2022年6月ディボーション

6月1日(水)

私たちが神の子どもと呼ばれるために、ーー事実、いま私たちは神の子どもです。ーー御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。

Ⅰヨハネ3:1

 

クリスチャンの皆さんは、ご自分が神の子どもであることを認めているでしょうか。認めるというのは、神の子どもとして生きているということです。本人のモチベーションが違っています。悲観的なことを考えなくなります。感情の揺れが少なくなります。神との距離が近いものとなります。しかし、神の子であることを忘れると、不信仰になりやすいのです。目に見えることに左右されやすくなり、霊的敵であるサタンや悪霊を過剰に恐れたり、あるいは、まったく気に留めずに油断して誘惑に負けたりしやすいのです。何事にもバランスが肝心ですが、この世にいれば、そのバランスを崩すようなことが頻繁に起こるのも事実です。そこで、信仰者の万能薬が「神の子ども」なのです。イエス様が模範ですが、御父に従順であるのが特徴です。私たちもそうなりたいのですが、理性で考えているだけではうまく行きません。肝心なことは、今日の聖句の中にあります。「御父はどんなにすばらしいです愛を与えてくださったことでしょう」という箇所です。つまり、あなた自身が天の父に愛される経験をすることです。言葉にならないほど大きな愛を与えられているという経験です。これは、真実ですから、決して難しいことではありません。すでに天の父はあなたを愛しています。あなたがそれを知ろうとすればすぐにわかります。人間は、天の父に愛されることで、神の子どもになります。そのことが心に大きな変化を生むのです。神に愛され、神を愛し返す、愛し愛され、という経験がクリスチャンを神の子どもにして行くのです。このようなことを経験することで、創造の時の神のかたちを回復するのです。特別な霊的経験なので、クリスチャンでない人たちにはわかりません。彼らは、神を知らないのです。それも、天の父であることを知らないのです。ですから、この世は、私たちを知らないのです。私たちが神の子どもであることを。

 

6月2日(木)

主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

詩篇37:4

 

この御言葉を瞑想してみましょう。願いをかなえて欲しいと思う人は少なくありません。しかし、どうすれば神様に自分の願いをかなえていただけるのか、よく理解していません。それで、誰でもがするように、やみくもに祈るのです。問題は願いの内容です。これは大きく二つに分かれます。神様のためと自分のために分けることができます。そして、たいていは自分のために願うのです。当然、聞かれる祈りと聞かれない祈りに別れるでしょうが、今日の御言葉を見ると、たとえ祈らなくても、主は心の願いをかなえてくださる、というのです。その理由は、その人が主をおのれの喜びとしているからです。主を自分の喜びとするとは、どのようなことでしょう。そういえば、パウロも「喜びなさい」と書いていました。では、具体的に考えてみます。昔、教会に楽しい年配のご婦人がいました。その方は、「神様に宝くじが当たるようにお願いしているの。もちろん、当たったら教会に十分の一献金をしますって言ってるのに、なかなか当たらないの」と話してくれました。この場合は、今日の聖句には当てはまりませんね。願いがかなえられないのですから。主を喜びとするのではなく、自分を喜ばせようとしているので、主を使って宝くじを当てさせようとしているのため、願いはかなわないのです。これは、偶像と同じ原理です。一方、主を自分の喜びとすることができれば、主の御心にかなったことを願うようになるのです。御心にかなった願いはかなえられるのです。そうすると、信仰者にとって、目指すことは、「主をおのれの喜びとせよ」という聖書の命令に従うことなのです。そうすれば、願いが起こされ、かつその願いを実現に至らせるのは主なのです。このことを悟ることができれば、人生の将来の不安も心配も消えてしまうのです。

 

6月3日(金)

私はこれを思い返す。それゆえ、私は待ち望む。私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。

哀歌3:21~25

 

ウクライナで起こっている戦争は、平和な国々のテレビで観ることができます。自分のところには銃の弾もミサイルも飛んできません。だから、どこか人ごとになっているでしょう。戦争が長引くにつれ、テレビのコメンテーターたちの意見がウクライナびいきでいたのに、ロシアだって犠牲者が多数出ていて、ウクライナだってひどいことをしているんじゃないか、といった論調になった時があって、この人たちは戦争の本当の意味を知らないのだと実感しました。聖書を学んでいると、人間の本質は全く変わっていないと思わされます。ですから、戦争の記述が聖書にあれば、それは現代にも共通するものがあるのです。今日の聖句は、あいかですから、バビロンの攻撃に国破れて、生き残った人の信仰告白です。極限状態に置かれた人間がまず思ったことが神の憐れみは尽きないという事だったのです。生き残った者は、なぜ自分たちは生き残ったか、という疑問が生じるのです。信仰者は、それは主の恵みなんだと納得できます。しかし、戦争で敗戦し、国土が廃墟のようになって、捕囚となって異国の地に連れて行かれるのです。それでも、主の憐れみは尽きないので、主の恵みは朝ごとに新しく与えられるのだ、というのです。それだから、今度は主を待ち望む、と告白するのです。主の救済があると信じているのです。人間的には絶望するような状況に置かれても、主を求めて待ち望むなら、主の憐れみによって、この窮状からきっと救われると信じているのです。事実、歴史はそのことが真実であったことを証明しています。その同じ主が、あなたの主なのです。ですから、人間的な行き詰まりがあっても、なお、主を待ち望むことができるのです。一日、一日と主の恵みは新しく尽きないのです。

 

6月4日(土)

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

マタイ6:14

 

この御言葉を覚えましょう。これこそ、あなたを守る力があります。私たちはクリスチャンになったので、人を赦すことを教えられ、その努力を続けてきたのです。しかし、重要なことは、下の句です。「あなたがたを赦してくださいます」という約束です。私たちは、人の罪のことばかり考えていて、もっと深刻な自分の罪のことは見えないのです。人の罪はどんな些細なことも見逃しませんが、自分の罪はどんなに大きくても見えないのです。それは、自己正当化するからです。自分は悪くない、悪いのはみんな他人なのだ、と他人のせいにしているのです。これでは、聖書の真理に合いません。私たちが「人の罪を赦すなら」と条件がついています。これは、口先だけで赦すと言っても意味がありません。心から赦さなければなりません。難しいですね。主のお言葉ですからと赦すことができる人は、条件をかろうじて満たしているでしょう。さらに、自分の心を変える人もいます。今までの自分ではできなくても、キリストの十字架に自分をはりつけにしている人は赦せるのです。そして、人ではなく自分の罪に気づく人です。この人は、罪の罪責感に苦しみます。その救いは、十字架のキリストが罪の身代わりになって死んでくださることを悟れたら、赦されたと知るのです。それは主の大きな愛に満たされた時なのです。

 

6月5日(日)

わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。

詩篇32:8

 

人生には大きな決断の時があるものです。それが人生を大きく分けるような結果になることもあるのです。多くの場合、それは受験であったり、社会に出て行く時、あるいは結婚を決める時、就職したけれど自分が本当に望んだ仕事ではないと転職を考え会社を辞めようとする時など。実際には、もっとたくさんの選択の時はあります。決断できずに後悔することもあります。終身雇用が崩れてしまった今では、転職が増え、夫婦共稼ぎも増え、女性も何かしら仕事を続ければならない社会に変わってくると、行くべき道で悩むことになるのです。ところが、クリスチャンは、どのような時代になっても、今日の御言葉の約束があります。「あなたがたに悟りを与え」、そうです、私たちに必要なことは悟りなのです。周りに流されて、なんとなく生きていることはよくありません。人生は長いのです。必ず、社会は良い時と悪い時があるでしょう。そうした社会情勢に影響されるのです。それでも、クリスチャンは、「行くべきを教えよう」との主の導きを信じられるのです。主の目はあなたに優しく、慈しみに富んでいます。ですから、あなたが困るようなことにならないように主の配慮がなされます。そして、誰にも聞けないような問題も主に助言を期待できるのです。これほど、安全で頼りになるアドバイスは他にありません。このように、主の確かな人生の導きがあるのですから、将来のことを心配することはありません。それよりも、このような聖書の祝福の約束の御言葉を探して、信じることが肝心です。自分の勝手な思い込みではなく、聖書に根ざした確信が確かな決断、正しい選択につながるのです。あなたも今日の御言葉を自分のものとして聞き、信じましょう。豊に主に祝福されたることを期待していましょう。

 

6月6日(月)

神に従う人の結ぶ実は命の木となる。知恵ある人は多くの魂をとらえる。

箴言11:30

 

神に従うことがどれほど良いことか、多くの人間は知らないかもしれません。クリスチャンは、幸い、神への従順こそが信仰者の目標であると知らされています。それは、キリストに倣うことでもあります。命の木となると書いてあるのは、「罪の支払う報酬は死である」の正反対のことを意味します。罪人は死ぬことが決まっています。一方、主に従う者は、天国で永遠の命をいただくのです。この地上でも、報いがあります。神に従う者には良い報いが、神に逆らう者には悪い報いがあるのです。そして、神に従順な人には、何事も益となり、命から派生する愛や喜び、聖なる感動、その手の業がことごとく祝福されるのです。この世の朽ちて行くような富ではなく、永遠に続く富を得ることができます。また、知恵が聖書で良いものとして真剣に求める必要があることを教えているように、知恵ある人は、人間の最も深いところで支持されるようになります。知恵は、キリストの公生涯に見ることができます。知恵ある人は、知恵のない人からは理解されずに誤解されるかもしれませんが、人々を神の御心にかなったところへと導くことができます。知恵は正義の道を見分け、神の光を求め、神の愛を知ることができます。知恵ある人は、神の御心を知ることができるので、正しい道へと人々を導くことができるのです。クリスチャンは、これが全て可能です。ただ、神に従かどうかです。決して難しく考える必要はありません。誰でも、主を愛しているのですから、主に従うことは簡単なはずです。そのことを意識し、主に従うことを信じてください。良い実を結ぶはずですから、楽しみにしていてください。

 

6月7日(火)

主に愛されている者。彼は安らかに、主のそばに住まい、主はいつまでも彼をかばう。彼が主の肩の間に住むかのように。

申命記33:12

 

クリスチャンこそ主に愛されている者です。そのことをちゃんと理解しておきましょう。最近よく聞く言葉に、「自己肯定感」があります。情報化社会に生きる人たちは、一昔前の人たちとは全く違った生き方を強いられます。簡単に言えば、のんびりできないし、かといって、高度経済成長時代のように、がむしゃらに働くこともできないのです。毎日、多くの情報洪水の中で知らず知らずのうちに疲れているのでしょう。さて、ここで「自己肯定感」が問題になってきました。給料も上がらずに悪い時代が長く続き、夢も希望もないような社会になってしまったのです。宝くじに夢を持とうする人たちが増えるのも、頑張れば報いがあるような社会ではなくなったからです。幸せな国からは遠いところに置かれているのです。若い人には気の毒になりますが、それなのに大人の人たちは自己肯定感を持てと言うのです。確かに、そのように生きていけた時代があったのですが、今はそうとも言えないのです。新しい本が出て、そのことを懸念して、自己肯定感ではなく、「自己存在感」を持つことこそが大切なのだと指摘するスポーツドクターが出てきました。カウンセラーも考えなければなりません。その人がその人であることに意味があり、価値がある、と。なにしろ神様が一人一人を最高傑作として創造されているのですから、狭い人間の価値に合わせて人を型にはめるようなことは、やはりおかしいのです。専門家も気がついて、日本が敗戦して、その後の目覚ましい経済復興は、学校に皆が合わせなければならないと教え、工場に入れば工場のやり方に皆が合わせなければならない、というやり方で、秩序が守られ、効率や品質を高める効果があったのですが、新しいより良い国を造る能力や力を培う教育をしてこなかったために、今行き詰まっているように見えるのです。社会の仕組みがおかしくなって自己肯定感を持つように言われても、そもそもできにくい仕組みになっているのです。世界が大きく変わる時代に、それを切り開いて日本を生き残らせて行くには、古い考えに固執していてはいけないと声が聞こえ始めています。大きな変化の時代に入っているのです。日本の人口はまだまだ減り続けると試算されています。きっと、分相応な大国ではなく中ぐらいの国として変わって行くのでしょう。そして、国民が幸せを感じる国へと変われるかもしれません。そのためには、自己存在感は強調されるようになるでしょう。あなたがあなたであるから良い、という社会です。さて、クリスチャンはどのような人でも愛せるように作り変えられている人たちです。まさに、自己存在感を認めている人なのです。あなたが今の時代に生きていて、しかもクリスチャンで主に愛されていることに意味があります。主は、全てを見通していて、あなたを今の日本に置いているのです。あなたは、今日の御言葉の通りに主に愛されている者です。ですから、一人一人の存在を大切に思い、個々の違いを認められるのです。それは、あなたが主によって安全が保障されているからでもありますが、主に愛されていることを知っているからなのです。

 

6月8日(水)

また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力が、とこしえにあるように。アーメン。

黙示録1:5、6

 

黙示録の記事を読むと、私たちが誰によって何から救われ、そして、その後に何にされるのかがわかります。この世にあっては、人それぞれにキリスト者として生きているのですが、信仰によって、新しい命に生かされているのもの真実なのです。私たちは自分が何ほどのものかよく知っています。それゆえに、罪からの解放が何よりもありがたいと思ったのです。しかし、洗礼を受けてクリスチャンになってからは、昔のように生きてはいけないと思いながらも結局は、慣れた生活に戻って行くのです。そのように働く力がもう一つ別のところから明確に存在するのです。そのような中で、私たちに神様は、聖書を与えてくださいました。確かに、信仰生活が一日一日と導かれ、よくわからなかった聖書がだんだんと理解できるようになってきています。それでも、今日のような聖句を読むと、飛躍し過ぎているような気がしてきます。罪からの解放までは、よく語られ、教えられもして理解ができます。しかし、その後の文章で、「私たちを王とし、・・・祭司としてくださった」と続くと、戸惑うのです。しかし、聖書が真実であり、神様からの啓示であることは明らかです。そうなると、信仰の飛躍がなければ追いつけいほどの恵みを具体的に受けていて、それは圧倒的な身分の変更を意味しているということになります。これが、実感できないのは、自力で達成するようなものではなく、イエス・キリストがしてくださることなので、その通りに信じることで、実現する性格のものだからです。そこで、クリスチャンになってから、何度も繰り返し、「義人は信仰によって生きる」と言われてきたことを思い出します。義人とは、神様から私たちを見たときに、神様が正しいと認めた人のことです。それは、神様の御心を行うことが正しいことなのです。では、神様の御心とはどうやって知るのか。それは、聖書に書かれています。だから、聖書を神様の啓示というのです。ですから、聖書に書かれたことを信じて神様の御心を実現することが義なのです。そこで、私たちは、今日からこの聖句をそのまま信じて行こうと思います。一体、どうなるのか楽しみです。きっと、主の恵みの扉が開くでしょう。

 

 6月9日(木)

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

ローマ5:5

 

クリスチャンになったことは、大変すばらしいことなのです。それは、たいてい危機に直面したような非常事態で気がつくことがあります。希望が断たれるような時に、それでも主を信じることができるからです。そして、主を信じることで危機から救われることが起こります。たとえ、そうでなくても、逃れの道が開かれます。夢から覚めたように、信仰が消えそうになっても、主は深い愛を送って目をキリストへと向けます。その時、人はキリストのために全てを失っても惜しくないと思えるようになります。その信仰態度が義と認められるので、大きく道が開かれて行くのです。信仰の道は、決して平坦ではありませんが、信仰者は成長するのです。成功原則は、不平不満を言わないことです。どんな時でも、神様を信じて信頼を表すことです。それは、「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」ことを知ることにつながるのです。私たちは、助けが必要だったり、慰めや励ましが必要だったり、自信が必要だったりする時に神の愛が注がれるのです。疲れた時も、うまくいかない時も、悩んだり困ったりする時だって、神の愛が注がれるのです。だから、いつでも乗り越えていけるし、幸福になれるのです。

 

6月10日(金)

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

詩篇23:1

 

お金のことが心配になっている人は、今日の聖句を唱え、信じましょう。主を信じることは、クリスチャンにとっては当たり前のことですが、主を信じることイコール主を愛することって知っていますか。信じることの意味は、愛するがゆえに信じているということなのです。それに、箴言には次のような御言葉があります。「わたしを愛する者には財産を受け継がせ、彼らの財宝を満たす」(8:21)。財産欲しさに主を信じるというのは、本末転倒ですが、信仰の内容に、愛以外のものもあるのでその影響も出てきます。それは、自分のこだわった考え方などです。例えば、貧乏性の人は、最低限の金銭や物で良いと無意識にブレーキを踏んでしまいます。そうすると、その人の思考どうりになるので、それ以上を欲しいと言ってもなかなかそうなりません。自分が持っている価値観や物差しが全てに影響しているのです。そうした自分が無意識に決めている基準を超えることは、できないように人間はなっているのです。ところが、クリスチャンには羊にとっての羊飼いのように、自分をお世話してくれる方がいるのです。その方が自分に一番良いことを知っていて、全ての物やお金など財産を管理してくれていて、健康も霊的なことも同様に見ていてくれるのです。その恵みを理解すると、全面的に信頼するし、自分が愛されていることを知るので、その方を愛し返すのです。これが、私たちにとってのイエス様です。このイエス様を信頼して愛していると、自分の否定的ブレーキは踏まなくなります。そんな心配すらいらないからです。そうなると、自分にちょうど良い財産が与えられるので、生きて行くことに不安や心配がなくなります。まさに、「乏しいことがありません」と言えるのです。この状態は、貪欲という罪を犯す危険もないし、物欲金銭欲の悪魔の支配からも守られます。そして、お金に縛られない自由を得ることができます。これは、イエス様があなたの羊飼いであるからです。聖書は、書かれたまま信じると良いので、誰でもできます。自分のこだわりからも自由になる力が主の愛の力です。イエス様に愛されていることを否定する人は、自分のこだわりに縛られて何もかもうまくいかなくなるので、注意しなければなりません。毎朝、今日の御言葉を自分に言い聞かせましょう。

 

6月11日(土)

なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないからです。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。

ローマ3:20~22

 

罪の反対は義なので、今日の聖句に義が出てきます。ところが、私たちは義という言葉が出てくると、途端に難しく感じてしまいます。今日の聖句は、有名な箇所で、私たちにとっても重要な御言葉なのです。ですから、時々、読み返しては自身の信仰の歩みが確かか確かめるのです。さて、私たちは人間の常識で信仰を同じもののように考えていることがあるようです。つまり、神の義を得るために、正しい行いが必要だと思っているのです。それでは、正しい行いとは何か? それは律法を守る事です、と答えてしまうのです。ですから、律法を守って神の義を得ようとするわけです。ところが、パウロが言うように、律法を守ろうとしても出来ないことに気が付きます。それどころか、自分の罪を知ることになります。これは、一人残らず例外がないのです。では、神の義を得るにはどうすれば良いのか、それは、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる」とある通りなのです。ですから、私たちはイエス・キリストを信じることに全てをかけているのです。聖書を読むのも、イエス・キリストを信じるためなのです。そして、事実、イエス・キリストを信じて、神の義を与えられているのです。

 

6月12日(日)

彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い抱いて来られた。

イザヤ63:9

 

イエス様のイメージをあなたは持っているでしょうか。私のイメージは、最初は神学校の祈りの部屋に掛けてあったキリストの肖像画です。よく見る長髪の優しいキリストのお顔です。そして、その頃に観た「偉大なる生涯」のイエス様の淋しそうで辛そうなお顔が意外で本当はこんな感じだったのかもしれないと、イメージが変わりました。また、その頃に問題作として話題になった、「ジーザス・クライスト・スーパースター」のイエス様はサイケデリックでぶっ飛んでいました。それから何本ものキリスト映画が作られて、俳優によってイエス様のイメージは異なり、どれもが本物とはずいぶん違うだろうと思いました。イエス様のお顔をイメージすることはできないかもしれませんが、今日の聖句のように、私たちのことを愛し、憐れみを持って接してくださるイエス様のイメージは、私たちの心に宿っていると思います。子供の頃におんぶしてもらった経験があるかもしれませんが、大人になって背負われた経験はないかもしれません。しかし、霊的には私たちはイエス様に背負われて、何度も大変な時に救われてきたはずです。だれにとっても人生は容易くないので、悩んでうずくまってしまうようなことだって起こるのです。そんな時には、あなたが苦しむ傍らに主は立たれ、主も苦しまれるのです。知らないうちに天使が遣わされてきて助けられたこともきっと幾度もあったはずです。ただ、気がついていないだけです。それほどに、あなたは主に愛されています。そして、主はあなたを憐れみ深く見守っていてくださるのです。これほど、主が良くしてくださるので、これからも心配することはありません。

 

6月13日(月)

祝福されよ、主に信頼する人は。

主がその人のよりどころとなられる。

彼は水のほとりに植えられた木。

水路のほとりに根を張り

暑さが襲うのを見ることなく

その葉は青々としている。

干ばつの年にも憂いがなく

実を結ぶことをやめない。

エレミヤ17:7、8

 

聖書には祝福される言葉が書かれている箇所があります。今日の聖句を読めば、その意味がわかります。ここには、主に信頼する人が祝福されることが書かれています。信仰は、主に信頼することなのですね。何があっても主を信頼するということはそう簡単ではないな場合だってあります。自分の願った通りにならないで、願わなかったことが起こる時、信仰が試されます。しかし、主を信頼することが正しいことは明らかです。ところが、弱い人間は、肝心なところで神様ではなく人間を頼り、信頼することがあるのです。それは、エレミヤによれば、「その心が主を離れている」からだと言います。クリスチャンは、このことを学ぶために、多くの時間を費やします。そして、何度も何度も主を頼り、信頼するたびに、その人は確実に、主の御心に近づくのです。その人は、人間の常識には縛られません。この世がどんなことになろうが、一人守られ、栄えるのです。主の御力がその人に満たされて、道は開かれ、手の業がことごとく祝福されます。これほど、はっきりしているのに、なぜ、このように主に信頼しないのか、主を知らない人は気の毒です。クリスチャンの皆さんは、多くの実を結ぶことが約束されています。いろいろ大変なこともあるかもしれませんが、主に信頼してください。そして、今日の御言葉をイメージしてください。とても美しい詩になっています。主があなたのよりどころとなられます。

 

6月14日(火)

あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸を閉めて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

マタイ6:6

 

現代人が祈りの時間が少ないのは、処理しなければならない情報量が多すぎることが一つの要因になっています。私の子供の頃は、のんびりしていてので退屈でした。学校の休み時間には皆んなで遊んでいました。放課後もドラえもんののび太君のように原っぱで遊んでいました。ですから、家の中でゲームをするような多くの情報処理をする必要はなかったのです。でも、現代人が祈るということはスマホのアプリでも作ってもらわなければならないほど、忙しいのです。とはいえ、祈る人は時間をかけて祈っているのも事実です。クリスチャンなら、ちゃんと祈りたいと思っているでしょう。そこで、今日は、イエス様が教えてくださった、祈りの極意を考えてみましょう。今日の聖句をどのように思いますか。日本のように住宅事情に恵まれず、隠れることができる奥まった部屋、とは田舎でもなければ無いでしょう。それでは話しはおしまいになってしまいます。そこで、これは実際の部屋ではなく、心の中の奥まった部屋と考えたらどうでしょうか。心がどこにあるかはわかりませんが、今も心がちゃんと働いていて、いろいろなことを思っているはずです。その心の中の奥まった部屋があると思ってみるのです。そこに入ります。そして戸もちゃんと閉めます。私たちの本心と言える場所です。いつもは、自分をこうみて欲しいとか、人間関係の中で自分ができるだけ楽に生きられるような自分を演じているかもしれません。あるいは、周りから自分はこのようなものであるはずだと見えない圧力があって、その通りに演じている自分があるかもしれません。そうした、自分ではなく、最も本質的な素の自分が現れる、奥の部屋です。神様は、私たちの本当の素の姿を見ておられるのです。そして、その私に嘘偽りはありません。全てが本音です。自分の良いものは全てここから出ています。傷つくのもこの私です。ですから、建前の祈りでもなく、周りの人たちの期待に応える祈りでもなく、自分をもあざむくような祈りではなく、神様に最も近い私がちゃんと祈るのです。素直に、子供のように自分をさらけ出せる祈りです。父なる神は隠れた所におられる、と聖書にありますから、あなたの本当の姿のある所に近くおられるのです。神様に近づくとは、このようなことなのです。聖霊がきっと助けてくださいます。まずは、静まってみましょう。あなたの父に祈るのです。そうすれば、あなたの父が報いてくださいます。

 

 6月15日(水)

むしろ、互いに思いやりとあわれみを持ち、神もまたキリストにあってあなたがたを赦して下さったように、互いに赦しあうように。

エペソ4:32

 

クリスチャンの生き方は、新約聖書の中に繰り返し出てきます。キリストを模範とすることはわかりますが、それが苦難や十字架のことであると腰が引けてしまうでしょう。しかし、それが犠牲の愛のことであると言われると、どうでしょう。例えば、今日の聖句にしても、簡単ではないことがあっさり書かれています。前半の「互いに思いやりとあわれみを持ち」というところは、クリスチャンだからと納得が行きます。しかし、こうも思うかもしれません。「互いに」と言っているじゃないか。ところが、実際には互いになっていないで、こちらが一方的に我慢しているだけだ、と思うようなことが起こるかもしれません。人は隣人がどう思っているかに気がつかないで、自分中心に物事を見たり考えたりしているところがあるので、自分ばかりが頑張って馬鹿みたいと思ってしまうことが起こりやすいのです。誰にとっても難しい課題ですが、聖書はしっかりと指示しています。ここだけではなくコロサイにも同じようなことが書かれています。つまり、どこの教会でも問題が起こり、クリスチャンはどうすれば良いのか指示が必要だったのです。そして、その指示は、信仰の問題だったのです。クリスチャンの基本的な考え方は、後半の聖句に書かれています。「神もまたキリストにあってあなたがたを赦して下さったように、互いに赦しあうように」とあります。つまり、何事にも原因と結果があるのですが、主観的に考えてしまうと、相手を責めてしまうのです。責めるということは、相手が悪くて、自分は悪くないということを意味しているので、本当のことを著していないかもしれません。つまり、自分にだって何かしらの原因を作った非がないとは言えないのです。しかし、人間の不思議ですが、原因を作った自分は見えなくなって、自分の感情を害した相手のことだけが見えているのです。そして、それに加えて、誰でも自分が責められると怒りが湧くのです。責められることに弱いのが人間なのです。これも、相手が責める気がなくても、自分が責められたと感じたら、それで十分感情を害するので、相手が責めたことになってしまいます。人間って難しいですね。ところが、聖書が命じていることは、こうした問題の対極にあります。「互いに赦しあいうように」という命令だからです。どちらか一方が赦すようにとは言っていません。私たちがキリストのようになりたいというのなら、互いに赦しあうことです。赦すことができるようになれば、その人の器は大きく成長しています。そこには自己犠牲の愛が生じています。だから、赦すために「思いやりと憐れみ」を持つ人間に成長したいわけです。そのために聖霊は助けてくださいます。相手の悲しみや弱さが見えるように、聞こえるように、聖霊は不思議を行います。その途端に、憐れみが心を満たします。そうなると、どっちが正しいかなどどうでもいいことになります。相手を赦すことは自然にできるようになります。このようにできるまでは、訓練の時が必要でしょう。時には、自分自身を赦すことも必要になります。そして、キリストにあって神様が私のことも相手のことも赦したことを自覚することです。キリストに似た者となる、ということはやはり苦難と十字架抜きには考えられないことなのですが、そこにある愛が自分の中に置かれることを期待できるのです。

 

6月16日(木)

イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

ヨハネ8:12

 

この世が暗闇だとは知りませんでした。聖書を読んで、考えてみて、確かにそうだと思うようになったのです。多くの人はそのことを知りません。ですから、彼らは暗闇の中を歩いているのです。でも、幸いなことに、私たちはキリストに従うことに決めたのです。それは、イエスの御言葉によれば、「命の光を持つ」ことになるのです。暗闇は何も見えないので、見えないままに生きていることになります。見えないものは、罪と聖書が教えていることです。ですから、罪人は罪を犯しているのに気がつかない人のことです。アダムがそうであったように、罪人には罪を犯しても誰かに責任転嫁してしまい、自己正当化することで悪いのは自分ではないとする性質があります。これが暗闇です。「暗闇の中を歩かず」とは、主に従って生きるのですからもう罪を犯さないで生きることを意味しています。しかし、それでも罪を犯してしまったら、自分の罪を認めて責任転嫁せずに、すぐに悔い改めることが肝心なのです。信仰者にとって大切なことは、イエス・キリストに従順に生きることですが、キリストは世の光なのです。天国には太陽がないそうです。それに影もないのです。それは、神が光で、神は偏在といってどこにでもおられるので、影が無いのです。あなたの幸いは、「命の光を持つ」と言われた通りになっていることです。ですから、あなたはいつでも明るく生きることができます。あなたがいる所には命の光があるので、人を助けることも、良い影響力を及ぼすことも可能です。人が一番欲しがっている、無条件の愛を与えることもできます。暗闇の中を歩まなくて済むようになったのですから、キリストに感謝しましょう。

 

6月17日(金)

ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。

ローマ4:4、5

 

人が救われるのは、信仰によります。これは、クリスチャンなら誰でも知っています。ところが、この信仰によって義と認められた人のその後のことは、どう考えればいいのでしょうか。確かに、今日の聖句が言わんとしていることも、働いた人が報酬をもらうことは当然で、それを恵みとは言わない。しかし、キリスト教の救いの場合は、本人が何か義と認められるようなことをしただろうか。いや、義と認められるようなことは何もできない。それなのに、福音を信じて救われるのは、その信仰を神が義と認めるからであって、これは神の恵みそのものだ、ということです。キリストの十字架による贖い無しには人は義と認められないのです。罪があるのに、義と認めることはさすがにおかしなことで、無理があります。しかし、罪を償ったなら、そして、罪の汚れを清めることができるのならどうでしょう。キリストの十字架には、罪人の罪の代償としてキリストの命を支払ったのです。それが彼の贖いとなりました。さらに、十字架には罪人の内にある罪、この罪が罪を生み出している大元の罪ですが、この罪を殺す力があるのです。そして、すでに犯した今までの個々の罪はキリストの血潮によって清めることができます。このように、キリストの十字架を信じた人には、罪の問題を解決することが可能になります。さらに、このようにキリストを信じた人の信仰告白として洗礼を受けることで、清まることができます。さて、霊的には信仰によって、キリストの十字架に自分の罪も釘付けにしたのに、あるいは古い人に死んだのに、しばらく経てば、またクリスチャンが罪を犯すことがあります。つまり、実際に死んだわけではなく、霊的に死んだことを信じて死んだということになっているので、信仰が弱まったりすれば、たちまち信じている力が弱まり、肉が働き始めるのです。肉の内にある罪の法則がまた動き出すのです。その力に意志の力や努力などで打ち勝つことはできません。ですから、律法を守れないということになるのです。それでも、信仰があるのなら、希望があります。信仰によってキリストに結ばれているからです。それは、「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」(ローマ8:1、2)と書いてあるからです。つまり、内住する聖霊が罪の法則に打ち勝つことができるということです。その聖霊の働きのために、あなたの信仰が必要です。これで、信仰が重要だとわかりますね。

 

6月18日(土)

なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。

Ⅱコリント5:14

 

クリスチャンは愛という言葉をよく使います。愛が大切であることを知っています。そして、神が愛であると理解しているのです。この愛こそが、私たちにとって最も重要なことなのですが愛を説明できるでしょうか。ヴィトゲンシュタインは、愛について上手に説明しています。「愛されると嬉しい。愛されないと淋しい。愛されなくても、愛することができれば満たされる。愛がほしくて見つめる。少しでも愛が感じられれば、胸が暖かくなる。愛するものがあれば夢中になれる。そういう愛の変わるになるものはこの世に何もない。幸福と呼ばれるものの中には必ず愛が含まれている。いや、愛こそが幸福そのものなのだ。」(『超訳ヴィトゲンシュタインの言葉』95頁)。私たちが幸福なのは、イエス・キリストに愛されていることを知ったからです。どんな境遇にあっても、イエスの愛から自分を切り離すことはできません。それどころか、自分が主のものであれば、主は愛なので、自分もまた愛になれるのです。そして、私たちが特別なのは、キリストの愛が私たちを駆り立てているからなのです。だから、私たちは無理なく主の御心を実現することができます。それは、愛の幅が広いので、こんなことが愛であるのかと驚くほど小さなことであったりします。あなたは、主の愛に駆り立てられて、どんなことをするようになるでしょうか。断言できることは、主に愛されて幸福だと思えるようになるということです。

 

6月19日(日)

あなたがたは、以前はくらやみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。

エペソ5:8

 

この有名な聖句は、なんとなくそういうものなのだろう、と理解して、深く考えずに読み飛ばしてしまう可能性がある箇所です。確かに、ヨハネの福音書にも暗闇が出てきます。この罪の世を暗闇と表現することは正しい。その中に自分も罪人として含まれていたのだ、と思うからです。では、「今は・・・光となりました」とありますが、どのようにして光となったのでしょう。それに、「光の子どもらしく歩みなさい」とは、どのように生きればいいのでしょう。この答えは、ご自分で考えてみましょう。そして、ご自分がここに書かれたようにうまく行っているか吟味してみましょう。キリストは、あなたを光としたのでしょうか。これは、光だけに明るく楽しく考えることが肝心です。そして、自分を否定しないで、肯定してください。間違っても、光の子らしくなかった、とか光の子とはとても言えない、などと考えないことです。だって、「主にあって」と書いてあるからです。決してあなたの頑張りで光の子となったのではありません。キリストがあなたを光の子にしたのです。それを暗闇に戻すことなどできるはずがありません。ですから、この課題は、自分が主にあって、光となったと再確認して、そのように信じることが期待されます。良い御言葉の瞑想の練習です。お試しください。

 

6月20日(月)

あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。「これが行くべき道だ、ここを歩け、右に行け、左に行け」と。

イザヤ30:21

 

人生には、どうすれば良いのかと迷う場面が幾度も現れます。良い選択をしなければ大変なことになる。思慮なくただ生きていた時には、原因と結果など考えもしなかったでしょう。自分の選択次第でその後の運命が変わるとすれば、間違えられないでしょう。しかし、そのように懸命に選択を誤らずに成功の道を行ける人はほとんどいません。ところが、聖書には神を信じる人に恵みとしか言えなような良い約束があり、その一つが今日の聖句です。神を信じて救われたのですから、その後の人生も神が関わってくださいます。それは、天国へ入るためです。天国へ入らなければ、全て意味が無いのです。そこで、正しい道から逸れないように、神は行くべき道を教えるのです。ということは、クリスチャンは道に迷わなくて済むのです。人生の重大な選択を自分一人で決めなくても良いのです。私たちの特権である祈りを用いて神に行くべき道を聞いても良いし、聖霊に導きを求めても大丈夫です。それ以上に、主の御声をちゃんと聴こえるようになる必要もあります。これも祈りの課題です。それにしても主は優しいですね。私たちが困らないように、背後から信仰の旅路を導いてくださるのです。自分一人で頑張って努力し続けて道を探しなさい、とは言わないのです。主は、あなたがちゃんと気がつくように道を指示されるはずです。信仰によって、それを見分けましょう。

 

6月21日(火)

まことに、主のほかにだれが神であろうか。私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。

詩篇18:31、32

 

みなさんは、クリスチャンになって特別になりました。それは、ご自分の神様がだれであるかを明確にしたからです。キリスト教は一神教ですから、他に神々がいるわけではありません。古代の聖書時代には、さまざまな国や民族によって多くの神々が拝まれていました。現代の日本でも八百万の神々が拝まれ、その他にも新興宗教や外国の神々まで拝まれています。しかし、クリスチャンが信仰する神と他の神々では全く違っています。日本人の歴史を調べても、偉人が神として祀られることは普通でしたから、権力者たちの権力争いが神話になって伝わり、勝者に都合よく脚色されていることがありそうです。受験のために闇雲に歴史を覚えていた人には本当の歴史はわからないかもしれません。歴史の真実を読み解く考える力が必要だからです。聖書ですら、サムエル記と歴代誌のダビデ王の記録は微妙に違っています。記者が預言者のものと王に仕える書記官のものの違いです。王に都合の悪いものは記録できなかったのです。それなのに、その二書があるので、本当のことがわかってくる仕組みになっているのも聖書故でしょう。さて、人間の罪深さは、権力闘争に象徴的に現れています。現代でも覇権を争って、人々の幸福とはかけ離れた非人道的な事が起こってしまいます。その悪い影響は、今や全世界が受けることになるのです。もし、本当に神様がいなければ、希望はありません。しかし、クリスチャンは、今日の聖句と同じことを告白できます。どんな時代に生きていようが、神様は生きておられるので、信じる者を助けてくださいます。そして、危機の時にも不動の岩となって私たちの安全となってくださるのです。このような事ができる神々はいません。そればかりか、私たちの神様は、あなたに力を帯びさせることができます。つまり、あなたが力なく弱い者であっても、主にあって強い者となれるのです。クリスチャンの道は、主イエス・キリストです。主は、日々の生活を通してあなたを訓練し、信仰を強め、古い自分を捨てて、新しい人で生きるように導きます。つまり、神の子として生きることを促しているのです。ファリサイ派の人たちは、律法を学び実行しようと努力しましたが、届きませんでした。そして、律法に照らされて自分の罪が明らかにされているのに、認めずに偽善者になりました。これは、わたしたちへの教訓です。ですから、信仰のみで義となれるので、主への信頼により完全となれます。ただ、主が自分を救って神の子として、神の国へ入れようとされていることを信じていれば、自分に起こるさまざまな出来事が偶然ではなく、神様が私に気づきを与えようとされていると悟れるはずです。ですから、まずは、今日の聖句を自分の言葉として言ってみましょう。

 

 6月22日(水)

あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。

コロサイ2:6、7

 

クリスチャンは、「キリストに結ばれて歩みなさい」と命じられています。結ばれるとはどのようなことか、と難しく考える必要はありません。キリストに結ばれていると考えて生活することから始めればいいだけです。クリスチャンが信仰問題を起こす時は、いつでもキリストを忘れている時に困ったことが起こるものです。ですから、基本的な教えであることを理解して、いつでも私はキリストに結ばれていると思っていることです。その延長で、キリストを意識していると何でも、キリストを通して考えるようになるので、間違った道へ迷い込む事がありません。より安全で、成功する、最善の方法です。さて、「教えられたとおりの信仰をしっかり守って」という聖句は、いかがでしょうか。教えられた信仰と言っているのですから、 バプテスマ・クラスで教わっただけでは足りません。そこで、聖書を学ぶ必要が出てきます。ここでも、難しい神学を学ぶ必要があるということではありません。誰でも、理解できる信仰です。聖書を読んで、わからないところを考えて、必要なら牧師や教師に聞けばいいのです。兄弟姉妹と聖書研究会が開ければそれでも十分です。また、キリスト教書店や図書館でも、キリスト教の信仰を学ぶ本はあります。説教は多分、一番わかりやすい信仰の学びです。ですから、毎週礼拝を受けて説教から学ぶことはとても役に立っているのです。問題は、聞いて終わるのではなく、自分が気ついたことを信仰生活に生かすことです。負担になる程頑張る必要はありません。無理なく続けることが大切です。聖書を繰り返し読んでいくと、聖書のいろいろな箇所がつながっていることにも気がつくようになります。一番良い伝道が、聖句をそのまま使って福音を語ることです。質問に、聖句で適切に答えられるようになると素晴らしいですね。さて、信仰の成功法則を最後に教えると、「あふれるばかりに感謝しなさい」です。これほど簡単なことなのに、実践しない人が多いのは残念です。でも、これを実践している人もいるのです。当然、あり得ないほどの祝福を受けています。いや、すでにクリスチャンは祝福を受けているのですが、それが見えないので受け取っていないのです。ですから、実践すれば、主の祝福を受け取る事ができます。あなたにとっての「あふれるばかり」とはどれほどのものでしょうか。早速、練習してみてください。楽しく、心から感謝するのです。

 

6月23日(木)

そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。

ヘブル6:11、12

 

「最後まで」とは、死ぬまで、あるいはキリストの再臨の日まで、という意味です。私たちの希望は、キリストによって救われる事です。たとえ死んで眠りについても目覚める日が来るのです。それは、キリストが約束を守って、私たちを迎えるに来てくださる時に、死人を復活させるからです。生きていれば、そのまま空中に引き上げられ、キリストのみそば近くに昇って行くのです。私たちは、再臨がなかなか来ないとせっかちなことをつい言ってしまうかもしれませんが、それで、熱心さを失ってはいけないのです。聖書が示すお手本になる人たちは、とうに眠りについています。しかし、この手紙を受け取った人たちにとっては、生きている人たちだったのです。私たちが知っている人ではパウロがその例です。パウロは、自分にならう者になるように勧めます(Ⅰコリント4:16、11:1、フィリ3:17、4:9、Ⅰテサ1:6、2:14、Ⅱテサ3:9)。それは、とりもなおさず、キリストにならう者となれ、という意味なのです。パウロもキリストにならう者だったからです。そして、驚くことに、キリスト教二千年の歴史の間、そのように「ならう者」となった忠実に信仰を守った人たちが途切れることなく続いたということです。そして、今はあなたの番なのです。11節に「希望」が、12節に「信仰」が、そして10節には「愛」が記されています。これらは、キリスト者の生活の三つの基本徳目なのです。「なまけずに」と書かれると、ドッキとして身が引き締まりますね。

 

6月24日(金)

人間を豊かにするのは主の祝福である。

人間が苦労しても何も加えることはできない。

箴言10:22

聖書の1ページ目から普通の本のように読み始めると、アブラハム、イサク、ヤコブといわゆる族長物語が出てきます。彼らは、今日の聖句の体現者です。一番わかりやすいのは、ヤコブが義父に次々と報酬の条件を変えられる時、いつでもヤコブに有利になって、ヤコブが主に祝福されていることが明確にわかるのでした。もし、主が何もしなければ、ヤコブは惨めな人生を送り、聖書の歴史は続くことはありませんでした。このように、神様を信じる人には、祝福があります。その祝福を信じていれば、手の業はことごとく繁栄して成功するのです。しかし、人間は自分の力で何かしなければとついつい欲が出て気持ちばかり焦って失敗するのです。主を信じることを第一にすることは決して難しいことではありません。ただ、常識を無視するということではないので、会社などで働いている人は、辞めて何もしないで豊かになろうとしても無理です。普通に仕事をして、どんな小さなことでも忠実に誠実に働くとそれが想定外の祝福につながっています。それは、ヤコブの息子のヨセフの生涯に典型的に現れています。奴隷になっても、囚人になって牢に繋がれても、主を信じることをやめませんでした。それ以上に、主を信じる者として、誠実に働くので、どこでも信頼を獲得することができます。そして、忍耐が試されますが、その信仰が本物であると証明できると、圧倒的な祝福が押し寄せてきました。ヨセフは、エジプトの王の次に位にいっぺんに昇進したのです。そして、捨てられた兄弟たちを赦し、親と一族を救ったのです。この物語が聖書の初めの一冊に書かれているのは、今日の聖句をあなたに悟らせたいからです。あなたにも主の祝福が与えられているのです。それが現れるように、熱心に主を信仰するのです。そうすれば、あなたは主によって豊かにされます。

 

6月25日(土)

人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の栄光は、そむきを赦すことである。

箴言19:11

 

クリスチャンはキリストにならう者と言われているように、聖書に一致する生き方を望んでいます。そこで問題となるのは、今日の聖句です。怒りが悪いものであると考えるのは、人間の常で、怒って失敗した経験を持っているからです。自分に都合の悪いことはたいてい忘れる事ができるのですが、怒りはしばしば簡単に顔を出すので、どうしても思い出してしまうのです。その結果、後悔したり、苦しんだりするし、痛みを感じることもあるのです。年を重ねても、感情的な人は怒りを制することができずに、罪を犯すか、人を傷つけるか、何かしら悪いことになります。感情を支配しようとしてもそれは非常に難しいので、いつも失敗します。では、どうすることもできないのでしょうか。幸い、聖書は「思慮があれば」とヒントを与えてくれています。ただ、思慮があれば怒らなくなる、とは言わずに、「怒りを遅くする」と言っているのです。つまり、相手がいれば、その人が何を言いたいのか最後まで聴くことです。そうすれば、この人がなぜこのような振る舞いをしているのか、その言動の背後の心理が見えてくるのです。たいていは簡単で単純なことです。しかし、感情の豊かな人は脳の神経回路が優れているので、すぐに相手の言葉を最後まで聞かずに、こうだと勝手に結論を決めつけて怒り出すのです。あるいは、言葉ではなく、その人が自分をコントロールしようとしていることを敏感に感じ取って、それに反応して怒ってしまったりするのです。これでは、人間関係を壊してしまいますから、大問題です。幸い解決方法はあります。それは、キリスト者の信仰にあります。つまり、自分はキリストと共に十字架にかかっているのだ、という信仰が大事になります。十字架にかかっているのは、死ぬためです。死んだ人間が怒ることはないのです。自分が死んでいるかどうかは、相手のそむきを赦せるかどうかで測ればいいのです。今できなくても、キリストが十字架で古い人を死なせることは時間の問題です。そうなれば、主はあなたが本当に死んだかどうか試されるかもしれません。私は試されました。その時には気がつきませんでしたが、やがて、知ることになります。そして、聖書には有難いことに、「その人の栄光は、そむきを赦すことである」とありますから、この世的には、惨めに感じるかもしれませんが、神様から見るとそれは栄光となって見えているのです。人間の誇りが罪の温床になりやすいので、自分の誇りがことごとく踏みにじられるようなことになります。でも、それこそが栄光なので、逆説的ですね。この世の栄光よりも天での栄光こそが価値があるのです。

 

6月26日(日)

これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。

詩篇119:50

 

人間は些細なことですぐに悩み始める傾向があります。悩みは、健康をそこない、自ら不幸を招いてしまいます。しかも、悩んでも解決しないのです。信仰者は、悩まずにすぐに祈ります。そして、聖書を開いてみるのです。すると、いつもなら目にも心にもとまらなかった御言葉が目にとまるのです。人によっては、光っていた、と言ったり、大きく見えたと言う人もいるのです。とにかく、その御言葉が心に響いたのです。それは、まるで不思議な特効薬のように心を悩みから解放します。ちょうど、慰められた人のように、暗闇から光のもとへと連れて行かれたようになります。そして、神様にお言葉を語りかけていただいたように、悩みの原因が取り除かれ、自分は何もしていないのに、問題が解決したような安堵感が広がります。そして、問題に立ち向かう気力が満ちてくるのです。このように、感じているだけでなく、実際にも祈りは主に聞いていただいたのですから、最善の解決を主が図ってくださいます。ですから、具体的な結果を知ることになり、一気に安心が心を満たすようになります。ただ、時には、悩みの原因がその人の信仰を育て、強めるためであることもあります。そのような時でも、聖書を開いて示された御言葉が私を生かすという経験を期待することができるのです。

 

6月27日(月)

主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。

伝道3:1、2

 

私たちは、主のお守りが保障されています。もちろん、私たちの信仰を育てたり、才能を開花させたり、品性を整えたり、人格の成長のためであったりと、試練も避けることはできませんが、それでも、主があなたをとこしえまで守と約束してくださっていることは間違いありません。また、人生はこれからどうなっていくのか誰も知りません。それでも、前に進まなければなりませんから、不安になる時もあるでしょう。そんな時に、今日の聖句の通りの主の約束があることを思い出せば、恐れることなく前向きに生きていけます。時には、勇気を出して挑戦をしようと思うことだって可能です。また、「行くにも帰るにも」とあるので、日々の生活が守られると理解すればいいのですが、それだけではありません。あなたが始める仕事も、何かの挑戦も、誰もやったことのないことをやってみる時も、守られているのです。たとえ、試みが失敗してしまっても、上手に後始末ができるように主に守られているのです。これが、とこしえに続くと言うのですから、驚きです。人生に臆病になる必要などないのです。自分で勝手に、ダメだと決めつけてはいけません。人の否定的な言葉にも負けてはいけません。たとえ、人から批判されても、誹謗中傷されても、それでも主のお守りは続いているのです。大切なことは、主に守られていることを疑わないことです。主に守られているのに、勝手にそれを否定してはいけないのです。あなたは神様が見えますか、見えないですよね。見えていたら死んでいます。ですから、神様が守っていることも見えないのです。需要なことは、それでも信じることなのです。そうすれば、主のお守りの中に生きていることが実現します。すごい特権ですね。

 

6月28日(火)

異国のむなしい神々の中で、大雨を降らせる者がいるでしょうか。それとも、天が夕立を降らせるでしょうか。私たちの神、主よ。それは、あなたではありませんか。私たちはあなたを待ち望みます。あなたがこれらすべてをなさるからです。

エレミヤ14:22

 

今、雨が降らずにダムの貯水量が減ってしまって、困っている地域があります。関東も記録的な梅雨の短さで、6月に梅雨明けしました。今年の夏の渇水が心配されています。古代ならば、雨乞いがなされていました。現代は科学技術が進んだとはいえ、雨を自由に降らせることはできません。だから、ニュースになるわけです。しかし、今日の御言葉の通りに、大雨も夕立も神様の業なのです。出エジプト記を読んでも、荒野で神様が水を出してくださった記事があります。神様は私たちに必要なものをご存知ですが、私たちの罪が神様の恵みをことごとく受け取れないようにしているのです。雨が降らなければ、農業にも影響が出ます。物価高に加え、品薄になれば、高騰するのは目に見えています。すべての人間が神様を信仰していれば、事態は変わっていたでしょう。そもそも、環境破壊からの異常気象など起こしているのは、人間の罪に原因があると思います。気象学者は異常気象の原因を説明することはできても、なぜ、そうなったか人間の罪責についてまでは考えていません。自分の住んでいる所の天気予報をスマホのアプリで簡単に知ることのできる現代でも、神様が雨を降らすことも降らさせないこともできるとは、知らないのです。イエス様は、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:13、14)とお語りになりました。ですから、霊的な水、人間が魂の渇きを覚えなくてよいような水が必要なのですが、与えることができるのはイエス様だけなのです。私たちは、この両方の水を必要としています。そして、与えることのできる方を知っています。ですから、祈って求めましょう。

 

 6月29日(水)

私たちは一人一人、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。

ローマ15:2

 

私たちには、クリスチャンとしての生き方があります。その一つのリストが今日の聖句です。つまり、ここにある通りに心がけるだけで、人生はより良いものとなります。自分で勝手にクリスチャンだから人に親切にしよう、とか道徳的模範となろうなどと高邁なことを考えているなら、すぐにガッカリすることになります。しかし、今日の聖句はきっとうまくいきます。まず、「隣人を喜ばす」、何か楽しそうです。人間関係に悩む必要がなくなります。隣人を喜ばすことを心がければ、隣人への接し方が変わります。普通の人は、他人に接するだけで緊張し、神経質になります。その人が明らかに好意を向けてくれば良いのですが、そうでなければ、相手が悪感情を持っていなくても、過剰に反応して相手を恐れたり、笑わなかった、とか何かしら否定的なことを考えてしまう傾向があるのです。でも、そのように消極的に人間関係をとらえずに、相手を喜ばせるのだと思っていれば、相手を恐れることはありませんし、相手も好意的にあなたを見るようになります。さらに、「その徳を高め」ようとするのですから、つまらないジョークを言って喜ばせようとするような低次元の話ではないこともわかります。あなたは、どうすれば「徳を高める」などと難しいことができるのだろうと途方に暮れるかもしれませんが、そんな心配は無用です。あなたが徳を示せばいいからです。徳がなければ、徳を得るようにしましょう。すぐに怒ったりしないように努力します。自分にひどいことをされても忍耐して赦すように努めます。愛を表すことができるように聖霊に祈りましょう。そして、「その人の益となるようにすべき」とあるのですから、結局、その人の益となるようにすることを考えていけば、徳を高めること、喜ばすことに繋がっていくのです。聖霊の助けがありますから、心配することはありません。まずは、自分で予行演習しても良いのです。それが、最も手っ取り早く、この三つのことを隣人に実現する早道なのです。このように、高い目標があると、人はその目標に向かって確実に向上して行くのです。楽しみにやってみましょう。

 

6月30日(木)

悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。」

Ⅰペトロ3:9-11

 

クリスチャンは人に左右されないように生きています。そうでなければ信仰を守り通すことが難しくなることがあるからです。この世では、グループの中で誰かが人の悪口を言い出すと、それに乗ってしまう人たちがいます。そこで、クリスチャンは口を閉ざすことになります。しかし、その悪口が自分に向けられるとどうでしょう。こちらもやり返したくなるでしょう。しかし、クリスチャンは悪に報いないと決めているのです。次に、誰かに侮辱されるような事態になると、怒りが湧いてきます。そして、こちらも相手を侮辱で応酬したくなります。しかし、クリスチャンは口を開いた時には、相手を祝福しているのです。これは、信仰がなければ到底できません。しかし、クリスチャンには神様が働いているので、訓練されています。そして、古い自分が砕かれて行くのです。ですから、ひどいことにも甘んじて耐えることができるのです。しかし、耐えるだけでは、相手を祝福することはできません。祝福するためには、心が相手を赦して祝福したいと願わなければなりません。ここまでくると、祈りと聖霊の助けなしには難しいのです。しかし、今日の聖句をよく読むと、私たちが召されたのは「祝福を受け継ぐため」と書かれていることに気が付きます。これは、神様が私たちに実現してくださった真実です。そうであれば、私たちの使命が人を祝福することと理解できます。つまり、良い使命を与えてくださっているのです。悪いことをしている人は、それぞれ何らかの事情が背景にあります。多くの場合、子供頃から正当に愛されていないことが原因になっています。罪の世界だからこその理由です。ですから、正当に愛されることが必要なのです。しかし、どんな人をも愛することは神様でなければできません。ですから、私が愛してやろう、などと高慢に考えているなら失敗します。無理して愛そうとすると、すぐに挫折することになります。先に書きました通り、古い自分が砕かれて死んでいれば、聖霊は自由に私たちの内から働きます。それ以外はうまくいきません。さて、真面目なクリスチャンは、それでも何かしたいのです。それなら、今日の聖句の下句、「いのちを愛し、・・・」と続くカッコ内の御言葉を実行することです。このために努力してもかまいません。効果はあります。幸いな日々は待っています。ぜひ、暗唱して実践してください。