2023年5月ディボーション

5月1日(月)

あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。あなたは私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみを知っておられました。

詩篇31:7

 

私たちは、それぞれ自分の人生を生きていかなければなりません。親を選んだり、国を選んだり、時代を選ぶこともできません。そして、人生は自己責任で選択の連続なのです。しかも、罪人であることからは誰も逃れることができません。ただ、ありがたいことに神様は救いのご計画を立てられ、主イエス・キリストが私たちの救いを可能にされたのです。その救いは、ただイエス様を信じて悔い改めることでした。呪いまで解いてくださったので、信じる者には希望が生まれました。それでも、クリスチャンとしてこの地上生涯を歩み続けなければなりません。そこには、試練が待ち受け、この試練を通してクリスチャンを整え、天国へ入る準備をされるのです。それは、元々罪人であったので、イエス様に似た者へと変わる必要があるからです。その中で、自分の境遇や生い立ち、また親との問題、兄弟間の問題など、その人の心の深いところに関わることまで、信仰によって解決させようとされるのです。そこには、イエス様がおられ、人知では到底計り知れない神の御業によって、悩みも魂の苦しみをも解決して、癒やされるのです。この世のことで損をしたなどという必要はありません。神様が恵みを豊かに与えてくださるので、それを楽しみ、喜ぶのです。これも、天の父なる神様の愛のおかげなのです。

 

5月2日(火)

しかし、私たちは、わたしたちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

ローマ8:37

 

聖書の中で最も胸が熱くなる箇所が、ローマ8章31節から39節です。私たちは、この世ではクリスチャンであるがゆえに、不利益を被ることもあるし、場合によっては迫害だってあるのです。安息日を守ろうとする者には、困難が伴い、愛に生きようとすれば、何度も人を赦すかどうかで苦しむのです。それでも、信仰に生きようとすると、主の愛が必ず励ましてくるのです。そして、聖書から、今日の御言葉が届きます。私たちには、愛してくださる方がいるのです。決して孤軍奮闘しているのではなく、あなたを気遣って、愛を惜しまない主がいてくださるのです。主は、あなたの良き理解者です。主は、あなたが好きなのです。ですから、あなたも主を愛しているので、主を第一にすると敵は怒り攻めてくるのです。それは、ローマ書8章35節に書いてある通りです。でも、ここで怯むことはありません。なぜなら、御言葉にはっきり書かれてある通りに、「圧倒的な勝利者となるのです」。ですから、信仰を隠してはいけません。主を恥じるようなことはしないことです。我々は、全身を「主イエス・キリスト」の御名で覆われているのです。それが誇りなのです。ですから、クリスチャンであることを喜び、勝利者として生きて行くのです。

 

5月3日(水)

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

ローマ8:1

 

ありがたいことですね。この聖句は、覚えていたいでものです。なぜなら、私たちが以前は罪人であったために、滅びが決まっていたのです。黙示録に預言されているように、火の池に悪魔もろとも投げ込まれてしまうのです。ところが、私たちに福音を伝える者が現れたのです。そして、神様の召に応えて悔い改め、洗礼を受けました。キリストの命の代価で私たちは買い取られたのです。ですから、私たちはキリストのものなのです。そこで私たちはどうなったのでしょう。今日の聖句にある通りです。「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」。あなたが何をしたかではなく、イエス・キリストが何をしたかが私たちの救いとなったのです。それほどのことを理解して信じたので、その信仰を神様がよしとされ、義と認められました。ですから、あなたは実感がなくとも、人間が味わうことのできる最高の救いの喜びを得ているのです。それなのに、人間の不思議ですが、過去に縛られ、後悔していることや失敗したことを何度も思い出して、意味のないことだからやめればいいのに、取り止めもなく嫌なことを思い出すのです。私たちは、キリストの十字架の意味を知っているのです。永遠の命を与えられることも知っています。天に宝を積むことも教えられています。それなのに、何の意味もない後悔や、心の痛みの原因を思い出して、あれこれ考えてしまうのです。人ごとであれば、馬鹿馬鹿しいことはやめなさい、と言えるのに、自分の番が来れば律儀にその愚かな工程を繰り返すのです。これは罪人に戻ろうとしているとしか思えません。私たちは一体どうしたいのでしょう。まるで、今日の聖句を無視しているようではないですか。罪とは縁が切れているのです。キリストに罪から自由にしていただいたのです。もう罪の奴隷ではないのです。キリストに買い取られたのですから、キリストの奴隷なのです。ですから、自分に仕えることをやめて、イエス様に仕えるべきです。自分を喜ばすのではなく、イエス様を喜ばせようとするのです。そうすれば、あなたは「キリスト・イエスにある者」となります。その結果、罪に定められることは決してありません。もうつまらないことで自意識過剰になることもないし、自分にこだわらないで自由になれます。

 

5月4日(木)

主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。

エレミヤ17:7、8

 

人生は考え一つで、良くも悪くもなります。その考えがふらふらし定まらないとろくなことになりません。昔は、時の流れも遅く、年長者の誰かが正しい考えを教え、周りの者も同じように流れに身を任せていれば何とかなったものです。しかし、現代はそうも行きません。次々に新しいことが押し寄せて、人生の長さなど何の自慢にもならなくなりました。アナログ人間などと新たな時代の波に乗れない人を指すような言葉も生まれました。それほど、どんどんスピードが増して行くようで、それについていけない若い人たちはレトロが好き、と昭和のアナログ感が良いようです。そんな人たちを嘲笑うように、新たな知識が増し、AIやロボットに仕事が奪われると言われてきたことが本当に実現してきているのも事実なのです。さらに、地球温暖化が止まることなく深刻さだけが増しています。ひと昔前ならば、「すわ!再臨だ」と騒いでいましたが、それが未来予測の正確さが増して、簡単に言えなくなってきました。律法主義者のようなクリスチャンはいつの時代でもいるものですが、情報化社会では多様な価値観に触れるので極端な人は出にくいと思われていました。しかし、実際には経済格差が面倒な民主主義よりも独裁者の方が良いと選ぶ人が増え、強大になったカルトも権力志向から政治に触手を伸ばしてその恐ろしさをさらけ出しました。そのような世の流れには、クリスチャンも影響されてしまうのです。いわゆる、ブレる信仰では、何の役にも立ちません。では、どこに私たちの模範があるかといえば、今日の聖書箇所に、そして詩篇1篇にも同じように書かれています。世の中のどのような変化にも影響されない信仰者、それはこの世の人たちが困っているような状況でも影響されずに、理想のままに主の祝福とお守りを受けて、繁栄し続けるのです。実り豊かな人生だったと感謝の締めくくりをすることができることを聖書はちゃんと教えています。歳を取っても、いつまでも実をみのらせることができることをあなたは約束されているのです。それは、主に信頼し、主を頼みとする者に祝福として、そうなると約束されているからです。

 

5月5日(金)

主は憐れみ深く、正義を行なわれる。

わたしたちの神は情け深い。

哀れな人を守ってくださる主は

弱り果てたわたしを救ってくださる。

わたしの魂よ、再び安らうがよい

主はお前に報いてくださる。

詩篇116:5~7

 

あなたは知っているだろうか。「わたしたちの神は情け深い」ことを。私たちは、良い時も悪い時もあるものだ。一生良かったと言うことはできるが、本当はそうではない。自分のせいばかりではなく、哀れな人となることがあるのだ。しかし、主はそんな哀れな人を見捨てはしない。それどころか守ってくださる。人生を一生懸命に生きていても、必ず成功するわけではない。努力が報われずに、挫折することもある。それでも、生きていかなければならないので、無理をすることになる。無理は続かないので、やがて弱り果ててしまう。そんな私を救ってくださるのが主である。人生で、一度や二度失敗したからといって、それで終わるわけではない。厳しいことを言う人はいくらでもいるが、主は違う。主は、じっとあなたを見ておられる。あなたの気持ちも理解し、あなたが酷い目にあったことも同情してくれる。それだけに、主に従順に生きて行きたい。毎日、主を愛し、主に愛されて生きて行きたい。主が私たちをありのままに受け入れ、愛してくださるのなら、私たちも自分への見方を変えよう。主が受け入れて下さった私自身を、私も受け入れることにしよう。主に救われたのだから、私の魂よ、再び安らうが良い。驚くことに、主はあなたに報いてくださる。

 

 5月6日(土)

上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。哀れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。

ヤコブ3:17、18

 

私たちクリスチャンは、洗礼を受けただけで止まることはありません。いたずらに時間が過ぎて行くわけでもないのです。神様の救済計画は完璧なので、私たちそれぞれをはかり、そのはかりに従って信仰を与え、その信仰をどう使うかを見ています。私たちが肉のままであれば、今日の聖句の前に書かれた通りに、知恵は違った意味になり、「内心ねたみ深く利己的」なままで生きるので、「自慢したり、真理に逆らってうそをついたり」する危険があります。「このような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです」と警告されています。ですから、自分が正常に成長しているのなら、聖霊の導きに従っているので、今日の聖句のようになって行くのです。目の前にこの聖句を貼り出しておきたいぐらいですが、ファリサイ派のように、偽善になっても困ります。しかし、神様が定めた救いの計画なのですから、普通に信仰を働かせていれば、誰にとってもそれほど難しいものではないのです。神様に近づくことを覚え、決して遠ざからないことです。このようにして、神様と愛の関係にとどまるならば、神様との平和を実現できます。このクリスチャンは魅力があるので、人が寄ってきます。そのことが伝道にもつながるのです。皆様はそのように導かれています。ですから、聖霊のお働きを楽しみにして、今日も元気に過ごしましょう。

 

5月7日(日)

主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いを かなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。

詩篇37:3~5

 

クリスチャンとして成功する方法は、今日の聖句を実行することです。主が成し遂げてくださるのなら、どんな困難なことでも可能です。それが、クリスチャンの特権です。ところが、悩みを抱えるクリスチャンは決して少なくないのです。そもそも、善を行えという命令をどのように理解するのだろう。この地上生涯では、誠実を養うことが定められています。簡単なようで難しい課題です。日々、自覚しなければ達成できません。「主をおのれの喜びとせよ」という命令も、一見陳腐に見えるか、スルーしてしまいそうです。この命令を忠実に実行したらどうなるでしょう。あなたの想像を遥かに超えた効果が実感される結果になるでしょう。それは、主があなたの願いをかなえてくださることでわかります。絶対的な効果が期待できるのです。そもそも、あなたは人生を主にゆだねることができますか。これは、主への信頼の問題です。あなたに起こる悩みや問題のたびに、主を信頼するのです。自分勝手に苦しまぎれの一手を打ってはいけません。主に信頼するように主御自信が働かれるのですから、何か問題が起こっているのです。これは、試みのようなものです。その時に、問題が大きくなれば、自分が主にゆだねていないことの証拠です。自分の力ではどうすることもできないところまで問題が大きくなれば、主にゆだねるしか無くなります。そこまでしても、あなたが主を信頼してゆだねることを覚えるように導かれます。そして、聖書に書かれていたとおり、主が成し遂げてくださるのです。この仕組みがわかると、クリスチャン人生はグッと楽になるし、ことごとく成功します。これは、アブラハム・イサク・ヤコブらの族長物語が語っている通りなのです。あなたは、果たしてどうするか、主はご覧になっています。

 

5月8日(月)

あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。

エレミヤ29:12、13

 

神様との関係を正常にするには、どうすればいいのだろう。私たちは、あまり霊的に物事を見ることしていない。それよりも、現実を目に見える通りに捉えようとしている。それは、科学的と言う言葉の通りに、理性的に物事を見て、考えるように訓練されているからだ。しかし、霊感を感じると言うような人がたまにいる。中には、常人では考えられないような体験をしている人もいる。しかし、教会はどちらかといえば倫理宗教化していると言われることがある。つまり、クリスチャンらしく生きようと言うことなのだろう。それが一体何なのかはわからないが、歴史を振り返れば、同じようなことは聖書時代にもあった。もちろん、良いことではない。それは、偶像礼拝が盛んな時代だったからだ。現代も、神様を信じないと公言する人はクリスチャンの数よりも圧倒的に多い。そのわりには、神社で拝むことを喜んでいるように見えるし、お守りもおみくじも大好きなのだから、何だろうと思ってしまう。そのような時代に、今日の聖句を読むと、「求めて歩き」とか「捜し求めるなら」という言葉の意味もわかってくる。神様は今も生きて働き、捜し求める者には、出会いの機会を用意しているのだ。神様が生きて働かれると言うためには、祈ることも必要だが、神様を求めることが最重要で、そのために心を尽くす必要があるのだ。私たちも、生きておられる神様を求めてみよう。見つけることができれば、どうなるのか楽しみだ。

 

5月9日(火)

恐れるな。もはや恥を受けることはないから。うろたえるな、もはや辱められることはないから。若いときの恥を忘れよ。やもめのときの屈辱を再び思い出すな。あなたの造り主があなたの夫となられる。その御名は万軍の主。あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神、全地の神と呼ばれる方。

イザヤ54:4、5

 

罪の恐ろしさは、やがて神との絶縁状態へと進むことです。そもそも神への背信は、イスラエルが体験したように、国を失い、征服者の奴隷になって他国へ捕囚として連れ去られるような辱めを受けることになる。聖書の興味深いことは神はその民を愛し、また愛し返すことを要求している。それは、理想的な夫婦のようなものとして描かれる。愛し、愛されという関係が、裏切られるとそれまでの幸福は一転して不幸となる。それは、若い妻が夫から捨てられるような恥だと表現する。現代の日本とは違い、夫に捨てられた妻は、物乞いにでもならなければ生きていけなかった。それほどの辱めを受けたなら、どれほど苦悩したことだろう。神の恩寵を受けて祝福されながら、偶像を選び、拝んだイスラエルなのだから捨てられてもしょうがないのに、この神は見捨てたままにはしないお方なのだ。彼らが悲しみ、悔い改め、主の名を呼ぶなら、主は彼らを救済すべく連れ戻す神であった。この世界で、唯一生きて働かれる神、その御名は万軍の主と呼ばれる、全地の神と呼ばれる方。この方が、あなたの神である。あなたが過去にどうあろうとも、そこで、たとえ辛い想い出が心を苦しめ続けていたとしても、もはや恐れるな。恥を受けることはないから。うろたえるな、もはや辱められることはないから。もう、全て忘れて思い出すな。なんと、あなたの造り主があなたの夫となられる。これが、クリスチャンになった時に、あなたの起こったことです。このことを認めて、主の言われた通りに信じて生きて行くのです。

 

5月10日(水)

知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。

Ⅰコリント8:1b~3

 

今日の聖句は、大変面白いと思います。ご自身でも良く考えてみましょう。まず、「知識は人を高ぶらせる」ということはどういう意味か、その見本のような人が身近にいるかもしれません。何でも知ったかぶる人も、ここに当てはまるでしょう。パウロが言いたかったことは、偶像にささげた肉を食べるか食べないかという問題が起こっていて、キリスト教に改宗した人が、肉が全て偶像にささげられていたことを知っていたために、肉を食べる時に、良心の弱い者はこれは偶像にささげられているので汚れていると思いながら食べると、汚れたものを故意に食べるという罪が生じるという問題です。偶像の神などいないと知っている強い人は、そんなものに肉をささげたからといって汚れることはないと思っているので、肉を食べても汚れることがありません。ただ、だからといって、わざわざ偶像の神殿で肉を食べるなら、それを弱い人が見たなら、それなら自分も食べても大丈夫だと偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、知識があるので強い人が、その知識で弱い人を滅ぼしてしまうかもしれない。このように、知識は人を高ぶらせるのだとパウロは教えています。それに対して、愛は弱い人のことを思いやり配慮して自制するので、弱い人を造り上げることになるというのです。隣人を愛することは、神の御心です。クリスチャンの場合は、確かに強い人は、何に対しても自由な態度をとる傾向がありますが、たとえ正しいことでも、弱い良心の人のことまで配慮しなければ、その人に罪を犯させる危険があるのです。その自由な態度は、聖書を学んで得た知識に裏づけられているなら、確信を持っているので、周りの人のことを配慮できなくなっている可能性があります。ですから、まず、愛を最初に持ってくることが肝心です。自分は真理を知っているとか、聖書をよく学んで知識があるから、という考えだけでは、失敗する可能性があります。せっかくの知識も、兄弟姉妹の良心を傷つけてしまうかもしれないのです。ですから、愛が優先すべきです。そのために、知識が神を愛するようになる力となることが理想です。神を愛することがクリスチャンの本分なのです。それができる人は、神に知られているのです。

 

5月11日(木)

御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。

ヤコブ1:22

 

クリスチャンになると、必ず聞くことになる御言葉が今日の聖句です。毎日御言葉を読んだり聞くと、難しいと思っていた聖書が、だんだんと理解できるようになります。初めは、聖書の場所もわかっていませんから、礼拝で説教者が聖書の書名と章節を言われた時に、一斉に座席の会衆が聖書を開いてその場所を探しているのを見て、自分も何とか探そうとするのですが、旧約か新約かもわからないのですから間に合わず、説教者はもう次の場所に移って行きます。こんなことをやっているうちに、聖書を開くたびに赤ペンで聖句に線を引いたりするようになりました。そうやって、有名聖句に次々に赤鉛筆の線や欄外に書き込みを入れるようになりました。これは、母から教えられたことですが、母もミッションスクールで教えられたと言っていました。さて、そうやって聖書がだんだん自分のものになってくると俄然楽しくなってきます。そして、訳の違う聖書と比べてみたくなり、新改訳聖書を買って読み比べをしました。神学生の一年生の頃だと思いますが、私の尊敬する先生は新改訳聖書を買ってからあっという間に読破してしまいました。読書力の差ですが、聖書を一生懸命に読むこともこの頃に教わったと思います。新共同訳聖書が発行された時には、東京神学大学の学生で、この大学の教授の多くがこの新しい訳の聖書の翻訳や委員会に関わっておられたので、すぐに口語訳から新共同訳に替えました。ところが、新共同訳聖書を批判する人たちが出てきました。一つは、カトリック教会とプロテスタント教会の共同訳ですから、カトリックの思想が入った聖書だからけしからんといったものでした。次に、翻訳が変わることへの抵抗感が大きかったと思います。それまでの口語訳聖書で沢山の御言葉を暗誦している信者さんにとって、大問題となったのです。口語訳聖書が出版された時も反対者は現れ、「悪魔の聖書」とまで批判されたのです。人間は、変化にいかに弱いかと思わされます。しかし、聖書学の進歩が著しく、その成果を聖書翻訳にも反映させようとすると、数十年おきに新しい聖書の出版が必要になるのです。このような聖書の翻訳問題もありますが、一番は、自分に合った聖書翻訳でできるだけ読むことです。聖書を読めば、必ず悟りのようにわかってきますから、それを心に留めて実践することが大切なのです。実はこの実践の中に、人を造り変え、キリストに似た者とする不思議な力が働くのです。新訳時代の信仰者は、自分用の本になった聖書を持つことはできませんでした。ですから、聖書朗読を真剣に聞き、覚えようとしたのです。私たちは、自分の聖書を持っていますから、恵まれています。そのかわり、読むだけで終わる者になってはいけないのです。御言葉を行う者になりなさい。

 

5月13日(土)

しかし、良い土地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。

ルカ8:15

 

私たちは、クリスチャンになったので正しい、良い心で御言葉を聞くことができます。問題は、聞くだけではいけないということです。都合の良いところは喜び、都合の悪いところは無視する、という読み方は良くありません。御言葉を悟り、それを自分のものとする時に、それを守ろうとします。ところが、それが難しい場合があります。自分の弱点です。当然、悪魔もそこを知って狙って攻撃してくるのですから、守るための戦いが生じます。ここに忍耐があるのです。聖書に聖霊に従えとあるのは、そうでないと肉に従ってしまうからです。肉に従えば、負けが決まってしまいます。そうならないために、よく耐えることが奨励されているのです。その結果、見事実を結ばせることができれば、クリスチャンとしての正常な天国への歩みを確かにすることができます。聖霊の助けと信仰と祈り、それに讃美が必要となってきます。これは、全てのクリスチャンが通る道です。 

 

5月14日(日)

いま私は、あなたがたを神とそのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成しすべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。

使徒20:32

 

聖書の力をクリスチャンは正しく理解する必要があります。神学生になった頃の私は、朝夕の寮の礼拝、授業や集会など、聖書と讃美歌を持ち歩いていました。聖書に力があるとはまだ気がついていませんでした。とにかく、聖書を読んで良いと思ったところに赤線を引いていました。しかし、上には上がいるもので、寮の同室の先輩は、聖書を全て赤線で引いて読んでいたのです。ですから、聖書は真っ赤になっていました。そして、一冊読み終わると、新しい聖書を同じように赤線を引きながら読み始めます。このようにして、その先輩の机には聖書が何冊も並べられていました。聖書を暗唱している先輩もいました。そうした環境は、聖書を特別に考え、聖書を全部理解したいという熱意を生みました。しかし、この聖書が私を育成するとは思っていませんでしたし、ましてや御言葉によって「御国を継がせることができる」とはわかっていませんでした。結局、クリスチャンにとって、自分を育成する御言葉と、内側で命となって御国にふさわしく変えてくださる聖霊とが働き、御国を継がせてくださるのです。それなのに、聖書を読まないのは天国の入り方を知ったのに、あえてその方法を使わないというような者なのです。聖書は難しいという人もいますが、確かに知識としてはそうですが、聖霊が解き明かしてくださる約束があります。ですから、聖霊の解き明かしを求めて祈りながら聖書を開いて行くことになります。まずは、御言葉の楽しみを知ることが私たちの課題です。

 

5月15日(月)

私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

ローマ8:32

 

私たちは聖書を神の言葉として信じています。ですから、聖書に書かれた約束は大切です。今日の聖句もその一つです。ところが、これほど大きな恵みが信じられていないようです。イエス・キリストが十字架にかかったことを信じているのがクリスチャンですから、当然十字架で御子が死なれたのは私たちの罪の贖いのためであると模範解答ができるはずです。それなのに、今日の聖句の後半部分は信じていないのでしょうか。「どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」と書かれた部分です。ここに書かれている通りに信じているなら、すべてのものを恵んでいただいているわけす。お金に困っている、とか何かが無くて困っているということは普通なら起こらないはずです。必要なものは恵んでいただけると信じていることが肝心です。信仰が小さいからという人でも、小さなことから主の恵みを味わうべきです。あなたが生きて行く上で必要なすべてが主からくるのです。それも恵みとしてくるのですから感謝が溢れてきます。主のために生きたいと思うようになります。 

 

5月16日(火)

わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。

フィリピ4:13

 

別の訳ではこうです。「力を与えてくださる、キリストによって、私は何事でもすることができる」。さて、この聖句を読んであなたはどう思われるでしょうか。私たちは、時々、「できない」と弱音を吐くことがあります。しかし、今日の聖句を読めば、おかしなことです。「わたしにはすべてが可能です」「私は何事でもすることができる」と聖書に書いてあるからです。この気持ちのギャップが問題なのです。例えば、歳を取ってくると、何でもすることがおっくうになって、消極的になりやすいのですが、100歳時代になると、元気で長生きしている人たちは、医者でも何でもできるとばかりに、現役を続けていて周りを驚かせています。人はそれぞれですが、私たちには素晴らしい秘密があります。それは、私たちを強めてくださり、力を与えてくださるキリストがいるということです。そのおかげで、私たちにはすべてが可能なのです。ですから、信仰のない人のように消極的になる必要はありません。ただ、「キリストによって、私は何事でもすることができる」という信仰を持っていることが肝心なのです。神様は、私が歳を取ったからと怠けようとすると課題を与えてくださるので、キリストによって何でもできると気力を振り絞って挑戦しています。そのおかげで未だ向上心がありますので、楽しく過ごせます。皆様も自分のモットーとして、今日の聖句を覚えて欲しいと思います。

 

5月17日(水)

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

Ⅰヨハネ4:9、10

 

キリスト教とは何かといえば、今日の聖句に書かれたことにつきます。ですから、クリスチャンは、今日の聖句を覚えて言えるようにするといいのです。私たちが救われたのは、実に神の愛によるのです。ですから、神の愛に応えて、私たちも神を愛しています。それだけで、私たちは天国まで行けます。しかし、この愛から外れて行けば、到底天国に近寄ることもできません。私たちは、相手の態度しだいで自分の態度を決めるところがあります。ですから、親切にされるとその人にも親切にしたくなるし、意地悪をされれば、その人に意地悪を仕返したくなるのです。親切にする人は天国へ行けそうですね。でも、意地悪をする人は天国へ行けなさそうです。このように、天国へ入れる人は愛する人なのです。そのために、神は人を愛してくださったのです。まだ、罪人だったのにです。そして、その愛は御子の犠牲によって表されました。そうなると、私たちはイエスの十字架の意味を知ろうとするはずです。そこに、神の愛があることを悟りたいのです。圧倒的な愛を受けたなら、知らん顔をしているわけにはいかなくなります。私たちがまだ罪人であったのに、神は愛してくださったのです。罪を罰することもできたのに、私たちを惜しんで滅ぼさずに、救うために私たちの罪の罰をご自分の御子に身代わりに負わせたのです。ここに愛があります。この愛を明瞭に知り、受け止めることができれば、私たちも主のために生きようと決心するでしょう。神を愛し、主の犠牲に報いて生きたいと思うはずです。それが、クリスチャンの生き方なのです。この世のうわついた愛とは全く違います。主の愛は、私たちがもはや自分のために生きることをさせない力があるのです。自分を捨て、自分の十字架を負ってキリストに従って行くのです。神の愛は、そうさせる力なのです。

 

5月18日(木)

あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばして聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」 祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。

使徒言行録4:29~31

 

この聖句は、初代教会の様子を大胆に描写しています。はじまりのキリスト教会は、伝道の熱意に燃えていました。しかし、今とは違って、迷信深い世界ですから、人間の常識を越える不思議な業は、現代よりもたくさん起こりました。聖書時代に限らず、いつの時代でも病気が癒やされることはワクワクします。しかし、聖書時代だからこそ、癒しが起こったのであって、現代は癒しは起こらないと公言する人もいるのです。本当でしょうか。私も癒しの奇跡は何度も見てきました。イエスの御名によって病気が癒やされるのです。ところが、現代人は癒しを信じきれないようです。その理由は、今日の聖句にも出ている通り、「皆、聖霊に満たされて」いなかったからとは言えないでしょうか。聖霊に満たされたなら、必要に応じてイエスの御名によって不思議な業やしるしと不思議な業が行わるのです。もちろん、「思い切って大胆に御言葉を語ること」もできるのです。このようなことが実際に起こることをリバイバルと呼んでいました。そして、教会はリバイバルを今でも求めているのです。私たちも、まず個人的に聖霊に満たされるように祈り続けることはとても大切です。そして、ぜひ、聖霊に満たしていただき、神様の愛に包まれていただきたいと思います。

 

5月19日(金)

どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。

コロサイ1:9、10

 

クリスチャンの歩みとはどのようなものでしょう。世界中にクリスチャンはたくさんいます。豊かな国にも、貧しい国にもクリスチャンはいます。他の宗教が優勢で、あるいは政治的理由でキリスト教を弾圧する国で迫害されてもキリスト教徒であろうと頑張っている人も少なくありません。2000年の歴史の中でキリスト教は西洋を中心に世界宗教として続いてきました。その時代その時代に、クリスチャンは信仰を守って生きてきました。今は、私たちの番です。今日の聖句を読むと、クリスチャンであるだけではなく、霊的な成長が期待されていることがわかります。「神の御心に関する真の知識に満たされ」、「主の御心にかなった歩みをし」、「あらゆる点で主によろこばれ」、あらゆる善行のうちに実を結び」、「神を知る知識を増し加えられる」ようにと、要点がまとめられています。これらが私たちの課題なのです。改めて確かめると、もう私には無理だと思っている人もいるかもしれません。よく、「自分の力で頑張ろうとするから、すぐにできないというのですよ」と言った言い方で慰められることがあります。そうした人は、キリスト教のことがわかっていないのです。聖なる生活は確かに求められているでしょうが、肉に力では到底達成できないことなのです。聖書もそこは明確にしていて、今日の聖句でも、初めを見ると「あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって」と前提が書かれているのです。もし努力しようと思ったのなら、この部分に注目すべきです。「肉的な(人間の力)」とは書かれていないのです。そうではなく、「霊的な」と書かれていることに注目してください。つまり、信じて救われたあなたをキリストは清めて、天の父に頼んで聖霊を信じたあなたに遣わされたのです。その聖霊が働いてくださると「霊的な」が出てきるのです。つまり、あなたの新しい命となってくださっている聖霊によって、生かされているなら、「霊的な知恵と理解力」が出てくるので、聖なる生活が可能となるということです。そのような生き方は信仰によって実現できます。つまり、自分の内に聖霊が生きていると信じていれば、ということです。聖霊の恵みを味わいましょう。

 

5月20日(土)

神に従う人の結ぶ実は命の木となる。

知恵ある人は多くの魂をとらえる。

箴言11:30

 

ここに出てくる「命の木」はエデンの園に置かれていた命の木とは違うものです。ここでは、「神に従う人」は文字通りに神を信じて義とされた人のことです。つまり、今日のクリスチャンですね。彼らは、信仰によって主の道を歩む限り、義の報いとして命をを得るのです。その命とは、幸福のことです。ですから、イエス・キリストを信じて信仰生活を送るなら、その人は幸福になるということです。下句は、ヘブル語では「賢い人」なので賢明な人は多くの人とうまくやれるというような意味になると思います。信仰があって賢い人は、うわべだけの人間関係ではなく、人間の魂に触れるような良い関係を築くので、家族のような、いやそれ以上の深い愛の関係を多くの人との間に築くことができるというのです。クリスチャンは馬鹿正直に生きるので、損ばかりだという人は、思い違いをしているのです。私たちは、全的に神に従っています。それが真実なら、幸福に生きられるようになります。そして、命の木を生み出したように天国へ入ることができるように、品性を整え、聖書の思想に一致する精神を鍛え、ただ滅んでいく古い人を脱ぎ捨てて、聖霊が新しい命となってくださった通りに新しい人として信仰によって生きる者となるのです。それはキリストに似た者と成ると言われてきた通りです。聖書の教えを守り、古い肉の人が消え、へりくだった信仰の人になって行きます。そうすると、出会う人の魂の声が聞こえるように成るのです。口から出る言葉とは裏腹に、魂の声は真実を語ります。その人のために執り成して祈るでしょうし、聖霊が自分を通してその人の魂に語りかけます。クリスチャンの有用性は計り知れません。主の御用をいつでも務めることができるのです。

 

5月21日(日)

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけてくださるからです。

Ⅰペトロ5:7

 

それにしても、人間は何でも悩みにしてしまう天才です。神様を信じていると公言している人でも、些細なことでもすぐに悩み始めてしまいます。クリスチャンは、思い煩ってはいけませんと教えられています。それなのに、自分の番になれば思い煩ってしまうことが多々あるのです。そのほとんどが大したことがない問題ばかりなのです。聖書の読者なら、イエス様のお言葉でも、この世の常識に合わないことをお語りになっていると思ったことがあるでしょう。例えば、貧しい者は幸いだというようなものは、どうしてそう成るのと首をかしげることになる。しかし、貧しい者は何も持っていないので、誘惑に合わずにすみ、天国に入れば、報いとして多くの必要な物がことごとく与えられる。それは永遠の御国なので、どれもこれも永遠に耐えることができるお宝なのです。この地上のものは、どんなものでも時間に耐えられず、朽ちていくものでしかないのです。それに、クリスチャンは、神様が心配してくださるので、誰よりも心強いのです。人間にはできなくとも神にできないことは無い。そうお語りになる神様を信じているのですから、最善を尽くして、あとは主にお任せで良いのですから、これが年を取るまで続きますが、それだけ、信仰で生きることが難しいのでしょう。ただ、神様はあなたのことを心にかけていてくださることを覚えてください。これ以上の頼もしい存在はありません。あなたの人生は、たいへん恵まれたものとなります。

 

5月22日(月)

彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。

詩篇91:14、15

 

信仰者は、神様にとって特別であることがわかります。ここには、密接な関係が存在します。神様は「信仰者が私を愛しているから」と言います。私たちは、どうでしょうか。神様を愛していると言えるなら、それこそが、あなたが神様にとって特別である証拠です。神様の報いは、「私はあなたを助け出そう」です。あなたは、神々と言われる存在が数多いるのに、唯一の神様を信じて、しかもその名を知っているのです。名を知るとは、目の前にいる人を知るように知ることです。そこには、愛の関係があって、愛し愛されという関係が存在します。それゆえに、神様は「あなたを高く上げよう」と言うのです。あなたはよく祈り、その祈りは声に出そうと、声には出さずに心の中で祈ったとしても、主は全て聞き届けます。あなたが主を呼び求めれば、主が自らあなたに答えてくださるのです。もし、あなたが病に倒れ、一人苦しみの中にいたとしても、主はあなたと共にいて、あなたを救って癒やされるのです。主は、あなたに誉れを与えてくださるでしょう。あなたが信じた主は、このようにあなたに報いてくださいます。

 

5月23日(火)

神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。

Ⅱテモテ1:7

 

クリスチャンの正しい認識がよく理解していない方がいます。今日の聖句をよく見てください。この御言葉を信じますか。クリスチャンはイエス・キリストを信じ、聖書を神の御言葉と信じています。ですから、聖書の約束はことごとく信じた人の上に実現しています。そして、神様は誠実に約束を実行してくださるのです。そうすると、時々、私たちは矛盾してしまいます。つまり、恐れたり、不安になったり、自分には力がないと弱音をはいたり、自分には愛が無いと言い出したり、まさに思慮分別が無い人のようになることがあるのです。でも、よく考えてください。聖書は明確に書いてあるではありませんか。あなたが人を怖がるはずはないのです。おくびょうの霊をいただいたのではありません。全く逆です。この世で何をしても成功するように神様の霊をいただいたのです。そのような人にこの世のどんな人もかなうわけがありません。ですから、堂々と生きていけばいいのです。今日の聖句を自分が納得するまで言い聞かせます。すぐ忘れてしまう人は、毎日、朝の日課にして覚えるのです。すごい力と愛が自分の強みになります。他人を意識し過ぎる人も心配要りません。思慮分別の霊が助けてくださいます。慌てる必要もありません。自分の内に何があっても誰が来ようが、冷静でどうすれば良いのか、何を言えばいいのか、全部最善にできる聖霊が生きて働いてくださいます。ですから、恐れる必要など何もないのです。安心して、楽しく生きることができます。

 

5月24日(水)

主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。

主はわたしの命の砦、わたしは誰の前におののくことがあろう。

詩篇27:1

 

私たちがクリスチャンであるということは、神様の特別な特権をいただいているということです。それなので、クリスチャンになる以前にどのような生活を送っていようが、人生がうまくいっていなかったとしても、すっかり好転するのです。人を恐れるとろくなことにはなりません。ですから、この世で生きるときに堂々と自信を持っていたいのです。でも、多くの人はそれができません。そのために、人生に損をしているのです。たとえ自分を苦しめる人がいたとしても、暗くなる必要はありません。主はわたしの光だからです。わたしは霊的なビジョンが見えるので、目の前の人のために祈ると暗闇に覆われている人に上から光が差し込んでくるのを見ることがあります。あまりの明るさに驚くこともありますが、光の色もその時々で違っています。温かくて淡い暖色が上からゆっくり降りてくる時には、この人を神様が優しく包んで励ましておられるのがわかります。白い光が目をつぶりたくなるような明るさで差し込むこともあります。主が来られたと思う時です。「わたしの救い」ということがよくわかります。これほど、はっきりと御言葉の通りに現れると「わたしは誰を恐れよう」という聖句が本当のことだと確信できます。昔の惨めな自分ではなく、今は神の救いにあずかり、主が「わたしの命の砦」となってくださったのです。主にかなう者など誰もいません。だから、いつまでも弱い自分でいることはおかしなことなのです。人間はちょっとしたことで大きく変われます。自分でも驚くほど強い人に変われます。それは、主がわたしの人生の力となったからです。

 

5月25日(木)

わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。

ローマ12:3

 

私たちの信仰は、実は神が各自に分け与えてくださったものでした。ですから、私の信仰は小さいと言って、自分はクリスチャンとしてダメだと思うのは間違っていることになります。神は私たちがどのような者であるかを創造者なので誰よりもよく知っておられます。その上で、イエス様に探させ恵みで救ってくださったのです。ですから、信仰を私たちにちょうどよく量り与えたわけです。それは、この世の成功者になるためではなく、神の使命を果たすために必要だからです。一つは、聖書に書かれた通りに聖化を果たして再臨に備えること。二つ目に、自分に与えられた霊の賜物を生かして自分の使命を果たすことです。そこに信仰が必要になります。自分の使命が何かわからないという人が多くいると思いますが、それは、自分の使命を考えたことが無いからだと思います。まずは、静まって神に祈って聞くことです。聖霊の導きはすでにあるはずですから、罪人の世界でクリスチャンとして生きていること自体に意味があるのです。そして、人間の常ですが、うまくいくようになるとどうしても自分を過大評価する悪い癖が頭をもたげてきます。悪魔はそのようにそそのかすでしょう。しかし、私たちは聖書から謙遜を学んでいるので、悪魔の誘惑に打ち勝つことができるでしょう。そして、信仰によって生きなければならないように聖霊の指導があるので、信仰が何度も試されて、その分謙遜になっているはずです。自分に神が与えた使命は自分に与えられた信仰の度合いでわかってくるはずです。ただ、信仰は使わなければ、そのままです。日々、神を信頼し、信仰によって大胆に勝利していけば、自ずと信仰は成長します。自分を過大評価すれば高慢になって罪を犯す結果になっていますから、今日の御言葉を忘れずに、信仰の道を歩んでいることを覚えていてください。

 

5月26日(金)

主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。主よ。あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざを捨てないでください。

詩篇138:8

 

あなたには願いがあるかもしれません。その願いは簡単にはかなわない常識的には難しいものかもしれません。でも、あなたはいつもそのことを考えています。天の父なる神様は全てをご存じです。そして、あなたがどうしようとしているのかご覧になっています。さらに、全能者なのであなたの願いをかなえることができます。あなたは今では神様の子供なので、おねだりすれば大抵のことはかなえていただけるのです。しかし、あなたの益にならないこと、それどころかあなたが後悔するようなことは、かなえられません。神様は先を見通すことができるので、結果があなたの益にならないならまずかなえてくださいません。でも、高慢の鼻がへし折られたり、自己中心の考えを砕くためなら、許されることもあるのです。さて、あなたが長くクリスチャンでいるなら、こうしたことも経験から学んでいるはずです。主の御心にかなっていることなら、どんなに難しそうなことでも簡単にできるでしょう。それがあなたの使命なのですが、納得しない人もいます。簡単にできてしまうからです。それでも人間的に考えてもっと人に自慢できることや、自己満足のために願い続けることがあるかもしれません。どうしてもと言えば、かなえていただけるでしょうが、やり遂げることはできなでしょう。そのような遠回りをして、ようやく今日の聖句に辿り着くのです。私たちは、この世の人ではもうないのです。神の国に生きているからです。そこでは、「私に関わるずべ手のことを、主が成し遂げてくださいます」。ですから、何も困ることがありません。聖書に書かれた恵みは、あなたのものです。これは地上の朽ちてしまうものとは違って、永久に耐えるものなのです。ですから、私たちはすでに新しい世に生きているのです。そのことがわかれば、再臨までのわずかな期間を主に信頼して恵みの中を歩んで行けるのです。聖書に書かれた主の恵みを信じましょう。

 

5月27日(土)

愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。

ヤコブ1:19、20

 

早い、遅い、正反対です。この二つを間違って使っては大変です。人の話をよく聞かず、自分の話はすぐに口を開きやめない、すぐに怒る、こんな人は嫌われます。しかし、誰でも、自分の話を聞いてほしいのです。ただ、人の話を聞くのは苦手です、という人も当たり障りのない話はできますが、基本的に人の噂話や悪口であったりとネガティブな話が多いのです。もしあなたが人に好かれたいと思っているのなら、聞くに早い人になることを心がけ、語るには遅くをモットーにすることです。間違ってもすぐに怒ってはいけません。感情を爆発させて怒ると収拾がつきません。後で、嫌な思いと自己嫌悪感が心をさいなみます。「覆水盆に返らず」と昔から言われた通り、一旦自分の口から出てしまった言葉は、戻すことができません。不用意な一言で大臣を辞めた人が何人もいます。私たちが怒ったことが正当であったのかどうか、裁かれるとしたらヒア汗ものでしょう。「人の怒りは、神の義を実現するものではありません」とあるように、怒りは損でしかありません。怒るのは当然であったということもあるでしょうが、それでも怒らないでいられたらクリスチャンとして成長したと認められるでしょう。クリスチャンは、こうした問題をどのように考えるのかと言えば、神様が私たち罪人になさったことを考えます。神様が初めに忍耐され、慈悲深く、憐れみ深く、怒ることを遅くされたのです。何しろ、私が救われたのは神の赦し以外にはないのです。何度も聞く御言葉ですが、なかなかこのようにできましたとは言い難い箇所です。信仰の道のりはさらに遠いですね。

 

5月28日(日)

わたしはいつも主に目を注いでいます。

わたしの足を網から引き出してくださる方に。

御顔を向けて、わたしを憐れんでください。

わたしは貧しく、孤独です。

悩む心を解き放ち

痛みからわたしを引き上げてください。

御もとに身を寄せます。

わたしの魂を守り、わたしを助け出し

恥を受けることのないようにしてください。

詩篇25:15~17、20

 

ダビデの詩とされる箇所です。25篇は、信仰者の歩みについて書かれたものなので、誰にでも当てはまります。私たちの信仰の歩みがこうでありたいという詩なのです。そこで、初めに目につくのは、「わたしはいつも主に目を注いています」という信仰告白です。クリスチャンもいつでも主に目を注いでいれば安全ですが、目をそらしてこの世の魅力にとらわれれば危険になります。そこで、クリスチャンの人生には試練があり、困難や孤独そして貧しささえも許されているのです。ところが、こうした経験の中で信仰は確実に増して行きます。「わたしの足を網から引き出してくださる方に」。これも、人が水の中で足を網にからませて抜け出せなくなるイメージですが、人生にもそのようなことが起こり得るのです。家族の問題、お金の問題、仕事の問題、病気の問題、罪の問題、呪いの問題、とあらゆる危険な網が足に絡まって、このままでは溺れ死んでしまうという危機です。主はこの危機から救ってくださったのです。私たちの祈りは当然、主の憐れみを願い、祝福を求めるのです。「わたしは貧しく、孤独です」。人間は、普通では救われたいと思えないのです。そこで、神様はその人の罪を見せることがあります。自分は正しいと思っていたのに、本当は罪人であったと知ることは、辛いことですが救いの第一歩なのです。そして、自分自身のことで「悩む心を解き放ち」完全な解放を与えることができるのもイエス様だけなのです。主のなさったことが聖書に書かれていますが、人の痛みを憐れみ、癒すことができるのもイエス様だけです。そして、主がその人に近づき、お言葉をかけてくださいます。「私に何をして欲しいのか」と。私たちは、その時に素直な心で一生懸命に心の内を語るでしょう。私たちの言葉は、つたないものでしょうが、魂から出てくる真実の言葉です。だから、主は優しく聞き届けてくださるのです。なんと憐れみ深いイエス様なのでしょう。あなたの祈りは主に届き、イエス様の慈しみの中に安らうでしょう。

 

5月29日(月)

ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。

ヨシュア1:7~9

 

聖書の中で勇気ある人物として思い出すのはヨシュアです。人生の中で大変なチャレンジはそうあるものでありません。しかし、ここ一番という勇気を出すべき時があります。そんな時には、ヨシュア記を読んでみると頑張れそうな気になります。確かに、モーセは偉大でしたが、雲の上の存在のように感じるほど、神様と会って直接話せる人だったのですから、自分と比べることはできません。しかし、ヨシュアも偉大でしたが、モーセよりは身近に感じられる勇士です。神様は人をよく見ていて、その人の信仰を量ります。ヨシュアは神様のテストに合格したのです。そして、大変難しいカナン侵入の指揮官になりました。軍隊とは言えない、文句の多い群衆を従えて先住民を追い出して土地を得なければならないのです。先住民がすんなりと出ていくはずもなく、戦いが予想されます。そのことに恐れをなし、ヨシュアにとっては重荷になるだけの人たちを鼓舞して、戦意を高揚させなければなりません。このような大変な仕事を神様に任されたのですから、「強く、大いに雄々しく」あらねばならないのです。ここから、私たちも神様に従って生きているだけではなく、時にはチャレンジがあることを知らなければなりません。その時には、強く雄々しくあらねばなりません。興味深いのは、雄々しくあるだけではなく、律法を忠実に守ことが主によって確認されています。そうすれば「どこに行っても成功する」と約束されています。もし、あなたの心に願いが生じたなら、あなたは祈って確信できたら実行に移すでしょう。その時に、「雄々しくあれ」と「律法を全て忠実に守」ることが成功の秘訣だというのです。その保証は、「あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」と主が約束されているからです。いつも、強く雄々しく、とカッコよく行きたいですね。

 

5月30日(火)

モーセはこの民が勝手なふるまいをしたこと、アロンが彼らに勝手なふるまいをさせて、敵対する者の嘲りの種となったことを見ると、宿営の入り口に立ち、「だれでも主につく者は、わたしのもとに集まれ」と言った。レビの子らが全員彼のもとに集まると、彼らに、「イスラエルの神、主がこう言われる。『おのおの、剣を帯び、宿営を入り口から入り口まで行き巡って、おのおの自分の兄弟、友、隣人を殺せ』」と命じた。レビの子らは、モーセの命じたとおりに行った。その日、民のうちで倒れた者はおよそ三千人であった。モーセは言った。「おのおの自分の子や兄弟に逆らったから、今日、あなたたちは主の祭司職に任命された。あなたたちは今日、祝福を受ける。」

出エジプト32:25~29

 

今日は、少し長い聖書箇所を読みました。これは、モーセがシナイ山に登っている間に、民がアロンに迫り、金の子牛を造らせた罪の後始末の一つの出来事です。主はモーセとの会話でどのようにお考えであったかが少しわかります。民が犯した恐ろしい大罪に罰を与えなければならない状況です。群集心理のように大勢の民が偶像に心を向けてしまったのですから、本来は全員死刑です。しかし、今日の箇所を読むと、偶像を拝まない人たちがいたのです。それは、レビの子たちでした。残念なことにレビ族全員が偶像礼拝に関わらなかったのではありませんでした。モーセの招集に応じた者たちだけが関わらなかったのでしょう。彼らには、主への絶対的な忠誠心があったのです。そこで、過酷な使命が告げられても、彼らはたとえ親族であっても主に逆らった者を容赦なく殺しました。そこで、モーセは、彼らを祭司職に任命したのです。どうも、このことが契機となって、レビ人がのちに特別な働きを担っていくことになったのです。ここまで読むと、読者の皆様はどう思われるでしょう。厳しすぎると思われますか。偶像礼拝を軽く考えていると裁きの日に後悔することになります。聖書で繰り返し偶像を拝んではならない、と言われているのですから、私たちも注意を払う必要があります。モーセが確かめたのは、主に従うことは絶対で、たとえ親兄弟でも主に背を向けるなら、情け容赦なく殺すことができるかどうか、試したのです。なぜなら、この民は平気で偶像を頼ろうとするからです。さて、金の子牛事件で罰は死刑です。ところが誰が偶像礼拝をしたかどうか、人間には明確にすることができなかったので、主は疫病を送り、それによって悪を行った者を罰したのです。その数は明記されていません。私たちの主を信じる決意は、本当に絶対的なものなのです。どんな苦境に陥り、たとえ不安に苛まれても、決して安易に主以外のものを頼ったり拝んだりしてはいけません。主にのみ仕えよ、です。裁きの日がやがて来ます。その時に慌てても遅いのです。愛と恵みの主以外に、人を贖い救うことはできません。先日、進化論と創造論のお話を聞きましたが、論争が続いていることに、ふと思ったのは、モーセのこの時代には主は、人に良く話しておられるし、その御力も目に見えるように現しておられました。しかし、現代は、そのようなこともなく、クリスチャンでも神様と話したことが無いと思っている人が多いのです。霊の現れもほとんどなく、奇跡も見ることがなく、ただ、不信仰だからと言われて続けています。もし、モーセの時代のように今も主が御臨在を現し、預言者を通してでもいいので、直接私たちにお語りになれば良いのにと思ってしまいます。AIが人間にとって変わりそうな時代に、主はますますわきにおかれてしまうのでは無いかと、心配になりますが、これが再臨の近づきを教えているのでしょう。願わくば、最後まで主に忠実な者であったと呼ばれたいと思います。

 

5月31日(水)

銀よりもむしろ、わたしの諭しを受け入れ

精選された金よりも、知識を受け入れよ。

知恵は真珠にまさり

どのような財宝も比べることはできない。

箴言8:10

 

人間は初めの創造で選択できる者とされました。ですから、エデンの園でエバはヘビに誘惑された時に神の禁じたことを破る選択をしてしまったのです。選択できるということは、自由な意志が与えられていたということですから、人間は今も選択し続けているわけです。しかし、選択の難しさは、間違いたくない、失敗したくない、損したくない、という自分の思いに気づかせます。それでも、知識がなければ、そして知恵がなければ、失敗の可能性が高まります。何しろ、人間には肉があるからです。肉に付随しているのが欲です。この欲があるので悪魔は誘惑してくるのです。そして、ヤコブ書に書かれた通り、「むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(1:14、15)。肉は、土です。土で人間を造ったからです。そのようなものなので、肉は知識とか知恵といった精神性のものとは異質のものです。人間の悩みを見ていると、肉の欲に関係するものばかりです。選び抜かれた純金と知識ではどちらを選びますか、と言われて迷う人はそういないでしょう。皆、高価な純金を選ぶはずです。これが肉で生きている肉の人の姿です。しかし、新約聖書を読むと、「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです」(ローマ8:5~7)。とあります。肉の人とは生まれたままの自然の人のことです。「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです」Ⅰコリント2:14)。このように、肉の問題が人間を罪に縛って苦しめているのです。しかし、神の救済は、アダムを創造した時に、霊を吹き込んで生かしたように、罪によって死んだ人間をキリストの贖いによって清め、再度霊を与えて霊の人を創造したのです。それがクリスチャンです。今日の知識とか知恵も肉では理解できないものです。聖書の中に知識と知恵があるのですが、聖霊の助けなしにはそれを悟って自分のものとすることができないのです。これは、聖霊の賜物以上のものです。この地上生涯を失敗せずに、天国へ入る準備を整えていく上で必要なものです。こうして、正しい選択ができる者となりたいのです。