可能性すらあります。親切な言葉は、クリスチャンの常用語です。報いを求めないので、親切な言葉で自分にも語って欲しいと要求はしませんが、自分の語った親切な言葉で、相手は不思議な体験をしているはずです。何しろ、魂に甘く、骨を癒すのですから、その人は驚くほどの恵みを 受けたのです。その人の心は本来の姿を現し、こんな隣人のそばにいたいと思わせるような美しい笑顔を見せるでしょう。それだけでも幸せですが、相手の人が本心から喜ぶ姿を見ることが幸せなのです。どうして、もっと親切な言葉を語らないのか不思議に思います。歳をとってくると涙もろくなるものですが、誰かの親切な言葉が感動を呼び覚まし、嬉しさが涙になって溢れるのです。そんな涙を見たことがありますか。真珠よりも美しいのですよ。このような奇跡を見たいのなら、今日、誰でもいいですから、思い切って親切な言葉をかけてみましょう。期待通りにいかなくても、これからはいつでも親切な言葉を自分は語ることにした、と宣言してみてはいかがでしょう。感動する機会が急に増えると思います。

 

7月2日(火)

子を奪われた熊に遭う方が、愚か者の無知に遭うよりましだ。

箴言17:12

 

ヨセミテ公園を車で走っている時に、目の前を母熊と子熊が道路を横切って行きました。日本のツキノワグマよりは大きいので興奮しました。小岩井牧場のそばの道路を車で走っていた時にも熊が出ました。熊がおとなしく去って行ったので良かったですが、子を奪われた母熊はとても危険です。気が立っているので襲われる可能性が高いです。同僚の牧師が北海道の山でヒグマに鉢合わせしてしまったことがありました。ヒグマはとても大きくて危険です。幸い、熊の方から去って行ったのでことなきを得ました。さて、熊の危険性はよくわかりますが、聖書には「愚か者の無知に遭うよりましだ」と書いてあります。この聖句が言いたいことは、愚か者がどんなに危険であるかということですが、自分にとってだけでなく、他の人たちにとっても危険な存在であることを指摘しています。アメリカのキャンプ場で、大きな熊が檻の中で飼われていました。話を聞くと、そのキャンプ場に子熊が現れて、あまりの可愛さから飼うことにしたのだそうですが、彼らが予想していなかったのは、子熊はすぐに大人の大熊に成長するということでした。それで、大変な目にあったのです。まさに今日の聖句のような笑い話です。私もアメリカのあるホテルがライオンを飼っていて、子供のライオンが生まれたと旅行案内の本に書いてあったので、訪ねてみたのです。ところが確かにライオンは何頭もいるのに、子供ライオンが見当たりません。ホテルの人に聞くと、呆れた顔をされて、「もうすっかり大人になっていますよ」と言われ、確かに本が書かれた時には子供でも、それから一体どれだけの月日が経ったか考えてもみなかったのです。まさに「愚か者の無知」でした。皆様もくれぐれもお気をつけください。

 

7月3日(水)

主の御名は力の塔、神に従う人はそこに走り寄り、高く上げられる。財産は金持ちの砦、自分の彫像のそびえる城壁。

箴言18:10、11

 

この二つの格言は、ワイブレイによれば、「人生における安全を得るための道について二つの異なった方法を提案する。神信頼と物質的な富の獲得である」。もっとも富はそれ自体は神の賜物と考えられていたので、富が悪いといった考え方はしない。信仰者にとって神信頼は、当然のことと受け止められている。しかし、実際に神信頼に失敗したり、神を信頼しきれない自分の弱さを暴露するような経験が誰にでもあるものだ。そこで、信仰者は、まるで神信頼を学ぶようにと試練や様々な問題と直面することになる。どうも、信頼とはたった一人だけに対しての信頼という意味であって、神か自分か、あるいは力のある人間であるか、私たちはいつもその中で右往左往しているようだ。結局、神以外に頼れる方はいないと悟るのに随分時間がかかるのだ。そして、私たちは神信頼によって生きていくことになる。それは、自分ではなく神、となるために自分がだんだん消えていくような経験をすることになる。それがお金に対する執着心をなくしていくことであれば、それは意味があることになり、神信頼のみでも十分やっていけるだろう。しかし、神の祝福をクリスチャンは受けるので、神からの贈り物としての富も受け取ることができるのだ。そこで、清貧が必ずしも美徳ではないことも覚えておこう。清貧に関しては、ピーター・ワグナーは霊の賜物の一つだと語っている。つまり、誰でもができることでも受け入れられることでもないということだ。そこで、クリスチャンでも富はあって良いと理解できる。そうでなければ、世界遺産になるほどの大聖堂も建つことはなかったし、世界中に福音を伝えることもできなかっただろう。それに、神様を信じている人が無意味に貧しくなるはずがない。神の祝福は私たちに注がれている。恵みを味わい見よと主は大胆に語られた。だから、富を安心して受け取ろう。

 

7月4日(木)

弱者を憐れむ人は主に貸す人。その行いは必ず報いられる。

箴言19:16

 

私たちの周りには色々な人たちが存在しますが、その中には気の毒な人や心を動かされるほど辛い思いをしてきている方たちがいます。普段は平静を装っていても、じっと耐えている人たちには、誰かの支えや優しさが必要です。私たちは神様のようには人を助けることはできませんが、何か小さなことならできるかもしれません。もし、自分の前に弱者が現れたら、あなたはきっと憐れむと思います。そして、神様に聞くでしょう。「私はあの人のために何かできないでしょうか」と。多分、上から目線でかわいそう、と思うのとはちょっと違っていると思います。友達はいつでも対等ですから、そのような気持ちでできることを自然とうまくするでしょう。相手が何もお返しできないような時にこそ、神様がその行いに報いてくださるのです。私たちは気をつけなければ、誰かに良いことをした時、いつまでもそのことを覚えていることがありますが、それに対する報いは主からはありません。すでに、自分を誇って報いを受けてしまっているからです。主も「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせるな」(マタイ6:3)と教えています。世の中には、たった一人で追いきれない悲しみを背負って生きている人がいるものです。キリストを必要としている人に主は、あなたを遣わそうとされているかもしれません。そうなっても、心配することはありません。「憐れむ」心があれば、何の負担も感じないでしょう。でも、憐れむ心が動かない時には、無理をして偽善にならないように気をつけたいものです。何でもバランスです。

 

7月5日(金)

悪に報いたい、と言ってはならない。主に望みをおけ、主があなたを救ってくださる。

箴言20:22

 

別の訳を見て見ましょう。「悪に悪を報い返すことを考えず、主があなたを解放するのを待て」。パウロは次のように書いています。 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが復讐する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 悪に負けることなく、善を持って悪に勝ちなさい。(ローマ12:19~21) パウロは申命記32:35、箴言25:21、22を引用しています。つまり、自分で復讐してはいけないこと、復讐は主がなさることで、その時を信じて待たなければならない、ということを教えています。そこで、自分に対してひどいことをする人や悪意を向けてくる人がいても、それに怒ってはいけないことになります。なぜなら、復讐は主のなさることなので、それを自分ですれば主は何もなさらなくなってしまうからです。それはかなりリスクが高くて、嫌な目に遭うことを覚悟しなければなりません。感情のコントロールをできるようにしなければ、苦しみを増すことになります。悪に負けずに、善を持って悪に勝ちなさい、とあることを決して忘れてはいけません。これは、健康原則でもあります。健やかでありたいなら、この聖書の教えを実践して成功することです。ただの知識ではダメで、実践して成功することを知恵と言っています。感情をコントロールできないと悪魔が囁いても、それは嘘です。感情をコントロールできれば、穏やかに幸せに生きていけます。私たちにできる課題ですから、挑戦してみましょう。

 

7月6日(土)

欲望は絶えることなく欲し続ける。神に従う人は与え、惜しむことはない。

箴言21:26

 

日本の家は狭いと言われ、ウサギ小屋とさえ言われました。確かに東京のように土地が異常に高い所では、部屋は狭くならざるを得ないのです。住宅事情の悪い都市は世界中にありますが、大都市部では土地が高いことは仕方がないことです。その狭い家に入ってみると、物が溢れています。デフレはもう物を置く場所がなくて買えないから起こっているという意見すら出てきます。そうなると、家を広くすれば一気に消費が伸びてデフレを脱却できると言うのです。今日の箴言が本当だと思えるのは、皆何か買いたいと言うこと一つ見ても人間の欲望は顕著に現れています。100円ショップのような所では、いらないものまで買っている人がいます。こうなると、買うために捨てることを教えるプロが出てきます。テレビではグルメ番組が当たり前で、毎日食べ物の番組がたくさん出てきます。これも食欲がなければ成立しません。このように、普通の人の欲望は絶えることがありません。クリスチャンになると少し様子が変わってきます。それは、受けるよりは与えることが多くなり、惜しまなくなることです。神様への献げ物と関係があると思います。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」とのイエス様のお言葉にも関係していますし、「主は与え、主は奪う」(ヨブ1:21)とか、「受けるよりは与える方が幸いです」など、聖書の御言葉から私たちの精神は変わり、愛すると言う大きな課題があることに気がつかされます。そうなると、絶えず「愛」を計られているようなところがあるのです。愛が心の動機になれば、惜しむことなく与えるようになります。愛が動機でないと、後で与えたことを後悔したりします。欲望の怖さは、罪と死に直結しているからです。「自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(ヤコブ1:14、15)。ダイエットをしたことのある人は欲望の力がどれほど大きいか知っていると思います。ですから、信仰なしには勝てません。聖句にあるように、「神に従う人」になることです。これがあなたの課題です。

 

7月7日(日)

手を打って誓うな、負債の保証をするな。償うための物があなたになければ、敷いている寝床まで取り上げられるであろう。 

箴言22:26、27

 

人の保証人になって負債を負うことになった話をあなたは聞いたことがあるでしょう。連帯保証人になってしまうと、本人が逃げてしまうと連帯保証人が代わって支払う義務が法的に生じるので逃げるか返すしか無くなります。その負担の大きさは人生を失うほどです。だから、保証人になるには、支払える能力がある人だけができることなので、大金持ちでなければ断ることが誠実になるのです。負債は、自分の人生に留まることはありません。自分の親や親族、配偶者や子供まで人生を奪うことになるのです。借金を返すだけの人生では奴隷のようで生きる力を失います。それで、自殺してしまう人も出てくるのです。しかし、万が一、保証人になって、裏切られ自分が負債を返済することになったら、クリスチャンはどうするでしょう。ある信者さんがまさにそうでした。長い年月を返済のために過ごしていました。しかし、ある時、銀行の方がその信者さんがまだ返済していることに気がつきました。銀行ではこのように焦げ付いたお金をいちどきに損金として清算することがあるのです。それで、この信者さんが忠実に返済していたことに驚き、もう支払わなくても良いと終わらせてくれました。この人が神様にどれだけ感謝したかわかりますよね。このようなケースもありますが、安易に人の保証人になることは考えものです。祈って主の御心でなければ断る勇気も必要です。

 

7月8日(月)

富を得ようとして労するな、分別を持って、やめておくがよい。

箴言23:26

 

捕鯨問題がニュースになっていました。捕鯨を反対する国と積極的に捕鯨を進めたい国が対立を深めています。この問題は、現代の世界に起こっている危険な問題の形を成しています。トランプ大統領を支持する人たちのように、狭い地域の少数の人たちの価値観や文化を守るように主張を強めます。勢い、他の人たちの意見は聞かなくなります。このようなことが今世界中で起こっています。それは、SNSの急速な普及と関係があります。S NS上で自分と同じ意見の人と繋がりやすくなり、いろいろな意見があることを見逃すのです。自分の正義が他の人にも共通のものであるかどうか知る必要があります。今や、この地球で一緒に平和に生きていくには知恵が必要なのです。貧富の格差が広がり過ぎると社会が成り立たなくなることが懸念されてきたため、ソロスなどの超富裕層が彼らに富裕課税するように大統領候補者に手紙を連盟で出したことがニュースになっている。キリスト教精神が失われると、社会が死に向かうことを証明したかのようなことが起こっている。生活するお金が足りなくなってくれば、社会不安が起こるのはわかるはずだが、老後のために2000万円貯めろというのは、すでに危険な兆候だろう。神様を信じている人は、お金も神様からいただいていることを知っています。そのように生きてきたからです。だから、自分が信じた通りに生きていくことになると改めて言うまでもなく、その通りになっているのです。世界経済もこれからどうなるかわかりません。経済不安に警鐘を鳴らしている専門家も増えています。クリスチャンは祈りの課題がこうしてあることを覚えるべきです。

 

7月9日(火)

神に従う人は七度倒れても起き上がる。神に逆らう者は災難に遭えばつまずく。

箴言24:16

 

七度は七回と限定しているわけではなく、無限に何度でもということです。つまり、神に従う人が悪い者あるいは悪魔にひどい目に会うことがあっても、クリスチャンの徳が結局勝利することを意味しています。悪人は災害のような悪いことが起これば当然の報いを受けることになります。クリスチャンとは大違いです。ですから、悪事に加担してはいけないし、悪い人に悪を持って返してもいけません。クリスチャンは日々の信仰生活を通して聖書から学び、祈りを通して神様と交わり、徳を積むように導かれます。そこで、自己主張するのではなく、主にへりくだって聞くことが重要になります。パウロのようにクリスチャンを迫害していた人が救われることだってあるのです。だから、どんな人でも救われる可能性があります。そのことを覚えていれば、誰に対しても同じように接することができます。「悪事を働く者に怒りを覚えたり、主に逆らう者のことに心を燃やすことはない。悪者には未来はない。主に逆らう者の灯は消える」(19、20)とある通りです。今日の御言葉で、私たちは勇気づけられます。人生に何か災いが起こっても、倒れてしまうのではなく、起き上がることが約束されているということです。だから、元気を出しましょう。何度倒れても起き上がればいいし、起き上がれることが約束されているのです。起き上がることができる限り、負けることはありません。勝利が初めから約束されているということです。

 

7月10日(水)

侵略されて城壁の滅びた町。自分の霊を制しえない人。

箴言25:28

 

下の句の別訳では、「自分の気分を抑制する」となっています。つまり、怒りをすぐに爆発させてしまう人のことを意識しているのです。怒りのコントロールは非常に重要です。6秒間黙ることで、怒りの爆発的な力を削ぐことができるようです。このわずかな沈黙で大きな損失から自分を守ることができるのです。ヘブル語本文では、「自分自身を抑制する」と訳す方が良いようです。それは、古代知恵文学の理想的な人の品性に正確に対応するものだからです。今日の聖句は少しわかりにくいのですが、侵略されて城壁が破壊されてしまえば、攻撃が容易になることがポイントです。同じように、自己抑制がうまくできない人は、感情に任せて怒りを簡単に爆発させてしまうのですが、怒りで自分を守る城壁が壊れてしまうので相手から簡単に攻められてしまうということです。怒りで損したことはなかなか忘れることができません。怒るのは一瞬でも後悔は長い時間支配することになるのです。そうなる前に、よく考えて怒ることをやめるように心を決めることです。そして、6秒ルールは脳学者の言うことなので試す価値があります。

 

7月11日(木)

犬が自分の吐いたものに戻るように、愚か者は自分の愚かさを繰り返す。

箴言26:11

 

これも有名な格言は、愚か者は自分の経験から学ばないで愚かさを繰り返すということが主旨です。そのような愚かさは犬と同じに見られてしまうのです。ただ、同じ過ちや失敗を繰り返す人がいれば、周りの人はその馬鹿さ加減を指摘するでしょう。それでもまたやってしまうということになれば、愚か者の称号を自ら勝ち取ったことになります。さて、あなたは自分を省みていかがでしょうか。自分の愚かさを繰り返したことはありませんか。私はあります。そんな時は自分の頭を叩いて「バカバカ」と言ってやりたくなります。愚か者になりたくなければ、識別力を高めて、教訓をしっかり心に留めることです。一度目の失敗は仕方がないですが、繰り返すとよくありません。自分が受けるダメージが大きくなるからです。せいぜい気をつけたいですね。

 

7月12日(金)

明日のことを誇るな。一日のうちに何が生まれるか知らないのだから。

箴言27:1

 

他の訳では、「明日のことについていい気になるな、一昼夜のうちに何が生じるか、あなたは決して知ることがないからである」。この教訓は、それぞれが考える必要があります。自分を誇るな、と考えるかもしれないし、人は明日はどうなるかわからない、と解するかもしれません。内示を受けて、明日になれば昇進の辞令が出ると誇っていると、翌日には自分ではないライバルの名前が張り出されているかもしれないのです。主は言われました、「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。」(マタイ6:34)。私たちは、事が成るまではどうなるかわからないのです。ましてや一日も時間があれば、自分の知らないところで何事か起こっていても不思議ではないのです。良くできたドラマなら、明日になれば良い結果になると有頂天になっていると、翌日には逆転が起こって最悪の敗北を喫することになる、というようなストーリーをよくみます。まさに、そのようなことは古代からあったのでしょう。そこで、ゆめゆめ油断してはいけません。私たちは、一日一日を大切に生きていくだけです。内村鑑三のように一日一生の心構えで生きて行きたいものです。

 

7月13日(土)

罪を隠している者は栄えない。告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける。

箴言28:13

 

別訳「自分の欠点を隠せ、そうすればあなたは成功しない。それらを告白して断念せよ、そうすればあなたは憐れみを見出す」。罪の問題は厄介なものです。神の助けを得て罪からの解放を実現することは自分の決意から始まります。それはたいていの場合、罪の告白をすることによって、隠すのではなく罪と認めることから罪の解放を目指すのです。別訳にある通り、罪は隠している欠点のようなものです。欠点がある限り成功することはありません。それなのに自分の欠点を知っているのに、解決せずに棚上げにしている事が多いのです。しかし、それは欠点以上の恐ろしい罪なのです。神の祝福を妨げるものが罪です。本当はもっと祝福されて幸福になれるのに、その反対に辛い事が多く、貧しく、成功したくてもできない、このようなことになる危険をはらんでいる理由が隠れた罪なのです。主への告白には力があります。告白は自分自身にしかできないのです。それで、聖霊の指摘がきっとあるはずなので、無視することなく、気づき、認めることから告白へと突き進みます。主の憐れみの中で正しい人生を取り戻すことは幸福への第一歩です。まずは主に祈り始めましょう。自分は罪を隠していないと思う人も、聖霊に自分に隠れた罪は無いかどうか聞いてみて、あるならわかるように示していただきましょう。いつでもリバイバルはこのような悔い改めから始まるものです。

 

7月15日(月)

むなしいもの、偽りの言葉を、わたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしのために定められたパンで、わたしを養ってください。飽きたりれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き、わたしの神の御名を汚しかねません。

箴言30:8、9

 

ここに二つの願いが出てきます。一つは「貧しくもせず、金持ちにもせず」と主に願っています。現代ではこれが一番難しいことなのです。少数の大金持ちと多くの貧しい者という構図が世界的に広がり、それが不穏な空気になっています。罪の世界では決して公平ではありませんし平等でもないのです。何しろ罪の性質が自己中心なのですから、自分さえ良ければ良いと自然に考えてしまうからです。もっとも、今日の聖句自体は、信仰を保つには金持ちすぎても貧しすぎてもうなく行かない、と言っています。ちょうど良く、と祈っているのです。さて、これも難しい問題です。人によって能力も価値観も性質も異なっています。ですから、ポイントは清貧とは願っていないことです。信仰者は、物質に頼らない、ただ神に頼る。この世の富が進行の妨げになるなら、遠ざけていただき、また逆に貧し過ぎればそれで罪を犯すかもしれないので、「衣食足りて礼節を知る」と同じだと日本人ならば思うはずです。つまり、その人にとって「主がちょうど良い生活が送れるようにしてください」と願うことが知恵なのです。もう一つは、道徳的品性を主に求めているのです。この二つが揃ってはじめて信仰生活が理想的に続けられるという事を示しています。さて、あなたはこの箴言の請願のように祈るでしょうか、それとも違う考えがあるのでしょうか。年代によっても違うでしょうが、これは信仰者にとって楽な生き方だと思います。

 

7月16日(火)

あでやかさは欺き、美しさは空しい。主を畏れる女こそ、たたえられる。

箴言31:30

 

別訳では、「魅力というものは妄想であり、美しさはつかのまである。ほめたたえられるのは敬虔な女である」。新共同訳では10節から最後までの箇所に「有能な妻」という見出しを付けています。文字通りに古代パレレスチナの有能な妻とはどのようなものであったかが垣間見れる箇所です。この妻は、家政一切を切り盛りし、収益をあげて土地を買い耕作地を増やし、羊毛と亜麻から糸を紡ぎ服を仕立てることもできたのです。妻の内助の功で夫は町でひとかどの者と認められ地位を得ます。彼女は働き者で、家族全体に目を配り、知恵の言葉を語り、忠実が彼女の教えの題目となっています。世の有能な妻以上の存在であることを夫も認めているのです。このように箴言の最後を締めくくるのに完璧な妻の姿が詳細に書かれていると困ってしまうかもしれません。夫たちは当然、妻にこの箴言の記述通りの有能な妻であって欲しいと願うでしょう。確かに、日本でも少し前までは驚くほど働き者の妻が普通にいました。その頃は、洗濯機も冷蔵庫も電子レンジもおよそ便利な電化製品は存在していなかったのです。何もかも自分で一から作っていました。夫は何も手伝わず、妻が家事全般を完全にこなすことは当たり前であると思っていたのです。家計を少しでも助けたいと考えると、これに内職もしていました。それから見れば、大きく変わったことがわかります。家事が電化製品の革命的向上によって家事時間が減少し、社会に出て働きことが容易になり、女性の地位向上もなって、妻の理想像が変わってきました。それでも、この箴言の箇所が役立つのは、女性が家事も仕事も共にこなすことができることを知ることができるし、女性は男性以上に家政をしっかりやるだけでなく、仕事を通して収益まで上げることができることを教えています。つまり、妻は家庭にあっても十分貢献できるのです。それにしても箴言の最後が有能な妻であって、有能な夫ではないことが妙に納得できます。天国でもきっとイエス様から労いの言葉を受けることでしょう。

 

7月17日(水)

あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。

エフェソ1:13、14

 

エフェソの一章を熟読することをお勧めします。キリスト教の教える救いがどのようなものであるか理解を助けてくれます。それが必要なのは、意外とクリスチャンも自分のことを理解していないからです。まず、聖書はあなたを「聖なる者」と認めています。次に「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいます」。「天地創造の前に、神はあなたを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」。「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。それは「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです」。そして、あなたが理解して信じて救われたイエス・キリストの十字架による罪の贖いによって罪を赦されました。さて、後のことは聖書を読んで確かめていただきますが、重要なことは、聖なる者と言われても自信がないのは、自分の力で聖なる者になろうとするからです。実際には、今日の聖句のように、福音を聞いて信じて、聖霊で証印を押されたと書いてありますように、聖霊がきてくださり、別の助け主としてエフェソ書に書いてあることを実現するべくあなたの信仰によって働いてくださるのです。この聖霊が天国行きの保証です。わたしたちが聖書の通りになると信じるのなら、そうなります。それは、信仰です。そして、最も重要なことは「わたしたちは贖われて神のものとなり」と書いてあることです。つまり、罪の中で悪魔と死の奴隷になっていたところを御子の命を代償にしてあなたを買い取ってご自分のものとされたという意味です。だから、あなたは神のために生きる者なのです。それがどれほど素晴らしいことかこれから深く理解して行くことになっています。

 

7月18日(木)

事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるものではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。

エフェソ2:8、9

 

 

クリスチャンになる前の人を「古い人」とパウロは言います。「古い人」がいるということは、「新しい人」も当然いることになります。この「新しい人」がクリスチャンのことです。それほど、救いは人を変えることができるからです。もちろん、精神論を言っているわけでありません。現実に人を造りかえなければ、霊的な命に生きることができません。2章の冒頭で「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」と書いてありますように、霊的にはすでに死んでいた者なのです。罪から免れる人は一人もいません。ただ、自己中心なので自分のことばかり考えて罪にも気づくことができないのです。驚くことに律法を突きつけられても自分は罪を犯していないとイスラエルの宗教家たちは思っていました。福音書を読んで気がつくのは、イエス様は弟子たちに霊的命を回復させ、死んでいた者を生かすのがメシアであり、そのメシアがイエス様であることを悟らせようとしていたのです。幸い、彼らは悟り、福音が伝えられてきました。そして、救いの意味が正しく理解できるように宣教がなされたのです。そこで、実に重要なことは、神様がイエス様を通してお与えになった救いを恵みと言っていることです。つまり、人間が自力で頑張って救いに達する、というようなことは不可能で、全部イエス様に頼り、神様が義としてくださることを受け入れ、信じることを信仰と言って、ただ信仰によって救われました、とすべての救われた人たちが告白することが意図されているのです。自分の行いによって義とされたわけではないので、威張ることもできないし、勝ち誇ることもできません。そうすることがすごく好きですが、これは古い人の性質です。新しい人は、神様の愛がわかったので、ありのままの自分で満足できます。愛情が満タンに注がれたのです。それで、クリスチャンになりたての頃は、古い人の生き方を繰り返すことがあったのですが、試練を通して砕かれ、神様が自分を変えることに同意してきたのです。それでも、信仰によって成立している救いなので、悪魔はこの信仰の脆弱さを攻撃してきます。そうすると、イエス様はご自分の信仰を分け与えようとさえされるのです。失敗は仕方がありませんが、古い自分を捨て去らないのは困ります。よく、何も捨てられなくて家の中が汚く、整理もつかずにごちゃごちゃの人がいますがまさにそのようになっている人なのです。それで、そのような人は、霊的断捨離が必要です。後回しにはできない重大な問題であることを理解しましょう。古い人は死んでいるのに、いまだにこだわる理由はありません。イエス様に抵抗しても無駄です。痛い目を見るだけです。潔く、主に悔い改めて、断捨離を優しく手伝っていただくことです。イエス様は酷いことは決してしませんから、安心してください。苦しんでいる人は、なぜ苦しみを手放さないのか、不思議です。とっと捨ててしまえばいいのに、と思うのは捨てることの試練を通って楽になった人の感想なのです。

 

7月19日(金)

あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。

エフェソ3:18

 

エフェソ書は本当に素晴らしい書です。ルターもローマ書、ガラテヤ書と共にこのエフェソ書から霊感を受けて真理に到達したことは納得が行きます。読者の皆様もここで学ぶことがこれらかの信仰生活に大きな力となることを知ることができますように。さて、今日の箇所は、クリスチャンが何をしているかといえば、キリストの愛を知ることであり、それは人の知識をはるかに超える愛でありますが、知ることができるのです。この愛がすべての鍵になっているのです。キリストの愛の大きさを極めて行けば、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかれるというのですから、神の良きものとは愛に尽きるわけで、私たちが罪と呼ぶものは、その愛の対極にある愛ではないものということです。功成り名遂げる、と言いますがそれでも空しいと言います。それは、神の愛によってしか埋められない心の仕組みなのです。教会で教えられることは、神は無条件で愛してくださる、という言い方です。条件付きで愛されてもやはり空しいだけです。でも、人間の世界ではそれが当たり前になっています。だから、キリストが行いによらず、憐れみと恵みで人の罪を赦し、ありのままで受け入れてくださる時に、初めて無条件の愛を知るのです。現実がたとえ変わらなくても、主が愛してくださるのならそれでいい、と主の愛を知った人たちは心からそう思うのです。それは不思議なことに、どのような環境に置かれていても、まるで天国にいるように心の様子が全く違ってしまいます。さあ、キリストの愛を理解しましょう。キリストに愛されていることを認めて、今日の聖句の通りにしてください、と祈ってみましょう。それから、心の密室に入って、主の愛を考えてみましょう。あなたは想像以上にキリストに愛されいるのですよ。それに気がつくことができますように。

 

7月20日(土)

しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。

エフェソ4:7

 

クリスチャンにとって大切なことはキリストの賜物をそれぞれにふさわしく恵みとして分け与えられていることです。霊の賜物リストは、一コリント12:8~10、ローマ12:6~8、そしてエフェソ4:11に主なものが書かれています。実際にはもっと多くあることが知られています。聖書の中にも出てくるので、解釈によって数は変わります。しかし、エフェソ4章の場合は、聖職の賜物で、使徒、預言者、福音宣教者、牧者、教師があります。これらは、教会の中の奉仕者のリストです。彼らの役割は、クリスチャンを成熟した人間となるように、またキリストの満ち溢れた豊かさになるように、奉仕する霊的な賜物です。そのことは次の聖句で明らかです。「聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」(12~13)。このように、クリスチャンは助けを受けることができるように神様が仕組みを作っておられます。ただ、現代はどこでも初代教会のように恵まれているわけではありません。そこで、神様はそれぞれの置かれた状況で、霊的な援助と導きを与えておられるのです。そこでは、日常生活や家事や仕事や普通の生活の中で主が働いてキリスト者の完成へと働かれています。そこで、クリスチャンは偶然は何一つ無いと知るべきです。どこででも、何にでも霊的な意味が見出せるはずです。それを見分けるのは、聖書が役立ちます。聖書に書かれた霊的原則が自分の生活に見ることがきっとでると思います。初めは、「いつも喜びなさい」のような覚えやすい御言葉から実践してみるのです。そして、霊的不思議を体験してみましょう。主が急に身近に感じることができると思います。それだけでも信仰が大きく覚醒します。自分にふさわしい霊的賜物をちょうどよく与えられていますから、無理をする必要もありません。自然と奉仕することになると思いますが、あまりにも自然で気がつかないかもしれません。それでも、人から感謝されるので、これかな、と気がつくでしょう。

 

7月21日(日)

あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。

エフェソ5:1

 

クリスチャンになって長い人生を振り返ってみると、実に面白かったとしか言いようがありません。良いことばかりあったというわけではありません。試練も多かったし、初代教会の信者さんたちが直面したような霊的な問題にも取り組むことになり、理解されないこともありましたが、不思議と神様に守られてきたので、平気な顔をしてやってこられたのです。信仰の達人というわけでもないのですが、信仰なしには前に進むこともできないようなことが次々と起こりました。まるで悪魔の軍勢との戦いだと思うようなことも起こります。奇跡も当たり前のように起こり、祈りの力がいかに大きいかも知ることになりました。特に、牧師になった途端に聖霊のバプテスマへと導かれ、福音は、イエスの十字架や復活だけでなく、悔い改めてイエスを信じた者に約束の聖霊を送ることで、霊的覚醒とそこから始まる新しい命が内なる人と言われる霊的な神の子供と言われる人生の誕生と成長と聖化が現代でも実際に起こることを知ったのです。そこで、新約聖書に書かれたことがその通りに今も体験できることを知りました。悪魔は自分の時が短いことを知り、やけっぱちに聖徒たちを滅ぼそうと執拗に攻撃しています。それが信仰を疑わせて神から離そうとするそそのかしであれば、信仰者にとってはまたとない霊的成長のチャンスでもあるし、何となくクリスチャンをやってます、というような人には自分のすべてを傾けて取り組むものであることを悟らせる機会となるのです。また、クリスチャンになっても自由意志は神に保証されているので、ことごとく選択することになります。その選択が良い結果を生むためには、聖書に書かれたことを守ることで実現できるのですが、聖書の読み方がわからないと自分勝手に解釈したり、ただ読み飛ばして何も残らないことになったりしやすいのです。そこで、真理の御霊が重要な役割を果たすことになります。問題があるとすれば、聖霊がクリスチャンに注がれていても、いるのかいないのかわからなくなっていることです。そこで、聖霊のバプテスマが役立ちます。霊的覚醒が起こるほどに大量に注がれるからです。水のバプテスマが水槽に溜めた水の中に全身を水没させるように、全身が聖霊につかるぐらい大量に降るのです。聖書で聖霊を雨にたとえているように土砂降りの雨の中に立っているようなものです。そこで、祈りが変わり、聖書を読むことが変わり、悟ったことを実践できるようになり、与えられた霊の賜物を使って人を助けたり癒したりして、イエスの元へと人々を導くのです。自分の中にいる神に気がつく人が出てくるでしょう。これらができるのは、あなたが神に愛されている子供だからです。信じましょう。

 

7月22日(月)

悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。

エフェソ6:11、12

 

なぜこの世の中には悲惨な事が多いのか疑問に感じている方もおられると思います。毎日ニュースは恐ろしい事件を報道しています。普通の人達ですら、事故や病気、不幸なことが起こることがあるのです。そして、現代人はそれらが人の過失や偶然起こる不運と簡単に片付けてしまいがちです。もしそれが悪魔の働きであったらどうでしょう。まったく無防備に疑ったことすらなかったことに驚き、怖くなるでしょう。しかし、聖書には悪魔は策略で攻撃を仕掛けてくることが示されています。つまり、悪魔の存在など誰も疑わないようにして人や自然災害、あるいは偶然起こる悲劇に見せかけて攻撃していることが警告されているのです。もちろん、神様も黙って聖徒たちが悪魔にやられていいとは思っていません。そこで、神の武具を身につけるようにと命令しています。14節以降を考えながら読んでみてください。そして、私たちが戦っている敵の正体が人間ではなく、悪魔であることを聖書は教えています。しかも、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊でから、人間とはまったく異なっています。これは、イエス・キリストの助けが必要です。それと同時に悪魔に対抗できる権能を授けてくださることも間違いありません。敵は、目には見えないので、対抗するためには神の武具が不可欠です。まさに信仰での戦いなのです。これを軽視すれば、ひどい目に遭う可能性が大きくなるだけです。恐れずに、対抗手段があることを理解して、見事勝利しましょう。

 

7月23日(火)

「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。私は、その罪びとの中で最たるものです。

一テモテ1:15

 

これは、印刷ミスではありません。「義人を救うため」ではないのです。「罪人を救うために」です。だから、人間の常識で信仰のことを考えると間違ってしまうことがあります。なぜなら、人は正しいことをするから神様は救ってくれる、と思い込んでいます。しかも、自分は正しいと思っているので、どこかでこのままでも天国へ行けるのではと楽観的に考えやすいのです。しかし、そのような人でも律法を守るという話になると、頑張って守らなければ天国へ行けないと考えます。しかし、もし律法を頑張れば守れるということなら、やっぱり律法を守ることは正しいことだから救われるはずだ、となって、はじめの「義人を救うため」が正解だと言いたくなります。ところが、パウロが悟ったのは、律法は自分が罪人であることを明らかにするものなのだ、ということです。つまり、嘘をつかない限り、律法に照らされると自分の罪がはっきりと浮かび上がるということです。そこで、自分の罪を認めるなら、今日の聖句は重要になります。すべての人間は罪人であると聖書は教えています。そして、罪人だからこそキリストの救いが必要なのです。神様がお考えになった救いですから、中途半端なものではありません。完璧な救いの計画なのです。問題は、自分の罪を認めることができるかどうかです。罪がまだよくわからない人は「自分の罪を見せてください」と祈ってみると良いのです。聖霊がすぐにでも働いて罪をはっきりと示してくださいます。律法を遵守するために厳格に努力していたパウロは、罪人の頭であると認めました。自分は正しいという思いが強い人ほど罪人の頭となってしまうのです。自分は正しいとすることを「自己義認」と言います。悪い言葉です。今日の聖句のように、キリストの救いを信じて受け入れると「信仰義認」となります。これが正解です。私たちにできることは、イエス様を信じることだけなのです。また、それで十分なのです。

 

7月24日(水)

婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかも、アダムは騙されませんでしたが、女は騙されて、罪を犯してしまいました。

一テモテ2:12~14

 

女性の地位向上の戦ってきたご婦人方にはひどく評判の悪い箇所です。ある女性は、公然とパウロを嫌い、聖書であるにも関わらず、ここは無視します、と宣言しました。それぐらい聖書でもよく考えてみなければならない箇所です。確かに、古代のパレスチナではパウロの言葉は常識の範疇だったてでしょう。しかし、小アジアに福音が広がった時に、文明が進んでいた世界では少し様子が違っていたと思われます。実際に、キリスト教伝道のスポンサーに女性がなっていたこともありました。しかし、人間の歴史を見れば、つい最近までは、このパウロの言葉は受け入れられていたはずです。しかし、女性の人権を卑しめるようなことは許されるはずもありません。実際、世界中で女性の社会進出が進み、女性の有能さが証明されています。ある女性がアメリカに留学し、努力してアメリカの銀行に勤めることになりました。彼女は優秀だった上に真面目に努力をしたので昇進したのですが、部下は白人男性ばかりだったので、とても辛い日々が始まりました。アジア人の女性が上司になったことを認められなかったのです。それで、うつ状態にまで追い詰められたのです。このようなことがただ男性優位主義によってもたらされているのでは人間の成熟度としては低いものと言わざるを得ません。スウェーデンの映画「幸せなひとりぼっち」という映画を見ました。59歳の男性が最愛の妻に先立たれ、淋しくて早く死にたいと自殺しようとするのですが、ことごとく失敗し、孤独を深めていくのですが、実際には近所の人たちに愛されていたことがだんだんわかってきます。その男性の妻は魅力的な教師でした。実直で正直だけが取り柄で、すぐ怒り出す気難しい夫をよく理解し、出しゃばらずに上手に夫を助けるのです。彼女は教養もあって、本をたくさん読み、頭もいいし、事故で車椅子生活になってもさらに勉強して、教師として復職しようと頑張ります。しかし、当時は車椅子の教師は雇ってもらえず、それでも、問題のある生徒を預かる学校で教師となり、生徒たちの最高の教師になるのです。この映画を見て、今日の聖句の意味がわかってきた気がします。やはり、聖書に書かれてあった通りに、アダムは一人でいるのはよくなかったのです。それで、助け手が必要でした。神様が与えたのはアダムからとって創造されたエバだったのです。だから、男性と女性でちょうど一つなのです。つまり、男性と女性では役割が違っているのです。人間としては平等であるべきですが、得意なことが違っています。それに、男性は女性に助けられて、女性は男性が自分を愛するように愛されて生きるようになっているのです。お互い尊敬できる関係でありたいですね。

 

 7月25日(木)

信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、

キリストは肉において現れ、

“霊”において義とされ、

天使たちに見られ、

異邦人の間で宣べ伝えられ、

世界中で信じられ、

栄光のうちに上げられた。

一テモテ3:16

 

ここに出てくる六行の詩は、当時の教会で歌われていた賛美歌の歌詞であったと思われます。初代教会ではキリストへの信仰を賛美歌で表現していたということです。私たちも、この世にあって世俗に飲み込まれてしまわないために、賛美歌を信仰生活の折々に多用することが助けになります。今は音楽を聴くには便利になって、好きな賛美歌を好きな時に聴くことができますし、演奏したり、歌うことができるのです。ちなみにこの聖句にある歌詞を見てみると、キリストが人間として現れたことを告白しています。それは、キリストによって初めて神様を理解できる人間として見ることができたのです。キリストに倣う、という言い方には意味があって、神様が人間であったらこうするということをキリストを見て知ることができるからです。また、聖霊がイエスの上に降ってきた場面が印象深く書かれていたように、イエスには聖霊が宿り、その力で数々の奇跡や悪霊追い出しをされたのです。また、私たち罪人を救うために十字架におかかりになって、墓から復活されたのも聖霊によるのです。同じ聖霊のお働きによって私たちも死から解放され、新しい復活の命が与えられるのです。このように聖霊は、神様が私たちを義とされる方法なのです。イエスの生涯が天使たちに見られていたのは、サタンによって生まれた罪の究極の解決のためにキリストが人となって(受肉)決着をつけようとされたのを、天の証人のように固唾を飲んで見ていたのです。また、救われるのがユダヤ人だけではなく、全世界の人々がキリストを信じることによって救われるために、福音が全世界に広がったのです。その結果、世界中で信じられ、地球上の三人に一人はクリスチャンとなりました。初めの信者は、たった百二十人だったのに驚くべきことです。このキリストは、十字架にかかり復活することで、人間を罪と死と悪魔の呪いから解放したのです。そして、栄光をお受けになり、天に上げられました。これは、私たちの希望であり、勝利なのです。このように、私たちはキリストを正しく信じて、救いの感謝を賛美歌として歌いたいのです。自分たちが何者であるかを知るためにも、これからも賛美し続けて行きたいですね。

 

7月26日(金)

しかし、”霊”は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。このことは、偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです。

一テモテ4:1、2

 

私たちは終末を生きている者です。そこで、この御言葉はおろそかにできません。むしろ、警報が鳴っていると思った方が良いのです。相手は、人間の背後にいる惑わす霊です。悪霊たちは偽りの教えをクリスチャンに吹き込みたいのです。それが偽りであり、偽善であれば、信じた者が信仰の道から脱落していくことが明らかだからです。聖書をよく読んで知っていること以外で自分を守る方がありません。牧師や教師に頼っているのでは間に合わないのです。悪魔は、必ず聖書に書かれたことでは無いことを教えます。それで、聖書の真理を変えることができないことがわかりますが、聖書を生きる指針にしている人は、そのことで自分を悪魔の惑わしから守っていることになります。そうであれば、聖書通読でただ目を通して通読表を埋めて満足しているようなやり方では効果が期待できません。聖書を聖霊に解き明かしていただくことが重要になります。そのために、聖書を研究して行くことになります。ただ、学者になるのではありませんから、難しいことをする必要は全くありません。役に立つものとしては、聖書辞典と聖書語句辞典(コンコルダンス)です。引照付聖書なら、引照でも代用できますが、コンコルダンスの方が引きやすいし、聖書が聖書を説明していることを実感しやすいです。この方法は最も信頼性の高い聖書研究の方法なのです。このような作業をすれば、より印象深く聖書箇所が覚えられます。聖書の余白に辞典などで調べた知識をメモしておくのも後で役に立つでしょう。また、自分勝手に解釈して行くと、惑わす霊に攻撃されていても気がつきにくいと思います。同じ言葉が聖書の他の箇所でなんと言っているか、調べるだけでも偏りを防ぐことができます。人間は自分に理解できないことや都合の悪いことは無視したり、理解できるように無理な解釈をすることもありますから、これも危険です。できるだけ、単純に御言葉を味わうことです。わからない時には、聖霊の助けを祈ることです。祈って聖書を読むのとそうでないのでは大きな違いがあります。極端なことを言う者が現れたら気をつけてください。偽りを平気で言う者もいるのです。これからは信仰から脱落しない戦いをしていると思っているぐらいが安全です。

 

7月27日(土)

やもめとして登録するのは、六十歳未満の者でなく、一人の夫の妻であった人、善い行いで評判の良い人でなければなりません。子供を育て上げたとか、旅人を親切にもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか、あらゆる善い業に励んだ者でなければなりません。

一テモテ5:9、10

 

この当時の教会にはやもめの登録簿がありました。三世紀の教会の組織と生活について書かれた『使徒教憲』には、「三人のやもめが選出されるべきである。そのうちの二人は試練におかれている人々のために、また必要ならば啓示を受けるために祈りに集中する。しかしあと一人は、病気にみまわれている女たちを助けなければならない。彼女はつねに奉仕に備え、思慮深く、何が必要であるかを長老に報告し、欲深くなく、酒を過度に愛好することない婦人が望ましい。それはいつもさめていて、夜の仕事を成し遂げることができ、その他のこまごました仕事を立派に成し遂げることおができるためである」とあります。まず、この当時は結婚がいい加減なものになっていて、純潔とか貞淑といった見本となるような妻であることが求められていました。次に、善い行いは他人からの評価によらなければ意味がありませんが、神様に仕えるように人々に接していた人がいたのです。また、子供をクリスチャン教育によって育てることは意義が深かったのです。結婚制度がいい加減になると、不倫が平気で行われ、その結果不幸な妊娠が不運と見なされる社会です。この時代、子供が一番多く捨てられたのです。なぜなら、子供が生まれると父親の元に連れてこられるのですが、父親が立ち止まって抱き上げれば認知され、養育する事を認めたことになりますが、そうでなく立ち去っていくなら、その子はゴミのように捨てられるのです。その子たちは、女の子なら、公共の娼家に、男であれば奴隷か剣闘士にされました。このようなかわいそうな子をクリスチャンは救い出して育てるのが務めとなりました。そこで、孤児や捨て子を養育した婦人ということなのでしょう。次に、当時の旅館が甚だ不衛生で汚かったことのに高額でした。しかも不道徳な場であったのです。そこで、クリスチャン旅行者たちにとって家庭を解放してくれるクリスチャンホームは最も価値のある奉仕とみなされていたのです。更に、聖徒の足を洗ったということですが、これは本来奴隷の仕事でした。ですから最も卑しい仕事でも、キリストのために仕え、クリスチャンに喜んで奉仕することが求められていたのです。次に、迫害時代に牢屋につながれたクリスチャンを見舞い、助けることが求めれました。日本でも戦時中に投獄された牧師や長老を危険を承知で見舞った人たちがいました。最後に、クリスチャンになった人たちは、神のためキリストのために生きる事を決意した人たちです。そこで、利己的にならずに、あらゆる善行に務めました。このように教会の中に奉仕者としてのやもめとして選ばれた人たちがいたのです。もちろん、一般の大勢のやもめがいました。それは、夫に先立たれた夫人だけでなく、当時の社会が一夫多妻制であったために、クリスチャンになると一夫一婦制になるために、一人を正当な妻として、他を外に出す事を意味しました。そこで、そのような惨めなやもめが教会にいたことになります。彼女らを教会は助けたのです。

 

7月28日(日)

正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。

一テモテ6:11、12

 

この11節には、冒頭に「神の人よ」との特別な言葉が使われています。テモテへの勧めでありますが、今日の私たちも心して聞きたい箇所です。聖書は真理が書かれているとわかっていても、ではどこを覚えれば、となれば急に膨大な量に圧倒されてしまい、結局は何を心に留めておくべきかもわからずに、漫然と聖書を読んでいるのではないでしょうか。今日の聖句は、私たちが追い求めるものリストです。「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和」この五つをいつも心に留めておきましょう。そして、追い求めましょう。それだけで、クリスチャンライフは充実してくるはずです。そして、重要なことですが、「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい」と書かれています。聖書の真理を実践しようとすれば、たちまち信仰の戦いが始まります。どうすれば良いのかわからずに安易に流されてしまうかもしれません。そんな時に、思い出していただきたいのが、はじめに書いた、追い求めるべき五つの言葉です。「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和」この言葉が一つずつあなたの迷いを吹っ切り、正しい道へと導くでしょう。気がつけば、あなたは神の人と呼ばれているかもしれません。「信仰を表明した」とは、「イエス・キリストは主である」というものであったと思われますが、その背景には教会の信条のような信仰告白があったようです。それは、「我は全能なる神、天地の造り主、ポンティオ・ピラトのもとに苦しみを受け、来たりて裁きたもうイエス・キリストを信ず」というものです。クリスチャンなのに隠れようとする人がいますが、心得違いをしています。私たちは主イエス・キリストの証人なのです。そのために、召されました。それは、まるでさらし者のようです。私たちがそれでもよしとするのは、主がピラトの前で堂々と自分が王である事を告白し、テモテも人々の前でイエス・キリストが王であることを告白し、私たちもイエスに倣って人々のまでキリストは王であると告白するからです。このために召されているのに、何をためらっているかと問われるでしょう。引っ込み思案でも、臆病でも、恥ずかしがり屋でも、キリストのためにできることがあるのです。原宿の歩行者天国で青年たちと路傍伝道をしていた時に、女子たちが、「私たちを救うためにイエス・キリストが来ました」、とか「イエス・キリストはあなたを愛しています」とか模造紙にクレヨンで書いたものを胸の前と背中につけて、路傍に立ったのです。はじめは恥ずかしがっていたのに、彼女たちは交代でそれをつけて街頭に立ちました。風に吹かれて、クレヨンが顔についてしまっても怯まずに、立ち続けたのです。それは神々しい姿でした。この人たちもイエス・キリストは王ですと信仰を表明したのだと思いました。あなたもクリスチャンですから、イエス・キリストは王ですと証言することができますように。

 

 

7月29日(月)

わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。

ヨブ1:21

 

今日から聖書の中で最高の書として名高いヨブ記に入ります。知恵文学の傑作であり、このような書は他に並ぶものがありません。最高の文学であり、哲学であり、専門家も口を極めて賛辞を惜しまない特別の書です。それだけに、ヨブ記を読んだ人はこの魅力に引き込まれてしまうのですが、その上っ面をなぞっているだけの気がしてくるのです。もっと深みを味わいたいと思わされる不思議な書なのです。注解書も多く出ていますが、参考書として一冊勧めるとしたら、『神と人間の書 ーヨブ記の研究史ー 上下巻』ロバート・ゴルディス著、教文館、を紹介しておきたいと思います。ユダヤ教の碩学として有名な学者です。ユダヤ人がどのようにヨブ記を読むのか知ることができます。さて、今日の箇所は、いろいろ考えられる箇所です。確かに人間は裸で何も持たずに生まれてくるのです。それから、与えられた命の日を通して何かしら手にして、所有物が増えていくのです。それは、人間がいろいろな生き方ができることを示しています。日本のような職業選択の自由が保証されている国では、本当にその人がどのように生きたのか本人次第であったと認めることができるでしょう。テレビでお年寄りの家の中を映すことがありますが、荷物だらけで驚くでしょう。それらのどうでもよく見えるものが捨てられないのです。まるでその人が生きた証のようです。しかし、死ねばその人は何一つ持っていくことができないのです。東京のある教会の隅にガラスケースに入った古い皮表紙の聖書があります。ある高名な牧師の聖書です。また、スウェーデンのウプサラ大学には、銀文字聖書がケースに入れられて展示されています。これは説明するのに一冊の本が書けるほどの古い時代の有名な聖書です。東京神学大学の図書館には、古いヘブル語聖書の巻物がやはりガラスケースの中で展示されています。これは、先代の左近教授が昔、イスラエルの骨董商の店先に無造作に置かれていたものを見つけて日本に持ち帰ったお宝です。こうしたものが存在するのは、誰かが所有していたからに他なりませんが、それが誰のものであったのかは忘れ去られてしまうのです。結局、人間は生きている間、主の与えられたものを所有し、楽しみ、そしていつかそれを自分から奪われるのです。ある人は冷蔵庫が壊れて、新しいものが欲しいと願うでしょう。それが手に入った時に主に感謝する人とそうでない人に分かれます。万事が全て同じようになります。主に感謝する人は、主から預かったと思っているので、その使い方も違ってきます。そのようなことが生き方にも違いを生むのです。また、私たちは多くを持ちたいと思いがちです。お金でも食べ物でも、多く蓄えれば安心できると考えるからです。しかし、死んだら何も持っていけないということを知れば、多く蓄えればいいということではないと知ります。それよりも主から預かったものを上手に使って主に見ていただきたいと考えるのです。ですから、それらが奪われた時も、執着していないので上手く対処できるでしょう。そして、ヨブのようにまでなれば、凄みがありますね。主に信頼を置くということがどんな意味であるか、ここでは考えさせられるのです。ご自分の考えをまとめてみましょう。

 

7月30日(火)

サタンは答えた。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うに違いありません。」

ヨブ記2:4

 

天の御前会議にまたしてもサタンが来ました。主はサタンに、ヨブのことに触れて、「お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ」と語っています。サタンが本質的に唆す者であることがここでもわかります。何しろ、神様を唆したからです。それでヨブがこれほどまでひどい目に遭うことが気の毒になります。この地上に正しい人でも災いに遭う理由が少しわかる気がします。しかし、神様がサタンの悪辣な策略に気がつかないわけがありませんから、ヨブに特別の目的を持って、厳しい試練を課したと思われます。今回、二度目にやって来たサタンは、主の御言葉を受けて、ひるむどころかさらに主を唆したのです。その手法が今日の聖句にはっきりと書かれています。自分の命のためならば全財産を差し出す者だっているのだから、今度は、本人の身体に災いを与えてみたら、たちまち、主を呪いだすに違いない、とサタンは唆しています。このように頭の良いサタンは、最初に純粋に神様に反抗した時に、「神は愛であるとは嘘だ」と言ったのです。つまり、この言葉で神様は簡単にサタンを抹殺することができなくなりました。サタンを罰して始末することぐらい簡単であったはずですが、主はそうされませんでした。実際には、この地上世界を創造され、ご自分にかたどって人間(アダム)を創造されたのです。それは、「神は愛である」ことの証明のためでした。神様が初めに人間を愛しました。最初の人間アダムはその愛を受け取り、同じように神様を愛し返しました。愛し愛されで、愛は完成します。そこに、狡猾なサタンが邪魔をして唆したのです。その結果は神様の御言葉を信頼しなかったエバはサタンの唆しに負けました。教会ではよく「従順」という言葉を掲げて信仰者の目標にしますが、それはエバがサタンの誘惑に負けたことが神様への「不従順」であるからです。主への従順を取り戻すことは愛の回復を意味しているのです。ヨブは、試練の中で主を信頼し続けられるか、つまり従順であり続けられるか。今試みられているのです。これは、人間の災いは悪を犯したことへの罰である、という思い込みに対しても正しい理解を与える前触れです。ヨブにとっては、観念的に神への信頼を何があっても揺るがしてはならない、という信仰が友人の登場により、誰が正しいのかというとんでもない議論に発展していくのですが、肉体的苦痛の極限の中で本心で話すしかない状況での迫真の対話となります。逃げることのできない退路を断たれるようなサタンの唆しを十分に理解しておきたいですね。

 

 7月31日(水)

日ごとのパンのように嘆きがわたしに巡ってくる。湧き出る水のようにわたしの呻きはとどまらない。恐れていたことが起こった、危惧していたことが襲いかかった。静けさも、やすらぎも失い、憩うこともできず、わたしはわななく。

ヨブ記3:24~26

 

あなたも悩んだことがあっただろう。軽いものから、死にたいと思うほど深刻に悩むことまで、人間には悩みがつきものだ。ヨブの場合、全財産が奪われ、子供達も皆死に、最後には自分自身が重い皮膚病のために耐え難い痒さと苦痛が絶えず襲った。この世のものとも思えないほど全身膿と血だらけで、妻にまで、「神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言われた。ヨブは、そんな状況のまま七日間沈黙した。そして、ついに口を開いたのだ。それは、自分が生まれた日を呪う言葉だった。いったい、人間をどこまで苦しめていいのだろう。ヨブの信心深さは神も認めていたではないか。それなのに、なぜここまで追い詰める必要があったのだろう。それは、これから友人たちとの議論が始まり、その中でわかるのだろうか、これからの展開が気になる。ヨブは、気が狂いそうになる掻痒感に、「素焼きのかけらで身体中をかきむしった」のだから、痛みが全身を貫いただろう。そのような中で七日も考え続けたのだが、嘆きと呻きが出てくるばかりだった。今日の聖句の中で気になるのは、「恐れていたことが起こった、危惧していたことが襲いかかった」と言っている箇所だ。神の恵みと祝福の中でヨブは実は恐れいたことがあったのだ。本当に危惧していたのだ。なぜだろう。大いに祝福され、信心深くしていたのに、なぜ恐れていたのだろう。東洋一の金持ちになり、あまりにも恵まれていたので不安になったのだろうか。毎日信仰を持って幸せなのに、時々この幸せがいつまで続くのだろう、と不安になってしまうことはあり得る。それは、この世界を悪魔がいて人々を攻撃しているからだ。それで、災害も事故も病気も犯罪も世界のどこにでもある。つまり、悪魔という絶対的な敵がいるので、たとえ腰部のように大富豪になったとしても、手放しで恵まれ続けると信じられないだろう。いつか、不幸が押し寄せてきて、全てを奪ってしまうのではないかと危惧するのではないだろうか。幸福は、静けさと安らぎの中にあるものだ。憩うこともできないでヨブは「わななく」と言った。その恐ろしさは漠然と人間がどこか深いところで感じているものだろう。恐れていたことが本当に我が身に起こった時に、人はなすすべもなく震えているのだ。何かを言おうとしても出てくるものは、わななきだけだ。とうとう、人間が極限まで追い詰められた。もう、立派なことなどいう余裕がない。ヨブという義人が命がけで究極の問題に挑戦することになったのだ。読者であるあなたもヨブのそばに座り、一緒にこの議論に参加することになる。これはどうも長くなりそうだ。