ディボーション

5月24日(金)

いかに幸いなことか、主を畏れ、主の道に歩む人よ。あなたの手が労して得たものはすべてあなたの食べ物となる。あなたはいかに幸いなことか、いかに恵まれていることか。

詩編128:1、2

 

あなたが神様を信じていることが、どれだけ幸福なことかわかるだろうか。あなたは誰とも比べる必要がない。神様を信じない人たちは、自分で頑張るか他の人間に頼るしかない。しかし、人間は神様ではないので限界がある。しかも、人間は裏切ることすらある。自分が勝手に信頼していて、相手はそれほどの思いを持っていないというようなことは普通にある。だから、人間を頼りにする人は、どこかで裏切られたと泣くことになる。相手にも問題があるかもしれないが、多くの場合、自分に反省するべき責めがあるものだ。それが、自己中心に物事を見る人たちには気がつくことができない。それで、人間不信に陥ることになる。ここに至れば、この人は不幸という他ない。一方、主を畏れる人は、完璧というわけではないが、自分が神様から信頼されていることを知る。それが自分に自信を持つきっかけとなる。そこで、なんとか神様の信頼に応えたいと思い始める。そのこと自体は良いことだが、大抵は空回りすることが多い。そうではなく、自分の置かれた場所で、普通に暮らすことが良い。その時に、自分の稼ぎが多くても少なくても神様に感謝することができるかどうかだ。毎日が心配しないで暮らせることが幸福なのだから、そのことに満足して、一つ一つ神様に感謝するへりくだった心が大切なのだ。そのようになれば、災いは避けて通り、あなたを害するものは消えて無くなり、家族の喜びを目にすることができる。あなたが完璧だから、神様がそのように祝福しているのではない。あなたは未だ欠けがあるかもしれない、自分でも気がついている問題も残っているかもしれないが、それだから神様が祝福しないということはないのだ。一見、平凡な生活にあなたが不平を言わずに、神様が食べるものも着るものも、家にあるもの全部を与えてくださった、と喜んで感謝しているか。それが、「主を畏れる」という言葉を意味しているか考えてみればいい。足りない、不満足だ、というのではなく、必要なものは祈って求めればいい。それは、かなえられる。その内容に、神様が天才的に信ずる者にちょうどよくくださることを知るだろう。そして、またしても喜びが溢れてくるはずだ。「あなたはいかに幸いなことか、いかに恵まれていることか」。

 

5月23日(木)

朝早く起き、夜おそく休み、焦慮してパンを食べる人よ、それは、むなしいことではないか、主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。

詩編127:2

 

現代人にとっては、耳の痛い聖句です。忙しい毎日をイライラしながら生きていくことにどんな意味があるのだろう。確かに、考えればむなしいことに思えてきます。神様が生きていることを知っている人には、同じようなむなしくなる生き方をしないように知恵が与えられます。私たちの神様は私たちを愛してくださり、家庭を幸福にすることも、いつでも守っていてくださることも、無理してあくせく働かなくても、安心して眠りにつけるようにしてくださいます。神様を信じるということは、想像以上に素晴らしい全てに祝福された生き方なのです。人間として当たり前の幸せが、罪の世界では当たり前に享受できません。収入の多い少ないにかかわらず、悩みから解放されることがありません。どんなことでも悩みの種になります。しかし、神様が共にいてくださることを知るなら、愛されて生きる喜びがあります。自分の価値が初めて高いと納得できるのです。そして、1日が終わり、夜に眠りにつく時にも神様への感謝があります。言葉にして感謝するなら、喜びが心を満たすでしょう。小さなことへ目が止まり、そこにも神様の愛が感じられるようになると、楽しみはどこにでもあることがわかります。病気で辛い思いをしている人も、イエス様は一番心をかけてくださいますから、この苦しみの中にも自分のためになる意味あることが隠されていると信じて、忍耐して辛い時期を乗り越えることです。忍耐したご褒美はちゃんとあるものです。主は祝福を惜しみません。それよりか、恵みを受け取らない不信仰を残念に思われているでしょう。何事も主が共あることで、最高の祝福になることを覚えていましょう。恐怖や脅威となるものが何一つ近づくこともできないように、主が盾となって、また城となって守ってくださいますように。主が良くしてくださることを何一つ忘れないようにしましょう。