2023年6月ディボーション

6月1日(木)

主を畏れて身を低くすれば

富も名誉も命も従って来る。

箴言22:4

 

人と自分を比べてしまうのは人の常です。それでも、特定のある人に自分がどうやってもかなわないと分かると、心が傷つくことがあります。他の人から見ればバカバカしいこととしか見えなくても、自分にとっては無視できない悔しいことなのです。例えば、中学校では自分は一番足が速いと自慢だったのに、高校に入ってみると自分よりも体力が上で、競争してみると簡単に負けてしまう。それが悔しくて忘れられない。ところが、そのライバルと思っていて相手が全国大会に出場して好成績を残した、となると、ライバルどころか雲の上の人だったと分かるのです。それなのに、その人に負けたことで自尊心が傷ついて、いつまでもこだわっていたのです。このようなことが私たちの生活の中で簡単に起こるのです。これは自分の中の虚栄心がいかに大きいかを表しているのです。どうすれば、自分の中の虚栄心を無くせるか、これこそが人生を楽に生きることができるどうかを決めるのです。聖書を探ってみると、今日の聖句に「主を畏れて身を低くすれば」とありました。自分が他人よりも上に見られたいという思いは誰にでもあります。だから努力することすらあります。しかし、報われることはありません。それよりも、聖書に書かれた通り、主を畏れて身を低くできれば、自分の思いが変わります。人から侮られないように去勢を張っている人も、そんな疲れることをしなくていいのです。神様が認めてくだされば、それ以上のことはありません。人間は神様のように人を正しく見極めることができないのです。人の真価は神様しかわかりません。その神様と出会ったのであれば、もう自分が他人からどう見られているかなどどうでもいいのです。そうなって、初めて虚栄心からも解放されます。神様が初めに愛してくださったのですから、自分には大きな価値があるのです。自分の価値を他人に認めさせようとすれば、とんでもない労力が入ります。全く無駄な労力です。そのようなことに関わっていれば、人生に必要な富も名誉も命もそこなってしまいます。それよりも、主の御前にいる自分を考えてみれば、畏れて身を低くするしか無いのです。その状態が実は良い状態なのです。人間には左右されませんから、人間関係で悩むこともありません。虚栄心は癌みたいなもので、自分の内にあってはならない異物なのです。人間の心は不思議なもので、何が自分にとって正しいかも判断できないのです。ですから、主を信じる信仰が助けとなるのです。それは、今日の聖句にも現れています。

 

6月2日(金)

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

ヨハネ15:5

 

キリストとつながっていることが大事です。あなたの信仰によってキリストといつもつながっていれば、キリストもあなたにつながっておられるます。それは、豊かに実を結ぶためです。それがあなたがクリスチャンになった理由です。これほど、恵まれたことはありません。あなたが豊かに実を結ぶために、農夫である天の父が手入れをなさってくださいます。ですから、クリスチャン人生はあなたが勝手に生きているのではありません。あなたの人生に色々なことが起こって行くたびに、あなたは困って祈り、心配して祈り、どうすれば良いのかわからずに祈るのです。その度に、天の父は祈りを聞き、あなたの益になるよう働いてくださいます。そのような経験があなたを成長させ、天国へ入る準備をしているのです。あなたには豊かに実を結ぶという使命があります。あなたは一人では実を結ぶことはできません。キリストとつながっていることが実を結ぶ条件になっています。あなたが信仰の日々を過ごすことによってキリストと結ばれていることを理解することが肝心です。そして、さらに重要なことはキリストの御言葉があなたの内にあるかどうかが問われています。ですから、少なくとも福音書を開き、イエスの御言葉を見つけて読んでいましょう。そして、「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え」てくださいます。あなたは主を愛していますから、その愛の力を知る時がきます。何も心配することはありません。イエスのお語りになった通りになるのですから、イエスを信じていましょう。きっと、万軍の天使を従えてあなたを迎えにきてくださいます。ですから、主を待望していましょう。

 

6月3日(土)

神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連らせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。

Ⅱコリント2:14

 

私たちはクリスチャンです。それがどんなに素晴らしいことか、あまり実感していない人が多いかもしれません。しかし、私たちはキリストの勝利の行進に連らせていただいているのです。この世には、人間を苦しめるものがあって避けることができません。どんなに一生懸命に生きても、苦労しないで済む保証もありません。辛いことに遭うこともあるし、願ってもかなえられないで苦しい苦しいということだってあるのです。ところが、私たちはそうした人間の世の死に定められた人生からキリストによって救い出されたのです。キリストは罪に勝利し、死に勝利し、悪魔に勝利しました。罪の呪いから解放され、自由にされたのです。そして、信じた者を天国に連れ帰るために迎えに来られるのです。キリストは勝利されたのです。その勝利の行進に信じた者が加えられて行くのです。主の救いは完全です。私たちはキリストに救われたことを信じただけです。この人生は、それで変わりました。敗北することなど無いのです。勝利の行進は力に満ちています。ですから、あなたが経験すべきは勝利のみです。

 

6月4日(日)

そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」

黙示録12:10、11

 

忠実という言葉がクリスチャンにとってはとても大切であることを知らなければなりません。死に至るまで主に忠実な者であることがクリスチャンの誉れとなります。私たちは、幸いにもイエス・キリストと出会い、信仰を与えられ、洗礼を受け、クリスチャンと呼ばれる者になりました。それは、善悪の大争闘、神と悪魔の霊的戦いに全ても者が巻き込まれていて、霊的戦いが日々続いていることを知ったのです。敵は、サタンとその軍勢です。悪魔は私たちを誘惑して罪を犯させ、それを神の御前で訴えるのです。それに対して、クリスチャンは信仰で対抗しようとしたのです。イエス・キリストを信じる信仰こそが最大の防御であり最大の攻撃となりました。私たちの足りなさは、主の鍛錬によって鍛えられ、忍耐を身につけて行きました。誘惑する者にとっては手強い者になりました。しかし、神は時を定め、神ご自身も忍耐して一人でも多くの魂が救われるように時を伸ばして来ましたが、ついに、時満ちて裁きの時が来るのです。その時、聖徒たちを告発する者が投げ落とされたのです。クリスチャンたちは、小羊の血と自分たちの証の言葉のゆえに敵に打ち勝ったのです。彼らの名誉は、「死に至るまでも命を惜しまなかった」ことにあります。彼らには天国での大きな報いがあるのです。ヨハネが見て聞いた終末の出来事は、このように成就するのです。その時は間もなく来るでしょう。その時、主に忠実であることが私たちの願いなのです。

 

6月5日(月)

再び心を励まし、なお待ち望む。

主の慈しみは決して絶えない。

それは朝ごとに新たになる。

「あなたの真実はそれほど深い。

主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い

わたしは主を待ち望む。

哀歌3:21~24

 

私たちは、自分が罪人であることがわかって、イエス様を信じて救っていただいた者です。洗礼を受けて、クリスチャンとして生きて来ました。しかし、未だこの世に生きていて、この世の人が味わう苦しみも試練も味わって来ました。自分が何ほどのものかよくわかりました。主の慈しみがなければ、決して天国へ入ることはできないでしょう。しかし、ありがたいことに、「主の慈しみは決して絶えない」のです。朝が来れば、また新しくなるのです。私たちは、自分の深いところにある魂に主の真実が届いているのです。信心の道を容易く考えている人もいますが、それほど甘くはありません。その人に応じて、時に厳しく、時に優しく、主は接してくださいます。主は私たちを救うと決心されているのですから、私たちこそ真剣に主の道を極め、主を待ち望むのです。あなたの受ける天の報いは大きいのです。信仰を持って主を待ち望みましょう。

 

6月6日(火)

主に望みをおき尋ね求める魂に

主は幸いをお与えになる。

主の救いを黙して待てば、幸いを得る。

若いときに軛を負った人は、幸いを得る。

哀歌3:25~27

 

「幸い」が三度続けて出てきます。もちろん、幸いは良い意味なので、私たちは注意を向ける箇所です。主がお与えになる幸いです。ですから、人間的に何か得するといった単純なものではありません。ギリギリまで耐えて、そこで与えられるようなものです。基本は、初めに書かれています。「主に望みをおき尋ね求める魂に、主は幸いをお与えになる」。どんな時に、このようになるのでしょう。順境の時のことではありません。むしろ、人生最大のピンチと言いたくなるような災厄に襲われた時に、出てくる信仰者の態度です。自分の罪のせいか、それとも逆に自分には落ち度がなかったのに突然襲った災難だったのか、あるいは病気になったり、失業したり、大切な人と死別したり、深く傷つけられた時かもしれません。誰にも頼ることができずに、自分の力でもどうすることもできずに、追い詰められたような時です。哀歌では戦禍に見舞われ、エルサレム神殿まで破壊され、栄光がイスラエルから去りました。生き残った者も飢えに苦しみ、絶望した時のことです。このまま悲観し、酷い死を迎えるのをただ待つのか。それともなぜこうなったのか考え、イスラエルの罪、自分の罪を悔い改め、ただ主に望みをおき、廃墟となった所で主を尋ね求めるのですが、それは、自分の最も深いところにある魂がそうするのです。不思議なことに、主は罪のために裁いても、憐れみは消えず、魂の声をちゃんと聞いておられるのです。そして、主はその人に幸いをお与えになるのです。私たちは、人生で同じように理不尽と思えるひどい境遇に落とされることがあるかもしれません。その時に、信仰があるかないかがはっきりします。自己憐憫に陥る人は、神を知りません。しかし、主の救いに望みをかけて、黙って待つ人がいるのです。その信仰に主は幸いをお与えになるのです。「若い時に軛を負った人」とあるように、生まれてから幼いうちに辛い目に遭う人もいます。人生の始りにすでにハンディキャップを負わされる人もあります。この世では、ひどいことが何でもあるのです。まだ未熟な青年が普通の人たちが考えるような進路を選べずに、希望を砕かれるようなこともあります。でも、そのような暗闇に光が来たのです。それが主イエス・キリストです。どんなひどいことが人を苦しめていても、必ず主は、探し出し、救い出してくださいます。その救いを受けることは、ただ恵みによるのです。主を信じましょう。この三つを覚えておけば、私たちは幸いを得るのです。

 

6月7日(水)

わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。

詩篇32:8

 

あなたはこれからのことを考えてどうしよう、と迷うことはありませんか。あまり考え過ぎれば、悩みにもなります。そんな行くべき道を決められないという時に、クリスチャンは神様にお祈りします。しかし、それでもなかなか道をきめかねることもあるのです。それは、自分の願望と正しい道が一致していない時です。あれこれ考え、こうだったらいいな、ああだったらいいな、と自分の考える道があるのですが、それには、何かしら問題が見えてくるのです。それを無視してもいいのですが、祈って決めたいと思えば、自分の願い通りにとの思いはかなわなくなくなります。そもそも、主は自由に選ばせてくださるのです。ただ、当たり前ですが、主の御心にかなわないことは道が開けるどころか、閉ざされて行きます。そんな時に、今日の御言葉は神様はちゃんとお答えになること、それも「悟りを与え、行くべき道を教えよう」とまでおっしゃったのです。それでも足りないと思われたのか、「目お留めて、助言を与えよう」とまで約束されました。ですから、これを信じて、主に道を尋ねればいいのです。良い結果が期待できます。

 

6月8日(木)

あなたの僕らが御業を仰ぎ

子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。

わたしたちの神、主の喜びが

わたしたちの上にありますように。

わたしたちの手の働きを

わたしたちのために確かなものとし

わたしたちの手の働きを

どうか確かなものにしてください。

詩篇9016、17

 

詩篇90篇はお葬式でも使う箇所です。そこには、「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ」(1節)と書き出します。どんな意味があるでしょう。クリスチャンにとっても大切なことですが、あまり真剣には考えられていないかもしれません。それというのも、信条を大切にする教派に属していなかったからです。例えば、「ハイデルベルグ信仰問答」を開くと、「問一 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」とあり、「答 わたしがわたし自身にものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」と答えています。教師と生徒は、ここから意味を考えて行くのです。結局、ここではイエス・キリストとのつながりを考えているのです。そして、今日の詩篇も初めに主に宿ると言っています。私たちがクリスチャンであるとするならば、イエス・キリストと特別な関係の中にあるのです。それは、生きている時も死ぬ時もイエス様に支えられていることです。私たちは、生きている時も死ぬ時もイエス様に頼っているのです。それは、生きている時も死ぬ時も、私たちに忠実なお方はイエス様だけだからです。イエス様を信じるというのは、イエス様が私が生きるときの勇気となっていること、死ぬ時に確信できることなのです。私たちは、主の御業を見ることができます。私たちは主の威光を仰ぎたいのです。いつでも、主の喜びがわたしたちの上にあるように願い、私たちがちゃんと生きていけますようにと祈るのです。主が遠ければ、この世の人と変わりありません。しかし、私たちは主を信じています。それは主が私たちの宿るところであるという意味です。あの使徒たちのように、私たちもイエス様にお従いして旅路を進みたいのです。

 

6月9日(金)

天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。

エフェソ1:4、5

 

私たちは、聖書から人間の知らない創造前の重要な出来事を知ることができます。それが今日の聖句です。この記録によれば、この世界が造られる前に、キリストにおいて神の選びにあずかったことを告げています。ありがたいことに、神は私たちを愛してくださったのです。さらに、神は、私たちを主の前に聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいて選ばれたというのです。「キリストにおいて」というのは、キリストが私たちを聖なる者、汚れのない者にするということです。それだけではなく、あなたを「神の子」にしようと前もってお定めになったのです。もちろん、キリストによってです。ですから、罪人であった私たちをキリストが罪の贖いと清めをされ、聖なる者にされるのです。そして、それは天地創造前にキリストにおいてお選びになったからだというのです。それは、究極的には神の子にしようと神が決められたということです。しかし、土塊に過ぎない者を、神の子にするということには、相当の難しさがあるはずです。ですから、人間が律法を遵守して良い行いで聖なる者になろうとしてもできるはずがないのです。キリスト抜きには決してできないことなのです。しかし、神の不思議は、あなたが救われたのは、偶然ではなく、はるか昔に、天地がまだ創造される以前に、選ばれていたのです。それは、天国に私たちがいたということではありません。全能の神が時間を超越して、あなたを愛し、知っていたということです。ですから、あなたがクリスチャンになったのは、偶然ではありません。神の選びという神秘があって、時満ちてクリスチャンになったのです。それなのに、神の選びを軽んじてはいけません。あなたは聖なる者、汚れのない者にされるのです。神の子はもはや被造物ではありません。あなたは、文字通り神の子になって天国へ入ることになっているのです。ですから、この世に執着するべきはありません。いつでも思いを高く、キリストに向けていることが大切です。聖書に書かれたことは成就します。神の選びを感謝し、書かれた通りになるように信じましょう。

 

6月10日(土)

与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられる。押し入れ、揺り入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。

ルカ6:38

 

この聖句の前は、「人を裁くな。そうすればあなたがたも裁かれない」で始まり、人を罪人だと決めるな、そうすれば罪人だと決められない。赦しなさい、そうすれば赦される。とあって、「量る秤」の意味が明確になるように説明されているのです。この教えは非常に重要な教えです。なぜなら、イエス様が直接教えたからです。まるで、自然科学の法則を聞いているようです。法則なので、必ず同じようになります。ですから、皆さんはこのようの人のようになってはいけません。イエス様の教えにまるで逆らっているようにこの世の人たちは振る舞っているからです。イエス様のお語りになったことを疑ってはいけません。この通りに実行していけば、あなたは奇跡を体験するでしょう。人から裁かれると実に嫌なものですが、他人には平気で裁いてしまうかもしれません。逆に言えば、他人を裁くので、自分も裁かれている、ということも真実なのです。主の救いは人の不安を取り去り、平安に置き換えることです。そして、信仰は主への絶対的な信頼です。ですから、主の教えをちゃんと守るということです。人から酷い目に遭っても赦すと決めておくのです。あなたが良いものを与えるなら、良いものが驚くほどあなたにも与えられるのです。これは、神様が生きている証拠です。今日の箇所は、あなたも知っていると思います。しかし、「自分の量る秤で量り返される」を忘れてしまうことがあるので、注意が必要です。あなたの秤は大丈夫ですか。 

 

6月11日(日)

そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

ローマ5:3~5

 

この世の人たちは考えたこともない真理です。どんな人も、長い人生では時に恵まれない不遇な時があるものです。そこで、大きな試練に会えば、自分ばかりがひどい目にあっていると怒りの感情が湧くかもしれません。決して、それが自分のためになっていることを認められないのです。しかし、クリスチャンは、聖書を学んで信仰によって生きることを決めていますから、今日の聖句も読んで知っています。信仰者の凄さは、「患難さえも喜んでいます」と言えることです。ただ、パウロのように簡単に言える人はどれほどいるものでしょう。多くの人は、自分の番が来れば悲しみ、逃れたいと思うでしょう。しかし、そうすればそうするほど、ひどい結果になって行くのです。これは、クリスチャンが天国へもって行ける唯一のもの、つまり練られた品性を得る方法でもあります。しかし、聖書を読むと、これが最終目的ではありません。さらに、「希望を生み出す」と教えています。弱い人間が強くなる唯一の方法が「希望」なので、患難の中でも希望を持ち続けることが意図されています。忍耐は良く奨励されますので、忍耐は意識することがあるでしょう。そこから得ることのできる練られた品性が、他の方法では得られないので、できるだけ否定的にならずに、信仰を発揮する時であると覚えましょう。そして、「希望は失望に終わることがありません」と書かれているので、これも忘れてはいけません。最後に、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」とあります。この経験がクリスチャンには不可欠なのです。これも私たちへの神様の配慮であり、神様が愛してくださっていることの証拠です。この愛が私たちを愛の人へと変えるのです。今、辛い思いをされている方にも、神様はちゃんと聖書からお語りかけ、希望を与えておられるのです。御言葉を信じましょう。 

 

6月12日(月)

愛するものたち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。

Ⅰヨハネ4:7、8

 

私たちは、今日の御言葉の通りに生きる者です。罪人は自己愛に過ぎず、自分中心にしか愛せないのです。自分が犠牲になるような愛し方はできません。そのような罪人の世界は当然のこと互いに愛し合うことはできません。愛が良いものであると思ってもできません。愛が、条件付きの愛でしかないからです。ギブアンドテイクの愛ということです。しかし、クリスチャンは神に愛されて救われました。愛は神から出るものなので、神に愛された者は神の愛によって愛することができるようになります。実際に、アダムが神の息を吹き込まれて、生きた者となったように、キリストと共に十字架で罪人の自分が死に、もう一度神の息が吹き込まれて、新しい人として生まれたのです。だから、神の息である聖霊がその人に宿っているのです。三位一体の神であるので、聖霊が宿っていれば、神が宿っていることになります。そうであれば、その人は神のように愛することができるのです。だから、愛することが大切になります。愛しているなら、神がその人の内に生きていることになります。そして、隣人を愛して、隣人も愛し返してくるなら、神の創造した人間の姿が復活したことになります。つまり、神に愛されて、神を愛し返し、隣人を愛して、隣人に愛し返される、その隣人も神に愛されて、神を愛し返すのです。これが、神が創造した罪のない人間の姿なのです。ですから、互いに愛し合うことがとても大切なのです。

 

6月13日(火)

民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われら避け所である。

詩篇62:8

 

私たちは、どんなに努力してもうまくいかない時もあります。人間との関わりの中では、自分の思いが通じないこともありますし、相手の本心がわからないで悪い結果になることもあります。このように、人生は変化があり、人との関わりがある限り、良いことも悪いことも起こってくるのです。自分が願っていないことが向こうから起こってくることも避けられないのです。そのような世界で、私たちの希望は神様を知って、信じていることです。それは、どんな時にも、神様を信頼していることが、自分の救いとなっていることです。ですから、神様に隠し事をしても意味がありません。神様を人間のように自分の良いところを見て欲しいと思うことがあっても、最後には心を神様の御前に注ぎ出すのです。ちょうど、小さな子供が向こうから大きな犬が来たり、知らない男の人が近づいてきたら、お父さんやお母さんの背中に隠れているように、困ったこと、恐ろしいことが起これば、私たちは神様の背中に隠れるのです。神様は天のお父さんなので、絶対に守ってくださいます。とてもありがたいことです。神様には信頼していいのです。この信頼できることが私たちの勇気になり、正しく生きる力となるのです。自分が何か過ちを犯したり、不信仰になって神様を悲しませてしまったと背を向けたくなる時すら、神様を信頼できるのです。神様はあなたを可愛い子供として見ておられるからです。ですから、「どんな時にも、神様を信頼せよ」なのです。

 

6月14日(水)

思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。

ガラテヤ6:7、8

 

さて、今日の聖句はどのような意味でしょうか。私たちは、神様を侮っているのでしょうか。それはどうして起こるのでしょう。5章でキリストによって自由にしていただいた者は、その自由で肉に従うか霊に従うか選ぶことになります。その結果は、両極端です。そして、その結果は今日の聖句で、再び繰り返されているのです。私たちもクリスチャンですから、何が良いことで、何が悪いことかわかっています。しかも、罪人であった時のように、自己中心に物事を考えないようになってきたはずです。確かに、罪の後遺症のように、いまだ肉の欲が捨てきっていないかもしれません。唆されれば、罪を犯すことがあるのではないでしょうか。肉=欲望と思えばわかりやすいです。この肉の欲に打ち勝つことは簡単ではありません。いまだに、イエス様の命令に従えないことがきっとあるでしょう。右の頬を撃たれたら、左も出せと言われても、納得がいかずに、打ち返してしまっているかもしれません。このように、肉に打ち勝つには、自分の意志だけでは勝てないのです。信仰によるのですが、その信仰ですら、聖霊の助け無しには弱いままです。つまり、聖霊の助けが重要なのです。そして、今日の聖句を読んでも、「霊に蒔く者」とあるように、霊つまり聖霊に対して自分がしていることに重要な意味があるということです。ここでは、明らかに「霊に蒔いて」「霊から永遠の命を刈り取る」という法則があるのです。クリスチャンが今、課題としていることは、これにつきます。今日の聖句の続きには、「たゆまず善を行いましょう」とあります。聖霊が望むこと、それは私たちが善を行うことなのです。それが「蒔く」ということの内容と思えば良いのです。

 

6月15日(木)

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のために取りなしてくださるからです。

ローマ8:26、27

 

祈りが大切なことはわかっていても、それでも、祈れないという時もある者です。私たちは、自分が弱い者であることをしばしば知ることになります。神様にどのように祈れば良いのかわからずに、困ってしまうこともあるのです。ところが、実際には、聖霊が私たちを助けてくださっています。祈ることができない時には、聖霊が代わって深いうめきによって、執り成してくださっているのです。私たちは、そんなことが起こっているとも知らないでいるのですが、聖霊の執り成しは、神様に届き、言葉になっていなくとも神様は全てを理解してくださるのです。そもそも、聖霊を送って下さったのは神様ご自身ですから、聖霊は神様の御心に従ってあなたのために執り成してくださる役目をも担っているのです。ですから、あなたはご自分で思っている以上に聖霊の助けを受けています。このように心強い助け手がいつもあなたのために働いていてくださるのです。ありがたいですね。

 

6月16日(金)

最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、全ての愛すべきこと、全ての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。

ピリピ4:8

 

人間の世界では、良い人悪い人と言われるように、いろいろな人がいます。現代のように価値の多様化が進むと、クリスチャンもこの世に合わせてしまう可能性があります。気をつけなければなりません。このようにあることのすべてが神様の御心にかなうということはありません。そこで、クリスチャンはこの世の罪人と同じようには生きていないはずです。では、何に気をつけて生きていけば良いかの目安が今日の聖句です。「真実なこと、誉れあること、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、評判の良いこと、徳といわれること、称賛に値すること」の八つが挙げられ、心を留めるように奨励されています。そして、これを信仰を持った人が実行すると、確実に品性が高められキリストに似た者に近づくのです。それだけではなく、そのように心に留めていけば、自分の振る舞いや人への接し方がよくなります。一方、このような聖句にある通りにしない人たちは、あまりクリスチャンとしての成長を実感できないでしょう。そして、肝心なことは、これは行ないによる義を目指しているわけではないことです。あくまで、信仰によるのです。無理をすれば、ストレスが溜まり破綻します。キリストを見ているように、またキリストに見られているように、今日の聖句に書かれたリストをことごとく実現していくことを意識するのです。品性は一朝一夕には向上しないでしょうが、日々の積み重ねで誰でも品性が良くなり、キリストの徳の高さに近づけるのです。聖霊の助けがあるので、きっとうまく行きます。

 

6月17日(土)

あなたには災難も降りかかることがなく

天幕には疫病も触れることがない。

主はあなたのために、御使いに命じて

あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。

詩篇91:10、11

 

よくドラマなどで、自分の理解できないことは全否定する人がいる。自分の体験を本当だと力説しても、全く取り合ってくれないで、自分の常識から逸脱している話は受け付けないのだ。そのために、「頭がおかしい人」というおよそ科学的でない結論で、話を終わらせようとする。信仰の話をするときも、道徳的、倫理的な話は受け入れてもらえるかもしれないが、奇跡や霊的体験などとなれば、途端にシャッターを下されてしまう。ですから、今日の聖句も、信じる人と信じない人に分かれる。厄介なことに、クリスチャンでも別れてしまうので、信じることができる人は幸いだ。私たちは一体何を信じているのでクリスチャンと呼ばれているのだろうか。どこかの教会の会員になったからクリスチャンというのだろうか。例えば、今日の聖句を信じなさいと言われたら、どうするのだろうか。単純に信じることができれば、このみ言葉はその人に実現するはずだ。しかし、このような超自然の話には馴染めない人もいるのだ。奇跡が起こるとは思えないのだろう。だが、今日でも奇跡は毎日起こっている。今日の聖句の通りに信じているので、守られている人がいるということだ。その人は、有名な信仰の人というわけでもないだろう。ごく普通の人だ。その人がこのみ言葉を読んで、それはありがたいことだと主に感謝して、信じると信じた通りになっているのだ。あまりにも簡単で、奇跡が起こっていることすら気がつかないのかもしれない。でも、御使いは知っている。やがて、直接いかに守られていたか教えていただける日がきっと来るだろう。信じることのできる人は幸いだ、というのなら、自分もその幸いにあずかりたい。

 

6月18日(日)

イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。・・」

ヨハネ6:35

 

私たちがクリスチャンでいられるのは、イエス様のおかげです。イエス様の救いは、洗礼を受ければ終わりというようなものではありません。逆に、その後の方が肝心なのですから、クリスチャンはイエス様を信じて天国への道を歩んで行くのです。それは、昔から旅路と言われてきました。天国へと旅をしているのだというわけです。エレン• G・ホワイトは、天国の入り口に扉があってそこから地上へ続く一本の細い道を示します。それは急な坂になっていて、一列に人間が天国目指して登っているのです。ところが、その道は人一人が通ることのできる細い道なのです。柵も手すりもありません。時々、その道から転落していく者がいるのです。これが預言者が見た幻だというのです。確かに、天国への旅路がそのような心もとないものなのかもしれませんが、今日の聖句を読むと、その旅路はモーセたちの荒野の旅に似ている気がします。彼らは、飢え乾きを神様に頼るしかありませんでした。私たちは、イエス様に頼ることができます。何しろ、「私が命のパンである」とおっしゃったのです。罪赦されて、クリスチャンになった人がイエス・キリストを信じて、生きて行くときに、肉で生きることなく、霊によって生きて行くことが求められています。それは、古い私ではなく、新しく生まれた私で生きるという意味です。ですから、この世で何かを得ようとか達成しようとしているわけではなく、あくまでもイエス・キリストのようになろうとすることであり、聖霊に従って生きて行こうとするときに、その人のパンであり、生ける水であるのはイエス・キリストなのです。つまり、イエス様に頼って生きて行くわけです。イエス様に近づく生き方を覚えなければなりません。この世の罪人は、飢え乾きを癒す方法がありません。霊的にいつでも飢え乾いているのです。私たちも、かつては同じでしたが、クリスチャンになってキリストのために生きることにしたのです。そのために、私たちは霊的な恵みに触れられるようになっています。旅路は、続きますが、一人旅ではありません。イエス様が共におられるので、光のうちを歩めるのです。命のパンがあるので、辿れるのが天国への道なのです。

 

6月19日(月)

あなたの重荷を主にゆだねよ

主はあなたを支えてくださる。

主は従う者を支えとこしえに動揺しないように計らってくださる。

詩篇56:23

 

ありがたい御言葉です。どんな人でも、重荷を負っているのがこの世の姿です。そのために、重荷を負っていると思っていない人もいるのです。実際には、苦労して生きているのにです。また、中には負いきれない重荷を負って苦しんでいる人もいます。誰もその重荷をおろしてくれないので、これは自分が悪いからだと自分を責めている人もいます。ひどい話です。さて、聖書を読むと、今日の御言葉が出てきます。一人だから負いきれない重荷となっていても、主と二人で負えば主が支えてくださるのです。そのためには、主にゆだねることが必要です。私たちは、子供の頃から躾けられていて、自分のことは自分ですると教えられてきたのです。ですから、「ゆだねる」という言葉も聖書で初めて知った人もいるのです。それだから、どうすればいいのかわからないのです。私たちは、熟練の料理人のようです。疲れ切っても、料理をやめません。誰かに全てまかせて、休むことができないのです。同じように、主に全てをゆだねる、まかせることがうまくできません。そのために、ヘトヘトに疲れて、危なくなるまで自分を追い込んでしまう危険があるのです。この重荷は、人間関係かもしれないし、困難な仕事かもしれません。あるいは、大変なことを一人で抱え込んでいるのかもしれません。時には、病気も大きな重荷になることがあります。とにかく、自分が重荷を負っているかもしれないと、静まってお祈りしてみましょう。そして、これが重荷だとわかったら、「主よ、御言葉の通りに私の重荷をあなたにゆだねます」と告白するのです。そして、信じるのです。「主はあなたを支えてくださる」と信じるのです。ここまでくれば、それがクリスチャンの正常な姿であると認めましょう。あなたは、もう自分の人生に起こるどんなことも、自分を動揺させることができないと知ることになります。主がそのように計らってくださるからです。これほどありがたいことはありません。楽に行きましょう。

 

6月20日(火)

そして、人間に言われた。

「主を畏れ敬うこと、それが知恵

 悪を遠ざけること、それが分別。」

ヨブ28:28

 

聖書を読んでいると気になる言葉が出てきます。それは、「知恵」という言葉です。知恵のことは子供でも知っていると思っていたのですが、聖書を読んでいるとどうも自分が知っていると思っていたこととは違っているようだ、と思えてきました。私は普通に会話の中で「知恵」という言葉を使っているので、「知恵」の意味を理解していると思っていたのです。あなたはいかがでしょうか。今日の聖句を読んでみると、「主を畏れ敬うこと、それが知恵」と説明されています。なんとなく、知恵とえいば一休さんのような賢いとんちのようなものだと思い込んでいたように思います。ところが、「主を畏れ敬う」ことが知恵だというのです。聖書辞典には、行政における賢明さ(創41:33)、技術における才能(出35:31)などを意味した(小型版・新共同訳聖書辞典305頁)。知恵は神からくるという思想なのです。「主を畏れ敬う」ということは、信仰者には理解できることです。何しろ、信仰そのものだからです。ここがご利益宗教とは違っています。聖なる主への畏れは、敬虔な信仰をうみ、主に完全に服従する者となるのです。ちょうど、ペトロが「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(ルカ5:5)と実際に漁師の常識を捨て、イエスのお言葉に従った、時のようなことです。結果、大漁になるのですが、主のお言葉は常識を超越していたのです。この世界が主によって支配されているなら、神の国が到来したと言います。主が王として支配している所を神の国と言うからです。そうであれば、主の御心の通りになって行くわけですから、主に服従することが賢明であることがわかります。漁師の知恵では、夜しか魚は取れないのです。でも朝、日が昇ってしまったのに、主は網を降ろせと命じたのです。常識を盾に拒めば、魚は一匹もとることは出来ません。でも、主に敬虔に従うなら、大漁になりました。これが知恵なのです。クリスチャンが自分の経験から自分の力で頑張って、常識的に考えるばかりなら、その常識の中からは抜け出せません。魚が取れなくければ、運が悪かったと思うぐらいしかできません。だから、良い結果は期待できません。しかし、信仰者は違っています。主への敬虔な信仰があるのですから、謙虚に振る舞うことができます。その結果、主が実際に自分の人生に生きて働かれることを体験することになります。賢明な選択をしたた、結果もついてくるのです。この信仰者は、善悪を見分けるようになりますから、分別がつくようになります。それが、人生を良くして、幸福の秘訣になります。新約聖書では、知恵は聖霊であって、神の知恵であられるイエス・キリストを通して与えられ、信仰によって聖霊の働きを知ることになります。

 

6月21日(水)

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。

Ⅰペトロ5:7

 

聖書を読んでみると、クリスチャンはとてつもなく恵まれていることに気がつきます。神様から特典をいただいているのです。今日の聖句を読んでください。あなたが何かで心配したり、どうしようかと思い煩うことがあれば、この聖句を思い出すのです。そして、思い煩う必要がないことを確認してください。あなたの心配事は、イエス様が引き受けてくださいます。あなたには、問題を解決す知恵がないかもしれません。それでも、思い煩う必要はありません。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」とあるからです。そして、ここに書かれたことは真実なのです。私は、昔、困ったことに遭遇しました。その時に、弁護士に私はこの問題に一切関係がないと一筆書いてもらって欲しいと相手から言われて、知っている弁護士もいないのでどうしようと思い、神様にお任せしました。すると教会に見知らぬお客様が来られて、その方が弁護士だと名乗られたのです。そして、私は無関係なのに巻き込まれて、それを相手方もわかったのですが、弁護士にその旨書いたものが欲しいと言われたことを説明すると、その弁護士がすぐに対応してくださり、私が言った以上のことをすぐにやってくださったのです。しかも無料でやってくださったのです。それで、私は助かったことがありました。その弁護士さんはその時だけ来られて、ああ、神様が問題解決のために送ってくださったのだとわかりました。このように、「神様が、あなたがたのことを心にかけていてくださる」のです。だから、自分で自分を助けることができないようなピンチに陥っても、この聖句を思い出して、不信仰にならないように、つまり心配して行き詰まらないように気をつけましょう。神様はあなたを助けるために、何でもできるのです。だから、悩む必要はありません。

 

6月22日(木)

どのような苦労にも利益がある。

口先だけの言葉は欠乏をもたらす。

箴言14:23

 

長く生きてみると、今日の御言葉の通りだとうなずける。苦労にもいろいろあるだろうが、どのような苦労にも利益があるのだ。人生相談に来る人は、苦労していることを話すが、利益があることにはまだ気がついていない。この利益は、苦労した人だけのものだから、後で気がつくだろう。若い人が自信なさげであっても、ある年齢になれば自信をにじませている。それは、苦労から利益を得た証拠だ。だから、苦労は利益があると自分に教えておく必要がある。単なる無駄話は貧しさをもたらす。口先だけで実の無い人は、やがて信頼を損なってしまう。そうなると、だれも相手にしてくれなくなる。結果、貧しくなるわけで、いい加減な仕事はしない。大変でも誠実に取り組み、最後まで責任を果たすなら、信頼を生む。立派なことを言っていても、苦労を嫌い、言葉だけで終わってしまう人もいる。努力を惜しまず、結果を出してくる人は、苦労が利益となる人だ。人間は面白い。どちらも自分で選ぶのだが、苦労せずに楽に儲けたいと考える人は、貧しくなる道を選んでいる。苦労せずに成功した人は知らない。しかし、苦労して成功した人ならいくらでもいる。だから、今、苦労している人は利益があること、成功が待っているということを知っておこう。

 

6月23日(金)

狭き門から入りなさい。

マタイ7:13

 

一般に、人は選択する時に簡単な方、易しい方、と安易な道を選ぶことが多いのです。ですから、アニメのサザエさんでも、カツオ君がその天才のように描かれ、ちびまる子ちゃんでも、この実例が面白く描かれ、共感を得ているのです。ドラえもんののび太君も全く同じ設定です。たまには、真面目に努力するガリ勉君が主人公のアニメを作ったらと思いますが、面白く無いでしょうね。ところで、聖書では信仰と救いに関しては、今日の聖句が出てきます。そのことは以前にも触れているので、今日は違うお話です。もし、あなたが何かに挑戦しようとしているなら、今日の聖句を思い出して欲しいのです。何もしないのが楽なのですが、思い切って何かに挑戦することは良いことなのです。人生はたった一度きりですから、悔いなく生きるには、時には狭き門から入るのも良いのではないでしょうか。例えば、本屋で平積みされている文庫の新刊に旅行記がありました。『50歳からのごきげん一人旅』(山脇りこ著、だいわ文庫)です。料理家の、りこさんは、体調不良で病院へ行くと加齢と診断され、「これからは意識してごきげんでいられるようにしよう」と決意します。では、ごきげんでいられるには?とごきげん探しに行ってみたのが「一人旅」だったそうです。これが大正解だったのです。歳をとった、とうつうつとして家で過ごすのは、誰でもやるような広い門です。でも、りこさんのように、自分で気持ちが老けこまないように、意識してごきげんでいよう、と考え、おそるおそる一人旅に出たのは、狭き門だと思います。私もかなり努力しなければならない道と大して努力しなくてもよい道とどちらを選ぶか迷っていた時に、テレビに「狭き門より入れ」と出て、驚いたのですが、あっと気がついたのです。聖書の原則は、狭き門より入れだったと。途端に笑いたくなりました。本来、平素は無理なく暮らすのが良いことなのですが、ここ一番という時が来るのです。その選択で人生が大きく変わるという時です。もちろん、神様に祈って聞いてから決めることですが、祈る前から消極的になってはいけないのです。主の啓示を見逃すからです。神様から無理なことは言われませんから安心してください。ただ、自分に必要ならば思いもかけない道が開かれることもあるのです。りこさんのように、「ごきげんでいられるには、と考えてみませんか。

 

6月24日(土)

穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。

レビ記19:9、10

 

神様の律法は愛を教えています。自分のことばかり考えると、貪欲になってしまいます。しかし、他者のことを考慮できると、弱い者が困っていることに気がつきます。そこで、その人たちの分を神様が用意されたことに気がつけば、欲張ることなく弱者のために残すことができるのです。現代は、自分の利益を得るためには他者を犠牲にしてもかまわないという考えの人が世界をおかしくしています。自分の働いた利益の一部を弱い者のために使おうとはしないことは、神様を信じる人にはできないことなのです。それなのに、世界のキリスト教国で律法を踏みにじるような人たちがいることは驚きです。神様を畏れていないのです。バビロンの正体がとうとう見えてきたように思えます。それで、「バビロンは倒れた」と天使が叫ぶ日が近づいているのです。私がガーデナ教会で働いていた時に、同じ敷地内に日本語補習学校がありました。そこの校長先生が、学校に助けを求めてきた人がいるので、ちょっと対応してください、と言われて、一人のアジア系の男性を連れてきたのです。この人は生活に困窮して、学校に何かもらおうと来たのですが、話してみると良い人であることがわかりました。そして、異国で困っている姿が憐れに思えました。それで、少しのお金を渡したのです。彼に神様の助けと恵みを願いました。彼は、淋しそうに微笑んで去っていきました。こうした人たちのことは不思議といつまでも覚えています。肝心なことは、私たちだって、いつ弱者になって、落穂を拾う者になるかわかりません。たまたま、今はうまく行っていても、この先どうなるかわかりません。神様からいただいた富の分配は公平である世界が望ましいのですが、自己中心の罪人の世界では何千年かけてもうまくいきません。天国に行くまでは誰もが幸せになることは望めません。でも、イエス様の新しい掟は、互いに愛し合うことです。富で愛を買うことはできません。人間は愛し愛されて幸福を知るのです。ですから、今日の聖句は、この世界で、強者も弱者もいて、一年苦労して働いて収穫を得る農夫も、貧しくて収穫を得ることのできない者もいる。それを愛という尺度で見ることができれば、苦労した農夫への主の報いは収穫物で満たされ、お腹を空かせた貧しい人や寄留者は主の憐れみで落穂や落ちたぶどうの実を食べて満たされるのです。この貧者への思いやりは、私たちに任されているのです。「わたしはあなたたちの神、主である」。私たちは声を上げて「アーメン」と言うのです。

 

 6月25日(日)

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

箴言3:5、6

 

人間は忘れっぽいので、どんなに大切な御言葉でも忘れてしまうものです。今日の御言葉も決して忘れてはいけないものなのですが、人は自分の悟りに頼るものなのです。なぜキリスト教が主に従順になることを教えているかといえば、今日の聖句とも関係していて、主よりも自分の悟りに頼る傾向があるからです。その結果、困ったことになると初めて主に助けを求めるという愚かな事を繰り返すことになります。なぜ、愚かというのか、それは、「主に拠り頼め」と御言葉で教えられているからです。では、どうすれば良いかといえば、御言葉の初めに「心を尽くして」と答えが書いてあるのです。つまり、あなたの最優先事項である、ということです。主に心を尽くしているのなら、自分の悟りに頼るはずはありません。ですから、そのような人の優先順位は一位が自分になっているということです。それで、困った時だけ主に頼んでもうまくはいかないということです。全身全霊を傾けて、最大の努力を惜しまず、主への献身を表すのです。今日の聖句は成功法則なのです。自分の人生を成功させたい人、人間として主の御目にかなう者へと成長したい人、主を愛する人は、ぜひ挑戦してください。

 

6月27日(火)

もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。

Ⅰペテロ3:13

 

クリスチャンは正しく生きようとしているでしょう。神様が見ておられるので、陰日向なく正しく生きようと考えるのです。もっと、積極的に考えるなら、今日の聖句にあるように、善を行うのに熱心であろう、いや、自分の存在自体が善であるように努めようとするでしょう。罪人であったものが、キリストのおかげで善であることが可能になったのです。ただ、この世にあるかぎり、罪の誘惑はあるのですから、自覚がなければなりません。善であることは本来ストレスのない楽なことなのです。しかし、善であろうと力が入ると途端にうまくいかない可能性があります。例えば、あなたがクリスチャンであることを知っている人と言い争いになったとします。その時に、相手が「クリスチャンのくせに・・・」と決め台詞を言われると、たとえ自分の言い分が正しくても負けてしまうのです。だから、自分の正体を明かさないという方法をとる人と、それではイエス様に申し訳ないと正々堂々とクリスチャンであることを表明し、なおかつ、ファリサイ派のようにわざわざ善人ですと宣伝しない人もいます。どちらにしても、クリスチャンである以上、悪いことはできません。イエス様に見られているのですから、ズルもダメです。やはり、聖句の通りに「善に熱心である」ことが結果的に身を守ることになります。それは、「だれがあなたがたに害を加えるでしょう」とあるように、善に熱心であれば、誰もあなたに害を加えようとはしないでしょう。

 

 6月28日(水)

主は、信仰のあつい人を試練から救い出す一方、正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられます。

Ⅱペトロ2:9

 

主のお考えについて触れている聖書箇所です。「信仰のあつい人」という表現は、「敬虔な人」という訳もあります。どちらにしろ、信仰によって生きている人のことです。ですから、あなたのことです。難しく考える必要はありません。神様を礼拝している信仰者をここでは考えてください。ここで、「試練から救い出す」とあるように、主はあなたを助けてくださる神様です。もちろん、信仰に成長するために、時には試練を避けることはできません。神様にはお考えがあるからです。ただ、私たちは弱い存在なので、逃れ道も備えられているところが愛の神様の業です。次に、私たちが不安に思う正しくない人のことも聖書は書いてあるのです。主は、彼らを「罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられます」と書かれています。ニュースなどで心を痛め、心配になったりするような凶悪犯に神様は何もなさらないで野放しなのか、と思う人もいると思います。確かに、個々人のことは一人一人事情が違うでしょうが、それでも神様の敵のようになっている人たちもいるのです。それらの人を神様は適切に裁かれます。私たちは裁いてはいけません。ただ、聖書が指摘しているのは、そのような凶悪犯ではなく、普通の人のことです。それは、「不道徳な人」(7節)と言った方が正確です。ソドムとゴモラの町の人たちのような人たちです。現代でも同じような人たちがこの世にいるのです。私たちは、神様を信じていますから、信心深く生きたいと願います。もちろん、ファリサイ派の人のようにではありません。イエス様を信じて従った人たちのようにです。主から流れる愛によって生かされたいのです。

 

6月29日(木)

「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、いける水の川が流れ出るようになる。」 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

ヨハネ7:38、39

 

クリスチャンの神秘は、今日の御言葉の通りに、聖霊を受けることです。罪人にはできなくとも、イエス様を信じる者が受けることのできる神の霊です。それは、イエス様がお語りになった通りのことが信じて救われた者に起こるのです。「その人の心の奥底から、いける水の川が流れ出るようになる」とあるような神秘です。生ける水は、渇くことのなくなる水です。霊的なものなので、信じない者には全く理解できない現象です。信じたはずのクリスチャンでも、霊的なこと、奇跡と呼ばれるようなことは信じない人がいます。信じられないのです。科学が教えることには、盲目的に信じても、罪の世界では起こらない奇跡は不信仰が原因となっていることに気がつきません。それは、奇跡や霊的なことを見たことがないので信じられないのです。教会も世俗化している証拠です。しかし、個人では信じる人がいるのです。当然のことですが、信じる者には御言葉が成就するのです。私たちは、心がどこにあるかも知りませんが、それでも人間に心があることは知っています。そのこと自体が霊的なことなのですが、ですから宗教でなければ理解できないのです。科学では、脳のどこかが心だと思っている人がいます。しかし、脳が関係したとしても、レントゲンにも映らないのが心ですから、物質の脳を超えた存在であることの方が現実的です。そもそも霊もレントゲンやCTなどでうつらないものですから、目に見えない存在なのです。神様が霊であるので目にみえなくても驚くことはありません。ただ、全能なので目に見える姿で現れることもできます。私たちは、このような人間の常識を超越した絶対的な存在のことを考え、理解したいと願っているのです。ただ、クリスチャンは理解して欲しいのですが、生ける水の川が心の奥底から流れ出るようになると聖書に書かれているので、そのまま信じることが肝心なのです。このような恵みの体験が誰に対しても起こるのです。このことを確かめてみようと思うのは、良いことです。全員が信じて、体験していただきたいと願います。

 

 

6月30日(金)

御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。

ヤコブ1:22

 

青年の頃なら、今日の聖句を文字通りに受け取って実行しようと頑張ったはずです。問題なのは、御言葉の本当の意味を理解できなければ実行しようがないということです。そうであれば、御言葉を行う人になろうと意気込んでも、すぐに挫折していたでしょう。そして、聞くだけで終わる者になるのです。今日聖句の続きを読むと、御言葉をヤコブは「律法」と言っています。パウロは、「律法は霊的なものである」(ローマ7:14)と指摘しています。肉の人なので実行できないとパウロは言っています。イエスも「わたしがあなたがたに話した言葉も霊である」(ヨハネ6:63)とお語りになりました。つまり、御言葉を行う人になりたいのに、実際には肉の人にはできないのです。それは、御言葉とは聖霊のことだからです。聖霊のことを理解するには、肉の人では無理なのです。聖霊がもうひとたび人のうちに注がれたクリスチャンだけが行う人になれるのです。それは、聖霊のことは聖霊によって理解する、ということが可能になればということです。今まで、クリスチャンになることの霊的な意味や成長する方法を語ってきましたが、それがここで役に立つはずです。「父がわたしの名でお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え」ると約束があります(ヨハネ14:26)。この約束がクリスチャンに成就します。聖霊のバプテスマの必要を説いていた理由も、ここにあります。肉によって行ったとしても、良い結果が期待できます。それなら、聖霊によって理解されたことを信仰によって行うなら、どれほど素晴らしいことが期待できるでしょう。あなたには、こうしたワクワクするようなチャレンジがあるのです。