2023年3月ディボーション

3月1日(水)

私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。

ローマ15:2

 

人間関係で悩み抱えている人は多いのですが、その悩みを解決する方法が定まっているわけではありません。学校ですら、先生がいても悩みを持つ生徒はいつでもいます。スクールカウンセラーがいる学校では、先生ではない第三者のしかも専門家が対応してくれます。しかし、カウンセラーは、学校で習ったことではないことには弱いのです。そうなると、カウンセラー個人の技量の問題になってきます。企業も心を病む社員が戦力とならなくなると打撃が出て来ますから、管理職に資格を取らせたり、企業の中にカウンセラーを置いて社員が相談できるようにしている所が出て来ています。どうして、人は心を病むのか。色々な原因がありますが、キリストが教えたように、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」ができない社会になっていることが大きいのです。そのような社会は良くないですよね。キリストは、こうも言われたのです、「あなたがたは世の塩である」。愛の無い世界は、人をダメにして行くのです。そこで、クリスチャンの役割があります。日本人特有の右にならえ式のやり方は、軍隊ならいいんでしょうが、普通の社会では、異質なものを排除するという結果にもなります。あるいは、自分が理解できないものは否定するか無視する、というネガティブな反応になりやすいのです。個人個人が違っていることが素晴らしいし、楽しいことなのです。小児麻痺で片足が不自由な友達がいましたが、彼は普通にいい友達でした。何でも同じようにやっていました。障害すら、個性であって、差別されてるようなことではありません。この世界が求めているのは、人を愛することができる人です。そして、尊いのは、平和を創り出す人です。いじめもパワハラもいかなる差別もあってはならないとみんな知っています。それでも、現実は無くならないで、巧妙に罪を犯しているのです。クリスチャンはその歯止めです。今日の聖句を読んでください。このように実践するのです。そうすると、どんな人にも良い所があって、その良いところを引き出す力になれるのです。愛しなさいと命じられても、ピンとこない人たちは、結局、何もしないのです。でも、愛するとは、隣人を喜ばせることであり、その人の徳を高めることであり、さらにその人の益となることをすることなのだと、具体的に教えられると、わかるのです。このことをクリスチャンがいつも意識していれば、奇跡は現れてくるでしょう。まさに、キリストの言われた通り「あなたがたは世の光です」。癒しの業はできなくても、パウロのような伝道ができなくても、あなたは誰かの希望になれるはずです。

 

3月2日(木)

主はわたしの力、わたしの盾

わたしの心は主に依り頼みます。

主の助けを得てわたしの心は喜び踊ります。

歌をささげて感謝いたします。

詩篇28:7

 

ミッションスクールの良さは、讃美歌を歌う機会が多くあることです。普通の学生よりは、パートをとれたりするのでハモることができます。また、音楽プログラムもあって、演奏を発表する機会にも恵まれています。そのように訓練された人たちで礼拝の讃美歌を歌う時に、会衆も一緒に天国へ引き上げてくれるのです。私はいくつかの神学校で学びましたが、それぞれに特徴があります。T神学大学は水曜日に礼拝の時間があって、学長が一番最前列に座ることが決まっています。学長の役割は、説教者が神学的に間違ったことを言ったときに、立ち上がってその説教を止める役割があるのです。ですから、礼拝は適度な緊張感を伴っていました。もっとも、私が在学中に一度も学長が立ち上がって、説教を止めることはありませんでした。この礼拝でも、音楽的に優れた学生が多くいましたから、讃美歌は美しいものでした。この神学校には、オルガンのクラスがありました。希望者だけですが、オルガンを演奏できるように訓練を積んでいる神学生もいました。きっと、伴奏者がいない教会に赴任したなら自分で伴奏できるようにと考えてのことなのでしょう。世俗の歌と教会の讃美歌の違いは、まさに俗と聖の違いです。それが、1980年代には、日本でもバンドがエレキギターやキーボードにドラムまで入れて、世俗の音楽のようなワーシップ・ソングを礼拝で歌う教会が出てきました。そして、あっという間に世界の有名教会に上り詰めていったのです。その功績は、お年寄りばかりの教会に青年たちが押し寄せるようになったことです。今では、伝統的な礼拝を守る教会と現代的な礼拝を行う教会に分かれています。どちらが正しいかという問題ではありません。音楽の好きな人は、両方好きかもしれないし、クラッシックが好きな人には古い讃美歌をパイプオルガンで聖歌隊付で歌いたいかもしれません。何が大切かといえば、今日の聖句のことが重要です。この詩篇記者は、「主はわたしの力、わたしの盾」と言います。私にとって、生きる力、困難や災いを避ける盾が神様だと告白しています。この人の心は、主に依り頼みます。それに応えるように、神様はこの人を助けるのです。その喜びは踊り出すほどの大きなものです。その感謝を歌にするのが、真の讃美歌なのです。ですから、喜びもなく歌うことはできません。感謝なしの讃美歌もありません。主に何かしら助けられ、恵みを受け、何より主の愛がわかったので、喜びが溢れて賛美になるのです。たった一人で、心を込めて主に賛美を歌います。その賛美の上に主は臨在を現すのです。

 

3月3日(金)

愚者は道行くときすら愚かで

だれにでも自分は愚者だと言いふらす。

コヘレトの言葉10:3

 

自分は愚者だろうか、それとも賢者だろうか。どうも、どちらとも思えない。だが、きっと自分は愚者なのだろうと考える。それは、人生を振り返った時に、後悔することが実に多い。それは、クリスチャンになってからもそうだろう。聖書に「完全な者になりなさい」とか「聖なる者」となりなさい、と出てくるからそうなりたいと頑張るのだが、一向にそうなったとは思えない。それよりも、聖書を学び続けて、気がつけば歳をとってしまったが、大した者にはなっていない。それよりも、昔よりは少しは賢くなったかもしれないが、そうやってわかったことを何十年も前に完全に理解していた人もいただろう。今は、ようやくわかったことでも、少し前にはわかっていなかったのだから、愚者であったのだ。厄介なことに、人前で話しをする仕事なので、きっと「だれにでも自分は愚者だと言いふら」してきたのだろう。少し、一般論を話せば、戦争を起こした国の元首がテレビで話している。自分は愚者だと言いふらしている。戦争は悪であると誰でも知っている。子供でもいけないというだろう。それなのに、戦争を始めて大勢の人を死なせたのに、平気でテレビに映って、自分は愚者だと言いふらしている。何という愚かなことだろう。コヘレトの言葉は、愚者か賢者になっているので、きっと人は愚者にも賢者にもなれると言いたいのだろう。気をつけていないと、誰でもすぐに愚者になってしまうということだ。「賢者の心は右へ、愚者の心は左へ」(2節)とあるので、心が反対なのだと気が付く。罪人は神に背を向けて逃走しているという。だから心を神の方へと回転させて回心することが救いなのだ。つまり、賢者は神の側に心を向けることで、愚者は神に背を向けて遠ざかろうとする心なのだ。そこで、それなら愚者の反対をすればいいのだと、聖書を読むと、「愚者はたわ言もって口を開き、うわ言をもって口を閉ざす」とあった。これは自分の説教ではないか、と青くなる。その上、「愚者は口数が多い」と書いてある。子供の時から、おしゃべりの才能があって学校の先生に廊下に立たされていた。だから高倉健さんみたいに「自分は口下手で」と一度言ってみたかったな~などと呑気にここまで書いて、あっ!と気づく。「だれにでも自分は愚者だと言いふらす」と書いてある通りじゃないかと。「愚者は労苦してみたところで疲れるだけだ」(15節)、そうそう、と納得してどうする。しかし、わかったことは、こんな愚者でもキリストは見捨てはしなかったということだ。愚者のままではいけないが、キリストへの道は、実は賢者への道でもある。愚者のままでは人間は確かに空しいものだが、キリストが来てくださった。だからキリストの方へと向かうと、賢者の道に立っていることになる。そういうことかと納得できれば良しとしよう。

 

3月4日(土)

互いに忍び合い、だれかが他の人に不満を抱くことがあっても互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

コロサイ3:13

 

キリスト教の掟はたった一つしかない。それは、「互いに愛し合う」ことです。そして、それと同じように「互いに赦し合いなさい」という言葉が出てきます。キリストが私たちを愛してくださったのは、罪を赦す覚悟があったからです。赦すことができないのなら、愛することもできないのです。これがキリスト教の愛の特徴なのです。クリスチャンになってから、何回赦すことで試されたことか考えてみてください。どんなに仲が良くても喧嘩することがあります。そうなると、どうして仲直りするかで悩むものです。人間の不思議で、どちらも相手が悪いからとの思いがあって、仲直りを邪魔します。しかし、相手を赦すことは難しくないのです。意地を張らなければ。今日の聖句を読むと最後に、「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」と命じています。クリスチャンは、主に罪を赦された経験があります。たいていは、気がついていなかった自分の罪を示され、それが恐ろしいもので、自分の力では何ともできないことを悟り、キリストがその罪を身代わりに負って十字架で死んでくださったことを理解します。主は、恩知らずな私たちを赦してくださったのです。それがわかったら、私たちも赦すことができます。人を赦し、人に赦され、このような関係こそが理想の関係です。どちらか一方だけが赦してばかりでは、嫌になるでしょう。でも、あなたが先に赦せば、あなたはすぐに楽になります。そして、相手もきっと赦してくれます。重苦しい気持ちが一気に晴れます。文句も言わずに心から赦すことができれば、あなたも大したものです。気にかかっていることがあれば、主に勇気をいただいて、早速赦すことにしましょう。

 

3月5日(日)

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

ヤコブ1:2〜4

 

クリスチャンは、試練という言葉を聖書から学びます。そして、日々の生活はなんと試練に満ちていることか、と嘆いている人もいるでしょう。それは、クリスチャンとしては順調であると言えます。多くの方は試練の意味するところを知りません。その答えは、今日の聖句に書いてあります。忍耐が鍵なのです。私たちは忍耐がとても苦手です。ですから、試練のことで嫌だと言っているのも、実は忍耐できないからです。ところで、クリスチャンは洗礼を受ければだけでもなれますが、成長しなければならないということを知ります。それも、完全な者になるように聖書に書いてあるからです。そこで、現実の自分をかえりみると、完全とはいかにほど遠いかと気付かされます。これではいけないと思うのですが、どうすればいいのかがわかりません。律法を守ればいいのか、何を努力すれば完全と認めてもらえるのか、と試行錯誤してしまうこともあるでしょう。キリスト教の信仰書をいろいろ読んでみるのですが、信仰の達人のようにはなれないとガッカリします。もっと、何かないのかと考えてもわからないとすぐにあきらめてしまうかもしれません。しかし、今日の聖句を最後まで読むと、忍耐が完全な者とするのだと知ります。その忍耐は信仰を試されると生じる者だと書かれていて、それは結局試練のことだと理解できるのです。ですから、クリスチャンにとっての試練は、やはりこの上もない喜びなのです。このように喜ぶと、試練は辛いだけのことから、本当に喜びに変わってくるのです。ぜひ、今日の聖句を理解して、試練すら喜ぶ者となってください。完全な者へと近づいています。 

 

3月6日(月)

しかし、不信仰な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。

ローマ4:5

 

クリスチャンは、皆、罪人であることを認めた人たちです。初めは、聖書の神様を信じてもいませんでした。では、何か立派な働きがあったかといえば、それもなかったのです。ただ、「不信仰な者を義とされる方を信じる人」であったということになります。「不信仰な者」とはどのような人でしょう。神様を信じないと豪語する人です。あるいは、偶像を拝んでいたかもしれません。典型的なのは、あなたが伝道しようと試みた人です。特定の宗教を持つのは嫌だけれども、神社でもお寺でも、手を合わせるのです。さらには、御朱印を集めるのが楽しいと御朱印帳を持ち歩く人です。つまり、キリストの話をしても、違和感を覚えている人たちなのです。私たちもそのような人たちの中にいたのです。では、「働きがなくても」とはどのような意味でしょうか。聖書の中では、律法を守ることで義と認められようとしたユダヤ人たちのことが書かれていますから、異邦人のように律法を守っていない人ということでしょう。つまり、神様が義と認めるような良い行いのことです。それが無いというのですから、常識的には救われないはずです。それが義と認められたのは、「信仰」でした。皆さんが、救われたのは「信仰」によるのです。ですから、私の信仰は弱いとか、信仰がダメだとか言ってはいけません。すでに救われるだけの信仰を持っていたのでクリスチャンになっているのですから、これからも信仰によって義と認められる生き方を意識して楽しく生きて行きましょう。

 

3月7日(火)

いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

ガラテヤ2:20

 

クリスチャンが目指しているのは、この信仰です。パウロは到達しました。ですから、人間にも可能なことです。クリスチャンは自分のために生きているわけではありません。罪人の時にさんざんそうやって生きてきたのですが、罪人のままでした。しかし、キリストが私たちに何をなさったのか知った時に、心が変わりました。この世に魅力を感じなくなったのです。朽ちていくだけの見せかけの美しさはむなしさしか感じません。では、何に魅力を感じているかといえば、キリストが自分を愛していることが十字架を見てわかったのです。キリストは神の御子でありながら、私たちを救うために人間になってこの世に生まれてこられました。その生涯は、父なる神への服従でした。イエスは言いました「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたにいう言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。」(ヨハネ14:10)。あなたはこの御言葉を読んでどう思われただろうか。イエスが人間になって、私たちの模範になったことは知っているはずです。そうすると、今度は、わたしたちがキリストの内におり、キリストがわたしたちの内におられることを信じますか。あなたは聖霊が内にいてくださると信じているはずです。そして、「父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(同14:23)。つまり、聖霊がクリスチャンの内に来るのは、父とキリストが来たことになるのです。三位一体だからです。そこで、重要なことは、キリストの模範が生かされているかどうかです。つまり、聖霊に服従して、聖霊の御心に従っているかということです。聖霊が働けない状態になっていないか、と自己吟味する必要がありそうです。なぜなら、キリストの愛が十字架に現れていることが聖霊によってわかるので、あなたは自分の欲に動かされて生きることができなくなっているはずなのです。それで、キリストを信じているので、その信仰によって生きると、キリストが父の内にいて、父もキリストの内におられた、と聖書に書かれたいたように、あなたもキリストの内にいて、キリストもあなたの内におられる、という状態になるはずなのです。ところが、それがうまくいっていないクリスチャンはいるわけで、悔い改める必要が出てきます。霊的に満たされる経験を求める方は、まずここから始めると良いのです。自分のために生きるのではなく、キリストのために生きる、これこそがクリスチャンの姿なのです。それを肉ではなく、信仰でやることが重要なことなのです。律法を守れとか何かをやらなければならない、というのは難しいことですが、ただキリストを信じる信仰で生きる、というのは誰でもできます。それは、キリストに愛されているからです。

 

3月8日(水)

あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。

コロサイ3:12~14

 

クリスチャンがどうしても自覚していなければならないことが今日の聖句に書かれています。ちょうど今、野球の世界大会があって、日本人大リーガーたちも帰国して大いに盛り上がっています。彼らは、まさに選ばれた人たちです。ですから、それにふさわしく活躍することでしょう。同じように、あなたは神様に選ばれ、聖なる者とされた人たちなのです。しかも、神様にあなたは愛されているというのです。自覚しているでしょうか。もし、自覚していなければ大問題です。何しろ、これは神様が決めた方法なのです。そして、私たちは信仰によって義となるように生きることが求められています。平たくいえば、神様の言われたことは疑わずに信じて受け入れることです。これがちゃんとできれば、神様はあなたは正しいと認めてくださいます。肝心なのは、あなたは聖なる者とされていると神様がおっしゃっていることです。そも理由は、神様にあなたが愛されているからです。そこで、あなたはこの世の人のように肉欲で生きることができません。聖霊は正しい人、聖なる人を助け導きます。つまり、聖霊はあなたを聖なる者とするのです。あなたは、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなければなりません。これらも、聖霊の実であることも事実です。聖霊との関係を正しく持つことも大切です。赦し合う、とかクリスチャンとしてできるところがすべて聖霊との関係を結ぶことにかかっています。世界の変化が非常に激しく、教会も例外ではなくなってきて、ただ変化の中で聖書だけは変わらず、普遍の真理を教えています。私たちも、今日の聖句からまず基本的なことを覚えて実行することです。

 

3月9日(木)

「『できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。』するとすぐに、その子の父は叫んで言った。『信じます。不信仰な私をお助けください』」

マルコ9:23、24

 

クリスチャンになってから、「信じる」と言うことを真剣に考えるようになりました。「信仰」と言う言葉もひんぱんに聞きます。ですから、信じることが大切だとわかっています。それなのに、信じることで悩むことがあるのです。誰でもが信じられることは問題ないのですが、明らかに奇跡が起こらなければ問題は解決しないような場面です。例えば、ガンの末期患者のために祈って欲しいと言われた時に、なんと祈れば良いのか困る人がいます。そんなことは牧師にでも頼めばいい、と責任転嫁してしまうかもしれません。しかし、その患者が家族や友人知人たちに愛されていて、しかもまだ若いとなるとなんとか癒されてほしいと願うでしょう。ある時、新しい場所で伝道集会を開けるようになって、数回目の時でした。ホスト役を引き受けて下さった方が、実はアメリカにいるお姉さんが癌で、しかもステージ4だというのです。そこに集まっていた人たちは、ホストの奥さんと従兄弟たちでした。ですから、皆さんが癌の方を知っていて悲しみと不安の中にあったのです。そこで、イエス・キリストを信じて救われるようにと話してきたので、私が代表して祈るように頼まれました。そこで、ホストがお姉さんは、クリスチャンになったこと、癌をイエス様が癒してくださると信じていること、彼女は希望を持っていると話してくれました。ならば、皆さんもイエス様がお姉さんを癒してくださると信じましょう、と話し、祈りました。癒されると信じて祈ったのです。そこにいた人たちは、全員、信じまいた。それから、しばらくして、お姉さんの癌が癒されて、消えたことが病院の検査で分かったと連絡が来ました。確かに、みんなで信じたことが、そしてみんなで祈ったことが奇跡を生んだのですが、誰にでも当てはまるわけではありません。神様には最善のご計画があるからです。たとえ、癒されないから信仰が無いと言うわけではありません。もっと、深い神様のご計画があるのです。ただ、私たちは病気の人たちが苦しむのを放ってはおけないのです。なんとか神様の憐みにすがって、病気の癒しを願うことは必要です。一度でダメなら、何回でも祈って主にお願いします。癒しの賜物を持っている方は、大胆に癒しの働きをするべきです。ちなみに、癒されたと知った時、伝道集会が大いに盛り上がったのは言うまでもありません。使徒言行録の続きを生きている、というのは本当だなと実感しました。皆様も信じる力を体験できるといいですね。

 

3月10日(金)

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。

ヨハネ14:21

 

聖書で「愛する」というのは、一方的に愛することではなく、双方が愛し合うことで、主イエスの示された新しい掟に現れています。「互いに愛し合いなさい」。クリスチャンは皆知っているのになぜか守ろうとしないのです。このことは、今日の御言葉を読むと大きな問題になることがわかります。なぜなら、明らかに、この戒めを保ち、守っていないければ、主イエスを愛していないことになるからです。では、どうして互いに愛し合うことが難しいのでしょうか。それは、人間の力ではできないからです。人間はもともと肉で生きてきたので、愛することも肉として考えてしまうのです。そうなると、肉は好き嫌いがあって、誰でも愛することなどできないのです。下手をすれば自分しか愛せない、という人までいるのです。心が不調になると、自分を愛したいのに、できずに自分を責めてしまう人まで出てきます。しかし、全て肉の問題です。キリスト教の救いは、ここに神の御業があって、肉ではなく聖霊によって実現するのです。確かに、聖霊を天から遣わしてくださると約束され、ペンテコステの日以来、この約束は守られているのです。それは、クリスチャンの内に聖霊を送ってくださるということです。そこで、自分の心を聖霊に完全に明け渡す必要が生じます。ところが、ここで肉が嫌だと言うわけです。肉か聖霊かとどちらかを選ばなければなりません。罪の奴隷であった時には、肉の奴隷になっていたので選ぶことができませんでした。しかし、キリストの救いによって、あなたは信仰によって義とされたのです。それは、罪の奴隷から解放されたということです。自由になったのです。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ5:13)と書いてあります。つまり、「互いに愛し合う」という掟は、「愛によって互いに仕える」と言う意味だったのです。しかも、聖霊によって初めて自由になり、愛することも仕えることもできるようになるのです。聖霊に服従するなら、聖霊は100%働いて愛を実現します。それは、キリストを愛していることでわかります。その人は天の父に愛されます。もちろん、イエス様もあなたを愛してくださいます。それどころか、イエス様ご自身をあなたに現してくださるのです。信仰の喜びを味わってください。

 

3月11日(土)

あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。

「これが行くべき道だ、ここを歩け

 右に行け、左に行け」と。

イザヤ30:21

 

人生、確かな道を歩みたいと願うのは人の常です。しかし、実際には流されて生きていると言ったり、不確かな世界でどう生きたらいいか分からないと言うのです。同じような日々が流れているようですが、実際には思いもかけないようなことが起こったり、病気になったり、予測できないことが待っていたりします。苦労する人は何をやってもうまくいかないと訴えます。これがこの世の人間です。しかし、クリスチャンがいます。彼らはどうなんでしょう。パウロは、「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」(Ⅱコリント4:8、9)と言っています。パウロのような危険な宣教の働きは多くのクリスチャンには与えられていません。それでも、人生の困難に遭った時には、この御言葉は本当だったと知ることができます。そして、平和な日々を楽しんでいる人も少なくありません。コヘレトの言葉のようには、空しく感じていないでしょう。そかし、この世にいるからこの世の人と同じようなことを経験するのですが、クリスチャンは、この世の人とは少し違っています。それは、今日の御言葉です。人生の岐路に立たされても、正しい道を選ぶことができるのです。信仰を持って前進できるのです。わたしは、50歳近くでアメリカの教会で働くように招かれました。若ければすぐにでも行くと答えたでしょうが、年齢的にも難しいと思いました。でも、神様の召命に応えなかったことはなかったので、最終的には行くことにしたのですが、神様の言葉を聞かなければ行けないと思って決断に時間がかかりました。あなたも人生でどうしたらいいか迷うことがあると思います。そして、主の御心を教えてくださいと祈るでしょう。主は答えてくださいます。ただ、聞ける人と聞けない人に分かれます。主の御声を聞けるのが一番ですが、そうでなくても迷いがなくなり、これが道だと確信が生まれ、心が平安に満たされて分かったと言う人もいます。このような霊的なことは分からないと言う人も、主はちゃんと導いておられます。ですから、誰かが答えをいきなり言ってくれたり、自分で決めた計画がすぐに止められてしまったり、祈って始めたことを助けてくれる人が現れてうまくいったりします。ですから、私たちは、神様のお導きがあると信じることです。出エジプトの時のように、天国への旅路は、神様がガイドとしてついていてくださると信じましょう。霊的な食物であるマナも命の水も主が与えてくださいます。ですから、疑わずに信じて主に従いましょう。

 

3月12日(日)

イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

ヨハネ20:29

 

弟子のトマスは、復活の主を見なかったので、主を見た弟子たちの言葉を信じることができなかった。それでも、主は再び現れてくださり、トマスに傷跡をさわらせて、イエスの復活を信じるように導かれたのです。その時のイエスの御言葉が今日の聖句です。トマスはこの一事で、疑り深いトマスと今も言われるようになりました。しかし、よく考えると、イエスはトマスのためにお姿を現してくだささったと思います。それは、「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」とトマスが言ったからではないでしょうか。主への愛がトマスにそう言わせたのです。そのトマスの愛に、主は応えてわざわざ姿を現して、傷跡までさわらせたのです。イエスを愛したトマスは、主の愛に救われたのですね。その時のトマスの気持ちはどうだったのでしょうか。主の臨在を目で見たのです。不思議なことに、主は「見ずに信じる者は幸いです」とおっしゃいました。それは、今日生きている私たちも、信じることで主の臨在を味わい知ることができるということです。クリスチャンの醍醐味は、実に主の臨在を知ることができることなのです。主がいつもそばにいてくださると聞いているでしょう。それは本当なのです。見て信じるような信仰ではな、主の臨在を知ることはできません。理性的に主は共におられると言うだけです。でも、信仰にはそれ以上のことがあります。主の臨在にあずかることは見ずに信じる者の特権なのです。トマスのおかげで、私たちは主の臨在を体験できるようになりました。もちろん、信仰によります。そして、この体験がどれほど信じる人を覚醒し、神の愛に満たされるか、これに比べられる宗教体験は他に思いつきません。主を信じると言うことは、実は聖なる臨在を信じることなのです。復活の主が共におられると信じることでもあります。私たちはいつでもこの恵みに招かれているのです。あなたも、主の臨在を味わい知ることを求めて祈ってみませんか。そして、信じるのです。

 

3月13日(月)

弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」っと言った。

マタイ17:19

 

今日の聖書箇所は、何度も読んだと思われる所です。そして、その度に、弟子たちは悪霊を追い出す権能を授けられていたはずなのに、なぜ悪霊を追い出せなかっただろう、と疑問に思い箇所です。そもそも悪霊を信じない人もいるので、その人たちは、この先は読まないかもしれません。人間には霊的感受性の強い人と弱い人がいます。悪霊が近くにると反応する人がいます。また、その隣の人は何も感じないので気のせいではないか、と思うのです。実際には、聖書を神の言葉と信じている人は、悪霊を信じているでしょうし、もっとリベラルな教会に属していれば、悪霊はいないと信じている人もいるのです。しかし、悪霊がいて悪霊に苦しめられている人は少なくないのです。しかも、周りの無理解で一人で困って、恐ろしい目に遭っているクリスチャンは気の毒です。今日の聖句は、疑問文になっています。ですから、この質問に答えてみてください。聖書を読めば、答えが書いてあるので確かめてみると、主は「信仰が薄いからだ」と答えています。私たちは「信仰コンプレックス」があって、信仰が薄いと言われると、否定できなくなって、その通りです、とすぐに白旗を上げてしまいます。それでいいのでしょうか。もちろん、いけません。イエス様は「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここからあそこに移れ』と命じても、その通りになる。あなたがたにはできないことは何もない。」と語られました。当然、私たちはこの信仰に到達したいと思うのですが、実際にはなかなかそうは行きません。その理由は、マルコ9:29に「祈りによらなければ」とヒントを与えています。つまり、私たちが祈りの人になって、毎日祈りを通して信仰を強めていく必要があるという事です。霊的な生活は一朝一夕にはできません。それこそ、信仰の生活なのです。そして、その延長線上に「できないことは何もない」という信仰の高みにのぼれるのです。この世の生活にどっぷり浸かっていれば、信仰は必要なくなります。欲しいものはお金を出して買えばいいのです。お金があれば、どこにでも行けますし、なんでもできます。現代人にとって、昔と違い不便なことはあまりないのです。ですから、信仰が消えて行ってしまう時代に生きているので、霊的なものではなく物質的なもの、目に見えないものではなく、目に見えるものによって生きているのです。信仰生活は、その真逆なのです。これが終末時代の姿なのです。それでも、信仰によって生きる義人は神様に期待されています。時に、立ち止まって自分の信仰のことを考えて祈ってみてはいかがでしょうか。

 

3月14日(火)

だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。

ガラテヤ3:7~9

 

ある人から、「私は信仰がありますか」と問われました。この質問は成り立っているでしょうか。基本的に信仰のあるなしは本人にしかわかりません。周りに人はうわべだけしかわからないからです。自分が信じているのか、信じていないのか、とても簡単です。それなのに、私たちには時に答えることが難しく感じてしまうのです。まず、信じ方に問題がないかどうか、気になります。何のために信じていると言っているのだろうか。例えば、自分に都合よく神を利用しようとしているのではないか。「神様、信じているので、お金持ちにしてください」といったことは、世の中では普通に起こっていることが、キリスト教ではそうはいかないのです。誰でも知っているように、初詣に神社に出かけた人は、「商売繁盛、家内安全、大願成就、良縁に恵まれ、志望校に合格、子宝に恵まれ・・・」などとキリがありません。これらをご利益とよんで、私たちはこれはキリスト教信仰とは違うと断定するのです。ところが、同じようなことを願う祈りは聞いたことがあるだろうし、したこともあるのではないでしょうか。そこで、では、キリスト教信仰とは如何なるものか、考えてみましょう。まずは、今日の聖句が何を言っているから見てみましょう。特徴的な言葉は「信仰によって生きる人々」です。この人は、すでにアブラハムの故にアブラハムと共に祝福されています。これが重要な点です。祝福されているので、ご利益を願わなくても与えられているのです。何をしても祝福されています。だから、あえて何かを願わなくても良いのですが、人間としては必要に駆られて何かを具体的に祈ることになるのです。一方、そうしないで、主を信頼しています、と信仰を現そうと考える人もいるのです。信仰のことを難しく考える必要はありません。基本的には、信じて疑わないということです。信仰によって生きる人々とは、いつでもキリストと共にいることを信じている人のことです。信仰の力は大きくて、山をも動かす力があるのです。ところが、信仰の弱い人は、すぐに不安になって不信仰になってしまいます。ここに、信仰の幅があります。信仰が弱ければ、恥ずかしがらずに、そのことをキリストに告げて求めるのです。信仰が与えられます。まずは、「信仰の人アブラハムと共に祝福されています」、この御言葉を信じることです。その途端に、祝福が流れ込んでくるでしょう。このように、聖書に書かれていることを信じることができる人が、アブラハムの子孫なのです。

 

3月15日(水)

主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主に身を避ける者たちを主は知っておられる。

ナホム14:1

 

私たちは、ありがたいことに慈しみ深い主のおかげでいつも守られています。聖書を読んでいる人ならわかると思いますが、人間の自由意思は神によって保証されているのです。ですから、毎日自分の思い通りに生きています。たとえ、学校や会社に行きたくなくとも行っている、という人でも何でも自分で決められるのです。神が何でもかんでも人間に干渉することはありません。そうでなければ、悪人はいるはずがありません。犯罪は多く、お年寄りや子供など弱い者が被害に遭うことが多いのです。神が人間をコントロールしているのなら、このような悪人は排除されていたはずです。そうではなく、罪人の人間がどうなっていくのか、気の遠くなるほどの長い時間をかけて観察されているのです。それは、天で発生した罪が人間に広まり、愛を踏みにじってきたことでわかります。そして、罪の狂気は戦争です。21世紀には戦争は無くなると思っていたのに、ロシアは戦争に踏み切ったのです。それが、世界中に悪い影響を与え、経済が悪化し、生活が苦しくなっています。このように戦争は地球規模で人間を苦しめ、不幸にするのです。この世界で、私たちは天国に入れるかどうかのテスト受けているようです。しかし、受験生と違って何の準備もしていないのです。一体どうやって天国行きを決めることができるのでしょう。ここでも感謝すべきはイエス・キリストです。キリストが困った時の隠れ場なのです。どんな時でも、キリストは人生を共にしてくださいます。苦しい時、悲しい時、不安と恐れに心がいっぱいな時、主はあなたの苦難の日のとりでです。主は、あなたのことを知っていてくださいます。ですから、恐れることなく主に避難場所を見出せば良いのです。神は、普段は人間の自由意志を尊重して、手出ししないのです。しかし、困ったことが起これば、すぐにでも頼りになる救い主となります。ただ、その人が主に自由意志を使って助けを求めなければならないのです。

 

3月16日(木)

私の時は、御手の中にあります。

詩篇31:15

 

私たちが生きているということは、時間の中に生きているということです。学生時代は、一年生であれば、次の春には二年生になることがわかっていました。つまり、時の中にいたのです。試験の時には、時間はどういうわけか早く過ぎて行きます。手術が終わるのを待っているときは、時が止まったかのように急に動きが遅くなったように感じます。また、大人になれば、予定表が手放せないほど時間に追われるようになります。大変な仕事が予定されたりすれば、その日が来るのがストレスになります。ただ、やがてわかることは、どんなに大変なことでも、どんなに嫌なことでも必ず過ぎて行くということです。このような時間の不思議がありますが、クリスチャンは今日の聖句の意味がわかります。救われた、あの日から、自分の人生の時間はすべて主のものとなったのです。そして、それが守られていれば良いのです。ところが、そうでもないようです。なぜなら、自分の時間が神様に献げられていたなら、もっと神様と交わっていたはずです。自分の時間として、好き勝手できるのですが、その結果は自分で負わなければなりません。野球の大谷選手は、自分の時間の全てを野球に献げているそうです。修学旅行に行かずに野球の練習をしていたそうですが、大リーガーになった今でも、普通の人のようには生活していないそうです。コンビニにも何年かぶりで行ったと言って、周りの人を驚かせていますが、ここまで野球のために時間をかけているので、世界の頂点に上り詰めたと言うのです。信仰者も全く同じです。この世の楽しみもして、信仰生活もほどほどにして、というような二刀流では神様との交わりはほとんど経験できません。私たちは、霊的に満たされた人生を送りたいのです。その秘訣は、「私の時は、御手の中にあります」という御言葉を自分に実現させることです。地上のものには影が付いています。しかし、天のものには影はありません。光を楽しめるようになりたいものです。神様が定めた通りに人生を生きて行きたいですね。それは、御手の中で守られて生きて行くことでもあるのです。

 

3月17日(金)

主よ、わたしに耳を傾け、答えてください。

わたしは貧しく、身を屈めています。

わたしの魂をお守りください

わたしはあなたの慈しみに生きる者。

あなたの僕をお救いください

あなたはわたしの神

わたしはあなたに依り頼む者。

主よ、憐れんでください

絶えることなくあなたを呼ぶわたしを。

あなたの僕の魂に喜びをお与えください。

わたしの魂が慕うのは

主よ、あなたなのです。

詩篇86:1~4

 

いったい、他人はどのような祈りを献げているのだろうと気になったことはありませんか。わたしは、若い時から色々な人の祈りを聞いてきました。牧師のようにいつも祈っている人たちは、たいてい個性的な祈りなのです。唯一無二とでも言えばいいのか、個性が祈りに反映されているのです。そして、その弟子のような人たちは、先生の祈りの癖まで身につけて、同じように祈るのです。私も尊敬している先生のことを思い出すと、その先生の祈りが聞こえてきます。とつとつと祈る人、ボソボソと祈る人、大きな声で祈る人、必ず、「主よ!」と言って祈る人、・・・。神様はさぞ、世界中の祈りを聞いて面白いと思っているのではないでしょうか。しかし、祈りが下手だとか、苦手だと言う人もいます。人前では絶対に祈れない、と頑張る人もいます。素朴な祈りなのに、なぜか人の心を打つ祈りを聞いたこともあります。神学者が時間をかけて緻密に作った祈祷書のための祈りもあります。祈り自体が神学の教科書のような感じを受けますが、完璧であることは認めざるを得ません。それにしても、私たちは、毎日同じような祈りをあきもせずに続けているかもしれません。まるで、主の祈りをお経のように唱えている人もいるでしょう。さて、祈りとは何だろう?どう祈ればいいのだろうか。その答えは詩篇にあります。例えば、今日の聖句です。1節の前書きには、「祈り。ダビデの詩」となっています。これは、ダビデの祈りなのです。しかも、聖書に書かれるほど完璧なのです。確かにダビデは、詩人と呼ばれるほどの天才なので、ダビデのようには祈れないでしょうが、自分なりに祈ることはできているはずです。神様は祈る人をよく知っているので、その人の祈りが、口先だけの祈りか、心を開いた祈りか、魂のうめきか、聞き分けます。また、祈りを通して健康を得たり、精神が清まり、力を満たしていただくことだってあるのです。神様を疲れさせるような、内容のない、形式的な祈りは、避けた方が良いのは当然です。大切なことですが、クリスチャンには、祈りの生活が要求されていると考えることは正しいことなのです。昔からそのように教えられてきました。祈りを通して天と繋がることができるので、霊的な恵みを受けることが可能なのです。今日のダビデの詩を読んで行くと、最後に「わたしの魂が慕うのは、主よ、あなたなのです」とあって、「ああ、やられた。うまいな」と感心してしまいます。これでは、神様も黙っているわけには行きませんね。きっと好意を持ってダビデに御顔を向けられたと思います。たとえ、口下手であったとしても、真心を尽くすことはできます。ですから、自分の祈りはダメだと言う必要はありません。ダメな祈りなどないのですから。最後に、アンドリュー・マーレーの祈りの本は全て素晴らしい霊的な書なのでお勧めです。その分、難しさを感じるかもしれませんが、それを理解しようと努めると、結果的に霊的な恵みを手にできるでしょう。多くの人はすぐにあきらめてしまうので残念です。

 

3月18日(土)

それで私は、このかたを見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。」

黙示録1:17、18

 

私たちは、神様を自分の目で見ることができないことを知っています。それは、死んでしまうからです。それほど罪深い者だからです。クリスチャンになり、少しはマシな人間になったと思っているならば、それは人間的な評価でしかありません。私たちは、今日の聖句で、ヨハネが主を見た時に、死人のようになったと書かれていることを不思議には思いません。どんなに清められた人であっても、そうなのですから、大きな壁のようなものを感じます。このままでは、天国には入れません。罪の問題の解決は、確かにキリストの十字架によって贖われたはずです。でも、それは霊的なことであって、信仰によって義となるということと考え合わせて理解することが肝心です。この壁を壊すような何かが必要なはずです。実は、それもキリストがちゃんと教えています。まず、キリストに従いたいなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて従えと言われています。そして、自らも死んで復活しています。さらには、古い人、つまり罪人の自分に死ぬ経験が必要なのです。それは、罪に汚れた、天国にふさわしくない全てに死ぬことを意味しています。あるいは、肉に従うことをやめて、聖霊に従うことを意味しているのです。「いつまでも生きている」というのは天国で永遠の命にあずかることです。聖書の中の聖人たちも皆、例外はありません。これは、大きなチャレンジです。行いでは到底達成できないでしょう。ですから、祈りの生活が必要となります。それは、古い自分に死んで、復活の命に生きるためです。信じることができるように、聖霊は助けてくださいます。いかに自分がこの世にしがみついていたかを明らかにしてくださり、神の国はこの世のもの全てをむなしい汚れたものであることを悟らせてくださるのです。キリストによらなければ、聖霊に寄らなかれば、できないことも、信仰によって実現できるのです。そのために祈りへと導かれて行きます。

 

3月19日(日)

御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。

ヨハネ16:14

 

キリスト教の難しさは、聖霊が自分のもとに来て、自分の内に入り共におられるということを信じることです。教会歴を守っている教派は、ペンテコステの礼拝を欠かしませんが、聖霊の恵みが現実であることを理解できているかはわかりません。聖霊は実在し、聖書に書かれた通りに今も働かれています。神との交わり、イエスとの交わり、共に聖霊によって交わりが成立しています。今日でも、ペンテコステと同じように、聖霊降下はあります。それは、天の大きな喜びを伴っているのです。栄光の主が信じた者のもとへ天上の喜びをもたらします。聖霊は、私たちにゆだねることを求めます。それは、人間的な考えによってではなく、神の霊によって主との交わりを実現するためです。聖霊に満たされて喜んでいたても、しばらくするとそのが消えてしまうのは、全き服従ができないからです。自分の考えや自分の思いに従ってしまうので、霊的な交わりが絶たれてしまうのです。聖霊を通して神との交わりに入ることが求められているのですが、それは、同時に私たちが聖霊に自己を完全に明け渡すことも求められているのです。それなのに、私たちの信仰が足りないとここでつまずいてしまうのです。ヨハネの福音書に書かれている通りに、父と御子が一緒に来て信じる者の内に住んでくださるという約束があるのは、それが私たちに必要だからです。そして、その約束を実現させるためにこそ、聖霊に完全に自己を明け渡し、服従し、その導きに従うことが必要なのです。残念なことは、聖霊が神だと認めない人がいることです。そして、三位一体の神のことを聞いていても、聖霊を神の影響力ぐらいにしか理解しない人がいるのです。それでは、聖霊が来られても、完全に自分をゆだねることなどできないでしょう。目に見えることばかりに気を取られていないで、自分が霊的存在であることを覚えましょう。ですから、神も霊として現れ、あなたの霊と交わることができることを信じましょう。

 

3月20日(月)

そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

ヨハネ8:31、32

 

不思議な言葉です。有名なのでご存じだと思いますが、「真理はあなたがたを自由にします」とあるので、心に残ります。私たちは、世界でも自由な民主主義の国に住んでいます。それでも、自由とは感じていないかもしれません。社会が真面目で、守べきルールがあり、自由を許さないのです。ですから、人間的に成長が遅ければ、社会に出て行く時に苦労するし、理不尽と感じることが強要されるのです。それは、意味の無いことであったり、効率を悪くしていたりすることもあります。また、同じような仕事をしていても、給料に格差があったり、そもそも結婚できないような給料しか支払わないということ自体がおかしいし、それを知っていて給料を上げないということを改善しようとしないのは、人間としてどうなのだろうと思えるでしょう。このように、世界の中で良い国の中に入っていても、人間阻害を感じ、どうしようもないという閉塞感があると、どうにかして、自由を手にしたいという欲求が高まります。クリスチャンであっても同様の閉塞感を感じている人はいるでしょう。しかし、今日の聖句は、自由を手に入れる秘訣を教えています。まず第一に、イエスの御言葉にとどまる。第二に、真理を知る。第三に、真理はあなたを自由にします。これは、真理あるいは真実は、イエス・キリストのことだとすると、真理あるいは真実を知ること。そうすれば、真理あるは真実はあなたを自由にします、と言う意味に取れます。いずれにしろ、 真理あるいは真実を知る方法が、イエスの御言葉にとどまることなのです。つまり、ただ読んで読み飛ばすようなことではなく、御言葉の意味を理解して、その理解したことを実践する、あるいは守ることです。そうすれば、結果としてあなたを縛っていたものから解放され、自由になれます。世界中でこのことが証明されています。あなたを圧迫して、苦しめてきたものから自由になれるのです。

 

3月21日(火)

神に従う人の結ぶ実は命の木となる。

知恵ある人は多くの魂をとらえる。

箴言11:30

 

ここに不思議な言葉が並びます。それは、「命の木」です。これは、エデンの園にあったはずです。しかも、もう一本別の木がありました。善悪の知識の木です。その実を取って食べてはいけなかったのです。それなのに、ヘビに誘惑されてエバもアダムも食べてしまいました。それが罪となったのです。それが原因でエデンの園からアダムたちは追放されて、今日のように額に汗して生きるようになったのです。ところがここに「命の木となる」と書いてあるのです。それは、「神に従う人の結ぶ実」が「命の木」になるのです。これは一体どういうことでしょうか。罪人は、神に背を向けて逃げているという言い方をします。反対は、神に従う人となります。つまり、罪を贖われて赦され救われた人は、神に従順に生きるのです。その結果結ばれる実が「命の木となる」のです。あなたは、何度も何度も聞かされてきたのです、「神に従順になれ、神に服従しろ」と。それは、「信仰によって生きる」と同義語でした。クリスチャンは、このようになりたいと思っている人たちのはずです。ですから、イエス・キリストを信じました。そして、従順について行こうと決心したのです。その信仰を神様は認めてくださいます。その人は、聖霊を注がれ、永遠の命を約束されました。それが命の木なのです。「結ぶ実」とあるので、クリスチャンとしての生き方があるのです。霊的成長と生まれたままの古い自分に死んで、新しい復活の命に生きることが聖書を通して教えられています。ですから、「結ぶ実は命の木となる」と表現されているのです。

 

 3月22日(水)

愛する兄弟たち、あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、誰でも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るには遅いようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。

ヤコブ1:19、20

 

情報化社会では、消化しいれないほどの情報が溢れています。インターネットにスマホがあれば、瞬時にどんな情報でも手に入れることが可能です。辞書も百科事典もいらなくなりました。しかし、それで人間はどうなったのでしょうか。昔の人より賢くなったのでしょうか。人間の総合力は上がったのでしょうか。聖書は、知恵を与えてくれます。まず、「聞くには早く」です。情報化社会では、どんなことでもたちどころに答えを見つけることが容易くなりました。しかし、人間の悩みを解決することは、まだできません。なぜなら、人に聞いてもらって解決する悩みは多いのです。コンピューターやスマホに話しかけても解決には向いていないようです。やはり、血の通った人間がその人のことを思って、話を聞くのでなければ、自分の心も頭も悩みを解決することができません。コンピューターなら、何万という情報をもとに、的確な答えをすぐに見つけて提示できるでしょうが、そこには人の気持ちまで理解しているという部分が欠けているのです。ですから感情的に満足が得られないのです。逆に言えば、人は自分のことを思いやってくれて、ちゃんと話を聞いてくれる人がいれば、悩み事は乗り越えていけるのです。それ以上に、個々の満足が得られるのです。ですから、「誰でも、聞くには早く」と心がけることが大切なのです。また、「語るにはおそく」とは、人の話を聞かないことを戒めているのです。頭の回転の早い人は、相手が少し話しただけで、結論が見えてしまいます。そこで、まどろっこしく話していることが待てなくて、話しの腰を折ってしまい、すぐに結論を離してしまう傾向があるのです。人は、気持ちで生きているので、そんなことをされればすぐに「傷ついた」と怒り出します。ですから、人が話し出したら、論理的な問題ではなく、気持ちの問題なのだと気がついて、その気持ちを聞こうとすることが肝心です。さらに厄介なことは、「怒るには遅いようにしなさい」という戒めです。人間は色々ですから、気の長い人も、優しい人も、おとなしい人も、怒ることを知らない人もいるのです。でも、感情的になりやすい人もいて、この人は生まれつきなのです。ですから、この人の感情を刺激する悪いことや、何か攻撃されたと思える時や、自分の価値観に反する主張や、自分の嫌なことを言う人間が嫌いで、すぐに反応します。初めから穏やかで怒ることのない人にとっては簡単な戒めが、すぐに感情的になる人にとっては、富士山より高いハードルとなるのです。しかし、すぐに怒って失敗することを経験すると、後で反省して落ち込むので、二度と同じ過ちを犯さないようにと一応思うのですが、理性で怒っているわけではないので、どうすることもできないのです。自分とは直接関係なくても、怒ることがあれば、確実に怒りをあらわにするのです。それで、生じる損害は驚くほど大きいのです。そして、厄介なことに、自分は怒って爆発すれば忘れることができますが、それで被害を被った人は、決して忘れてくれないのです。ですから、どこかでいつかひどいしっぺ返しが待っているのです。そこで、クリスチャンの人は、自分の努力ではどうしようもないので、神様に頼むことになります。「怒ることの遅い人にしてください」と祈るのです。ただ、怒るなとは言われていません。神様も怒られます。ただ、人間と違って、簡単に怒りません。イスラエルが偶像崇拝をしていても、すぐに怒りをあらわにしたわけではありません。忍耐して、預言者を通して注意したりして悔い改めて欲しいと思っていたはずです。しかし、悪には怒り、罪にも、不正にも怒ることは必要です。ただ、何でもかんでも感情をコントロールできずに爆発させることは、取り返しのつかない大失敗になりやすいのです。そもそも怒りで神の義を実現できないと書いてあるのですから、なおさら、注意が必要です。今日の三つの知恵を体得すれば、人格者と呼ばれるかもしれません。主の御目には義と映ることでしょう。

 

3月23日(木)

雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ。

詩篇31:24

 

長いコロナ禍からようやく抜け出ようとしている時に、WBC(ワールド・ベースボール・クラッシック)で日本は世界一に輝きました。日本人がこれほど野球で興奮し、感動して涙を流したことがあったでしょうか。今日の聖句は、有名な聖句です。よく励ましに使われます。大谷選手が闘志をむき出しにして、チームメイトを鼓舞している姿は、まさに、「雄々しくあれ。心を強くせよ」だと思いました。日本人はシャイだとよく言われます。実は、世界一真面目なのです。高い能力と、忍耐心があって、目立ってはいけないと子供の頃から教えられてきたのです。ですから、人前に出ることが苦手だったのです。それが、グローバル化が進んで、世界の人は意外にも日本人に比べて適当に見えることに気が付きます。大したことがなくても人前で堂々としていいのだと学習し出したのです。謙遜が美徳だったのに、スポーツ選手を見ていると皆異口同音に、「楽しみます」と言います。これも日本人だな~と思わせられます。真面目なのです。せっかく、昔のように、「日本のために力足らずですが、せーいっぱい頑張ります」とは言わなくなったけれど、ニッコリ笑って、「楽しみます」が皆同じとは、なんて真面目なのだろうと思わずにはいられません。しかし、優勝した日本の選手は、真面目ゆえに打てないと、すぐに落ち込んでしまいます。それでも、闘志を全面に出せと鼓舞し続ける者がいると、苦しさを自らの手で乗り越える人が出てくるのです。良い教材でした。信仰者も、真面目なので落ち込みやすいし、逆に開き直って聖なる成長を怠る人も出てくるのです。信仰にとって、重要なことは、「雄々しくあれ。心を強くせよ」と自分に言い聞かせることです。何度も何度も、自分に言い聞かせて、何事も乗り越えて行くのです。あなたが主を待ち望む者であるのなら、これは、あなたのモットーであるのです。

 

3月24日(金)

私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。

コロサイ3:4

 

これは、世の終わりの天国に入る自分の姿がキリストのようになることを現しているように見えますが、それ以上に、クリスチャンの神秘を語っているように見えます。それは、現代のクリスチャンが忘れていることです。キリストを信じたのは、神の啓示があって、さらに自分の罪が示され、十字架のキリストによらなければ罪の贖いがないことを知ったからです。救いとは罪と死からの救いでした。後に霊的な意味があって、サタンからの救いでもあったことを知ります。問題は、クリスチャンになってからです。何も分からないところから出発して、時だけが過ぎて行きます。しかし、クリスチャンとして聖化の生活を送っているようには感じません。理屈だけ覚えても、霊的実態がなければこの世の人とあまり変わっているとは思えません。事実、自分よりも立派なクリスチャンではない人が大勢いるのです。それでも、クリスチャンとして愛に生きよう、伝道しよう、自分を害する人でも赦そう、善功を積もう、よく祈ろう、聖書を学ぼう、と頑張るのですが、肝心のことがわかっていないように生きているのです。それは、キリストが自分の内側にいるということです。それは、教理の知識でという意味ではありません。現実にそうであるということです。もし、信仰が伴っていれば、キリストが聖霊として自分の内側で生きておられ、天でも聖所で執り成しの業を行なわれ、二重に働かれているのです。そのキリストが罪に死んだ自分の新しい命になってくださるのです。そのように、キリストが自分の内側で新しい命となっておられるなら、キリストは、内から外へと現れてくださるのです。その時に、キリストに服従することによって、古い罪の性質を持っている自分に死ぬのです。古い自分が死んで、内住のキリストが私たちの命になって現れるのです。それで、最後にはキリストと共に、あなたは栄光のうちに現れます。さまざまな誘惑があるこの世で、あなたはこの世に合わせる必要はありません。一心にキリストを見つめて本物のキリスト者として生きて、主を証ししてください。主の祝福があなたに溢れるほど注がれるでしょう。

 

3月25日(土)

主の憎まれるものが六つある。

心からいとわれるものが七つある。

驕り高ぶる目、うそをつく舌、罪もない人の血を流す手、悪だくみを耕す心、悪事へと急いで走る足、欺いて発言する者、うそをつく証人、兄弟の間にいさかいを起こさせる者。

箴言6:16~19

 

さて、今日の聖句で主が憎む、おぞましい罪が七つ列挙されています。数えてみましょう。うまく数えられますか。八つある、と思われた人もいたでしょう。「欺いて発言する者、うそをつく証人」が実は一つです。これは、「偽りの証人として偽りを持ち出す者」と訳すことができます。そうすると、七つをまとめてみると、「高慢、偽り、無実の者のちを流すこと、悪しき考え、同胞に対する悪意、偽りの証言、争いへの教唆」(ATD15、p65)となります。これらが神の民の共同体でどのように働くかを考えればわかるように、調和を見出し、罪が発生して正義が踏みにじられるからです。主は、これをいといます。私たちはクリスチャンなので、このような考えがありません、考えただけでも恐ろしいことだからです。でも、教会で互いに愛し合う戒めを忘れると、悪魔は情け容赦なくこの七つの誘惑をしようと、信仰の弱い人を探します。これは、牧師や長老も例外ではありません。隣人に対して積極的に主が愛されたように私も愛そうと、決心していなければ、誰にでも悪魔は唆してくるのです。主を畏れる信仰が必要ですね。

 

3月26日(日)

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

Ⅱペテロ3:9

 

クリスチャンの願いは、自分の家族や友人知人でいまだイエス様を受け入れない人をなんとか洗礼まで導きたいというものです。それは、自分は天国に入れられるのに、家族や大切な友達が滅んでしまうことが嫌だからです。しかし、実際には自分の思い通りにはなりません。私は、19歳で洗礼を受けて、まず家族伝道を始めました。父親を説得したのです。でも、若い自分では全く歯が立ちませんでした。しまいには、感情的になってしまい大失敗しました。それから時が経ち、私が30歳近くになった時に、神様は父親を救ってくださいました。私は何もできずに神様の方法で救っていただいたのです。母親は、私が牧師になってから、ある日、母親に洗礼を授けなさいとのお言葉をいただいて、すぐに仙台から千葉まで出かけて、洗礼を授けることができました。人の救いには時があるのですね。今日の聖句は、私たちの思いをご存知の神様が、私たちに励ましを与えてくださっている箇所です。私たちはせっかちにすぐ救ってくださいと思ってしまいますが、やはり救いの時があるので、忍耐強く待ってあげる必要があるのです。神様は「ひとりも滅びることを望まず」と書いてあるので、どんな人にも救いの希望があり、チャンスが巡ってくださるのです。伝道する人は、冷たくあしらわれたり、時には傷つくこともあるかもしれませんが、それでもあきらめてはいけないのです。どこで、どうなるか、私たちには分からないからです。祈りは無駄にはなりません。神様と一緒に伝道をしていることを覚えて、希望を持っていましょう。

 

3月27日(月)

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました。

Ⅱコリント5:17

 

「一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります」(Ⅱコリント5:14)。パウロは、キリストの死においてすべての人が死んだと言います。キリストがすべての人のために死んだ目的は、生きている人が、自分のために生きるのではなく、キリストのために生きることなのです。パウロは、「キリストのために生きる」ことを「キリストのうちにある」と言います。クリスチャンがそうであるなら、彼れらは新しく創造された者なのです。アイオーン(世)という言葉を聞いたことがあるでしょう。古い世(アイオーン)ではアダムが創造されました。キリストと共に始まる新しい世(アイオーン)はアダムのように、新しい人を創造するのです。キリストにあって新しい人とは、キリストを信じて交わりを持っている人のことです。「古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました」と書かれていますが、実際には古い世は存在し、人々はそこに生きています。クリスチャンも肉の力と戦っています。ですから、クリスチャンは戸惑うでしょう。新しく造られた者なのに、なぜ、いまだ肉の力と戦っているのだろうと。しかし、今までのパウロの説明で分かってくるのは、新しい人はキリストのために生きている人のことです。この人が自分のために生きると、古い世に戻り、肉の力に苦しめられます。ですから信仰のあり方が大切になるのです。キリストの再臨まで待たなければならない事もありますが、それでも、キリストの出来事は真実であり、キリストによって罪を赦され、新しい創造がなされたのです。ですから、キリストとの交わりができるようになり、自分の祈りがきかれていると知るようになります。キリストを信じる力を体験して、御言葉を信じる奇跡も味わい、自分が主に愛される者となったと知るのです。過去に縛られて苦しんでいる人は、キリストを信じて救われたので、「古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました」。キリストを信じていることは新しい自分が創造されたことを保証しています。ですから、安心して新しい人生を楽しく生きていきましょう。

 

3月28日(火)

あなたは救いの盾をわたしに授け

右の御手で支えてくださる。

あなたは、自ら降り

わたしを強い者としてくださる。

詩篇18:36

 

人生には何かしら戦いがあるものです。その中で、自分との戦いだって重要なことです。意志の弱い人、すぐにあきらめてしまう人、何をやっても長続きしない人、人付き合いが苦手な人、強く出られると逆らえない人、自分はダメだと思ってしまっている人、そんな人はいくらでもいるのです。問題は、このような自分が嫌いになりそうな時にどうやって乗り越えるかです。本屋に行けば、このような時にどうすればよいか書かれた自己啓発書がいくらでもあります。もちろん、専門家の助けを借りることもあります。世の中は、そのような人で溢れているのです。しかし、真の解決には至りません。今日の聖句を読むと、神様を信じる人は、神様の助けをどのように得られるかが書いてあります。「救いの盾」は、あなたが感じる心を刺すような人々の言葉や態度、ストレスを防ぐ神様の武具です。パワハラもこの盾があれば完璧に守られます。何しろ神様があなたのために授けてくださる者ですから、あなたを守る力があるのです。そして、気弱になって落ち込んでいるあなたを主は勝利の右の手で支えてくださいます。ふらつくことすらありません。とても心強い御手です。さらに、それでも足りなければ、主が自ら降りて来られるというのです。それは、あなたを強い者としてくださるためです。神様の言う「強い者」は、主を信じている強さです。誰もかないません。山をも動かせる信仰を引き出してくださいます。あとは、勝利するだけです。だから、勝手に悩んだり落ち込んだりしてはいけません。あなたは主によって勝利が約束されているのですから、安心して、今日を過ごすことができます。

 

3月29日(水)

バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。・・・それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。

使徒言行録11:24~26

 

野球の世界大会で優勝した日本チームの監督が賞賛を受けています。それは、今までの体育会系の強権的な監督のイメージを払拭して、選手を尊敬し、信じ、一人一人を大事にして、将来のことまで考えてくれる、という人間味あふれる監督像です。このような監督のもとでは、選手が成長し、生かされていくというわけです。このような話を聞いて、バルナバのことを思い出しました。もし、バルナバがいなければ、サウロはパウロにはならなかったのではないか、つまり、新約聖書の多くを書き、キリスト教を作り上げた偉大なパウロは誕生しなかったのではないかと思うのです。パウロはバルナバによってアンティオキヤ教会に連れていかれます。そこは、異邦人の世界でした。アフリカやギリシャから来た人もいる、当時の国際教会でした。神のお導きは、ユダヤ人からすでに異邦人へと移っていました。そこで、小アジアやギリシャへと伝道地は広がっていったのです。その立役者がパウロなのです。私たちには、聖書の元の文を書い下さって、信仰や教理を学ばせてくれました。ですから、パウロのファンは多いのです。キリスト教は誕生してからまだ日が浅いのですが、パウロのおかげでクリスチャンというイメージまで誕生してきたのです。それにしても、イエスを信じて救われた人は、パウロから教えを学び、キリストに似た者になろうとしました。それは、うわべだけのことではありません。何しろ、人々は彼らをキリスト者と呼ぶようになったのです。そして、私たちもキリスト者なのです。ですから、この呼び名にふさわしく生きたいですね。

 

3月30日(木)

昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。

ローマ15:4

 

聖書を読む前には、もっと違うことが書いてあると思っていました。実際に読んでみると旧約聖書などはまるで民族史であって、ありがたい人生の教えとは思えませんでした。それから、半世紀も聖書を学んできました。聖書は何のために書いてあるのだろうと思っている方は、今日の聖句が一つの答えです。それは、私たちを教えるために書かれたのです。それでは、それは、何を教えようとしているのか、と聞きたくなるでしょう。その答えは意外なものです。「それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです」。人間が一生を生きていくというのは大変なことなのです。毎日が戦いと言う人もいます。平和な国であっても競争はあるし、順位付けがされたり、給料だって格差があるし、結婚できても驚くほど離婚が多いのです。元気だと自慢していると、ある日大病を患うことだってあります。会社の倒産やリストラだって珍しくありません。災害も忘れた頃にやってきます。せっかくクリスチャンになっても試練に遭遇し、やめたくなるかもしれません。良いことも多くあるのに、少しの悪いことが台無しにしてしまうのです。しかし、人間の真価が問われるのは、実は試練の時です。この時の対処の仕方や心持ちが、その後の人生を分けるのです。何があっても不思議ではない世界に生きていて、神様に頼らないではいらない日が多いのです。信仰は確かに人間の助けになります。そして、聖書は、結局、忍耐と励ましを与えてくれるのです。それこそが人間にとって大切なことなのです。なぜなら、忍耐と励ましを得た人には希望が生まれるからです。希望があれば、どんなに大変であっても何とかなるのです。あきらめたら、そこでおしまいなのです。だから、希望があれば、顔を上げて前に進めるのです。これが人生ではとても大きいことなのです。

 

3月31日(金)

キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

ピリピ3:9

 

 

人間の面白さは、失敗することです。間違ったり、早とちりをして恥をかくようなこともやってしまうのです。これは、避けることができないので、本当は気にしなくても良いことなのですが、どういうわけか後々まで尾を引くことがあります。しかし、中にはそんなことは笑い飛ばしてしまう人もいます。気にするだけ損と思っているのか、周りの人は、その人の態度に呆れるかもしれませんが、それで済んでしまうのです。性格や個性の差はあっても、誰でも自分の行動を決める能力があります。それならば、気持ちが楽になる方を選ぶことです。しかし、人からどう見られるかを気にするのが人間なので、どうしても失敗すると、後悔して何度も思い出してはその痛みを繰り返し味わうものです。そんなことは一度も無いという人は幸せですね。さて、今日の聖句を見てみましょう。クリスチャンはすごい特権に恵まれているのです。「律法による自分の義」とは、今日出てきた失敗したくない、いつでも人前ではカッコよく見せたいという人のことです。だから、頑張るし、ちゃんとしようとします。特に人の目を気にするので、完全であろうとするのです。でも、それは誰にとっても難しいことで疲れてしまいます。もう一方の「キリストを信じる信仰による義」は、信じるということに特徴があります。自分で頑張らなくても良いのです。キリストを信じるなら、神から義を与えられ、それを自分のものとして持つことができるというのです。自分で頑張って完璧にと思っていた人からみると、ただ信じるというのでは納得できません。やっぱり、自分の力でちゃんとして、正しいと認められるように頑張るべきだ、と考えるのです。実は、信じる人の方には、もう一つ秘訣があります。それは、初めに書いてあったように、「キリストの中にある者と認められ」ることです。ですから、クリスチャンは、自分はキリストの中にある者なのだと認めて信じることが大切です。ここがクリスチャンになる前とは違っているのです。キリストの中にあるからこそ、気負わなくても良いのです。自然体でゆったりしていればいいのです。人の言葉は、キリストの耳を通して聞こえてきます。もし、批判したり、傷つくようなひどいことを言う人がいれば、それは、私ではなくキリストに対して言っているのです。ですから、キリストの中にいる人は安全で、傷つかないのです。神があなたを義としてくださいます。今まで、否定的な考えに慣れてしまった人は、キリストの中にはいなかったのです。ですから、まず、悔い改めて、キリストの中にある者と認めることです。キリストは肯定的に考えるので、良いことを考えておられます。その中にあなたはいるのです。ですから、肯定的に考えるようになります。さて、あなたはまず何から始めますか。今日の聖句の通りになろうと考えることは、第一歩ですね。「信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」