ディボーション

pasja1000によるPixabayからの画像
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8月25日(日)

神は知恵を見、それを計り、それを確かめ、吟味し、そして、人間に言われた。「主を畏れ敬うこと、それが知恵、悪を遠ざけること、それが分別。」

ヨブ記28:27、28

 

人間の知恵がどんなに不完全なものであるか、それは多くの事例が証明している。そして、どんな人も自分の知恵で対処したために相当の結果を刈り取っている。私たちの課題は、神の言われたことの内容を知ることにある。「主を畏れ敬うこと、それが知恵、悪を遠ざけること、それが分別」。ヨブが初めは感動すら覚える主への信仰表明をしていたのが、友人たちに刺激されて怒りと自分の正しさに固執してしまったがために、初めの「主を畏れ敬うこと」から離れていったことを見ることができる。知恵が何か少しわかるだろう。さらに人間にとって難しいことが「悪を遠ざけること」だ。それが分別というものだ。信仰生活が満たされていると実感できるためには、この知恵と分別に注意を向けていればいい。悪魔がやろうとしていることは、信仰者を感情的になるように追い込んで、知恵と分別の二つを見失わされることだ。その時には、ヨブほどの信仰者でさえぐらつくことがわかった。主の祈りがやはり私たちには必要だ。「試みにあわせず、悪より救いだしたまえ」。主を畏れ敬うことは喜びだ。そのような人生に落ち度はない。悪魔の支配するこの世界に生きているので悪は身近にいくらでもあるだろう。油断などいっときもできない。悪を遠ざけることができるかどうか。それで運命が決するのだ。

 

blizniakによるPixabayからの画像
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8月24日(土)

わたしは自らの正しさに固執して譲らない。一日たりとも心に恥じるところはない。わたしに敵対する者こそ罪に定められ、わたしに逆らう者こそ不正とされるべきだ。

ヨブ記27:6、7

 

さて、私の正しさとは何だろう。日本人のイメージからすると、絶対自分の仕事に妥協を許さない、頑固一徹の職人気質を思い出す。ヨブは、意識的に正しく生きていたし、それは驚くほどの努力であったに違いない。それで祝福された人生を歩んでいれば、正しいから神は私を祝福していると納得がいくのだろう。ところが災いが立て続けに襲ってきた時に、自分の正しさがヨブを苦しめたことは今まで読んできたところに明らかだ。それに友人たちが関わっている。友人たちはこれほどひどい災いに遭うのは、ヨブがよほどひどい罪を犯したからに違いないと確信していた。まさに因果応報だ。この考え方は、イエスの弟子たちも同じようなものだった。それは次の言葉でわかる。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(ヨハネ9:2)。それに対してのイエスの答えに注目してみよう。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9:3)。人間が自然に考えることは、いつの時代にも変わりないらしい。何か不幸が起これば、罪の因果応報を考え、災いに遭えば、神に背いたからだと思われる。イエスを受け入れることのできない人たちも、同じ考えに縛られていた人たちだった。それだけに、罪の物差しである律法を形式的になっても必死に守っていたのだ。罪人なのに義人であると頑張っていたと言えばわかりやすいだろうか。だから、福音を理解するには、人間をありのままで救う神の業が働くと考え、それはイエスの十字架であると理解することなのだ。それにしても、ヨブと友人たちの間に正しさの対立があって、双方が自分が正しいとするのを見ると、世界中に争いがあり、それが簡単におさまらないのは、共に私が正しいとするからだと気がつく。しかし、この二つの見方以外に正しさがあることをまだ誰も気がついていない。神を信じるということは、自己の正当化を放棄しない限り実現しないものなのだ。自分を超越した完全な正義が神にあることを知るべきだ。