ディボーション

dae jeung kimによるPixabayからの画像
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9月15日(日)

愚か者は自分の感情をさらけ出す。

知恵ある人はそれを制し静める。

箴言29:11

 

不思議なことに、感情の豊かな人と乏しい人がいます。感情の豊かな人は、概して楽しい人が多いのです。また芸術家に向いているのでしょう、世に優れた芸術家は情緒豊かです。ところが、感情の振り幅が大きければ、負担が大きいということですので、大変な面があるのです。しかし、今日の聖句で「愚か者」とあるのは、感情の豊かさを責めているのではありません。「自分の感情をさらけ出す」ことを指して愚か者と言っています。つまり、さらけ出さないように制御できればいいのです。せっかくの情緒の豊かさを悪いものと決めつけてはいけないのです。私たちの人生を豊かなものにしているのは、こうした情緒の豊かな人たちのおかげなのです。問題は、選択できるということを理解していないことです。何を選択するかといえば、「愚か者」か「知恵ある人」かを同じ人が選べるということです。どちらが良いかは誰でもわかります。そこで、感情の豊かな人は神様に感謝して、「知恵ある人」になれるように願うのです。そもそも、「知恵ある人」とは、感情を制し静めることができる人のことです。このために、信仰が役に立ちます。祈ることも良いことです。そして、感情が爆発しそうな時は、爆発させるか、やめるかを選択できるので、やめる方を選択します。しかし、感情を爆発させるような原因があるはずなので、放っておけば勝手に悪い感情をさらけ出して、後で後悔したり、苦しむことなるので、その最悪の結果になることを避けなければなりません。ということは、もう一つ選択しなければならないということです。いっときの感情で怒ったり、感情をさらけ出すと相手に勝てないどころか、完敗し惨めさと後悔だけが残ります。だから、感情はさらけ出さないことにする選択をしなければならないのです。そのような自分の手に負えない問題は、すぐに神様に任せます。自分は、相手の言葉や態度で、その先のことを考え最悪の結果を予測したので、怒ってしまったのです。相手の悪意にも腹を立てています。しかし、ここで怒ってしまえば、良い結果になるでしょうか。売り言葉に買い言葉で、暴言を吐くかもしれません、そのような時には、自分の気が治るまで徹底的に酷い言葉を相手にぶつけるでしょうから、その結果が恐ろしいのです。自分で復讐してはならないと聖書は教えていますから、この場合、神様に後で助けを求めても助けは期待できないかもしれません。一旦壊れた人間関係は、決して元には戻りません。自分も深く傷つくことになりますが、誰からも慰めてもらえません。こんなにも酷いことになるのは、自分のせいだと同情してもらえないのです。それどころか周りから嫌われてしまいます。なんとも感情をさらけ出すことが愚かな事だと気がついても、その時には手遅れになっています。だから、聖書で注意が書かれているのです。これは誰でも陥る危険です。人間を磨き、人格を練り上げて、感情を制する人に成長したいものです。そのために、一旦冷静になって良い選択は何か考えられるようになりましょう。危ない状況から一旦逃げ出す事だって身を守る選択になるものです。

 

 

Ernest CasarenoによるPixabayからの画像
Ernest CasarenoによるPixabayからの画像

9月14日(土)

私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。

ローマ12:3

 

人間の面白さは、自由に考えることができるということです。歴史に名を残す人はいったいどのような考えをしていたのだろうと気になります。ただ、クリスチャンは最も控えめに生きる美学を持っていると思います。それは、自分の分をわきまえる生き方です。人間の性質上、放っておけば思い上がりやすいのです。もっともこれは物事がうまくいっている場合であって、逆にうまくいかなくなれば簡単に落ち込むのも人間です。現代人のように生活が向上し、仕事も高度化して、とかくストレスが日常的にかかりやすくなると、体や心を壊しやすくなります。人間は精密機械以上の繊細なものなので、限度があるわけです。また、誘惑が多く罪を犯しやすい世界なので、罪責感から精神を病む人もいます。こうした、現代人特有の世界でも、上手に生きて行くには今日の御言葉に耳を傾けてみることが大切です。クリスチャンには信仰があるのですが、「神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい」と教えられています。神様は私たちのことをよくご存知なので、その人に相応しい信仰を与えてくださっているのです。信仰が重荷にならないように配慮されています。つまり、義人は信仰によって生きると聖書にあるように、クリスチャンは信仰によって生きるのです。その信仰も神様が与えてくださったものです。それをちょうど良く与えられているので、困ることはありません。逆に言えば、信仰を発揮すれば奇跡も起きるわけです。それは大きな力を持つということです。ですから、慎み深い考え方が必要になります。毎日を穏やかに謙遜な人として生きたいですね。