2020年6月ディボーション

6月1日(月)

知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。

Ⅰコリント8:1bー2

 

自分の知識はどれほどのものだろうか。小学校5年生までの問題を出すクイズ番組がある。たかが小学生レベルの知識などとあなどると大変な目にあうだろう。事実、そこに出てくる大人たちが答えられずに子供たちに助けてもらっているのが面白いという番組のようだ。私たちも大人になるまでたくさん勉強をして知識を身につけてきたはずなのに、生活で必要のないことはすぐに忘れてしまう。脳とはそういうものかと納得しても、放っておけば知識は消えて行くし、古くなる。そこで、一念発起して、何かを勉強し始めると、そこからまた知識の集積が始まる。ただ、60歳を過ぎれば新しい知識を覚えようとするのではなく、今までの知識や経験の積み重ねを使って役立つように考える方が良いという人がいる。それも良し、何歳になっても学び続けるも良しだと思う。ところで、自分の専門とする知識を持っている人は、どうしても高ぶる傾向があるのも事実だ。だから、少しでも専門の勉強をした人は、ウンチクをひけらかすかもしれない。それは少ししか勉強していないからだ。本当に勉強すると簡単に言えなくなる。仕方なく難しく説明することになる。真理は簡単なはずなのに。今日の聖句の後半は、本当にそうだなぁ、と思わず声が出てしまう人もいるだろう。それが証拠に、本屋に行けば、読み切れないほどの多量の本が並んでいる。専門書に至っては、何十年も前の教科書は今は誰も使っていない。考え尽くしたと思ったのに、それを悠々と超えて行く人たちが後から後から出てくるのだ。それでは、知識の大家はすべて聖人になるかと言えばそうではない。ところが、普通の人たちが他人を思いやり、親切にし、弱い人を助け、愛を実践していると、それだけでその人たちは人間として高い者に引き上げられている。このように良いことをしても褒められないとすぐにやめてしまうのでは、愛の動機ではなかったことを証明してしまう。見返りを求めない愛は、キリストとの関わりの中で生まれるものだから、道徳や倫理とは違っている。たとえ、恩を仇で返すような理屈に合わない事をされても、それで怒ることもない愛を私たちはキリストから与えられた。こんな事は考えて努力してやる事ではない。だから、知識ではこんな時に感情が高ぶって対処できないだろう。でも、愛はいつでも造り上げるので、私たちは主にそのように導かれているわけだ。

 

6月2日(火)

あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。

マタイ7:3、4

 

人間が生きていくのは結構大変なことです。他人の言動がいちいち気になるのです。特に、何かをちゃんとしないなら、たちまちそれが許せなくなってしまうから厄介なのです。世の中には決まり事がたくさんあります。それは、社会の中でみんながうまくやっていくために生まれた知恵なのですが、それらが時にはギスギスさせる原因になっていることもあるのです。コロナ報道でもはじめの頃はマスクをしていない人がいた、とかいうだけでニュースになっていました。私たちは、仲の良い関係の中にいると、驚くほど寛容になって、たいていの事は許してしまいます。ところがその関係が近くなり過ぎると、いちいち気に入らなくなって、ギスギスし始めます。そのような社会の人間関係に疲れてしまう人は多いのです。ではそれをどう理解すればいいのでしょう。今日の聖句はイエス様の教えです。「なぜ自分の目の中の丸太に気づかないか」と言われるとドッキとします。「兄弟の目にあるおが屑」とは人の些細な失敗や間違い、あるいは小さな罪のようなことです。これが許せない!見とがめてしまうので、人間関係がギスギスして空気が悪くなるのです。ところが、イエス様は、そのように人を裁くあなたは、目の中におが屑よりはるかに大きな丸太があるのに気がつかないのか、と言われます。これは相当恥ずかしいことですよね。自分には問題がたくさんあるのに、それは寛容に無視できるけど、他人の事は、どんなに些細な事でも気になって寛容には振る舞えない、というわけです。考えると不思議ですよね。自己中心と言われても仕方ありませんが、そんなことより、自分の人生をだいぶ損して生きているように思います。他人に対してどれだけ心を広く持ち、寛容を実践できるか、それがうまくいけば行くほど、心を悩ませることが無くなります。精神的にとても楽になります。イエス様は自分の問題を解決できれば、他人のことも楽にしてあげられると教えているのです。その問題解決とは、人間関係を緩くすることです。何事もお互い様だし、できれば笑顔で相手の失敗を甘受できるようになりたいし、自分から譲りたいし、どんな事でも四角四面に厳格にしなくてもいいのです。それは、罪でも赦されたイエス様を知っているからです。私たちはこの世界でなんとか生きている者なのです。それだから、許し合わなければやっていけないし、この世界が必要とする人や筋を通す人ではなくて、寛容に許してくれる人です。そして、まずは自分に笑顔を向けて寛容に赦さなければなりません。それから、他人にも「まあいいか」と大目に見るわけです。この程度に緩くしなければ生き辛くなります。あなたがまず先に寛容に振る舞えば、相手のおが屑もきっと取れてしまうでしょう。

 

6月3日(水)

だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。

Ⅰコリント10 :24

 

ある哲学者が言うには、誰かのことを想っていた、と言う場合、それは自分のうちで相手のことを想像していることであって、相手の人についての自分が解釈した事柄を勝手に相手の人の人柄や性質や性向だと思い込んでいるだけで、そのような造り上げられた像を現実の相手だと思い込んで想像しているだけだと言うのだ。確かに、若者がアイドルに熱を上げていると、やがて、どこかでその人が幻滅するような現実をさらすのを見聞きしてしまい、ショックを受けて、騙された!裏切られた!と叫ぶのだが、本当は、ようやく現実を認識したと言うことだ。このように、私たちには、目の前の人でも、自分なりに解釈して見てしまう傾向がある。どうして相手を見ないで、そのイメージを見てしまうのだろう。さて、今日の聖句だが、自分の利益ではなく他人の利益を追い求める、とはどう言うことだろう。アイドルを美化して想像たくましく妄想が行きすぎたら、それは虚像になってしまう。聖書的に言えば偶像となる。それは、「貪欲は偶像礼拝にほかならない」(コロサイ3:5)とあるように、自分の中の貪欲が関係している。だから、アイドルの利益を追い求めているつもりで、結局は自分の利益を追い求めていたことになる。そのような事ではなく、純粋に他人の利益を追い求める事は、愛から出た動機でなければ、成立しないだろう。不登校になり始めた友達を毎朝わざわざ遠回りして迎えに行くA君。毎朝早起きして会社に行き、皆んなが出社する前に掃除して皆んなが気持ちよく働けるようにと黙ってやり続けるY君。日本人は思いやり、と言う言葉で昔からやってきた。それが美意識にまで昇華している。だれでも自分だけ損をしたり、踏みにじられるのは嫌だ。だから、損をしないように、というだけでは潤いがない。御言葉通りにしようとすれば、難しく感じるだろう。また、自然と力が入っているんじゃないだろうか。そんなに難しく考えるのはやめよう。人間が幸せを感じるのは、誰かを喜ばせようとするときだ。その人が驚いて心から喜んでいるのを見るだけで、嬉しさが自分の心を満たすだろう。それが広がっていけばいいだけだ。まずは、神様にチャンスをくださいと祈ってみたらどうだろう。どんなことが起こるか楽しみだ。あなたの周りにも大切な人たちがいるはずだ。

 

6月4日(木)

女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛を剃り落としたのと同じだからです。

Ⅰコリント11:5

 

パウロが嫌いだと言う女性がいました。女性の地位向上に意欲的な方です。確かに、今日の聖句を読むとギョッとする人はいるでしょう。今は21世紀です。この手紙が書かれたのは1世紀ごろのことですから、今とはだいぶ事情が違っています。日本だって、つい最近女性に参政権が与えたれたのですから、もう少し前なら、この箇所から女性に被り物をかぶるように教会は要求したかもしれません。西洋の聖書注解者は中東でよく見かける女性のベールをここでは言い表していると思っています。目だけ出して、頭からスッポリ覆っているあれです。確かに、聖書には時代や場所に限定された教えがある事は広く認められています。これもその一つと考えられます。当時のコリントは世界でも最も放銃に満ちた場所だったのです。そこで、パウロがクリスチャン女性が批判されない事を考慮したかもしれません。アメリカに有名なウエスト・エンジェルス教会という黒人教会があります。巨大な円形の建物が一際目を引く教会です。この教会の礼拝に出席した時に驚いたのは、全員正装で着飾っているのです。女性はもちろん大きな帽子をかぶっています。とても派手なんですが、よく似合っていて素敵でした。日本人協会では決して見ることのない文化だと思います。それぞれの文化や習俗は元の良い意味があったはずですから、それは尊重していいわけです。しかし、 真理はその中に入れて行く必要があるのです。何を着るか何をかぶるかかぶらないかは、常識の範疇で決めればいいのです。そうでなければ、カツラはいいのかいけないのかとくだらい論争が起こりかねません。聖書が書かれた時代や場所、その時に必要な勧告なのか、普遍的な真理なのか、それらを見分けることが必要です。

 

6月5日(金)

あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるように熱心に努めなさい。

Ⅰコリント12:31

 

聖書を見る限り、聖霊の賜物を否定的に捉えてはいないし、むしろ積極的に聖霊の賜物を受けるようにと勧めているように見えます。聖霊の賜物は、クリスチャンが聖霊を受けている証拠でもあります。ですから、信仰のない者に与える事はありません。ただ、現代のように豊かになり、知識が増え、何でも良い物が身近にあるようになると、こうした霊の賜物が姿を消してしまいます。それでも、コロナが流行れば、たちまち私たちの生活は停滞し、不安とストレスが人々を蝕みます。お年寄りも病院にも行けなくなり、癒しを必要と思うきっかけになります。私たちも今日のみ言葉に励まされて、もっと大きな賜物を求めるでしょうか。それは、何でしょう。どうだこんなすごい賜物を頂いたぞ、と自己を誇るような性質のものではありません。奉仕や伝道と直接関わります。そう考えると、最後の「熱心に努めなさい」が信心の事を言っているのかと、自分の信仰を振り返るきっかけになります。通常では考えられないような超自然の力で誰かを助け、キリストへと導く力になる事は間違いありません。自分の自覚している才能と関係がある霊の賜物をいただく事もよくある事です。ただ言える事は、深い信仰が発揮される時にこの霊の賜物が発動する事は間違いありません。日頃からよく祈り、主への信仰を深めることが早道であるかもしれません。ただ、奇跡ばかり追い求める人たちは、良い結果がありませんのでご注意ください。何事も主の御心を行う事が求められています。そのような者になりたいですね。

 

6月6日(土)

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。

Ⅰコリント13:4~8a

 

信仰の奥義を習得したパウロは、ここでこう切り出したのです。「わたしはあなたがたに最高の道を教えます」。それが今日の聖句なのです。ですから、キリスト教の最高の道は「愛」なのです。私たちはもちろん愛の大切さを知っています。クリスチャンになったのだから愛の人になりたいと思うものです。それなのに、あっとういう間に愛ではない事をしてしまうのです。意思の力など何の役にも立たないと思うほど、あっけなく罪を犯し、愛を踏みにじるわけです。もし、このリストが反対ならば、何とすべて当てはまるではないですか。忍耐強くない、情け深くない、ねたむ、自慢する、高ぶる、礼を失する、自分の利益ばかり求める、すぐいらだつ、恨みやすい、・・・・ガッカリするだけです。この愛の賛歌と呼ばれる箇所は、結婚式でよく読まれるのですが、その時の決意が、その後の結婚生活に生かされているかどうか、不安になります。とうとう離婚に至った人にとっては、最後の部分は、「もうすべてに耐えない、愛は滅びやすい」となるのでしょうか。不思議なのは、この聖句を読んでいて感激し、この通りに生きていこうと思う人が、間もなくこのリストを打ち壊してしまう事です。なぜなのでしょうか。12章が聖霊の賜物であることから、聖霊に生かされている事が関係しているのです。聖書に書いている通りであれば、聖霊の賜物が自分を通して現れ、癒しや奇跡が起こり、人が目の前で癒され救われて行くのです。そのような奇跡を体験するほどの信仰は誰でも与えられています。それどころか、「もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と書いてあります。この「熱心」が自分にあるかないかで分かれるのです。聖霊によって生きるなら、聖霊は愛なので、アガペーの愛が自然に現れます。それを言葉にすれば、今日の聖句のリストになるわけです。人間の理性で道徳的に真面目に努力しても、この愛のリストは達成できないでしょう。でも、方向を変えるのです。キリストを見なさい。天を仰ぎなさい。この地上に生きているなどと思わないことです。すでに神の支配の中に生きているのです。信じると心が変わり、生きる行動が変わります。この聖句がいいなと思うなら大丈夫です。あなたの心を向ける方向が主イエス・キリストへと照準を合わせるでしょう。この世のものなど何も魅力がありません。この愛が自分のうちから溢れてくるように主に祈りましょう。

 

6月7日(日)

愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。

Ⅰコリント14:1

 

異言を禁じる教会は多くあります。つまり、現代では、聖書に書かれた事が理解されずに拒絶されている現実があります。当然、預言も同じようなものなのですが、異言ほど問題にはなっていません。それは、預言は日本語で話されるから預言と気がつかないためだと思われます。異言はでたらめ言葉のように聞こえますし、自分が理解できないものはすべて拒否したいという心理が働きます。また、自分が異言を話せないのに、他人が異言を語る事自体受け入れがたい事なのです。それが教会の牧師や長老などが異言が語れずに、平信徒が異言を語り出すと混乱が始まります。そして、教会は二分され、分裂してしまうという事がしばしば起こります。そこで、さらに異言は危険だということになり、敬遠されるわけです。ところが預言は、「人を造り上げ、励まし、慰めます」。「預言するものは教会を造り上げます」。ですから、預言も教会員にも教会にも必要なのです。神様が御心を示す方法の一つですから、直接わかる言葉で神様の言葉を取り次いでもらいたいわけです。未来を占うようなことではありません。もっとも未来のことも語られることはあります。わたしの場合は、ビジョンを通して語られている事が多いですが、主がこう言われているとわかる時もあります。個人に語る時には、直接神様が語ってくださるように願います。ただ、今日の聖句を注意して見れば、まず、「愛を追い求めなさい」とあります。ですから、すべては愛を追い求めた結果であるべきです。「隣人を自分を愛するように愛しなさい」という神様の戒めを霊の賜物を現す時にも忘れてはいけないのです。イエス様の同情、憐れみが共感されているのなら、霊の賜物は現れてきます。このような働き無しには、クリスチャンも成長しないし、造り上げられることも難しいのです。イエス様ならどうするだろうと考える事ができるようになると、霊の賜物も自然と現れてくるはずです。キリストの強烈な人への愛が共感できるようになるからです。預言の言葉は、人を傷つける事がありません。毒舌であると自認しているような人には預言は難しいかもしれませんね。人の徳を高めようと考えるようにして、言葉で人を励ましたり、慰めたりするするように自分を変えて行くことは良いことです。人はけなしたり、批判するだけでは成長しません。そうではなく、愛の言葉で良くなり、成長できるのです。聖霊はそのようにしたいので、預言が出てきます。神様の愛の言葉をもっと聞かせていただきたいですね。

 

6月8日(月)

わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。私たちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちない者を着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。

Ⅰコリント15:51~53

 

キリストが復活したことは、クリスチャンにとって重要なことですが、その意味を理解しているかどうか不確かな人もいるでしょう。パウロは、今日の聖書箇所から説明しています。まず、キリストは死者の復活の1号となり、最初のアダムが死者の1号になったと同じ意味でその後に続く者が同じようになるというのだ。つまり、キリストの復活まで、誰もが死ななければならなかったが、死んでから復活することはなかった。しかし、キリストの復活によって、死者の復活に道が開かれたわけだ。それは、キリストによってすべての人が生かされるという意味だ、と教えている。世の終わりの時の復活の順序も決まっている。そして、すべての支配、権威、勢力を滅ぼす、その意味は悪魔、悪霊をすべて滅ぼすということだ。この罪の結果がすべて裁かれて滅ぼし尽くされるわけだ。しかし、キリストを信じて救われた者たちは、たとえ死んでいても復活し、眠りからラッパの合図でよみがえるわけだ。しかし、天国へ行く者たちは、一瞬にして今とは異なる状態に変えられるというのだ。歳をとって衰えて行くような体ではなく、死んだり病気になるような体ではない。朽ちない体、霊の体と聖書に書かれています。それがどのようなものかはわかりませんが、今より良いものであることは間違いありません。ですから、この世のことばかり考えるのではなく、まもなく来る永遠の世界、天国の事へと思いを向けることにしよう。そうすれば、死はもはや怖いものではない。その先のことを私たちは教えられているのだから。希望を持って今を信仰を持って生きていこう。

 

6月9日(火)

マラナ・タ(主よ、来てください)。主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように。

Ⅰコリント16:22~24

 

クリスチャンになって一番の良いことは、兄弟姉妹を愛せることです。パウロは、独特の言い方で手紙を締め括りました。そこには、パウロが何を心の一番に置いていたかがわかる「マラナ・タ(主よ、来てください)」が書かれていました。パウロは主を待っていたのです。それは、教会にとっても第一のことです。これは、主への憧憬とも呼べる信仰の告白です。そして、私たちも主イエスの恵みが、兄弟姉妹と共にあるように願うのです。さあ、最後の言葉です。「わたしの愛が」、このわたしの部分にあなたのお名前を入れてみましょう。キリストは、クリスチャンの内に内住していますから、わたしの愛がキリストにおいてあなたと共にあるように、と言えば、主の神秘の御力でその通りに実現するのです。私たちは、イエス様の命令を心に刻んでいます。主は「互いに愛しあいなさい」と言われました。ちょうどその時、弟子たちの一番後ろにいて聴いていたように思うほど、この御言葉は大切なのです。だから、パウロのように私たちも、「わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように」と願うのです。

 

 

6月10日(水)

わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。

ヨシュア1:9

 

ヨシュアがそうであったように、人生は戦いの連続であると言えるかもしれない。それは、武器を持っての野蛮な戦いではないかもしれないが、霊的存在である人間を十分傷つけ、痛めつけるような戦いである。その背後には悪魔の軍勢がいるであろうことは信仰者には理解できるだろう。いくら心理学で対人関係を学んでも理性では処理しきれない事が普通に起こるからだ。未熟なクリスチャンは、この世の人と変わらない反応をするかもしれない。しかし、神様に祈ることを知っているのだから、何かしら神様に訴え、助けを願うだろう。それがどれほどの効果があるかなどまだわからないのだ。神様は、生きていて実に懸命に一人一人の魂の救いのためにどのような機会も逃さずに用いる。それだから、人間と戦っているのではないことを教える。霊的な戦いなので、信仰が必要となり、その信仰を表すのに今日の御言葉は最強なのだ。私たちが悩み始める時は、必ずうろたえている。心はおののき、戦うこともなく負けてしまうわけだ。これではいけない。人は愛し、時には赦し、自分を苦しめる者が何をしているかわかっていないことを認めて、気にしない。それは努力することはない。ただ、強く雄々しくしているからそうなるだけだ。その事ができるのは、「あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」からだ。つまらない詮索などもってのほかだ。そんなことをすれば悪魔の罠にハマってしまう危険がある。相手が自分のしている事がわからないのに、なぜ相手の心を測り、詮索するのだろう。意味などない。それよりも、背後の悪霊どもをキリストと一緒に追い出す事が先決だ。そのことをスマートにできるようになるよう、主に祈ろう。人を恐れるとろくな事がない。そんなことをすれば、わざわざ悪魔がどんどん攻めてくる事ができるようにしているのだから、事態は悪化するだけだ。キリストの使者が来るまでは止まらない。だから、この世は戦場であることを覚えて、感情に付け入る隙を作らないように、今日の聖句を自分のものとしよう。聖句を書いて壁に張り出しておきたいくらいだ。

 

6月11日(木)

彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して、主を怒らせた。神れらは主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えたので、主はイエスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せて、略奪されるがままにし、周りの敵の手に売り渡した。

士師記2:12~14

 

旧約聖書を読んで行くと、このようなイスラエルの残念な話が後を経たないので驚きます。カナン侵入には多くの意味があったはずです。しかし、先住民のカナン人たちやペリシテ人たちがいて、その土地を略奪しなければならなかったのです。それは、戦いによって侵略して行くことでした。ところが、彼らは神様に背いて、すべてのカナン人を追放することをしなかったのです。その事が今日の成句に出てくるような災いのもとになりました。先住民は定住していたので、その地でどうやって生活するか知っていました。そして、彼らからイエスラエル人たちは学んだのです。その中に、農業の神バアル(夫)とアシュトレト(妻)がいました。この夫婦の神々の産んだものが農産物であると考えていたのです。カナン人が拝んでいた神々をイスラエル人たちも拝むようになるのは時間の問題でした。その地で生活するためには農業に成功しなければならなかったからです。こうしたことは、カナン人を完全に追い出さなかった当然の帰結です。だから、聖書で神様がおっしゃったことは完全に守る必要があります。それにしても、神様を簡単に変えて拝むという事が理解しがたいのですが、何度もこの問題で聖書の神様を怒らせてしまうのです。私たちは父、御子、聖霊の三位一体の神様を信じていますが、神様以上のものを見つけて心を向けるとそれが偶像となります。その偶像がもたらすものは、はなはだ悪いものであることは聖書から明らかです。だから、神様に忠実になりたいのです。昔話しに出てくるような神々ではなく、今生きて働かれる愛の神様が私たちの知る神様です。私たちの祈りに答えてくださる神様です。今日もあなたを主が守っていてくださいますように。

 

6月12日(金)

イスラエルの人々が主に助けを求めて叫んだので、主は彼らのために一人の救助者を立てられた。これがベニヤミン族のゲラの子、左利きのエフドである。

士師記3:15

 

士師記なので士師が次々に登場します。士師は、武士の士に教師の師です。中国語聖書から来たものですが、国王を持たない十二部族連合であったために、敵が攻めてくれば寄せ集めで対抗するしかないわけで、絶対的なリーダーが必要でした。イスラエルの民が困って「主に助けを求めて叫んだ」というのは、切羽詰まっていたことを表しています。そこで救助者が立てられました。左利きのエフドです。昔、ピンクレディーがサウスポーとか歌っていたと思うのですが、まさにエースの登場です。不思議な事ですが、こうしてイスラエルは、隣国に囲まれながら、収穫期には遠方から略奪隊が遠征してくるし、困難を避ける事ができませんでした。神様はそのような中で信仰の叫びに応えて必ず助けてくださるのです。時には、士師を立てくださり、主が自ら力を持って助け出してくださるのです。これは、サウル王、ダビデ王と王国になるまで続きます。士師の意味は主が直接王となって守ってくださるという事です。でも、私たちはもっと目に見える確実で納得できる方法で守ってほしいと思う傾向があります。主への信頼を考えるには士師記は良き機会を与えてくれるでしょう。それにしても、左利きのエフドって何かかっこいいですね。

 

6月13日(土)

なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人ために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人ために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。

Ⅱコリント5:14、15 

 

パウロが福音をどのようにキリストの啓示によって受けたのか、そしてそのように理解していたのか私たちはとても気になります。それこそが自分のキリスト教信仰そのものに関わっているからです。パウロが異邦人に伝道して伝えた福音は、一言で語れるようなものではありません。一言で語れるようなものなら新約聖書はものすごく薄いものになっていたでしょう。紙一枚あればいいわけですから。だから、福音を理解するということは、聖書をしっかり学ぶより他ないのです。ただ、近道はあります。イエス・キリストをあなたの主として信じなさい、といったバプテスマの時に聴くようなことです。しかし、信仰生活を始めたクリスチャンは、いつまでもそれでは風に揺れる葦のようなものです。そこで、手がかりを見つける必要があります。例えば、今日の聖句です。私たちは「一人の方がすべての人ために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります」と読めば、おやっと思うのです。キリストが私たちに代わって死んでくださったのではなかったのか、と。このみ言葉はそうではなくて、私たちを死なせるため、と言っているのです。それだけでなく、私たちを復活させるためにキリストは復活したのです。確かに、私たちの罪の贖いとして私たちの身代わりに死んでくださったと理解していいのですが、そこで終わってはいけないのです。十字架には奥義があるということですから、私たちの救いに欠かせない大切な真理が隠されているのです。この復活にあずかる事ができれば、イエス・キリストのために生きるということも自ずと悟れるのです。クリスチャンは本当に祝福されているので立ち止まることのないように、福音のすべてを理解できるように祈り続けましょう。

 

6月14日(日)

夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。ところが逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。

マルコ6:47、48

 

私たちは聖書を読んでいると、このようなとても印象深い箇所にたびたび出会います。そうすると想像力が働き、弟子たちの様子や、その場の情景が浮かんできます。漁師である弟子たちも乗っている舟で強い風に押し戻されて、難儀しているのが手に取るようにわかるのです。夕方になっても湖の真ん中にまだいるのです。そして、夜中そんな危険な状態で彼らが悪戦苦闘したのですが、救いは、意外な形でやってきます。それは、風に煽られて荒れている湖をなんとイエス様が歩いて渡ってこられたのです。もう夜明け頃になっていました。ところが、イエス様は弟子たちの乗っている舟のそばを通り過ぎようとされたのです。湖を舟で弟子たちが渡るシーンは、この世から神の国へと渡っていくイメージで捉える事があります。舟は教会でしょうか。弟子たちの問題は、自力でなんとか頑張って神の国へ入ろうとしている点です。そのようにしていると、イエス様はそのままそばを通り過ぎてしまうという事です。なぜ、祈らないのか。なぜ、イエス様に助けを求めないのか。なぜ、自分の力に頼ってしまい、結果として主に頼らないのか。このようなに考える事が満載なのが、この印象深い聖書箇所の良いところです。さて、あなたはどのように思われましたか。自分の力に頼って頑張っていないでしょうか。天国への道は、イエス様だけだということを忘れていないでしょうか。この時も、自分を責めるためにやってはいけません。主の恵みにあずかることを積極的に考える事が良いことなのだと意識しましょう。

 

6月15日(月)

主の御使いは彼に現れて言った。「勇者よ、主はあなたと共におられます。」

士師記6:12

 

主は人を選び、召命を与えるのです。自分の周りに大勢の人がいても、どうしてかクリスチャンになったのは自分だけだった、という事があります。ミッションスクールに通っていても、すべての人がクリスチャンになるわけではありません。クリスチャン・ホームに育ったのではなくても、クリスチャンになる人が日本でも大勢いるのです。あまりにも色々な人がいるので、何が基準で選ばれたのかわかりません。人間的基準でないことは明らかです。ギデオンのように、力のない小さな家系でも、また兄弟の中で最も年下であっても、そのような事が妨げになりません。主は間違う事がありません。そして、自分の意思で主の召命に答えた人がクリスチャンなのです。もし天の御声が聞こえるなら、「勇者よ、主はあなたと共におられます」と聞こえてくるでしょう。今までの自分の人生を振り返っても意味がありません。召命を受けたのなら、召してくださった方の御心を行うまでです。主の御心に忠実であれば、大勝利が約束されています。あなたの人生は、主のご計画のままに祝福されています。主の御声に忠実というのは、人間の声に惑わされないという事です。自分の弱さがあれば、主の強さにすがれば良いのです。心楽しく進みたいのなら、喜ぶ事です。主にあって喜ぶのです。今日も良い一日となりますように。

 

6月16日(火)

主はギデオンに言われた。「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。

士師記7:2

 

ギデオンは勇者の誉が高いので、ギデオンに憧れる人は少なくありません。讃美歌も作られ、勇しく男性コーテットが歌い上げます。勇気くが湧いてくる讃美歌です。今日の聖書箇所は、私たちにも当てはまります。これは、人間の力を頼みにことを成し遂げるとそれを誇り、決して神様のおかげとは思わないことを教えています。それは人間の救いに関係しています。つまり、行いによる義は自分の目には良く映っても、神様にはその人の心のおごりばかりが見えるので、義と認められない、と言う教訓です。人間は力を誇って神様を退けてしまう傾向があるのです。だから、海辺の砂のように多い敵をたった三百人で打ち負かすのですが、神様が勝利を与えてくださったからであることが良くわかります。私たちは、聖書から教訓を学び、同じ過ちを犯さないようにしなければなりません。主を信じて信頼しきることが主に義しいと認められる方法なのです。時には勇気もいるのですが、それすらも配慮されるので心配入りません。あなたが信仰を奮起させるにはどうすればいいのか主はご存知だからです。自分の悩みすら主に任せなさい。疲れたなら休みなさい。主との関係が平和であれば、安心して休めます。主は、あなたの信仰をよしと認めてくださいますから、祈りの中で平安を得てください。ギデオンは、主を信頼することで常識ではあり得ないことを主が命じられた通りにしたのです。そこが勇者だったのです。

 

6月17日(水)

イスラエルの人々は、周囲のあらゆる敵の手から救い出してくださった彼らの神、主を心に留めなくなった。彼らはまた、イスラエルのために尽くしてくれたエルバアル、すなわちギデオンのすべての功績にふさわしい誠意を、その一族に示すこともしなかった。

士師記8:34、35

 

恩知らずの話がここに出てきました。大軍で攻めてきたミディアン人や東方の諸民族の連合軍は、主のおたてになったギデオンによって壊滅しましたが、平和がやってくると主の恩を忘れて、バアルと再び姦淫してしまうのです。命がけでイスラエルを守り、救った功労者のギデオンが亡くなれば、その一族への誠意も無く忘れてしまう恩知らずです。このような者たちがイスラエルです。不思議なのは、神様は呆れてイスラエルを見捨てるということをしません。何度も、同じようなイスラエルの忘恩の記録を私たちは見ることができますが、彼らは困ると主のことを呼び、助けられるのです。そして、困難が去ると、助けることなどできない偶像を慕い、拝み始めるのです。どうなっているのでしょう。一つわかることは、神様は本当に一度選ぶと簡単には諦めないということです。何度でも赦し、神様の民を助けるのです。だから、私たちがどんなに期待外れなダメな事を繰り返しても、簡単には見捨てないのです。悔い改めのチャンスを与え、正しい道を示し、教え、導くのです。その教科書が聖書なのです。ですから、神様の愛に応えることができるものになりたいわけです。神様の御言葉を信じると、ギデオンのように神様が生きて働かれる事を知ります。主に忠実であっても、人々がひどい事をする場合もあるかもしれませんが、主はがその事を覚えておられます。私たちは、人と比べるようなことはしないで、自分の意思で主に忠実に仕えて行きたいものです。報いは天国にあります。ですから、何が起こっても、一喜一憂しないで、主を賛美し、喜んでいましょう。どんなに小さな者でも、主にとっては勇者なのです。今日も勇者として胸を張って元気を出しましょう。

 

6月18日(木)

どのような苦労にも利益がある。口先だけの言葉は欠乏をもたらす。

箴言14:23

 

嫌なことは避けたいと思うのが人情ですが、嫌だと思うことの中に実は自分を益することがあるものです。苦労はたいていは嫌なことと思いがちですが、苦労を越えて来た人とそうではない人では人間の厚みが違います。考えの深さが違うと言っても同じです。苦労を乗り越えた人は、自分に自信を持つことができます。人の痛みに目を向け、いたわる心ができて来ます。そして、一番良いのは苦労は報われるということです。ところが、苦労をしていないとどうしても口先だけの言葉が出てしまうことがあります。ですから、うっかり「大変ですね」などと言った途端に、怒鳴られてしまうようなことが起こります。実感がこもらないから、相手にも伝わってしまうのです。苦労して来た人は、忍耐力がついていますから、困難が予想される時でも逃げ出すことがありません。確かに、人間力がついているので、人を恐れなくなり、それだけ人をみる目ができて来ます。実は、どんな人でも苦労は避けることができません。何かしらあるからです。しかし、その時にちゃんと苦労に向かい合って、ごまかさずに立ち向かえば、利益が生まれるということです。ところが、苦労を避けて生きて来た人もいるでしょう。その人は、今日の聖句の下の句を考えてみると良いのです。この真理は、人生に誠実に向き合う事を教えています。ですから、言葉だけの人になっていないかいつでも気をつけたいものです。

 

6月19日(金)

遠くから、主はわたしに現れた。わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。

エレミヤ31:3

 

クリスチャンが幸せなのは、とこしえの愛をもって愛してくださることです。それがどれほど恵まれたことであるかもっと理解できるといいのですが・・・。正しく理解できていれば、いつでも幸福でいることができるからです。主は遠くから現れました。あなたを救うために、わざわざ来てくださったのです。そして、いろいろな人生を歩まれたことでしょう。不信仰に陥った日もあったでしょう、主を遠ざけて空しく過ごしたこともあったかもしれませんね。大変なことが起こり、困ってしまった日も無事に過ぎて行ったのは、主の慈しみがあったからこそです。良い時もあれば、悪い時もありましたが、そのどんな時でも、主は変わることなく慈しみを注いでくださったのです。だから、主への感謝を忘れてはいけません。これからも、あなたは恵まれていて、主の愛と慈しみの中を歩んで行きます。そのことがだんだんわかってくるはずです。主を思うと、感謝が自然と湧いてくるようになります。今、あなたがどのような状態に置かれていても、たとえ敵がいても、主の愛は変わらず、慈しみも注がれている事を思い出してください。そして、主を信じてください。主が遠くに感じていた、あな他のもとへ主は現れるはずです。もちろん、あなたを助けるためです。ハレルヤ!

 

6月20日(土)

親切な言葉は蜜の滴り。魂に甘く、骨を癒す。

箴言16:24

 

クリスチャンが素晴らしいのは、親切なことだと思います。特に聖書にあるように、親切な言葉は特別なのです。この世界を天国のようにしたいと願うなら、皆に親切な言葉を語り続けることです。親切な言葉を聞いて人は癒され、魂が喜び、内側から良いものが溢れ出すのです。もし、あなたが苦労していて、誰かから親切な言葉をかけられたなら、涙があふれ出るかもしれません。「骨を癒す」というのは、健康にするという意味です。ほとんどの病気の原因は魂に苦い思いを与え続けるから起こります。人間を健やかにするには魂を甘いもので満たすことです。そして、その方法が親切な言葉なのです。ただ、残念なことに、この世界は親切な言葉に飢えています。魂に甘いと言えるほどの愛から出てくる親切な言葉は、簡単には見つけることができません。パウロはこう言っています「侮辱されては祝福し、・・・ののしられては優しい言葉を返しています」(Ⅰコリント4:12、13)と。ここまでできるかは難しいかもしれませんが、親切な言葉を心がけようとすることは今日からできます。その効果は、あなたに返って来ますから楽しみです。あなたも親切な言葉ミニストリーを始めてみましょう。

 

6月21日(日)

イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

ヨハネ8:12

 

クリスチャンが恵まれていることを今日は、確認してみましょう。それは、この世のやがてはすべて朽ちていくような物のことではなく、光の真理のことです。人間の悩みは、数え切れないほどあります。良い人生と言っても、悩みもあれば、失敗もあるし、病も避けられません。自分では良い人生を歩もうとしても、悪い人生を歩んでしまうこともあります。それが、自分だけのせいではなく、人から受ける被害のせいでそうなる人も沢山います。悲劇はいつ襲ってくるかわかりません。人生の罠はそこかしこに仕掛けられ、悪魔が吠えたける獅子のように獲物を求めて徘徊しているのです。犯罪を犯す人はほんの出来心で、と言い訳します。これらを聖書では暗闇といっています。ですから、イエス・キリストが「わたしは世の光である」と言われた時、それは、単なる希望だけではありません。暗闇から救い出す唯一の方法がイエスの光なのです。詐欺師は、暗闇の中でこれは良い物だと売り付けます。それを昼間に光のなかで見れば、とても買う気にならない粗悪品なのです。あなたは、人生の暗闇を通る道を選ぶか、それとも光の中を進む道を選ぶか、と言われれば、当然、光の中を進む道と答えるでしょう。しかし、不思議なことに世の中は、そうはなっていないのです。誰もが暗闇の中を通っているのです。ですから、クリスチャンがすでに光の中を歩んでいることを恵みと言うわけがわかりますよね。そこで、万が一、クリスチャンでも暗闇に迷い込んでいるなら、自分が何を信じているか、すぐに吟味するべきです。そして、今日の聖句を暗唱して、いつでも唱えていれば、このみ言葉の通りに信じることができます。そうなれば、事態は良い方向へと変わり始めるでしょう。

 

6月22日(月)

あなたたちの耕作地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな。

エレミヤ4:3

 

我が家の裏には空き地が広がり、そこに茨が生えています。雑草がひどくなって草刈りをすると、この茨のトゲが邪魔になります。雑草はまだいい方で、茨はとても厄介です。そして、チクリと手に刺さると、思わずアダムの呪いを思い出してしまうのです。その聖句は、「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前に対して、土は茨・・をはえいでさせる」(創世記3:17、18)。これは、明らかに罪に対する呪いです。そして、今日の聖句です。茨の中に種を蒔くな、です。イエス様は、「茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である」(マタイ13:22)とおっしゃいました。「耕作地を開拓せよ」と言うのは、良い土地を作ることなので、「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いてさとる人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」(同13:23)となります。聖書を読んで悟ることのできる良い心になるよう整える必要があるということですね。イエス様を信じて罪を赦されるなら、呪いからも開放されるのです。茨は罪の呪いでしたから、イエス様を信じて救われることの重要さがわかります。そして、耕作地を開拓せよ、との御声が私たちの信仰を奮起させるのです。

 

6月23日(火)

しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。

ヨハネ1:12

 

私たちは、とても恵まれています。というのも、今日の聖句の当事者だからです。言が誰であるか知っているのです。そして、言を受け入れたのです。しかも、その名を信じているのです。ですから、神の子となる資格を与えられました。これは、自分の功績によるものではありません。この聖句に書いた通りにできたからです。それは、やはり恵みとしか言いようがないのです。そうであれば、イエス様が神の子でしたから、イエス様から学べば神の子として生きることがいろいろわかるはずです。そうであれば、聖書を調べる意味が出て来ます。神様はわたしたちが救われるために、模範としてイエス様を遣わしてくださったのです。ですから、イエス様は人となり、クリスチャンになった人たちが神の子としてどうやって生きていけばいいのかを実際に生きて見せたわけです。その記録が福音書です。そして、その神の子のガイドブックが新約聖書なのです。そのことがわかれば、聖書を調べてみようと意欲が湧くはずです。自分の人生に直結しているので、楽しいこととなります。より良いクリスチャンライフを送るためにも、同じところに立ち止まることなく、真理を宝探しのように聖書から探し出してみましょう。成果はすぐにわかります。

 

6月24日(水)

軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す。

箴言12:18

 

私たちは、言葉で失敗することがありますが、それは気をつけていてもうっかり口を滑らせることがあるのです。また、自分と他人はそもそも違っていることを忘れると、失敗しやすいのです。自分は悪気がなかったからというのは、相手にとっては意味がないことです。それで、気をつけるように意識していても、いつかは失敗するでしょう。そうならないようにどんなに頑張ってみても、限界があります。難しさは、自分には痛くも痒くもないからです。「剣のように刺す」というほど、相手を傷つけるダメージが残るわけですから、それを何とか避けなければなりません。黙っていようと思っていても、言葉は簡単に口から出てくるものです。そこで、聖書に解決を探すと、「知恵ある人の舌は癒す」とあります。刺すのと癒すのとでは天地の差ですね。私たちは、癒す人になりたいのです。その秘訣が「知恵」というわけです。確かに、霊の賜物にも「知恵の言葉」がありました。この知恵の言葉の賜物を祈り求めることは良いことですね。さらに、パウロは、「人間の知恵ではなく、神から受けた、純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました」(Ⅱコリント1:12)と語っています。ですから、やはり、人間のこざかしい知恵ではなく、天から受けたものであるべきです。つまり、「神から受けた、純真と誠実」こそが、知恵となるのです。このことを覚えて祈り求めて参りましょう。

 

6月25日(木)

エフタは主に誓いを立てて言った。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします。」・・・エフタがミツパにある自分の家に帰ったとき、自分の娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出てきた。・・・わたしは主の御前で口を開いてしまった。取り返しがつかない。」

士師記11:30、31、34、35

 

士師であるエフタの話は悲しい。アンモン人は、今のヨルダン王国の先祖です。イスラエルの隣国です。ここでは、領土問題が起こり、それが戦争にまで発展します。その中で、エフタが主に誓いを立てたことが悲劇を生んだのです。コヘレトは「神に願をかけたら誓いを果たすのを遅らせてはならない。・・願をかけたら誓いを果たせ」(4:3、4)と警告しています。キリストは、「わたしは言っておく、一切誓いを立ててはならない」(マタイ5:34)と命じています。「あなたがたは、「然り、然り」「否、否」と言いなさい。「主に対して誓ったことは、必ず果たせ」と命じられているのです(同5:33)。それは、私たちが思わずやりがちなことなので、特別に注意されているのです。主に対する誓いは果たさなければならないのは当然ですが、考えもなしにその場の勢いで誓うと、取り返しがつかない結果になるからです。エフタと聞けば、この娘の物語が思い出され、もののあわれを感じます。誓いについては、私たちも気をつけたいと思います。

 

6月26日(金)

御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。

申命記30:14

 

初めて聖書を手にしたのは、神様の不思議なお導きが始まった時でした。聖書を読んでみたいとは一度も思っていませんでした。宗教とは無縁で、教会に行ってみたいとも思ったことがなかったのです。どちらかといえば、牧師なる者への不信感がありました。それなのに、神学校に入学することになり、持ち物として聖書を購入するようにとのことで、東京の三省堂書店に買いに行きました。何種類もある中からどう思ったのか口語訳の中型聖書を買いました。そして、創世記を開いて読もうとしたのですが、一行目でもうつまずき閉じてしまいました。それなのに、今考えるとヒア汗ものですが、聖書のクラスに出席していました。多分、何もわからずに座っていたのだと思います。では、どこで聖書を学ぶことになったかというと、その神学校のクラスではなく、労作教育で園芸部に入れられたのですが、そこで聖書をその教団の三大聖人と呼ばれている老先生から教えられました。先輩たちは、私がノンクリスチャンであることから、伝道しようと、本をくれたり、聖書研究をしようと誘ってくれたのですが、そうしたことはあまり役に立たなかったのです。申し訳ないことでした。後に別の神学大学に入って学ぶのですが、初めの神学校では何をしていたのかと呆れます。アカデミックな勉強ではなく、ただ救われるために置かれていたのです。そんなある日、イエス様の譬え話がどうしても意味がわからずに、いつも考えていました。そして、労作教育の時間が終わろうとしていたときに、突然、悟りました。初めての不思議な経験です。それから、友人に誘われて「偉大なる生涯の物語」というイエス伝の映画を見に行って、ようやく聖書のキリスト物語が分かったのです。それから、神様が不思議なお働きをされて、奇跡的に洗礼の意味と十字架の意味が同時にわかり、劇的に洗礼を受けました。神学校に入って一年目の終わり頃のことです。それから、二年目の夏休みには、沖縄伝道に行っていました。すでに、神様にとえられていました。しかし、すんなり牧師への道が開けたのではありません。それから、人間のことを学ぶ必要があったのです。教会のことも、社会のことも、実践神学教育が始まったのです。たった一人の取るに足りない青年を主は見つけ出し、憐れみ、そして主の御用に役に立つように訓練されました。そして、永い時間をかけてキリストの弟子の人生が続きました。ですから、今日の御言葉が本当であることを知っています。これは主の恵みであり、不思議なのです。あなたも、この聖句を確かめて恵みの世界を歩んで行くのです。

 

6月27日(土)

愛を求める人は罪を覆う。

前言を翻す者は友情を裂く。

箴言17:9

 

友達がいないという人たちがいます。特に大人になってからそういう人は多いのです。どうしてそうなるのか考えてもわからずに、余計に人から遠ざかってしまうことがあるのです。イエス様から私たちが教えていただいたことがきっと役に立つと思うのですが、それは、赦すことと愛することです。そのためには、相手を知ることが欠かせません。また自分も知ってもらうのです。互いに深く知り合えば、そこには友情が生まれています。クリスチャンがいいな、と思うのは、クリスチャン同士が知り合うことは世俗のそれと違って、相手の利益をはかる関係なのです。たとえば、今日の聖句も「愛を求める人は罪を覆う」とあります。クリスチャンは愛を求める人です。新改訳では「そむきの罪をおおう者は、愛を追い求める者」となっています。つまり、完全な人はいないので、人間は失敗するのです。だから裏切られたり、傷つけられたりします。その時に、赦すことができるかどうかということです。赦して愛するのです。それができる人は、まず自分を赦せる人です。自分を赦せずに他人を赦せるはずがありません。この難しいことを私たちはイエス様にすがって祈り、一緒に解決することができます。あなたはイエス様があなたの友であることを知っています。ですから、あなたはイエス様を愛し、従い、助けていただけるのです。自分が赦されていることの意味をイエス様から教えていただけます。自信が与えられ、なにものにも脅かされることはありません。心が弾み、喜びが実感できます。なぜなら神様があなたを価値ある者としてくださったからです。神様の選びは確実です。あなたは神様の友なのです。これ以上のことはありません。あなたの友が神様だって、すごいと思いませんか。これが真実なことなのです。

 

6月28日(日)

わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。

フィリピ3:9

 

キリスト教信仰はとても良いものです。それは、人間の常識を超越していますから、人間が一生懸命に考えても決して出てこないものです。つまり、人間が考えたことではないのです。神様がお考えになられた人間の救いのことです。その仕組みが誰でもわかるように、そして実現できるように、信じることだけが要求されているのです。イエス様を信じて、その新しい掟を守ろうとします。でも、それは互いに愛し合うことなので、うまくできないと思う人たちが続出するわけです。人間の方法では、何でも努力することが良いことなので、努力して愛そうと考えてしまいます。でも、ちょっとまってください。お付き合いしている彼氏か彼女が、あなたに「私はあなたを愛そうと努力している」と告げられたらどうでしょう。嬉しくないし、そんな人はあきらめて、他の人を探そうと思うでしょう。そんな失礼なことをなんと神様にしているなら、これは明らかに間違っていますよね。それは、隣人を愛することでも同じです。では、どうして神様や隣人を愛せばいいのでしょう。今日の聖句から考えてみます。信仰によって、神様から与えられる義があると言っていますよね。この義って何でしょう。それは、アダムが罪を犯す前に、神様から愛され、アダムも神様を愛し返すというような愛の関係を義というのです。でも、アダムは神様に背いて罪を犯しました。それは、愛し合うことを壊してしまったことだったのです。そのままでは罪人は地獄行きが決定してしまいますから、救済が神様からあったのです。それがイエス様の出来事でした。ですから、イエス様を信じた人には、その信仰によって神様から愛の回復があるということです。神様に愛され、神様を愛し返す、それができるように神様の側からすべてやり遂げてくださったのです。私たちにあるのは感謝だけですね。神様に愛されていることを喜んでください。今日も良い日です。

 

6月29日(月)

わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うと言うことです。愛とは、御父の掟に従って歩むと言うことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。

Ⅱヨハネ5、6

 

私たちは、キリストの掟を軽く考えているかもしれません。どれほど重要なことか、十二人の弟子たちと同じぐらいに分かっていないのかもしれません。しかし、そのままでいいというわけには行きません。ヨハネの手紙を書いた人は、御子イエスは「互いに愛しあいなさい」と命じ、父なる神は「愛に歩む」ように命じていると大切なことに気づかせてくれます。聖書が少し詳しくなった人は、これらの愛がアガペーであることを知っているでしょう。アガペーを神の愛とするなら、肉的な自分の力で愛そうと頑張るわけではなく、内なる聖霊と一つになっていること。聖霊もまた愛であること。聖霊が新しい命になって生きている人がそのことを悟り、神の子として生きるなら、それが愛に歩むことにつながります。そもそも、愛に歩むことが良いことであることは分かりますね。でも、人間的に考えて無理に、隣人を愛さなければならないと力む必要はありません。すぐに失敗するだけですから。信仰のこととして考えましょう。神の子としていただいたのですから、自分の特徴は愛そのものなんだと自分に向かって言い聞かせましょう。愛は最善の奇跡を生む力があるのです。誰もが愛されたいと思っています。この世は愛に飢え渇いた世界なのです。だから、自分で愛するならすぐに限界に達しますから、そんな無謀なことはしません。そうではなく、聖霊が自分を通して働いているので、邪魔をしないことです。日々の生活の些細な事に聖霊が愛の業を現していることを確かめてみるのです。気がついたら、感謝して、小さく喜んでみるだけです。悪魔の誘惑にいちいち反応している暇はありません。聖霊が自分を祝福してくださっているのを知ることです。良いことを求めて祈ったなら、それは実現しているはずです。ただ、初めのうちは、自分が信じることのできる小さな良いことから祈るのです。消極的に祈るのではなく、愛を実践するために祈るのです。それにしても、神の掟が愛であってよかったですね。私たちがキリストと一つになる方法だからです。今日一日、愛の掟が祝福となっていることを体験できますように。

 

6月30日(火)

霊の父はわたしたちの益となるように、ご自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。

ヘブライ12:10、11 

 

最近、コロナの影響で家にいる人が増えていますが、コロナ太りが気になるようで、お家でストレッチや筋トレが流行っているようです。そこで、登場するのが筋肉隆々のマッチョマンたちです。普通の人があれだけの筋肉を作り上げるには、並大抵の努力ではなかったでしょう。ところが、霊的鍛錬となると、私たちはすぐに逃げ出しそうになります。それは、罪人が聖なる者に変えられていく過程ですから、大変に決まっています。しかし、それも当座のことであって、乗り越えていけるのです。そのような経験をクリスチャン は何かの形で受けるわけです。ですから、どんな人でも、神様に鍛えられていることを覚えて、これは、神様の神聖にあずからせる目的であるから、想像もできないほど良い結果が待っていると思えばいいのです。神様に愛されている証拠と言っても間違いありません。ですから何年も何十年もクリスチャンとして生きてきたなら、その人たちは、義という平和に満ちた実を結ぶ事になるのです。今、試練にある人は、この聖句を声に出して読んで、信仰で勝利してください。どんどん素晴らしくなっているのですから、楽しみです。