2019年9月ディボーション

9月1日(日)

お前は岩場の山羊が子を産む時を知っているか。雌鹿の産みの苦しみを見守ることができるか。雌鹿はうずくまって産み、子を送り出す。その子らは強くなり、野で育ち、出ていくと、もう帰ってこない。

ヨブ記39:1〜4

 

ヨブ記の作者は天才詩人です。39章を読めばそれがよくわかります。わからなければ、もう一度読み返してみるとわかると思います。神様が被造物を支配しているのですが、それは広大でスケールが桁外れています。ですから、人間の知るところではありません。しかし、創世記では、神の創造された被造物を人間が支配することになっていました。しかし、残念なことに人間は罪を犯してしまったのです。それで、人間が支配していると言えるのは家畜ぐらいなものなのです。さて、この詩の1節から心を掴まれます。人間は子を産む時、今では産科のある病院で衛生的な環境で医師や看護師に囲まれて出産します。しかし、今でも野生では岩場や野原の安全な場所で一匹あるいは一頭で産むのです。誰にも見ていてもらえないで命がけで出産するのです。しかし、神様は見守っているとおっしゃいます。誰かに見守られているって嬉しいことですよね。おそらく、その山羊や雌鹿が出産で死んだとしても、誰にも気づかれずにニュースにすらならないでしょう。しかし、神の摂理の中ですべてのことが起こるのです。野生の動物ですらそうなのですから、ましてや神様に象って造られた人間が放って置かれることはないのです。神様はあなたのことを傍観者の如くに遠く離れて見ているのではありません。あなたのことをいつでも心にかけておられます。驚くほどあなたの近くにおられるのです。あなたを信頼している温かい眼差しが、あなたに注がれています。あなたが生まれた時も主は愛情のこもった眼差しで見守っていたのです。そして、あなたは自分のことをいつでもちゃんと見ていてくださる方がいることを覚える必要があります。その方に自分の生き方を見ていただくのです。それは、あなたが生きていく素晴らしい力になるはずです。決して、いい加減な生き方はしないでしょう。

 

9月2日(月)

ヨブは主に答えて言った。わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。わたしはこの口に手を置きます。

ヨブ記40:3、4

 

もし、私たちが自分の人生に起こったことを神のせいにして、文句を言ったり主を責めたりしたら、一体どうなるだろう。真面目に考えれば怖くなって、決してそんなバカなことはしないと考えるだろうか。ところがどうだろう、私たちは神がどのような理由でこのような事態を許しているのかと簡単に怒ってしまうかもしれないし、疑ってしまうかもしれない。もっとも困った時には助けてくださいと連呼しているだろうが、いかにも自分勝手に見えるだろう。それをいつまでも繰り返して平気でいられるとしたら、果たして大丈夫だろうか。ヨブと友人たちの議論は、平行線を辿ったが、どちらも決して自説を曲げなかった。どちらかが間違っているか、両方が間違っている可能性があるのに、議論が続いたのは、神を正しく理解していないで自分の知識に固執し、神はこうだと断言していたが、主はすぐには断罪しなかったからだ。それは、また、私たちにも当てはまる。だから、油断してはならない。38.39章から40章に至って、神の知識とヨブの知識の差が圧倒的に差があることが明らかにされる。人間の知識はわずかなものでしかない。終末に知識が増えると預言されていたが、果たしてそうなったことを私たちは生活の中で実感として知ることができる。テレビ番組でもクイズ番組が人気がある。そして、知識をいかにもっているかを競っているのを見る。そして、知識を多く持っている者が優位に立つことを知る。そして、誰れもが知識を手に入れたいと思う。知識は権力と結びついているからだ。これはエデンの園でアダムが善悪の知識の木の実をとって食べたことで、神と断絶し、神と敵対関係に陥ったことと無関係ではないだろう。昔、自然科学の授業を受けた時に、その教授は、黒板に大きな円を描き、「これは地球です」と言い、その円の中にチョークで点を打った。そして、こう言った「この点は自然科学でわかったことです。まだこんなにわずかしかわかっていないのです。しかし、やがてこの地球の裏側にまで到達した時に、そこには先に辿り着いている者がいるでしょう。それは神学者です。」とおっしゃった。確かに、私たち信仰者は神を知ろうとしている。神こそが究極の知識なのだ。だから神に近づく者こそが真の知識を得ることができのだ。人間は、この地球上のことでも、ほとんど関心を持たずに知らないことだらけなのだ。それなのに、私たちは、私がこんなに困っているのに神は一体何をしているのか、と自己中心なことを言って、無知をさらしている。神を信じないと言う人たちは、自分の知識に頼っている。しかし、神がこの世界も宇宙も複雑で膨大な知識で支えていることを知らない。善悪を知る木の実を食べて以来、人間はバベルの塔を建てるようなことをやめない。天にまで達して自分が神のようになり、神に対抗しようとしたのだ。それらは神が愛であることを知らないから起こっている。ヨブですら、神を理解していなかったので、神に叱責され、気づかせられているのだ。神の摂理を私たちも理解し、認めたいものだ。

 

9月3日(火)

誰であろうと、私に対決する者に私は報いる。天の下にあるものはすべて私のものだ。

ヨブ記41:3

 

ベヘモットやレビヤタンの描写は、議論の的になります。多くはこの地上に実在する動物であるとしていますが、少数意見にこれを、神が創造したが、やがて敵対しなければならなかった悪の力を象徴しているとし、聖書の世界の古代の神話から生まれたと考えます。そこで、聖書翻訳でも分かれるところとなります。実際に存在するカバやワニと考える者が多いのですが、そうでなく、人間ではかなわない想像上の敵とみなす者もいるわけです。旧約聖書を理解する時には、古代のエジプトやオリエントの影響を考慮するわけです。そして、カバやワニを人間は狩をして捕らえていたことがエジプトの絵画に見られます。現代でもワニ皮のバッグをご婦人が持っているのを見れば、人間の脅威ではないことがわかります。一方、ベヘモットもレビヤタンも圧倒的な脅威なのです。それは、神の被造物であり、神のみが勝てる相手なのです。これは誰か、それはサタンであると言うことができます。古代においてサタンを人間的に表現するには神話の混沌の怪獣、しかも二匹の怪獣として描写するしかなかったのです。のちにサタンと呼ばれるものがここに登場しているのです。神が絶えず見張っている反抗的で手に負えない被造物は人間の扱いを超えているのです。しかし、それを服従させているのが神なのです。その神に、ヨブのように私の取り扱いを間違っているなどと言えるでしょうか。ヨブ記はいよいよ確信に迫ってきました。

 

9月4日(水)

あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。

ヨブ記42:2

 

私たちは神は全能であると言うことの意味を理解していない。それは、人間をはるかに超えた方のことをすべて理解できないからだ。主の御旨は必ず成就する。それがわかっていないことだ。なぜなら、ヨブがしたことも、自分の正しさにも関わらず、悲惨な目に遭ったのは、神がそうしたのだから、神は何故に敵となるのかと思ったのだ。全能の神が存在するので、人に起こることが偶然ではないとすれば、それは摂理と呼ぶ。人間にはわからないことが多い。そこで、神にこうしてほしい、こうでなければ困ると嘆願する。ヨブは、初め神が与えたのだから、神が取るのだ、と摂理を理解していたはずなのに、友人たちによって人間の理屈を聞いた時に、感情的になり神の支配を邪魔したのだ。この世界には悪魔がいる。その悪魔は神に純粋に反抗し敵対したのだ。危険な存在で、凶暴だ。神が人間を創造すると、すぐに人間を唆し神に背を向けさせた。そこで、神は悪の問題、悪魔の問題、そして人間の救済という大きな課題を抱えている。そして、長い時間をかけて神の方法ですべての解決を図っている。だから、神の支配を邪魔してはいけないのだ。人間には到底理解できないことだが、ヨブに無いものを与えた。ヨブは信仰を持っていた。しかし、悪魔の背後での働きを知らなかった。それで、苦難を超えることが難しかった。そこで、神は御子イエスをメシアとして与えてくださった。ヨブがまだ知らなかったことだ。私たちは、悪魔の存在も知り、イエス・キリストを知っている。聖書が手元にあり、祈りの力も知っている。それで、私たちは主は全能であり、御旨の成就を妨げることはできない、と呼ぶ以上に知っているのだ。イエスは十字架で、悪魔にも、罪にも、死にも勝利されたのだ。悪魔は墓を守っていた。三日目にイエスが復活して勝利を確定することのないように。しかし、イエス・キリストは復活したのだ。私たちを救うために。新しい復活の命に生きるために。それを悪魔は妨げることなどできなかった。完敗したのだ。そして、裁きの時が迫っている。主が定めた通りにすべては成就するのだ。

 

9月5日(木)

主の僕モーセが命じた言葉を思い起こしなさい。彼はこう言った。「この土地はあなたたちの安住の地、あなたたちの神、主が与えてくださったものである」と。

ヨシュア記1:13

 

「安住の地」と聞けば、誰しもが願うものと言えます。ここで、「安住」と訳された言葉は、他にも「安全」、「安息」あるいは「平和」と訳されます。これは、心の平和と言うよりは、イスラエルが律法に従って主に従順な信仰を現している時に、国家が安全で平和であるような状況を表現しているものです。列王記などを読まれれば、悪い王様が異教の神々を拝むようなことがあれば、争いが起こり、敵が攻めてきます。それに対して良い王様が偶像を一掃して宗教改革を行い、真の神を拝み出すと、平和が訪れるようなことが起こったことを知ることができます。さて、ヨシュア記はモーセが亡くなりヨシュアへとリーダーが移行します。そして、カナンに侵入して領土を得、それを部族ごとに分けることが書かれています。モーセが主の僕と言われていたように、ヨシュアが主の僕と呼ばわれます。このことでイスラエルの指導者がヨシュアになったことが明らかになります。さて、安住の地は神が与えてくださるものであることを覚えましょう。一生、生まれた土地に暮らす人もいますが、生まれただけで、一生を転々と移り住んで行く人もいます。外国に住むことになる人もいます。アメリカに住んでいた時に、知り合った人は、日本の大手メーカーの社員で海外勤務を長くされて、結局、定年後に日本ではなくアメリカに住まれた方でした。ご主人は仕事で英語が上手になりましたが、奥様はそれほどではなくて、お友達も少ないとおっしゃってました。「終のすみか」と言う言葉があります。それが、老人福祉施設になるかもしれませんが、主が共にいて、信仰があって、信仰の友が覚えて祈っていてくれ、聖霊と共に聖書を読んで生きていけば、そこが安住の地になることでしょう。主が与えてくださると信じて安んじて生きていきたいですね。

 

 9月6日(金)

それを聞いたとき、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。

ヨシュア記1:11

 

エリコの住民は皆、イスラエルの民がエジプトから彼らの神によって脱出して、葦の海を主が分けて道を作り逃したこと、世界最強のエジプトの軍隊とその戦車もろともに海に沈め殲滅したこと、行く手を遮る王たちを打ち破り、迫り来る脅威となっていることを知っていた。もはやエリコの王に勝ち目はなく、民は皆心が挫けていた。私たちが信じる神がいかに強力であるか、その導きには力があり、確実に勝利が約束されている。たとえ、悪魔の軍勢が待ち構えていても、敗北が決まっているのだ。さて、エリコへの斥候は、遊女ラハブの家に逃げ込み、かくまってもらった。イスラエルの脅威に誰もが神経をとがらせている中、城塞都市の中に入ることは危険極まりないことだった。おそらく、ラハブの家以外に誰がこの斥候たちを受け入れてくれただろう。ラハブは、生き残りをかけてイスラエルの味方をすることにした。もはや死が迫っていたのだ。そこで、エリコの王が遣わした者たちを騙して、イスラエルの斥候の命を救った。彼女は明確にイスラエルの神を認め、信仰告白をしている。そして、ラハブは生き残る方法を得た。私たちもこの世で、苦労しながらなんとか生きてきたが、罪一つ犯さない聖人ではない、いやそれどろこかパウロが気づいたように、私たちもまた罪びとの頭なのだ。ラハブは危機の中で真の神を認めた。私たちも何かのきっかけが与えられて、そして自分の意思でこの真の神を認め、信じたのだ。ラハブは主のために命がけで斥候を助け、その見返りに家族も救われることになった。私たちもイエス・キリストを信じたので、家族も救われることを信じている。ラハブの天命はこの日の斥候を助けることだった。私たちにも何かしらの天命がある。それが明らかになる日、ラハブのように勇気を出して、全力でその使命を達成したいものだ。

 

9月7日(土)

ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていたが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、川上から流れてくる水は、はるか遠くのツァレタンの隣町アダムで壁のように立った。そのため、アラバの海すなわち塩の海に流れ込む水は全く断たれ、民はエリコに向かって渡ることができた。

ヨシュア記3:15、16

 

ヨシュアとモーセとの類似がこの章でも明瞭に出てきます。モーセがシナイ山での主の顕現にさいしての儀礼的準備と同じようにヨシュアもヨルダン川を渡る時に典礼的準備を行っています。この二人は、それぞれ密偵を送りました。そして、海を分けて道を作りイスラエルの民を渡らせたことと、今回のヨルダン川を水を奇跡で見えないダムで止めてイスラエルの民を渡らせたことが類似しています。さて、今日の聖句が重要な意味があるのは、ヘルモン山の雪解けによって満水になるのが刈り入れの季節でちょうどこのタイミングだったのです。そうでなければ、普段は歩いて川を渡れるほど浅かったのです。そうであれば奇跡は起こらなかったのです。当時の人たちは、はるか向こうに水が不自然に堰き止められて水がそそり立ち、空中に湖ができたように見えたことでしょう。この出来事は、神の箱とモーセの後継者のヨシュアが主によって奇跡を起こしたことが焦点となっています。このような箇所の注解で地震か何かで土砂崩れが起こり自然に川がせき止められたのだろうと説明する人もいますが、奇跡を信じることができないと告白しているようなものです。今まさに渡ろうとしている時に、運よく地震が起こり満水で勢いよく流れる川を土砂が埋めて止めることができたと本当に考えるなら、そちらの方がよっぽどの奇跡でしょう。このように、聖書を読んでも文字通りに意味を理解できない人たちはいるものです。理性は満足するのかもしれませんが、霊的には何も見ることなく、道徳か倫理のレベルに落としてしまうと、それは聖書を読んだとは言えないのでしょう。自分を超越する存在を認めることができるかどうかは、信仰では、最も重要で不可欠なことなのです。その存在は、人間を遥かに超越しているのですから、その為すことを奇跡と呼ぶのは自明のことなのです。それゆえ、信仰はその存在である神を信じることであるため、奇跡をその神の行為として認めるのです。見なければ信じないと言ったトマスのようにならないよう聖書は警告しています。

 

9月8日(日)

それは、地上のすべての民が主の御手の力強いことを知るためであり、また、あなたたちが常に、あなたたちの神、主を敬うためである。

ヨシュア記4:24

 

観光旅行に出かけると、名所に記念碑があることに気がつきます。そこには、何かの記念に出来事や史実の記憶を残しているものです。そのようなものには全く関心のない人も多いでしょうが、聖書に書かれた古代の記録にも記念に十二部族の数の石、それも奇跡でヨルダン川をせき止めてイスラエルの民を渡らせたその川床の石を拾ってきて、積み上げ、記念としたという記録があるのです。それは、今日の聖句にある通りに、すべての民が主の偉大さを知るためであり、常に神の民が主を敬うためでありました。古代世界では新聞もテレビもインターネットもありませんでした。それなのに、この地域からかなり離れた外国にまで主のなさった驚くべき奇跡が伝わって、人々は恐れたのです。それは、当時の世界一の軍隊であるエジプト軍を考えられない方法で殲滅して、奴隷であったイスラエルの民を救出したからでした。その方法が葦の海を涸らしてイスラエルの民を渡らせて逃がし、追っ手のエジプト軍が葦の海に入ると壁のようにそそり立っていた海水が一気に崩れて溺れさせたです。そのような力ある神に誰も対抗できるわけがなかったのです。そして、再度、今度はヨルダン川の満水期に水をせき止めてイスラエルの民を渡らせました。その時に、神を表す聖なる神の箱がレビ人に担がれて、川の真ん中で立ち止まり、民が渡りきるまでそのまま立ち尽くしたのです。これらの意味は、葦の海の時には、悪魔の軍隊を象徴するようなエジプト軍からその奴隷であったイスラエルの民を水を通らせて救出したので、罪と死と悪魔からの救いを意味する水の洗礼を思い起こさせました。今度は、神の約束の地カナンへ侵入するための奇跡として、ヨルダン川を 涸らして渡らせたのです。これも水の洗礼が神の国へと入るためのものであったことを思わせます。このように、洗礼を受けた皆様は、神の特別な救いをすでに経験なさっています。それは、実感している以上の大きな信仰体験なのです。そこで、神に感謝し、讃美する生活を意識して、さらに大きな勝利を勝ち取ってください。

 

9月9日(月)

彼は答えた。「いや。わたしは主の軍の将軍である。今、着いたところだ。」 ヨシュアは地にひれ伏して拝し、彼に、「我が主は、この僕に何をお言いつけになるのですか」と言うと、主のフンの将軍はヨシュアに言った。「あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なるところである。」ヨシュアはそのとおりにした。

ヨシュア記5:14、15

 

いよいよカナンに侵攻する前に、主は兵隊となる男子に割礼を求めました。それは、割礼をエジプトで受けた者たちが荒野の旅で主に不服従であったためにヨシュアやカレブを除いて皆死んでしまい、荒野で生まれた男子たちは割礼を受けていなかったからでした。そして、過越の祭りを行い、準備が整ってきました。その時に、ヨシュアは抜き身の剣を手にした一人の男に出会います。それが今日の聖句箇所に繋がります。ヨシュアが見たのは、なんと主の軍の将軍でした。この話は私たち信仰者にとっては重要な話で、この地上の信仰の戦いで霊的には主の軍勢が戦っているということです。それは悪魔の軍勢もそこにいるということです。私たちが人を恐れるなと言われているのは、私たちが神様を信じているからです。どのような時も信仰者の祈りに主が耳を傾けていますから、私たちは祈りに慎重になります。人を恐れると不信仰になり、過剰反応してしまうからです。そのような時には時間を空けて主が働かれるまで待つことも必要になります。そして、私たちが結論を間違わないようにすれば、おのずと良い結果を見ることができます。霊的戦いに際して、とても興味深いことが書かれていました。それは、主の軍の将軍が「あなたの足から履物を脱げ」と命じたところです。これは、一つはモーセの召命の時の有名な出来事と同じです。つまり、主のお立てになったリーダーはヨシュアであることを強く印象付けています。そして、もう一つは、靴を脱ぐことは、相手の奴隷になることの承諾です。相手への服従を意味していました。つまり、聖なる主に服従しますという意味があるのです。いよいよ戦いが始まる時、主は、ヨシュアに指示を出しますが、それはばかばかしい命令に聞こえるかもしれないのです。それで、ヨシュアが従順に主のご命令に服従することが霊的に要求されたのです。私たちが主に用いられたいと願うなら、霊的に靴を脱いで主の奴隷になる意思表示が必要です。実際、イエス様が十字架で命を代価として支払い、私たちを買い取ってくださったのです。ですから、私たちはイエス様のものなのです。それは、勝利の人生が約束されていることなのです。ただ、自分が主人になってしまい、主の奴隷であることを忘れると当然のように悪いことを呼び込むようなことになってしまうので注意が必要です。主に従順に仕えて喜びの日を過ごしましょう。

 

9月10日(火)

角笛が鳴り渡ると、民は鬨の声をあげた。民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。

ヨシュア記6:20

 

エリコがどのように占領されたか、書き記したのがこの6章です。ずいぶん前になりますが、日本でエリコ・ジャパンという音楽イベントが七年間続けられました。イベントの名前はこの聖書箇所から取られたものです。日本伝道を阻む厚い壁をエリコの城壁になぞらえて、七日間を七年間にして、毎年音楽イベントを行ったのです。ゴスペル歌手やクリスチャン音楽家が力を合わせて、賛美の力で日本をキリストに勝ち取ろうとした試みです。そのイベントに教会の青年たちと毎年参加しました。青年たちは聖歌隊にも加わって、日本のリバイバルのために頑張ったのです。古い賛美歌ではなく、新しいプレイズやクリスチャン・コンテンポラリー・ミュージックが日本語で広がり、一万人ぐらいのクリスチャンが集まって一緒に歌える統一された歌詞の環境があったのです。七年目にエリコの壁が崩れたように、日本伝道を困難にしている壁が崩れると信じて多くの人たちが立ち上がりました。その頃、甲子園で日本人の手による大伝道集会を行おうと、初めての試みもなされました。私は東京の教会にいたので参加は難しそうでした。ところが神様には別の計画があって、どういうわけか、神戸教会と姫路教会の合同修養会の講師として招かれました。その時が、甲子園ミッションの日だったのです。それで、修養会の帰りに甲子園に向かいました。甲子園球場に近ずくと、なんとも言えない感動がありました。そのように思っていると、前方から拡声器を持った男性が、「この中に牧師さんはいませんか」と叫んでいるのです。そして、その人はどんどん近づき、私を見つけて私を見ながら近づいてくるのです。どうしてわかったのかはわかりませんが、とうとう目の前にその人が来ました。それで、観念して「私は牧師です」と言うと、すかさず腕を掴んで「こっちです」とすごい勢いで引っ張っていくのです。連れて行かれたところには、牧師たちが何人もいて、この大会の奉仕者であることがわかりました。そして、今、献金を集める係として私も奉仕するように言われたのです。そして、イエローのスタッフ用のウインドブレーカーを着せられて、甲子園球場でこの伝道に加わったのです。この頃は、日本に聖霊の風が吹いたのだと思います。リバイバルが起こると期待感が高まりました。しかし、私は留学することになり、帰国した時には悪霊の巻き返しが日本を覆っていて、リバイバルの火が消えかかっていたのです。日本伝道の難しさは、誰もが認めていますが、それだけ日本をキリストに勝ち取れば、それが再臨へと道を開くと思います。霊的に重要な場所に私たちが置かれていることを覚えましょう。そして、今度こそ、日本の城壁を崩して勝利したいと思います。

 

9月11日(水)

イスラエルの神、主が、「イスラエルよ、あなたたちの中に滅ぼし尽くすべきものが残っている。それを除き去るまでは敵に立ち向かうことはできない」と言われるからである。

ヨシュア記7:13

 

私たちはクリスチャンになって、霊的なことに目覚めさせられます。今までは知ることのない真理ですが、信仰によらなければ決して理解できないことでした。今日の聖句もそのような神秘の一つです。イエスラエルがエリコの城塞都市に比べれば、大したことのない楽勝間違いなしの次の敵であるアイに大敗するという恐ろしいことが起こったのです。カナンの先住民はいくつもの民族によって棲み分けされていたのです。それらのカナン人たちは、イスラエルを恐れていましたから、戦意喪失状態でパニックに陥っていたのです。それだけでイスラエルの勝利は決まったも同然でした。ところが、大きな敵ではなく、小さな敵によもやの大敗を喫してしまったのです。それは、瞬く間にニュースとしてカナン人たちの知るところとなるでしょう。そうなれば、アイにすら負けるようでは、イスラエルは本当は弱いのではないか、それならみんなで連合してイスラエルを打とうではないか、と士気が上がってしまいます。そうなれば、イスラエルでも勝てないでしょう。しかし、なぜ主の軍勢であるイスラエルが負けたのでしょう。何か、不気味なことが知らないうちに起こったに違いありません。それは、アカンが「滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取った」ことが原因でした。神様は敵のものは何もかも滅ぼし尽くして決して分捕りものにしてはいけないと命令していたのですが、アカンはつい欲が出て盗んだものを隠していました。それで、主は怒りを発したのです。これは実に霊的教訓です。私たちは、自分が罪人であることを自覚させられて、イエス・キリストの十字架の贖いによらなければ罪の赦しがないことを知りました。そして、悔い改めてイエス・キリストを信じました。そのことはバプテスマを受けることで古い人に死に、新しい人として命を受けてクリスチャンとなったわけです。そこで、古い人に関わるものを取り戻してはいけないのです。それで罪人に逆戻りしないためです。私たちはクリスチャンになった後にも、まだ古い肉が死んでないと、聖霊の御力で古い人を殺していくわけですが、実際には、その人の心に隠し持っている罪です。そして、罪に結びつく欲です。また、自分が赦していないことです。あるいは、古い性質です。肉を満足させるものといえば分かるでしょうか。その人固有の罪に関わるはなはだ悪性のものです。それらは全てサタンにつながるものです。ですから、一つも例外はありません。どんな小さなものでもアウトなのです。事実、アカンも彼の家族も石で撃ち殺され、彼の持ち物も全て焼かれたのです。それで、主の激しい怒りがやんだのです。ですから、クリスチャンが甘く考えていると自滅する危険があります。主が聖なる者になりなさい、とおっしゃれば従うのみです。あなたがまだ何か捨てていないもの、隠し持っていてはいけないものがあれば、すぐに処分しましょう。あなたは、すでに神の子と呼ばれているのですから、悪魔に勝利するために躊躇してはいけません。

 

9月12日(木)

主はヨシュアに言われた。「恐れてはならない。おののいてはならない。全軍隊を引き連れてアイに攻め上りなさい。アイの王も民も町も周辺の土地もあなたの手に渡す。・・・あなたは、町を裏手からうかがうように伏兵を置け。」

ヨシュア記8:1、2

 

戦争で重要なことは戦略です。そのための専門家が軍師です。三国志にも軍師の活躍が出てきますが、驚くことに、ヨシュアに作戦を教えた軍師は主ご自身でした。七章の失敗がまるで作戦の一部のように生かされています。イスラエルが犠牲者を出すことなく、完全勝利に終わります。信仰の道も同様に、主に祈って聞きながら進むものです。自分勝手にすれば、それはうまくは行きません。失敗するか、困難な問題の中に自ら突入して出れなくなるようなことが結果として避けられません。信仰が未熟なうちは独りよがりな考えで主に確かめることなく、自分勝手に決めてしまう人が少なくありません。それで、従順に主に従うようになるまで、訓練が続きます。その時に、「恐れる事」が最も悪い結果になります。主には作戦があります。それを守れば、百戦百勝です。そのために、主に聞くことが大切です。それから「知恵」が大切です。「知恵ある人はひとりで勇士たちの町に上り、その頼みとする砦を落とすこともできる」(箴言21:22)とある通りなのです。信仰の戦いは続きますが、勝利の道も備えられていることを覚えましょう。

 

9月13日(金)

ヨシュアはギブオンの住民を呼び集めて、彼らに言った。「お前たちはなぜ、我々を欺いて、遥かな遠い国から来たと言ったのか。お前たちは今、呪われて、奴隷となり、お前たちの間からわが神の宮の芝刈り、水くみが絶えることはないだろう。」

ヨシュア記9:22、23

 

聖書の中に不思議な因縁のようなものを見つけることがある。その一つがここに出てくるギブオンだ。後に出てくるダビデ王の時代に、三年もの飢饉が起こった。その理由を主に問うと、サウル王がギブオン人を殺したために、サウル王とその家に流血の罪を負っているというものだった。また、ソロモン王の記録にもギブオンが出てくる。「王はいけにえをささげるためにギブオンへ行った。そこに重要な聖なる高台があったからである。」(列王記上3:4)。そして、ギブオン人同盟の第四の町は、キルヤト・エアリムであった。主の箱をペリシテから取り戻したが、エルサレムへ運び入れるまでに実に二十年もキルヤト・エアリムに置かれていたのだ。「主の箱がキルヤト・エアリムに安置された日から時が過ぎ、二十年を経た。イスラエルの家はこぞって種を慕い求めていた。」(サムエル記上7:2)。今日のヨシュア記9章の記録は、この時にとどまるようなことではなかった。主にギブオン人が偽って協定を結ぼうとした時に聞いていれば、後の歴史は大きく変わっていた可能性が高い。それは、異教徒の宗教との関わりの道を残してしまったからだ。二王国になって、ユダ王国とイスラエル王国に分かれた後、異民族の宗教的伝統との融合が避けられずに、結局国は滅んで行くことになった。主が初めに言われた通りに、カナン人たちを全て追い出していれば、全く違った物語を私たちは読むことになっただろう。それは、今読むものよりもよほど祝福に満ちていたはずだ。私たちも、主にすぐに聞く姿勢を身につけていなければ、いらない回り道をするかもしれないし、それはかなり危険な道となるだろう。

 

9月14日(土)

ヨシュアは兵士全員、すべての勇士を率いてギルガルから出陣した。主はヨシュアに言われた。「彼らを恐れてはならない。わたしは既に彼らをあなたの手に渡した。あなたの行く手に立ちはだかる者は一人もいない。」

ヨシュア記10:7、8

 

聖書を学ぼうとするなら、聖書地図は必須です。面倒がらずにカタカナの地名が出た時にはその場所を探してみましょう。そうすると、どんなことが起こったのか理解が深まります。聖書地理を扱った書籍もあります。あまり専門的になればつまらなくなるかもしれませんが、ヨシュアたちが辿ったヨルダン川からエリコまではそれほどの高低差がありません。ところがエリコからアイに向かおうとすると、まるで山登りです。それも尾根づたいに山をいくつも超えていく感じになります。パレスチナは高低差が極端に大きな地形なのです。さて、今日の箇所は、ギブオンがイスラエルと条約を結んだことにより、近隣のアモリ人の王たちが慌てたことから事件が起こります。アモリ人の五人の王たちは連合してギブオンを撃つことになりました。それは、ギブオンがエルサレムに近かったこと、そのほかの領地の王たちは後のユダ王国の領土の中にあったのです。そして、ギブオンはギルガルにいるイスラエルの本隊とアモリ人の王たちの領地を分けるちょうど真ん中に位置していたのです。アモリ人の連合軍はギブオンに向かって陣を敷きます。一方ギブオンはイスラエルに援軍を要請します。ヨシュアの動きは果断で、森林地帯に隠れて24キロの距離を夜通し踏破します。そして、アモリ人の軍隊は突然イスラエル軍が急襲を掛けたのでパニックに陥りました。そして、ヨシュアに主が約束した通りに、天からも敵軍を巨大な雹が襲い、天から大石が降ってきたかのような有様で、大勢の者が死んだのです。ヨシュアは主の命令を実に忠実に守り、徹底的にカナン人を掃討して行きます。それでも、敗残兵が各地でテロリストになって、悩ませることになります。今日の聖句は、主の御言葉が出てきます。「あなたの行く手に立ちはだかる者は一人もいない」。この御言葉は今日も有効です。祈りの中で勝利し、主の御言葉に信頼して行けば、誰も行く手に立ちはだかることはできないのです。勇気百倍で困難も乗り越えることができます。主が行けと言えば行き、止まれと言えば止まるだけです。ただ、中途半端はダメです。主を信じましょう。勝利は主から来ます。

 

9月15日(日)

ハツォルの王ヤビンはこの事を聞くと、マドンの王ヨバブ、シムオンの王、アクシャフの王、さらには北部産地、キネレトの南アラバ、シェフェラ、西方のドル台地の王たちに使いを送った。・・・彼らは全軍を率いて出動したが、それは浜辺の砂の数ほどの大軍となり、軍馬、戦車も非常に多かった。

ヨシュア記11:1、2、4

 

20章で南部の戦いに完勝し、そのことが北部のハツォルの王の耳に達した。彼は、すぐに北部の王たちに連絡し、連合軍を作りイスラエルと戦うことにした。数の話で言えば、イスラエルは負けていた。そして、最新兵器でも圧倒的に不利だった。ところが、主がヨシュアを励ました。「彼らを恐れてはならない」。主が勝利を約束すると、ヨシュアは果敢に行動に出た。それは、南部の戦いと同じように奇襲作戦であった。圧倒的に不利なはずのイスラエルが、急襲の戦略で敵の大軍を粉砕したのだ。そして、主の命令通りに、「彼らの馬の足の筋を切り、戦車を焼きはら」った。イスラエルの勝利は、主が戦ってくださったことによる勝利だった。そのため、馬や戦車という戦争に有利となる最新兵器を破壊した。それは、主に対する信頼の証でもあった。ただ、逃げ延びた敵の兵士たちは、ゲリラのようにイスラエルに抵抗し続けたので、完全な決着は長引いたようだ。しかし、これですべてのカナンの先住民を駆逐したわけではなかった。ただ、ヨシュアの功績は大きく、南北の王たちを平らげて、イスラエルのカナン定着の基礎を築いたのである。地図がない人のために、補足すると、南の王たちとの戦いは、地図で見ると死海の左側、地中海側での戦いであった。また、北部での戦いは、ガリラヤ湖(キネレト湖)のやや上のハツォルから地中海側とさらに北、ヘルモン山まで、ここは現在のイスラエルとシリア、レバノンの国境が出会う場所である。主はご計画があり、それは重要なことなのだが、それを実行するのは人間である。そのために、主の命じたままに忠実にことを成就する者が必要になる。主はモーセに命じ、モーセはヨシュアに託した。そして、ヨシュアはそれをことごとく成就した偉大な人物だった。私たちも、主のご計画に組み込まれている。まだ、何をすれば良いのかわかっていない人も多いだろう。しかし、主はあなたの役目を用意している。それがわかったら、果断に使命をやり遂げる必要がある。そのために、今は待っている準備期間なのだ。エフェソ6:10以降の神の武具の必要性がきっと理解できるはずだ。それは、信仰による霊の戦いである。主イエス・キリストが私たちのためにすでに勝利してくださっているので、何も心配することはない。人間的な考えに陥らないことだ。主によって勝利が決まっている戦いであるのだから、安心していればいい。

 

9月16日(月)

ヨシュアの率いるイスラエルの人々がヨルダン川のこちら側、すなわち西側で制服した国の王は次のとおりである。・・・計三十一名の王である。

 

ヨルダン川を挟んだ東側と西側に分けて、征服した王たちのリストが12章です。そして、西側に多くの領土を得ていったのです。それは、王のリストの多さでもわかります。そして、そのすべての経緯が聖書に書いているわけでは無いのです。私たちは、戦争のことはよくわかりません。ましてや古代のことなど現代人の理解では、到底わからないことが多くあるはずです。その中で、私たちが何か教訓を得ようとすれば、霊的な比喩としての理解です。教会成長学という新しいジャンルの研究で一躍世界で有名人となったピーター・ワグナーは、聖霊のバプテスマが現代にも現実のものとして存在することを知り、そのことを多くのキリスト教会では受け入れがたい偏見が根強くあることを経験します。そこで、どの教会でも受け入れやすい祈りを強調するようになります。聖霊と祈りには深い関係性があるからです。そして、教派を超えて、聖霊の働きに気がつく人たちが集まり、祈りによる霊的戦いが始まって行ったのです。そこで、一つの仮説が出てきました。それは、地域ごとに支配する悪霊がいるということです。その悪霊がいる限り、伝道は進まず、既存の教会も発展しないというものです。そこで、聖書にあるように、キリストを信じる者に与えられるしるしとして悪霊を追い出すことができる、ということもあって、また霊の賜物でも霊を見分け、追い出す権能を持っているクリスチャンがいることも事実であることから、祈りのグループを作って、組織的に悪霊を追い出してミニストリーが始ったのです。それは、まさにヨシュアたちがやった王たちの討伐です。徹底的に追い出さないと、いつまでも戦いが続くことを覚える必要があります。このような働きがすべての教会で行われていたら、日本はリバイバルが起こったことでしょう。未だ、パワースポットだとはしゃいで悪霊の住処にわざわざ行く無知な日本人の多いことに驚きますが、日本人の無神論者は三割にも満たないのです。七割以上が宗教心があるのですから、伝道が進まない理由は、やはり霊的な支配者が地区ごとにいることが考えられます。私たちが置かれた場所で悪霊を追い出していけば、神の国の領土が広がるのです。ただ、安易にやらずに必ず主に聞いてから、御心ならば始めれば良いと思います。

 

9月17日(火)

モーセはレビ族に対しては嗣業の土地を与えなかった。主の約束されたとおり、彼らの嗣業はイスラエルの神、主御自身である。

ヨシュア記13:33

 

カナンに侵入したイスラエルは先住民族との戦いを続けることになった。彼らを追い出すことこそがイエスラエルが定住する方法だったからだ。主の戦いでもあったから、彼らは土地を取得し、それを部族ごとに分けることが始まった。イスラエルには十二の部族があったが、レビ族だけは土地をもらえなかった。それは、彼らが主に直接仕える役割を与えられたからである。自分の土地を持ち、それを嗣業の土地として子孫に残すことはイスラエルの民の念願だった。そして、それを主がアブラハムに約束してからどんなんに待ち望んだことだろう。エジプトの奴隷になってからは、あきらめの気持ちが支配していたはずだ。それが、劇的にモーセがたてられ主は生きておられることがはっきりわかる奇跡が起こり、彼らは驚異の民として恐れられることになった。イスラエルの神を恐れたのだ。そして、主は約束を守り、ヨシュアもよくやった。待望していた嗣業の土地がいよいよ本当に彼らのものとなっていった。しかし、土地をもらえなかったレビは、主の約束により、主に燃やしてささげる献げ物がレビの嗣業となった。そして、他の部族がいただいた嗣業の土地以上のものをいただいた。それは、主御自身だった。私したちも、イエス様が命をくださったので、生きる者となれた。これこそが私たちの嗣業なのだ。だから、胸を張って、イエス様の命にふさわしく喜んで生きることにしよう。

 

9月18日(水)

ヨシュアはエフネの子カレブを祝福し、ヘブロンを嗣業の土地として彼に与えた。ヘブロンはケナズ人エフネの子カレブの嗣業の土地となって、今日に至っている。彼がイスラエルの神、主に従いとおしたからである。

ヨシュア記14:13、14

 

一つの国にはそれぞれの建国物語があります。イスラエルにもそれがあり、驚くことに世界中の人が知ることが容易にできるのです。つまり、聖書に記録されているからです。そして、建国にあたっては、勇者が不可欠で、いわゆるヒーローがいます。ここに出てきた、カレブもその一人です。教会では子供でも知っている名前です。そのカレブが土地割りが進む中ではじめてヨシュアに、昔「モーセが誓って、『あなたが踏み入れた土地は永久にあなたと、あなたの子村の嗣業の土地とになる』と約束しました」と約束の履行を申し入れるのです(申命記1:36参照)。その約束のきっかけがカナン偵察をモーセが命じた一人がカレブだったことによりますが、他の者たちは悪い情報を流して民の気持ちを挫いたのです。カレブはその時も、敢然とカナンが良い土地であり、カナン人に勝利できると断言したのです。信仰は、このように試されるものです。主に従い通すかどうか、人間的に考えて消極的になるなら、信仰はいらないのです。主が行けと言えば行き、主が取れと言えば取るのです。そのような者を主は忘れるはずがありません。ダビデ王物語を読めば、カレブが嗣業の土地としたヘブロンがいかに重要な場所になるかよく分かります。ダビデがユダの王になった場所こそヘブロンだったのです。

 

9月19日(木)

ただし、ユダの人々はエルサレムの住民エブス人を追い出せなかったので、エブス人はユダの人々と共にエルサレムに住んで今日に至っている。

ヨシュア記15:63

 

イスラエルのカナン侵入により、侵略地を各部族毎に割り当てられましたが、ユダ族も氏族毎にくじで土地が割り当てられます。ここでは、ユダ族だけが詳細に町の名が列挙されます。聖書を読まれた読者は、ユダヤ人の優位にあり、まさにユダヤ人(ユダのという意味)の物語と映るでしょう。地名について位は、ここにしか出てこない地名もありますがダビデ王物語の中でもいくつか見つけることができます。そして、イスラエルの土地制度も時代によって変遷し、明確ではありません。この境界線にしても、西の海側にはペリシテの都市国家が支配していましたから、記録にもそのことをうかがわせる記述になっています。45節から47節にそれが見えます。ここにはそれまでの記述と違って合計いくつと数字が出てきません。ただ、地名が書かれているのです。ペリシテという名前はもちろん出てきませんが、明らかにペリシテの住んでいる所なのです。さらに厄介なことは、カレブの問題です。カレブとヘブロンの問題です。これが厄介なのは、関連する他の聖書の伝承がほとんど一致していません。カレブが巨人の子孫を追放したことが15章14節に出てきますが、士師記1:10~11では、それはユダによるものとされています。すでに読んだヨシュア記10:36、37でヨシュアによるヘブロンの攻撃と全住民を滅ぼし尽くした記録があります。それに、同11:21には、「ヨシュアは攻め込んでアナク人を山地、ヘブロン、デビル、アナブから、ユダの山地およびイスラエルの山地から一掃した。ヨシュアは彼らをその町もろとも滅ぼし尽くしたのである。」と書かれています。そして、ヘブロンがカレブの所有であることが二度に渡って書かれているのです。これが、読者が想像しているよりもはるかに古代のものであることを忘れてはいけないのです。カナン侵入が果たせた功労者はヨシュアとカレブであったことは間違いありません。そして、ここでカレブがヘブロンを報酬として受けたことが記録されるべきことだったのです。

 

9月20日(金)

ヨセフの子孫がくじで割り当てられた領土は、エリコに近いヨルダン川、エリコの水の東から荒れ野を経て、山地を越えてベテルに至る。

ヨシュア記16:1

 

イスラエルの民がカナンに定住するにあたり、十二部族で割り振ることになった。正確にはレビは嗣業の土地を与えられなかったので、十一部族が嗣業の土地を分けなければならなかった。その時の方法が「くじ」だった。なんとなく、私たちは「くじ」なんていい加減な方法で土地を分けたものだと驚いてしまう。しかし、聖書を見ると、「くじは膝の上に投げるが、ふさわしい定めはすべて主から与えられる」(箴言16:33)とあり、偶然であるとか、運がいいか悪いあである、といったことではなく、ただ主の決められた通りになる、という神聖なものだった。そして、さらに「くじはいさかいを鎮め、手ごわい者どうしも引き分ける」(同18:18)とあるのだから、土地割りで争いにならずにすむ方法だったのだ。そして、ユダの土地割りやカレブの土地取得が特別であったように、今度はヨセフの子孫が出てくる。それは、エフライムとマナセの二つである。本来、ヤコブの十二人の子供がそれぞれ部族の長として発展してきたのだが、創世記を読むと、ヨセフが特別であったことは明白である。そして、ヨセフは他の兄弟に妬まれて殺されそうになり、結果的にはエジプトの奴隷にされてしまった経緯がある。その後、主の不思議な取り扱いがあって、エジプトで王の次の位にまで出世する。この出来事のために、ヨセフは他の兄弟より二倍の祝福を得た。それは、ヨセフの二人の子供である、エフライムとマナセがヤコブから祝福を受けたことによる。そして、イスラエルの中でも一番大きな領土を得ることになった。さて、くじは、十二使徒の中で裏切り者のユダが死んだ後に、その補充をくじで決めていることから、新約聖書でも神聖な主の定めであると理解されていたことがわかる。私たちは、だからといって何でもかんでもくじで決めようとは思っていない。話し合いで決める場合もあれば、祈って決めることもある。主を信頼して、委ねることもしばしばだ。だから、くじで決めることはほとんどないだろうが、主の御心を求める信仰があるので、どうしても神意がわからない時には、くじを引くこともできるだろう。ただし、神聖なことなので、その決定には絶対服従しなければならないだろう。そこで、私たちは、安易にくじを引くことはしないだろう。それでも、まず祈りによって主の御旨を求めて決めることはいつものことであるべきだ。

 

9月21日(土)

マナセ部族もくじで領地の割り当てを受けた。マナセはヨセフの長男である。マナセの長男マキルは、ギレアドの父で、戦にたけ、ギレアドとバシャン地方を手に入れた。

ヨシュア記17:1

 

NHKでブラタモリという番組が人気です。ヨシュア記を読んでいると、カナンの土地をイズラエルがくじで割り当てを決めているのですが、そこに出てくる地名からブラタモリで解説して欲しいと思ってしまいます。カタカナの地名で、土地勘がなく、ましてや映像でもあれば、まだ様子が理解できるが、想像もつかないとなれば、ただ眠くなるだけの箇所になってしまいかねません。実際には、ヨセフの子供であるエフライムとマナセが大きな割り当てを受けているのですが、エフライムは一回のくじでの割り当てでは人数が多すぎて足りないと訴えています。結局山地を多く受けたからですが、開墾すれば良いとヨシュアは言います。そして、平野部はもともとカナン人が住んでいたのですから、それを追い出すのは簡単ではなかったのです。皮肉にもイスラエルは、現代にもう一度パレスチナ人を追い出して、自分たちの土地としたのですから、恐るべき執念のように映ります。平野部の先住民たちは、鉄の戦車を持っていたというのですから、一時代進んでいたことがわかります。太平洋戦争で、本土決戦に備えて、日本人は竹槍で教練を続けていたのですから、アメリカ軍にまともには立ち向かうこともできなかったのですが、エフライムの代表がヨシュアに訴えるのも理解できます。それに対して、ヨシュアはきっと勝てると励ましています。実際に、イスラエルの土地割りの中に実効支配できなかった箇所が混じっています。カナン人を追い出すことがいかに難しいことであったかわかります。それを現代でもイスラエルとパレスチナの争いを見ていればよくわかります。歴史は繰り返すとはよく言ったものです。

 

9月22日(日)

 

ヨシュアはイスラエルの人々に言った。「あなたたたちは、いつまでためらっているのだ。あなたたちの先祖の神、主が既に与えられた土地を取りに行くだけなのだ。

ヨシュア記18:3 

 

既に、ルベン、ガド、ユダ、エフライムとマナセは土地を与えられその嗣業の地が決まりましたが、祭司の嗣業を受けたレビを除く残りの部族がそのままになっていました。そこで、ヨシュアは彼らを励まし、土地の調査を命じ、それを7分割して、くじで割り当てることになりました。今日の聖句は、私たちにも大きなチャレンジです。なすべきことがあるのに、躊躇してなかなか着手できないでいることがあります。クリスチャンなので、祈って、主の御心を求め、そしてなすべきことを知っていながら、いつまでもぐずぐずしていて、決着をつけられないことがあるのです。しかし、神様に祈って決めたことなら、ためらうことなくすぐに行動すべきです。行動力のある人は、困難が逃げ出します。そして、「できない」という言葉を「できた」と言いかえることが可能なのです。ラグビーの奥選手はそのような人だったそうです。外交官になり、どんな人とも仲良くなり、どんな困難をも乗り越えた人として尊敬されていました。残念なことに、イラクでテロリストに撃たれて亡くなりました。生きていてほしかったと彼を知る人は皆涙を流しました。その奥氏が日本でラグビー・ワールドカップを行おうと発案し、それが今実現しているのです。信仰者にとって、今日のヨシュアの言葉は忘れてはならないはずです。信仰で着手すれば、御心にかなうものであれば、困難に見えても既に成功は主によって約束されているのです。ですから、結果が分かっているチャレンジだと理解できれば、いつまでもためらっているはずはありません。あなたのなすべきことをこれ以上先送りにするのはやめましょう。そして、信仰を持ってすぐに始めましょう。

 

9月23日(月)

シメオンの人々の嗣業の土地はユダの人々の領土の一部であった。ユダの人々への割り当て地が多すぎたため、ユダの嗣業の土地の中にシメオンの人々は嗣業を受け継いだのである。

ヨシュア記19:9

 

新共同訳聖書をお使いの方は、最後に出てくる付録の聖書地図の3番を見ると、部族ごとの土地割りが一目で見ることができます。そして、今日はシメオンが出てくる聖句を取り上げました。それは、旧約聖書中にシメオンの役割が何であるかとらえどころがないのです。そして、シメオンが土地割りの時に、ユダの嗣業の土地とされたところの下の方に付け足したかのように出てきます。そこで、シメオンはユダに吸収されて行ったのではないか、との推測をする研究者も出てきます。シメオンの嗣業の土地のリストを見てみると、ベエル・シェバやツィクラグなど聞いた覚えのある名前も出てくるのです。実際、ベエル・シェバは、考古学上の発掘で、分裂王国時代にはユダの南方の重要な要塞都市であったことが分かってきました。サムエル記上27章には、ダビデがガテのペリシテ人の王アキシからツィクラグを与えられ、ダビデの将来に関わる重要な都市となりました。このように、旧約聖書に馴染んでいる人には、見覚えのある地名が出てくるでしょう。そして、聖書地図を見て土地割りをイメージすれば、海沿いの平野を与えられた部族もあれば、ヨルダン川と平行に連なる中央山地が割り与えられた部族もあり、またヨルダン川の東側に土地を得た部族、そして、新約聖書のガリラヤ湖のさらに上の方にまで土地割りがなされていることがわかります。このようにして、シロの会見の幕屋の前で、くじを持ってすべての嗣業の土地割りが決定したのです。私たちも住む場所があります。それは、生まれ育った場所であったり、故郷を遠く離れて縁もゆかりもない場所に住むこともあります。クリスチャンは、偶然とは言わないで神の摂理と考えていますから、主の御心にかなった場所に住んでいると信じます。私は、転勤族でしたから、十数回は引越しをしました。そして、つくづく思うのは、私は結局この世の寄留者で、放浪者のようだが、本国は天にあるのだなぁ、と思います。それだけに、国籍のある天国へやがてたどり着きたいと思うのです。

 

9月24日(火)

モーセを通して告げておいた逃れの町を定め、意図してでなく、誤って人を殺した者がそこに逃げ込めるようにしなさい。そこは、血の復讐をする者からの逃れの場所になる。

ヨシュア記20:2、3

 

聖書に逃れの町が定められていたことを思う時、確かに必要な措置だったと気付かされます。人間は実に過ちを犯すものですが、わざとではなく、悪意もないのに間違って人を殺してしまうことが実際に今でも起こるのです。高齢ドライバーのブレーキ踏み間違いで不幸な死者が出ることもニュースで見て、暗澹たる思いにさせられます。工事現場の事故死も注意しているのに起こってしまうことがあります。自分が飼っている牛のような家畜が角で隣人を突いて死なせるようなことが起これば、隣人の家族や親族は悲しみが怒りになって、隣家に復讐しに押しかけてしまうかもしれません。ですから、裁判にかけるまでリンチを防ぐ方法がこの逃れの町の制度でした。現代では、国が正義を法律に基づいて執行するようになり、死刑制度を持っていたのですが、死刑廃止が世界的に進められ、議論を呼びます。凶悪犯罪が増加すると、死刑を復活させる国も出てくるわけです。それは、家族や近親者の感情を配慮していることも含まれています。9節の背景になる聖書箇所は、出エジプト記21章12~14節にあります。

 

9月25日(水)

主はまた、先祖に誓われたとおり、彼らの周囲を安らかに住めるようにされたので、彼らに立ちはだかる敵は一人もなくなった。主は敵を一人残らず彼らの手に渡された。

ヨシュア記21:44

 

イスラエルは、ついにすべての者がカナンに定住することができました。敵をことごとく打ち破り、追い出して、町や村に放牧地までも手に入れたのです。そして、それぞれの住むべき土地が公平に分けられ、嗣業の土地を与えられなかったレビ族もそれぞれが住むべき町を分けてもらいました。もはや、イスラエルの前に立ちはだかる敵は無くなったのです。私たちも、霊的戦いの中に置かれているので、主がイスラエルの「周囲を安らかに住めるようにされたので、彼らに立ちはだかる敵は一人もいなくなった」、と書かれている箇所は、大いに励ましとなります。霊的に敵である者たちがたとえ私たちの前に立ちはだかったとしても、主は彼らに勝てるようにされるので、ついに安らかに住めるようになるのです。もし大変な目にあっていたとしても、心配することはありません。たとえ時間がかかっても、勝利は決まっているのです。信仰によって忍耐すれば、道はおのずと開けていくのです。祈りの中で勝利することができれば、現実に勝利がやって来るのです。簡単に勝利を信じられる人はいいのですが、普通は、不安や怒りと戦わなければなりません。信仰が崩されると立ち向かうことはできませんから、祈りが重要になります。主にしか言えないことがあるからです。肉的な祈りは意味がありません。聖書を読んでいるだけでは文字をなぞるような祈りになるかもしれませんが、効果が期待できません。聖書を理解することは、生活の場で御言葉の真理を適用する必要があります。読みぱなしは益がないということですね。せっかく聖書の意味がわかったのなら、それを自分の生活でどのように適用していくのかが問われます。それができて来ると、目に見えて信仰が強くなります。それは、霊的な戦いの勝利を約束することでもあるのです。聖書の実例で勝利が語られていることを覚えて、勝利の生活を送りましょう。

 

9月26日(木)

ただ主の僕モーセが命じた戒めと教えを忠実に守り、あなたたちの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めを守って主を固く信頼し、心を尽くし、魂を尽くして、主に仕えなさい。

ヨシュア記22:5

 

主を愛することは、私たちの信仰そのものなのです。ヨシュアがトランス・ヨルダンの諸部族がヨルダンを再度渡るために出発する時に、彼らを祝福した言葉が今日の聖句です。律法の遵守が語られ、それと同時に主を愛するように命じています。私たちは、イエス・キリストを通して神の愛を知りました。そして、その愛が自分に向けられていることを知り驚いたのです。何の誇るべき功績がなかったからです。むしろ神への負い目しかありませんでしたが、その完全な解決がイエス・キリストの十字架によることを理解したのです。そして、それこそが神の私たちを愛することの証拠だったのです。その愛に促され、死んでいた自分が生き返り、主を愛する者へと生まれ変わったのです。私たちは、律法の遵守によって自分の義を立てることの不可能を学びました。ただ、イエス・キリストを信じて、恵みとして義とされることを知りました。そこで、私たちは、主を愛することが、結果として律法を満たしていくことも理解しています。このヨシュアの言葉がルベン人やガド人、マナセの半部族だけではなく、今日の私たちにも有効なのです。ただし、それはイエス・キリストによるのです。それは、明らかに主を十字架につけたユダヤ人宗教家とは違って、主に尽くし尽くす仕える生き方です。それを主を愛すると言っているのです。つまり、動機が義務ではなく、愛であるということです。そのことを時々忘れがちなクリスチャンには今日のヨシュアの言葉は目につくところに貼っておきたいぐらいの聖句なのです。

 

9月27日(金)

わたしは今、この世のすべての者がたどるべき道を行こうとしている。あなたたちは心を尽くし、魂を尽くしてわきまえ知らねばならない。あなたたちの神、主があなたたちに約束されたすべての良いことは、何一つたがうことはなかった。何一つたがうことなく、すべてあなたたちに実現した。

ヨシュア記23:14

 

ヨシュアは年をとった、そして死期が近ずいた時、遺言のように言葉を残した。それは、カナンを侵略し始めて、長い年月が過ぎ、未だにすべてのカナン人を追い出すことができず、確かに十二部族がそれぞれ土地を得て定住できたことは事実だが、完全に完了するには道はまだ遠かった。そして、カナン人がそこにいるために、異教の文化や習慣がイスラエルを同化し、異教の神々を拝み始める可能性があるということだった。具体的には、カナン人との婚姻が最も考えられることだった。しかし、イスラエルがカナンに定着することができた事実は大きい。それは、奇跡的で神の御力によらなければ不可能なことだった。初めはエルサレムだって取ることができなかったのだ。しかし、ヨシュアにとって気がかりだったのは、すべての民が心を尽くし、魂を尽くして神を愛し、主に仕えることだった。それは、ヨシュアが知っている通りに、主は約束を必ず守られること、主はイスラエルのために戦われること、それを認めて、主の戒めを守り、主を愛することだ。ヨシュアは知っていた。そうすれば、皆が主に祝福され幸福に生きることができることを。ただ、主に聞き従わなかった者、逆らった者たちは、主の怒りを受けて滅んでいったことを見てきたのだ。だから、ヨシュア亡き後に、祝福されるか災いを受けるか、彼ら次第であることを告げておかなければならなかった。私たちも同様である。信仰は必ず報われる。だから、主に逆らってはならない。自分が主を愛する者であることを認めよう。どんな時も主に頼ろう。幸福な人生を生きて、主が良くしてくださったと証ししよう。それが人々の希望となるように私たちは存在しているからである。

 

9月28日(土)

ヨシュアの在世中はもとより、ヨシュアの死後も生きながらえて、主がイスラエルに行われた御業をことごとく体験した長老たちの存命中、イスラエルは主に仕えた。

ヨシュア記24:31

 

ヨシュアは百十歳の生涯を閉じます。この秀でた指導者は、主の大事業を成し遂げたのです。そして、彼の最後の仕事は、シケムにイスラエルの全部族を集めて重要な話をしました。それは、カナンに定住することによって、他の神々の影響を受けやすい環境の中で、アブラハム、イサク、ヤコブの神を拝み、唯一の神として仕えることの約束です。実際、ヨシュアの言葉として、「それではあなたたちの元にある外国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けなさい」(23節)とあります。ここでの約束は、長老たちが存命中は守られたようです。主の偉大な御技を目の当たりに体験した者はアブラハムの神を選択することができました。しかし、それを知らない人たちの世代になれば、他の神々を選択する者も現れるわけです。私たちはどうでしょうか。イスラエルの民ほどには劇的なことを体験していないかもしれません。日本は八百万の神々の国です。無神論者の多い国ランキングも世界第2位です。そこで、主を信じることを選んだ人たちは、特別な存在なのでしょうか。やがて、終わりの日が来た時に、いったい誰が主の側に残っているのでしょうか。私は、誰もが驚くほど多くの人たちが天に挙げられるのを見ることになると思います。救霊は霊の戦いでもあり、悪魔に虜にされている人たちのキリストによる救いなのです。主と一緒に戦うために選ばれた人たちは、信仰のリバイバルを求めて、天よりの力に満たされて、なすべきことをやり遂げることになるでしょう。それは、ヨシュア記に記録された戦いのように、主の戦いなのです。勝利が決まっている戦いに私たちの持ち場があることを覚えましょう。最後まで、主のそば近くにいて、偉大な奇跡と勝利を見たい者です。

 

9月29日(日)

この福音は、・・・御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。

ローマ1:2、3、4

 

パウロが教える福音は、人間の常識を破壊するほどのものです。しかし、これしか人間を救う方法がないのです。では、パウロは何と言っているのか。それは、ナザレのイエスこそが「神の子」であると断言するのです。それが私たちに福音となるのは、どうしてでしょう。クリスチャンになると、あなたも「神の子」となったのです、と言われることがあります。そうであるので、何となく「神の子」らしくしなければ、と意識が働きます。それで、頑張ることになります。一生懸命努力して神の子になるのだ、聖なる者となるのだ、まだまだ修練が足りない、といった具合に果てしない鍛錬が続くように思えるのです。しかし、パウロの語った福音は、全くそうではありません。私たちが自覚しているように、神の子とは到底言えないほど、神の子にふさわしくない者であることを知っていますが、それで構わないと言うのです。それは、イエス・キリストが「神の子」なので、あなたを清め、罪を贖う、と言うのです。つまり、神の子イエスが、私たちを完全に清めて聖霊の息吹を吹き込み、神の子にしてしまうのです。ただ、私たちがイエス・キリストを信じるなら、この神の恵みの業が私たちの身に起こるのです。

 

9月30日(月)

だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。

ローマ2:1

 

 

クリスチャンになって、気がつくことは多くありますが、その中でも深刻なのは、初めはクリスチャンになったのだから真面目に正しく生きようと決心することですが、うまくいかないことです。その目は自分に向かっているので、自分を裁くわけです。しかし、時が経つと、教会での生き方を上手に身につけて、もはや正しいことができないなどと情けないことを言わなくなります。それでやめておけばいいのですが、人に注意しだして、ダメ出しを始めるかもしれません。さらに、人前で説教を頼まれたり、話をする機会が与えられるようになります。そうすると聖書を調べ、気の利いたことを言いたくなるのですが、自分自身の問題は棚上げになっているので、直視していない深刻な問題が隠されています。そして、ある日、高慢にも人を裁き始めるのです。不思議なのですが、その裁きは実は自分に向けられたものなのですが、初めは当然気がついていません。しかし、声に出して裁き始めると、同じ過ちを自分が犯してショックを受けるかもしれません。少なくとも、自分が裁いた事柄が、自分のうちにあることを発見することになります。これは、言い逃れができないことなので、すぐに悔い改めるべきです。そして、裁くことの恐ろしさを知るべきです。裁いていいことは一つもないのです。自分が裁いたことで、それが基準となって、同じ裁きで自分が照らし出されるのです。そして、自分で自分を裁いていることに愕然とする結果が待っているのです。私たちは、他人を裁くのが好きで、上手なのです。しかし、それは自分の首元に刃物を突きつけるような愚かな行為なのです。なぜ人を裁いているかといえば、自分の内に律法があって、無意識に自分の罪を他人に見つけるのです。そのために、滑稽ですが、自分を自分で裁いてしまうことになります。それが、認められない人は不幸です。いつまでも裁き続け、罪を積み上げて行くからです。覚えておくべきことは、私たちは人を裁く係りではなく、人を祝福する係りなのです。その方がずっと健全で楽しいことです。自己点検をしてみましょう。