2020年12月ディボーション

12月1日(火)

私は、全き道に心を留めます。いつ、あなたは私のところに来てくださいますか。私は、正しい心で、自分の家の中を歩みます。

詩篇101:

 

今年も12月に入り、あと一ヶ月となりました。コロナですっかり普通の生活ができなくなりましたが、それでも神様のお守りを信じて生きていけることは幸いです。さて、私たちは世界的パンデミックで自宅にいたり自分の時間を増やすことになりました。そこで、インターネットで買い物をしたり、検索したり、会議をしたりと家時間が大きく増えたのです。このような中で聖句は、「私は、正しい心で、自分の家の中を歩みます」と書いてありました。この詩人は、「全き道に心を留めます」と言っています。多くの価値観の中で、人は自分が良いと思うものを選んで生きているのですが、そのことがその人に影響を与えています。そこで、その結果どこかに到達するはずです。それが良いことであるか悪いことになるか、原因と結果の関係にあります。そこで、詩篇記者のように、全き道に心を向けることが肝心です。良い結果に到達したいからです。このように正しいことをしようとしても、人間にはそれをやり遂げる力が無いのです。ですから、神様の助けを必要としています。その神様が自分のもとへ来てくださるなら、助けていただけるので自分にとって最善の道を歩んで最高の結果に到達できるのです。主を待つことは聖書で繰り返されています。時があるからです。ですから、忍耐が必要だということも聖書に書かれているので知っています。ただ、待つことが簡単ではないので、私たちは正しい心でいることを選択します。それは主イエス・キリストに心を留めるということです。そのようにして主を待つのです。

 

12月2日(水)

神は六つの苦しみから、あなたを救い出し、七つ目のわざわいはあなたに触れない。

ヨブ5:19

クリスチャンといえども人間ですから、真面目に生きていても苦しみが襲いくることもあります。悩まない人間はいないのです。しかし、信仰があるのはありがたいことで、困れば神様にお祈りすることができます。自分の思い通りにはならないかもしれませんが、自分の浅はかな考えよりは、主のお考えの方が正しいので結果を受け入れて感謝するのです。悪魔はもっといい選択があったはずだと後悔させるものですが、そのような言葉に耳を傾けてはいけません。そうではなく、神様を賛美するのです。初めからこのようにはできないかもしれませんが6回もこうした試練に遭えば、だんだん信仰で解決方法が身についてくるものです。そして、どのような結果にも主に感謝するようになれます。つまり、七つ目のわざわいはあなたに触れないのです。では、主に心から感謝するとどうなるかはあなたご自身で確かめる必要があります。私も何度も試練に遭いましたが、ことごとく讃美の力で乗り切ることができました。奇跡を経験すると喜びも爆発します。深い感動を覚えるものです。ですから、何か悩み事が起こったら、まずは主に讃美してみてください。そして、御言葉の通りに主が救い出してくださることを知り、とうとうわざわいは自分に来なくなることを体験してください。その時、あなたの信仰は主の期待された通りになっているはずです。

 

12月3日(木)

平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。

詩篇4:8

 

神様を信じて生きることは、とても素晴らしいことです。安心して眠れるからです。それは、平和を意味し、悩みがないことを意味しています。信仰者がこのようになるには、ある程度の月日が必要です。それは、単純に信じることが難しいからです。過去の苦い思いに縛られていることも一因です。ラジオで思い出すと苦しくなるような経験談をリスナーに求めたところ、たくさんの情報が寄せられました。誰でも、思い出すたびに辛くなったり、声が出てしまうような辛い経験をしているのです。それが、いつまでも続くのですから、人間の重荷は簡単にはおろせないものなのです。ところが、イエス様は、重荷をおろして休ませてあげようとおっしゃいます。ありがたいですね。このイエス様にすがることが唯一私たちの希望なのです。信仰には必ず報いがあります。目の前の現実に打ち負かされないで、全く別の新しい生き生きとした明るい人生をイエス様は与えることができるのです。一方、人を過去の苦しみに縛り付けることこそ悪魔の仕業です。ですから、イエス様に悪魔を追い出していただき、過去の嫌な記憶に縛りつけているサタンの鎖を断ち切っていただく必要があるのです。主はそのために来られたのですから、この願いはかなえていただけます。そして、主の用意されている新しい人生を受け取って歩み出すのです。自力でなんとかしようなどと思わなくても良いのです。あなたの救い主イエス様が確実に救い出してくださいます。そのことを信じることができる信仰も与えられますから、主に期待していれば大丈夫です。主は憐れみ深いのです。もう少しすれば、信仰の道を歩むあなたもこの聖句の通りであったと主を讃美しているでしょう。

 

12月4日(金)

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。

コロサイ3:15

 

自分の心を自分の考えでいっぱいにしなことが肝心なのです。人間は現実の世界で随分無理をして大変な思いもして生きています。ストレス社会そのものです。自然の中にいないだけでもストレスになるのに、自分を癒すことが都会では大変難しいことになっています。ですから、ちょっとしとた問題に出くわすと途端に破綻してしまう危険が誰にでも隠れているのです。そのような厳しい世界では、何かしら自分のホッとする場所や気分転嫁する簡単な方法が必要になります。コンビニはまさにそのようなニーズにピッタリなのです。手軽で便利なオアシスの役目を果たしているのでしょう。しかし、人はそれだけではどうしようもないので、いろいろなことをやるのです。そうした事になる理由は、心の平安を保てないことです。「ですから、キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」という御言葉は現代人に、とっても重要な意味を含んでいるのです。まず、クリスチャンはこの御言葉を理解し、かつ実現することができます。キリストを知っているからです。キリストで心をいっぱいにすることをイメージしてみましょう。自分の思いや考えが心を支配するとろくなことになりません。ストレスがあるので、どうしても否定的になり、悪い方向へ動き出します。しかし、キリストによる神との和解がクリスチャンにはありますから、そこに平和があるのです。そこに着目してみましょう。救いの本質が罪の負い目からの解放ですから、当然キリストが与えてくださる平和があるのです。それは、罪人の特徴である神との断絶、隣人との断絶がキリストの十字架によって和解し、交わりを回復しているのです。そこからくる平和です。あなたがどう思おうが、これは事実です。そこで、召し出された人たちの交わりの回復があります。それを一体と表現して言います。そして、今日の極めつけです。「感謝の心を持つ人になりなさい」とう言葉の意味を考えてください。同じ一つの文脈で書かれているのですから、キリストの平和の効用であることも理解できるでしょう。・・・感謝の心を持つ人になりなさい。

 

12月5日(土)

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

エペソ1:3

 

私たちの主は讃美を受けるにふさわしいお方です。私たちが救われたことは理解を超えたすごいことなのです。罪の問題を十字架で解決してくださったことを救いと呼ぶことがありますが、それだけでも私たちの理解を超えていて、ただ素晴らしい神様の愛としかいいようがありません。しかし、実際には人間を不幸にしていることは具体的にたくさんあります。ところが、そのすべてを主が解決してくださったのです。聖書を読んでも分かる通りに、主イエスは病人を癒し、悪霊つきから悪霊を追い出し、肉体の命だけではなく、霊的命をも救ってくださったのです。呪いすら、十字架で解決してくださいました。さらに、私たちに聖霊を送ってくださり、私たちの内にいて新しい命としてくださいました。そのために、過去に縛られて苦しみの原因に打ち勝つことができない惨めな者を憐れみ、主は過去、現在、未来と時間を超越して私たちの悩みの原因を取り去り、解放してくださったのです。それらは、すべて恵みとなりました。こうしたことは、地上の常識ではありえないことなのです。ただ、主イエス・キリストを信じているだけで、奇跡のように私たちは時間をかけて完全な者へと変えられているのです。こうしたことを天にあるすべての霊的祝福と理解することができます。その天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださったことを信じて感謝しましょう。祝福されていることを否定しては行けません。信じてください。

 

12月6日(日)

あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」と言っているのだから。

イザヤ41:13

 

これほどまでのお言葉をかけられる主が、あなたの神様なのです。ですから、長い人生で恐ろしい大変な日が訪れたとしても、あなたには確かな助けがあるのです。それにしても、あなたの右の手を硬く握って励ましてくださる神様とは、いったいどのようなお方なのでしょう。これほど頼りになる主はいません。困って途方に暮れる時、人は孤独になるのですが、あなたには無縁の話です。あなたが右の手を見るなら、その手は力強い主の手に握られているからです。助けがあるとわかれば、勇気凛々、百人力です。ですから、いつでも安心して心をゆったりと落ち着かせていればいいのです。何しろ、神様に勝てる者は誰もいないのです。その神様が力強い言葉であなたを助けると言っているのです。これ以上の味方はいません。ですから、あなたはこの世にあっても、さまざまな困難が押し寄せても、たとい悪魔が襲いかかってきても、必ず救われ、勝利します。なんとありがたいことでしょう。ですから、目先のことで感情を揺さぶられないようにしましょう。主を信頼しているので大丈夫だと堂々としていましょう。 

 

12月7日(月)

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

マタイ6:33、34

 

その日暮らしという言葉がありますが、意味は違っていても、近いものがあります。明日の心配をしない生き方は理想ですが、実際には何か大変なことが起これば、たちまち心配するのが人間です。ですから、ただ、クリスチャンだから明日のことを心配してはならないといっているのではないのです。キリストは、人の生き方の基本が神の国とその義を第一に求めることに置いています。つまり、罪人として生きるなら、神の支配から逃げ出して背を向けることとして表現されるので、神の国の意味する神の支配に服することから見れば正反対になります。罪人の生き方は悩みの連続です。明日の当てが無い生き方では、不安になるし、着る物から食べる物まで一々悩むのです。しかし、人間にとって大切なことは、神のもとに帰り、神の支配に服することです。そのための助けが主イエス・キリストです。救いの道は既にキリストによって備えられています。ですから、主イエス・キリストを信じることによって義となることを求めていくのです。毎日の生活に不安や心配がある人は、特に神の国とその義とをまず第一に求めなさい、と命じられているのですから熱心に続けることをお勧めいたいます。あなたのために主がどのような良い業を行われるか楽しみにしていればいいですね。この世にいても神の国にとどまることができると知ることがまずは目標となります。

 

12月8日(火)

今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

黙示12:10、11

 

善悪の大争闘はもうすぐ決着を見ます。罪の問題の解決と悪魔の敗北が決まっています。私たちにとって大きな問題は、神様に直接私たちを告発して訴える者がいることです。それが悪魔です。悪魔は、私たちをそそのかして罪を犯させる存在ですが、自らが罪の生みの親です。この悪魔との戦いは、キリスト抜きにしては有り得ないものです。私たちの自力では勝てないのです。それは、罪の問題を抱えているからです。そこで、メシアであるキリストが私ちを救うと言う時には、悪魔に対する勝利をも含んでいるのです。さて、重要なことは、最終決着が着くのですが、それがどのようになるかということがここに預言されていたのです。つまり、クリスチャンの皆さんは、「小羊の血」と「自分たちのあかしの言葉」で悪魔に勝利するというのです。これは、キリストによらなければ勝てないという意味が、小羊の血にあるのです。十字架で主が血を流されたことが決定的に悪魔に勝利することになったのです。その血が私たちが悪魔に勝利する時に必要なのです。そして、悪魔をカッコよく退治したいでしょうが、そうではなくむしろ主に忠実な信仰によって生きることが勝利の秘訣なのです。証は、クリスチャンが主にどのように助けていただいか、主はどのように働かれたか、あるいは主が自分の望むようにはしてくれなかったがそれでも主を信じ続けたからこそ、神様の御心にかなった解決へと導かれた、というような証が勝利の力になっているのです。さらに大事なことは、「彼らは死に至るまでも命を惜しまなかった」と書いてあることです。このことが証になっています。そのような者に悪魔が勝てるはずがありません。ですから、この世の人は何と言うかはわかりませんが、主を信じることを誰も揺るがすことができないのです。そのような忠実な信仰をたった一人になっても守りたいですね。

 

12月9日(水)

互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

コロサイ3:13

 

日本人は気遣いができるところが美徳とされています。それは、私たちの周りにも日々あることです。特に年長者は若い人に気づかれないように気遣いするので、すぐには気づかれません。それは自然と行なっていますから周りで気づく人はちょっと感動します。それは、思いやりだからです。では、クリスチャンはどうでしょう。「互いに愛し合いなさい」と言われるので、ハードルが高いと思ってしまうかもしれません。しかし、互いに思いやりなさい、と言われたらどうでしょうか。私たち日本人は良いことだと素直に受け入れたくなります。ところが、相手によってはこちらの思いも知らずに期待したような反応を得られないでがっかりすることもあるのです。思いやりには思いやりで返して欲しいとどこかで思っているのでしょうね。特に家族や一緒の職場の人や同じクラスの人など、近い関係の人と思いやりの関係を作ることは簡単ではありません。年齢が違うかもしれないし、生まれ育った環境が違うこともあるでしょうし、性格や考えが違うこともあるでしょう。そうなると、不満が溜まってきます。クリスチャンはここからが本番です。「互いに赦し合いなさい」と聖書に書いているので実行しなければなりません。しかし、赦さなければならないようなことをされているのです。簡単ではないですね。そこで、聖書の続きを読んでみると、「主があなたがたを赦してくださったように」とあるのです。聖書では、それを「愛」と呼んでいます。ですから、互いに愛し合いなさいとは、互いに赦し合いなさいということになるわけです。そのためには、互いに忍び合わなければなりません。それには、気遣いがきっと役に立ちます。相手を思いやる心がしっかり養われているなら、それが聖書の命令を実現する力になるからです。日本人の美徳を見直してみましょう。

 

12月10日(木)

また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。

マルコ11:25

 

気楽に生きる秘訣は、この聖句にあります。人間として生きている限り、恨みたくなるようなことが起こるものです。懸命な人は危険を感じた人や自分と相容れない人を敏感に察知して避けることができますが、そうもいかない場合もあるものです。特に仕事をしている人たちは、嫌な人がいても簡単に止めることもできずにストレスがかかります。そうすると必ず恨みが生じることが起こるものです。そこで、世の多くの人が恨みを持った人が複数いるものです。時々思い出せば辛くなるでしょう。そんなことを繰り返していると耐えられなくなります。そこで、今日の聖句をよく読んで決断することです。本当に赦すことを始めるのです。これには、神様が関わらないと難しいですが、神様は必ず助けてくださいます。それが自分を変える力となります。もちろん、良くなるのです。人間的に成長し、寛容になれます。それは、精神的にとても楽に生きることを実現する力となります。それについて考えてみると、天の父が、私たちの罪を赦すことと密接に関係しているからなのです。罪を赦すことは簡単ではないのです。律法主義者のユダヤ人たちは、人を裁き、イエス様まで裁きました。つまり、罪人は神様まで裁いてしまうのです。そのような人が、自分の努力で義となろうとしても無理なのは明らかです。自分の裁いたルールで自分を裁くことになるからです。そうすれば、救いはありません。もし、私たちが人の仕打ちに傷ついていても、キリストのゆえにその人を赦すことができれば、その同じルールで天の父もあなたを赦すころができます。人を神様に訴えるサタンもこれでは、訴えることができません。サタンは恨むようにとそそのかしていたのですが、あなたが信仰で赦したから、訴えることができなくなったのです。ですから、神様は同じようにあなたの罪を赦してくださるのです。罪の負い目がなくなれば、主の御前に立って祈れるのです。

 

12月11日(金)

きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

マタイ6:30

 

まだ青年の頃、原宿にある教会に通っていました。そのため、原宿の街をよく歩いていました。ハーゲンダッツのお店ができると行列に並んだりしていましたが、竹下通りは今のようではなく、もう少し落ち着いた通りでした。信者さんが健康食品の店を出したりしていました。この原宿がどんどん変わって行きました。山手線で唯一パチンコ店が無い駅と言われていたように、どちらかといえば静かでお洒落なお店が点在しているような大人の街でした。明治通りと表参道の角の一等地に白亜の教会が遠目にもアメリカのような雰囲気を醸し出していました。この教会は、宣教師が建てたものでした。その当時は、たぬきが出てくるような寂しいとことでしたが、宣教師は見る目があって将来の一等地を買っていたのです。何も無いところに教会がたって、キリストを信じる日本人が次々に集うようになると誰かが信じたのです。終戦後、宣教師たちはキリスト教講演会を開きました。その古いチラシを見つけたのですが、「ステレオでベートーベンの運命を聴きます」というのがキャッチコピーだったのです。敗戦の結果、何もかも失った日本人が何に飢えていたのかわかりますね。それで、この時に救われた人たちがのちの教会を発展させ支える重要な役を担うことになりました。何も出来ない野の草でさえ、神様は意匠をこらして美しく装われるのですから、人間が神様を信頼して委ねることができれば、どれほどよくしていただけるか考えるまでもありません。人間はどうみても道端の草以上ですから、どんなにか神様がよくしてくださり、驚くほどの恵みを受けるか考えるまでも無いのです。であれば、何事でも神様を信じて安心していていいのです。道端の小さな花にすら目を留めるゆとりがないのなら、深呼吸して、神様の素晴らしい御業を発見してみましょう。我が家には今、目が釘付けになるほど美しいバラが咲いているのですが、神様は人間にはそれ以上によくしてくださるとわかるので、心配しないで生きることができます。ありがたいですね。

 

12月12日(土)

というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

ヨハネ1:17

 

どんな人でも幸せになることを妨げてはならない。しかし、この世を見れば、そうなっていないことを誰でもが知っている。人間は決して努力してこなかったわけではない。たとえば、神様のまさに実験台となったユダヤ人たちは、エジプトで奴隷となる試練から解放された後、モーセによって律法を与えられた。当然、神が救ってくださったことを知っているので、彼らは律法を守り行うと約束するのだが、聖書を読むとうまくいかなかったことがわかる。その結果、新バビロニア帝国に侵略されて国を失い、バビロン捕囚にあった。彼らを憐れまれた主は、帰国して神殿再建できるようにされた。ユダヤ人たちも律法を今度こそ遵守しようと頑張るのだが、救いには結びつかなかった。そして、メシアであるイエスが来られて「私を見た者は父を見たのだ」とその神秘を明かされた。つまり、宗教家の教える神とキリストの示した神は全てにおいてまったく違っていた。人間の救いに対する考え方は真実とは違っていたのだ。罪の罰であった十字架に架けられたのは、罪人の私たちではなく、イエス・キリストだった。そのことを罪の贖いと言うのだが、どう考えても恵みとしか言えない。つまり、恵みで救われたのだ。その方法は、ただイエス・キリストを信じることでよかった。私たち罪人を救うために死なれたイエスに、信じたた者を結合して古い人として死なせ、さらに復活して死に勝利されたイエスがこの復活の命にあずからせてくださったのだ。これだけの奇跡をイエス・キリストはやり遂げられたのだ。だから、「まことはイエス・キリストによって実現した」と書いてあるのだ。難しい神秘はわからなくても、イエス・キリストを信じるなら、確実に救われるということだ。それは究極の幸福の実現となる。 

 

12月13日(日)

試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

ヤコブ1:12

 

試練にも意味があるのです。ただ、願わくば試練には遭いたくありません。平和な日々が続くことが良いのです。しかし、聖書の昔から聖徒たちは試練を経験しています。また、その受け止め方は、人によって大きく違っています。ただ言えることは、信仰で耐え忍ぶものだけが試練を意味あるものにすることができるのです。例えば、人の器の大きさは大変重要なことなのですが、どうすれば器を大きくできるかといえば、試練に負けずに耐え抜くことでも確実に大きくなれます。それ以上に大切なことは、信仰が本物になることです。偽物があるということではありませんが、力ある信仰を持ちたいということです。私たちは信仰が大切であることを知っていますが、試練が襲ってくれば、信仰よりも人間の力でどうにかしようとする傾向があります。自分の力で足りなければ、他人の力に縋ることすらあります。神様にも一応頼りますが、それよりも目に見える人間に頼る傾向があるのです。これでは、信仰で試練を乗り切るとは言えないでしょうが、そうなりやすいのも事実なのです。そこで、試練に打ち勝つほどの信仰を身につけたいのですが、一番確実な方法が試練の中で神様に頼ることを通して、古い自分に死に、聖霊を求めて新しく生まれることです。この過程が大切で、苦しさから逃れようとする中で人間的になんとかしようともがくわけです。しかし、それではうまくいかずに、途方に暮れるのですが、最後に残るのは神様に頼ることだけなのです。そして、もう人間に頼るような愚かな真似はしないで、ひたすら神様にすがるわけです。その祈りは、深くなって行きます。しかも、四六時中祈り続けるのです。聖書を貪り読み、何か救いの端緒をみつけようとします。すると、聖書の膨大な文字の中から不思議なぐらい明確に大切な御言葉が目に飛び込んできます。今まで気がつかなかったことが不思議になるほどです。そして、神様が何かを教えようと導いておられるとわかるのです。それと並行するように、試練が一つ、また一つと解決して行きます。こうなると、神様から目を離さなくなります。この人の信仰が変わったことはわかりますね。全てのことを信仰で考えるようになるのです。神様は以前よりもずっと身近になり、神様への感謝と喜びが異常に大きくなります。何よりも神様を愛していることがはっきりわかるようになります。試練が終わった時には、この人は信仰者として逞しく成長しているのです。このようして、耐え抜いて神様から良しと認められる人は幸いです。いのちの冠はこの人のものだからです。

 

12月14日(月)

わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神はわたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。

テトス3:4~6

 

キリスト教で救いとは、このことを指しています。ですから、神の慈しみと愛が伴います。それは救われた人が感知するものです。聖霊が大切な役割を果たすので、新しく生まれることができます。また、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。そこで、救われた人は、新しい人となっているのです。ですから、古い人のように苦しまなくて良く、聖霊によって新しく造り変えられています。ただ、悪魔はあなたが古いままであると信じさせようと働きます。そこで、何を信じるか吟味するする必要があるのです。否定的になる傾向が強くあれば、悪魔の誘惑にあっていないか警戒し、逆に肯定的になることで主への信頼が強くなるなら正常に信仰が働いていると判断できます。主の憐れみは強いので、あなたの心配は全て杞憂に終わるはずです。良いことがあなたを待っています。大いに主の恵みに満たされてください。

 

12月15日(火)

神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。

Ⅱテモテ1:7

聖霊を与えられるということは、クリスチャンの証です。現代人にとって奇跡のような聖書の話しは、どうしても物語か昔話しのように受け取ってしまう傾向があります。決して聖書に書かれた奇跡を否定しているわけではありませんが、現実に自分の目の前で起こるとは思えないのです。ですから、聖霊のことも知識で終わってしまうことが多いように思います。病気や怪我をすれば病院に行けばいいし、昔は人力で道を作ったり、橋をかけたりしていましたが、今は重機があっという間に奇跡を起こすのです。何でも科学で証明しないと認められない世界です。そのように教育を受けてきたのです。それでも、信仰心が無くなるわけではありません。人間にとって神様は必要なのです。そして、今日の聖句を読むと、キリストを信じて救われる者に与えられる聖霊が本当であり、その聖霊は何もしないわけではなく、その人の本質に大きな影響を及ぼすのです。そのわかりやすいこととして「おくびょうの霊ではなく」と表現しています。つまり、私たちはちょっとしたことでもすぐに動揺するように、おくびょうな性質があるのです。それに対して聖霊はそうではないというわけです。ですから、信仰を現しなさいと励ましているのです。聖霊が外にまで現れるように、信仰を奮い立たせるのです。この聖霊の特徴は「力と愛と慎み」なのです。ですから、クリスチャンになると変わるというのは、それまで持っていた自分の弱さ、それが「おくびょう」と表現しているのです。ですから、すぐに不安になり、少しのことで気に病み、ストレスを受けやすくしているのです。これでは、感情に振り回されて神経は昂り、疲れ果ててしまいます。ですから、クリスチャンの意味をしっかり理解して、聖霊が自分の内に存在していて、しかもその聖霊が新しい自分の命にまでなっていると受け止めるのです。さらに、この自分の本質に強い影響力を持って良くしてくださる聖霊は、その本質が「力と愛と慎み」なのです。それはとりもなおさず、クリスチャンとなったあなたの新しい本質となったのです。このように信じて、古い自分を克服して行きます。あなたにこそキリストは聖霊を通して一番の奇跡を行なったのです。感謝ですね。

 

12月16日(水)

わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。

詩篇32:8

 

神様を信じていると、良いことばかりがあります。大人は子供を見ていると、知識も経験も不足していることに気がつきます。でも本人は気がつくこともなく、世界を知っているかのように生きているのです。そこで、大人は、子供の成長のために正しい知識を与え、人としての道を教え、悪の道に入らないように戒めます。これと同じように、神様も信じる者に悟りを与えて、その人の生きる道を教えます。全てをご存知の神様は、あなたを救うためにあなたから目を離しません。そして、主はあなたが信仰によって義となるように、あなたにアドバイスを与えるのです。その方法はユニークです。直接聞けるなら御声を聞かせてくださるでしょうし、御声を聞いたことがないと言うのなら、他人を通して語ることもあるし、聖書や本、あるいは新聞でも看板でもありとあらゆるものを使って確実に語られます。普段なら気付くこともないでしょうが、神様が働かれるとあなたは必ず気がつきます。そして、これは神様だと確信しますから、決して忘れません。このように、あなたは自力で生きているようで、実は主の導きの中、信仰で生きているのです。それは、マラソン競技のようで、時間はかかりますが必ずゴールすることができます。あなたは、勝利の栄冠を目指して既に走っているのです。楽しむ余裕が出てくるといいですね。

 

12月17日(木)

わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。

神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。

詩篇62:2、3

 

困難に直面した時、パニックになると正しい判断ができずに被害を拡大してしまう傾向があります。どんな時でも冷静でいれることができれば、大抵のことは対処できるのです。しかし、精神力を日頃から鍛えていないと動揺を抑えることができずに失敗することがあるのです。武術やスポーツ選手は、メンタルトレーニングをすることの重要性を知っていますから、何らかの方法で精神を鍛えています。いくら技や技術を訓練しても、勝負では精神力のまさっている方が強いのです。緊張すると人間の体は硬くなり、思うように動けなくなります。息が浅くなっているので、心を冷静に保つことができません。これでは、練習の時の力を発揮する事などできるわけがありません。では、信仰者はどうでしょうか。信仰者は、決して相手と競ったり戦うことはありませんが、悪魔の攻撃にも遭うでしょうし、試練にも耐えなければなりません。正しい生き方は、この世では結構大変です。私たちは、些細なことでも困難なことが起これば、たちまち不安に襲われ、ストレスの塊になります。冷静に考えることもできずに、いたずらに「神様助けて」と言い続けるかもしれません。ところが詩篇記者を見てください。彼は、「わたしは決して動揺しない」と言っています。何か敵がいて大変なことが起こったのです。それなのに、どうしてこのように言えるのでしょうか。それは、神様にこそ解決があると知っているからです。そして、神様は私を救うことができるとわかっているのです。ですから、ピンチなのですが、魂は悲鳴をあげずに沈黙しています。それは、神様の救いを確信して信じているからです。しかも、自分のよって立つのは自分の力ではなく、相手を完膚なきまでも叩きのめして撃退させることのできる神様の驚くべき御力であり、聖なる権威なのです。それを何度も経験してきたので、また攻撃されても勝ち方を知っているのです。それは、神様への絶対的信頼なのです。その証拠は、本当に動揺していないということなのです。私たちもこのような信仰を培うことができるように日々の主の訓練があるのです。

 

12月18日(金)

すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。

ヤコブ1:17

 

12月に入り、贈り物のシーズンになったと商人たちは盛んに宣伝しています。贈り物は旧約聖書の昔からあるもので、人の生活に深く関わっています。しかし、良い贈り物も完全な賜物も天の父から来るのです。聖書は、光を創造された天の父からの贈り物だと強調します。確かにこの世の贈り物はいずれ消えて行くものばかりですが、天からの贈り物は永遠なのです。どちらに大きな価値があるかはすぐにわかります。コロナですっかり気持ちが沈んでしまいがちな今だからこそ、神様からの贈り物が必要です。皆さんの上に、天の父から贈り物が降ってきますように。神様の慰めと励ましがありますように。

 

12月19日(土)

あなたは主を避けどころとし

いと高き神を宿るところとした。

あなたには災難もふりかかることがなく

天幕には疫病も触れることがない。

詩篇91:9、10

 

私たちは聖書を神様との契約書のように読みます。ですから、今日のような聖句を見つけると、驚きますがこのまま信じることができます。それは、日々の生活を主が守っていてくださることを知っているからです。テレビをつければ、コロナのニュースばかりですが、私たちは今日の聖句を信じているのです。ですから、わざわざ危険をおかして良いというわけではありません。常識の範囲でできることはしますが、それ以上のことは主を信頼しているわけです。災難も同じです。ですから、いたずらに不安がる必要はありません。コロナは、社会に不安を撒き散らしているので、精神的にストレスを受けているので、不調を感じる人も増えています。しかし、神様はあなたを助けたいといつでも思っていてくださいますから、安心してください。神様の背中にしがみついている幼児のようなイメージで、神様に緊急避難すれば、最高の安全と平安を得ることができます。今日は、安息日ですから、一週間の疲れを癒し、主の安息にあずかればいいわけす。すっかりリフレッシュして、新しい一週間を元気に過ごしたいですね。

 

12月20日(日)

どうか、”霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行なって実を結び、神をますます深く知るように。

コロサイ1:9b、10

 

礼拝でニコデモが律法を守り行うことで義と認められることを信じる者の代表として捉え、キリストの福音と対立する考え方の典型として見ました。キリストは、「茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか」(マタイ7:16)と言われたのです。悪い根、木、枝から良い実は採れないということです。罪人の実は罪ですが、パウロはこの罪を複数形で表しています。この罪はキリストの十字架で赦されるものです。しかし、パウロは単数形の罪を分けて使います。これは、肉の内に宿っていて、次々に罪を生み出す大本の罪なのです。これが肉に付随しているのです。そこで、これは死ななければ解決がありません。そのために神の裁きがあります。ただ、そのまま人間を裁けば、全人類が滅んでしまいます。ですから、滅びることを防ぎ、なおかつ単数形の罪を肉もろともに裁き、殺してしまうことをキリストの十字架で行いました。そこで、キリストの上られた十字架を仰ぐ者は新しい命に生きることになったのです。つまり、裁かれて死んだままでは生きることにならないからです。そのために、キリストの名による水の洗礼があり、さらに肉の人が滅んだのなら、新しく霊の人が生まれるように聖霊のバプテスマが与えられたのです。そうなると、新しい命に生きる人は聖霊の導きに従って生きることが信仰の要求となります。そうであれば、肉の人の時にはできなかった、「あらゆる善い業を行って実を結び」ということを実現することがクリスチャンの目指すことになります。新しく生まれたので、木が根が善いものとなったので、結ぶ実も善いものとなるのです。

 

12月21日(月)

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。

ローマ15:13

 

クリスチャンは意外に自分の特権に気がついていないものです。人間的に考えれば、聖なる者にならなければとか、もっとクリスチャンとして恥ずかしくないように頑張らなければと、いつまで経っても自分に厳しのです。その結果は、自分はダメだ、いつまでたっても一向に信仰に成長していない、と裁く事になります。これでは、信仰の道は苦しいばかりです。ところが聖書を読んでみると、神様はあなたにとって希望なのです。そして、神様はあなたの信仰を良しとしておられます。それどころか、あなたがイエス様を信じて祈ったり、考えたりしていると、主は喜びと平和であなたを満たされたいと思われているのです。信仰によって喜びがあるのです。別に立派な信仰でなくてもいいのです。あなたのありのままの信仰で主はあらゆる喜びをあなたに体験して欲しいのです。あなたは、イエス様を喜びとして理解し、そのために過去のいっさいが既に十字架で解決済みとなっていて、心をさいなむ必要などないのです。ですから、後ろではなく前を向いて生きることができます。それは、聖霊の力によって希望にあふれるさせていただけるからです。主の恵みを軽んじてはいけません。あなたとイエス様の間には平和があるのみです。ですから、希望に満ちた明日に目を向けましょう。楽しいことを聖霊と一緒に考えるのです。あなたの希望は神様なので、楽しみにしていてください。

 

12月22日(火)

たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたはわたしのために食事を整え、私の頭に油を注いでくださいます。私の杯は、あふれています。

詩篇23:4、5

 

あなたは死の陰の谷を歩いたことがあるだろうか。私は小学校に入学した時に難病で死にかけました。いくつもの病院を巡り、医者は病名すらわからずに死にかけたのです。このように死にかけたという経験を持つ人はいるでしょう。また、この世で恐ろしいのは人間ですから、一旦敵に回るとどんな酷い目にあうかわかりません。この世の中には、自分では理解できない人がいくらでもいるのです。油断すればいつの間にか敵ができていることだってあるのです。知らずにある人と仲良くすると、その人のことを憎んでいる人が仲間だと決めつけ攻撃してくることだってあります。人間の罪深さですが、クリスチャンになっても、肉のままであれば同じような愚かなことをするのです。それは、心の問題です。同時に信仰の問題なのですが、残念なことにその人には教えてくれる教師がいなかったのでしょう。クリスチャンになって、自分が成長しなければ危険なことなのです。なぜならば、聖霊がその人を聖なる神の子となるように働くのですが、肉の命が生きているとそれができません。霊の命に生きているからこそ、聖霊が働くことができるのです。肉は根本的に悪いものなので、それを修正することはできないのです。そこで、霊的なことも初心者に教えなければなりません。そうでないと、罪が吹き出てくるからです。さて、今日の詩篇ですが、霊的に新しく生まれたクリスチャンは、たとえ死を覚悟しなければならないような最悪の事態になっても、その災いを恐れることがなくなるのです。それは、イエス様との近さの問題です。イエス様はインマヌエルなのです。あなたと共におられるお方なのです。ですから、「あなたのむちとあなたの杖」は、あなたを懲らしめるためのものではなく、あなたを苦しめる敵に向けられるイエス様の攻撃のことです。あなたを絶対に守るというしるしです。あなたはもしかすると、周りの皆んなから責められていたり、誹謗中傷を受けているかもしれませんから、弁明の余地も無いでしょう。その時、主があなたのために敵を撃ち、あなたを弁明してくださいます。悪魔の囁きで苦しめられているなら、悪魔へのむちとなり杖となって、撃たれるでしょう。だから、慰められるのです。王の王であられる主イエス様が自らあなたのために食事を整えて振る舞うのです。これ以上の名誉はありません。頭には油が注がれ、あなたが聖霊に満たされた聖なる特別な人であることが証明されます。敵にとってころは完全な敗北となります。賞杯は溢れ、あなたは名誉と誉れをいただくのです。

 

12月23日(水)

イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。

マタイ9:28ー30

 

罪の問題を考える時、クリスチャンも頭をひねります。それほど罪の問題は根が深い問題です。30年ぐらい前に路傍伝道で知り合った方います。その方は時々電話をくださるのですが、クリスチャンにはならなかったのです。それが、最近になって電話をくださり、洗礼を受けたがその後教会には行かなくなったというのです。洗礼を受ければすっかり変われるのかと思ったが何も変わらなかったので教会に行かなかったと言うのです。ところが、その後、体調を崩されて癒しを求めて私に電話をかけてきました。その方の話を聞いてみると、結局、神様を信じることはできないが癒しはして欲しいということでした。このような人が実に多いのです。ですから、クリスチャンになって信仰を持ち続ける人たちは奇跡なのです。神様の奇跡なしにはクリスチャンになれないし、信仰を持ち続けることもできないのです。もちろん、本人の主を信じる信仰があるからですが。聖書を読めば、主が「わたしにできると信じるのか」と盲人に聞いています。彼らは、「はい、主よ」と素直に答えています。そこで、主は「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われたのです。主は、人をご覧になり、信仰があるかないかを見極めているのです。時には、背中を押して励ますこともあります。今日の聖句もそうです。信仰があると見ると、このようなことを聞かずに、すぐに癒しています。この信仰とは何でしょう。あるご婦人が難病で苦しみ大学病院に入院している時、多くの新興宗教の方々が来て苦しみを増していったのです。そこで、宗教はもう嫌だと思っていたところへ、今度はクリスチャンが来ました。またかと思ったので冷たく断ったのですが、そのクリスチャンは、電話番号と名前が書いている紙を手渡して、この人の祈りは聞かれるからよかったら電話してくださいと言って去って行きました。その時は、どうせまた同じだと思っていたのですが、夜になると、気になってダメもとで電話してみようと思い、電話しました。相手の人は女性でした。そして、今までの人たちとは違っていました。その人は、こう言いました。「私が祈れば病気が治るかもしれないし、治らないかもしれません。それでもイエス様を信じますか」と言われたのです。不思議な気持ちになって、「ハイ」と答えていました。そして、電話口で祈ってくれたのです。その瞬間に癒されてしまいました。このように、イエス様を信じることが最も大切なことなのです。たとえ、癒されなくても信じることがどんなに魂の救いに必要なことであるか、理解できる人が増えることを願います。私は電話して来た方に祈りましたが、その後また電話がかかってきて、カルトと言われているキリスト協会のことを尋ねてきました。彼は信仰ではなく、奇跡で簡単に癒されたいとまだ思っていたのです。人が、主イエス・キリストを信じることがどんなに難しいことなのか、また思わされました。ですから、クリスチャンになることができた人たちは奇跡だったのです。

 

12月24日(土)

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

箴言3:5、6

 

私たちは、自分で決めたことをやり抜こうとします。やがて、それが正しい道であるかどうか不安になり、いつしかやめてしまうことがあります。初志貫徹と一昔前なら、力んで無理をしたでしょうが、今の時代には受け入れられない考えでしょう。つまり、やり続けても良し、やめても良し、なのです。このように生きていく上で大事な選択をしなければならない時に、自分の考えや気持ちだけで決めるのではなく、一生懸命に主に拠り頼むことを聖書は勧めています。自分の悟りに頼るなというのですから、自分が嫌だからやめるのではなく、主が私にとって良い道を示され、それも迷うことのない真っ直ぐな道に導かれるから、大切な場面で必ず主を認めることが肝心だと教えています。そこで、私たちは、何でも主に相談し、道を求めるのです。そうすれば、自分では気づくことのなかった神様が備えておられた恵みを見つけながら行く喜びの道をたどることができるのです。ですから、クリスチャンはどうしようと悩む前に主に拠り頼むことを覚えるべきです。自分の悟りに頼らなくなれば、後悔することも無く楽に生きることができるのです。これからこの御言葉を忘れなければ、良い人生を送ることができるでしょう。

 

 

 12月25日(日)

無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。

エペソ4:31、32

 

クリスチャンのあなたはどんな人になろうとしているでしょう。今日の聖句は、明快です。親切で心の優しい人となることです。それは、目指すべき目標です。この目標を意識した人たちは、互いに赦し合うことをキリストから学んだ人たちです。神様から赦されることは人生が180度変わるような大きな体験です。あなたは、人から赦されたことがありますか。そして、人を赦したことがあるでしょうか。もし、あなたが赦したことを思い出せないなら、本当に赦したということです。あの人を赦してあげたとまだ思っているうちは、本当には赦していないかもしれません。まだ、自分が傷ついたことが癒えていないからかもしれません。それをクリスチャンだから赦さなければならないと思うと、辛くなるばかりです。ですから、まずは自分の問題をきちんと解決するべきです。聖書が一貫して教えていることは、「神様がキリストにおいてあなたを赦した」ということを基本としていることです。つまり、そこがはっきりしていなければならないのです。中途半端な理解は、苦しくなるだけです。そもそも自分の罪が明確に神様に示されて、わかったのかどうか。そのことがあったので、キリストの十字架の力を知ったのかどうか。確かに、キリストによって罪を赦されたのかどうか。こう聞かれて心配になったのなら、神様に祈ってみましょう。キリストは、親切でお優しいです。ですから心配しないで子供のように確かめてみたらいいのです。そして、救いの確かさをもう一度味わってみましょう。それを忘れないことです。そうすれば、赦すことは苦痛では無くなるはずです。もっとも、痛みをまったく感じないというわけではないでしょうが、その分キリストの愛が流れるので癒されるはずです。あなたは、悪意すら捨て去るので、心が軽くなり、いつも安定していられるのです。キリストと共にいることがわかることが起こるようになります。それは、親切になり、心の優しい人になれるからです。これには力があって、相手の人も親切を返してくるし、あなたに優しくなるのです。これこそ、あなたが望んでいることです。このようになるために、キリストは人となってお生まれになられたのです。あなたが幸せになるように、キリストは来られたのです。栄光が主にありますように。

 

12月26日(土)

あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。あなたは、私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみを知っておられました。

詩篇31:7

 

詩篇記者は、今喜んでいます。それは、主が与えてくださった恵みを楽しんでいるからです。それは、神様が詩篇記者の悩みをご覧になり、その魂の苦しみを知られたから、主が働かれて悩みを楽しみに、苦しみを喜びに変えられたというわけです。聖書に書かれたので、信仰者にとっては、神様の約束のように受け取ることができます。今度は、自分の番だと言えるわけです。悩みや深い苦しみがいつまでも続くことは無いと信じましょう。人間的には困難に思えても神様にはできないことはないのです。私たちの神様は愛の神様ですから、あなたのことも理解していて、あなたにできないような難しい要求をすることもなく、慰めと労りがあって、思いもかけない恵みを与えてくださるのです。あなたは、主の備えられた恵みを楽しむことができます。あなたは大いに喜ぶことができるのです。あなたではなく、主が忙しく働いてくださって、助けてくださるからです。あなたの神様は本当に良い神様です。

 

12月27日(日)

いかに幸いなことでしょう

あなたによって勇気を出し

心に広い道を見ている人は。

嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。

雨も降り、祝福でお覆ってくれるでしょう。

彼らはいよいよ力を増して進み

ついに、シオンで神にまみえるでしょう。

詩篇84:6-

 

人間にとって勇気ほど大切なものはありません。私たちはもともと弱い存在です。それが人生を切り開いて進まなければならないのですから、当然勇気が必要です。しかし、自分の思いだけでは勇気は起こりません。そこで、イエス様を信じる人たちは、ことあるごとにイエス様の名を呼び、勇気を得ているのです。その一番の効果は、人生の困難があろうが、将来に不安が生じようが、イエス様が共にいてくださると信じて、勇気を得るのです。その勇気は、心に楽観的見通しを与えます。今まで、無理だと尻込みしていても、イエス様が進めと言われるのなら、大丈夫だと困難を乗り越えて行けるのです。ですから、苦しい時、悲しい時、絶望する時、怒る時、嘆く時に奇跡のようにイエス様は感情すら変えてしまい、真逆の喜びや満足に変えてしまうのです。自分の人生が呪われていると思っていたのに、祝福に満ちたものであると笑顔で喜べるようになるのです。あれほど、自分のことばかり見ては嘆いていたのに、嘘のようにそれが消え、イエス様に目を向け、イエス様を讃美し、主を喜び、その効果か上から力が降り、ますます力に満ちて信仰の道に進むのです。この人のゴールはついに新エルサレムで神様にまみえることです。ですから、この世のことで悩むことは無くなったのです。

 

12月28日(月)

十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」 しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」

ルカ13:11~16

 

この話を読んで、あなたはどう思っただろうか。率直な感想を言ってみよう。何が問題なのだろう。家畜は安息日でもその束縛から解いて水を飲ませに引いて行くのに、人間はたとえ十八年間もサタンに縛られていても、安息日に束縛から解放してはならないというのなら、人間というものは何なんだろうと疑問が湧いてこないだろうか。他人を家畜以下にしか考えることができないのだろうか。それが安息日だからという理由であるのなら、その宗教は人間に対する愛はありませんと宣伝しているようだ。家畜なら可哀想だから、束縛を解いて水を飲ませよう。しかし、人間なら安息日には何もしてはならないから、苦しみから解放してはいけないというのでは、愛がなさずぎる。律法は愛である神から出たのだから、安息日だからと愛を否定るすものであるはずがない。ところがそれがわからないで、人を裁く者が出て来てしまう。ここに問題があるのだ。イエスは、これを偽善者と呼んだ。

 

12月29日(火)

わたしが天を閉じ、雨が降らなくなるとき、あるいはわたしがいなごに大地を食い荒らすよう命じるとき、あるいはわたしの民に疫病を送り込むとき、もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち返るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。

歴代誌下7:13、14

 

今日の聖句を読むと、コロナ禍のことを思わずにはいられなくなります。まさに疫病の恐怖を世界中が味わい、1年経っても未だ終息していないのです。一体いつまでこのような状態が続くのかと人々は疲れています。しかし、今日の聖句のように終息の方法が明確に書かれていることについては聞くことがないのです。「わたしの名をもって呼ばれているわたしの民」とはここではイスラエル人でしょうが、現在ではクリスチャンと言った方がよいでしょう。そうなると、世界中のクリスチャンがひざまずいて祈る必要があります。主の御顔を求め、悪の道を捨てて立ち返ることが条件です。祈りは聞かれ、罪は赦され、大地は癒やされるのです。このようなことは、実はクリスチャンなら誰でも思いつくはずです。そして、実際にコロナが終わるようにと何度も祈ってきたでしょう。悔い改めもなされたでしょう。それでも、いまだにコロナの脅威が増しているのはなぜかと考える必要があるのです。私たちは、政府や地方自治体の対応を見て何か批判するかもしれません。しかし、世界中に起こっている現実についてはあまり関心を持っていないかもしれないのです。神様から人々が離れていること、特にクリスチャン人口が急激に減っていること、貧富の差が拡大し、飢えている人や貧しさの中で途方に暮れている人たちがどんどん増えていることは大して気にしていないかもしれません。日本ですら、食べることすらできない人たちが確実に増えているのです。また、人間にとって不幸でしかない戦争をしたいと思っている人がいることにも驚くし、自由や人権が守られていない国が身近にあることにも、やはり人間の罪の問題を見せられるのです。人間が自由で幸せであることを妨げるものを悪といえば、「悪の道を捨てて立ち返るなら」との主の御言葉はとても重く感じるのです。コロナが終わればいいということではないとクリスチャンは気がつかなればなりません。私たちに主は課題を与えているのです。平和運動や人権運動をしろというのではありません。あなたが世界を見回して気がついた悪に対して、主に執り成しの祈りをささげることです。心を痛めるニュースを聞いたら執り成して祈ればいいのです。コロナの後、世界が良くなっているといいですね。

 

12月30日(水)

主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない。

申命記31:8

 

クリスチャンの人生は決して平坦ではありませんが、それだからといって厳しすぎるわけでもありません。試練があれば、その後には楽しみや喜びも待っているのです。ある程度クリスチャンの歩みを続けると、必ず成長していきます。その中で、人間的な道徳や正義といったわかりやすい基準以上の信仰で生きるレベルへと導かれます。その時、学ぶのが今日の聖句です。人間的な感情に流されたり、神様を忘れて自分の考えに固執したりすると、自分の力以上のことはできないわけですから、失敗したり挫折しやすいのです。そのままでは、何年経ってもあまり成長を期待することはできません。ドラマのヒーローはなぜ素晴らしいかと言えば、必ず最後に勝利するからです。クリスチャンも同じです。その秘密が、神様の約束です。その約束とは今日の聖句に書かれたことです。モーセもヨシュアもダビデもダニエルも聖書のヒーローは、この主のお言葉を信じて恐れなかった人たちです。心が揺れることが全くなかったとは言えないでしょうが、主を信じることで神様の御心を成し遂げたのです。皆さんも聖書のヒーローと全く同じように主に期待されているのです。もうすぐ新年を迎えますが、ぜひ、主の期待に応えることができますように。心の大掃除をして、心機一転、周りに振り回されることのないようにキリストにより頼む人となって、良い一年としましょう。

 

12月31日(木)

無知な者は不遜で互いをなじる。正しい人は互いに受け入れる。

箴言14:9

 

人間の特性は失敗することです。どんな人でも失敗します。それなのに、人の失敗を責める人がいます。そこに上下関係があれば最悪でしょう。ところが一方で、失敗しても責めずにその処理をしてくれたり、責任をかぶってくれる人すらいるのです。同じ人間なのに、どうしてそんなに違うのでしょうか。聖書では、前者を「無知な者」と言っています。人の失敗を責めてなじるのは簡単ですが、相手を傷つけてダメージを与えてしまうかもしれません。そもそも、どのような理由で失敗したかによって対処の仕方は変わってくるはずです。この人の怠慢や不注意であれば、そのことはちゃんと注意し指導しなければならないでしょう。もし、ルールがあればペナルティーも課す必要があるかもしれません。あるいは、一生懸命やっていても避けられない失敗もあるものです。失敗の一番大切な対処は、同じ失敗を犯さないように戒めることです。そしてそれ以上に大切なことは、なぜ失敗したのか考えさせることなのです。失敗から学ばせるわけです。自分の責任を考えていない人は、仕事を嫌な事、面倒な事、適当にやっても構わないと結果を考えていないことが多いのです。無知な者は、失敗しても、叱られるとか、ついていないとか、他人のせいにしてしまう傾向があります。自分が何も考えずに、いい加減な仕事をして、人に迷惑をかけても、責任転嫁して他の人をせいにするのです。相手が目上でもお構いなしです。自分のことが見えていないで子供と同じなのです。それでいいと思っているから不遜となるのです。正しい人は、よく考えているので、最善を尽くそうと努力します。それでも失敗すると人のせいにすることなく、自己反省ができますから、自らの失敗を認めてみんなに謝ることができるのです。その時に、その人だけのせいにしないでみんなの責任だとすることも正しい人のすることです。これは大人の対応ですね。このような人は、正しいことをしているので自分に自信があるのです。本当は人に怒られたり責められたりするのは辛いことですから嫌なことですが、それに耐えるのです。それができるのは、神様が全部知っているから大丈夫だと思っているからなのです。人間の価値が人の眼にはっきり見えるのは、実はこのような時なのです。