2020年2月ディボーション

2月1日(土)

祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。

エレミヤ17:7

 

クリスチャンの人生は主に祝福された人生です。そのことが分かるのは、人生も後半に入ってからかもしれません。主は、初めから祝福してくださっているのですが、人間の側で何も良い事をしないで祝福されるはずがないという思い込みがあって、祝福を享受する事を拒否したり、否定的になってしまって祝福を受け損なう傾向があるのです。そもそもは信仰で生きる方法が良く分からずに、クリスチャン人生がスタートしてしまうことに問題があると思われます。そこで、自分がすでに祝福されている事を認める練習が必要です。口先だけでの感謝はあまり意味がありませんが、言葉にして感謝してみることには意義があります。例えば、コロナウイルスのためにマスクがどこでも品薄になっていて、買いたくても買えないという報道がテレビで流れています。ドラッグストアーではどこも売り切れていると聞きました。早速、ホームセンターに行ってみると、お一人様一個限りではありますが、ちゃんと買えました。そして、スーパーに買い物に行くと、百円コーナーにマスクが売っているのです。レジの人が今まで無かったのに、今日入荷したばかりです、と言われて二十枚入りを4箱買えました。すべてにおいて、ちょうど良いことが起こります。これを主の祝福と感謝することができれば、自分が主に祝福されている事を実感しますし、心から主への感謝が湧いてくるのです。あなたにも主は、より良い人生が歩めるようにと、小さなことまで主がちゃんと配慮してくださっています。その事を十分理解している方もおられるでしょう。聖書の教えは、今日の聖句の通りです。主は自分を祝福してくださっていると主に信頼してみる事が人生を楽にします。そして、主をよりどころとすることができるとの約束を信じるなら、心に平安と自信が満ちてくるはずです。

 

2月2日(日)

主の慈しみは決して絶えない。主の憐みは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い、わたしは主を待ち望む。

哀歌3:22~24

 

2月2日(日)

主の慈しみは決して絶えない。主の憐みは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い、わたしは主を待ち望む。

哀歌3:22~24

 

講解説教の箇所が再臨の徴の個所になりました。そして、再臨を強調するアドベンチストのグループに属する教団の牧師をしていたので、そのような教会では再臨の徴にこだわり、次々にこれが当てはまる、この出来事は預言の成就だといった感じで、何十年も新しい徴を見つけては、世の終わりの裁きに絶えられるように、律法の遵守を清めと称して煽る傾向があったように思います。今も、そのように再臨を死後の裁きととらえて、良い行いをするように指導しているかもしれません。確かに、人間の功績では天国に入れません。主イエス・キリストの功績によるのです。そうなると、何を頑張るのかと聞かれそうですが、今日の聖句を読むと、私たちの救い主の本質がよくわかります。私たちにとっての主は慈しみ深く、しかもその慈しみは決して絶えることがなく、また憐れみ深いのです。それも決して尽きない憐みなのです。だから、信じて救われる希望があるわけです。実際、私たちは何も良いことができません。悲しいかな、すぐに道を迷い、「主に立ち帰ろう」と言わなければならないような者なのです。ですから、イエス様は、私たちが唯一すがりつくことができる希望です。たとえポンコツでも、自信がなくても、欠陥があっても、弱さしか感じられなくても、失敗しても、病気でも、罪を犯してしまっても、どんなに惨めであっても、主は私たちを救うことができるのです。そして、事実私たちを探して召し出したのです。そのまま、クリスチャンになって、それらしくしようとも思いましたが、そんなことがなんの意味もない事を知りました。そして、ありのままに、主を信頼する事だけ、要求されている事を知ったのです。再臨に必要なことはただ一つ、主を信じ続けること、いいかえればイエス様を忠実に信頼していることです。これは、言葉で表現しにくいのですが、心が知っています。主に対する思いです。それを忠実な僕と言ったりします。あなたの信仰はイエス様だけに見せればいいのです。 

 

2月3日(月)

もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない。」 しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく信仰によって命を確保する者です。

ヘブライ10:37~39

 

 「神に従う人は信仰によって生きる。」これはハバククの言葉です(2:4)。さらには、「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。」(2:3)とあります。ある人は、信仰によって生きる人を弱い人だと蔑みます。自分は強いので神などいらない、と豪語します。気の毒なことです。何も知らないからです。呑気に明日も明後日も来る事を疑っていません。しかし、そんな保証はどこにもないのです。私たちクリスチャンは死ぬ事をタブーとはしていません。それ以上に死ぬ者である事を覚えるようにと戒めてきたのです。そうであれば、今を生きる信仰が必要です。一時一時を大切に生きるのです。そして、死ぬ事の意味は、目が覚めたら主が裁きを携えて来られた日、つまり再臨の時なのです。その事を知っているので、いつ死んでも良いようにしておくのですが、それは、信仰によって生きる事です。特別のことをする必要はありません。いつもやっているように日々のやるべきことを淡々とやれば良いのです。その中で、祈る必要があれば、すぐに祈ります。聖書を読むことも義務ではなく、神様の御言葉を聞くことです。賛美歌を歌ったり、聴いたりするのも楽しいことです。このような普通の生活が主への信頼によって成り立っていることが素晴らしいことなのです。ここには自己を誇ることも自分のしたことを功績とすることもありません。ただ、イエス様を信頼して待っているだけです。このように、信仰によって生きるなら、ひるんで滅びる者ではありません。主への信頼は裏切られることは決してないのです。

 

2月4日(火)

あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。あなたは私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみを知っておられました。

詩篇31:7

 

ラジオで男脳と女脳の違いを話していました。面白い話しでこのテーマで本を書いた著者と女性アナウンサーは「分かる、分かる」と共感しますが、男性パーソナリティーは「えっ! そんなの分かんないよ」と騒ぎ立て、結果として、男性と女性の脳がこんなにも違っていることを彼ら自身が証明してしまいました。女性が望む、共感を男性はなかなか理解できません。ゴールを決めたがり、そこへ行く道を示そうとします。女性としては、そうではなくて共感して欲しかったのに、この人は何もわかっていない、と思うことになります。そこで、今度は男性が「分かるよ!」と猫なで声で共感を示すと、わざとらしくいやらしい!と一蹴されてしまいます。男性にとっては、まったく難しいことです。一方、神様はやはり最高の理解者です。なず、悩みを知ってくださるのです。そして、どれほど苦しんでいるのか理解してくださいます。ここでは、「あなたが悪いから」とか、「ダメだなぁ!」などというようなことは言われません。そうではなくて、まさに共感してくださるのです。その上で、神様の方法で悩みを解決へと導いてくださいます。それは、驚くほどの恵みです。信仰を持つということは、主の恵みを楽しみ、喜ぶ、ということなのです。あなたは、主にちゃんと理解されているので大丈夫です。悩みは恵みに、苦しみは喜びに変わるのです。主を信頼しましょう。

 

2月5日(水)

そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」

ヘブル13:6

 

社会に出れば、いろいろな人がいます。その中で脅かす者もいれば、意地悪な人もいるかもしれません。いじめ問題が一向に解決しないように、パワハラのような様々なハラスメントも珍しくありません。どうして、と言いたくなりますが、人間が集まって集団になるとこうしたことがどこでも起こるようです。そのような社会にクリスチャン も住んでいるわけですから、時には理不尽な目に遭う可能性があります。万が一、そのような被害にあったときには、感情的にならないことです。まずは、主に祈りましょう。そして、今日の御言葉を唱えてみるのです。そして、主を信じて泰然としていることです。主が働き、自分は何もしなくても脅かす人はいなくなるでしょう。一時の試練は、信仰のテストであったと後で気がつくのです。そして、主の憐れみを改めて味わうことになります。

 

 

2月6日(木)

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

ローマ3:23、24

 

罪は人を苦しめるもとです。ですから、誰も罪を犯したくないのに罪を犯さざるを得ないのです。そのために、聖書に書かれた通りに「神の栄光を受けられなくなっています」。そのために、神の素晴らしさを理解できません。だから、「神などいない」と言う人も出てきます。神の栄光を受けることができたらどんなに素晴らしいことでしょう。このように、罪人は惨めなものなのです。自力で自分を救うことはできないし、罪を償うこともできないのです。呪いと感じる人もいるでしょう。そんな、人間を憐んだ方がイエス・キリストです。そして、キリストによって救いの唯一の道が開かれました。しかし、それは残酷なことに、キリストを苦しめ、殺さなければならなかったのです。モーセを通して与えられた聖所は、罪を贖う方法を神の民に教えました。犠牲を屠ることが罪の犠牲となりました。血を流さなければ人の汚れを清めることはできません。動物を殺して、血を流すことは、キリストの贖いの業を象徴していました。つまり、動物に価値があったのではなく、後に本体として十字架にかかられたキリストの贖いの業にこそ人の罪を赦し、清める力があったのです。しかも、神は人間を愛されておられたので、この恵みをキリストを信じる者に与えられました。それは、罪人がどんな事を行っても自分自身を清めることができなかったので、不可能であった事を、つまり義となる事を神がしてくださったのです。それは無償でした。だから、誰でもイエス・キリストを信じて自分の負目をすべて解放していただけるのです。あまりに大きな恵みなので、信じる切ることが難しく感じる人はいるでしょう。しかし、主は信じることすら助けてくださるのです。だから、自分は信仰が弱いなどと言ってはなりません。そんな心配もする必要がないのです。神の救いは完全なのです。ただ、主を信頼してください。それは、小さな子供が父親を信頼して、高いところから父親に受け止めてもらえると信じて飛び込むようなものです。主は失敗しないので、あなたの救いは完全です。安心して感謝しましょう。

 

2月7日(金)

わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださルように。

エフェソ1:19

 

クリスチャンは、罪人のままでいるわけではありません。過去の自分と決別して、新しい神の子としての新しい人生を築いて行くのです。そのために、イエス・キリストは十字架にかかり、復活されたのです。それ以上に大きな神の救いのための働きはありません。御子が命を犠牲にしてまで私たちへの愛を貫いたのは、私たちにとっては驚きです。神は私たちを新しく創造するのです。だから、過去を思い出して苦しむ必要はありません。自分はダメだと思っていた人も、もう自分を責めないでください。主が十字架であなたの負目をすべて引き受けて取り去ったのです。だから、主の与えてくださる新しい変化を楽しみましょう。あなたを新しく創造するためには、どれほどの大きな神の力が必要であったか、想像することもできません。これほどの大きな主の力が働いているのですから、これは、あなたへの主の愛のしるしです。そして、その力がたまに働くのではなく、24時間休みなく働いていることも覚えてください。神があなたを義とするというのは本当なのです。その神の力がどれほど大きなものであるか悟らせてくださるようにと、熱心にお祈りしてください。そうすれば、神を知ることができるはずです。これこそ主の御心にかなうことなのですから。

 

2月8日(土)

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました。

Ⅱコリント5:17

 

 

人生に失敗はつきもので、忘れたい過去がだれにでもあります。しかも、自分のこととなると、変えることができるなら変えたいと思うような事がいろいろあるものです。もし、人生をリセットできるなら、もう一度新しい人生を始めたい、と思うことも不思議ではありません。もし、新しく人生をやり直せるなら、もっとうまく良い人生にしようと頑張るのに、こんな風に考えてみたことのある人は、今日の御言葉をよ~く考えてみてください。聖書は真理ですから、間違うはずありません。つまり、驚くほどミラクルが書かれているのです。これは、クリスチャンの特権なのです。奇跡はすでに起こっているということです。難しく考えることは何もありません。ここに書かれた通りであるのなら、苦しい思い出と共に、古いものは過ぎ去ったのです。そうです、すべてが新しくなりました。「キリストのうちにあるなら」と書かれていると、何か難しい事を理解し、努力しなければならないのか、などと勝手に考えてはいけません。単純に、クリスチャンになれば、キリストのうちにあるのです。ですから、安心して、主に期待してください。そして、新しくなった事を喜んでください。主はあなたを新しく造られたのです。脳はその事を教えられているでしょうか。何度も今日の聖句を読んで脳にインプットしてください。脳が理解したら、あなたはすべてが新しくなった事を体感できるでしょう。

 

2月9日(日)

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

ヤコブ1:2~4

 

クリスチャンの大きな悩みの一つは、聖書に完全な者になれ、と書かれているのに、自分が完全になれていないという悩みです。そこで、聖書は完全になるためになんと教えているかを調べてみると、今日の聖句が出てきます。ここで分かることは、忍耐が必要だということです。この忍耐が人間にとって一番厄介なものです。忍耐することが大切だとは知っていても、実行するのはなかなか至難の業です。私たちはいつでも忍耐しようなどとは意識していません。できれば、忍耐などしたくありません。それほど苦手な忍耐をどうすれば身につけることができるかといえば、試練に合わせるしかないということなのです。試練は避けることができないので神に祈り、助け求めます。そのように信仰で乗り切ろうとします。この時に、忍耐が生じるのです。キリスト教史に残るような偉人たちは、例外なく試練を幾度も通ってきた人たちです。そこで、試練が来ても、好機到来だと喜びなさい。クリスチャンとして願っていたことを達成するためにこの試練がきた、それは体を鍛える筋トレのようなものだと考えるのです。決して楽ではないことを喜んでやっています。これが仕事だと言った途端、苦しみに変わるかもしれません。同じように、試練も自分が願った信仰の成長のためなのだと納得することです。そして、忍耐することを意識してみましょう。気がつけば、それなりの成果を知ることになります。

 

2月10日(月)

これは、あなたが歩くとき、あなたを導き、あなたが寝るとき、あなたを見守り、あなたが目ざめるとき、あなたに話しかける。 命令はともしびであり、おしえは光であり、訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ。

箴言6:22、23

 

聖書には不思議があります。この箴言の御言葉通りだからです。人は何によって学び、主の御目にかなう者となれるのでしょう。だれでも最もたやすく学ぶことのできる方法が聖書から学ぶことです。それがうまくできるかどうかで、人生の良し悪しが決まってしまうと言えるほどです。聖書が神の言葉であり真理であると、言っても誰も文句を言いません。事実その通りだからです。それなのに、聖書を手にとって読むことがなかなかできないかもしれません。それでも、聖書が砂漠で見つけたオアシスのようなものであることは真実なので、聖書をいかに活用するか工夫してみましょう。

 

2月11日(火)

ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。

ローマ4:4、5

 

キリストを信じる者の救いは驚くべきものです。何しろ、働きがなくても、その信仰が義と認められるというからです。私たちは、勢いのある時には自分で働いてその報酬を自由にしていました。しかし、何かの都合で働けなくなると、報酬を得ることができなくなります。それがこの世の常識です。その厳しい現実の中で生きてきたのですから、聖書に書かれた今日の御言葉はすぐには信じられません。そこで、良い人間いならなければ、とか、もっと立派と認められるようなクリスチャン にならなければ、と勝手に聖書に書いていないことを考えて、何かしらやってみるのです。しかし、それがどんなに空しいことかやがて気がつきます。何しろ、聖書で罪人と呼ばれているのが私たちなのですから、それがいきなり聖人を目指してもうまく行くはずがないのです。そもそも罪人になろうとした自覚すらないのですから、何が罪人であるのか、何が聖人であるのか、よくわかっていません。そのために、いたずらに苦しむこともしばしばです。そこで、今日の御言葉から考えていただきたいのです。あなたが救われたのは恵みによる、ということをです。それは、あなたが正しく生きようと頑張って、聖人に近づくことではありません。それなら、あなたが擬人であることは報酬になります。相変わらずなんの誇ることもなく、良い働きもなく、ダメなところも含めて、ありのままの姿で義とされたのです。だから恵みと言っているのです。それなら、恵みによって義としていただくために、私たちが最低限持っていなければならないものは何でしょう。イエス様にすがりつくような信仰です。盲人の物乞いが「ダビデの子よ、私を憐んでください」と叫んだような信仰です。それだけで、イエス様は立ち止まり、振り返ったのです。そして目が見えるように癒してくださいました。主の憐れみは今日もあなたを待っています。

 

2月12日(水)

わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたとき、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。

テトス3:4、5

 

救いがどのようにして実現しているか説明している箇所です。つまり、聖霊によって新たしく生まれさせ、新たに作り変える洗いを通して実現したのです。だから、良い行いができるようになったのですが、この洗いがなければ、どんなに頑張っても所詮は肉の人であることは避けられないのです。だから、ただ一つの救いの道であり、方法なのです。そうであれば、聖霊の学びは不可欠です。それは、イエス・キリストを通して注がれると書かれていますから、イエス・キリストを知り、信じることがまず第一なのです。他のことに熱心な人はがっかりすることになります。それにしても、救いは人間の想像を遥かに超えた神の力による奇跡で実現しています。それは、主イエスが「わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい」(ヨハネ14:10、11)とお語りになったのと同じように、聖霊がわたしたちに内におられて、その業を行っておられる、と言えるようにしてくださったのです。主イエスがわたしたちのために、前例を作り、道を備えてくださったのです。ですから、聖霊がいるのかいないのかわからないようなことではなくて、あなたを聖霊が新しく造り変えておられる、と自覚することです。このような大きな恵みが与えられていることからも、神の慈しみと、愛が分かるはずです。

 

2月13日(木)

私の助けは、天地を造られた主から来る。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。 主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。 昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。 主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。 主はあなたを、行くにも帰るにも今もよりとこしえまでも守られる。

詩篇121:2-8

 

あなたは主に守られています。どんな時もです。そして、これからとこしへに守られているのです。だから、心配することはありません。主は、あなたを守るためにまどろむことも、眠ることもないのです。あなたがどこにいても主の守りは完全です。フィリピンに住んでいた時に、そこは塀で囲まれ、門は鉄でできていて、警備員に守られていました。彼らはショットガンも持っていて、IDを見せないと入れてもらえません。警備員は日中でも敷地内を巡回していました。それなのに、大学院のコンピューター室からコンピューターが全て盗まれました。警備員が泥棒を手引きしたことが後でわかりました。人間がいくら守っていると言っても限界があるのです。しかし、私たちの守りは主が引き受けてくださったのです。人間は失敗しますが、神様は完全なのです。そのような主の守りが今日の詩篇には明瞭に書かれています。ですから、心配することは何もないのです。いつでも、安心して、主に感謝しましょう。

 

2月14日(金)

千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。

詩篇91:7

 

新型コロナウイルスが日本でも広がることが懸念されています。連日のニュースを観て、心配している方もいらっしゃるでしょう。しかし、今日の聖句の通りに、神様のお守りはあります。不思議なことをなされる神様は、信じる者たちを守っていてくださるのです。病気だけではありません。この世にいる限り、様々な心配が日々あるでしょうが、神様を信じている方々には、主が安全となってくださるのです。今日も、主はあなたを守り、不安を取り除けて、安全を与えてくださいます。今日の聖句が私たちに信仰を強める助けとなります。そして、主は、あなたのために戦ってくださいます。ハレルヤと讃美いたしましょう。

 

2月15日(土)

救いは主にあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。

詩篇3:8

 

私たちは日々生活が同じように過ぎて行くと思っていますが、実際には、次々に厄介なことが起こったり、人間関係で悩んだり、思わぬことが身に降りかかったりします。その度に、神様に祈り、助けを求めます。それが何十年も続くのです。しかし、気がつくと、心配したり、不安を訴えていた事が減って行くのです。その分、主への感謝がどんどん増えて行きます。歳を取れば病院通いが増えて行くでしょうが、それでも感謝できるのです。困ったことも主は身言葉の通りに助けてくださり、多くの祝福を受けて、何の心配もないように恵んでくださいました。だから、主を信頼してください。そして、助けていただき、祝福を願いなさい。あなたの救い主はあなたの思う以上の素晴らしい方です。賛美歌のように主の恵みを数えれば、涙があふれてくるぐらい数えきれない恵みに圧倒されるのです。だから、今、苦しんでいる人も大丈夫です。主の救いは完全だからです。賢明な主は、あなたのために最善を尽くしてくださいます。あなたは、神様の作品なのです。だから、削られたり、砕かれることもありますが、みごとな傑作が生まれるのです。あなたが気がつかない内に、天国に相応しく創造されるのです。楽しみですね。

 

2月16日(日)

まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住いましょう。

詩篇23:6

 

クリスチャンを説明する時に、今日の聖句が欠かせません。確かに、信仰者として鍛錬や試練が避けられないとしても、それはやはり一時のことです。試練は乗り越えられるように、必要ならば逃れの道さえ用意されているのです。しかし、イエス様に便り、祈り、聖書に答えを求め、忍耐を学びます。肉の高慢は砕かれ、人間的な角が取れてきます。以前に感じていたような、高慢や貪欲が気づかないうちに消えてしまいます。試練を通ったので、神様へ近づき、神様のことがだんだんわかってきます。そうなると、主への感謝が増えてきます。その結果、今日の聖句の通りになって行くのです。あと何年生きるのかは主のお決めになることですが、「私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう」と書かれた通りになるのです。初めの頃に思っていた、立派な人になるというのとはちょっと違っていました。もっと、楽なことです。過去にどんなに辛いことや嫌なことがあったとしても、それが影響することはありません。イエス様の救いは完全なのです。そして、そのイエス様を信じて生きることが息をするぐらい自然になるのです。そして、詩篇記者のように、「私は、いつまでも、主の家に住いましょう」と言えるようになるのです。それほど、確実にイエス様はあなたを愛して助けてくださるのです。だから、安心してください。

 

2月17日(月)

わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。

詩篇32:8

 

今年はオリンピックもあるので、いろいろなスポーツ選手にコーチが付いて指導したり、助言を与えていることを知ります。コーチの能力に応じて選手の成績が変わるというのです。ビジネスの世界でも、コーチングが流行り、実際にコーチングを受けたり、講習会に参加した人も少なくないのです。パウロにはバルナバという名コーチがいたように、クリスチャンにもコーチが必要だと指摘する声があります。さて、今日の聖句です。もう一度読んで見てください。明らかに神様がコーチであると理解できます。つまり、クリスチャンは、すでに神様というコーチが付いているのです。決して、一人で頑張れと放置されているわけではありません。使徒言行録やパウロの伝道旅行の中でも、聖霊がコーチの役を実際にやっていることを発見できます。それに、祈って、主に導きを求めることもできます。聖書から助言を求めることもできます。もう少し、主がコーチであると信頼し、助言を求めてみたらいかがでしょう。きっと、このみ言葉は本当だったと納得できると思います。

 

2月18日(火)

試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

ヤコブ1:12

 

駅伝やマラソンをテレビで観ることがありますが、苦しそうに走っている選手を見ると思わず応援したくなります。この選手たちが苦しくてもやめずに走り抜くのは、勝利の栄冠が待っているからです。クリスチャンも似ていると思います。パウロもそう思ったようで「決められた道を走りとおし、・・・今や、義の栄冠を受けるばかりです」(Ⅱテモテ4:7、8)と書いています。クリスチャンでも試練に遭うことは、聖書を読めば明らかですが、いたずらにひどいめに遭っているというわけではありません。罪人の痕跡を消し去るためです。主に従順になることが求められているのですが、なかなかうまくは行きません。そのことはわかっていても、自分の力で自分を変えることができないので、滅びないように主は試練を通すわけです。楽に通り抜けるにはコツがあります。それは、自分を捨てて主に任せることです。それが従順になることだからです。天国でいのちの冠を受ける時には、試練の大変さはすっかり忘れ去っているでしょう。大きな喜びが待っているのです。

 

2月19日(水)

あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。

イザヤ58:11

 

私たちは恵まれた者です。罪人であったのに、主が贖ってくださり、恵みで救ってくださったからです。それなので、私たちは主への忠実が身についているのです。人間的に考えてあれこれ悩んで生きることが、いかにバカバカしいことか知っています。悩むことや不安に思う日がなかったとは言えませんが、それでも日毎に主への信頼が増し、平和な日が増えていったのです。私たちが全的に信頼している主は、益になることを教えてくださるのです。これは人生に大きな幸いとなります。そして、私たちがどのように生きていけば良いのか正しい道に導いてくださるのです。もし、あなたが道を求めているのなら、主は必ず教え導いてくださいます。その主の教えておられることが分からない人は、まだ主に近づいていないので、心をしずめて、祈りの座に着きましょう。そして、あなたの神にお願いしてみるのです。主はゆっくり近づいてこられます。あなたに教えるために。

 

2月20日(木)

あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」と言っているのだから。

イザヤ41:13

 

私たちは人から褒められたり、ちょっと良いことがあると、たちまち有頂天になるのに、逆に批判されたり、ちょっとでも嫌なことがあれば、今度はうつ病患者のように落ち込むのですから、なんと弱いことでしょう。だから、私たちには救い主が必要です。それもとびきり優しくて、忍耐強い方でなければなりません。そうでなければ、こんなダメな私を神様は赦すはずはないとか言い出しかねないからです。確かに、ペトロはおっちょこちょいだな~、なんていい気になっているから、自分の番が回ってくるとペトロも大笑いするぐらいひどい醜態をさらしてしまうのです。今日の御言葉も、何度もお世話になってきたので、Tシャツに書いて着ていたいぐらいです。あなたの右の手をしっかり握って「恐るな、わたしがあなたを助ける」って主は言っています。さあ、あなたはどうしますか。勇気百倍になって、力強く立ち上がりますか。きっと、良い結果が待っていますね。不安になったら、自分の右の手を見てごらんなさい。主の手が見えるかもしれませんよ。

 

2月21日(金)

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

ピリピ3:20、21

 

私たちは再臨を待ち望んでいます。それは、国籍が天にあるからです。そうであれば、この地上の生活は一時のものであり、仮のものなのです。ですから、この世のことで心を悩ませる必要は無いのです。私たちは国籍が天にあることで、天国にふさわしい者になりたいと願います。それは、簡単ではありませんが不可能でもありません。信仰がなければなりませんが、すでにクリスチャンになっています。ですから、神様は私たちに信仰をくださいました。その信仰を使って生きる訓練を受けているので、人生には色々と問題も起こってきます。しかし、それも信仰を働かせる機会となるように導かれ、実際、信仰によって生きることを身につけて行くのです。古い肉の考え方ではうまくいかなかったことが、信仰によって、自分の力に頼らないで主にゆだねる時、不思議と問題を解決し、悩みから解放されます。このようにして、私たちは、キリストに似た者ヘと造り変えられて行くのです。すべてキリストの御力によって良くしていただけるのです。

 

2月22日(土)

私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。

ローマ12:3

 

今日のみ言葉は、長くクリスチャン人生を歩んで来た方には骨身にしみて理解できることです。聖書に真理がすべて書いてあると教えられても、自分勝手に解釈することをなかなかやめることができません。知らなければ、聖書を調べればいいのですが、なかなかそれもできないのです。そして、人生がうまくいっている時には、思い上がる危険があるのです。聖書では、「限度を越えた」とあるので、神経質に気にすることではありませんが、主の祝福が続くと、気が大きくなるのでしょうか、イエス様がというよりは自分が大きくなったように感じることがあるのです。そうなると、いろいろ人間関係の中で問題が起こり始めるのですが、限度を超えて思い上がってしまうと、反省することや、相手の気持ちを考えることができなくなります。そこで、敵を自分が作り、しかも、多くの敵を作り、やがて苦境に陥るのです。そこで、反省できればいいのですが、思い上がっているので、相手が悪いの一点張りになり、自分の誤りを認め損なう危険があります。謙遜に生きていれば、このような失敗はしないのですが、肉の性質がすぐに思いあがる傾向にあるので、注意が必要です。そにため、クリスチャンは主に砕かれるような経験をします。その時には痛いことですが、後で良かったと振り返ることができます。そうやって成長してきました。信仰についても、神様が与えてくださったものであることを覚えていましょう。それだけでも謙遜になれます。私たちは、自分の信仰が弱いからもっと頑張る、というような言い方をすることがあります。これも、考えてみなければなりません。主が与えてくださったのは、自分にちょうどよく主の信仰を分け与えてくださったのです。だから、信仰のことで困る必要は無いのです。それよりも、ちょどよい信仰なので、主を信じることは息をするぐらい普通のことなのです。そのことを意識して、慎み深い考え方をしてみましょう。とても生きやすくなるはずです。

 

2月24日(月)

あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。

イザヤ46:3、4

 

神学生の頃、旧約学者の左近潔先生が、この箇所を教えてくださいました。日本語にするとくどくなるので省略されているのだが、本当は「わたしはあなたたちを造った。わたしこそが担い、わたしこそが背負い、わたしこそが救い出す。」と書いてある。その時、とても感動したものです。こんなにまで主が思入れを込めて、私たちを愛されていることがよく分かったからです。それならば、何の心配があるだろうか。主が「わたしこそが」と力を込めて言ってくださるのだから、これからの人生も祝福されたものであることは明らかだ、と確信して良いのです。確かに人生は思い通りには行かないと思う時もあるかもしれませんが、それが必ずしも悪いとは言い切れません。むしろ、守られていたのかもしれません。少なくとも、この御言葉を聞いたのですから、これからの人生は良いものになると信じましょう。人が何をしようが何を言おうが、あなたはこの主によって年老いるまで背負って行っていただけるのです。そして、主が救ってくださるのです。主がそうおっしゃっているのですから間違いありません。

 

2月25日(火)

聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

ローマ10:11 

 

クリスチャンの強さは、今日の聖句で明らかです。私は彼を知っています。そして、あなたも彼を知っているのです。だから、彼を信頼しています。その信頼する者は、失望させれることがないのです。ただ、その信頼を試されることはあります。なぜなら、彼を信頼すること以外に私たちができることがないので、この信頼こそが最も重要となるからです。一方、人間は彼を信頼することの重要性をそれほど意識していません。そのために、信頼がすぐぐらついてしまうのです。それが証拠に、色々と起こる問題を彼を信頼することで解決する経験が少ないと言えます。それも無理もないことかもしれません。というのも、普通、人間は自力でなんとかしなければならないからです。問題の解決を誰かに信頼して解決してもらうことはほとんどないのです。やはり、自分が頑張らなければ誰も助けてくれないから、自然と自力で解決することを覚えてきました。その自力の優劣こそが人の価値を決めるとさえ思わされてきたのです。ところが、キリスト教は全く逆なのです。自力でもがくのではなく、彼への、つまりキリストへの信頼だけで解決しようとするのです。そのような経験がほとんどないとクリスチャンでも、悩み苦しみが未信者と変わらなくなります。もっと、まずいことにそのように自力での解決ができないと、自分の信仰がダメだからと自虐的に考える傾向があるのです。その信仰がキリストに対する信頼の意味であればまだしも、実態は自分で問題解決できないことを自分で責める苦しさから出てくるクリスチャン特有の言葉なのです。そこで、早く気がついて、今日の御言葉を繰り返し復唱し、自分の考え方にしてください。そすれば、正常な信仰生活を送れるようになります。それは、失望させれることがない、ということです。

 

2月26日(水)

神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。

Ⅰヨハネ5:3、4、5

 

皆さんは、ナザレのイエスがメシアであると信じていますか。そうであるなら、聖書の真理が告げているように、あなたは神から生まれた者です。その人の特徴は、新しく生まれさせてくださった神を愛します。そして、神様が同じように新しく生まれさせてくださった人を愛します。だから、神の掟の通りに、神から生まれた者たちを愛します。この世にいるクリスチャンたちは、戦いがあります。敵であるサタンの軍勢がいるからです。また、罪人たちがこの世に大勢住んでいるのです。その中で、愛を試されるような戦いが続いているのです。戦いである以上、勝利することが重要です。果たして私たちに勝ち目があるのでしょうか。聖書は何と教えていますか。「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」。そして、これが難しいことではないことが今日の聖句に書かれていたのです。「だれが世に打ち勝つか、イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」。このことを私たちの信仰と読んでいるのです。だからあなたも勝利できるのです。そうとわかれば、この世で何を恐れることがありましょうか。

 

2月27日(木)

それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。

コロサイ3:12

 

クリスチャンであるあなたは、今日の御言葉を祝福された人生を実現するために、ぜひ目標にしていただきたいと思います。あなたは、とても素晴らしい人のはずです。それは、神様に選ばれた者だからです。洗礼を受けて洗い清められ、聖なる者にしていただいたのです。それは、あなたがいつでも主に愛されているからです。そのようなあなただから、主にあって何でもできるのですが、その特権を行使して「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけることを目標にします。もっとも、それには仕組みがあって、ガラテヤ署に書かれている通り、聖霊の実として実現する者です。ですから、聖霊がわからない人は聖書で聖霊を学ぶことをお勧めいたします。難しく考えずに、特に新約聖書から聖霊あるいは、“霊”、御霊などを探して読んでみるとだんだん聖霊の働きがわかってきます。そうなると、聖霊に満たされることを自然と求めるようになるでしょう。聖霊を求めることは天の父の御心にかなっていますから、その願いはかないます。聖霊に覚醒していただくことにより、聖書はよく理解できるようになり、自分の前に連れてこられた人への主の愛が自分から溢れてくることを知るでしょう。その愛が人を助け、救う力となります。そして、そのような経験を通して、隣人への慈愛や同情心がが深まります。そして、聖霊が自分を通して普通に働かれることを知るようになります。私が何とか助けようとすれば、うまくは行きません。そうではなく、自分を通して聖霊が働くことを認めて任せることです。そのためには、謙遜でなければなりません。そうなると、隣人対する接し方が柔和になります。時には人を裁きたくなる事態が起こるかもしれませんが、忍耐して聖霊に祈ります。すると、寛容が身につきます。このように、聖徒たちは、聖霊によってキリストの品性をいただけるようになるのです。人間の努力ではできないことを聖霊が補ってくださるのです。ありがたいことです。

 

2月28日(金)

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後にくるものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

ローマ8:39

 

この御言葉で十分です。私たちは主の愛がわかったので、人生が変わったのです。そのイエス様の愛によって生かされているのです。私たちは、主のために生きようと思えたのです。だれも、邪魔をすることなどできません。主の愛があれば平気です。神様が愛してくださると理解できるのは何とありがたいことでしょう。それだけで、どんな人生でも生きていけるのです。教会福音賛美歌vol.2のCDを買ったのですが、その一曲目が「あなたに語り知らせたい」(369番)です。歌詞は、「あなたに語り知らせたい、主イエスに出会ったことを、主はまことの友となって、人生を変えてくれた。私の罪を赦し、親しい友となり、誰もより心配られた、私のために。」二番は「罪によごれた私さえ、主イエスは見つけてくれた、強い愛の腕でささえ、御心しめしてくれた、・・・」。私たちがクリスチャンとして生きていけるのは、「主イエスにある神の愛」があるからです。だから、今日も元気に主のために生きましょう。

 

2月29日(土)

強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

申命記31:6

 

私たちは、時々失敗します。それも恥ずかしい失敗をするのです。特にクリスチャンなのに、何であんなことをしたのだろう、何であんなことを言ってしまったのだろう、と後悔することも珍しくありません。柔和で穏やかな人を見ると、羨ましく思うかもしれません。しかし、自分であることは変えることもできませんし、失敗も変えることができません。悪魔はずるいので何度も、失敗を思い出させては責めるでしょう。しかし、言い訳ができません。そうなると苦しくなります。そして、悪魔まのそそのかしは、「神様もあなたを見捨てた」とささやくのです。自己嫌悪に陥ると、敵の罠にはまります。ですから、そんな時には、聖書の約束を思い出してください。今日の御言葉は、「主はなたを見放さず、あなたを見捨てない」というものです。人生は変えることができます。それは、主が決してあなたを見捨てずに、弱っている時には特にあなたのそばから離れずに、共に進まれます。主が、あなたを赦してくださるので、あなたは悔い改めて、また元気に主の備えてくださった道を歩めばいいのです。あなたの才能や賜物を主は生かしたいのです。あなたの個性が光り輝くことを主は期待しています。だから、チャンスはいくらでもやってきます。勇気を出して、主のもとへ急いで帰りましょう。あなたを助ける救い主イエス様は、あなたを待っています。恵みはまだ用意されていますから、安心してください。