ディボーション

Manfred RichterによるPixabayからの画像
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7月8日(水)

主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、囚われ人には自由を、つながれている人には解放を告知するために。

イザヤ61:1

 

私たちは主イエス・キリストを知っています。そして、この箇所を読むと、ここにもメシア預言があると気がつくのです。それだけでなく、キリストが何をなさったのか知る事ができます。本当なら福音書を読み、キリストの出来事を読んだのですから、知っているはずなのですが、ナザレでイエスがこの箇所を読んだことからも、主の初臨の時の使命がうかがえます(ルカ4:16)。「主の恵みの年を告げるためである」(同4:19)で、イエスは朗読をやめています。その先には、何が書いてあったのでしょう。「私たちの神が報復される日を告知して」(イザヤ61:2b)とありますから、裁きです。これは、再臨の時にキリストが成す働きですね。しかし、初臨の時に主イエスが成されて働きは、私たちに直接関係あります。ここで、ちょっと余談ですが、日本の江戸時代のことから考えてみます。人間が生きて行くために大切なことは、食べる事がまずあります。そのために、作物を育てる農地が必要です。それで、戦国時代のように、支配者は土地を得るために戦うことになりました。最後には天下をとった徳川将軍が恭順を誓った者(大名)に土地を分けました。大名は、さらに自分の家臣たちにそれぞれ土地を分け与えるわけです。その土地を耕し農業をするのは労働者たちで、この人たちは「貧しい人」になるわけです。彼らは、今のような科学知識がないので、みんなで協力して農業をするしかありません。そうなると、貴重な労働力は手放す事ができないので、もっと良い土地を探して引っ越す自由がありません。ましてや、農業以外の武士になりたいと言っても、職業選択の自由がなかったのです。ですから、3~10 %の武士階級のために、奴隷のように囚われの身だったのです。これは、近代まではどこでも同じようなものでした。では、現代はどうかといえば、明らかに違っていますが、それでも今の世界を見れば、貧富の格差が広がり、ほんの一握りの人たちがほとんどの富を独占するのは変わりないのです。マルクスは革命を考えましたが、イエスは福音を伝えました。そして、その力は私たちのもとにまで届いたのです。主イエス・キリストはこの世で病や傷ついた心も主は癒し、罪と死と悪魔の囚われ人には自由を、何かの呪いにつながれている人には解放を告知しにこられたのです。そのことをあなたは知っています。それがどれほど恵まれたことか、本当に躍り上がるほどです。ですから、悪魔の偽りのささやきに騙されてはいけません。主イエスの御力はあなたを捕らえ、あなたはすでにこの世に勝利しているのです。だから、勝利者として堂々と生きていけます。ありがたいですね。主を讃美しましょう。

 

 

HeidelbergerinによるPixabayからの画像
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7月7日(火)

しかしあなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。

申命記4:29

 

クリスチャンが何か満たされていないと思う時、今日の御言葉を思い出して欲しい。信仰のダイナミックな点は、神様との関わりの中にあります。この聖句の前の節には、偶像を拝むことになる事が書かれています。人間の弱さは自分の願望を偶像にして叶えようとする事です。こうなればいい、ああなればいい、と心に何か願望が起こると、それを実現する方法を考えたり、試すのですが、うまくいかないと、神様に頼むのです。それが、正しい信仰からであれば、まだ良いのですが、そうでないこともあるので注意が必要です。例えば、神様の声が聞こえる、夢でイエス様が私に語った、教会に行けば神様の答えがわかるのか、と言った事を聞かれて困る事があります。神様の御声を聞くこともあるかもしれないし、夢で啓示を受ける事だってあるかもしれないのですが、その聞こえた答えが自分の願望そのままである事が問題なのです。例えば、「あなたは〇〇と結婚する」といった声です。これは、イエス様ですかと言われると困るわけです。聖書が教えているのは、個人の願い事をご利益のように叶えてもらうことではなく、神様を求めなさいと言われているのです。神様から召命をいただいき、救われたクリスチャンは、神様との出会いを求めるように促されているのです。それは、普通のことではダメです。条件は、「心を尽くし、魂を尽くして求める」ことです。これはいったい、どうすればいいのか考えてみる必要があります。祈りも点検してみるのです。「心を尽くす」だけでも、ただごとではありません。ましてや「魂を尽くす」となれば、命を注ぎ出すような感じを受けるのではないでしょうか。これは人生をかけるぐらいの究極の選択です。自分の好き勝手に生きて行くのか、心を決めて神様に従って行くのか、二者択一のようなものです。ただ、難しく考えずに、聖書に隠されている宝を探すような感じで神様に出会うヒントを見つけるのです。聖書から神様に出会ったと人を探せば、そこに模範があります。ここでは、モーセが一番わかりやすいでしょう。モーセと同じようになることなど到底できそうにありませんが、神様と出会うヒントがたくさんあります。そう考えて聖書を読むことをお勧めします。クリスチャンになっても、まだまだ、知らない事があります。心を神様に向けてまずは神様を尋ね求めてみてはいかがでしょうか。その結果は、想像以上に良いことになると思います。