ディボーション

HeidelbergerinによるPixabayからの画像
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3月30日(月)

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

マルコ2:17

 

「なるほど、それで自分は救われたのか」こう思った人は、私ばかりではないだろう。イエス様の周りには実にいろいろな人がいて、どの人もみな嬉しそうだった。差別されない嬉しさというのがある。世界は不公平に満ちていて、至る所に不満があるが、その中でも人間の尊厳に関わるような差別はもっとも人を傷つけるものだ。特にイエスのことで驚くのは、宗教家であるのに、罪人と一緒に食卓につくことだった。当時のイエスラエルでは、それは禁じられていたことだった。しかし、イエスの言葉を聞くとなるほどと納得できる。そこで、急に聖人の真似事をしてもうまくいくわけはないのだが、クリスチャンらしく振る舞おうとするあまり、勘違いを起こす人も出て来てしまう。ファリサイ派の人の律法主義を笑いながら、実は自分も同じような過ちを犯すことがあるのだ。そうならないために、イエスの言葉を考えてみると、「罪人を招くために」とあるのだから、自分が罪人であることを認めたことを思い出す必要がある。そして、病人の話も出て来たから、病人でもあると認めることだ。そうすれば、医者となってイエスが治してくださる。そういう存在であると理解できれば、クリスチャンだからと気負うこともないし、失敗しても、治療中と思えるし、イエスが自分の主治医なので神の手で癒してくださるはずだ。罪人だったので、多く赦していただき、大きな恵みをいただいている。だから、人と比べないで生きていける。自分でできることは一生懸命やるけれど、できないこともあるので、素直に認めよう。愛を学ぶことが一番の課題だから、毎日授業があるはずだ。自分がやっていることがことごとく愛の訓練であることを覚えていよう。どんなことでも愛で見てみよう。それは楽しいことだ。聖人ではないかもしれないが、主が聖なる者としてくださる。だから、恐れ多くてへりくだざるをえないのだ。しかし、毎日リラックスして、愛の訓練を受けていると思って生活しよう。元罪人仲間達も元気だといいなぁ。

 

Capri23autoによるPixabayからの画像  梨の花
Capri23autoによるPixabayからの画像 梨の花

3月29日(日)

憐れんでください、神よ、わたしを憐れんでください。わたしの魂はあなたを避けどころとし、災いの過ぎ去るまで、あなたの翼の陰を避けどころとします。いと高き神を呼びます、わたしのために何事も成し遂げてくださる神を。

詩篇57:2、3

 

賛美歌に「わが主のつばさのかげに」という曲があります。その歌詞は、

 

わが主のつばさのかげに 安けくわれは憩わん

嵐吹く暗き夜も つねに守りたまえば

みつばさのかげに 逃れて憩わん

心はとこしえに 主にありて安し

 

私たちは、この世にある限り、日々不安が忍び寄って来るような状況に置かれています。ですから、確かなことが予測できないのです。今も、人類は生き延びるために新型コロナウイルスと戦っています。このようなことは今までもあって、これからもあるでしょう。その時、人々は不安になり、食べ物やトイレットベーパーやマスクなど、買わずにはいられなくなるのです。そのような報道を見れば、全く必要のない人まで買いに走ります。その異常さに恐れ、疲れ切ってしまうのです。私たちもそのような社会に生きているので、不安が怒るかもしれませんが、今日の聖句こそ、私たちの祈りなのです。そして、賛美すれば、心に平安が戻ります。私たちは神様知っているので、呼ぶことができるのです。その神様を私たちは詩篇詩人と同じように知っています。「わたしのために何事も成し遂げてくださる神を」。だから、忍耐することもできるし、心を落ち着かせて喜びすら感じて災いの過ぎ去るまで、主の御翼の陰を避けどころとすることができるのです。