2020年7月ディボーション

7月1日(水)

また、立って祈るとき、だれかに大して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。

マルコ11:25

 

自分のすることと天の父のなされることが、因果関係があることがこの聖句から分かります。クリスチャンになって、初めの試練は赦せない人を赦せと言われることです。これは、無理もないことですから、赦せないからダメな人とは思わなくていいのです。そうではなく、例えばテレビのドラマで法廷シーンが出てくると、検事が被告を糾弾し、罪を犯したことを責める場面があります。その検事役のような役をサタンが行っているのです。つまり、あなたの罪を事細かに天の父である裁判長に訴えわけです。これは、相当大変なことです。このままでは、あなたの不利は避けられません。このようなことが霊的に行われているイメージです。ところが、あなたにひどいことをして赦せない人がいるとすると、サタンは、あなたのことも赦すことなく、罪に定めて裁くべきだと主張することができます。しかし、ここで、あなたが御言葉の通りに、恨みに思う人を信仰で赦したとします。信仰でというのは、神様に対して嘘偽りなく本心から赦すということです。ただ、この時でも、イエス様が助けてくださいます。あなたは、赦したので、サタンもあなたを責め続けることが難しくなります。父なる神は、あなたが赦したので、あなたを赦すことができるようになります。サタンに正論で文句を言われないからです。そして、あなたはあんなに苦痛であって恨みに思うほどの繰り返される記憶が癒されて、完全に解放されます。もう苦しめられることはないのです。私たちは、残念ながら完全ではありませんから過ちを犯す危険をいつでもはらんでいるのです。でも、人の過ちを赦すことで、私たち自身が変わっていくのです。赦され者の平安を知るからです。この仕組みを知って、楽になることが大切です。あなたは、この背後にあるイエス様の十字架を知っているのですから、この大きな力が働いて、赦すことがきっとできます。天の父に過ちを赦していただいた人として生きる者は幸いです。

 

7月2日(木)

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

箴言3:5、6

 

あなたの前に困難が立ちはだかることがあるでしょう。誰でも、そんな時には、何とかしようともがいてさらに事態を悪化させることがあります。先が見えないと、不安になりますが、そうなるとやることなすことがことごとくうまく行きません。誰も助けてくれないのです。出てくるのはため息とぐちだけです。しかし、あなたがクリスチャンであれば、主の前に静まる必要があることに気がつくでしょう。そして、祈りを変えるのです。冷静になると、自分の悟りに頼っていたことに気がつくでしょう。聖書は、明瞭に「自分の悟りに頼るな」と命じているのです。では、どうすればいいのでしょう。「心を尽くして主に拠り頼め」と知恵の言葉は告げます。あなたがクリスチャンであれば、いずれ悟らなくてはならない大事なことです。困っているから何とかして欲しい、とか、私の願いどおりにして欲しいと、祈っている間は、何の助けもありません。しかし、心を尽くして主に拠り頼んでいるだろうかと考えてみるのです。それがどんなことであるか真剣に考えてください。あなたの人生の大きな転換点であればなおさらです。そして、道が開けたら、どこに行っても主を認めるのです。新しい会社であっても、新しい土地であっても、新しい学校であっても、どこででもです。人がその会社は難しいと言っても、主を認めてください。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされるのです。あなたは、そのような道を進んで行くのです。

 

7月3日(金)

そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」 彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」彼らは、これに対して答えることができなかった。

ルカ14:3~6

 

さて、この物語を読んでどのように思っただろうか。なぜ、彼らは、イエス様の質問に黙っていたのだろうか、なぜ、答えることができなかったのだろうか。ある人たちがこんなことを言っていた。「聖書の学者は、学問をやっているのであって、信仰とは関係ないことばかり言っている」。辛辣な言葉だが、多くの人たちがうなずくだろう。19世紀ぐらいから、特に20 世紀に入って、聖書学は、諸科学と変わらなくなってしまった。だから、学問としては進歩発展を遂げたが、教会は人が減り、世俗化が進んでしまった。ああ、専門家!イエス様の時代から変わらないことに驚く。いわゆる専門家は悪くはないのだろうが、イエス様に答えることができない役に立たない研究をしていたことになる。病気の当事者は、律法の専門家ではなかったが、病気を直していただけた。ただ、黙っていた専門家たちには癒すことはできなかった。いや、癒す必要を感じていなかったのだろう。これが、自分の息子が井戸に落ちたとなれば、安息日であろうが、関係なくすぐに全力で助けただろう。なのに、病気で苦しむ人には冷淡になれる。それを申し訳なく思うわけでもなく、逆に安息日に病気を癒してはいけないと真顔で教えていたのだ。どうして、こうまで人に対して冷淡でいられるのだろう。彼らは、自分の子供を救うことに躊躇しないだろう。それなのに、他の人ならば、自分の教えの通りに安息日にしてはならないと言うわけだ。この矛盾が、イエス様の質問に答えられない理由だった。旧約聖書を読んでみれば、律法に書かれていることの例外がいくらでも見つかる。ダビデなど、祭司意外食べてはならないと律法に書いてあるのに、緊急時に食べていた。つまり、神様は人間に無理難題を押し付けているわけではないのだ。人間を守ろうとしているのであって、律法の原則は愛することだ。だから、人間を愛しているなら、人間の弱さを思いやり、寛容に赦したり、汚れた者であろうが、罪深い者であろうが、悔い改めや救いの機会を惜しげもなく与えるのが神様のしてこられたことなのだ。我々が聖書を学んで、それでも、人を赦せないというなら、まだ聖書を読んだことにはならない。人を憐むことができないなら、聖書に書かれた恵みをまだ十分に味わっていないのだろう。つまり、罪の病気を完全に癒していただいていないのかもしれない。それなのに、イエス様の癒しを律法の専門家のように、自分の考えに合わないからと拒絶しているのではないだろうか。イエス様は目の前にいてすぐに癒すことができるのに、ただ黙って、結局拒否しているのだったら、ばかばかしいと思わないだろうか。今日、イエス様の奇跡が自分に起こることを期待しよう。

 

7月4日(土)

わたしは主、あなたの神

海をかきたて、波を騒がせるもの

その御名は万軍の主。

わたしはあなたの口にわたしの言葉を入れ

わたしの手の陰であなたを覆う。

わたしは天を延べ、地の基を据え

シオンよ、あなたはわたしの民、と言う。

イザヤ51:15、16

 

私たちは知っている。私たちの神はその御名を万軍の主ということを。私たちは、そのことをすぐ忘れてしまう。すると、途端に悩みがやって来る。どんな些細なことでも、それらが心を悩ますのだ。特に、人間が厄介だ。どんなにいい人でも、時には傷つくことが起こる。それだけではない、自分が神の民であることすらすぐに忘れて、自分がこの世の人たちと同じに見える。だから、また悩む。でも、思い出してほしい、あなたの神はその御名を何と唱えているか。そう、あなたの神は海を書き立て、波を騒がせるものだ。想像をはるかに超えた、力の神なのだ。誰もが恐れ震え上がる偉大な神だ。その御名は万軍の主。何と力強い大きな響きがこの地の果てにまで広がることだろう。天を延べ、地の基を据えたお方があなたの神だ。あなたは、神を小さく考えていないだろうか。主の手の陰であなたは覆われている。あなたは、特別な存在。間違うことのない全能の主が、あなたを選んだのだ。それなのに、あなたは、この世の小さなことで悩み、無力な者のようにつぶやく。あなたのために、神は万軍を遣わすことだってできるのだ。誰もかなう者などいない。百戦百勝するものは主のことだから、あなたの人生の戦いも明るい。たとえ、悪魔が戦いを挑んできても、恐れることはない。すでに悪魔に勝利したキリストがあなたの救い主であるから。主は、あなたに主イエス・キリストの御名を使う権利を与えた。あなたは、御心にかなったことを勇気を持ってやり遂げるだろう。そのためには、主の呼びかけを聞くべきだ。「シオンよ、あなたはわたしの民」と告げる主に、雄々しく立ち上がるべきだ。我が神は私を呼ぶ。我が神の御名は万軍の主。「奮い立て、奮い立て」、万軍の主よ、今こそ世界を救いたまえ。

 

7月5日(日)

神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。その証しとは、かみが永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。

Ⅰヨハネ5:10 ~12

 

このヨハネの手紙には、さらに続きがあります。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」(13節)。どうでしょう、あなたがイエス様を信じて、どうなったのか悟れたでしょうか。律法主義者の人たちは、その行いで義と認められることを目標として信仰生活を送っているのかもしれませんが、その意味するところは、いまだに永遠の命を得ていないということです。しかし、聖書には、全く違ったことが書かれているのです。それは、イエス様の御名を信じているあなたがたは、永遠の命を得ているというのです。そして、そのことを悟らせるためにこの手紙が書かれたと書いてあるのです。そうであれば、悟ることを求めて祈ってください。確かに、再臨の日までにはい背教や棄教でもするなら別ですが、主イエス・キリストを信じる信仰によって、内住の聖霊の助けを得て、古い罪人に死に、新しい命に生きていることを信じていけば、神様にお仕えする生き方ができるのです。それは、恵みから恵みへと続く道なのです。あなたがイエス様を信じているクリスチャンであれば、神の子と結ばれているはずです。何の功績もなかったあなたをイエス様が愛してくださったので、この奇跡が起こっているのです。主に感謝しましょう。

 

7月6日(月)

一つのことをつかむのはよいが、ほかのことからも手を放してはいけない。神を畏れ敬えばどちらをも成し遂げることができる。

コヘレト7:18

 

人生では、いろいろな事が起こるものだ。なかなかこないチャンスが突然舞い込むなんてことも起こるものだ。ところが、皮肉なことにいっぺんに二つのチャンスが来たらどうするだろうか。二兎を追うものは一兎をも得ず、となるからと一つを諦めるだろうか。それとも、今の生活を守るために、挑戦する新しい機会がそこにあるのにあきらめるだろうか。ドリカムの歌の歌詞に10000回頑張っても、ダメなら10001回頑張ればいいという内容の名曲があるが、考えさせられた。今の風潮は、無理をしなくてもいい、そんなに頑張らなくてもいいんだよ、というものが圧倒的に正義になっている。でも、そうだろうか、頑張れる人は、やっぱり頑張ってもいいじゃないか。そして、10000回頑張っただろうか、と考えてそれでもダメなら、10001回目も頑張ってみようと、思うのはいけない事なのだろうか。今、何かに挑戦しようと頑張っている人は、やれるだけやってみたほうがいいと思う。何度も、あきらめそうになっても、健康の理由じゃなければ、何度でも♫何度でも♪と勇気を奮い立たせてもいいと思う。自分は長い人生の中で何回頑張っただろうか。10000回に届いているだろうか。もし、これぞと思って一つつかむならそれはよい事だが、ほかのことからも手を放してはいけない、とコヘレトは言っている。知恵は、私たちの耳元でささやいているのだ。ファリサイ派や律法学者の人のように、善人にすぎるな、賢すぎるなと。また、マタイやザーカイは、悪事をすごすな、愚かすぎるな、と諭されている。では、どうすればいいかと言えば、普通でいいということにならないだろうか。体裁よく言えば、ちょうどよく生きよ、となる。イエス様は、その生き方を弟子たちに見せて教えた。だから、キリスト教には、ちょうど良い生き方がある。頑張りたい時には、頑張り、疲れたら休み、元気になったらまた頑張ってみたらいい。何もしないで怠けているだけで終われば、手にする報いも決まっている。神様が創造してくださったのだから自分自身は相当高性能であることは間違いない、と信じよう。何かに夢中になったり、歳を取っても何かを頑張りたい人には、それができるように変化したり、筋肉だって、知能指数だって下がっていたのが急に上がったりするのだ。こうしたことも、人間の力だけでは無理でも、神様を本当に信じて、畏れ崇めていれば、つまり、絶対的に神様を第一に信頼して王様に仕えるように、一生懸命に忠実に仕えるわけだ。そのような人には、奇跡のように何事も可能になるものだ。信仰を持っている人にはいつだって、希望があるので、常識に縛られずに、聖書に書いてあることを信じよう。それにしても、10001回目に挑戦してみたいと思うのは、まだ若いからか、それともただ愚か者だからだろうか。

 

7月7日(火)

しかしあなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。

申命記4:29

クリスチャンが何か満たされていないと思う時、今日の御言葉を思い出して欲しい。信仰のダイナミックな点は、神様との関わりの中にあります。この聖句の前の節には、偶像を拝むことになる事が書かれています。人間の弱さは自分の願望を偶像にして叶えようとする事です。こうなればいい、ああなればいい、と心に何か願望が起こると、それを実現する方法を考えたり、試すのですが、うまくいかないと、神様に頼むのです。それが、正しい信仰からであれば、まだ良いのですが、そうでないこともあるので注意が必要です。例えば、神様の声が聞こえる、夢でイエス様が私に語った、教会に行けば神様の答えがわかるのか、と言った事を聞かれて困る事があります。神様の御声を聞くこともあるかもしれないし、夢で啓示を受ける事だってあるかもしれないのですが、その聞こえた答えが自分の願望そのままである事が問題なのです。例えば、「あなたは〇〇と結婚する」といった声です。これは、イエス様ですかと言われると困るわけです。聖書が教えているのは、個人の願い事をご利益のように叶えてもらうことではなく、神様を求めなさいと言われているのです。神様から召命をいただいき、救われたクリスチャンは、神様との出会いを求めるように促されているのです。それは、普通のことではダメです。条件は、「心を尽くし、魂を尽くして求める」ことです。これはいったい、どうすればいいのか考えてみる必要があります。祈りも点検してみるのです。「心を尽くす」だけでも、ただごとではありません。ましてや「魂を尽くす」となれば、命を注ぎ出すような感じを受けるのではないでしょうか。これは人生をかけるぐらいの究極の選択です。自分の好き勝手に生きて行くのか、心を決めて神様に従って行くのか、二者択一のようなものです。ただ、難しく考えずに、聖書に隠されている宝を探すような感じで神様に出会うヒントを見つけるのです。聖書から神様に出会ったと人を探せば、そこに模範があります。ここでは、モーセが一番わかりやすいでしょう。モーセと同じようになることなど到底できそうにありませんが、神様と出会うヒントがたくさんあります。そう考えて聖書を読むことをお勧めします。クリスチャンになっても、まだまだ、知らない事があります。心を神様に向けてまずは神様を尋ね求めてみてはいかがでしょうか。その結果は、想像以上に良いことになると思います。

 

7月8日(水)

主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、囚われ人には自由を、つながれている人には解放を告知するために。

イザヤ61:1

 

私たちは主イエス・キリストを知っています。そして、この箇所を読むと、ここにもメシア預言があると気がつくのです。それだけでなく、キリストが何をなさったのか知る事ができます。本当なら福音書を読み、キリストの出来事を読んだのですから、知っているはずなのですが、ナザレでイエスがこの箇所を読んだことからも、主の初臨の時の使命がうかがえます(ルカ4:16)。「主の恵みの年を告げるためである」(同4:19)で、イエスは朗読をやめています。その先には、何が書いてあったのでしょう。「私たちの神が報復される日を告知して」(イザヤ61:2b)とありますから、裁きです。これは、再臨の時にキリストが成す働きですね。しかし、初臨の時に主イエスが成されて働きは、私たちに直接関係あります。ここで、ちょっと余談ですが、日本の江戸時代のことから考えてみます。人間が生きて行くために大切なことは、食べる事がまずあります。そのために、作物を育てる農地が必要です。それで、戦国時代のように、支配者は土地を得るために戦うことになりました。最後には天下をとった徳川将軍が恭順を誓った者(大名)に土地を分けました。大名は、さらに自分の家臣たちにそれぞれ土地を分け与えるわけです。その土地を耕し農業をするのは労働者たちで、この人たちは「貧しい人」になるわけです。彼らは、今のような科学知識がないので、みんなで協力して農業をするしかありません。そうなると、貴重な労働力は手放す事ができないので、もっと良い土地を探して引っ越す自由がありません。ましてや、農業以外の武士になりたいと言っても、職業選択の自由がなかったのです。ですから、3~10 %の武士階級のために、奴隷のように囚われの身だったのです。これは、近代まではどこでも同じようなものでした。では、現代はどうかといえば、明らかに違っていますが、それでも今の世界を見れば、貧富の格差が広がり、ほんの一握りの人たちがほとんどの富を独占するのは変わりないのです。マルクスは革命を考えましたが、イエスは福音を伝えました。そして、その力は私たちのもとにまで届いたのです。主イエス・キリストはこの世で病や傷ついた心も主は癒し、罪と死と悪魔の囚われ人には自由を、何かの呪いにつながれている人には解放を告知しにこられたのです。そのことをあなたは知っています。それがどれほど恵まれたことか、本当に躍り上がるほどです。ですから、悪魔の偽りのささやきに騙されてはいけません。主イエスの御力はあなたを捕らえ、あなたはすでにこの世に勝利しているのです。だから、勝利者として堂々と生きていけます。ありがたいですね。主を讃美しましょう。

 

7月9日(木)

わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。

ヨハネ8:31

 

好きな聖句です。心に響きます。人間の歴史は、罪の呪いの中で、額に汗して茨の生茂る土地を耕して日用の糧を得ようと苦労してきた道程です。支配者のもと苦しんできた人間にとって、自由がどんなに重要なことであったか、はかり知れません。血を流して勝ち得た自由をいまだ守らなければならない戦いが続いています。そのような自由と今日の聖句に現れた自由は違うものです。なぜなら、真理を知ることで自由にしていただけるというからです。では、真理とは何か、別に哲学者に助けてもらう必要はありません。「わたしは・・、真理である」(ヨハネ14:6)とキリストがおっしゃったからです。つまり、真理とはイエス・キリストであり、このイエス・キリストがあなたたちを自由にするのです。この自由を理解し、自由を味わってください。この自由を決して手放してはいけません。あなたがクリスチャンであるという意味は、この自由を得ていることなのです。この自由を生かすには、聖霊に従うことが重要です。肉に使えば、その結果がはなはだ悪いからです。罪によって、神様にお仕えすることができなかった者がキリストにより自由にされて神様にお仕えできるようになるわけです。わたしたちは、キリストの言葉にとどまるということも絶えず意識している必要があります。これが、キリストの弟子であることの秘訣だからです。それにしても、キリストの弟子であるという響きはいいものですね。今日も、キリストの弟子として一日を過ごしたいものです。

 

7月10日(金)

悪はわたしにからみつき、数えきれません。

わたしは自分の罪に捕えられ、何も見えなくなりました。

その数は髪の毛よりも多く、わたしは心挫けています。

主よ、走り寄ってわたしを救ってください。

主よ、急いでわたしを助けてください。

詩篇40:14

 

クリスチャンの悩みの一つが罪の問題です。本来、罪を犯すはずのないクリスチャンになったのに、依然として罪を犯し続けるということが無力感と自分を裁く原因になります。確かに、罪は律法によって生き返ったように現れ、自覚されます。それまでは、罪と気がつかなかったことが律法によって罪であると糾弾されるのです。それは罪を裁くことになるので、律法によって殺されるとパウロが言う通りなのです。ところが、罪の自覚と共にイエス・キリストの救済が完全で、自分を罪から救うことを福音として聞きました。そして、信じたのです。ですから、聖書に書かれている通りに、罪には死に、聖霊によって新しい命に復活させていただいたはずです。それなのに、罪の問題が出てくるとはどうなっているのか、というわけです。詩篇記者も罪で悩みました。罪は悪ですから、悪い結果がつきまといます。それに罪が発生すれば、法則なので、驚くほど生産的なのです。それで、詩篇では髪の毛よりも多く、と書いてあるぐらいです。つまり、数え切れないほど多いということですね。このように罪を自覚できれば、誰でもパニックになるほど、工場のように罪が生産されている感じになり、収拾が付かなくなるのです。罪を自覚していない時には、何一つ罪責感を持たないでいられるのですから、犯罪でも犯さない限り、罪などと自覚することはありません。しかし、罪を知り、その罪の恐ろしさを知り、さらに、最後に神による裁きがあると知ると、誰でも怖くなります。ここで、重要なことは、そもそも罪を裁けるのは、神だけだということです。その神がどのようなお方か知ることは重要なことです。今日の聖句の最後には、「主よ、走り寄ってわたしを救ってください」とあり、詩篇記者は神が憐れみ深いお方で、罪を憎むが人を愛し、その愛が人間の考える愛よりもはるかに深く、自己を犠牲にするほどの究極の愛なのです。結局、罪人が神に言えることは、「主よ、急いでわたしを助けてください」と言うことだけです。これに答えて、イエス・キリストは地上に降り、人となって、十字架の道を歩まれたわけです。それならば、十字架は、クリスチャンの罪の問題を究極的に解決できるはずです。聖霊は、クリスチャンに等しく与えられ、神が命となっているのです。神は生きているので、一人の人の中でわたしと神が生きることはできません。それで、わたしがキリストと信仰によって一つに結ばれたのですが、それは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20 )ということが起こっているということです。そうであるなら、それを信じて信仰の通りになることが求められているはずです。ですから、昔の自分に戻ることなく、古い自分の考えに支配されずに、単純に聖書に書かれた通りに信じることなのです。もし、内住の聖霊を感じることがないのなら、聖霊のバプテスマを求めて受けることが重要です。これは、信仰によって聖書に書かれたことを信じればその通りになる、ということがわかるようになります。そして、「信仰によって」という意味が理解できるようになるのです。ここまで来れば、地上にいるのに神の国にいることを知るでしょう。

 

7月11日(土)

主がすべての災いを遠ざけて、あなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように。

あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。

詩篇121:7、8

 

ここでは、これでもかこれでもかと「見守る」という言葉が連発します。そういえば、「はじめてのおつかい」という幼児がお使いに行く感動的なテレビ番組がありますが、小さな子供の周りにはスタッフの人たちが何人も取り囲み、子供気づかれないように撮影していますが、それが見守るという感じで、できるだけ手出しせずに、見守っていて子供の安全を確保しているのです。きっと、詩篇に書かれていることも、こんな様子なのだろうと思ってしまいます。つまり、幼児の不安定さや弱さと同時に、親に頼まれたお使いをなんとかしてやり遂げようとする健気さが感動するのです。クリスチャンの生き方って、きっと天のお父様のお使いのようなもので、幼児と変わらないぐらい、心配を欠かけているのだろと思います。それで、まずはすべての災いを遠ざけて、あなたを見守り、大切なあなたの魂を守ってくださるのです。あなたがすることなすことすべてを見守ってくださる主がおられるのです。この恵みは、今だけでなく永遠に続くものなのです。ですから主は、あなたに心配することなく、安心して生きて欲しいのです。

 

7月12日(日)

正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものは、とこしえに安らかな信頼である。

イザヤ32:17

 

聖書が聖書を説明するという原則は本当です。ですから、私たちは聖書を間違えることなく理解できるのです。そして、今日の箇所はその典型でわかりやすい箇所になります。正義の役割は、想像以上に大きなものです。まず、神様との関係では、平和が生み出されるのです。この状態を義と言っても良いのです。「信仰による義」という言葉を何度も聞いてきたと思います。しかし、その意味がよく分からずになんとなく理解したと思っていたのではないでしょうか。それは信仰者にとってはよくない状態です。ですから、今日の聖句で正しい理解を得る必要があります。正義についてもう一つ書いてあります。それは、正義が生み出すものです。それは、「とこしえに安らかな信頼」とあります。この「信頼」を信仰と置き換えても間違いではありません。「信仰による義」の信仰をここに出てきた信頼と同じ意味として理解できるのです。それほど重要な正義はどのようにして実現しているかといえば、15節、16節に書いてあります。「ついに、我々の上に、霊が高い天から注がれる。荒野は園となり、園は森とみなされる。その時、荒れ野に公平が宿り、園に正義が住まう」とあります。ですから、聖霊が天より降ってきた時に、信仰による義が成立するということです。ペンテコステの日に、聖霊のバプテスマが起こってキリスト教会が誕生した理由もここからわかりますね。

 

7月13日(月)

正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ。

アモス5:24

 

イスラエルは、宗教において厳格に壮麗に祭儀を執り行っていました。種入れぬパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りも主は受け付けなかったのです。ペンテコステの祭りもどんな祭りも、そこで奏でられた讃美の音楽も主は喜ばれませんでした。そして、わたしたちに教訓を与えることは、どんなに洗練された立派な礼拝儀式も最高と褒められるような讃美の音楽も、主は喜ばれなかったのです。その理由は、真の宗教が表すものは、生ける神様との信仰による交わりから現れる、正義と恵みの業です。この二つが消えたならそれは、意味をなさない騒がしいただの儀式になってしまうのです。クリスチャンは、大変恵まれていますから、神様との交わりが赦されているので、神様を知ることができます。それは、小さな幸を生活の中に見つけることです。些細なことの中にも主の愛を見つけることができます。それはその人の喜びとなり、勇気となり、そして、正義となって、その人自身が恵みの業を現すようになります。それを途切れさせてはいけないのです。ですから、心を神様の愛からそらしてはいけません。今までは、考えたことのなかった正義を理解するようになります。キリストが自分を通して隣人に恵みの業をなすように、不思議が起こります。このようなクリスチャンの本来の姿は無理することなく現れてくるのです。これを止めてはいけません。つまり人間的にあれこれ考えすぎないということです。何度も言われ続けていますが、主にゆだねるだけです。楽しみにしていれば、良いことが訪れます。

 

7月14日(火)

イエスは言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」・・・「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」

ルカ8:48、50

 

さて、ここに二人の娘が出てきます。年齢は違っていますが、一人は十二年間長血を患っていました。もう一人はわずか十二歳で亡くなりました。長血を患った女を仮にAさんとし、十二歳の少女をBさんとしましょう。Aさんは血は命を表すので、命が少しずつ失われていたのです。Bさんは肉体の命が尽きてしまいました。共に、命が失われていく病でした。しかし、イエス様は、一言も病気の癒しを言葉にしていません。イエス様が語られたのは、「信仰が救う」ということでした。残念なことにBさんは死んでしまったので、もう信じることができません。それで、本人に代わってお父さんが信じる必要があったのです。しかし、最愛の子供が死んでしまったのを目の当たりにすれば、悲嘆にくれて信仰を失うかもしれない状況でした。そこで、Bさんがまだ生きている間に、彼女のお父さんがイエス様を探しに行って、家までお連れする途中に不思議な出来事を見せられたのです。それは、イエス様を信じることのすごさです。Aさんは、イエス様の衣のすそについている房にでも触れれば、きっと癒されると信じたので実行しました。すると、信じた通りに癒されました。そのままこっそり帰ることをイエス様は許されずに、Aさんが自ら自分に起こった奇跡を皆んなの前で話すように導かれました。それをBさんのお父さんは聞いていたのです。そして、その時に、イエス様がお語りになった「あなたの信仰があなたを救った」という言葉が心の中に入ってきたのです。それが伏線のように心に残されたので、娘の遺体の前でも、お父さんは「恐れることはない。ただ信じなさい」とのイエス様のお言葉で、心の中から「そうだ、ただ信じよう」と信じ切ることができたのです。その結果、娘が生き返る奇跡を目の当たりにしたのです。お父さんにとって、病気でもまだ生きているなら癒しを信じようと思えるでしょうが、死んでしまったら生き返ることを信じることはとても難しいのです。同じ信じると言っても、状況によって私たちは難しさが違うわけです。それでも、イエス様は私たちが信じることができるように助けてくださるのです。ですから。恐れないことです。あなたはにはイエス様が共におられる約束がありますから、信じることがどんなに困難な状況になっても、不思議な助けがあって、イエス様を信じることができるように導かれるのです。ですから、信仰のことで思い煩う必要はありません。今日もイエス様を信じて明るく生きましょう。

 

7月14日(火)

イエスは言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」・・・「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」

ルカ8:48、50

 

さて、ここに二人の娘が出てきます。年齢は違っていますが、一人は十二年間長血を患っていました。もう一人はわずか十二歳で亡くなりました。長血を患った女を仮にAさんとし、十二歳の少女をBさんとしましょう。Aさんは血は命を表すので、命が少しずつ失われていたのです。Bさんは肉体の命が尽きてしまいました。共に、命が失われていく病でした。しかし、イエス様は、一言も病気の癒しを言葉にしていません。イエス様が語られたのは、「信仰が救う」ということでした。残念なことにBさんは死んでしまったので、もう信じることができません。それで、本人に代わってお父さんが信じる必要があったのです。しかし、最愛の子供が死んでしまったのを目の当たりにすれば、悲嘆にくれて信仰を失うかもしれない状況でした。そこで、Bさんがまだ生きている間に、彼女のお父さんがイエス様を探しに行って、家までお連れする途中に不思議な出来事を見せられたのです。それは、イエス様を信じることのすごさです。Aさんは、イエス様の衣のすそについている房にでも触れれば、きっと癒されると信じたので実行しました。すると、信じた通りに癒されました。そのままこっそり帰ることをイエス様は許されずに、Aさんが自ら自分に起こった奇跡を皆んなの前で話すように導かれました。それをBさんのお父さんは聞いていたのです。その娘は十二年間も命が流れ出す病だったのです。お父さんは思わず、自分の娘も十二歳だが十二年間命が流れ続けて今にも命が尽きそうだ、とAさんと自分の娘がダブって見えたでしょう。そして、その時に、イエス様がお語りになった「あなたの信仰があなたを救った」という言葉が心の中に入ってきたのです。それが伏線のように心に残されたので、娘の遺体の前でも、お父さんは「恐れることはない。ただ信じなさい」とのイエス様のお言葉で、心の中から「そうだ、ただ信じよう」と信じ切ることができたのです。その結果、娘が生き返る奇跡を目の当たりにしたのです。お父さんにとって、病気でもまだ生きているなら癒しを信じようと思えるでしょうが、死んでしまったら生き返ることを信じることはとても難しいのです。同じ信じると言っても、状況によって私たちは難しさが違うわけです。それでも、イエス様は私たちが信じることができるように助けてくださるのです。ですから。恐れないことです。あなたはにはイエス様が共におられる約束がありますから、信じることがどんなに困難な状況になっても、不思議な助けがあって、イエス様を信じることができるように導かれるのです。ですから、信仰のことで思い煩う必要はありません。今日もイエス様を信じて明るく生きましょう。

 

7月15日(水)

ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群よ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。

ルカ12:31、32

 

これは驚くべきイエス様のご命令でありお約束です。私たちは、実は何度も聞いているので知っているはずですが、忘れているのではないでしょうか。あなたが生きていく上で必要なものはすべて、神の国に加えて与えられるというのです。だから、まず神の国を求めよというわけです。見落としがちなのは、この神の国を誰がくださるかといえば、天の父が喜んでくださるというのです。洗濯機が壊れたので新しいものをください、というような話ではありません。天の父がくださるのはなんと神の国なのです。そうであれば、この地上で、何を思い悩む必要があるでしょう。この地上だけで考えれば、思い悩むことなどたくさんありすぎます。何でも悩みになってしまうでしょう。ただ、思い悩んでいるだけでは、何も解決しないどころか健康を害してしまうかもしません。まったく、ばかばかしいことです。だからといって、何もしないのも恐ろしいのです。それなら、どうすればいいかということです。イエス様のお勧めは、「ただ、神の国を求めなさい」です。これは、とても簡単ですね。誰でもできます。ただ、この通りに求めるかどうかの違いです。あなたは、どうしたいでしょうか。実際に試してみましたか。神の国は、天の父が支配していますから、その神の国を与えられたら、この地上のように悪魔が支配しているような世界とまったく正反対の良い世界です。神の支配の中で困ることなどありません。悩む必要がなくなります。つまり、あなたの思い煩いは消えてしまうのです。良いと思いませんか。早速、神の国を求めてみましょう。

 

 7月16日(木)

主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。

哀れな人を守ってくださる主は、弱り果てたわたしを救ってくださる。

わたしの魂よ、再び安らうがよい、主はお前に報いてくださる。

詩篇116:5~7

 

私たちは、とても恵まれています。それは、主に憐れみをかけていただいたからです。人の人生ですから、いろいろなことがあるのは仕方ありません。良い日があれば、悪い日もあるのが人生です。それでも、信仰者は、悪い日が来ても成長することができます。困ったことが起こり、すっかり弱り果ててしまっても、それでも神様は情け深いので、必ず助けてくださり、たとえ人生に破れても守ってくださるのです。そのようなピンチの時には、今までになく真剣に祈り続けるでしょう。そのように神様に向かうことが御心なのです。ですから、長い人生で何度か大きな波乱が起こっても、結局、信仰が強まっただけで、実害がほとんどなかったことに気がつくはずです。特に、信仰の迫害や障害でひどい目に遭う時には、主が救ってくださいます。そして、主から来る安らぎの時が待っています。主はあなたに報いてくださると約束があるのです。だから、辛い日があっても、その先に希望の日が待っていることを覚えてください。実感が無くても、聖書の御言葉を信じて欲しいのです。

 

7月17日(金)

ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。

ヘブライ2:14、15 

 

「血と肉」とは肉体を持った人間のことです。そんな人間は悪魔の奴隷だったのです。死の恐怖で支配していたのが悪魔だったわけです。もし、解放者がいなければ、いまだ世界中の人が悪魔の奴隷として死を恐れて暮らしていたのです。私たちの解放者はイエス・キリストです。イエス・キリストが人間になったのは、私たちと同じになるためでした。つまり、人間がどうしても勝利できない罪と死、そして悪魔に対して、放置していれば、全人類が神に裁かれ地獄へ行くしかなかったのです。ところが、救い主であるイエスが私たちを滅ぼさないで救うために、自らが人間と同じになって、罪と死と悪魔に十字架で勝利したのです。そのために、私たちはイエスを通して神を知ることになりました。神は愛だったので、愛を知ることができました。神のイメージがただ恐ろしい方から、愛と慈しみに富んだ方であると変わったのです。そこで、主の憐れみに触れ、勇気をいただきました。十字架で死んだキリストは、私たちの肉とその中に潜む罪をもろともに十字架に釘付けされたのです。ですから、人を傷つけ不幸にする罪から解放してくださいました。悪魔が死によって再び恐怖に引き戻して支配しようとしても、その手は通用しないのです。そして、悪魔に勝利された主は、私たちにも悪魔に勝利する力を授けられたのです。ですから、私たちは、真の自由と神の子として生きる特権を受けることができたのです。キリストの真理をもっと深く理解して行きましょう。

 

7月18日(土)

あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していたました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、ご自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。

コロサイ1:21、22

 

クリスチャン が考えるべきことは、今日の聖句です。もともと私たちは、心の中で神に敵対していたのです。厄介なのは、「心の中」ということです。心で勝手にやっていることです。自分で故意に考えてというわけでは無く、自然に心で起こっていることなのです。これでは、どうすることもできませんね。それだけではなく、クリスチャンになる前は、神から離れていました。今となれば恥ずかしくなる悪い行いを気にすることもなく繰り返していたのです。当然、それは心の中から出たことが皇位になっただけです。ですから、心の中で神に敵対していたのは明らかです。それでは、何の希望があるといえるでしょう。ところが今日の聖句に書かれたことが起こったのです。それは、神と和解するための奇跡です。神に敵対する人が死んで天国へ行くなどあり得ませんから、神と和解することは天国へ行きたい人にとって福音なのです。つまり、ここに書かれていることが福音なのです。キリストが人となって十字架にかかり、私たちを救うために死んでくださったのです。その死によってあなたは神と和解できたのです。つまり、救いとはそのような意味だったのです。そればかりか、神の救いは完全でしたから、神の御前に聖なる者、きずのない者、とがまるところのない者としてくださったのです。あなたがそうなるように頑張ったのではありません。主イエス・キリストが犠牲を払って救ってくださいました。だから、何かを行ったとか守ったとかではなかったのです。ただ、信じただけでよかったのです。それは、キリストの犠牲が愛だったからです。主に愛されている人はあなたです。主の愛に報いるためにあなたも主を愛することができます。そうやって救われるのです。愛し愛されて生きていくのです。何かいいですね。

 

7月19日(日)

すべての祭司は、毎日礼拝をささげるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを 献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもがご自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者とさなさったからです。

ヘブライ10 :11~14

 

律法主義者の誤算は、自分がこだわった律法について、聖書にこう書いてあることです。「いった、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのもの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません」(ヘブル10:1)。一方、キリストは、ご自身を罪を贖うことのできる唯一の生贄として十字架にかかり、勝利者となられました。それは、ご自身を信じる者を義とするためでした。最も重要で最も困難な本体の犠牲を献げることが成就したので、罪人を初めて救うことができたのです。復活されて死にも勝利され、さらに、罪人の支配者であった悪魔にも勝利し、完全に罪人が信仰のみで救われることになりました。それゆえに、キリストは栄光をお受けになられ、永遠に神の右の座に着かれたのです。そして、キリストは敵どもがご自分の足台となる日を待っているのです。このことは、私たちに大いに関係があります。「キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです」とあるからです。これはどういうことでしょう。文字通りであれば、キリストを信じて義となり、水と聖霊の洗礼を受けて聖なる者となった人を主が永遠に完全な者となさったとなります。それは、聖霊が与えられたことにより、心に主の律法が置かれたことによります。思いにすら律法を書き込まれたのです。これが契約なのです。そこで、志の低い信仰ではなく、主が自分の理解を越えた完全な者とする恵みをすでに与えられたと信じることにしましょう。そして、あなたが信じた通りになりますように。

 

7月20日(月)

目をまっすぐに注げ。

あなたに対しているものに

まなざしを正しく向けよ。

箴言4:25

 

今日の御言葉は知恵です。あなたが覚えていれば、人生を間違えないですみます。例えば、何か自分の思い通りにいかないことがあって悩み始めると、そのことばかりが気になって他のことが手がつかなくなります。これは、いつまでも続きます。なぜならば、何に悩んでいるのかちゃんと見ていないのです。ただ、真実の姿を見ることが肝心なのに、それが意外なほどできないのです。いや、しないのです。だから、実は問題の本質ではなく、自分が勝手に想像し、勝手に恐れていることで悩んでいるのです。クリスチャンは、神様がついているので、この世で恐れるものはありません。神様以上に恐ろしいものはありませんから、その神様が見方であれば、たとえ敵がサタンであっても恐れないでいいのです。ただ、目をまっすぐに注いていないと、あなたは勝手に妄想に恐れ始めるかもしれないのです。だから、人間であっても、問題であっても、ちゃんと目をそらさないでまっすぐ見ることが必要です。あなたが不安に思ったり、悩み始めることになった原因がわからなければ、さらに深刻になっていくでしょう。しかし、あなたがあなたに対しているものにまなざしを正しく向けると、不安も恐れも悩みも消えていくはずです。ちゃんと見れば、何をすれば良いのか確信を持って判断できるからです。人間の愚かさは、見ないで恐れていることです。どんなに大きな問題でも、ちゃんと見ると、何が問題かわかるのです。その結果、自分の力で解決するのが無理だとわかれば、次に、誰に頼めば助けてくれるかがわかるはずです。つまり、相手の正体が見抜けるなら、勝つことができるというわけです。どんな相手でもちゃんと相対するならば、騙されないし、どうすればいいのかが見えてくるのです。でも、多くの人は、目をそらしているので勝てないでいます。聖書の真理があなたを救います。御言葉を覚えておきましょう。

 

7月22日(水)

この聖霊様については、ずっと以前から、クリスチャン全部に約束されていたことです。私たちのうちに住まわれる聖霊様は、神様が約束のものを全部ほんとうに与えてくださる、という保証です。それで、私たちに押された聖霊の証印は、神様がすでに私たちを買い上げ、ご自分のもとに引き取ってくださることを、保証するのです。これが栄光の神様をほめたたえる、もう一つの理由です。

エペソ1:13、14

 

聖霊がいかに大切か、今までも語ってきましたが、とにかく重要なのです。その一端を今日の聖句は説明しています。何しろ、神様が約束のものを全部本当に与えてくださる、という保証なのです。この世では、あげるあげると言ってとうとうくれなかった人はたくさにます。しかし、神様は絶対に信頼できるのです。ですから、神様がくださると言えば本当にくださいます。クリスチャンが聖霊をいただいているのは、神様の保証書のようなものなのです。自分だけをみていると本当に救われて天国に行けるのか心配になる人は少なくないでしょう。しかし、私たちは自分ではなくキリストを見るように言われてきました。そして、内側に聖霊がいてくださるのですから、地上でもうまくやっていけます。そして、天国のゴールに入れるかどうかは、実は保証書をもらっているのです。それが聖霊です。しかし、この地上での信仰生活が聖化そのものなのだと言っても、実感がわかないかもしれません。そのような人も心配は入りません。神様は私たちのことを誰よりも知っているので、どすればいいのかご存知です。そこで、前もって準備していたのです。あなたが無事に聖化してキリストに似た者へと成長するグッズをです。秘密兵器といってもいいと天国製の特注品です。お金なんかでは到底買えません。それほど貴重なお宝を神様はくださると約束して、全部本当にくださるという保証が聖霊なのです。どうです。なんとかなりそうですよね。これでも、心配な人には、もっと驚くようなお知らせです。なんと、神様がすでにあなたを買い上げ、ご自分のもとに引き取ってくださることを保証するために聖霊のスタンプを押してくださったのです。神様のもとと言えば、当然天国のことですよね。だから、心配ないと言ったのです。これで、神様を賛美したくなりましたか。神様の栄光をほめたたえましょう。

 

7月23日(木)

主は羊飼い、わたしには何もかけることがない。

主はわたしを青草の原に休ませ

憩いの水のほとりに伴い

魂を生き返らせてくださる。

詩篇23:1~3

 

クリスチャンの神様は、羊飼いです。どこかの寺院の奥に留まっているような動くことのない神々ではありません。驚くことに、個人的にお世話をして面倒を見てくださるお方なのです。その結果、私たちは何もかけることがないのです。このみ言葉をよく考えてみてください。特に、何かに困っている方、悩みがある方、何かを欲しがっている方は、聖書の約束は必ず成就することを思い出してください。私たちはいつでも、主に養われているので不足がないのです。私たちが目に見える世界では、いろいろ大変かもしれませんが、目に見えない世界に生きていることも忘れないでいるべきです。私たちは毎日、羊飼いであるイエス様に導かれて、青草の原に休ませていただきます。そして、憩いの水のほとりに伴われ、魂を生き返らせていただくのです。この世の主を知らない人たちは、この「魂を生き返らせていたく」ことを知りません。ここがとても大きな違いなのです。だから、この世のことに振り回されていないから、心を羊飼いにむけているか、静まって点検する必要があります。私たちは、霊的にいつでも主なる羊飼いの導きの中にいることを覚えてください。主は、あなたのためになる一番良い所へと導いてくださいます。安息がある美しい場所です。飢え渇きを癒す命の水を飲ませていただけます。単純にイエス様を信頼していればいいだけです。喜ばしいことが今日も待っています。主に讃美を献げましょう。

 

7月24日(金)

その時が来ると、不法の者が現れますが、主イエスは彼をご自分の口から吐く息で殺し、来られるときの御姿の輝かしい光で滅ぼしてしまわれます。不法の者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い、そして、あらゆる不義を用いて、滅びいく人々を欺くのです。彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです。

Ⅱテサロニケ2:8~10 

 

聖書には不法の者についての警告が書いてあります。もちろん、背後にいるサタンの働きですが、それは人物です。厄介なことに、クリスチャンの中からも騙されて信じる人たちが出ることを預言しているのです。彼らは滅びると書いてあるので、深刻な問題が起こるのです。なぜ騙されるかと言えば、「あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行う」からです。注意深い人は気がつくと思うのですが、不法の者がすることは、実は偽りですが、聖霊のバプテスマを受けて、霊の賜物をいただいた人が現す「奇跡、しるし、不思議」に似ているのです。ただ、不法の者は、さらに「不義を用いて、滅びいく人々を欺く」と書いてありますから、詐欺師に引っかかるようなものです。ただ、この偽りの奇跡にまんまとひっかる人は、「自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったから」だと預言されています。これは、福音理解が正しくなされていることと主イエス・キリストに対する信仰があることでいいので、特段の難しさがあるわけではありません。ましてや、律法主義者かと思われるほど律法を遵守するようなことを求められているわけではありません。特に心配する人は、主イエス・キリストを愛しているからどうか考えてみればいいと思います。「自分たちの救いとなる真理」とは主イエス・キリストに他ならないからです。これは、キリストを愛することへの挑戦なのです。それは、自己愛を煽ることです。だから、騙されてしまうのです。自分を捨ててキリストに従う者は自己愛を放棄したのです。それは、キリストの愛が圧倒的であることに気が付いたからです。自己愛の中に罪が生まれてくるので、キリストの十字架を仰ぎ見る者は、自己愛に死んだのです。それは、自分ではなくキリストを愛していることでわかります。終末の最も大きな攻撃は、不法の者が現れることです。その警告がなされているので、私たちは見分けたいと思います。

 

7月25日(土)

次の言葉は真実です。

「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、

   キリストと共に生きるようになる。

 耐え忍ぶなら、

   キリストと共に支配するようになる。

 キリストを否むなら、

   キリストもわたしたちを否まれる。

 わたしたちが誠実でなくても、

   キリストは常に真実であられる。

 キリストは御自身を

   否むことができないからである。」

Ⅱテモテ2:11~13

 

この御言葉を読んで、あなたは何を思ったでしょう。私たちとキリストの関係が実に深いことを思わされたのではないでしょうか。キリストは、まるであなたのことを特別な同志のように扱われているのではありませんか。共に生きる運命共同体と言ってもいいかもしれません。私たちの弱さは、これだけの恩恵を受けていながら、時に誠実ではなくなることがあるかもしれないのです。しかし、あなたの不誠実を見てもキリストは変わりません。どこまでも真実であるからです。キリストは、どこまでもあなたの救い主なのです。あなたを愛し、赦し、支え、導き、助けるのです。私たちは、どこかでキリストと共に死んだのです。ですから、今はキリスト共に生きています。時には、信仰のゆえに理不尽なこともあるかもしれませんが、昔のようにではなく、ただ耐え忍ぶのです。キリストがあなたに教え諭されたからです。そして、あなたはやがてキリストと共に支配するようになるのです。あなたが真の愛の意味がわかったからです。主は、あなたを名前で呼ばれるでしょう。キリストに知られているからです。あなたは主に愛された者として喜びながら生きて行くのです。これがクリスチャンの道です。

 

7月26日(日)

よく言っておきますが、だれでも水と御霊によって生まれなければ、神の国へは入れません。人間からは人間の命が生まれるだけです。けれでも聖霊は、天からの、全く新しいいのちをくださるのです。もう一度生まれなければならない、と言われたからといって、驚くことはありません。

ヨハネ3:5~7

 

人間は自分の力で得なければ何も与えられないと子供の時から教え込まれています。そのために、与えられることに慣れていません。特に価値あるもの、高価なものなど、簡単には手に入らないものを知っています。それなので、信仰とか新しい命を与えると言われても、それがイエス様であっても、信じることが難しいのです。これが、何か努力して頑張れば手に入るとでも言われたほうが信じられるのです。私たちは恵みに慣れていないのです。ところが、罪人を救うには、罪人が何をしても無駄なのです。それなので、罪人は死ぬ以外に変われないので、ちょうど真っ白なTシャツに真っ赤なペンキをこぼしてしまったら、もう捨てるしかないので代わりの新しいTシャツを買うように、罪人の命を捨てて、新しい命をもらって新しく生まれる以外に罪からの救いはないということなのです。そのために、神様は大昔から計画を立てられて、御子を救い主として送ってくださいました。そのおかげで、古い罪人の命を十字架に捨ててキリストと共に死に、神の息である聖霊を送って生かしてくださったのです。それは、目に見えないことなのですが、本人にはわかることなので、疑うことなく新しい神の息で生きていると信じることです。この真理を理解して信じることがクリスチャンにとって重要なことなのです。このような奇跡は、

父なる神様とイエス様と聖霊様によらなければできません。そのような素晴らしい恵みをいただけたのは、神様の愛によるのです。あなたが神様に愛されている者であることを認めて生きるなら、神の国に生きることができます。あなたは、神様のご計画の通りに水と霊から生まれた者なのです。ならば、新しく生まれた者として生きることです。

 

7月27日(月)

命を与えるのは、”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。

ヨハネ6:63、64

 

罪人にとっての救いとは、新しい命を与えていただくことです。それは、罪人は罪の呪いですでに死んでいる者だからです。そのように見れば、今日のキリストの御言葉は重要な意味を持ってきます。まず、「肉は何の役にも立たない」というのは、人間の力では命を得ることができないということです。ユダヤ人たちは、律法を守って義となり、その功績で永遠の命を得ようとしていたのです。しかし、それは、罪人には無理なのです。律法は罪人の罪を明らかにするだけだからです。そのようなものでは人を救うことはできないのです。そこで、キリストは罪人が命を得るにはどうすればいいのか教えています。基本は「命を与えるのは、”霊”である」という真理です。そして、キリストが話した言葉が霊であり命である、と教えたのです。そこで、キリストのお語りになった御言葉を調べる必要があります。そして、御言葉が霊であるのなら、聖霊の助けなしには理解できないこともわかりますし、御言葉を信じることも欠かせないことだとわかるのです。イエス・キリストを信じるということは、御言葉を信じることも含まれているのです。しかも、肉は役に立たないのですから、人間的に御言葉を読んでも限界があります。学者の書いた注解書でも知識としては役立っても、霊的な意味ではどうでしょう。霊的なものと肉的なものを見分けなければなりません。もちろん、聖書を自分勝手に解釈してはいけませんが、クリスチャンは祈って聖書を読むことができるし、聖霊の助けを得ることも可能です。というか、実は聖霊の助けなしにはやはりわからないのです。わかったら、信じるか信じないかのどちらかに判断を迫られます。悟ったら、あなたはそれをするのかしないのかと迫られるわけです。だから、肉ではダメなのです。肉は正しい方がわかっても、従わない可能性が高いからです。いや、従い得ないという方が正確ですね。だから、まず本人が聖霊を求めて聖霊に満たされて覚醒する必要があります。これも約束なので、単純に求めて信じることで大丈夫です。一つ注意しなければならないのは、聖霊を拒んではならないことです。中には聖霊を信じないという人もいますが、危険です。聖書で聖霊の記述を知らベてみれば、聖霊が実際に救いの働きで大きな意味を持っていることに気がつきます。そして、聖霊を軽んじることはキリストを軽んじることと同じ意味ですから、要注意です。私たちは、キリストを信じる者であり続けるのです。

 

7月28日(火)

イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」

ヨハネ9:39

 

この御言葉は、「生まれつきの盲人を癒す」という話しの最後に出てきます。生まれつき目の見えない人がイエス様によって見えるようにしていただいたことでファリサイ派の人たちに責められます。しかし、酷い目にあってもイエス様の側に立って頑張ったこの人は外に追い出されます。イエス様はそのことを聞いて探しにこられます。そして、感動的な場面が続くのですが、興味のある人は本文を読んでください。イエス様に出会った目が見えるようにしていただいた人は、「信じたい」と告白します。そして、目の前にイエス様がいることを知ると「主よ、信じます」と言って、ひざまずきます。そこで、イエス様がお語りになった言葉が今日の聖句です。私たちも罪人としてこの世に生きていました。この世は暗闇でした。だから、見えなかったのです。そこに光であるイエス様が来られ、見えるようにしてくださったのです。しかし、ファリサイ派の人たちのように、イエス様を見ても信じない人は、暗闇の中でも見えると言う人です。その人は、自分の罪が見えないまま罪が残ってしまうのです。この物語は、求道者物語です。イエス様が見えなかったのに、イエス様がどのようなお方かわかり、主の憐れみと恵みに接し、信じたのです。目の前におられるイエス様がわかった時に主を受け入れることができたのです。主は、「裁くために来られた」とお語りになりました。不思議ですが、イエス様を信じる人と信じないで拒む人に分かれるのです。主を拒むことですでに裁かれているというのです。ただ、私たちは今はイエス様を信じないといっている人でも、いつか信じるときが来ることも知っています。だから、勝手に裁かないように気をつけたいと思います。さて、私たちは目を開いていただいき、何が見えるようになったのでしょう。考えてみてください。

 

7月29日(水)

「悪に報いてやろう。」と言ってはならない。主を待ち望め。主があなたを救われる。

箴言20:22

 

クリスチャンの良いことは、この聖句にも現れています。この世には悪があるので、時には痛い目にあったり、傷つけられるような経験をすることがあるのです。ひどい目に遭うと、どうしても悪感情がわき起こり赦せなくなるものです。それどころか、相手が悪いからと復讐したくなるかもしれません。しかし、それは昔の話しで、まだ神様を知らなかった時の感情です。クリスチャンになったなら、赦すことの意味がわかりましたし、赦された者として生きているのですから、感情的になって怒りをあらわにしてはいけないのです。その前に、すぐに主に祈りましょう。祈りの中で相手がどんなひどいことをしたか思い出すと、赦すよりもその時の傷ついた感情がまた広がって来るかもしれません。しかし、主に話しかけてみましょう。主に訴え、自分の思いを知ってもらえると、心は落ち着いてきます。そして、ひどいことを考えるよりも、キリストにあって赦そうと思えて来るのです。初めはうまくいかないかもしれませんが、赦すまでは繰り返しひどい目にあった情景がよみがえって苦しめられます。そこで、キリストに赦すために祈ることになります。ここで、葛藤があっても、苦しむことがあっても、赦すことを選べるととても楽になります。間違っても復讐を自分でしてはいけません。そうすれば、責任はあなた自身が持たなければならなくなります。主は助けてくれません。だから、赦すことは鉄則なのです。そして、本当に赦すことができると思い出すこともなくなります。そして、主を待ち望めばいいのです。主は、あなたに代わって最善の解決をはかってくださいます。あなたは、キリストによって赦しているので、心配することは何もありません。あなたに敵対する者は、キリストを敵とするので大変です。そのことを覚えて、今日の聖句を唱えましょう。

 

7月30日(木)

わたしたちは、世の霊ではなく、神から霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、”霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。

Ⅰコリント2:12、13

 

信仰の世界は聖書に書かれたままの世界です。ここには、わかりやすいように聖霊と肉が出てきます。肉は、クリスチャンになる前の私たちの状態です。罪の温床が肉ですから、肉の中に罪が宿っているのです。それは、わたしの意志の力ではどうすることもできないほど強力ですから、パウロは法則という言葉を使ったほど人間の努力では止められないものです。そのことがわかれば、律法を行ってという発想が生まれないでしょう。なぜなら、罪の逆が律法であり、律法を守れるなら罪はないからです。罪は律法違反のことです。そのような人間を救うためにキリストは十字架について罪を贖ってくださったのです。キリストを信じた人の罪の法則を打ち破るために、その人を十字架で流された血潮で罪の汚れから清め、呪いからも解放し、聖霊をその人の内に入れることができるようにされました。それで、聖霊はキリストを信じる人の内にとどまることができるのです。その効果は絶大で、肉では理解できなかった真理が聖霊の解き明かしで理解できるようになります。そして、主イエス・キリストが理解できるようになったのです。特に、キリストの御言葉が重要ですが、それが霊であり命であることを理解します。聖霊によらなければ、決して理解することはできなかったのです。それゆえに、私たちは主イエス・キリストを聖霊によって説明するものなのです。「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません」(14節)と書いてありますから、伝道した人は体験されたと思います。ですから、使徒時代の伝道は、癒しや悪霊追い出し、また預言や奇跡、しるし、不思議によったのです。あのプロですら、言葉ではなく、これらの力の伝道を行っていたのです。パウロの業を見て信じ、福音を受け入れたのです。今も、同じことが起こるのを主は期待されているはずです。聖書をよく学んで、聖霊が働かれるのを信じたいですね。

 

7月31日(金)

主はわたしの力、わたしの盾

わたしの心は主に依り頼みます。

主の助けを得てわたしの心は喜び踊ります。歌をささげて感謝いたします。

詩篇28:7

 

私たちは自分の力を誇りません。自分の力に頼って生きていた時には、自分より強い力を持っている者たちの挑戦にさらされ、詩篇記者のように嘆かなければならなくなったのです。しかし、クリスチャンになってからは、主が私たちの力であることがわかったので、自分の力を誇ることは無くなりました。そのために、逆に平和でいることが可能になったのです。力は天からの聖霊による力に満たされれば、正しい心で強くなれます。弱っている人や助けを必要とする人を憐れみ、愛の業が聖霊によってあらわされます。このようにして、ますます私たちは主に依り頼みます。主に助けられる経験は心が「喜び踊る」と書いてある通りになります。ですから、私たちは主を賛美することで感謝を表すことができるのです。今日も賛美を献げて主に感謝できるといいですね。