2021年3月ディボーション

3月1日(月)

イエスが近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとはわからなかった。・・・すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、・・

ルカ24:15、16、31

 

イエスがわからない、イエス様と出会ったことがない、このような悩みを訴える人はクリスチャンに少なくありません。このような悩みが厄介なのは、自分はダメなクリスチャンなのだと決めつけたり、熱心さが足りないからだと勝手に決めつけてしまうことです。実際は、どうかといえば、聖書にはエマオの途上の話しとして、復活したイエス様と二人の弟子たちが一緒に歩き、話したのに気がつかなかったというのです。まさに目が遮られていたからだと理由が書かれています。それなら、現代のクリスチャンでも目の前にイエス様がおられても目が遮られて見えないということがあるのではないでしょうか。私たちは、救われたのです。ですから、イエス様はいつでも共にいてくださるのです。それならば、イエス様はあなたの目の前にいるはずです。目が遮られているのなら、何か意味があるのでしょう。それでも、主はそこにいてくださるのです。あなたのことを気遣い、優しい慈愛の眼差しで見ていてくださるのです。だから、誰かが、まだイエス様に会ったことがないと言っても、同意してはいけません。ただ、私は毎日、イエス様にお会いしていると認めましょう。きっと、必要な時に目が開いて主を見るでしょう。たとえ、見ることができなくても、主に会って、話している可能性はあるのです。エマオの途上の話しはあなたにそのことを教えるためなのです。

 

3月2日(火)

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。

Ⅰコリント1:18

 

十字架のことばは自分にとって「神の力」となっているだろうか。クリスチャンになった人々は、必ず十字架の言葉を聞いているはずです。しかし、聖書に書かれている通りに、十字架によって人の罪が贖われ、キリストを信じる者は救われると言われても、愚かに思えて去って行く人たちもいるのです。しかし、残った人には、自分を救う神の力となりました。力と書いてあるように、具体的に自分の罪を認めさせ、その罪を赦し、心を180度回転させるほどの力です。ですから、この神の力が私たちを救う力なのです。この神の力は、会心の時、あるいはバプテスマを受ける時に働く力ですが、それだけではありません。クリスチャンとして生きて行く上で必要不可欠な力なのです。ですから、バプテスマの前も後も神の力が必要です。自分の罪を発見する時、その罪を赦していただくためにこそキリストの十字架があったと悟る時、確かに私たちの人生も大きく変わりました。ですから、私たちは十字架の言葉を語り継ぎたいのです。神の力となるように願いながら。

 

3月3日(水)

あなたがたは世の光である。・・・あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためです。

マタイ5:14、16

 

前半の「世の光」は有名なので知っているでしょう。「光」はどのようなものですか、と聞いてきた人がいました。この人は目に見える不思議な光を想像したらしいのですが、皆さんはどう思いますか。この文脈で考えると「立派な行い」のことだと気がつきます。では、「立派な行い」とは何のことでしょう。まさか、ファリサイ派の人の真似をするわけではないでしょうから、考えてみましょう。たとえば、あなたが家族や職場や学校など日々出会う人とぶつかり合ってしまい、感情的になって失敗することがあると思います。それは、かなり長い時間心を責められる苦しいものになりやすいのです。そこで、あなたはイエス様に祈って謝るのです。「イエス様、またやってしまいました。ごめんなさい」といった具合に祈るのです。しかし、また同じような失敗を繰り返すかもしれません。その時に、何度もすぐにイエス様に謝るのです。あつかましいと思うかもしれませんが、それでも、イエス様ごめんなさい、と祈るのです。そうすれば、赦しがあり、平和が回復します。それを心にとめるのです。「イエス様、ありがたいです、感謝です」と心から思うでしょう。そうやって、普通の人間ならケンカの後の後味の悪さを引きずるのですが、あなたはすぐに修復できるのです。これが「立派な行い」です。平安を取り戻して、相手も善い感情になり、あなたの天の父を認めるようになります。これが「あなたがたは世の光である」という意味です。闇の中などにとどまっていてはいけないのです。あなたの光を人々の前で輝かせるのです。イエス様の教えは、間違いありません。くよくよ悩むのは損です。あなたは周りの人にとって光なのです。たとえ小さくても光に違いありません。

 

3月4日(木)

ところが、収税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」

ルカ18:13

 

聖書にこの箇所が記録されたのには意味ががあります。神様がどんな人を受け入れてくださるかという見本です。当時のユダヤ人は、神様は正しい人を受け入れてくださる、と思っていたのです。ですから、善い行いをして、自分の正しさを神様に認めてもらいたかったのです。ところが、イエス様は、神様が受け入れてくださるのはこの収税人のような人だ、と言うのです。それは、自分が罪人であると認める人のことです。ところが、私たちは、自分が正しいことを認めて欲しいのです。ですから、人と争い、何でもかんでも批判するのです。こうなると、人間関係も自分がいかに正しいかを認めさせるためのものになってしまうのです。そんな人ばかりだと、疲れてしまうし、安心できなくなります。イエス様は、そんな人間が愚かに見えるでしょう。神様を誤解しているとおっしゃりたいのではないでしょうか。神様は罪人を救うために御子を遣わしたのですから、私は罪人ですと認めた人でなければ救うことが難しいのです。罪意識を持つことは、聖霊の助けによります。ですから、クリスチャンになった人は、経験しているはずです。しかし、その後はどうしているでしょうか。自分がどれほど罪深いか知ると、イエス様がそんな自分を救うために十字架に架かられたことがありがたくて、感謝が溢れます。その経験がいつまでも続くかどうかなのです。残念なことに、自己義人に立つことがやめられない人もいるのです。自己義人に立つ人は、自分が正しいのですから、人を批判せずにはいられないのです。裁く、という言葉はクリスチャンが避けなければならないことなのですが、罪意識ではなく自己義人に立つと、裁くことが当たり前になってしまうのです。相手を徹底的に裁いて言い負かしたいのです。論争も闘争も得意だと思っているのです。しかし、キリストによって罪意識を持っている人は、反対に誰に対しても赦しを乞い、へりくだって相手の声に聞く耳を持つのです。自分の胸を叩く人、罪の痛みを知って神に憐れみを乞う人、そんな人になりたいですね。

 

 3月5日(金)

あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。

マタイ6:32、33

 

クリスチャンになって学ぶべきことは、自分が罪人なのに救ってくださったことです。神の恵みとしか言えないのですが、面白いことに、クリスチャンになった途端に、まるで罪人でなかったかのように振る舞う人がいます。そのような人は、義人になろうといつも頑張っているのです。でも、よく考えてみれば、もともと欠陥があって、不完全で、弱さをもち、感情すらコントロールできずに、罪をまた犯してしまうような者なのです。それを主イエス・キリストは、そのまま私たちをふところに抱き、愛でつつんでおられるのです。ですから、立派なクリスチャンになろうとか、どこか力が入っていて、頑張らなければならないと思っているのなら見当違いも甚だしいのです。あなたは、主イエスに救われているのです。足りなくても大丈夫です。失敗しても平気です。主イエスはすごいのです。あなたの全ての問題を解決して完全に救ってくださるのです。それは、甘えではありません。これ以外に救われる方法がないのです。ですから、あなたのすることは、心からの感謝です。でも、あなたは祈るたびに、問題を説明して、結論として「ゆだねます」とか言うでしょう。しかし、後で「ゆだねます」ってどう言うことだろう、どうすればいいのだろう、とまた悩みを増やすのです。そんなことまで、あなたの主イエスはお見通しなのです。だから、あなたは正しく理解すべきです。あなたは主イエスに救われたのです。しかも救われ続けているのです。ですから、主に抱かれていると信じてください。自分が主のただ中に置かれていると信じるのは、今日の御言葉と同じ意味なのです。

 

 3月6日(土)

我キリストと偕に十字架につけられたり。最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり。

ガラテヤ2:20(文語訳)

 

エペソ2章に「あなたがたは恵みのゆえに、信仰によって救われたのです」とあります。つまり、信仰によって救われるというのですから、何を信じるかということが大切になります。その「何を」の中身は、今日の聖句にある通りです。このような内容は、自分の力ではどうしようもありません。できないことだからです。でも、信仰は別です。人のすごさは、信じることによって変わることができることです。古い生まれたままの人を着てクリスチャンですといっても、無理があります。決して聖書に書かれたようには行きません。ですから、すぐに古い人を脱ぎ捨ててしまいたいのです。そうすれば、新しい人として生きることも可能です。その最も理想的な状態が、自分で生きるのではなく、キリストが自分の内側にいてくださって生きてくださることなのです。色々この世で問題を起こし、罪ばかりを生んでいた古い自分がキリストの十字架に一緒につけられたなら、自分の存在に悩むことはなくなるのです。自分が生きることをしないで、自分のうちにおられるキリストが生きる、ということを信じる必要があります。これが、罪人のまま救われたのに、クリスチャンになっていきなりキリストのようになる秘密なのです。このように書くと、いとも簡単に見えますが、実際は結構大変です。それは、自分は、今日の御言葉を信じようとしているかと問えばわかります。わかりずらいとは思ったことがあっても、この通りに信じようとした人はどれほどいるのかわかりません。でも、この御言葉こそが希望の光なのです。聖霊の助けがありますように。

 

3月7日(日)

それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。

ヘブライ2:17、18

 

私たちは、イエス様は特別で私たちと同じではないと思いがちです。しかし、聖書は違っていて、私たちと「同じようにならねばならなかった」と証言しています。そこで、クリスチャンとして試練に遭う時、この聖句を思い出して欲しいのです。イエス様は「試練を祈ている人を助けることがおできになる」と明言しています。これ以上心強いことがあるでしょうか。ですから、イエス様に助けられることを信じてください。あなたは恵まれているのです。どのような状況にあっても、主はあなたの気持ちをちゃんと理解して、安心させてくださるでしょう。恐怖や不安に駆られると、信仰が消えて行きます。ですから、主は「恐れてはならない」と教えておられるのです。そして、あなたは、イエス様に助けていただけるのです。ありがたいことです。主を賛美いたしましょう。

 

3月8日(月)

わたしの愛の中にとどまりなさい。

ヨハネ15:9

 

まだ、子供の頃から関わっている方がいます。心の病で苦しんでいる方です。その方の医者が変わるたびに、病名が変わるのです。いい加減だと、怒りたくなりますがこれが現実なのです。アメリカの高名な精神科医は、病名をつけるから病気になると言って、実は病気ではないと言います。そのようにして治療に成功した人です。私は牧師なので色々な方に出会うのですが、どの方もイエス様の助けが必要です。だから、助けてくださいと祈るのですが、たとえ奇跡的に病が癒されなくても、その人にとって良いことが何かはわかりました。それが、今日の聖句なのです。イエス様の御声がその人の心に届くなら、その人は主の愛の中にとどまるでしょう。それ以上の幸はないのです。私たちクリスチャンは、主の愛の中にとどまっていればいいのです。自分に何か欠けがあっても気にすることはありません。自分が主に愛されていることがわかれば、それで十分幸せだからです。主の愛を知りながら、とどまらないと、自分のみじめさが見えてくるでしょう。コンプレックスに押し潰されそうになるかもしれません。喜びがいつの間にか悲しみになっているでしょう。だから、私たちは恵みで救われたことを思い出して、今日の聖句の通りにするのです。あなたは、イエス様に愛されています。これだけは間違いありません。だから、悪魔の惑わしに乗ってはいけません。ただ、主に愛されて感謝していれば、自信が満ちてくるでしょう。人のことも人の言葉も気になりません。主に愛されているのですから、いつも喜んでいることができるのです。

 

3月9日(火)

わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。

ルカ9:48

 

イエス様は「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」とおっしゃいました。なんと嬉しい言葉でしょうか。この世では、小さい者と言われないようにと皆んな必死になって生きています。でも、イエス様の世界では全く違うのです。教会の青年で、小児糖尿病で長い間苦しんでいた人がいました。大人でも大変なのに子供が食事制限をしながらインシュリン注射を続けるのです。この人は何も悪くないのになぜ私ばかりがと思ったでしょう。どこかで、もう嫌だと投げ出したくなったでしょう。ところがある日、この人はイエス様に出会ったのです。信仰は人を強くします。やがて、同じ教会の青年と結婚して、子供も生まれました。本当に良かったと思いました。この世の中には、ハンディキャップを背負って生きている人は少なくありません。そのような人は、自分は小さな者だとどこかで思っているかもしれません。健康な人たちを見ると、不公平だと言いたくなるでしょう。でも、イエス様に出会うと、主はニコニコしながら「皆んなの中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」と言われるのです。この時、この世の苦しみが逆転すします。人よりも大変な思いをして生きてきたことは、偉かったね、とイエス様が褒めてくださるのです。それだけで、苦労が報われるでしょう。ですから、この世の価値観で自分を判断すべきではないのです。たとえ、寝たきりになって何もできなかったとしても、イエス様は「偉かったね」と労ってくれるでしょう。だから、今日も自分らしく笑顔で生きていきましょう。

 

3月10日(水)

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

ピリピ4:13

 

これは、肯定的な御言葉ですね。実は、私たちは、否定的な言葉に弱いのです。日本人は否定的な考え方をしやすく、否定的な同調圧力が働く傾向があるのです。ですから、できる限り意識して肯定的な言葉を使うようにした方が良いのです。これは、心理学者の言葉を引用するまでもありません。でも、ただ肯定的な言葉を無理矢理言ってみても意味がありません。そうではなくて、自分が今していること、これからしようとしていること、既にしたことでも、肯定的に認めて言う方がより良いのです。ただ、罪は素直に悔い改める必要があります。さて、このように肯定的に考えることが奨励されるようになっても、いまだに否定的考えが幅を利かせています。そこで、クリスチャンは今日の聖句を覚えます。どんなことでもできるのなら、否定的、消極的な考えに縛られる必要はありません。しかも、自分を強くしてくださる方が誰か、あなたは知っていますから、この聖句は主が語られた、あなたへの確信なのです。自分の力ではなく、主が自分を強くしてくださるのですから、高慢になることもありません。自分に自信がないという必要もありません。自分の欠点や弱さを心配する必要もないのです。あなたは、愛を実践できるのです。主の使命を実現できます。人に屈せずに正しいことをやり遂げることも可能です。ですから、今日の聖句を唱えて、ミラクルを起こしてください。

 

3月11日(木)

神は、私たちが御怒りにあうようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目覚めていても、眠っていても、主とともに生きるためです。ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。

Ⅰテサロニケ5:9~11

 

世の中には、実にいる色な人がいますが、想像もできないような個々の生活があります。そのどんな人の人生も価値があり、感動します。人間っていい人ばかりなんだなぁ、と思うことが多くあります。その中で、私たちはクリスチャンになりました。これは、神様の定めだと聖書は言います。私たちが救われるためには、主が死ななければならなかったのです。それは、罪の縄目から解き放ち、清めて自由を与えるためです。つまり、自分が主に愛されていることを知ることで、愛に生きることができるようになります。主は個性的な自分をありのままに認めて愛してくださったので、主が愛してくださる自分で良かったと安心して生きることができます。そして、主がともに生きてくださる奇跡を味わい、毎日感謝して生活するのです。それに例えは難しいのですが、百円ショップに並ぶ同じお皿もあれば、専門店の一点ものの個性的なお皿もあるのです。どちらも必要だから売っているのです。だから、人間も色々でいいと思う。そのことを理解して、互いに励まし合い、互いに徳を高め合って信仰の旅路を進んで行きましょう。

 

3月12日(金)

主の律法は完全で、魂を生き返らせ

主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。

主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え

主の戒めは清らかで、目に光を与える。

主への畏れは清く、いつまでも続き

主の裁きはまことで、ことどとく正しい。

金に勝り、多くの純金にまさって望ましく

密よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。

詩篇19:8~11

 

神様への従順は、人生を健やかにします。私たちには悪魔という敵がいて、キリストに贖われて主のものとなったのに、それでも取り返そうと執拗に攻撃を仕掛けてきます。たいていは、攻撃されているとは気がつかないように責められます。そして、自分の信仰が健全でないと、弱いところを攻撃されるので注意が必要です。サタンは私たちの弱点を知っているのです。例えば、自己憐憫に弱ければ、確実に突いてきますので自力で防ぐのは難しいでしょう。では、どうやって、信仰者は自分を守ればいいのでしょうか。その方法が記されている箇所の一つが今日の聖句です。パウロから学んでいると、律法は悪いものでもう廃棄されたと思いやすいのですが、実はそうではありません。パウロ自身もそれは認めています。問題は、何が正しいかをはっきり知らなければなりません。現代のように情報が溢れていると、偽りの情報が蔓延してクリスチャンもわからなくなる危険があります。そのような時にも、律法は変わることなく明快なのです。もう少し言えば、聖書そのものが律法なのです。ですから、聖書を読んだり、聞いたりすれば、心が正常に戻ります。そのような力があるのです。ただ、律法を守ろうとすると知らず知らずの内に神様の御心とは逆の方向へ向かってしまうのです。ですから、自分の罪を知ることになるので戸惑います。キリストは、そのような人間の救いを実現されました。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています」(ガラテヤ2:19)と、パウロは語りました。人間は律法を守ろうとして守れずに、しかも、その律法によって裁かれて罪が明確になるのです。そして、キリストは律法によって罪が明らかになった人のその罪の罰として十字架で死んでくださいました。そのことにより、イエス・キリストを信じた者は、その信仰により、キリストが架かられた十字架に一緒に架かって罪に死ぬのです。このようになるためには、主への従順が必要です。そのために、信仰者は、主への従順を学ぶことになったのです。それは、同時に罪人の古い人に死ぬことを意味しています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(同2:20)。こうなれば、自分の過去の問題で苦しむことはなくなり、悪魔の攻撃も意味を為さなくなります。神様の裁きも恐ろしいものではなくなり、蜂蜜よりも甘いと言わせるほど喜ばしいものに変わるのです。なぜなら、神様の裁きにより、あなたは天国へ行けるようになり、天国の住人となれるからです。

 

3月13日(土)

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。

Ⅰコリント13:4-6

 

この愛の讃歌と呼ばれる箇所は、有名ですが朗読される場所はたいてい結婚式の時です。御信者の参列者でも目を閉じて頷いている人たちがいます。年配の方々でも真剣に聞いています。ましてやクリスチャンの私たちは、この愛に生きる者なのですから、こうべを垂れて傾聴する必要があります。ところが、ベテランの牧師さんたちは、経験上知っているのですが、愛の実践の難しさを見聞きしてきました。信仰の道は、いい加減にやってはダメなのです。すぐに肉が優位になって、クリスチャンなのに愛ではないことをするからです。例えば、寛容になれないですぐに批判したくなってしまう。親切にするのですが、その動機が自己主張になっているので、少しでも批判されると激怒してしまうのです。教会役員に他の人が選ばれたなら、その人をねたむ。人の幸せを聞くと自分と比べて自己憐憫に陥る。このように、聖書と逆のことをしてしまうクリスチャンは少なくありません。どうしてこうなるのかといえば、「自己義認」があるからです。キリストはそのことを知っていたので、「自分を捨て自分の十字架を背負ってついて来る」ように命じています。しかし、誰かに批判されると私たちはすぐ怒り、後で落ち込むのです。それだけではなく、批判した人を憎んでしまいます。このどこに愛が実践されているでしょう。愛を実践することは、まさにキリストの道なのです。キリストですら、理解されずに批判され、憎まれ、十字架で殺されたのです。それでも、キリストは最後まで愛を実践できました。その弟子になったのですから、祈って、祈って、自分を捨てるか十字架にかけるのです。誰かを恨んでも自分に悪が跳ね返ってきます。人に理解されずに悪く言われたとしても、イエス様が本当のことをご存知です。だから、信仰を持って主にすがるあなたのことを天で弁護してくださいます。だったら、これで十分ありがたいと思って生きればいいのです。主が認めて理解者になってくださるのですから、この世では自分を無にして生きられるのではないでしょうか。ただ主に祈って、ありがたいと感謝して生きる生活は、平和に満ちています。イエス様が十字架で殺されても、それが敗北だとは思いません。この十字架の死によって数え切れないほどの人が救われたのです。これは誰が見ても十字架の勝利です。これがキリスト教徒の理解ですから、主の御足の跡を辿ることになるのは必然なのです。ですから、自己に死んで勝利しなさい。結果は世の終わりに明らかになります。主を信じていましょう。

 

3月14日(日)

わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。私は、キリストと共に十字架につけられています。

ガラテヤ2:19

 

キリスト者がどのような者であるのか、現代はわかりにくくなったように思います。パウロの人生で転機となったのは、ダマスコへの途上でイエス・キリストに出会ったことです。パウロは、律法を誰よりも熱心に学び、遵守していたのです。それによると、イエスは間違っていることになったのです。ですからキリスト教の迫害者になりましたが、死んだはずのイエス・キリストと出会ったのです。そして、イエスはメシアであると強烈に知ったのです。しかし、そうであれば、今までの律法によって生きてきたことは何であったのか、正しいと思っていたことが間違いであるなら、どうなるのか。その答えは、明らかで、自分は律法遵守によっては義となれなかったということです。そうなると、大切に思っていた律法によって、自分が裁かれていることに気がついたのです。つまり、自分が罪人であると律法は訴えているということです。では、律法によっては死を宣告されているとするなら、救いはどこにあるのか。それはどんな救いか。イエスは十字架にかけられて死にました。それは、イエスには罪がなかったのに、私の罪のために十字架にかかって罪の罰を受けて死なれたのです。それでは、罪のある自分はどうなるのか。ある人は、イエスがかついだ十字架の木こそ自分だと言いました。イエスは、血を流して十字架を背負い、そして十字架の上に釘付けにされたのです。つまり、イエスと自分がこうして一つになれたというのです。そのことを思うと、今日の聖句は理解できます。パウロだけではありません。私もキリストが釘付けされているのです。この方法しか、罪の問題を解決し、義とする方法がなかったからです。どこを切っても罪しか出てこないような荒削りの木の十字架は私なのだ、と言った時、あなたはどう思うでしょう。あなたは、キリストと一つにされていると思いませんか。それなのに、この世で何を悩むのでしょう。キリストを無視してなど生きられないのです。信仰の目を開けばきっと見えてくるでしょう。

 

3月15日(月)

あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光を讃えることになるのです。

エフェソ1:13、14

 

キリスト教の救いを説明してみると、今日の聖句のようになります。これをみると、どこにも律法を守り行う、という文言がありません。それどころか、善行を積むとか、功徳を積むというような善い行いを求める言葉も見当たりません。それは、しなくても良いという意味ではなくて、私たちが頑張って善い行いをいくら積んでも全く足りないし、天国へ入る資格を満たすことができないのです。あなたができることは福音を聞いて信じることだけです。そのあとは、聖霊で証印を押されます。この証印があれば、天国へ入れるのです。まったく難しくありません。イメージとしては、黙示録に出てくる七つの封印です。巻物を開いて読めないように封印するのです。私たちも巻物のように、「真理の言葉、救いをもたらす福音」を聞いて心に記しているのです。それを聖霊が封印しているのです。だから、過去の自分がどれほど罪深い者であっても、福音を信じた信仰で効力が及び、救われているのです。その福音の内容も自分の内側にあって、その救いの根拠が消えないように聖霊が守っているのです。そのような者は、過去の自分がどのような者であっても、神の聖徒ととして生きることができます。それは、既に、キリストの命の代価であなたが買い取られ、神のものとなっているからです。あなたが一番、善い状態にあるのは、神の栄光を讃美する時です。ですから、神を讃えることを積極的に行いましょう。悪魔も退散してしまいます。

 

3月16日(火)

天と地の造り主、全能の父である神を、私は信じます。

使徒信条第1条

 

毎朝起きた時に、今日も無事に目覚め、命が与えられ、起き出すことができたことを感謝します。自分のために必要なものがすべて満たされていることを主に感謝します。静かな朝の時間に自分のために父なる神様がどれだけ恵み深いかを思い、喜びが感謝になります。自分がそれに見合うような善いことをしているとか、功徳を積んで誇れるとか、神様が認めざるを得ないような素晴らしい信仰者になったとか、このようなことがまるでないのに、天の父は恵みを惜しまないのです。それは、子供として認めておられるからです。天の父は、全能ですから私たちが何も困らないようにできるのですが、賢明な父は、子供の成長のために必要な試練も与えることがあります。そして、私たちがシンプルに基本的なことを信じていることで道が開けるようにされたのです。それは、この世界は神様が創造されたことです。ですから、自然法則も何もかも神様が決めた通りの世界なのです。ただ、唯一人間だけが罪を犯したので、その創造の秩序を破壊して人間自らも死ななければならないようになったのです。それを防ぐには、神様が世界を創造されたと信じた生き方をすることです。イエス様が私たち人間の罪を贖ってくださったので、私たちは罪の赦しを得ただけではなく、古い人に死に、新しい人として生まれたのです。それは、父なる神様の子供となったということです。この信仰に生きる世界は神の支配の中にあるので、安全で平安があるのです。そこで、愛の修行をしているのです。私はこのように信じます。

 

3月17日(水)

そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを私は信じます。主は聖霊によって宿り、乙女マリアから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみに下り、三日目に死人の中から復活し、天に昇られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている者と死んだ者とをさばかれます。

使徒信条第2条

 

私たちは罪の中に沈んでいた者です。その中から逃れるために光を求めていたのに、光でないものを光と思って空しく生きていたのです。せっかく生まれてきたのに、その行き着くところが罪の罰であるのなら、なぜ生まれてきたのかと嘆くことになります。まだ、幼き時には両親や祖父母、あるいは育ての親に愛情を受けて育つはずですが、それをも十分には受けることなく育つ者もいるのです。いつ、どこで誰のもとに生まれるかでその後の人生も変わるわけですが、どんな境遇に育っても、信心は消えるわけではありません。問題は、会うべき方に出会うかどうかです。その方は、主イエス・キリストです。主イエスは出生から不思議でしたが、乙女マリアから生まれ、人となられ、私たちの弱さを味わわれました。ピラトのもと不当な裁判で罪が無かったのに、十字架につけられたのです。それがまさか私たちの罪と呪いを贖うためであったとは誰も知リませんでした。主は預言通りに三日目に死から復活されました。死に勝利されたのです。それは、私たちが新しく生まれて生きるためにです。もう古い自分に苦しむことがないようにと聖霊を与えてくださったのです。昇天された主は、神の右に座し、信じる者の執り成しをされ、定められた終わりの時に裁きを携えてもう一度この世界に来られます。私たちはこのように信じて、主イエス・キリストをお待ちしているのです。

 

3月18日(木)

聖霊、聖なるキリスト教会、聖徒の交わり、罪の赦し、体の復活、永遠のいのちを私は信じます。

使徒信条第3条

 

私たちは、現代人ですがキリスト教会の伝統を無効にするものではありません。むしろ、本来のキリスト教会が何を信じていたのかに関心があります。使徒信条は多くのキリスト教会で今も大切にされていますが、宗教改革者のルターも小教理問答を書き、エンキリディオン(必携)と名付けました。信徒の必携として覚えるものとしたのです。つまり、信仰によって義となるという宗教なので、なおさら何を信じているのかが重要なのです。そこで、古代の教会は言葉を定式化して、讃美歌や信条のように信じる内容を明らかにしていたのです。そうでないと、何となく流されて生きてしまうからです。罪人とキリストに贖われて新生した人が同じでは話にならないわけで、キリスト者としての生きた方があるということです。それは、決して難しいものではありません。人は自分の信じることによって生き方が決まるからです。私たちは聖霊の助けがあって信仰を持ちました。私たちは主イエス・キリストを信じたので救われ、聖化されることになったのです。その聖徒たちはキリストに繋がれて一つなので、聖なる教会となっているのです。聖徒一人一人に聖霊が宿っているのです。キリストの新しい戒めにより互いに愛し合うという聖徒の交わりがあります。パウロによれば霊の体と言われているように、体を伴う復活を信じています。そして、聖化が完成して天に移され、そこで栄化されるのです。ようやく罪の無い神の子として、神の支配する新しい世に生きるのです。私たちは、これを神の恵みとして体験していくのです。この世の労苦も涙も病も全て過ぎ去るのです。再臨の日を待望して今しばらくキリストに拠り頼む日々を過ごしましょう。

 

3月19日(金)

人よ、何が善であり

主が何をお前に求めておられるかは

お前に告げられている。

正義を行い、慈しみを愛し

へりくだって神と共に歩むこと、これである。

ミカ6:8

 

クリスチャンの生き方には特徴があります。それは、律法学者のようではありません。心に留めておくことも多くありません。正義を愛し、慈しみを愛し、へりくだって、神と共に歩むことです。この4つのことを覚えて心掛けているだけで、うまくいきます。ただ、自力ではいつか失敗するでしょう。どうしても頑張ると古い人がよみがえってくるからです。古い人にはもう用はないのです。新しい内なる人が聖霊によって生きていれば大丈夫だからです。私たちは霊的な世界に生きているのです。神様を知らないと言う大勢の人々の中で、私たちは圧倒的に有利です。何しろ、贖い主のイエス様が共に歩まれるからです。ですから、何が善か、と問われても正しく意味がわかるようになります。主に求められていることすら理解できるのです。それは、自分に頼っていないからです。内住するキリストによって生きていると、自己義認ではなく生きることができるのです。

 

3月20日(土)

神の霊がわたしを造り

全能者の息吹がわたしに命を与えたのだ。

ヨブ33:4

 

私というものは、神様が造られました。全能者が造られたのです。それは、神の霊がわたしを造ったのです。私はそれゆえに神様の傑作なのです。このように人間は考えるべきです。ところが、実際には、不平不満があります。もっとこうならよかったのに、という具合にです。なぜそうなるかというと、エデンの園でのアダムとエバの罪の問題が影響しているのです。彼らはエデンを追放されました。しかも呪いを受けてです。だから、アダムの子孫は罪を受け継いでいるだけではなく、呪いをも受けているのです。そして、そのようにされた神様に人間は逆らって生きいているのです。それなのに、誰かは、主イエス・キリストを信じて救われるのです。どうなっているのかと不思議になります。全ての人に罪があるのだから、主イエス・キリストを信じられるはずがないのに、回心する人が出てくるのです。私たちが気がつくべきは、全能者の息吹が私に命を与えたことです。神の息と言っても同じです。それは聖霊のことですから、私たちが生きているのは、目には見えませんが聖霊の不思議なのです。そのことがわかる人は、聖霊によって覚醒されて、非常に高い精神を持つことができます。過去の自己にとらわれることがありません。ただ、この世に目をとめるとまた引き戻されるかもしれません。聖霊のバプテスマは、さらに良い方法です。神様が定めた方法です。いつも聖霊に満たされて生きたいという願いは正しいのです。父なる神も望んでいますから、特別な人だけのものではなく、誰でも主イエス・キリストを信じる人には求めて与えられるのです。父なる神に招かれた人たちは、この聖霊のバプテスマまでたどり着けますように。そして、さらに日毎の聖霊充満を求めて祈りましょう。悪魔との戦いにはこのような天からの力が必要なのです。

 

3月21日(日)

主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。

詩篇34:18

 

クリスチャンになっても、心の砕かれるような辛い経験をすることがあります。それも一度だけではないのです。どうも、私たちは罪人として生きてきたために、自己中心に物事を見たり考えたりする癖がついているようです。そのために、何でも自己に都合よく考えてしまうために失敗もするのです。そして、クリスチャンになると聖霊は、そのような根本的な問題を解決するために日々働かれます。その一番分かりやすいことが、心の打ち砕かれる経験なのです。それは、また別の言い方ができます。無意識のうちに行っている自己義認を砕くことです。自己義認ほど厄介なものはありません。神様が義と認めるのは、信仰によるのです。しかし、自己義認は、ただ自分は正しいという思い込みです。それは、結果として他人を裁くことにもなるので危険です。キリストとの正しい関係を築けば、自分が罪深いだけで正しいとは言えないと十分納得できます。それは、たましいの砕かれた状態であって、へりくだらざるを得ないのです。そして、キリストにすがって生きるようになります。このようにすぐになれれば苦労はないのですが、砕かなければならないほど自己義認はかたくななものです。ですから、毎日、聖霊は働いてくださいます。しかし、自己義認の悪い面が出てくると、自分の罪が見えなくなっているので傲慢になります。ここで、やっぱり打ち砕くしかなくなるのです。できれば、早く気がついて、自己義認から解放されるといいですね。

 

3月22日(月)

しかし、わたしは主を仰ぎ

わが救いの神を待つ。

わが神は、私の願いを聞かれる。

ミカ7:7

 

人生に悩みはつきものですが、いたずらに悩んでばかりというのでは前に進めません。そこで、人間はいろいろなことをして乗り越えようとします。それすらも、うまくいくかどうかは分かりません。しかし、何もしなければ変わることはありません。多くの賢人が勧めるように、ポジティブに考えることが効果があるのですが、ネガティブになっているからこそ悩んでいるのであって、それを正反対に変えるのは簡単ではありません。さて、では聖書はどうしたらいいと言っているのでしょう。今日の聖書箇所は、民の腐敗と見出しのついた箇所の最後に出てくる御言葉です。ですから、最悪の状況に陥った時のことです。家族すら敵となる状況です。「しかし、私は主を仰ぎ、わが救いの神を待つ」と詩人は言います。私も信仰生活を振り返ってみると、これしかないと思います。自力で解決できない時には、主に自分を向けることが肝心で、まさに主を仰ぐのです。上手に祈れなくてもいいから、主を仰ぐのです。あとは、主の救いを待てばいいのです。なぜ、このようなことができるかと言えば、「わが神は、私の願いを聞かれる」と信じているからです。もし、あなたが「神様は、私の願いを聞かれるかどうかわからない」と思っているのなら、それは間違っています。あなたをクリスチャンにしてくださったのは神様です。十字架にかかってまで救ってくださった方が、あなたの願いを聞かないはずがありません。安心して、私の願いは聞かれると信じてください。そして、神様の救いを待っていてください。良い結果になることは決まっていますから、大丈夫です。

 

 3月23日(火)

主は憐れみ深く、正義を行われる。

わたしたちの神は情け深い。

哀れな人を守ってくださる主は

弱り果てたわたしを救ってくださる。

わたしの魂よ、再び安らうがよい

主はお前に報いてくださる。

詩篇116:5~7

 

有名なモーニングショーの司会者が降板することになり、ラジオでその経緯を話していました。彼は、出演者の名前がとっさに思い出せなくなったので、辞める気になったようです。どんなに素晴らしい人でも加齢によって能力が衰えていくのは避けることができません。「ダビデ王は多くの日を重ねて老人になり、衣を何枚着せられても暖まらなかった」(列王上1:1)と、あります。英雄も老化には勝てなかったのですね。私たちも老人になり、だんだんできないことの方が多くなるでしょう。それでも、私たちは幸福なままでいられると思います。それは、主が憐れみ深いからです。私たちの信仰は多くの月日を重ねて、ようやく主の情け深さを知るのです。小さく弱いものであっても、信仰の道からそれることのないようにと主は働き続けてくださいます。その信仰は必ず報われます。不思議なのは、年齢と共にどんどん成長して素晴らしくなるから神様に受け入れらるわけではないのです。ただキリストの故に救われたのです。私たちは信じています。自分の力に自信が持てなくなって、介護されるような者になったとしても、主は魂に安らぎを与えてくださり、何も心配しなくてもよいようにしてくださることを。自分の弱さや足りなさは、キリストの恵みを受けるためにこそあるのです。だから、ありがたい、ありがたい、と言って、笑顔で今日も過ごしたいですね。

 

3月24日(水)

ギデオンが死ぬと、イスラエルの人々はまたもバアルに従って姦淫し、バアル・ベリトを自分たちの神とした。イスラエルの人々は、周囲のあらゆる敵の手から救い出してくださった彼らの神、主を心に留めなくなった。

士師記8:33、34

 

ギデオンの物語は歌にもなるほど有名で、誰もがワクワクして胸躍らせるヒーロー物語です。その真の主役は主なる神様です。イスラエルが偶像を拝み、堕落して主を顧みなくると、強力な敵が現れ絶滅するかもしれない危機が訪れます。その時に、神様に助けを求めて叫ぶ声に、主は立ち上がります。主に忠実な者が選ばれてその御心を成し遂げ、圧倒的な勝利を得るのです。このような物語を読むと、誰しもが自分も主に忠実な者となって、用いられたいと思うものです。そして、偶像礼拝をやめさせて、真の神様に立ち帰るようにと、民の間にリバイバルを起こしたいと願うでしょう。ギデオンはまさにそれをやり遂げたヒーローなのです。ところが、ギデオンが死んでいなくなると、たちまちイスラエルの民は偶像礼拝に戻ってしまいました。イスラエルが強大な敵に滅ぼされそうになったっ時に、助け出してくださった主を心に留めなくなった、と聖書は記録しました。聖書を読むたびに、イスラエルはどうしてこのような恩知らずなことができるのかと不思議でしたが、それは、カナンの文化の影響だったのです。それは、現代でも同じで、世俗の魅力のことです。人間の欲望を満足させるこの世の魅力や肉欲を制限しない放縦を人間は求め続けてきたのです。カナンにはそのような宗教があり、祭りがあったのです。倫理的なイスラエルの宗教よりもカナンの享楽的な宗教の方が魅力的に映ったわけです。現代でも、クリスチャンの多くは都会に住み、享楽的な文化に接しています。教会の教えは古臭いと感じて去って行く者もいるでしょう。倫理的であることを嫌って批判する人もいるでしょう。しかし、世界がどのように変化しても、聖書に書かれた通りに変わらない信仰を持ち続ける人もまたいるのです。主を心に留め、主の側に立ち続ける。私たちは、そのような者でありたいと思います。

 

3月25日(木)

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされています。

Ⅱコリント4:16

ニュースで桜の開花が告げられると見に行きたくなります。コロナのこともあって、混みそうな所とには行かずに、近所の川沿いに続く桜並木を見に行ってみましたがまだ5分咲きぐらいでした。宮城県の一目千本桜のような驚くほどの美しい景観ではありませんが、それなりに美しいのです。この桜のニュースですぐに観に行くのは、桜があっという間に散ってしまうからです。美しさと儚さが日本人の心に響くのです。それに比べ、人間は長生きです。人生100年と言われるぐらいに長命になってきたのです。それでは、人間はいつ満開となるのでしょう。よく分かりません。聖書によると、人間の仕組みは桜とは大きく違っています。これは奥義ですが、「外なる人」はやはり衰えるのです。その代わり、「内なる人」は日々新しくされていくというのです。まるで、古い人が新しい人に入れ替わっていくようです。「外なる人」は、生まれてから今まで付き合ってきたよく知っている自分です。もちろん、聖書では罪人と呼ばれている人です。一方、「内なる人」はクリスチャンになってから、神の息である聖霊を吹き込まれ人のことです。それは、新しい命を受けて生き始めた隠れた存在です。この「内なる人」を神の子と呼ぶこともあります。確かに、この真理も正確に理解している必要があります。この事を例えると、目の見えない人がキリストの故に見えるようになったり、寝たきりの中風の人が起き上がり治ってしまうような、古い自分の問題がキリストを信じたことで解決することを教えてます。つまり、罪人として生きてきた間の自分の問題は、身体的であろうが精神的であろうが、それは「外なる人」の問題であって、だんだんと衰えていき、消えていく定めなのです。それとは反対に、「内なる人」は過去に縛られない自由な存在です。この「内なる人」は日々新たにされ、キリストに似た者となって行くのです。ですから、私たちは、落胆しないのです。過去の自分に悩まされることがなくなったからです。それよりも日々新しくなる自分の方が大切です。「外なる人」を見てガッカリする必要はありません。そうではなく、「内なる人」を信じて、聖霊が日々働いてくださっていることにこそ心を向けるべきなのです。明日の自分は、今日の自分よりも新しいのです。希望がありますね。

 

3月26日(金)

私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いもあらかじめ備えてくださったのです。

エペソ2:10

 

クリスチャンになって、私たちは目が覚めたのです。私たちを創造された神様がいて、その神様はとても良い神様なのです。自己を犠牲にしてまで私たちを愛してくださる神様です。その神様を聖書は「神は愛である」と言って、愛そのものであることを証しているのです。そために、私たちは神様に愛されるために造られたのです。聖書は、この世は暗闇と言っていますから、人間は何が真実かわからずに生きています。ですから、神様が自分を愛していることにも気がつかないでいるのです。ところがクリスチャンは神様に愛されていることがわかった人たちなのです。さて、私たちが自分一人で良い行いをしようとするとうまくいかないのです。ところが、キリストを知ると信仰が与えられ、自分の力に頼らなくなり、へりくだってキリストによってあれもしよう、これもしようと思えるようになります。キリストと一緒なら、良い行いもできるのです。私たちは、この世の人たちと競うことはしません。私たちにとって重要なことは、主の御心を行うことなのです。そして、私たちはそれそれに成すべき勤めがあるのです。使命と呼んでもよいものです。それは、今日の聖句では、「その良い行いもあらかじめ備えてくださった」とある働きです。主が備えておられる愛の業です。信仰がなければ到底できないことですが、主は私たちを造られたお方なので、私たちのことをよく知っておられます。ですから、備えられた働きは、私たちの全てが生かされる素晴らしいものなのです。そこで、自分を見たり、他人を見てはいけません。不信仰に陥るからです。そうではなくて、キリストだけを仰ぐのです。そうすれば、勇気を得て、驚くばかりの主の御用を成し遂げるでしょう。これ以上の素晴らしい働きはありません。晴れやかに心躍る経験へとあなたも招かれているのです。

 

 3月27日(土)

主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

ヘブル13:5

 

人間は失敗するものだし、完全ではない。しかし、教訓にして同じ失敗を繰り返さないように学習することもできる。ただ、完全でないことが良く働くこともある。ゆるいことの効用である。1/fの揺らぎが人間には心地よいということが言われているが、それは小川のせせらぎの音や微風の心地よさ、小鳥の囀り、青空に白い雲が流れていくことも、モーツアルトの音楽が心地よいのも、完全ではないからだ。ほんの少し揺らぐぐらいがちょうどいいと人間は感じている。正確で間違わないのなら機械にやって貰えば良い。でも、機械で正確な音楽を演奏しても面白いとか感動するとは、人間は言わない。ヴェートーベンの運命を名人と言われるような指揮者が演奏すると感動する。しかし、別の世界的な指揮者が演奏すると、同じ曲なのに演奏時間が違っている。これが人間の素晴らしさなのだ。だから、自分が一生懸命に生きていけば、それだけで十分なのだ。時には、うまくいかなくても、自分はだめだなぁと思うようなことがあっても、それも人間なのだ。主は、ありがたいことに、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」と言われる。どんなことになっても、心配しなくても大丈夫だ。カッコよく生きたいが、そううまくはいかないだろう。それでも、主が一緒にいてくれると言われるし、何があっても見捨てないと言われるのなら、それで十分だ。カッコ悪くても、自分をさらして、ゆっくり生きていこうと思える。

 

3月28日(日)

それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

ローマ6:3、4

 

クリスチャンの認識に問題があるとすれば、今日の箇所は真っ先にあがるでしょう。新しく生きるためには、古い自分に死ぬ必要があるからです。今日の聖書箇所は、洗礼を既に受けた方にとって、非常に重要な真理です。洗礼を受ける時に、人の罪についてまず学ぶでしょう。その結果、自分が罪人であることを発見するのです。そして、その罪の結果を知ると、初めて救いの必要を知るのです。そこで、罪の赦しと清めを意識するわけですが、それを可能とする救いが福音として心に届くのです。ですから、罪の赦しと清めを意識して洗礼を受けることは必然となります。しかし、洗礼にはもっと広い意味があります。人の救いには欠かせないことですが、意外と見落としがちです。それは、洗礼がキリストに結ばれることと、キリストの死にあずかるための洗礼であるということです。つまり、自分が罪人であることを知った人が、自力での解決ができないことを理解し、恵みとして主イエス・キリストの十字架による解決の道があることを聞くわけです。それは、キリストが本当に死んだこと、その遺体は墓に葬られたこと、そして三日目に復活したことが真実であること。洗礼によってキリストと結び合わされているなら、罪人の自分がキリストと共に十字架にかけられ、罪人として死に、葬られたのです。それだけならば滅んだことと変わりありませんが、キリスト復活したのですから、その復活にもあずかっていることを覚えるべきです。ですから、新しく生まれたと言われても不思議に思うことなく、そのまま信じることができます。このことが明確になっていなければ、罪人の古い人で生きていると思ってしまいかねないのです。ですから、罪に対処することもできなくて悩むことになるでしょう。せっかく、律法の行いではなく、信仰によって義となると教えられたのに、それは罪に対処する力とはならずに、逆にまるで律法を行うように、善行を行うことで罪に対処しようともがくことになるのです。その結果は明らかなので、空しくなるのです。そうではなく、今日の聖句をよく読んでみましょう。洗礼が想像以上に自分の救いに力があることを理解しましょう。信仰の世界では、何を信じるかが重要なのです。聖書に書かれたことを信じるのです。でも、実際には書かれた通りに信じていないことが起こります。正しく理解しないからですが、理解できないと自分の考えに合わせてしまって、間違えるのです。ですから、そうならないために、聖書をあちらこちら調べ、読むことが大切になります。今日の聖句に興味を持たれたなら、6章全部を通読してみましょう。何度か読んでみると、意味がわかってくると思います。神様の救いは完全ですから、順番に着実に理解して行きましょう。

 

3月29日(月)

人間を豊かにするのは主の祝福である。

人間が苦労しても何も加えることはできない。

箴言10:22

 

主の祝福による豊かさがあります。これは、人間の力や方法では、到底実現することのできない豊かさです。クリスチャンは、この主の豊かさを与えられている人たちです。ただ、それを受け取るには信仰が必要となります。人間が作る豊かさは、不安定で確かさが足りません。盗まれるかもしれませんし、消えてなくなるかもしれません。しかし、主の祝福は、小さな種が発芽し、大きく育って、美しい花を咲かせ、さらには大きな実を結ぶようなものなのです。どうして種が成長するのかはわかりませんが、主の祝福も同じようなものなのです。今日も、その主の祝福を受けて一日が始まります。あなたは、ただ、主に感謝する一日となります。

 

3月30日(火)

「恐るな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの」

イザヤ43:

 

これは、神様からのラブコールです。ですから、あなたは何も心配することはありません。恐れて不安になることがあるかもしれません、イライラすることだってあるでしょう。でも、大丈夫なんです。ても、もし、あなたが「もし何か大変なことになったら困る、恐ろしい」とか考え始めると悲観的妄想スイッチが入るのです。そうなると、現実を無視して十分不安になるまで妄想は止まりません。でも、なぜそんな損なことをしているのでしょう。神様を知らなければ無理もありませんが、あなたじゃ神様を信じているます。そして、あなたには過分なほど良い神様がいてくださるのです。その神様が、あなたに今日の御言葉を語っています。「あなたはわたしのもの」と言われる神様が、あなたが困ってしまうようなことを許されるはずがありません。神様の全能の御力で問題を解決されるはずです。だから、安心して大丈夫です。神様は将来まで見通して何があなたにとって最善か見極めて、そのために準備され、良い結果になるように全力を尽くされるのです。ですから、何が起こっても主を信頼して、堂々としていましょう。

 

3月31日(水)

私たちすべてのために、ご自身の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

ローマ8:32

 

イエス様の命よりも価値のあるものなど存在しません。あなたを救うために、この尊いイエス様の命が必要だったのです。あなたは、幸いなことに、イエス様を信じて救われました。つまり、イエス様の命を代償にして救われたのです。それほどの価値があなたにあるということです。天の父は、このように良くしてくださったのですから、クリスチャンとしての生涯の間、恵みにあふれた生活ができるように、すべてのものをくださるのです。ですから、将来をいたずらに心配したりする必要はありません。それよりも、自分に必要なものはどんなものでも天から与えられると信じましょう。十字架をいつでも仰ぎ見るように習慣をつけると、神様の恵みを信じることは容易いことです。そして、何でも祈ることも大事です。自分一人で悩むことは賢明ではありません。信仰を持っているのですから、神様に心を開いて祈りましょう。そして、自分の無力を認めて、イエス様の助けを求めるのです。解決したら、すぐに神様に感謝しましょう。自分が恵まれた者であると信じましょう。