ディボーション

11月17日(土)

今日、心変わりして、我々の神、主に背き、これらの国々の神々のもとに行って仕えるような男、女、家族、部族があなたたちの間にあってはならない、あなたたちの中に、毒草や苦よもぎを生ずる根があってはならない。

申命記29:17

 

神様はイスラエルの全ての人を集めて、偶像礼拝を禁じました。これは、イスラエルの民が定住する場所に、すでに多民族が偶像を拝んで住んでいたことが前提にあります。異文化に接する時に、反発するのか、それともすぐに受け入れるのか、ということを考えてみれば問題の本質がわかるかもしれません。日本は鎖国をしていたために単一の文化でいられたのですが、明治になって文明開化と共に、驚くほどの早さで西洋文化を吸収して行ったのです。太平洋戦争が終わってアメリカの進駐軍と共にキリスト教の宣教師がこぞって日本にやってきました。そして、今では考えられないような大伝道講演会を開き、大勢の日本人が集まりました。今まで、敵国と言っていた国の宗教をいともたやすく受け入れてしまったのです。そして、この時にクリスチャンになった人たちによって日本のキリスト教は発展してきたのです。その時にクリスチャンになった人たちが高齢になり亡くなってくると、一気に教勢が衰えてしまいました。神様は、人間のことをよくご存知でしたから、終戦後の日本のように、荒野をさまよったイスラエルの民が神様を主として神の民を形成してきたのに、これから定住する地で異文化と接する時に、彼らの中から異教の神々に憧れて拝む者が現れることを懸念されたのです。今日でもクリスチャンが背教することは稀にあります。それが、どんなに恐ろしいことであるかは、この申命記の記述の中にも示されています。それは、「呪いの伴う契約」という言葉に現れています。クリスチャンなら神様に救われた経験があります。そして、祈って助けられたことも多くあるはずです。信仰によって成長し、恵みを味わうことが許され、全ての面で祝福されているのです。それなのに、主を捨てて異教の偶像を慕うということはありえないことなのです。しかし、悪霊が働いていることもご存知でしょう。決して油断してはいけないのです。キリスト教を語るカルトさえあるのですから、聖書で見分けることができるようにしておきましょう。(さくま)

 

11月18日(日)

御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。

申命記30:14

 

律法という言葉を使うと急に厳しいイメージが出てきて、守るのが難しいことのように感じさせます。ですから申命記で律法を守り行うことが厳しく書かれていると聖書を閉じたくなるかもしれません。ところが、同じ章の6節に「あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたのかみ、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる」と、あります。明らかに石の板に刻まれ、厳しく戒めていた律法のイメージとは異なっています。神を愛することこそが律法の意味するところだと思えてきます。それだけではなく、後の子孫に、何か神の力でなくてはならない方法で、心の割礼が施されることが約束されています。それがあるので、全身全霊で神を愛せるようになることが書かれています。そうであれば、主の戒めは決して難しいはずがありません。それは、クリスチャンにとっては、十字架のキリストによって清められ、そして聖霊が注がれ、その人の内に内住することで心に大きな愛が注がれ、頑なな心が溶かされ、愛の業が出てくるように変えられたのです。それは、人に見られて立派だと褒められるような律法の行いではありません。自分の罪を悲しむ人がキリストの圧倒的な恵みと愛によって、義とされ、神の御前に連れて行かれ、立たせていただくようなことなのです。そこで、御言葉は、あなたの口と心にある、と言われるのです。(佐久間)