ディボーション

6月18日(月)

人は律法の実行によってではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。

ガラテヤ2:16

 

これがキリスト教信仰です。ただ、信じるだけではダメだと言う人が必ず現れるのですが、それは信じるだけなど安易すぎると言うのです。だから、ちゃんとしなければいけないと頑張るわけです。でも、今日の聖句を読んでみると、「律法の実行によっては、だれ一人として義とされない」と書いてあるのです。それでも、反対する人は、信じていれば何をしてもいいのか、とかみつくわけです。実は、ここで焦点がずれてしまっています。私たちはクリスチャンになる時に、自分が罪人であることを認めたのです。その罪の問題を解決しないでは義となり得ないのです。罪人自身が何をしても罪人なので、自分で自分を義とすることができないのです。私たちを義とすることができるお方は、ただ一人イエス・キリストだけです。だから、イエス・キリストによって義としていただくのです。その方法がイエス・キリストへの信仰なのです。まず、ここを納得しなければ、先に進めません。あなたは、キリスト・イエスのゆえに神様があなたを義としてくださると信じますか。信じていると言うのなら、疑わないことです。すでに良いことがあなたのために始まっているのですから。(佐久間)

 

6月17日(日)

キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。

ガラテヤ1:6

 

パウロも言うように、「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく」(7)、教会の中で大胆に語られている福音でないもののことです。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。」(4)。これが福音です。しかし、これでは私たちは何もしないでキリストだけが働いたことになって、それで救われることは正しくないと考えるのが人間なのです。少なくとも、この社会では子供の時から自分で努力することを教えられてきたのです。しかし、福音は、私たちが頑張るのではなく、キリストだけが犠牲を払って救ってくださるから、信じなさい、と言うのです。どうもパウロが言っている福音は、人間が知っている正しい考えとは違っているのです。人間的には福音を聞くと憤り、怒りが湧いてくるのです。だから、拒否し、信じないと頑張るのです。これがもっと、難行修行をしたり、善行を積んだり、律法を守り行うように、と言われるとなんとなく納得が行くのです。しかし、あまりにも簡単で安易に感じて、受け入れがたいのです。これは、罪を正しく理解していないからです。そして、自分のプライドを傷つけるからです。残念ながら、キリストの恵みを理解したはずのクリスチャンがやはり同じように失敗することがあるので、聖書に書かれているのます。罪とは自分の力で神に従えず、自己中心に物事を考えてしまうことです。パウロは、福音を知っている人が簡単に離れてしまったことにあきれたのです。そうならないために福音を理解しましょう。(佐久間)