2019年10月ディボーション

10月1日(火)

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

ローマ3:23、24

 

ローマ書はどの聖句も意味が深く重要ですが、その中から今日の聖句を選ばなくてはなりません。それがこの聖句です。さて、罪を犯したということは初めに悟ることですが、自分が正しくないということは受け入れ難いので、時間がかかります。しかし、人の救いには重要なのでこの問題は避けて通れません。さらに、キリストの贖いの業を通して、つまり、十字架を私たちは罪びとゆえに必要としているのです。そこまでは、理解ができるでしょう。問題はその次です。「神の恵みにより無償で義とされる」という箇所です。私たちは、子供の時から、良いことをすれば良い報いがあり、悪いことをすれば悪い報いが待っている、と教えられてきたのです。そのために、自分の正しい行いによって、神が義と認めてくださると思っていたのです。罪の性質が自己中心なので、自分が罪人であることはとても理解し難いのですが、それでも聖霊の助けを受けて罪を悔い改め十字架に近づくことができるのです。そして、罪の許しを受けてクリスチャンになるのですが、それでも、「無償で」という意味を完全に理解するのに手間取るかもしれません。ただで義とされるというのです。私たちは日本人なので、何かを貰えば、お返しをしなければ気が済まないのです。無償で、というのは私たちが何もしないということです。何の功績がなくても良いということです。神がありのままの私たちをキリストによって救い、さらに義となるようにしてくださるというのです。それを神の恵みと言うのです。もう少し付け足すと、クリスチャンの生涯は、神が義とされる期間となるのです。それは、試練が突然始まったり、祈らざるを得ない状況になるとか、教会での奉仕や、日々の生活の中に義とするための訓練が組み込まれているのです。時には鍛錬と呼べるような状況にさらされます。それでも、義とされる喜びもあります。自分が努力したのでは到底達成できない義をクリスチャンは信仰生活の中でゆっくりと達成して行くのです。ありがたいことです。

 

10月2日(水)

わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。

ローマ4:24、25

 

私たちの問題は、自分が神様から義と認めていただけるのかどうか、というものです。そこで、私たちは、義と認めていただくために、良いことをしようと考えます。それは、簡単ではありませんが、何かしら努力をすると、その気になってきます。しかし、良いことの努力の反動のように簡単に罪を犯してしまうのです。そこで、悔い改めて、再度挑戦します。結果は同じなのに、その後何度もチャレンジを続けるのです。真面目な人はそこで何かおかしいと気がつくはずですが、いい加減に考える人は、そのうち、妥協し始めます。満足はできませんが、ダメだとも思えないのです。この両方が正しくありません。それは、今日の聖句を読んでみれば明らかです。神様が私たちに要求しておられるのは、「主イエスを死者の中から復活させた方を信じ」る事です。この誰にでもできることを救いの方法として神様は用意されたのです。私たちは罪人でしたから、こんなに簡単ではいけないと考える人もいます。しかし、罪が取り返しのつかないことであれば、私たちには罪の解決と神様から見て義となることは不可能です。そこで、神様に救っていただくしかないのです。その方法は、イエス・キリストにかかっていました。「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」。ですから、私たちが自分を義とするためにできることは、主を信じることだけです。イエス・キリストが十字架で死ななければならないほどのことを私たちが何かすることで同等のことができるとは到底思えません。私たちは、キリストの十字架の死に信じることで繋がり、罪の清算をするために霊的に死ぬわけですが、復活されたキリストは、新しく命を与えられて生きる者になることで、私たちがキリストと同じように新しい命を受けて神様に義としていただけるのです。そこで、信じることに焦点を当てる必要があります。ありがたい、ありがたい、と言って信じるのです。

 

10月3日(木)

そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。

ローマ5:3、4

 

聖書に書かれた御言葉は私たちに確信を与え、生きる力を得ることがしばしばあるのです。例えば、クリスチャンになっても、苦難があることを教えます。ただ、クリスチャンになる前ならば、苦難はただ嫌なことで、避けることばかり考えていたでしょうが、クリスチャンになった後では、苦難にも意味があることを悟ります。それは、苦難により忍耐を身につけます。その忍耐こそが練達を与え、そして練達は希望を生むのです。この希望は決して欺くことがありません。人間は、成長することができるので素晴らしいのですが、成長する時には通常以上の何かが自分を追い込みます。それはたいていの場合、苦難と呼ばれています。素晴らしいと人が認める人間の特徴は忍耐が身についているところです。この忍耐を身につけるには、苦難が必要になります。器が大きい人というのも、実は忍耐することを知っている人のことです。その忍耐を通して、人は練達に達するのです。その域に至れば、希望が意識されるようになります。希望は、人の可能性を拡大するので道が開かれて行きます。さらにクリスチャンの場合は、聖霊が明確に働き、神の愛を心に注いでくださるので、この世に支配されなくなるのです。神の支配の中にとどまり続け、希望を消すことなく、自由になるのです。ですから、入り口の苦難に戸惑っていてはいけません。良いことが始まったと知るべきです。信仰と祈りと御言葉が全てを正しく、主の御心にかなったあるべき道へと導き、聖霊が力づけてくださいます。

 

10月4日(金)

このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

ローマ6:11

 

糖質ダイエットをしてみました。このような試みは、初めこそ頑張るものの次第に挫折へと向かうものです。しかし、今回は3ヶ月も続いています。それは、厳格にしていないからです。肉の性質はいつでもバランスを取ろうとするので、極端なことを続けても揺り戻しのように、反動が起こるので続かないのです。これも自分を守ろうとする防御装置のようなものです。しかし、体がいつもと違うけど、外食をしたり、甘いものを時には食べていると、錯覚を起こすようで、大きな反動が起こりにくいようです。これは、信仰者が覚えておくべきことだと思います。清く正しく生きることは、クリスチャンにふさわしいのですが、元々の古い人は記憶が残っていて、罪を犯そうとするのです。邪悪な心を持っていた人なら、その邪悪さは機会を捉えて表に出てこようとするでしょう。しかし、クリスチャンになった新しい人は聖なる生活を送ろうとします。ここに問題が発生するわけです。今日の聖句はとても興味を引きます。それは、最後のところを読むと「考えなさい」と書いてあるからです。今まで私たちは、「信じなさい」という言葉を守ろうとしていました。しかし、失敗すると、自分を責めることになります。なぜ自分はちゃんと信じきれないのだろう、自分は不信仰でダメな奴だと落ち込むかもしれません。そこで、信じなさいと言われると、それは知っています。ただ、うまく信じることができないのです、と諦めてしまうかもしれないのです。しかし、考えることならできるはずです。理屈ぽいかもしれませんが、聖書に書かれた通りに考えてみるのです。考えるのだから、感情とは違います。ただ考えればいいのです。その結果は、試してみればわかります。自分の心が納得するまで考えてください。

 

10月5日(土)

「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのがわかります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。

ローマ7:22~24

 

律法に習熟していたパウロは、自分を深く内省して、人間の仕組みを理解したのです。これは、私たちにとっても重要な箇所です。旧約聖書を初めから丹念に読み始めると、出エジプト記20章で十戒が出てきます。これは、心では受け入れられる事なので、守ろうと決心することができます。どこれも正しい事で納得できます。ところが、新約聖書でキリストは、厳格に解釈を深めます。その途端、自分が守れていないことに気がつくのです。パウロは、正しい事をしたいという思いを心の法則と言っていますが、その心の中ですでに葛藤が始まります。誰かが自慢して見せびらかしいる物を欲しがり、人のものが欲しくなったりします。しかし、それはむさぼりだから罪になるので、あきらめようと考えるのですが、うっかりしているとまた欲しがっている自分に気がつくのです。このような葛藤は誰にでも日常的に起こります。自分にひどい事をして傷つけたり、誹謗中傷する人がいれば、恨んだり、やり返したりして、決して赦そうとしないかもしれません。もっと簡単にわかるのは、食欲との戦いです。人間の欲と名のつくものはすべて罪と直結しているのです。せっかく、心で聖書に書かれた通りに正しく生きようと決心しても、あっという間に罪を犯してしまうのが人間なのです。その罪は、律法に照らして初めて、ああ、これは罪かと気がつくほど、自分五体から自然に出てくるものなのです。これでは、頑張りようがありません。いくら決心しても、勝手に罪が出てくるからです。クリスチャンにとって、これはなんとかしなければならない決定的な事なのです。もし、人間の努力以外に解決方法がなければ、絶望するしかありません。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」とパウロでなくても言いたくなります。しかし、これでは救いは無いと言っているのも同じです。ということは、イエス・キリストは救いの道を作ってくださったはずですから、誰でもできる完全な方法があるはずです。それは、8章に出てきます。今日は律法をいたずらに守って、義となろうとしてもできない事を学べば十分です。

 

10月6日(日)

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

ローマ8:28

 

8章はとても重要な箇所です。聖書の中でも際立って重要なのです。その中で聖句を一つ選ぶことが難しいのですが、この聖句になりました。それは、クリスチャンにも色々苦労があるからです。「私の人生は恵みだけである」と言える人は本当に幸せです。しかし、今日の聖句をよく考えてみれば、私たちの人生はすべてのことが偶然ではなく、ただ益となるように共に働くのです。これは、「神様の御計画に従って召された者」の特権なのです。病気になったり、会社をクビになったり、失恋したり、試験に落ちたり、お金が無くて困ったり、人に騙されたり、事故に遭ったり、自信がなくなったり、人間関係が悩みのタネになったり、あげればきりが無いのですが、人間だったら誰にでも起こり得る災いが、クリスチャンには違って見えてくるのです。まるで法則があるように、私には神様の愛がいつも注がれているので、この世の悪いことが押し寄せてきても、それすらも良いものに変わり、結局自分の益になる。なんて、神様は素晴らしいのだろう。感謝せずにはいられない。このように生きているクリスチャンがいます。気がつけば、自分もそうなっています。若い時からそうであったとは思いません。試練の中で神様にすがって祈って助けられることや聖霊に満たされるような経験を通して、聖書が見えるようになって、神様の憐れみがどんなに深いかを理解するようになって、・・・気がついたら、この御言葉が「知っています」と言っているように自分も知っています、アーメンと言えるようになったのです。特に、「万事が」ということの意味がもっとよくわかるようになると思います。私たちはとても恵まれているのです。

 

10月7日(月)

義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いよって達せられるかのように、考えたからです。

ローマ9:30~32

 

クリスチャンになってから、信仰という言葉を何回も聞いてきました。しまいには自分でも信仰が大事なんだと言い始めます。しかし、同時に自分の信仰に自信が持てずに、もっと信仰が強くなりたいとか、信仰がもっと大きくなればいいのに、などと情けないことを言い出すのです。私が牧師として初めに雇われた教団は、バプテスマのために13もの試問が課せられていました。これはやはり多すぎると思われます。救いの条件に、この教団の一員になって教会のために献身するか?といったものまで含まれていたからです。「主イエス・キリストをあなたの個人的な救い主として信じますか」だけでもいいのではないかと思ってしまいます。新旧両約聖書を正典と認める、とか、聖書の神とは、とか、罪と悔い改め、とか、イエス・キリストの十字架の贖いが自分の救いのためであったと理解し、信じられることが重要なのです。イスラエルの悲劇は、義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しなかったことです。一方、異邦人は、イスラエルのような律法を遵守することもなく、律法すら知らなかったのですが、イエス・キリストを信じて義と認められる信仰による義を得ました。そして、それこそが正解だったのです。行いによって義となることはできなかったのです。そこで、私たちは、信仰による義をいつでも第一に考えていく必要があるのです。

 

10月8日(火)

口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。

ローマ10:9.10

 

救われることは難しくありません。誰でもが救われるようになっているのです。ただ、イエス・キリストのことや何とお語りになったのかは、聞かなければ信じることもできないので、福音宣教が不可欠なのです。パウロはイスラエルの民が心を頑なにして、イエスを信じるのではなく、律法を守ることで救われようとしていることがどんなに空しいことか気づかせようとします。それは、今日の御言葉のように、実に心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。これほど劇的に説明しているのに、律法の行いに頼る人が多かったのです。そもそも律法はキリストの品性を表しているのです。その品性が身につけばいいのですが、人間の力ではとてもできないのです。それで、福音には罪の赦しだけではなく、復活の命を与えることも含まれているのです。それは、ペンテコステの日に聖霊が降ってきたことで明らかになりました。パウロは、キリストの品性が人のうちに形成されるのは、聖霊によることを明らかにしました。聖霊の実と言いますから、果実の実りと同じようなことが聖霊によって内面に起こる奇跡です。そのリストがガラテヤ5:22、23に出てきますが、アガペーの愛の代表されるものです。律法は、愛によって成り立っているから、神の愛が人の内になければ、完全に守ったことにはならないのです。律法の行いの空しさは、聖霊の助けなしに人間の力で成し遂げようとすることにあります。果実がどうしてできるのかを私たちは説明できませんが、聖霊の結ぶ実も同じようなものなのです。聖霊が実を結ぶためには、信仰が必要です。自分が救われた理由が、信じて救われたように、人間の考えや理屈ではなく、聖書に書かれた通りに信じることによって実現できます。愛を持って人を見るときと、そうでない時では、口から出て来る言葉が違っています。それは、隠すことができません。内にあるものが外に出て来るからです。クリスチャンの品性は相手に左右されないのです。この品性が、クリスチャンの成長バロメーターであると言っても言い過ぎではありません。あなたの目標がキリストのようになることであることを忘れないようにしましょう。

 

10月9日(水)

神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまる限り、あなたに対しては慈しみがあるのです。

ローマ11:22

 

人は実にいろいろな性格があり、個性があるものです。信仰においては、そうした様々な人が主イエス・キリストを信じることで救われるのですが、キリスト教徒は断然異邦人が多いのです。そもそもイスラエル人が先に神に召され、特殊な歴史を刻みました。そして、彼らは結果的にナザレのイエスを十字架に架けました。人の救いがキリストによらなければ他にないことが多くのイスラエルの民には受け入れられなかったのです。しかし、パウロはそのことも教訓として諭します。神はいたずらに人を甘やかすような方ではありません。人のためにならないからです。神の慈しみはクリスチャンに一番理解されやすいのです。それは、罪のための負い目を負っているので、自分が義となるには神の慈しみや憐れみにすがるしかないのです。事実、イエス・キリストを信じるだけで私たちは救われ、信仰が有る限り、良い時悪い時と凸凹があったとしても神の慈しみは変わらないのです。その信仰とは、別の言葉で主への従順のことです。しかし、イスラエルがそうであったように、自分で義となろうとするなら、どんなに努力しても結果が悪くなります。倒れてしまうからです。そして、そのような者には神の厳しさがあるのです。ただ、主の選びは正しいので、召された人たちは、最終的にキリストによって救われるはずです。私たちは、主への従順を意識して日々の生活を滞りなく過ごして行けばいいのです。それは、朝一番の主への祈りから始まることです。神の慈しみにとどまりましょう。

 

10月10日(木)

愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬を持って互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に使えないさい。希望を持って喜び、苦難を耐え忍びなさい。

ローマ12:9~12

 

クリスチャンは素晴らしい人生を歩むことができます。それは、私たちがどうやって生きれば良いのかも知らずに、ただ周りに流されるように生きてきたなら、周りの環境に大きく左右され、何が幸福なのかも分からずに運まかせのように生きてきたでしょう。しかし、クリスチャンは聖書があるので、どう生きるかがわかっています。今日の箇所を読んだだけでも、なぜクリスチャンが素晴らしいかわかるはずです。これらのことが理解できるのは、イエス・キリストのおかげです。キリストが救ってくださったのは、罪や死や悪魔からだけではありません。その後、内面の刷新、目を開き、真理を理解できように聖霊が送られ、キリストに倣う生き方が目標になりました。実生活の中で、古い私がどのようなものであるか初めて理解できるようになります。そして、新しい人を自分の内に発見するのです。その新しい人が生きることが大切なのです。そのためには、祈ること、聖書を読んで学ぶこと、その学びは実際の生活に理解した真理を適用することです。それらのことを助けるのが聖霊なので、聖霊を求めて祈ることも重要です。聖霊に満たされるまで祈ることは、祈りを学び、神様を知り、信仰を正常の状態にすることなのです。それがわかると、信仰生活は飛躍的に向上するでしょう。癒しや悪霊追い出しなどの現象だけに飛びつく人がいますが、それは危険が伴います。「かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」(マタイ7:22、23)。信仰は、イエス・キリストに尽きると言っても過言ではありません。パウロを見ていればよくわかります。今日の御言葉を考えてみましょう。

 

10月11日(金)

「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。

ローマ13:9、10

 

愛は力があって、頑なな心をも溶かします。幸福になりたければ、「隣人を自分のように愛しなさい」といつでも自分を戒め、勇気を出すことです。これは、いつも心に思っていると、だんだん自分の生きる力になります。自分の愛がまだ弱いうちは、深く傷ついて他人に心を閉ざしているような人には効果がないどころか、逆に攻撃されることもあります。それは、本当に自分を愛してくれるか不安で試している姿です。しかし、自分自身が隣人愛を徹底できないうちは、失敗したり、傷ついたと落ち込んだりすることもあります。そこで諦めてはいけないのです。未熟なクリスチャンがいきなりキリストのように隣人愛を実践できるとは限らないのです。しかし、クリスチャンは人間関係を愛で考えるようになりますから、自分の無力が信仰をぐらつかせ、試みに遭うと聖霊の助けの必要性を理解するようになります。そうなると、どうすれば聖霊に満たされ、聖霊によって愛が自分の内側から流れ出るか知りたくて、聖書を調べたり、本を読んだり、祈ったりし出します。そうなると、自分の祈りが不十分であったと知り、祈りを学び始めます。そして、そもそもが信仰が皮相的で、真心から信じるとか、へりくだって主に服従して祈るとか、主にすがって祈るとか、祈りを実はよく知らなかったことに気づかされるのです。また、奇跡を経験するほどの信仰を見たこともなく、そのような刺激が無かったことにも気がつきます。実は、そうしたことは聖書にみな書いてあるのですが、おとぎ話のように読んでいたのです。それでは、見ても見えず、聞いても聞こえず、になってしまいます。「愛は隣人に悪を行いません」、これこそが律法を全うするものなのです。聖霊の助けを受けて愛に生きることができるように祈りましょう。この世界は愛によって変わるのです。主に愛されているあなたが、今度は隣人を愛するのです。それ以外でイエス様を理解することは難しいのです。与えられた人生が愛に彩られて行けば、どんなに意味のある人生となるでしょう。主に召されたあなたが、この世界に愛で奇跡を起こすことができるのです。とても楽しいことです。

 

10月12日(土)

神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。

ローマ14:17

 

教会の中で問題が発生する時に、何を食べるか食べないかが争いの原因になることがあります。多くの人が食べることに興味を持っているのですが、それが宗教上の規制ができると大きな問題に発展して、クリスチャンは神の支配ではなく、人間の支配の中にあることになる危険性が初代教会の時からあったのです。なんでも食べても良いと思っている人がいれば、そうではなく豚肉は食べてはいけない、いや肉を食べることが問題で再職であるべきだ、といったことが争いの原因あるいは人を裁いてしまう原因になるのです。これらは、教会に規則が発生すると起こる現象です。特定の日を重んじるとは、安息日を遵守するといったことです。今日では、ほとんどの教会が日曜日に礼拝するようになっていますから、土曜日に礼拝する安息日の意味も知らないクリスチャンがほとんどでしょう。こうしたことで、裁きあうのは残念なことですが、どこまでも平行線のようです。私たちは、キリストの始めた神の国運動を理解していて、神の支配に服することをよしとしています。それこそが福音を信じた報いです。神の国は、「聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」とパウロが言った通りなのです。ですから、健全な信仰をはかるのに、この基準を覚えていれば、クリスチャンはいつでも良い人生を歩むことができるわけです。人間的になり過ぎると、必ずこの基準から外れてくるので、気をつけたいと思います。

 

10月13日(日)

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。

ローマ15:13

 

希望があるかないかは大違いです。一般的に「希望」という言葉は万人が持ちたい言葉です。希望があれば、人間は多少の困難も乗り切ることができるし、挫折すら乗り越えることができます。希望があれば、精神的にすごく楽になるし、目の前のことを忍耐することすらできるのです。本当に希望は不思議です。多くの人類が残した偉業は、希望があって初めて実現したことばかりです。ですから、私たちにいつでも必要なことは、「希望」を持つことなのです。その希望がどこから来るかと言えば、聖書は明確に、「希望の源である神」と言い切ります。そうなのです。希望は神から来るのです。しかも、内住の聖霊があなたに希望を満ち溢れさせることができるのです。このような状態でいることがクリスチャンにとってはベストなのです。それは、あなたが信仰を表すたびに得られる喜びと平和が関係しているのです。信仰を難しく考えることはありません。あなたの信仰で十分なのです。その信仰が発揮される機会を主は造られるのです。あなたが嫌なことが起こった、困ったことが起こったと感じる時がその時です。つまり、そのような大変なことが起こったら、素晴らしいチャンスが到来した、と小躍りして喜ぶべきです。主に頼り、主を信頼して、祈るなら、不思議が起こるからです。そして、あなたにはそれが主の奇跡であることがよくわかるのです。そこで、喜びが湧き起こります。そして、あんなに不安だった心がいつの間にか平安になっているのです。そのような経験をすると、聖霊が働き始めます。それは、あなたが希望に満ち溢れている事で、きっと気がつくでしょう。あなたは特別なのです。この希望が次の奇跡を起こす事を見るからです。

 

10月14日(月)

平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。

ローマ16:20

 

善悪の大争闘は終わりに近づいています。聖書を読む限り、それは誰の目にも明らかなことです。この世には未だ不幸があり、悲しい貧しさがあり、悲惨な病気があります。愛の中で満たされて生きたいと誰もが願って良いのですが、それを阻む者がサタンです。敵であり、悪の海の祖であり、神に純粋に反抗する者です。しかし、被造物であり、堕落天使です。霊であるために、霊のことがわからなくなった現代人には気づかれずに人間を攻撃してはひどい目に合わせる事を仕事にしているのです。もし、イエス様と聖天使が守っておられなかったら、地球はもっと悲劇的に破滅していたでしょう。世界の歴史には、罪のことがこれでもかこれでもかと出てきます。まさに、罪とは何か、悪とは何か、全宇宙にサタンのしたことがどんなに悪い事か証明しているように感じます。しかし、間もなくこの壮大な実験も終わりを告げます。信仰を持ち続けたクリスチャンは、今日の聖句が文字通りに成就するのを知るのです。ですから、悪に負けてはいけません。サタンの誘惑にキリストにより、信仰で打ち勝つことができると挑戦して、実際に勝利してみましょう。主の恵みがあなたと共にあるので、信仰は想像以上に力を発揮できます。勝利者キリストに従順に従いましょう。

 

10月15日(火)

主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。「行け、淫行の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」

ホセア1:2

 

預言者の中でホセアほど異例の者はいません。本文を見ても、ホセアを預言者とは語られていません。しかし、主はホセアに語られたのです。そのことだけでも、ホセアが主の御前に正しい人であったことは間違いありません。そのホセアに主が初めに命じたことがショッキングなことだったのです。彼の預言は、言葉ではなく生活だったのです。それも結婚を通したものでした。この聖書箇所を読んだ読者は、ホセアに主は娼婦と結婚するように命じたのかと考えるでしょう。しかし、この当時、イスラエルの宗教はバアル信仰に代わっていたのです。それは主の忌み嫌う危険なことでした。イスラエルの男女は、バアル礼拝の一環として性的関係を結んでいました。それが、「淫行の女」の意味であると思われます。ただ、この先を読み進めると、どうしようもない身持の悪い女であることが明らかになります。そして、この女がイスラエルの象徴になります。さらに驚くことに、その女から生まれる子供の名前が預言になっているのです。これほどの強烈な預言があるでしょうか。この子の名を聞く者は、驚き、父親になぜそんな変な名前をつけたのかと聞くでしょう。その時に、主が語られた預言を聞かされるのです。その人は、それを誰かに語らずにはいられません。そうやって、テレビもラジオもインターネットもない時代に口コミでたちまちイスラエル中に預言が正確に伝わったのだと思います。噂話好きな堕落したイスラエルの民は、黙っていることはできなかったでしょう。そして、この預言を人に語ることによって忘れることはできなかったのです。それにしても、ホセアはどんな気持ちで、この使命を果たしたのでしょう。よほど主に忠実でなければ出来なかったはずです。彼の生き方から、読者の皆様は学ぶことがあります。最後まで考えながら読んで行きましょう。

 

10月16日(水)

その日が来ればと主は言われる。あなたはわたしを、「わが夫」と呼び、もはや、「わが主人(バアル)とは呼ばない。

ホセア2:18

 

2章は、不貞を働いたホセアの妻ゴメルとの離婚訴訟の場面が描かれています。ホセアは「彼女はもはやわたしの妻ではなく、わたしは彼女の夫ではない」(4節)と宣言しています。ゴメルは、愛人を追って出て行ってしまったのです。このホセアと姦淫の女ゴメルの関係は、主とイスラエルの関係になっています。つまり、イスラエルは愛人であるバアルを拝んで背教したのです。そのバアルが生きていくための「バンと水、羊毛と麻、オリーブ油と飲み物」をくれたと言うのですが、主は、「穀物、新しい酒、オリーブ油を与え、バアル像を造った金銀を、豊かに得させたのは、わたしだ」と語ります。彼女は知らなかったのです、誰が生ける本当の神であるかを。これらは、現代の私たちにもメッセージになっています。主を信じているのか、それとも他の神々を信じるのか。背信してはいないか。さらに、16節以降には、未来の預言が書かれています。少し、ヘブライ語の話をします。ヘブライ語の名詞バアルの語義は、宗教的な「主あるいは主人」と言う意味を含む「夫」であると考えられます。この名詞は、またバアルというカナンの「主」神の名前でもあります。「イーシュ」と言うヘブライ語は、創世記に出てきたように「男」を意味するのですが、同時に親愛を込めた「夫」とも訳すことができます。預言者は、イスラエルの未来を、主に対して、「バアル」(主人である夫)ではなく、「イーシュ」(愛しい夫)と呼びかけると預言しているのです。信仰を考える時に、私たちも主をどう思っていてるのかが大切なのです。信仰が未熟な時には、心が定まらずに主を疑ったり、他のものを神々のように追い求めたり、主の信頼を簡単に裏切るような事をしたかもしれません。しかし、様々な試練を通り抜け、信仰が鍛えられ、私たちは、真の主以外を認めず、ご利益を求めていたような生きかたを放棄し、主のために他の全てを捨てる事を成し遂げるのです。それは、主への愛が真実になる時です。そして、主の誠実な愛が心を満たす時でもあるのです。たとえ私たちの心が定まらずに紆余曲折があったとしても、永遠の主の愛は私たちの希望となるという事です。

 

10月17日(木)

主は再び、わたしに言われた。「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」

ホセア3:1

 

ホセアが気の毒になってきます。主はホセアに離婚した姦淫の女であるゴメルを再び愛するように命じたのです。初めの時は「めとり」「受け入れ(結婚する事を意味する技巧的表現)」と主は命じましたが、それから15年か20年ぐらいの長い期間が経過していたことが想像できます。今やホセアは離婚した中高年の男性です。その彼に、主は今度は「愛する」ようにと求めています。それは、結婚する以上の事を求めています。夫ではなく、他の男性を愛して夫を捨てた妻、それが今は、おそらくバアル神殿の奴隷か所有物になっていたと思われます。彼女は、そこでバアルの豊穣儀礼における性的行為に携わっていたと思われます(デイリー・スタディ・バイブル、十二小預言書Ⅰ、p52)。そのような奴隷状態からホセアは買い戻したのです。つまり、彼女を購ったのです。ホセアの気持ちを考えると、ずいぶん苦しんだのではないかと想像できます。イスラエルには律法があって、例えば申命記24章1~4節などを読めば、今、主が命じたことは律法で禁じられている事ではないか、と思えてくるのです。そこで、福音書のイエスのことを思い出します。律法学者が怒ってイエスが律法を破っていると言っていた事と同じような感覚です。つまり、重要なことは愛はいつでも律法に優っている、ということです。そうでなければ、天の父なる神は、独り子イエスを私たちの罪の贖いとすることはなかったでしょう。神の民が異教のバアルを拝んで姦淫している時も、主は愛する事を放棄しなかったのです。イスラエルの民は、他の神々を慕い礼拝し愛したのです。ゴメルは他の男性に愛され、そしてゴメルはバアルに献げるぶどうの菓子を愛したのです。愛という言葉が次々に出てくるのですが、人間にとって最も大切なことだからです。それなのに、主の真実な愛を裏切ってから、人間は愛する事を堕落させ、愛の素晴らしい可能性を破壊し続けて、その報いを受けているのです。主の救済は、不変の愛で私たちを愛し抜くことです。この主の愛に促されて、わたしたちは愛を回復することができるのです。私たちが本来の正常な愛の関係を回復するために、主が初めに愛してくださったのです。その愛にどうやって応えていくかがクリスチャンの課題であり、幸福の道なのです。

 

10月18日(金)

主の言葉を聞け、イスラエルの人々よ。主はこの国の住民を告発される。この国には、誠実さも慈しみも神を知ることもないからだ。

ホセア4:1

 

4章はホセア書の第2部の始まりです。それは、イスラエル民族を主が正式に告発するところから始まります。彼らは、三つの点で告発されています。それは、(1)誠実、(2)慈しみ、(3)神を知ることの三つが有罪なのです。それは、神との関係であり、人間相互の関係でもあります。この三つが否定されると、人間はどこへ行ってしまうのでしょう。神への誠実がなければ、人間は歯止めを失い欲望のままに自己中心的に物事を考え行動します。それは、目に見える人間に対しても同様です。不誠実であれば、いつも不安的な生活を余儀なくされます。不安と疑心暗鬼がいつでも何かの拍子に頭をもたげてきます。だんだん、神を遠ざけ、バアルのような刹那的なご利益にしか興味が向かなくなります。しかし、バアルによっては、何も恩恵を受けることがありませんから、性的な堕落や刹那的な快楽を求めて脳の快感物質の放出で麻薬のように、現実逃避を繰り返してしまうのです。現代でもパチンコ屋が廃れないのは、バアル神と同じ効果があるからです。二番目の慈しみは、愛情と訳しても良い箇所です。人間に愛情を求めて、それを得るために犠牲を払うこともします。しかし、自分が求めている愛情を満たしてもらうことはできないのです。それは、基本形である神との愛情関係が破綻しているからです。それが正常に機能して初めて、人間相互の愛情の深まりを知ることができます。いつの頃か、家族関係が破綻し始めて、家とか家族がバラバラになって行ったのです。それは、個人の自由を得たと思っていたのですが、孤独や愛情の飢餓感が増すことにつながって行ったのです。同時に社会不安が増して、凶悪犯罪まで増えてしまいました。これらは、真の神を知らない人が増えたことによります。誰でもが神を知っていると思っていながら神を全く知らない。それは、よもや神が自分を愛しているとは全く知らないということです。自分が何者であるか知っている人は、神を恐れます。だから、遠ざかりたいのです。できれば、何か困ったときだけ、ご利益をもたらす神であれば、良いと思っています。それは、距離があり、自分を愛していない神との関係を意味しています。イスラエルの民にとっては、律法を知らない。宗教的倫理観も失われている状態。主に服従することの意味が忘れ去られているのです。この神は創造主なのです。すべてを無から造られたお方です。そこら辺に祀られている神々とは全く意味が違っています。根本的に違うのです。私たちの神が創造主なので、私たちは造られた者、被造物なのです。ですから、神から離れて正常に良い状態でい続けることは不可能なのです。幸福がなんであるか知りたければ、創造主に服するしかありません。神の創造の秩序に戻ることです。そのためには、罪の解決が不可欠なのです。そのために、ここで神の告発があり、審判があるのです。私たちは、イエス・キリストに聞き従わなければ、救いの正解にたどり着くこともできないのです。今日の箇所から、少なくとも、誠実さ、慈しみ、神を知ること、この三つを心に覚えて生きて行きましょう。

 

10月19日(土)

わたしは立ち去り、自分の場所に戻っていよう。彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め、苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで。

ホセア5:15

 

イスラエルもユダも危機に直面しています。両国は現代の韓国と北朝鮮のようです。ホセア書にも出てくるように国境問題も抱えていました。外国の脅威もあり、彼らは自分の罪を認めずに苦境は自分たち内部ではなく外部にこそあると思っていました。そのため、悔い改めることもなく、病んで汚れたままでした。ですから、神は彼らから離れ去ることにしました。尋ね求めるのは、神ではなくイスラエルの民がすべきなのです。それまで、主は離れ去って待つことにしました。これは、イエスが宮清めをされた後に、宗教家たちの無理解と対立により、エルサレムを立ち去った事とダブって見えます。このような箇所は重要で、今日でも同じようなことが起こってくるのです。例えば、キリスト教会の教勢が衰え続けている事も、カルトが騒動を起こして、宗教離れが起こったからだ、と自分たちの問題は反省することはありませんでした。そして、教会の世俗化問題、また高齢化の問題、青年や子供たちがいなくなったことの深刻な問題、多様性を認めるのか、女性牧師を認めるのか、新しい賛美歌をどうするのか、礼拝形式を変えても良いのか、このような問題が次々に起こっているのに、一向にこうした問題の解決策も見当たらず、宗教であるのに、聖霊のバプテスマ一つ現代でも聖書に書かれた通りに実現することすら認められず、癒しも奇跡もほとんどなくなったままで、悩みを解決することがだんだんできなくなってしまったのです。それは、ホセアの預言を現代でも謙虚に自分のこととして聞かなければ

 

解決の糸口が見つからないと言えます。つまり、リバイバルの必要があるのです。悔い改めと主を尋ね求めることが信仰によって始められなければなりません。終末と言われて久しいのです。時がどんどん過ぎて行きます。あとどれぐらいの時間が残されているのかわかりません。主は、戻ってこようとされているのです。主は忍耐強く待っておられます。扉の外でノックしているのです。扉を開けるのはあなたです。

 

10月20日(日)

わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない。

ホセア6:6

 

預言者は、「さあ、我々は主のもとに帰ろう」と呼びかけるのだが、イスラエルもユダも彼らの心には響かなかった。預言者の語る言葉には、「我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう」とある。神の民が主を知ろうと言われる状況とはどんなものなのだろう。彼らは、ちょうど現在の世界情勢と同じような時代に生きていた。内憂外患と四文字熟語のクイズのような言葉が当てはまる時代。政治家がそうであるように、国の深刻な問題、例えば不景気や外交問題で国民が不安になるようなこと。あるいは国民の自由が脅かされ、政治不信がおこる。災害が頻発して、国民が総じて落ち込むような状況、外敵の現実的な脅威など。こうした問題の原因が国内にあるというよりは、国の外にこそ原因があると言う方が容易いし都合がいいのだ。隣国の内政問題が深刻になると、日本叩きを始めるようなことは、聖書時代からやっていたのだ。それは、宗教国家では祭司のような宗教家がそれをやっていたのだ。それに対して、預言者は国民に問題があるから、主は去って行ったのだ。だから、罪を悔い改めて、主を求めよう。主を知ることがかけていたからこそ、罪に陥り、困難にくるしむ事になったのだ。主は、形式的な神殿での犠牲を献げる儀式も意味がない、そうではなく神を知ることだ。神を知らずに虚しく犠牲を献げることはあってはならない。神を知るなら、あなたがたは神は愛を求めていたのであって、儀式をいくら荘厳に盛大に行っても神は喜ばないと知るだろう。大切なことは信仰であり、真心からの主への愛である。それは、主への献身となり、主に服従する姿となるはずだ。日本人も聖書の神を知り、追い求めて、悔い改めて、福音を信じ、救われて欲しい。私たちの隣人である近隣諸国にも聖霊の風が吹き、同じように福音が届き、愛と平和が訪れるように祈りたい。

 

10月21日(月)

イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢である。彼らは神なる主に帰らず、これらすべてのことがあっても主を尋ね求めようとしない。エフライムは鳩のようだ。愚かで、悟りがない。エジプトに助けを求め、あるいは、アッシリアに頼って行く。

ホセア7:10、11

 

罪とは何か、との問いに答えるなら、神に対する不従順、不服従です。もともと、聖書によると神と人間の関係は人格的な関係というだけではなく、契約の関係でした。それは、神が人間に祝福の約束をした事を意味します。それなのに、人間は、神に背を向け、神に敵対したのが罪です。さらに、罪の定義として古くから言われているもので二つが有名ですが、一つは今日の聖句に出てくる「高慢」です。これも意味が明確にされていますが、人間が自己を絶対化して、神のようであろうとすることです。さて、ホセアの時代、イスラエルは国難の時を迎えていました。そのような時には、神を求めるはずですが、彼らはそうはしなかったようです。鳩は平和のシンボルと思っているでしょうが、ここでは、愚かで、悟りがないことの象徴です。それは、神にしか問題解決ができない事を認め、悔い改めて神のもとに帰るべきだったのですが、そうしないで、時の大国に助けを求めたのです。北の国が優勢になれば、その庇護を求め、南の大国が優勢になれば、風見鶏のごとくに節操もなく助けを求めるのです。しかし、どちらかの大国が優勢になれば、侵略が始まります。その時の軍隊の通り道がイスラエルであり、大国はイスラエルの忠誠を試すために、先鋒として真っ先に敵に攻め込む役を押し付けてきます。外交努力でイスラエルという小国がなんとかうまくやって生き延びようとしているのに、結果的に悲劇に自らが突っ込んで行くことになるのです。これが鳩のようだ、と主が言われた理由です。私たちもテレビのニュースを観て、不安になったり、怒ったり、日本を取り巻く近隣諸国の過激な言動に動揺するのです。その時に、真っ先に主に祈る人はいるでしょうが、神を思い出せなくて、自分の考えで不安や怒りを溜め込む人もいるのです。こうした外国からの脅威も、国内の景気低迷や将来の不安など、すべてを主を尋ね求めるようにとの主の配慮である事を覚えておくことが大事です。最後に、罪の第二は、「貪欲です。神に属すべき世界をすべて我がものにしようとし、神を忘れる罪です」(キリスト教信仰問答、佐藤敏夫著、pp15、16)。

 

10月22日(火)

角笛を口に当てよ。鷲のように主の家を襲うものがある。イスラエルがわたしの契約を破り、わたしの律法に背いたからだ。

ホセア8:1

 

さらなる警告が発せられます。時期は紀元前733年前後と思われます。北王国(イスラエル)は、外国の敵と国内では堕落が蔓延していて、大きな危機が広がっています。ホセアは警鐘を鳴らすように、角笛を口に当てよ、と命じられます。審判が迫っているのです。彼らの罪を預言者は列挙します。初めに偽善の罪、そして、勝手に王や高官たちを立てるのですが、決して神の御心を問い主の導きに従うという事を拒んだのです。さらに、偶像礼拝を続けます。最悪なのは、異教の国々に保護を求めて諸国に貢物を贈り続けたのです。これらはすべて、神の審判から逃れることのできない大罪のでした。主をないがしろにして、神との約束、契約を保護にしたからです。人間の不思議を感じますが、出エジプトを果たし、奴隷から解放され、約束の地カナンにも定住できたのは、すべて神のおかげであったのに、彼らはその神を捨てて他の偶像を拝むようになるのはどうしてだろうと素朴に思わされます。私たちも戒めなければ、すぐにも神を忘れてしまう傾向があるのでしょうか。聖書を読むと、そうならないで主に忠実に仕え続ける聖徒たちがいます。彼らの特徴は、信仰によって生きる事でした。信仰によって生きることは、日々の積み重ねです。それは、力んで信仰、信仰と言うようなものではありません。まるで、空気を吸うような自然なこととして主を信じている生き方です。楽に信じましょう。

 

10月23日(水)

わが神は彼らを退けられる。神に聞き従わなかったからだ。彼らは諸国にさまよう者となる。

ホセア9:17

 

9章の初めは、「イスラエルよ、喜び祝うな」という言葉から始まります。ちょうど国をあげてのお祭りがあったようです。建国記念日のようなものです。すべての民が喜び祝っている、まさにその時に預言者は使命を果たすことになったのです。つまり、喜んでいる場合ではない、主の審判がついに始まるのだから、と厳しい宣告がなされたのです。しかし、国民は黙って聞いていたわけではなく、反発して騒いだと思われます。預言者は危険な状況の中で神の裁きを宣告したのです。その言葉通りに、やがてイスラエルの民は国破れて、アッシリアやエジプトに捕囚となります。エジプトのメンフィスはピラミッドで有名な都市ですが、そこでイスラエルの人々が死んで墓に葬られることなると預言されたのです。さらに、エジプトの奴隷から救い出されたイスラエルの民がバアル・べオルで背信行為をした事件が起こりました。民数記25章にその経緯が書かれています。実に二万五千人が死ぬことになった大事件です。このように、神を裏切る事が初めからあったのです。ギルガルはイスラエルの最初の王であるサウルが王となった場所です。それだけでなく、イスラエルの王たちの異教への傾倒など多くの躓きの始まりもギルガルでした。ですから、神の宣告は、「わたしは、もはや彼らを愛さない」と恐ろしいものでした。北王国イスラエルには十部族がいたと言われていますが、その北王国もアッシリアに滅ぼされ、捕囚にあいました。それがどこに連れて行かれたのかは定かではありませんが、シルクロードにイスラエル人の痕跡があり、中央アジアや中国でもやはり痕跡があることから、最終的に日本にまで到達したのではないかと日本でも騒がれているのです。ちょうど、天皇の即位式が今日行われましたが、研究している人の中には天皇家のルーツがこの失われた十部族に関わりがあるのではないかと推測する人もいるのです。もちろん、実証されたわけではありませんが、ロマンがあるとこの説は人気があります。もしかすると日本人と失われたイスラエル十部族が関係あるかもしれない、とすればこのホセアの預言も興味が湧いてくるのではないでしょうか。

 

10月24日(木)

恵みの業をもたらす種を蒔け、愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。ついに主が訪れて、恵みの雨を注いでくださるように。

ホセア10:12

 

恵みの業とはどんなことでしょう。しかも、その種を蒔け、と命じます。その実ったものが愛であると言うのです。これこそが、クリスチャンが目指すものではないでしょうか。私たちが心がけていることは、いつでも恵みの業です。ギブアンドテイクではありません。また受けることばかり考えることでもないのです。たとえ受けても与えても、それが恵みであるかないかが肝心なのです。良いことをしようというのでは、限界があります。無理もあります。反動もこわいです。しかし、こと恵みであれば全く違います。恵みの動機はいつでも愛です。それも、愛してやろうではありません。クリスチャンの心に主が与えてくださった愛の泉がコンコンと湧いているのです。それが自分の打算など押し流してしまい、主がなぜ人を憐まれるか自然とわかってくる経験へと導く力です。見返りを求めずに、誠実に尽くすなら、心も軽いです。そして、そこにこそ愛の実りが期待できるのです。実りは刈り入れできます。それも嬉しいことです。「新しい土地を耕せ」とは、伝道でいえば、新しい求道者を見つけることです。簡単に見つけることのできる人もいるでしょうが、それは稀なことでしょう。私のようなシャイな人は、主にお願いするだけです。熱心にお願いすれば、必ず新田を耕すことになります。それは、大きな喜びとなります。このように主に願っても、その願いがかなわないと思っている人も少なくないでしょう。そんな時には、主をまず求めることです。聖霊の力によらなければ、伝道はできません。なぜなら、主の愛の業が伝道だからです。この世の人は、無垢で生まれ、それが無残にもこの世の荒波でたくさん傷つき、血を流してきたのです。それで、大人になった頃には、心は硬くなっています。そうしていないと、安全ではないからです。しかし、そうやって強くなれば、生きるたくましさもついてくるので、それでいいと思っています。ところが、自分が知らない神の世界があったのです。愛と恵みと平和の世界です。そして、救い主イエス・キリストの癒しを受けることができるのです。それこそが、永らく待ち望んでいた救いなのです。それは、何か良いことをしたら与えられるようなものではありません。すべてが神の恵によるのです。この福音を伝えることができるように、主を求めてください。主が訪れてくださるまでやめてはいけません。ついに、聖霊の雨が降ってくるでしょう。そすれば、今までできなかった伝道も面白いほど道が開て、感動の人の救いを目の前で見ることになります。あなたもワクワクする体験へと招かれているのです。

 

10月25日(金)

わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。

ホセア11:8、9

 

神は愛なり。この一事は真理であり、永遠に変わることはない。エジプトから奴隷で苦しむイスラエルの民を救い出し、彼らの救い主であったのに、彼らは他の神々を拝み、裏切った。それから預言者を通して何度も悔い改めのチャンスが与えられたのにも関わらず、結局、背信は止まなかった。ホセアの不貞の妻と同じで、誠実に愛してくれる夫を捨てて他の男に奔って、決して戻っては来なかった。それでも、自業自得の悲惨な状況で奴隷となっていた妻を買い戻して、再び妻としたホセアと全く同じに、この神は罪で罰を免れないイスラエルの民を怒りに任せることができなかった。神の愛が優っていたからだ。私たち人間になんとか神の苦しみを理解させようと、ホセアという預言者の結婚生活を通して、愛と裏切りの苦悩を人間に理解させようとしたけれど、イスラエルは愛に応えることはできなかった。それは、イエス・キリストが十字架に架かられた時の罪の罰と愛の葛藤がそのまま表現された神が裂かれ苦しむという姿で、私たちに突きつけられている。異邦人の私たちは神の愛に立ち返るのか、それともまた裏切るのか、と十字架は訴えているのだ。それにしても、なぜ人間はこのように愛してくださる神を裏切ることができるのだろう。何か大切なものが壊れてしまっているのだろうか。夫婦でも浮気をする者がいる。その者ならば、理由が分かるのだろうか。愛し抜いてくださる主に、あなたはどうするのだろう。やがて、結果がわかる日が来る。イエスの十字架を知っても、それでも裏切ることなどできるものだろうか。神の愛に、裏切らない愛を持って応えたい。

 

10月26日(土)

主こそ万軍の神、その御名は主と唱えられる。神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め。

ホセア12:6、7

 

これが神の私たちへの変わることのないメッセージになっている。イスラエルの民は、いよいよ危機が迫っていた。ホセアは忠実に預言者としての任務を遂行している。この時代は、おそらく紀元前726年頃と思われる。イスラエルの最終的破滅まで後4年である。しかし、イスラエルは急激な富の増加で預言者に耳を貸すことは無かった。バブルの時のように、バブルが弾けると警告が何度も専門家によってなされたが、誰も耳をかさずに、最後を迎えたように、イスラエルも破滅へと突き進んで行った。なぜ、危機感を持たずに破局まで無頓着でいられたのか不思議になるが、彼らは無知だったのだ。ヤコブがここで出てくるが、それは偽りと欺きを表している。イスラエルが真実に目を閉ざして、偽りを信じようとしたことが問題なのだということだろう。私たちは、歴史の終末に生きていて、聖書に預言されたことが繰り返されていることを知るべきだ。ホセアが預言した事は現代でも当てはまるという事だ。そして、イスラエルがそうであったように、神の御言葉に耳を傾けることをしないで、自分の信じたいように信じ、生きたいように生きていることが破滅に向かっているように見えることだ。ではどうしたら良いか。その答えこそが、今日の聖句に表されている。主は、私たちにご自身を示し、あなたの神の元へ帰れと招いている。そして、私たちのモットーが、「愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め」なのだ。すぐに覚えることができる簡単なモットーだ。これだけでいい。最後の審判が下る前に、目を開き、預言に耳を開こう。

 

10月27日(日)

わたしこそあなたの神、主。エジプトの地からあなたを導き上った。わたしのほかに、神を認めてはならない。わたしのほかに、救いうる者はない。

ホセア13:4

 

神様によくしていただいたのに、それを忘れてはなりません。13章では北王国の破滅がさらに近づき、彼らが偶像を造っていることが非難されています。偶像は、人間の欲望の反映ですから、欲望がある限り消える事はありません。危機の時には神様に頼っていても、一旦平和になり繁栄を謳歌できるようになると、欲望が頭をもたげてきます。それは偶像なので、神様を忘れさせるものなのです。何かに心向けると、神様を忘れはじめます。イスラエルは、アッシリアが攻めてくることを理解していません。彼らの不幸は、偽りの宗教だけではなく、政治も偽りであったことです。神様は世界中を支配しています。そのために、国と国の国際紛争も神様によらなければ、解決できません。そのような神様をイスラエルは捨て去ったのです。むなしく偶像に頼るのですが、それは、金属を溶かして人間が意匠を凝らして造ったものに過ぎないのです。形があっても、生きていないのです。それにすがるようになれば、破綻が近いということです。人が神様を求めるなら、人を救い得る神様でなければ意味がありません。それにしても、どうしてイスラエルが神様を捨てたのか不思議になります。ホセアのような立派で誠実な男性を裏切り、他の男に走った妻ゴメルの真理と通じるものがあるのでしょう。神様の心情を考える時にこのことが助けになるはずです。私たちもこの世のいかなる誘惑や欲望が偶像とならないように、主にさらに近づくことが大切です。主の良くしてくださった事を感謝しましょう。

 

10月28日(月)

知恵ある者はこれらのことをわきまえよ。わきまえのある者は悟れ。主の道は正しい。神に従う者はその道に歩み、神に背く者はその道につまずく。

ホセア14:10

 

イスラエルは首都サマリアがアッシリアに紀元前722年に敵対して、とうとう陥落してしまいます。ホセアの人生を通しての長い預言もこれで終わりです。その最後に、ホセアは「主に立ち帰れ」と叫びます。そして、悔い改めの祈りの言葉を教えます。神の愛を拒み、裏切り、自業自得の破滅が避けられない今、預言者は主は、それでも愛することをやめないと分かったのです。なぜなら、神の愛は不変であり、永遠だからです。私たちは、自分が神の愛の対象であることを心に強く思うべきです。主に愛されているのです。それに対して、自分は主を愛しているかどうか、良く考えてみてください。この世界に生きていると、何が正しいのかわからなくなることがあるでしょう。例えば、多様な価値観が入り込み、昔は正しいと思ったことが、今ではパワハラやセクハラにモラハラなどのハラスメントとして排除されるようになり、特に女性蔑視が是正されてきました。それでも、過渡期で年齢差が大きく、年齢が上の人ほど、自分の価値観を変更しなければならくなっています。社会がそのように何が正しいかで困惑するような時代に、「主の道は正しい」と聖書が言っているのですから、クリスチャンは特にその通りに生きるべきです。方法は、簡単です。「神に従う者はその道に歩み」とあるように、神への従順です。それは、すべての面で主を信頼してゆだねて生きることです。その特徴は、日々、すべてのことで主への感謝を絶やさない心を持つことです。いつも喜んでいるのもクリスチャンの特徴です。ことごとに主への祈りを絶やさないことです。神に背く者は、神以外のむなしいものに頼るので、つまずくことになります。あなたの将来が心配無いのは、主があなたを愛しているからに他なりません。あなたも主を愛して生きることがあなたの幸福の秘訣です。

 

10月29日(火)

神は、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。

Ⅱテモテ1:7

 

信仰生活を正しく進んで行けば、この世は全力でそれを妨害し、イエス・キリストの福音を伝えようものなら、理不尽な攻撃さえ受けることがあるのです。パウロのような使徒であれば、命がけです。私たちは、現代の自由な時代に生きていますが、それでも主に忠実に働き、福音を伝えることを始めると脅かされることがあるのです。その時に、信仰者の真価が問われます。そんな時に、この御言葉が私たちを助けます。肝心なことを思い出させるからです。神様は、私たちに困難な伝道をしろと命令を下したのではありません。そうではなく、自分の力に頼らないように、助け手として、弁護者として、聖霊を送ってくださったのです。だから、自分だけの力で伝道しろとか言われていないのです。これは、伝道だけではありません。普段の生活でも、人間関係でも、仕事でも、どんな場合でも、私たちはこの聖句によって、自分を知ることができます。よく、超能力を身に付けたいと願う人がいますが、それ以上に素晴らしいのが、「力と愛と思慮分別の霊」です。自分のうちに神様が送ってくださった聖霊に何ができるかと言えば、私たちの弱さを補い、神様の御心を勇気をもってやり遂げる能力をくださるのです。信仰が弱っている時、不安や心配に心が押し潰されそうな時に、この聖句を声を出して言ってみるのです。あなたは弱そうに見えても、実は聖霊が内におられるので、実に強いのです。誰も、人間があなたを打ち負かすことなどできません。あなたの勇気が素晴らしい奇跡を起こし、弱い者を助けます。私たちの信仰を打ち負かすことのできる者などいないのです。イエス様も聖霊様も黙っていません。あなたの敵を容赦無く打ち負かしてくださいます。だから、人を恐れる事はありません。あなたは普通にしていればいいのです。脅威が迫ってきた時も、あなたは不思議な勇気が内から湧いてくることでしょう。祈って考えれば、どうすればいいのか必ずわかります。そして、それをやり遂げる力が湧き上がります。あなたは誰も恨まずに、愛が心を満たしていますので罪を犯さずに済みます。これが聖霊の御力です。

 

10月30日(水)

次の言葉は真実です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。」

Ⅱテモテ2:11、12

 

ここには、初めの迫害時代に教会で歌われていたと思われる賛美歌が書かれているようだ。この歌詞には、わたしたちは心当たりがある。ある者は、初めの「キリストと共に死んだのなら・・・」はバプテスマのことを言っていると考えるが、実際には、殉教のことを見据えての言葉であり、信仰であった。キリストを信じるが故に、迫害され、命の危険を感じていたであろうこの時代のクリスチャンたちは、忍耐することを教えられていたのだ。主がそうであったように、十字架の道を私たちも辿る事は恐れではなく、喜びなのだ。父なる神は、御心を成し遂げたイエスを死から甦られせ、復活の勝利を実現された。この復活の事実が私たちが信仰の故に、たとえ殉教しても復活できる保証となっている。私たちは福音を人々に伝えたいと願っている。この世には、キリストを拒む人がいるが、意志を持ってキリストを拒むものを神はどうすることもできない。キリストは、何度も繰り返し失敗し、罪を犯すような者でも、悔い改めて信じるなら、何度でも赦し、救ってくださるお方であるが、キリストを否む者には否むしかないのだ。私たちが神が感心するほど完全であれば良いが、そうは簡単にならない。感情的に主に忠誠を誓っても、簡単にそれを保護にしてしまうことも事実だろう。そうならないように努力する事は良いが、主の誠実さは私たちとは比べ物にならない。「キリストは常に真実であられる」とは真理である。神の本質は愛であり真実なのだ。それを曲げるような事はできないのだ。だから、主は、私たちを見捨てることをしないわけだ。十字架にかかられて神の愛を示されたのだから、主が救うと言われれば、それは絶対なのだ。ただ、愛は強制しないので、愛に応えて愛し返すことを人間の側でしなければ、愛は完結しないので、キリストを否む者は、またキリストに否まれてしまう結果になるのだ。

 

10月31日(木)

聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をする上に有益です。こうして、神に使える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。

Ⅱテモテ3:16、17

 

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ 10:17)。私たちが信仰を持つようになったのは、キリストの言葉を聞いたからです。それは、聖書によります。初めて聖書を手にした時に、ただの本でない事はわかりますが、何が書かれているかよくわかりませんでした。初めての聖書は、読みたくて買ったのではなく、留学をしたくて、行きがかり上仕方なく入学した神学校の持ち物リストに書いてあったからです。その聖書を開いて、創世記の一章一節を読むと、「初めに、神は天地を創造された」と書かれていたのです。私は、これはダメだと思って、聖書を閉じてしまいました。アレルギー反応のように、こんな非科学的なものは、読むことなどできない、と偏見が頭をもたげてしまったのだと思いますが、それっきり聖書を開くことができなくなったのです。私は、この時、日本語で書かれていたので、聖書の文章が理解できていると思っていたのです。しかし、そうではありませんでした。それから、神様の忍耐深い指導が続きました。そして、聖書が開けるようになりましたが、牧師を目指している先輩に聖書研究を一緒にしようと勧められ、始めたのですが、素直に聞くことができませんでした。今考えても恥ずかしいことに、聖書を教えていただくと言うのではなくて、すぐに議論と反論の場になってしまうのです。しかし、そのような高慢な私に神様は善い教師を与えてくれました。後に知りますが、教団の三大聖人と言われる本物のクリスチャンに出会ったのです。その人が古い大きな聖書を開くと、なぜか素直に耳を傾けてしまうのです。そして、その先生の証を聞くことで心が開かれて行きました。そして、キリストの言葉を聞いたのです。真理の御霊が教えてくださると言うのは本当です。キリストの言葉が分からなくて、いつもどういう意味だろうと、考えていました。すると、突然、天啓のように悟るのです。その時の驚きと、意味が分かった喜びはとても大きくて、何かが私の内部で変わっていったのです。そして、創世記の初めの言葉を再び読むと、全く違ったものとなったのです。たった一つの文章に衝撃を受け、そこに含まれた意味が大きく広がったのです。それは、今でも変わりません。内住する聖霊が起き上がるような感覚があります。これは、もはや本ではなくて、人間の精神に直接働く大きな力のようなものです。それは、コンピューターの記憶媒体のDVDやSDカードのように、映像でも音楽でも音声でも入れておけるように、巨大な情報が隠されているような威力があるのです。聖書学者が書いた註解書のような知識や知恵も大切ですが、そのようなものではなく、もっと異質で、神様が直接真理を啓示されるような感じのものです。聖書を今日の御言葉のように、正しく理解するなら、あなたの人生に恵みと不思議をもたらすはずです。そのような聖書をあなたは手元に持っているのですから、これだけでも奇跡なのです。聖書に向かいましょう。この世の何よりも素晴らしい宝なのですから。