2020年8月ディボーション

8月1日(土)

世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。

Ⅰコリント1:21

 

どうしてユダヤ人の中でキリストの救いを拒否した人たちが大勢出たのか、不思議に思います。旧約聖書に預言されていたメシアが最も必要だと待望していたのに、ナザレのイエスが現れた時に、洗礼者ヨハネが先に出現してメシアの道を備えていたのに、気がつかなったのはどうしてだろうと思わずにはいられません。同じ理屈で、福音が全世界に布教されているのに、信じる人と信じない人に分かれるのはどうしてだろうと思うのです。キリスト教に批判的な人は、人間的な知恵で考えても神を知ることができないので、否定しています。聖書によると、それは神の知恵にかなっているというのです。おかしなことですが、キリスト教会の中でも、聖霊のバプテスマを文字通りに信じることができない人たちは、自分の知恵で聖霊を知ることができないので否定してしまうようです。そもそも、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったというのですから、同じように霊的なことも神様は同じように考えているのではないでしょうか。今日の聖句では、私たちが伝道してもうまくいかない時にがっかりする必要はないと諭されているようにも思えます。ですから、メゲずにチャンスがあれば、あなたの方法で福音を伝えましょう。

 

8月2日(日)

彼はわたしを慕う者だから、彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え、苦難の襲うとき、彼と共にいて助け、彼に名誉を与えよう。生涯、彼を満ちたらせ、わたしの救いを彼に見せよう。

詩篇91:14~16 

 

今日の聖句はあなたへの励ましです。彼とありますが、男性でも女性でも両方に当てはめることができます。この聖句でわかることは、クリスチャンになったあなたにとって最も大切なことは、神様を慕うことなのです。この思いは、力があります。どんな時でも、たとえ苦難の中であっても、主を慕う思いがあれば、あなたに奇跡は起こります。そして、たとえ試練の中を潜っていかなければならない時でも、あなたはやり遂げることができます。その結果は、陶冶された魅力的な信仰者へと成長することができるのです。私たちは、もしかすると弱い者のままであるかもしれません。決して人に誇れるような立派な信仰者にはなれないかもしれません。それでも、主のあなたの愛は変わりません。子供が幼い時から使っていたブランケットや毛布を大きくなっても捨てることができずに持っていることがあります。すっかり古くなって色あせてしまい母親が捨てようとするのに、決して捨てさせないで持っていたあのブランケットが、私にはキリストのようだと思えてきます。あなたのイエス様はあなたを守り、あたなを共にいて助け、あなたを祝福し、なんでも聞いて受け入れてくださり、あなたの良き理解者となり、あなたを応援し、あなたと一緒に喜び、笑い、泣くのです。だから、あなたは安心して生涯満ち足りできることができます。一人なら乗り越えることができなかったことをイエス様は一緒に乗り越えてくださったのです。それも、何度も、何度もです。だから、私たちは主の救いを疑わないのです。

 

8月3日(月)

またこの地に飢饉が広がったり、疫病がはやったり、・・・・そのほかどんな災い、どんな難病が生じたときにも。あなたの民イスラエルが、だれでも、心に痛みを覚え、この神殿に向かって手を伸ばして祈るなら、そのどの祈り、どの願いにも、あなたはお住まいである天にいまして耳を傾け、罪を赦し、こたえてください。あなたは人の心をご存じですから、どの人にもその人の歩んできたすべての人の道に従って報いてください。

列王記上8:37~39

 

コロナはまた広がっているようです。世界が恐れおののき、ワクチンの開発が待たれます。しかし、クリスチャンはイスラエルの民がそうであったように、主を信じて祈ることができます。私たちはイスラエルの神殿ではなく、直接神様へ手を上げて祈ることができるのです。この世の傲り高ぶりが神様の怒りに触れたかもしれません。人々の罪がますます大きくなったのかもしれません。自分の国だけがよければいいと公然と言う者が現れ、差別の問題が表面化し、貧富の格差が極端になり、温暖化による気候の変動が大きな自然災害を引き起こし、大国の冷戦が再び始まったと聞こえ、一気に終末の様相が深まってきたのです。コロナで当たり前の生活ができなくなってしまい、大きな変化が地球を覆っています。さて、ではクリスチャンは何と祈るのでしょうか。どんな言葉で祈ればいいのでしょう。クリスチャンも目の前の疫病や災いのためだけに祈ることで良いのか、それとも「心の痛み」から祈りは出てくるのでしょうか。そうであれば、何に心は痛みを覚えているのでしょう。心の痛みから出てくる祈りは、神様に手を伸ばすさずにはいられない祈りです。そこまでの切実な祈りは、必ず天の御座に届き、神様は耳を傾けてくださるのです。今、世界に必要なのはそのような祈りです。

 

8月5日(水)

神の箱を担ぐのは、レビ人でなければならない。彼らこそ、主の箱を担ぎ、永遠に主に仕えるために主によって選ばれた者である。」・・・レビ人の長ケナンヤは、運搬に当たり、運搬を指揮した。彼はそれを専門としていた。

歴代誌上15:2、22

 

聖書によると、神様にお仕えする者は、それぞれ役目があった。今日の箇所は大変興味深い話しで、神の箱をエルサレムに運ぶ方法が主の定めを守らなければ運べないことを教えている。何でも専門家がいることに興味を覚えるが、現代で言えば〇〇○引越センターのような神の箱運搬の専門家がレビ族にいて、その長がすべての段取りを整え、そこには、直接神の箱を担ぐ専門家がいて、聖歌隊もいれば楽器を担当する演奏家もいるし、当然、警備の専門家もいる。音楽の専門家は、ちゃんと「竪琴を第八調で奏でて歌を導いた」とあるから、行進できる伴奏楽器で、調も決めて歌を導いていることから、専門家が関わっていることがよくわかる。このような情景を思い浮かばながら、教会も主にお仕えするところが同じだと感慨深く思う。教会には召命を受けた聖徒たちがいて、それぞれの役目を負っている。確かに教会と音楽は切り離すことができない。音楽家、それも歌う者、演奏する者、指揮する者と役目が分かれている。このように実に教会に必要な人たちがうまい具合に集められている。しかし、伝道の場では、必ずしも音楽の専門家がいるとは限らない。そこで、賛美歌を知らない求道者のために牧師が率先して歌い、賛美歌を教える役を努めなければならない。ところが、牧師が皆歌がうまいというわけではない。最悪、音痴であることすらある。だから、家庭集会のようなところで、賛美歌を覚えることができるかどうかはわからないのです。なぜなら、はじめからあきらめて、賛美歌を歌わないで、得意の聖書研究だけに専念する牧師も出てくるからだ。しかし、現代は音楽が高度になり、牧師はさらないハードルを上げられていて、古い賛美歌にこだわらなければならい理由が出てくることになる。しかし、神の箱の運搬係は、どんな気持ちで運んだのだろう。誰でもが勝手に触ることもできない聖なる箱を緊張しながら運んだはずだ。興味深いのは、最初の運搬の時は、レビ人ではない人たちによって牛車に乗せて運んだことだ。大きな重い箱だったから、牛車に乗せて運ぼうとしたことは理解できる。しかし、神様はそれを望まなかった。聖別された聖なるレビ人によって担がせたのだ。神様は、聖なる人が運ぶのであるということは、クリスチャンが聖霊の宮となって、自分の行くところどこにでも聖霊をお運びしているということに通じる。だから、専門家である必要がある。主の専門家となるべくして召されていることを覚えよう。主はあなたと共に行動したいのだ。

 

8月6日(木)

しかし、人の中には霊があり、悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ。日を重ねれば賢くなるというのではなく、老人になればふさわしい分別ができるのでもない。

ヨブ記32:8、9

 

もし、キリストが天の父に頼んで聖霊を与えてくださらなかったら、この御言葉もそのまま素通りしてしまったかもしれません。聖霊を知らない人たちは、老人になれば賢くなると思っています。確かに経験値が大きいので経験の少ない若者よりは賢いでしょうが、実際のところ決して歳をとれば誰でもが賢くなるとは思わないでしょうし、分別ができるのでもないことを知っているでしょう。ですから、クリスチャンもただ歳をとればいいわけではありません。全能者の息吹とは聖霊のことです。この息吹を吹き込まれて新しい命に生きる人をクリスチャンと言っているのです。人間にとって重要なことは、罪の問題の解決ですが、それが福音として伝えられ、幸いキリストを信じて救われた人たちは、今度は新しい神の息吹によって生きるのです。そのためには、悟りが必要です。その悟りが聖霊によって与えられるので、聖霊を軽視してはいけません。何かの影響力ぐらいにしか思っていない人は悟ることができません。そこで、人間的に判断しているかぎり、成長が見込めないのです。そこで、福音の自動性をもっと信頼してみる方がいいのです。それは、難しいことではなく、神様が設計した救いに自分を任せることです。聖霊が腕のいい建築家か外科医のように働いてくださいます。それは聖化と古くから言われてきました。その分に関しては聖霊の創造的な御業であることを信頼して、期待することです。そして、悟りは、今までの人間的な考え方では知ることのできなかった真理を、つまり聖書に書かれた真理を新しい考え方や知らなかった見方を与えられて急にわかる体験です、あるいは直接わかる経験です。それを人間の力でやることは難しいことなのでできませんが、すでにクリスチャンであれば、祈ることができますし、自分で勝手に解釈したり判断することをやめて、上からの教えを待てばいいのです。聖書を繰り返し読んでいて悟ることができたという人もいます。あるいは、聖霊が働いて誰か人を通して語ることで悟れたという人もいるでしょう。とにかく、求めれば、与えられる原則がありますから、神様へ積極的に向かって行くことは良いことです。求めて悟りが与えられるといいですね。

 

8月7日(金)

さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。

ヘブライ4:14

 

イエス様は聖書で大祭司と書かれています。祭司の役目は、神様にお仕えすること、そして私たち神様を信じる者と神様との間の仲介者です。祭司によらなければ清めることもできずに、罪の問題を解決することができません。そして、私たちのために神様に直接執り成してくださる役目を持っていました。特に大祭司には、特別な使命があって、一年に一度の贖罪日に全ての罪を清めて消すために犠牲の血を携えて神様のもとへと近づき、聖所を清めてもとの状態に戻すことをやっていました。イエス様は真の大祭司として天の聖所に入られ、ご自身の十字架の血をもって私たちの罪・咎・汚れを清めるのです。これ以上ない完全な救いです。このことを信じているので、この信仰をしっかり保つことが肝心です。聖書は、神様が罪人をどのようにして救われるかをこのように具体的に教えています。そこで、聖書に書かれたことは全て私たちの救いに関わる重要なものなので、いい加減にしていていい訳はありません。そこで、聖所、大祭司、犠牲の血、と言った救いの奥義に関わる事柄を学ぶことが大切なのです。ヘブライ書を通して学んでいけば、納得がいくと思います。ディボーションでももう少し触れてみたいと思います。

 

8月8日(土)

しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自身を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。

ヘブライ7:24、25

 

神様と人の間で執り成すお方が主イエス・キリストです。それは、変わることがありません。なぜなら、主は永遠に生きておられるからです。そこで、あなたの救いは、あなたが素晴らしい、素晴らしくない、に関わらず、キリストのゆえに完全に救われているのです。この意味がわかりますか。あなたがどう感じるかどうかではありません。あなたが何をしたか、あるいはしなかったかということも関係ありません。罪人を救う時に罪人には自分を救ういかなることもできないのです。つまり、自分で救われることができないのです。ただ、主イエス・キリストを信じて、キリストに救っていただくわけです。キリストは完全ですから、抜かりはありません。あなたがどんな人であるかもよく理解されています。あなたの弱さはすっかりお見通しです。それでも、あなたの弱さを同情できると言ってくださるのがイエス様なのです。ありがたいですね。そして、あなたの考えとは関係なく、神様は完全な救いの計画をおたてになって、イエス様によってそれを実現されたのです。完璧にです。ですから、心配いりません。それよりも、イエス様を通して神様に近づくことを意識してみましょう。クリスチャンにとってそれが一番重要だと思います。落ち込んだ時や信仰が弱っていると感じるような時に好きな賛美歌やCCMなどを聴くと心が天と繋がったような高揚感を得られるのは、神様に近づこうとしているからです。聖書を読むのも祈るのもそうです。さて、今日の課題は、聖句をよく読んで、何度も読んで、考えて、真理に気づくことです。

 

8月9日(日)

恐れるな、もはや恥を受けることはないから。うろたえるな、もはや辱められることはないから。若いときの恥を忘れよ。やもめのときの屈辱を再び思い出すな。あなたの造り主があなたの夫となられる。その御名は万軍の主。あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神、全地の神と呼ばれる方。

イザヤ54:4、5 

 

イザヤ53章は苦難の僕の書かれた章で、その後の54章で主はイスラエルに対して、夫婦のような語りかけをしています。神様と神の民の関係は、夫婦に例えられるほどの親密な関係なのです。それなのに、イスラエルの罪のために夫に捨てられたも同然な裁きを経験したのです。しかし、神様は「わずかの間、わたしはあなたを捨てたが、深い憐れみをもってあなたを引き寄せる。ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと、あなたを贖う主は言われる」(7、8節)と説明しています。私たちは、このイスラエルの経験を知っています。そして、私たちと主の関係も夫婦のようなものであると理解しています。ですから、イスラエルのような失敗はしてはいけないのです。誠実な主を裏切ることはできないし、完全な救いを与えられているので、その恵みを信仰で実現する必要があります。イエス様、と呼びかけることが許されているのですから、どこまでも従順な妻のように信仰を表して行きたいのです。何しろ、私たちの主こそ、ただ唯一の偉大な神様だからです。主の愛を受けていることを感謝しましょう。

 

8月10日(月)

主イエスは、ご自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちをご自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。

Ⅱペトロ1:3

 

イエス様を信じている人は幸いです。なぜなら、イエス様が信じる者に命と信心とにかかわるすべてのものを与えてくださったからです。すべてです。すでに与えてくださったのです。聖書を学んだことのない人には、すぐ理解できないかもしれません。しかし、あきらめてはいけません。あなたは、主に召されてクリスチャン になったのですから、そこには、人間の限界を超えた不思議な神様の力が働いています。初めは、真理を知らず、知識もなく、自分の身に起こったことすら理解できずに、古い自分のままでとどまっていたかもしれません。しかし、あなたから始めたことではないので、始めた方、つまりイエス様からの啓示があるはずです。だから、前向きに主に期待していることです。それは裏切られません。自分の主を知ることは当然必要なことです。ですから、まずは主を知りたいと願うことは正しいことです。そこから、信仰は始まります。聖書に出てくる聖徒たちは、全員信仰によって義と神様に認められています。ですから、あなたも例外ではありません。安心していいのは、あなたにできないことは要求されていません。聖書を読むと、聖徒たちも特別なすごい人たちであったわけではありません。それよりも、人間的で弱さを隠さない人たちでした。失敗もたくさんありますし、人間的にどうなの、と突っ込みたくなるようなことをしたりするので、どうしてこんな人を神様は義とするのだろうと不思議に思うことがあったのではないでしょうか。それは、人の救いは信仰によることを明らかにしているのです。誇れるほどの立派な行いはなくとも、主に召命を受けて、それを信じて受けたなら、それで良いということです。その後は、聖霊の助けを借りて、聖書の真理を理解して信仰を真理に引き上げていけばいいのです。何かコツがあるかと聞かれれば、主を愛すること、と言いたいです。主を慕う、と言っても同じです。そして、主を信頼するわけです。あなたにとって、決して難しいことではなく、喜ばしいことだと思います。

 

8月11日(火)

わたしたちが見、また聞いたことをあなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。私たちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。

Ⅰヨハネ1:3、4

 

みなさんが福音を聞いたのは、ただの知識として聞いたわけではありません。ましてや、少しでも道徳的に立派な人になるためにキリストを信じたわけではないのです。とても、不思議なことが起こっていました。神様はいないという世界の中で、あなたにとっては突然(神様からみればあなたが生まれる前からですが・・)主イエス・キリストこそが自分の救い主だと信じて洗礼の決心をしてクリスチャンになったのです。ところが、聖書を読んでも難しく、自分勝手に解釈してはいけないと書いてあっても、わからないからこそ自分勝手に解釈していたかもしれないのです。その結果、物足りない信仰生活になってしまったかもしれないのです。霊的に満たされてみたいと思っても、それがどんなことであるかも分からずに、周りを見ても同じような人ばかりいる気がして、こんなものなのだろうかと思ってしまいます。しかし、今日の聖句を読んでみると、おや?っと思うはずです。つまり文字通りに神様と交わっている実感がないのです。ところが、Ⅰコリント1:9にも「神は、真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」と同じように「交わり」と出てきます。そうです、この「交わり」が重要だったのです。そのために、聖霊が天から送られてきたのです。霊的に目を覚ます必要があるので、聖霊のバプテスマがあるのです。つまり、クリスチャンの特権は、この交わりにあずかれることなのです。この交わりに招かれているのですから安心してください。あなたは神様と呼びかけ、賛美しては喜び、聖書を読んで語りかけられると感動し、聖霊の喜びを知っているのです。ですから、力まずに、自然体で主を喜ぶことです。それでも不安なら、主との交わりを意識してみればどうでしょう。あなたが愛され、祝福されていることがきっと実感できるでしょう。

 

 

8月12日(水)

あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。

ルカ9:48

 

このイエス様のお言葉をすぐに理解できる者と、そうでない人に分かれます。イエス様と寝食を共にしてきた弟子たちの問題は、誰が一番偉いかという問題でした。これは、この世の中では、当たり前のように見ることができます。人が集まった集団では、それが大きな関心事なのです。教会も例外ではありません。それこそ聖職者の中にすら同じ問題を見ることができます。ですから、よけいに今日のイエス様のお言葉は意味があります。そもそも罪人の一番の問題は、愛欠乏症です。初めのアダムが神様に似せて愛の人として造られたのに、やがて神様との愛の関係を罪によって断絶させました。そのことに端を発して、愛の関係がことごとく断絶していったのです。ですから、アダムの子孫はいつも愛されたいという渇望が心にひそんでいます。ところが、罪の世界ではそれはなかなか満たされないことなのです。そこで、その反動のように、いろいろ問題が出てきます。その一つが、一番偉くなりたいという願望です。これも、愛されたいということの一つの反動です。一番偉くなれば、きっと皆に愛されるという無意識の思いです。そこで、競い合うことにもなります。このような世界では、多くのものが偉くなれないので、悪い面が強く出てきます。では、イエス様が諭された、真理にはどんな意味があるでしょう。それは、まるで反対のことを言っています。私たちは、人から大物と思われたい、偉大な者と認められたいとどこかで思っているかもしれません。決して、あなは一番の小者ですね、などと言われたくありません。ところがイエス様は、ニコニコ笑って、真っ先に最も小さな者の元へ来られるのです。だから、あなたはいろいろなことができなくてもいいし、褒められなくてもかまいません。人々から軽くみられても大丈夫です。主流派ではなく、傍流であると見下されても平気です。何をやってもダメな奴と罵られても、気落ちすることはありません。聖書の中には、最も小さな者がいますが、名前すら知りません。記録もありません。しかし、その人が最も偉い者なのです。しかし、私はこの最も小さな者と言われて思い出すのは、パウロです。あの有名なパウロは、エルサレム教会の権威あるリーダーたちの一人として選ばれたわけではありません。外国の一教会から派遣された宣教師でした。外国に福音を伝え、教会をたて、現地の信者さんたちに全てを委ねて、次の伝道地へ向かいました。その後から、来た自称大使徒たちが来て、その教会の人たちを荒らすのですが、パウロは最も小さな者として扱われます。しかし、パウロの権威はキリストから来ていました。だから、キリストのゆえにパウロは最も偉い者だったのです。パウロは、この世的には恵まれていませんでした。迫害に遭い、災難に遭遇し、ユダヤ人たちからは殺されそうになりましたし、ただ一人、キリストの意味も福音の奥義も理解した人なのに、ユダヤ人たちからはパウロの宗教的考えは間違っていて、危険で、憎むべき相手として扱われ続けました。だから、パウロは弱さを持った小さな者として生きたのです。それなのに、いつも喜びなさいとみんなに言い続けた人です。神様がわかっていてくだされば、それでいいと思って生きた人です。ということで、「小さな者が偉い者」と逆転していることを覚えて明るく生きていきましょう。

 

8月13日(木)

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。

Ⅱコリント4:16

 

群馬県と埼玉県で40度を超える暑さになったとニュースが告げていました。信者さんのいる桐生の地名とその後に40度の文字が目に入ると心配になります。コロナだけでも大変なのに熱中症の被害も大きくて、地球温暖化を早く止めなければと叫びたくなります。私も歳をとって「外なる人」は衰えていますが、聖書の約束は心強いです。「わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」とあるからです。パウロは主の方に向き直れと言っていますが、その主は、聖霊のことです。そして、向き直るのは律法からです(Ⅱコリント3:4~18参照)。つまり、聖書に書かれた通りにしていかなければうまくいかないのですが、人間的に考えれば、イエス様により頼んで生きることでいいと言っているのです。確かに、この世にある限り、試練もあるし、逆境におかれる日だってあるかもしれません。ましてや、病気になったり、思い煩わないではいられない日々もあるでしょう。その上、確実に時は流れ、歳をとり外なる人の衰えを実感する日が来るのですが、それは「肉」が死んできたので、「霊」では新しくされている証拠なのです。だから、あまり悲観することはありません。大変なことはいつまでも続かないからです。それ以上に主の祝福が待っています。安心して主に近づきましょう。

 

8月14日(金)

信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べても良いと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。

ローマ13:1~3

 

人間は実にいろいろな考えをするものです。それが信仰であっても、自分の個性を無視することはできないので、いろいろな考えの信仰者が出てきます。宗教ですから、生活のことにも触れてきます。その中で誰もが生きるために食事をするので、食事の戒律が出てくることは必然なのかもしれません。初代教会でも食事問題がすでに現れていたことが今日の聖句でわかります。たかが食事、されど食事、なのです。特に、この当時は、教会員が集まればパンを裂いてぶどう酒を飲んでいました。それが聖餐式であれば、アガペー(愛)と呼んで互いに愛し合う掟の実践となっていたのです。ですから、食事についても愛の実戦でなければならないのです。そうなると、それぞれの食べている物で批判してはならないことになります。聖書時代は、肉を偶像に捧げてから市場で売るような仕組みでしたから、そのような肉は食べないとする人は野菜だけを食べていたのです。でも、偶像などただの石や木なので神々でもなんでもないと平気で肉を食べる人もいたのです。このようなことは、ささいなことのよう思えますが、実は深刻なことになりやすいのです。ですから、パンを裂く食事をアガペーと言ったことには意味があります。食事に限らず、人の考えの違いや行為を強いとか弱いとか区別をしないこと、ましてや差別にならないように気をつけるのですが、教会で愛が実践できなければ、未信者を愛することはもっと難しくなります。ですから、愛することの意味を考える必要があります。肝心なことは、神様が信仰の弱い人も受け入れられたことを覚えることです。その人を私たちが批判してはならないのは当然です。そこで、自分と考えの違う人を受け入れることができるように祈りましょう。互いに相手を尊重できるように願うのです。軽蔑や裁きは愛を生むことはありませんので強く自分を戒めておきたいですね。

 

8月15日(土)

天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。

エフェソ1:4、5

 

クリスチャンになった人たちの話を聞いていると、この方はあらかじめ救われることが決まっていたのではないか、というゾックとした感じに囚われることがあります。今日の聖句を読むと、確かに人間の想像を遥かに超えた神様のご計画があることがわかります。天地創造の前にすでにキリストにおいて選んでいた、となれば、「これは予定説ですか」と言いたくなるのがわかります。しかし、これはそうした人間が考えた理屈ではありません。現実なのです。それは、人間の生きることの難しさや過酷さを考えれば、キリストのお言葉のように、飼う者のない羊のような哀れな姿で見えるはずです。ですから、真の羊飼いが自分の大切な羊を探しにこられて、救ってくださるということがどうしても必要なのです。悪魔は嘘を言い続けて、人間に神様と向かい合うことのないように、神様に背を向け逃げることばかり吹き込んだのです。だから、神様と聞けば逃げ出す人が多いのです。非科学的だ決めつけたり、論争しようとする人たちは、決して自分の問題について話そうとしません。本当は、深刻な問題があっても解決す方法がないと諦めているのです。そして、神様だけが解決できることを知らずに、神様を避けてしまうのです。だから、神様を信じなさいという前に、あなたの問題は何ですか、と聞いた方が良いのかもしれません。少なくとも、私たちは神様に問題を解決していただき、ただ恵みのみで救っていただいた証人なのですから。神様の御計画によれば、神の子にしようと前もって定めていたのです。ですから、すでにクリスチャンの人たちは、神の子となっているのです。なんと驚くべきことでしょう。今日も晴れ晴れと生きましょう。

 

8月16日(日)

主をたたえよ

日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神

主、死から解き放つ神。

詩篇68:20、21

 

私たちは、神様を讃美する者なのです。それは、私たちが神様に担われ、救われているからです。自分の神様がいることは大きな喜びです。どれほど安心できるかしれません。そして、実際に生きて存在する神様はこの神様だけなのです。他に神々がいると言っても、それらは偽りの神であり、悪魔が神を騙っているだけです。だから、私たちは幸いなのです。真の神様は、私たちを救うことができたのです。それは、死から解き放つ神様だからです。あなたは、イエス様を信じて救われたのですが、そのことが毎日の生活を祝福されたものとしているのです。それなので、決して神様を怒らせるようなことをしてはいけません。神様を第一にすると何度も唱えて、決して自分中心に戻らないようにすることです。神様を讃美する事は私たちが神様のものであることを明らかにし、神の国にはいらせてくれるでしょう。それゆえに、毎日、主を讃美いたしましょう。

 

8月17日(月)

しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

フィリピ3:20

 

私たちが思っていた救いと実際の救いは大きく違っていました。小学校6年の時に卒業を前に教頭先生がお話の時間を持たれました。それは、江戸時代のこっけい話で、人の良い三人組が地獄めぐりの旅をするという面白い内容でした。それを全部覚えて、親やいろいろな人に話したものです。つまり、その頃は、極楽へ行けたらいいな、でも地獄も面白そうだし、などと天国のことなど何も知りませんでした。聖書も読んだことがなく、「偉大なる生涯の物語」の映画を観ていたく感動してイエス・キリストの物語を理解しました。これも一度観るとはじめから終わりまで全部覚えてしまうので、友達などに話していました。その後洗礼を受けましたが、クリスチャンになることがどれほど大きな恵みであるか時間をかけて理解することになりました。一朝一夕に理解できないのです。特に、国籍が変わって、今や天国に国籍が置かれていることに本当の意味で理解が及ぶには時間がかかりました。それで、今日の聖句に感動するし、読むたびに、なんとも言えない感情が湧き上がります。そうです。待っているのです。私たちの国籍があるところから、私たちを完全に救われた主イエス・キリストが今度は、天国に連れ帰るためにやって来るのです。これは、主のお約束です。ですから、待っているのです。必ず来られることを知っているからです。あなたも、待っているのですよね。

 

8月19日(水)

イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、ご自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。

ヨハネ7:37~39

 

イエス様が信じる者にくださる聖霊は、実に驚くべきことを体験させてくださる。それは、ここに書いてある通りだ。生きた水が川となって流れ出る、この水は人の飢え渇きを癒す力だ。クリスチャンがなすべき事は、この事なのである。大声を出して「悪霊を追い出さなくてもよい。「癒されよ」叫ばなくてもよいのだ。それは、黙っていても、生きた水が川となって流れ出るから、人の根源的な渇きが癒される。クリスチャンは人を見る。キリストが人をじっと見るようにだ。それは、その人に信仰があるかどうかを見ている。その人に渇きがあって、生きた水を飲むかどうかを見極めているのだ。コップ一杯どころか、川なので溺れるぐらい生きた水がその人を圧倒する。それでも、気が付かない人もいれば、生きた水に感激して癒しを受ける人もいる。不思議な事である。今日の御言葉が我が身になることを信じよう。

 

8月20日(木)

では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。・・・だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。

ローマ8:31、33

 

クリスチャンは確実に神様が味方です。それを過小評価したらいけません。聖書に書いてある通り、だれがわたしたちに敵対できますか。もし、敵対するなら、神様を敵にすることになりますから、結果は目に見えています。だから、堂々と生きてください。正しく生きる事はとても楽な生き方なのです。人に振り回される必要はありません。自分だけが正直に生きて損をしていると感じることがあっても、神様が一緒にいてくださることを思い出してください。あなたは、必ず得しているはずです。それに気がつけないだけです。神様の側に立つ事は、時に勇気も入りますね。でも、報いがあることを知っていれば、そのことに心はワクワクします。それに、クリスチャンでも、誹謗中傷を受けることがあります。批判されて凹むこともあるかもしれませね。これも、神様は黙っていません。だから、あなたは主を信頼して黙っていてもいいのです。あなたを義とするのは神様なので、そのあなたを訴える人は、相当大変なことになります。それを知ることがあったら、きっとその人を執り成してあげたくなるかもしれません。このようなことを覚えていて欲しいのは、神様が生きているからです。神様に選ばれていることを疑わないでください。そして、その恵みを感謝していましょう。そうすれば、たとえ失敗しても自分を責める事はしないですみます。面白いことに、酷い目にあっても信仰で耐えていると古い人が死んでいくようです。やっぱり肉が自己正当化したいのですね。イエス様の御前で罪人であることを認めたなら、カッコ悪く言い訳しても仕方ないですね。神様の私たちに対する肯定感が半端ないので、何があっても大丈夫なんです。だから、イエス様を信じて、私たちは穏やかにあるがままに生きていけるのです。ありがたいですね。

 

8月21日(金)

わたしはまた、竜の口から、獣の口から、そして、偽預言者の口から、蛙のような汚れた三つの霊が出て来るのを見た。

ヨハネの黙示録16 :13

 

これは、第六の鉢の預言です。ここでは、三つの象徴的な言葉が出てきます。その解釈も一つではありません。預言の歴史的解釈では、「竜の口」とは、多神教または偶像教と解し、「獣」は、ローマ・カトリック、あるいは法王権と解釈します。「偽預言者」は、背信的なプロテスタン教会ととります。別の解釈では、「竜」はサタンであると考えます。「獣」は反キリスト、「偽預言者」は偽の宗教的な組織、と解釈します。この説によれば、これらは明らかにサタンの働きの全体像となるのです。これは、14章の三天使の働きに対抗して悪魔が全勢力を結集することを意味しています。悪魔は総攻撃しようとしているのです。こうしたものの背後で働いているのが悪霊です。その正体をあらわにしてまでも最終決戦に出てくるということです。私たちは、その戦いにすでに参戦しています。どちらの側につくのか、しだいに世界中で明確に分かれていくのです。最後までキリストの軍勢に加わっていたいものです。目に見えるものに惑わされないように気をつけましょう。

 

8月22日(土)

七つの頭とは、この女が座っている七つの丘のことである。そして、ここに七人の王がいる。五人はすでに倒れたが、一人は今王の位についている。他の一人は、まだ現れていないが、この王が現れても、位にとどまるのはごく短い期間だけである。

黙示録17 :9、10 

 

「七つの頭」「七つの丘」これは、ローマが七つの丘の上に建てられていたことから文学的表現として知られていたと言われています。「女」は1節に「多くの水の上に座している大淫婦に対する裁きを見せよう」とある大淫婦のことです。淫婦ですから、真の神ではない偶像との姦淫を意味しています。「多くの水」は「あなたが見た水、あの淫婦が座っている所は、さまざまの民族、群衆、国民、言葉の違う民である」(10節)。つまりこの世界に存在するあらゆる人間の上に支配しているサタンがいるということになります。黙示録は、七という完全数を使って、預言してきました。キリスト時代から再臨の時までを七つの時代に区分して預言したりしています。そこで、「七人の王・・」の箇所を同じように考えれば、五人は過去のことで、六人目は現在のことになり、七人目はこれからくる未来の反キリストと解釈できます。そうであれば、悪魔の軍勢はキリスト教徒の大迫害をしかも今までで最大の攻撃をすることが予想されます。中国でも地下教会のクリスチャンは一億人を超えていると言われていますが、彼らは今も迫害の中にあるのです。それが、もっと激しくなることを懸念しています。ただ、クリスチャンはこの17章を恐れて読んではなりません。それは、「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める。」(14せつ)と圧倒的なキリストの勝利、そしてキリストに忠実な聖徒たちも勝利を収めると約束されているのです。一方、サタン側は、「ついに滅びてしまう」(8、11節)と敗北が決まっているのです。ですから、いたずらに終末を恐れる必要はありません。それよりも、キリストに信頼をおき、最後まで信仰に立つ決意が重要です。なぜなら、勝利の栄冠が目前だからです。ちょうど、長いコースをひたすら走るマラソンランナーがいよいよ、競技場に入っていくると大歓声で迎えられますよね。それと同じです。私たちは、競技場に入ろうとしているあたりだと思います。最後の力を振り絞って、気力で走って行くのです。勝負は競技場に入ってからです。ゴールが目前なら、本気でがんばれますね。

 

8月23日(日)

わたしはまた、天から別の声がこう言うのを聞いた。「わたしの民よ、彼女から離れ去れ。その罪に加わったり、その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。

黙示録18 :4

 

今、テレビで大人気の番組の主人公が決め台詞で「倍返しだ」と叫ぶのですが、聖書にも倍返しが出てきます。それは、「彼女がしたとおりに、彼女に仕返しせよ、彼女の仕業に応じ、倍にして返せ。彼女が注いだ杯に、その倍も注いでやれ」(6節)とあります。これは、聖徒たちが迫害され、苦しめられてきたことへの倍返しです。バビロンに神様の裁きが倍返しで行われるということです。この世界に生きていると、バビロンの精神がいつの時代にもあり、そして現代にも見られることに気がつきます。バビロンがあっという間に滅んだ理由を見ていけば、当てはまる国々や現代の文明を思わざるを得なくなります。具体的には、罪悪、贅沢、たかぶり、享楽、偶像礼拝、聖徒の迫害がバビロンとして18章に書かれているのです。世の終わりにもバニロンは完全に裁かれ姿を消すでしょう。それは、遠い国の物語ではありません。自分の国も生きている現代の世界もまさにバビロンになっていないかと考えてみてください。その中に流れる価値観、生き方の基準が問題になります。そこから離れなければならないと警告が発せられていても、山奥に一人住んで世捨て人になるわけにもいきませんし、そうなれという意味ではありません。今、置かれた場所で、キリストに従って行きなさいということです。皆さんの信仰がバビロンから離れて生きる力になるのです。それにしても、「やられたらやり返す、倍返しだ~!」と悪いことをする権力者に弱い立場の主人公が叫ぶだけでなく、完全に打ち負かすところが人気の秘密です。現実には、そうはいかないからこそドラマで憂さ晴らしをしているのかもしれません。私たちは、現実に主にすがって支えられて生きているので、仕返しはしませんが、主が私たちに代わって、正義の裁きを成し遂げることを信じることができます。キリストによる、その正義の実現があるので、今を耐えることもできるし、忍耐強く生きることができるのです。

 

8月24日(月)

ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。

黙示録19:6~8

 

19章は素晴らしい箇所です。全部は書けませんが、今日の聖句箇所は、イエス様を信じる聖徒たちがいよいよイエス様との婚姻の時を迎えるという描写の箇所です。これは、いよいよ救いの時が来る、それは、キリストの再臨の時が来るということです。花嫁である聖徒たちは、ここで「麻の衣を着せられた」と書かれています。このポイントは、麻は罪や汚れのない清さを象徴していますが、それは自分が頑張って達成することのできるものではありません。そうではなくて、キリストを信じて義とされた人に聖霊が与えられ、その聖霊が内側から働き、それが外に現れる時には、正しい行いとなるわけです。だから、人間的に考えた正しい行いとは意味が違っています。そうでなければ、やはり正しい行いをしなければならない、と言い出す人が出てきます。そんな事は決してできないのですが、彼らはできるといいます。それは、清さのレベルが低すぎることを考えているから言えるのです。この人間的な考えを認めると、パウロが戦った律法主義者の方が正しいことになってしまいます。ですから、聖書学者たちも清さも聖なることも正しい行いもすべて良いものは神様から与えられると解釈しています。だから、わたしはダメだと簡単に悲観しないで欲しいのです。誰でもイエス様を信じて救われたなら、人間的な考えを一切入れずに、聖書に書かれていることを何度も読み返して、その通りに信じることです。この時も、聖霊が真理を教えてくださいます。ちょっと読んですぐに意味がわからないと投げ出してはいけないのです。聖霊が真理の解き明かしをしてくださいます。それを与えられるまで待てばいいのです。日々の信仰生活も苦難や試練も説明のできない苦しみも、すべてイエス様が解決してくださいます。ただ、時があることを覚えて、待つことも必要なのです。この間の祈りや信仰が今日の聖句の成就へと導いてくれるはずです。イエス様にはいつでも希望があります。

 

8月25日(火)

わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証と神の言葉のために首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。

黙示録20:4、5

 

20章は、いわゆる千年期の箇所です。1~3節は、悪魔、サタンと呼ばれる竜が捕らえられ、人間を惑わさないようにされた話です。現代のことで考えてみてください。とうとう、悪魔が捕まり、活動できないようにされた、というのです。それなら、社会が良くなるように思いませんか。千年間というのは文字通りかそうでないかはわかりませんが、かなり長い期間である事は間違いないと思われます。その間の統治者は、キリストであり、殉教者たち、迫害の中でも特に悪魔の側に屈しなかった忠実な信者が復活して、「キリストと共に千年の間統治したと」とあります。19章で再臨の光景が悪の裁きとして預言されたととれば、再臨の後で20 章にある千年期が来るととれます。また、書かれた順番でことが起こるのなら、千年期が終わると悪魔は解放され、地上の悪人たちを扇動して戦わせようとします。その数は海の砂のように多いのです。彼らの最後は天からの火で焼き尽くされるのですが、悪魔は火と硫黄の池に投げ落とされるのです。その後に最後の裁きがあります。いのちの書に名を記されていない者は、火の池に投げ込まれた。と預言されています。ですから、正しく生きていかなければなりません。それは、キリストを愛して生きることにより実現できます。これから世の中はますます悪くなると悲観する人たちもいますが、私たちは神様のお守りの中で生かされているので、どのようなことになろうと心配する事はありません。キリストの救いは完全なのですから、信頼していれば大丈夫です。神様のカレンダーは確実に時を刻んでいます。預言はすべて成就します。周りを見ないで、イエス様だけを見て心を強くして喜んで毎日過ごしましょう。

 

8月26日(水)

見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。

黙示録21:3、4

 

聖書の中で最初に人間が創造された時、人は神様と顔と顔を合わせて会うことができました。しかし、アダムが罪を犯して楽園を追放されて以来、再び神様と顔を合わせる事はできませんでした。しかし、聖書の最後の書にそれも終わりに、再び人は神様と共にいることができるようになっています。なんという希望でしょうか。救いは罪の無い世界の回復です。そこに描かれた新しい都は、見たこともない人の手では作ることのできない、驚くべき美しさで満たされた最高のものです。この都に入ることのできる人は、いのちの書に名を記された者だけです。もはや夜もありません。神様の栄光と小羊の光が満ちているからです。私たちはこの世ではいろいろな嫌な経験や思い出があるでしょうが、それらが消し去られた涙の嘆きも無い世界です。この世では酒ることのできなかった労苦も無くなります。当然死も無くなりました。つまり、もう二度と罪が発生しないということです。それは、神様と救われた者の交わりの回復です。つまり、神様と救われた者の間の愛の関係が生き返ったのです。この世でいくら想像をたくましくしても、新しい都を理解する事は難しいです。この世は朽ちて行きますが、新しい都は永遠なのです。そして、ヨハネは神殿を見なかったと証言しています。それは、「全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである」と書かれています。想像を超えていますよね。この素晴らしい都があなたをまっているのです。忌まわしい罪の世界は、過ぎ去ってしまうのです。イエス様を信じて楽しみに待ちましょう。

 

8月27日(木)

天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。

黙示録22:1

 

新天新地の描写も象徴で描かれています。この「命の水の川」も二つの解釈があります。一つは、エデンの園の川に対応している解釈です。つまり失われたエデンの園の回復を描いているとするものです。ただ、創世記2:10 に出てくる記述は、「エデンから一つの川が流れていた。そのを潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた」とあるので、 もう一つの解釈の方が当てはまるように思います。それは、ヨハネ7:38の「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と描かれた箇所から、聖霊のことを意味するととるのです。さらに、39節には、「イエスは、ご自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである」と解説があるので、「聖霊」を指している事は間違いなさそうです。絶え間なく聖霊が神様と小羊の御座から川のように流れ続けるのは、キリストを信じた人たちが聖霊をまるで命の水のように飲み続けることで新しい命に永遠に生きることを意味していると思われます。地上では、聖霊のバプテスマを受けて、この前味を味わっているわけです。そのために、この世では、クリスチャンでも飢え渇きを覚えることがあるかもしれません。新しい都ではそれが無くなります。そうそう、川の両岸に命の木があって、「その木の葉は諸国の民の病を癒す」とありますが、天国に病気はありません。ですから、これも象徴で、健康を与え続けることを意味しています。歳をとったり病気で悩む事はもう無いのです。ワクワクしますね。私たちも「来てください」と毎日祈りたいですね。

 

8月28日(金)

主の言葉がわたしに臨んだ。「エレミヤよ、何が見えるか。」わたしは答えた。「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。」 主はわたしに言われた。「あなたの見たとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている(ショーケード)。」

エレミヤ1:11、12

 

エレミヤという預言者の召命とどのように預言が主から与えられたか知ることができます。ここでは、神様が預言者エレミヤと親しく会話しています。そして、ヘブル御の言葉遊びのようにしながら預言が与えられました。アーモンドは日本の梅の花のように、厳しい冬が終わって春が訪れたことを一番早くに教えるものですから、マナセの長い暗黒の治政の間を冬にみたて、その間、神様も冬眠されたかのごとくに何もしないでいるように見えたけれど、春を告げる花の蕾が膨らんでいる。それは、神様がいよいよ目覚め(シャケード)、始動する事を暗示している。主が動き、歴史が動く事を預言者を通して示そうとしているのです。これから、良いことが起こるわけではなく、次の預言の通りに、北から敵が攻めてくる。初めはスクテヤ人、そしてバビロニア人が攻めてくる。このように、預言者は、神様のご意志をそのまま伝える厳しい使命を担います。王様だけではなく、政府高官もつまり、国で権力を持つ者たちに怒られ恨まれるような事を告げ知らせて、戦うことになるのです。ところがエレミヤは内気な人見知りの人だったので、そのような人が国際的な大預言者として召命を受けたことが興味深いのです。気の強い社交的な雄弁家が良いと考えるのは人間の常識でしょうが、エレミヤにはもう一つ別の魅力があります。それは、詩人であった事です。彼は、世界中の人の心を打つことができる才能があり、またすべてのものに同情できる力を持っていたのです。神様は、必要に応じて、どのような人でも主の御用に用いることができるのです。つまり、わたしはダメだと誰も言ってはいけないのです。人から見れば、エレミヤは弱い人と思われたかもしれませんが、偉大な預言者となりました。パウロも主は弱さに働かれると言っていますから、弱さは決して悪くないのです。神様によって救いに召されたみなさんは、もう少し自信を持って生きていいのです。自分だからこそ、選ばれたのですから。弱さすら役に立つのです。素晴らしいことですね。

 

8月29日(土)

まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて、無用の水溜めを掘った。水をためることのできない、こわれた水溜めを。

エレミヤ2:13

 

ヨハネの福音書には命の水について書かれていましたが、人が生きていくためには水は不可欠である事を誰でもが知っています。特に、雨が不安定で水がいつ不足するか分からないような所では、水の確保が必要になります。一番は水の量が多く泉がある事ですが、泉が無い場合は、石灰岩を掘って水溜を作ります。石灰岩そのままでは水が漏ってしまうので、水漏れを防ぐためにしっくいを塗ります。しかし、いつかはしっくいがはげてきて、また水が漏り出すのです。生きるために必要な水を求めて、水を溜めた場所に行っても水がなくなっていたら、どうでしょう。エレミヤは、偶像の神々がまさにそれだと言うのです。誠の神は、生ける水の源であるのに、どうして神のもとを去ってしまうのかと、人の愚かさを告げています。私たちも飢え渇いていると言うことがあるかもしれませんが、それは、心が主から離れていないか、自分の価値観や生活態度はどうか、生ける水を飲んでいないのでは無いか、信仰の喜びを忘れていないか、反省してみる機会かもしれません。または、さらに神様の元へ近づく事を求められているのかもしれません。ここに出てくるイスラエルの民は、エジプトを出て、荒野にいた時は主と新婚の夫婦のようだったのに、カナンに定住して豊になった途端、カナンの豊穣の神々を慕い始めたのです。これらは、信仰生活の教訓となっています。

 

8月30日(日)

床につくときにも御名を唱え、あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。あなたは必ずわたしを助けてくださいます。あなたの翼の陰でわたしは喜び歌います。

詩篇63:7、8

 

祈りについて考えることがあると思います。たとえば、いつ祈ると良いのだろうか、1日に何回祈るべきだろう。どんなふうに祈ればいいのだろう、時間はどうだろうか。このようにクリスチャンは祈りにつてい考えることがあるものです。祈りについての本は昔から多くあり、祈りの重要性がそこからもわかります。よく祈る人が神様に近づいていることは間違いありません。それに、長く祈れないと言う人は、そもそも祈りを教えてもらったことがないのでしょう。その人が祈りについて考えているのなら、祈りの本を探してまずは読んでみることです。祈りの達人の伝記のようなものはハードルが高すぎるかもしれませんから、もっと優しいものが良いと思います。もう一つ大切なことは、必要に迫られた時には誰でも、必死に祈ることです。そこで、祈らざるを得ないようなことが起こる場合があります。多くの場合、その人にとっては試練と呼ばれるようなことが起こるわけです。この時に、祈れませんと言う人はいません。だからこそ、祈らざるを得ない状況に置かれているのです。このような事を経験すると、祈りが変わります。できれば、試練なしが良いと思いますから、毎日の祈りを工夫して自分が一番楽しい良い時間にすることで必ず祈る習慣を作ることが大切です。いつも祈りなさいと言われれば、その通りにすればいいのですが、あまりにも四角四面に考えすぎないことです。つまり、義務ではないという事です。神様を天のお父様と呼び、イエス様を愛する思いから呼びかけ、運命共同体となっていつでも愛情深く接してくださる聖霊様を自分の内側に向かって呼ぶ時、何が起こるかという事を理解したいものです。さあ今から寝ようとする時、床に入ってからも御名を唱えて、祈りをするのは、とても神様が近いからこそできる事なのです。仏壇の前に行って祈る人もいるでしょうが、私たちは、どこにいても何をしていても神様が共におられると喜べる状態に生きているのです。だから、必ず助けていただけるわけです。ありがたいですね。

 

8月31日(月)

しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、このかたは常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。

ヘブライ7:24、25

 

ここでいう祭司は、神と人の間の仲保者となって執り成すことのできる方のことを言っています。それが私たちの信じるイエス様の現在の職務なのです。これほど心強いことはありません。皆さんが心配することはありません。イエス様を通して神様に近づく人たちとは、皆さんのことです。そして、御言葉の約束の通りに、あなたを完全に救うことができるのです。ですから、この御言葉を信じてください。自分で自分を救おうとしても、難しくいたずらに時間だけが過ぎて行きます。寿命が尽きても達成できる保証はありません。それよりも、イエス様を信じて、救っていただいた方が確実に救われます。それは、天国に入れるまでに聖なる完全な者と成れるようにイエス様が働いてくださるということです。バプテスマで終わりではなく、天国に入れるまで助けを惜しまないということです。それも、聖霊を信じる人の内側に住まわせて、霊的に再創造されるのです。聖なる霊が新しい人の命となって、イエス様のように成長させてくださるのです。人間には説明できない神様の不思議が信じる人たちの上に働くのです。ですから、私たちは余計に、イエス様を通して神様に近づくことです。意識してみましょう。