ディボーション

👀 Mabel Amber, who will one dayによるPixabayからの画像
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7月27日(火)

あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。

ヨハネ15:7

 

このような御言葉に出会うと、クリスチャンはしばし考え込んでしまうでしょう。肉の人の望むものと霊によって生きる人のそれとはまったく違っています。肉の人は欲望を満足させようとするでしょう。しかし、霊の人は主の御心を知っているのでその御心を満足させることを願うのです。ですからかなえらえ流のです。このようになりいと思っているのなら、神様の救いの計画を完全には理解していないという意味になります。それは、今日の聖句に説明があります。まず、クリスチャンが理解して信じることは、キリストとあなたがつながっていることです。あなたがいまだキリストとつながっていることを信じきれないのなら、福音を聞いただけで、その効力をまだ十分に受けいていないのです。キリストとつながっていると思えないのなら、まずはつながれるように祈ることから始めます。そして、もっとも重要なことは、キリストの御言葉があなたの内にいつもあるかどうかです。そのように考えて聖書を読んできたでしょうか。聖書を研究しましたか。あまり難しく考えてはいけません。神様の人間救済計画の完全さは人間には想像もつかないほどです。しかし、「御言葉があなたがたの内にいつもあるならば」とあるのですから、古い自分とは異なって、御言葉の思想が、あるいはイエス様のお考え方がと行っても良いのですが、もし、自分の判断や考えることがイエス様と同じであれば、私たちは満足するし、良い結果が期待できます。それは、あなたが、まるでイエス様の御言葉のフィルターを通して物事を考え、意思決定しているようなものです。ですから、望むものは何でも願って良いのです。その望み自体が主の御心そのものと調和しているからです。

 

Bruno /GermanyによるPixabayからの画像
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7月26日(月)

すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」

使徒言行録2:38、39

 

聖霊のバプテスマを特別な人のものと考えることは、今日の聖句を読んでも違うとわかります。ただ、現代の教会では悔い改め、イエスの名による洗礼、罪の赦しまでは言いますが、賜物として聖霊を受ける、ということには消極的というか、無視しているように見えます。天の王である神様が救われた人に与える賜物としての聖霊を抜きにするとキリスト教は成立しません。自力での自己義認は無いと言い、律法主義はけしからんと非難しても、聖霊のバプテスマを認めないと、行いによる義は無いので否定しますから、自ずと信仰による義を強調することになります。そうすると、どうしても信仰が弱いだの、信仰が足りないなどと、自力で信仰を高めるように要求することになってしまうわけです。信仰とは言っていますが、これも行いによる義でしか無いのです。なぜ、賜物として聖霊を受けると言っているか考えれば、聖霊によらなければ誰も義とならないからです。だから、私たちは自分には誇るものが何も無いのです。ただ、神様の愛と憐れみが私たちを救ったのだと納得できます。そうであれば、聖霊はいるのかいないのかわからないようなものでは困ります。天地万物の創造の時のように、私たちを神の子として再創造することが必要です。その時に、強制的に再創造することはないので、私たちに同意を求めるわけです。その部分が信仰と呼べるところです。皆様は、聖書に書かれた神様の約束、その御計画を調べて知り、信仰を働かすのです。聖霊の恵みがあなたのものとなりますように。