2021年1月ディボーション

1月1日(金)

今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望み

あなたの力と栄を見ています。

あなたの慈しみは命にもまさる恵み。

わたしの唇はあなたをほめたたえます。

命のある限り、あなたをたたえ

手を高く上げ、御名によって祈ります。

詩篇63:3-5

 

大晦日の行く年来る年を見ていたら、お寺ばかりが出てきて、コロナにもかかわらず、多くの人がお参りしていました。素朴にクリスチャンも見ているのになぜ当たり前のようにお寺ばかりを映すのかと思いました。私たちは旧約聖書の時代の人々のようにエルサレムの聖所で神を礼拝することはできませんが、この詩人と同じように主をほめたたえ、手を高く上げて、御名によって祈るでしょう。それこそが私たちの望みです。新しい年がどのような年になるかはわかりませんが、私たちが主を讃美して喜んで祈り続ける一年であることを願います。願わくば、聖所にとどまる聖徒の群れに加えていただきたいものです。この世のどんなしがらみも、病気も苦労も、主をたたえ、手を高く上げ、キリストの御名によって祈ることを妨げることはできません。私たちはきっとキリストの力と栄光を見るでしょう。そして、主の慈しみがどれほど尊い恵みであるか知るでしょう。誰に強いられるわけでもなく、私たちの唇は主をほめたたるのです。私たちの命が尽きるまで、私たちの救い主をほめたたえるでしょう。あなたの問題はキリストによって解決します。あなたは喜び、主の慈しみの意味を知るでしょう。私たちが何者であるか、恵みの中で知るのです。聖徒たちよ、主をほめたたえよ。

 

1月2日(土)

災難は罪人を追う。

神に従う人には良い報いがある。

箴言13:21

 

聖書は明確に罪人とクリスチャンの違いを説明しています。どちらが良いかは明らかです。ですから、どんな人でも神様に従って欲しいのです。同じ地域に住んで、同じように見えていながら、実はその人生には災いに追われている者と神からの良い報いを受ける者という二つの結果が決まっているのです。どちらがいいかは明らかですが、この世の人々はそのことがわかっていません。クリスチャンでも悪魔に囁かれるとすぐに信仰がぐらついて、神に従うことをやめてしまう人がいますが、決してそのようなことをしてはいけません。災難は避けたいし、良い報いは受けたいのが人情です。でも、どうすれば良い方を得られるのか知らないのです。クリスチャンはこのみ言葉が真実であることを証しする必要があります。ですから、この真理を実践しましょう。私も何十年間という人生の大半を神に従って生きてきましたが、それは大正解でした。悪魔との戦いの最前線にいたので災難に遭っているように見えたかもしれませんが、本人はその渦中にあっても完全に守られていたのです。それどころか、良い報いを得て今に至っています。このような証しをすることができる人はたくさんいるはずです。ですから、何があっても神様に忠実に従おうと決めて生きれば、良い報いの人生が待っているのです。

 

1月3日(日)

互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。

コロサイ3:9、10

 

クリスチャンになったらどうするのですか?と聞かれたら、今日の聖句をまずは思い出すことです。短い言葉で言い尽くしているからです。信仰者は、聖霊の導きを受けることができるのです。聖書も聖霊が解き明かしてくれます。ですから、今日の聖句の内容は何度も聞いているはずです。しかし、私たちは、そうそうこのように聞いていました、その通りです、などと調子の良いことを言って、実はうそをついているのです。まず、知っているのなら、古い人をその行いと共に脱ぎ捨てるべきです。ところが、ここからして既にうまくいかずに、脱ぎ捨てるという意味がわからない、とかいい加減なことを言って誤魔化している人が多いのです。そうなると、当然ですが、新しい人を身に着け、ということもできないままです。どうして、こうなるのでしょう。一番は、古い人を脱ぎ捨てる気がないからです。そこで、今日の御言葉を無視すると、この世の人とあまり変わらないまま時間が過ぎて行くことになります。日々新たにされて、とあるのは一瞬で変わるという意味ではなく、毎日新しくされることで、変わることを意味しています。時間が必要なのです。それなのに、真剣に御言葉に向かい合わないと、全くどうしていいかわからないまま終わってしまうでしょう。そうならないためにも、神様に正直に、自分の状態を伝え、この御言葉の通りになることができるように助けてくださいと祈る必要があります。私たちが求めているのは、真の知識に達することなのです。目標がある方がいいですね。今年は、この御言葉の通りになれるように祈って行きたいですね。

 

1月4日(月)

つい近頃生まれた乳児のごとくに、にせものの混じらない、理にかなった乳をほしがるように。

Ⅰペトロ2:2

 

新生という言葉を教会でたびたび聞くのですが、その説明も一度は牧師に聞いたことがあるはずですが、その新生を説明せよと言われれば、途端に困ってしまうということはないでしょうか。新生はキリスト教の専門用語ですから、教会では普通に使われます。しかし、ちゃんと理解できているかといえば自信のない人は少なくありません。そうであるなら、今日の聖句は理解できないことになります。しかも、クリスチャンにとって大切なことなのにです。今日の聖句の言いたいことは、新生、つまりキリストによって新しく生まれた人は、今までのようにこの世のものをなんでも受け入れていいというわけではないということです。赤ちゃんににせものの混じったミルクを与えると大変なことになります。下手をすれば死んでしまうかもしれません。ですから、新生した人も自分が受けようとするものは慎重に吟味しなければならないのです。この世の知識や知恵ではなく、天の知識や知恵が必要です。聖書は新生した乳児のような人に与える乳としては理にかなったものです。霊であり命である御言葉を欲しがるべきです。キリストはご自分を天からのマナと表現しました。そして、聖書はキリストのことを書いてあるのです。ですから、キリストを乳として欲しがるようになることを奨励しているのです。霊的な食物も、食べればその人になって行くのです。自分の内に入れるものを吟味しなさいということです。そうでないと、無自覚に肉を喜ばせ、死んだものを生かすようなことになるので、そうしないようにということです。

 

1月5日(火)

主は倒れようとする人をひとりひとり支え

うずくまっている人を起こしてくださいます。

ものみながあなたに目を注いで待ち望むと

あなたはときに応じて食べ物をくださいます。

すべての命あるものに向かって御手を開き

望みを満足させてくださいます。

詩篇145:14ー16

 

私たちは弱いかもしれませんが、主はそれだからと叱る方ではありません。頑張ってもうまくいかないことだってあるのです。そのような時に倒れそうになれば主が支えてくださいます。行き詰まってうずくまれば、主が起こしてくださるのです。飽食の時代に生きていると、飢えることがわからないかもしれませんが、今でも世界中に飢えている人がいます。天候不順で旱魃になっても、洪水になっても、害虫が以上発生しても、すぐに何もかも食べるものがなくなります。どれだけの人が亡くなったことでしょうか。だから、食べ物をくださる神様がどれほどありがたいか忘れてはならないのです。皆さんはどう思っているかはわかりませんが、神様は皆様の望みを満足させようと働かれるお方なのです。どうせ自分のような者の望みなど叶えてくれるはずがないと思っているならそれは間違いです。あなたは神様の恵みをいっぱいに受け取ることができるのです。ですから、悩んでいる人は、神様が自分のために何もしてくれないと思ってはいけません。そうではなく、ちょうどよく、ちょうど良いタイミングで望みを満足させていただけると信じましょう。あなたの神様は特別に素晴らしいお方なのですから。

 

1月6日(水)

あなた方の内にある希望について、その理由をあなた方に問うて来る人には、返答をする用意をととのえているように。

Ⅰペテロ3:5

言葉には力があります。そこで、良い言葉を知ることは大事です。また、良い言葉を読むことも、音読することも大切なのです。クリスチャンは、聖書を読む民です。その聖書は、主イエス・キリストを証している書です。ただ、大変古い書であり、外国、それも古代オリエントの小国、イスラエルで書かれたものです。現在、私たちが目にしている聖書は、「律法」「預言者」「諸書」の順でユダヤ教の聖典として紀元1世紀末にできたものを、キリスト教の初代教会も使っていたのです。特に、ヘブル御原典聖書の初めの9冊、それは「創世記」から「列王記」まで(ルツ記は除く。サムエル記と列王記は上下を合わせて一冊と数える)で、年代順になっていて、歴史書になっているのです。この最後の列王記にバビロン捕囚からの解放が書かれています。つまり、天地創造からバビロン捕囚までの民族の歴史が編纂されたということです。しかも、実際に編集・編纂されたのがバビロン捕囚の時になされて、完全したものをバビロンからイスラエルに持ち帰ったのです。これは、実に驚くべきことで、民族の歴史の膨大な資料、つまり旧約聖書本文の元になるおびただしい数の資料がバビロンまでの一千数百キロの道のりを延々と運ばれたことになります。彼らは捕囚民だったのにです。このようにしてまで、彼らは自己のアイデンティティにこだわったのです。このような背景のある文書を日本語に翻訳できるのかといえば、実際にやっているわけです。しかし、古代イスラエルの文化も風習や習慣も宗教も歴史的社会的背景も知らないで、果たして翻訳したものが伝わるのだろうか、といえばかなり難しいわけです。現代日本語にして、しかもわかりやすい言葉にしていると、錯覚が起こり、古代の異国で起こった出来事がなんとなく現代人が話したり、何か出来事を起こしているように思えてしまうのです。そこで、聖書は難しいと言い出すわけです。それでも、根気よく聖書に取り組み、専門家に解説してもらったり、さまざまな宗教書などを読んだり、聖書辞典を引いてみたりして、だんだんに新の知識へ近づくのです。このような時間のかかる方法で、しかも信仰で、人間の内に何か不思議が起こるのです。それは、どんな時代にあっても、希望と呼べるものです。それを確かに自分の内に持つことができるのです。ですから、いつか誰かに聞かれた時に、私たちは言葉で答えるでしょう。単なる知識の受け売りではありません。自分が主に与えられて、命に関わる大きな経験をして、しかも毎日祈り、交わりを持てる神様が、新しい世に生きる者としてくださった希望なのです。だから、自分が発見した良い言葉で返答したいのです。

 

1月7日(木)

もし語るならば、その語るところは、神の御言葉であるように。

Ⅰペテロ4:11

 

クリスチャンという生き方を選んだので、その人は普通の人のようには生きられない。だからといって、特別な聖人のように生きることも難しい。結局は正直に生きるしかないので、あまり周りにはクリスチャンと言いたくないかもしれない。ところが、ある日、神様が語りかけてくる。例えば、今日の聖句のように。新共同訳で同じ所を見れば、「語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい」となっている。この箇所は、賜物の良き管理者として賜物を生かして仕えよ、という文脈にあるので、預言者とか説教者とか伝道者あるいは教師など人に語る賜物の人が当てはまるだろう。しかし、今日の訳は何かクリスチャンの生き方に関っているように感じる。クリスチャンが語る場面がある、それはこんな場面だと決まっていることのようには言えないが、確かに神の御言葉を語る場面があるということだ。例えば、誰かをキリストが見つめていてその心に語りかけるような場面だ。実は、そこにはクリスチャンがいて、その中のキリストが語るわけだ。それを邪魔してはいけない。たぶん、何かを感じて相手に励ましや慰めやとにかく良い言葉を語らなければと焦るかもしれない。だが、その人のことを分からないのに、軽率にヒューマニズムでいいことを語ろうとする事ほど意味のないことはない。信仰があるのだから、自分の内なるキリストが語り出すことを信じよう。たぶん、あなたは預言者でも説教者でもないだろう。それでも、このようにキリストがあなたを通して誰かに語りかけることがあるので、そのことを思い出すかもしれない。自分でも不思議に思うほど相手の心に届く言葉を語っていた、と後で驚いたことがあったはずだ。つまり、内住のキリストがあなたを通して語ることがあるということだ。そのことが頻繁に起こるように祈ろう。誰かと会う時、あなたを通してキリストは語るかもしれないと覚えていよう。

 

1月8日(金)

あなたを知る人の上に

慈しみが常にありますように。

心のまっすぐな人の上に

恵みの御業が常にありますように。

詩篇36:11

 

神様を知るということは、特別なことです。神様に招かれていても拒む人もいますし、神様のことを話しても、神様の御業を見ても、「聞いても聞こえず、見ても見えず」という御言葉の通りの人たちもいるのです。どうしてそうなるかと言えば、自己中心だからです。自分の考えに合わないものを認めないのです。このような人は、神様を求めてもそれは困った時の神頼みで、神様の言うことを聞きません。自分の考えた通りでなければ認めないからです。この人たちに必要なのは、便利な奇跡を起こす道具としての神様です。ところが、こうした人が蔓延しているこの世に、神様を知る人が実際にいるのです。神様を知るということはイエス様を知るということです。この人たちはたいていクリスチャンと呼ばれています。この人たちのためには、この人たちに慈しみが常にあるようにとの執り成しがあります。さらに大事なことですが、「心のまっすぐな人」とあるのは、本当の自分でいることです。正直であると言っても良いのですが、神様に正直であるという言い方の方が正しいのです。神様に正直になれば行いによる義にはなりません。できないことをできると言うことは嘘になるからです。また、周りの人のことが気になってその影響が強く自分に働くと、本当の自分でいることが難しくなります。だから、なんとかしなければならないのですが、自力ではかなり難しいのです。そこで、イエス様の助けが必要となります。ただ、イエス様は心を見るので、二心ではだめです。どうしたいのか明確でなければなりません。聖書に重い皮膚病の人や障害があって物乞いをしている人たちがイエス様に癒しを求める場面が出てきますが、あの人たちが癒されたのは、「心のまっすぐな人」になれていたからです。もう失うものもないし、見栄を張ることもできないし、心が複雑になる必要もないほどに貧しくなって、望みを唯一イエス様だけにかけたのです。それが「心がまっすぐな人」と言うことです。それが証拠に、これらの人たちがイエス様に願いをかなえていただけたのです。これは恵みの御業でした。それが常にある人こそ、心のまっすぐな人なのです。このようなクリスチャンでありたいですね。

 

1月9日(土)

わたしは生い茂るオリーブの木。

神の家にとどまります。

世々かぎりなく、神の慈しみに依り頼みます。

あなたが計らってくださいますから

とこしえに、感謝をささげます。

御名に望みをおきます

あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深い

あなたの御名に。

詩篇52:10、11

 

ある時、ホームセンターで植木をみていると、特売品としてオリーブの小さな木が五百円で売っていました。それで二本買いました。オリーブというだけで嬉しくなって、実をつけたら食べられるだろうかなどと余計なことまで考え、二本並べて植えてみました。それから、一年経っても二年経っても対して大きく成長しないのです。それで、一本を離れた所に植え直しました。すると、大きく成長しだしたのです。二本並んでいる時は、互いに頼っているからか成長しなかったのです。一本になると神様に頼るようになったのでしょうか、成長しだしました。やっぱり仲間がいれば神様に頼らなくなってダメなんだなぁと勝手に納得しました。詩篇52篇は「この男は神を力と頼まず、自分の莫大な富に依り頼み、自分を滅ぼすものを力と頼んでいた」このような者が滅ぼされることを詠っています。一見人ごとのようですが、人間は神に依り頼まないで自分の力や富や有力者に頼ろうとする傾向があるのです。しかし、神様を知った人たちはそうではありません。神様にのみ信頼し、神様の慈しみに依り頼むのです。私たちは知っています。神様がちゃんと計らってくださるので、心配することなく生きていけると言うことを。そのことが理解できるようになると感謝することすら楽しいのです。このように全面的に神様を信じて主の慈しみに生きるなら、主の恵み深さに驚くでしょう。ですから、私たちは主の御名に望みを置いているのです。

 

月10日(日)

どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩。

イザヤ26:4

 

信仰を持つ者は、信仰によって生きます。それが可能なのは、その信仰に応えてくださる主がおられるからです。そのことが納得できると、信仰者の生き方は一つになります。それは、どこまでも主に信頼することです。そこまでの信頼を寄せても大丈夫なのは、主が永遠という時間に耐えるほど不動で変わることのない確かなお方であるからです。ですから、私たちの信仰の拠り所になれるのです。人がどう思おうが私たちは主に信頼するのです。その信頼が決して裏切られないことを知っているからです。いや、主はいつでも私たちの信頼以上に応えてくださいます。ですから、目の前のことでいちいち揺らいではいけません。心を確かにして、岩の上に足をつけて立っていると思うのです。やがて、信頼は喜びに変わります。あなたの信じる主は、それほどの恵みに富んだお方なのです。今日の御言葉を忘れなければ、あなたの将来は明るいのです。

 

1月11日(月)

また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。

使徒言行録10:43

 

罪の赦しは誰にとっても大切なことです。その方法がわからずに、色々な宗教ができ、哲学や精神世界を扱う様々が試みが繰り返されてきたのです。でも、一番重要なことは、自分の努力ではなく、自力救済ではない方法が必要だということです。今日の聖句で明らかなように、キリスト教はイエス様を信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが受けられるのです。これ以外に、罪の赦しはないのです。ただ、人間の悲しさで、何かしら自分でも努力しなければならないと思いがちなのです。それは、信仰の妨げになることがありますから要注意です。信仰の極意は、今日の御言葉を聞いた時に、心の中で信じることです。この使徒言行録10章では、このペトロの言葉が語られた直後に話しを聞いている一同の上に聖霊が降ったのです。つまり、彼らは文字通りに信じたのです。私たちもイエス様を信じて罪の赦しを受けていることを感謝しましょう。

 

1月12日(火)

あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

Ⅰペテロ1:23

 

確かに、私たちは種から新しい生命が生まれることを知っています。その種が野菜であれば、野菜が生まれ、花であれば花が生まれます。つまり、種が重要なわけです。そこで、クリスチャンが新しく生まれるというときに、どうやって新しく生まれるのだろうかと不思議に思うのです。そして、今日の御言葉の説明によると、種は種でも朽ちることのない種であると教えます。その種明かしが、「神のことば」なのです。それなら、神のことばには種と同じように発芽して成長させ、花をつけたり実を結ぶ、より良いものになって行くはずです。ですから、新しく生まれるという聖書の言い方には、本当に人を聖書の言葉で新しい者、聖なる者へと変へて行く力があるということです。そうならば、積極的に聖書を読み、学ぶ必要があるのです。過去の自分がどうあろうとも、それは死んだ古い人です。今や心の畑に聖書の御言葉という種をどんどん撒けばいいのです。聖霊の雨が降り、神の光が照り、人の内面からどれほどの変化が起こるのか楽しみにしましょう。自分のフリ考えにこだわり、執着すると種は発芽しませんし育ちません。ですから、御言葉を素直に信じ、心に受け取りましょう。このように奇跡は毎日起こるのです。

 

1月13日(水)

主は憐れみ深く、正義を行われる。

わたしたちの神は情け深い。

哀れな人を守ってくださる主は

弱り果てたわたしを救ってくださる。

わたしの魂よ、再び安らうがよい

主はお前に報いてくださる。

詩篇116:5~7

 

日本語は美しいと思うのですが、肝心の良い言葉があまり使われなくなってきたように思います。私が牧師になった時にはすでに、説教壇から語る言葉が難しく聴こえる人たちがいました。それで、易しい言葉でなるべく語ると、言葉の余韻が無くなり、言葉の持つ幅が狭くなりました。そうしてだんだん自分でも良い言葉、美しい言葉を使わなくなってきたように思います。美しい言葉とは、人の心の美しさを表現する言葉のことです。人への思いやりや、愛情であったり、いたわりであったりします。たとえば、「慮る(おもんばかる)」という言葉がありますが、相手のことをよく考えたり、どんな気持ちでいるだろうかと相手の立場に立って想像してみるような場面が思い浮かびます。辛いことがあったり、悲しみにくれるようなことがあったら、どんな心でいるかおもんばかるのです。その名人がイエス様です。決して、甘やかすことはしません。でも厳しすぎるようなことはありません。正義に立っているのですが、憐れみ深く人の心を見通すことができます。神様であるのに、人を裁く前に、情け深く接するのです。私たちの長い人生には、山坂がありますから、良い時、悪い時が必ずあります。その悪い時に、主のありがたさが身に染みます。「哀れな人を」と詩篇に書いてあるのですから、哀れであってもいいのです。肝心なことは、自己憐憫に陥ることなく、主が「哀れな人を守ってくださる」ことを認めることです。弱り果ててしまうかもしれませんが、その時、主は救ってくださるのです。ですから、過去のことなど持ち出してごちゃごちゃ言わずに、ただ主にまかせて救われれば良いのです。救われたかどうかは、魂が安らっているかどうかでわかります。主を信じたのですから、主はちゃんとあなたに報いてくださいます。

 

1月14日(木)

神の道は完全

主の仰せは火で練り清められている。

すべて御もとに身を寄せる人に

主は盾となってくださる。

詩篇18:31

 

この世界に生きていると、毎日ニュースで悪い知らせが流れ、完全とはかけ離れた悲観的な光景を見せられています。このようなことは大昔から変わりません。聖書を読めばわかります。それでも、神様は誠実に人間を教え導こうとしておられます。特に神様は悪い時代でも信じる者を助けてくださるお方です。ですから、どんな時でも信仰は報われるのです。さらに、このような不確かな時代にも神の道は完全であると告げられています。重要なことは、あなたに主が何と語っておられるかです。それこそが、クリスチャンがいつでも正しい状態を保つ方法なのです。そして、主があなたにお語りになる御言葉は個人的に語られているので、あなただけが受け取れるのです。ぜひ、御言葉の力を体験しましょう。そうすれば、あなたは主の偉大さを知り心に喜びを得るでしょう。そのような神様と近い関係を築くことは楽しいことです。決して難しく考えずに、自分らしく自己をさらけ出して、主に思いを向けてみることです。このように信仰の楽しみは、主との関係を深めて近づくことなのです。すると、困難が襲ってくる日にあなたは主の御もとに身を寄せるでしょう。そのようなあなたを主は盾になって守ってくださいます。だから、恐れることなく不安になることもなく毎日明るく過ごしましょう。

 

 1月15日(金)

わが子よ

わたしの言葉を受け入れ、戒めを大切にして

知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら

分別に呼びかけ、英知に向かって声をあげるなら

銀を求めるようにそれを尋ね

宝物を求めるようにそれを捜すなら

あなたは主を畏れることを悟り

神を知ることに到達するであろう。

箴言2:1~5

 

人間の不幸は無知から始まります。真の知識の価値を知らず、ましてや知恵を得ようとしません。それでは、どうやって神を知ることに到達するでしょうか。どのような境遇に生まれても、知識を求めて得ることはできるでしょう。それは、その人の心構えの問題です。知恵が無いと無力のようになります。たとえば、大変なことが起こった時、人はどうしようと考えるのですが、知恵が無いと、これは悪いことが起こったのだから土しようもないとそのまま悪いことを受け入れてしまう可能性が高いのです。しかし、主は逃れ道も備えておかれるお方なのです。それどころか、悪いとばかり決めつけてしまった出来事が実は、知恵によって良いことに変わり、またとないチャンスになることがあるのです。同じ出来事が身に降りかかってきても、知恵のある人と無い人では雲泥の差が生まれるのです。クリスチャンにとっては、信仰の道を歩んでいるのですから、どこに到達しようとしているか知る必要があります。その到達点は、神を知ることです。その方法がここに書いてあったのです。ですから、見つけたなら、よく考えてここに書かれたことを身につけるのです。良い教師は、決して答えを安易に教えません。自分で考えて答えを見つけるのでなければ、知恵がつかないことを知っているからです。ですから、苦労しても自分で答えを見つけるまで考えて知恵を絞るのです。聖書を読むというのはそのようなことなのです。

 

1月16日(土)

互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。

エフェソ4:32、5:1

 

生まれつき穏やかで親切な人はクリスチャンになっても楽だろうが、個性が強かったり、感受性が豊か過ぎたり、自意識が高くて協調性に乏しい人として生まれてきたらどうだろう。つまり、生まれつきの性質が問題となることは多いように思う。ところが、キリストの12使徒を見ると、問題の有りそうな人たちばかりで、キリストを裏切りお金で売って十字架に付ける手助けをした者までいたのだから驚く。つまり、どんな人でもキリストは受け入れ救いのチャンスを作ってくださるということだ。それにどう答えるかはその人次第で自由意志が保たれている。ただ、クリスチャンになることを新生と言っているのだから、本当はその段階で古い問題有りの人ではなくなっているのだ。自分の努力でそうなったわけではないので、あまりピントきていないだけだが、本当に新しくキリストによって生まれた神の子として生きていくことは可能なのだ。そのために信仰まで与えられている。では、実質的に自分が新しく生まれた者、神の子として生きる方法はあるのだろうか。答えは「有る」だ!どうするかはあなたも知っているはずだ。祈り、讃美歌を歌い、聖書を読む。そして、心に語られたことを行うことだ。悟りといえば、何か難しい響きがあるが、まさに悟りというのがぴったりな経験をすることができる。聖書の語られた意味が「わかった!」と叫びたくなるような嬉しい経験だ。そこで、今日の聖句をもう一度読んでいただきたい。最後になんと書いてあっただろう。「神に倣う者となりなさい」!だ。神様は「光あれ」と命じられたらその通りになったのだから、この命令もそうなるはずだ。そこで、毎日「私は神様に愛されている子供なので、私は神様に倣う者となる」と自分に言い聞かせてみよう。良いことが起こると期待しても大丈夫だ。何か見返りを求めずに誰かに親切にしてみよう。人は弱いので憐れみの心で接してみよう。

 

1月17日(日)

自分の口で自分をほめず、他人にほめてもらえ。

自分の唇でではなく、異邦人にほめてもらえ。

箴言27:2

 

世の中は移ろい、変わって行くものですが、真理と言われるものは普遍で変わることがありません。ですから、真理を知るとそれは時代や国を超えてどこででも真理と認められているのです。私たちや聖書を宗教の聖典と考える人たちにとって、今日の御言葉も真理なのです。これは、古代の詩文の書き方の一つで、文章の前半が次の文章の前半と並行して前の言葉の言い換えになっているのです。後半の下の句も同じ仕組みになっていて、同じことを言い換えることによって強調する文なのです。ところが上の句は「自分の口」と「自分の唇」がうまく対応しているので読者もすぐにわかります。当然、下の句も対応しているはずですが、実際いには「他人」と「異邦人」と必ずしも対応していないのです。「他人」は、自分以外の人であれば誰でも良いのです。一方「異邦人」は、宗教的な意味が出てきます。もう少し突っ込んで考えると、自分の考えや価値観と異なる人の意味です。政治家なら対立する政党の政治家、学者なら自分の学派に対立する学派の学者のように、自分の仲間ではない、避けたり敬遠しているような人、そのような人からほめてもらえというのですから、ハードルが高いのです。自分で自分をほめるのは自己愛となります。それは、自己中心主義のことなのです。罪の性質の一つが自己中心と聞いたことがあると思います。ですから、これは絶対避けたいわけす。そして、異邦人にほめてもらえは、ちょっと考えてもどうしていいか分からないほど難しいことなのです。ですから、これを実現するためには、自己中心主義ではもちろんダメで問題外ですが、そうではなく知恵が必要になります。これが知恵文学の目指すところなのです。皆様も少し考えてみてはいかがでしょうか。

 

1月18日(月)

主よ、わたしの心は驕っていません。

わたしの目は高くを見ていません。

大きすぎることを

わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。

詩編131:1

 

驕り、高ぶりは、クリスチャンにとっては捨て去ったものです。それなのに、変なプライドがあったり、自分を基準にして考えたり、少しの努力を過大評価して尊大に振る舞ったり、といつまでも何かしら自分の内側から問題が出てくることがあります。それらは、クリスチャンにとっては邪魔なものでしかありません。この世で働いていようが、この世で生きていても、この世の人たちと同じように考えることは時に問題になるのです。そこで、神様はクリスチャンを訓練します。金や銀を精錬するように、鍛えるのです。時には、試練でしかないようなことも必要ならば与えられるでしょう。そのようにして、クリスチャンは結構大変な道のりを歩むものです。ただ、その分、報いも大きいのです。一般に人は偉くなりたい、出世したいと上を目指して頑張るものですが、クリスチャンは逆に下に向かって進んでいるようです。人からの賞賛を考えていないで、神様にほめられることを願っているからです。何しろ主と仰ぐイエス様が全ての人に仕える者として謙遜に生きたことを知っているからです。誰かと競うこともないし、平和主義者ですから争わないのです。困っている人を助けたり、善行をしていても、人からほめられたり、気づかれたりすることを避けています。米国で書道家として活躍されたIさんは、功績が認められて何度も勲章を授与すると言われても断って辞退していました。クリスチャンの自負があったからでしょう。私たちはやがて、荒野の旅路を終えて約束のカナン、天の家郷へたどり着くことを願っていますが、神様の憐れみなしにはできないことを理解します。そして、さまざまな主の訓練の成果が今日の聖句に書かれたことなのです。今の現状を受け入れて感謝しているのです。若い時には、こうなりたい、あーなりたい、高いところばかりを見ていたのに、それどころか奇跡が起こることすら願っていたのに、そんな驕った考えがいつの間にか消えて、日々の小さなこと、ささやかなことに感謝できるようになるのです。この世のものは何も天国へ持って行けません。ただ、聖霊の実である品性だけを持って行くのです。ですから、信心に油断をしてはいけません。でも、力を抜いて、ありがたい、ありがたいと一日を生きていけばいいのです。

 

1月19日(火)

どのような苦労にも利益がある。

口先だけの言葉は欠乏をもたらす。

箴言14:23

 

毎日が同じなら何の苦労も無いでしょう。ところが、同じような日々を過ごす平凡な人生であっても苦労は避けられないものです。しかし、それは多くの場合益に結びついているのです。何かで困るからそれを解決しようと知恵が生まれ、以前より良くなるのです。そうであれば、常と異なったことが起こったら、困ったと言う前にチャンスが来たと言った方が良いのです。人が誠実に生きようとすると、誰も見ていなくても手抜きはしません。一人で困難を越える知恵を出せなければ、誰かに頼ればいいのです。みんなで考えれば何かしら良い考えは浮かびます。それは時に財産になります。仲間と苦労を分かち合えば、絆が深まります。一緒に苦境を打破するための知恵を絞れば心も一つになるのです。ところが、そのように誠実に困難と向き合わずに、誤魔化しで乗り切ろうと安易な解決の道を選ぶと、周りの人は気がつき看破って、信用を落とすのです。信用ほど価値のあるものはありませんから、一朝一夕にはできません。何年もかけて築いた信用を一瞬で水の泡とするのは、口先だけの言葉なのです。人と人との関わりは、信用が何よりも大事なのです。ですから、「あの人は口先だけの言葉の人だ」と言われるような人にはなりたくありません。そのようなことをしていれば、いずれ時間の問題で信用を失い、取り返しのつかないことになるのです。ですから、そのようなずるい人間にならないように、苦労を利益と考えて労を惜しまない生き方を身につけたいものです。

 

1月20日(水)

わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。

Ⅱコリント4:8、9

 

「クリスチャンはまるでスーパーマンだ。ちょっとやそっとでは倒すことはできない。それどころか、彼らの信じているイエス・キリストに守られているように見える。彼らは、どんなことをしても打ち負かすことができない存在なのだ。」 これは、クリスチャンを嫌って陥れようとす者や迫害する者の感想です。実際、私たちが長く生きれば、いろいろなことに直面してきたでしょう。良いことばかりとは限らないのです。人間の真価は、こうした四方から苦しめられる時、途方に暮れる時にこそ明らかになるのです。箴言で知恵の大切さを繰り返し教えていましたが、これは本当に大事なことなのです。悲観的な人は、すぐに諦めて苦しみや失望を簡単に受け入れてしまいます。そうなると、解決しようとても人並みの考えしか出てきません。当然のこと問題を解決できません。しかし、今日の聖句のような楽観的な考え方は、これだけで奇跡を起こしています。そして、この御言葉は確かなのです。決して行き詰まらないのです。途方に暮れても失望しません。これは本当です。人は他人に親切で優しいのが良いのです。相手の気持ちをおもんばかることができれば、人生はより良いものへと発展していきます。どんな困難も祈って知恵を出して道を切り開くことができます。人の幸せを願っていれば、それが巡り巡って自分の元へ帰ってくる。それも少し大きくなって。そうなると、神様への感謝しかなくなるのです。今日も神様に感謝して良い一日を始めましょう。

 

1月21日(木)

神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。

Ⅱコリント7:10

 

聖書によると、悲しみにも二つの悲しみがあると言います。私たちがよく知っている悲しみは、非常な冷たい雨のような者です。このような悲しみは、やがて死に至るものです。希望がない悲しみです。人の一生の間には、このような悲しみが待ち構えているのです。自分がどんなに真面目に生きていても、悪いことを何もしていないくても、容赦無く悲しみが襲ってくるのです。それに負けてしまえば罪人の定めの通りに死が待っているのです。しかし、私たちを見捨てることのないイエス様がいらっしゃるので、絶望の淵へと追いやられることはないのです。イエス様は、私たちを救うために働かれるお方です。ですから、救いのために最善を尽くしてくださいます。ところが、人間には主の御心が分からないので、悔い改めに導かれると悲しみに圧倒されることになることがあります。そうならなくても、素直に悔い改めることができれば、喜びの涙が流れるでしょう。救いの扉を開くのは、いつでもイエス様の愛と悔い改めなのです。絶望しての悲しみと、罪を悔い改めての悲しみでは全く正反対の悲しみなのです。ですから、あなたは御自分の身に起こる悲しみがこの世の悲しみであるかどうか気をつける必要があります。クリスチャンは、救いに通じる悔い改めが不可欠ですが、信仰の歩みの中で必要なら何度でも悔い改めたら良いのです。そのための悲しみであれば、問題はありません。主の救いは完全だから大丈夫です。

 

1月22日(金)

何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人はさらに与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。

マルコ4:24、25

 

ワープロは便利だが、うっかりミスが起こりやすい。「マルコ」とキーを打つと、変換されるて「まる子」になっていた。気がつかなければ、今日はちびまる子ちゃんの話かと思ってしまっただろう。され、今日のキリストの御言葉は、分かりやすいが厳しい内容になっている。ポイントは、「自分の量る秤で量り与えられ」というところだ。ここでは、何を持っているかは書いていない。つまり、自分が持っているものは何でも自分の秤によって得たものだということになる。持っていない人も、秤が悪いので持っていないという理屈だ。では、秤とは何だろう。ちびまる子ちゃんもそうだが、のび太くんやカツオくんも、皆んなの人気者だ。だからと言って勉強だができるとか運動が得意だとか、秀でているということはない、どちらかといえば、普通の子供だ。その子たちは、いつでも自分の量る秤で量り与えられている。そこが面白いと思われているのだ。クリスチャンの場合は、キリストから愛という秤を与えられた。しかし、自分愛用の秤も持っているので、使い慣れた古い秤を使うことが多いのだ。例えば、キリストの新しい掟は、互いに愛し合うことだが、愛することが難しいと思っていると、少なくともあったはずの愛も無くなって、愛のないことを言ったりしたりしてしまう。こうなると自分がクリスチャンであるので辛くなる。ものの見方が損得勘定ではなく、愛であれば、時には相手を助けるために自己犠牲も惜しまないかもしれない。そうなると、相手は一生忘れないだろう。愛が動機であれば、愛が自分の元へ返ってくるものだ。愛のないことをすれば、身内からも愛されなくなってしまうこともある。人の幸せが自分の幸せと喜べるようになることが良い秤となる。どんな時にも誠実でいたいと思う秤は、平安をもたらすだろう。あなたの秤はどんなだろう。キリストはあなたの秤を見ている。

 

 1月23日(土)

主は憐れみ深く、恵みに富み

忍耐強く、慈しみは大きい。

永久に責めることはなく

永久に怒り続けられることはない。

詩篇103:8、9

 

神様を信じていると言っておきながら、神様をよく知らないという人は少なくないのです。そして、神様を正しく知らないと信仰生活にまで悪影響が出ます。まず、試練や誘惑がくると、混乱して適正に対処することができないのです。悪魔の囁きに惑わされて、神様を疑うことすらしてしまうのです。ですから、神様のことを最低でも、今日の聖句ぐらいはすぐに思い出せるようにしておく必要があります。次に、自分を見ようとする人は本当に少ないのです。自分を知ることすらまともにできていないのです。それは、自分に直面することが怖いからです。自分に問題があることを知ることが嫌なのです。ところがキリストに出会うと、自分と対面するようになります。自分には罪があると知るのです。それは、同時に悔い改めのチャンスとなり、キリストによって救われるという恵みの始まりなのです。自分をちゃんと見つめ直すことができる人は、神様を知る人です。記憶を消したくなるほど、人間の過去には忌まわしいことがいくらでもあるのです。しかし、イエス・キリストを信じて救われる人には、過去からの解放があります。ですから、神様が罪の赦しを与えたので、自分がいつまでも自分の罪を裁いても意味がないのでし。それは、クリーニングに出した服を家に持って帰ってからまた洗濯機で洗おうとするようなものです。自分のしたひどいことを神様が赦して解決済みであることを信じることが大切なのです。それは、今日の御言葉をよく考えることで容易くなります。そうであるなら、自分の人生をより良くすることも可能だと信じましょう。何しろ、あなたの神様はとびっきり憐れみ深く、恵みに富んでいるのですから。

 

1月24日(日)

わたしは知っている

わたしを贖う方は生きておられ

ついには塵の上に立たれるであろう。

この皮膚が損なわれようとも

この身をもって

わたしは神を仰ぎ見るであろう。

このわたしが仰ぎ見る

ほかならぬこの目で見る。

腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。

ヨブ19:25~27

 

聖書で最も古いといわれるヨブ記の中に今日の御言葉はあります。そこに、試練の中に置かれたヨブが苦痛の中で語られた言葉です。驚くことに、そこには「わたしを贖う方は生きておられる」との告白があります。「わたしは知っている」と言うのです。クリスチャンの私たちは、これはキリストのことだとすぐにわかります。そして、苦難の中にあるとき、この信仰が救いとなることを理解しています。贖う方は「ついには塵の上に立たれる」とは、キリストがこの地上に現れるということです。塵とあると、それはアダムのことではないかと連想してしまいます。つまり、この贖う方は塵で形造られた人となって現れるということをです。それは同時に、この世で罪のために苦難に苛まれて生きている者を救い出す日でもあるのです。ヨブのように、重い病に苦しみ一向に癒やされることもなかったとしても、その朽ちていくようなこの身をもって、「わたしは神を仰ぎ見るであろう」。それがどれほどの慰めであるか、何が何でも自分の目で神を仰ぎ見る。その苦しみの期間が長ければ長いほど、キリストが救いに来てくださる日を「腹の底から焦がれる」。自分の最も深いところの心の底から自分を贖う方を待ち望み絶え入るばかりだ、とキリストを待つのです。これは、クリスチャンがキリストに向ける信仰の本髄に触れる詩なのです。これ以上ない苦難のどん底からのうめきであるのに、そこにはっきりと希望が灯っているのです。この信仰にキリストは命を捨てるほどの愛をもって応え、本当に「塵の上に立たれ」たのです。この方こそがあなたを贖った方なのです。

 

1月25日(月)

愚か者としてではなく、賢い者として、細く気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。

エフェソ5:15~17

 

「今は悪い時代なのです」と聞けば、そうだなぁと言ってしまうような時代に私たちも生きているのです。コロナ禍は世界をまだまだ暗く重く苦しめています。世界には心配の種が方々にあって、いずれも簡単には解決しそうもありません。教会も集会が持てなくなったりとキリスト教会にも影響が出ています。そんな状況で、聖書は「時をよく用いなさい」と語ります。自分でできることは、賢い者として、細かく気を配ることです。それから、大切なことは、主の御心を悟ることです。このような世界情勢は、主の御計画の中にあるはずだから、何かしら大切な意味があるはずです。「愚か者としてではなく」とあるのは、例えばマスクをしないで外出するとか、必要もないのに人混みの中に出ていくとか、そのような危険なリスクを犯さないことです。また、心身の健康管理も少しの努力で回避できるものです。また、このような時代にこその過ごし方や取り組みを考えることです。主に悟りを与えていただけるように祈って、よりよく生きていきたいですね。

 

1月26日(火)

わが子よ、蜜を食べてみよ、それは美味だ。

滴る蜜は口に甘い。

そのように、魂にとって知恵は美味だと知れ。

それを見出すなら、確かに未来はある。

あなたの希望が絶たれることはない。

箴言24:13、14

 

知恵は、知恵を求める人に宿るものです。仕事でも日常生活でも、知恵を求めてえる人には大きな喜びが伴います。発明は必要の母という言葉があるように、何か人が困っている時に、それを解決したり、より便利にするために知恵を出すと生活そのものが良くなるのです。これは、人として何が正しいことか考える時にもいえます。クリスチャンならなおさら生き方を考えるはずです。この世の人と同じようには振る舞うことができないからです。ただ正しいことを行うことだけを考えると、どうしても力づくになってうまくありません。周りの人が不愉快になったり、クリスチャンは心が頑なだと批判されてしまうのです。では、どうすれば良いのか、ここで知恵が必要になるのです。この知恵をその都度、祈ってちゃんと考える人は、その人自身が豊かになって行きます。感情で過ごしてしまう人は、後味が悪く、人間関係も損なう恐れがあるのです。大体、自分自身が嫌な感情をいつまでも引きづることになります。ですから、感情が優先しているなら、知恵を軽視していることになると思ってください。知恵は、とても美味しい滴る蜜です。それだけで、幸せな気持ちになれるのです。意識して知恵を求めてください。良い人間関係を保つには、どうすれば人を喜ばせることができるか、相手に負担をかけずに親切にするには、といくらでも知恵が必要になります。知恵がもたらす幸いは、未来が開けることです。あなたの希望が知恵によってかなうのです。これが幸福な人生の秘密なら、あなたはそれを理解したので、すぐに実践して身につけましょう。まだ、ピンとこないなら、まずは蜂蜜でも舐めてみてはいかがでしょう。

 

1月27日(水)

この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。

ルカ7:47

 

テレビのCMで「そこに愛はあるんか?」と大女優が決め台詞を言うものがあります。それが、金融会社のCMであることにアイロニーを感じるのですが、クリスチャンである、私は考えてしまうのです。「そこに愛はあるんか?」。このコマーシャルのようにイエス様がことあるごとに同じ言葉を言われたらどうでしょう。自分に愛がないと嘆きそうです。ところで、今日の聖書箇所は36節からの物語の最後の方の言葉です。ですから、前文があるわけです。主人公は、一人の罪深い女です。彼女が涙でイエスの足を濡らし、自分の髪の毛で足を拭い接吻したのです。そして、高価な香油を塗ったというのです。このことから今日の聖句が出てきました。人間がどんな人にも愛を持って接するなら主の御心に敵うでしょう。しかし、実際には、「そこに愛はあるんか?」と問われれば、う~ん!とうめいてしまう場面もあるでしょうね。問題のヒントは、「多くの罪が赦されてたことは、わたしに示した愛の大きさでわかる」と言われたことです。私たちは罪人であると認めて、罪の悔い改めをしました。しかし、果たして全ての罪を悔い改めたのでしょうか。クリスチャンの多くは、犯罪者でもなく、どちらかといえば道徳的で真面目に正しく生きようと思って生きているはずです。しかし、逆に犯罪者のように道を踏み外した人の方がイエス様に出会った時に、多く赦されたので愛も大きなものになっているようです。それだから犯罪を犯せと言っているわけではありません。実際に、真面目に信仰の道を進み、全人格をあげて主を愛することを意識して生きている人も大勢いるのです。しかし、もし、あなたが「赦されることの少ない者」ならどうでしょう。「愛することも少ない」と言われてしまうかもしれませんね。実に、ファリサ派のシモンのようなクリスチャンは「そこに愛はあるんか?」と言われてもピンとこないかもしれません。自分の罪の解決がイエス様の赦しで決まるなら、それは愛の大きさに現れるというのですから、愛の問題は罪の赦しの問題そのものだったのです。考えてみましょう。

 

1月28日(木)

水が顔を映すように、心は人を映す。

箴言27:19

 

人の才能や能力、それに性質は人それぞれです。兄弟といえども同じではありません。境遇は同じでもその人によって歩む道や結果は違っているのです。それなのに、人間の不思議は、人と自分を比べることです。そして、優劣を見て張り合うのです。ですから、一人が突出すると足を引っ張るようなことが起こります。劣等感を持ったり優越感に浸ると心が歪みます。それが人として外にまで現れるのです。このような感情とは無縁だと思う人は、自分に自信がある人です。だが、その自信が傲慢だと思われることもあるのです。このように、同じ人間でも実にさまざまで能力の差も大きいのです。ところが面白いのは、どのような人でも成長することができることです。そして、良い方へと成長する時は、決まって試練の時なのです。つまり、良いこと悪いことは交互に波のように巡ってくるのですが、良い時には次に来る悪い時に備える期間であり、悪い時には次に来る良い時へのために成長する期間となるのです。ところが、心が正しくないとそれがうまく出来ないのです。心は人を映すのですから、精進して正しく生きることが肝心なのです。与えらたことに真面目に取り組み、何事も一生懸命であれば、それがその人となって心に現れるわけです。そこで、キリストが「互いに愛し合いなさい」と掟を与えたのには意味があって、愛に生きようとする人になれば、その愛が心に映るというのです。出会う人を大切に思い、誰にでも親切にし、相手の気持ちをおもんばかる。その人と共にあることを喜ぶ。感謝を忘れず、赦すことをためらわない。できるだけどんな時も笑顔で過ごす。そんな心がけがキリストと共にあると信じる人の生き方の特徴なのです。

 

1月29日(金)

太陽の下、再びわたしは見た。

足の速い者が競争に、強い者が戦いに

必ず勝つとは言えない。

知恵があるからといって富を得るのでも

知識があるからといって好意をもたれるのでもない。

時と機会はだれにも臨むが

人間がその時を知らないだけだ。

魚が運悪く網にかかったり

鳥が罠にかかったりするように

人間も突然不運に見舞われ、罠にかかる。

コヘレト9:11、12

 

日本人はキリスト教のことをあまり知らない。そのために、聖書には良い教えがたくさん書いてあるに違いないと思っている。もしかすると、自己啓発の本に出てくるような、やる気にさせたり、頑張る動機付けをしてくれるようなことが書かれていると思っているのかもしれない。ところが実際に聖書を手に取って読んでみると、どうも期待していたようなものではなく、難しい書だと思ってしまう。今日の聖句も、随分とネガティブに見える。最後まで読むと、何かとんでもない不運に遭遇すると脅しているようにも見えてくる。それでは、聖書を大事にしているクリスチャンはどのように今日の聖句を読んでいるのだろう。何か悪いことが我が身に襲ってきても、それは運が悪かったと言うことだからしかたない。こんなふうに読んでいるのなら、ゴールはまだまだ遠い。それどころか、クリスチャンなのに毎日喜ぶことが出来ないだろう。悪ことが起これば、クリスチャンでない人と同じように対応するだろう。それでは、なんとも情けない。よく考えれば分かるが、この聖句が言っていることの正反対もまた然りなのだ。例えば、足の速い者が競争に、強い者が戦いに必ず勝つとはいえないのだから、足が遅いと言って、自分よりも強い者がいるといって嘆くのは間違っている。あなたが自分よりも上の者に勝つことは大いにあるのだ。私が小学校の時の運動会で徒競走に出た時、一番前を走っていた子が転んだ。それに巻き込まれて二番の子と三番の子までも転んでしまった。それで、後ろを走っていた自分が入賞してリボンをもらった。それがきっかけで走るのが得意になった。また、知恵があるから富を得るというものではないが、知恵が無ければ富を得ることはできないのだから、やはり知恵を出して必要な努力を怠らなければ富を得るだろう。知識があっても好意を得られないのは、他に問題があるからだ、せっかくの知識を生かして好意を得られるようにするには、人に好かれることを考えて実践することだ。確かに、誰にでもチャンスは到来する。それがいつであるかはわからないかもしれないが、突然来た時に備えていれば良い。このように、自分の力を過信して失敗することを戒めて謙遜に精進を欠かさねれば、不運ですら幸運にすることができる。いつ来ても良いように備えておけば、罠にかかることもない。これは、クリスチャンとして信仰生活を送る中で知ることだ。

 

1月30日(土)

心配は人をうなだれさせる。

親切な言葉は人を喜ばせる。

箴言12:25

 

面白いことに、自分が人にしたことが結局自分に返ってくる。親切にすれば、感謝が返ってくる。相手を傷つけると自分の心が苦しむ。人を愛したら相手の喜びが溢れる。真心で接すれば、心で応えてくれる。意地悪は相手を悲しませ、自分に後悔を生む。もし、何事か心配してうなだれている人がいれば、親切な言葉をかけてみよう。きっとその人を喜ばせる。こうしてみてくれば、ことごとく、法則のようになっていることがわかるだろう。知恵がある者は、自分に幸福をもたらすには、自分のことを考えても仕方がないことに気がつくだろう。自分以外の人を喜ばせたり、親切にしたり、助けたり、優しい言葉をかけたり、親身に話しを聞いてあげたりすれば良いのだ。ただ、自己中心になっている時にはどうしてもできない。究極は、自分がして欲しいことを相手にすれば良いのだ。極意は自然にすることだ。気負って頑張れば、すぐに嫌になるだけだ。やりたいと思った時にできることだけすればいい。決してやりすぎてはいけないし、無理もいけない。これは、自分の内に宿っている聖霊の愛があなたの心に働きかけて起こる不思議なのだ。誠実に生きて、キリストの御言葉の通りに生きようとしていると、あなたの愛を試そうと御使が姿を変えて近づいて、あなたがどうするか、何と言うか試みられているようなことが起こる。多分、あなたは忘れてしまったかもしれないが、誰か知らない人を助けたり親切にしたことがあるのではないだろうか。だから、いつでも親切な言葉を語って人を喜ばせよう。

 

1月31日(日)

どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。

ルツ2:12

 

ルツは夫に先立たれ、子もなく、自分の国を捨てて姑の故郷イスラエルのベツレヘムへと移り住んだ。それは貧しい姑とルツの再出発ではあったが、悲嘆に暮れることばかりが起こった希望の無い結果であった。辿り着いたベツレヘムでは収穫の時期で人々は無事に収穫に辿り着いた喜びに忙しかった。それに比べ、ルツは異国の女として厳しい現実が待っていた。貧しい者の常で刈り入れの終わった畑に行って、落穂拾いをして空腹をしのぐことになった。ルツは、意気消沈してしまった姑を気遣い、懸命に働いた。神様はそうしたルツの一部始終をご覧になっていた。そして、ベツレヘムで運命の人に出会うことになった。その人が、ルツに語った言葉が、今日の聖句である。人生にうまくいかないで悲しみにくれる日はあるかもしれない。それどころか、試練の連続で、長いトンネルから出れないのでは無いかと不安になることすらあるものだ。神様を信じていてもそのようなことが起こるのだ。しかし、違いは、その試練の日々に信仰者がどのように生きたかを主はご覧になっているということなのだ。そして、主の御翼のもとへ逃れる道を備えてくださり、主を信じて頼ってきた人に報いてくださる。キリストはちゃんと祈りを聞き、あなたの助けになるように、天の父に執り成してくださる。それは、今日の御言葉のようにあなたのために執り成すので、あなたはこの通りの神様の報いを受けることになる。このルツはイエス様の先祖となった。これ以上の報いは無いだろう。