2021年9月ディボーション

9月1日(水)

あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。あなたは私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみを知っておられました。

詩篇31:7

 

神様は、私たちのことなら何でもご存知です。どうして、このように心を傾けてくださるのかはわかりません。しかし、人間とは違って真心から私たちの人生を気遣い、天国へ辿り着くことができるようにと最善の配慮をしてくださるのです。私たちは、罪人であったために、罪人のように考える癖がついています。それは、いかにも否定的、悲観的な考え方です。ですから、人を恐れてしまうのです。人を恐れるとろくなことはありません。ですから、イエス・キリストを主として信じる人は、聖書の勧告の通りに人を恐れてはいけないのです。そして、その原因である、心のこと、否定的、悲観的な考えを変えなければなりません。一番の問題は、自分の弱さです。クリスチャンの目指しているのは、強さというよりも弱さの中に働く主の強さです。弱いので、以前ならすぐに不安になり、否定的な考えに支配されていたのですが、キリストを信じるようになり、キリストに頼るようになります。その信頼は信仰と呼べるものです。自分は弱くてもその弱さに中にキリストが働き、それゆえに強さになる、ということです。これらは、理論ではなく、現実です。そのために、信仰生活の中で練られ、訓練されます。不安も恐れも消え、否定的で消極的であった心が、信仰により、肯定的で積極的な思考に変わって行くのです。その効果は絶大です。今日の聖句は、主が人の心の苦しみ悩みを知っておられ、それ故にその解決をなさるのです。それは主の知恵に満ちた業ですから、完全な問題解決となり、信仰者にとってはただただ恵みとなり、喜ぶことになります。このような経験をすると、クリスチャンも信仰に大きく成長することができるのです。

 

 9月2日(木)

主は憐れみ深く、正義を行われる。

わたしたちの神は情け深い。

哀れな人を守ってくださる主は

弱り果てたわたしを救ってくださる。

わたしの魂よ、再び安らうがよい

主はお前に報いてくださる。

詩篇116:5~7

 

私たちは、大切なことをいつでも目の前に掲げているべきです。それは、「わたしたちの神は情け深い」ということ、そして、「わたしたちの神は情け深い」ということをです。人間は、実にいろいろで面白いのですが、狭く考えてこうでなければならないと決めて生きにくくする傾向があるのです。こういう時は真面目な人ほど厳しくなるし、生きるための食べ物が簡単に手に入るか、どうでも規律を設けて厳しくかどうかが大きく変わってくるのです。しかし、そもそも生まれつきの資質や環境は選べないし、自分の努力だけではどうしようもないことが自分の重しになっているのです。そこで、人間の目を気にしたような生き方では、うまく人生を生きて幸せになることは難しいと言わざるを得ないのです。それに対して、クリスチャンは神様の憐れみの中で生きるのです。この世の地位や名誉、富などに縛られていません。それよりも置かれたところで信仰をいかに守るかです。信仰は裏切られません。人間的には弱くて、この世でうまく生きることができなくても、信仰によって生きることはできます。しかも、かなりありがたい恵まれた人生になります。それは、哀れな人を守ってくださる主だからです。時には、弱り果ててしまうことだってあるものですが、その時に「ダメだな」などと言われる必要はありません。「主が弱り果てたわたしを救ってくださる」からです。わたしたちの深い所、魂が安らう、とは心の底から安心して、安らかになるということです。思い煩わなくなることです。主がどうなさるかはわかりませんが、良い結果になることは知っています。ですから、あまりストレスが溜まるようなことはしないことです。

 

9月3日(金)

彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

ヨハネ1:7、8

 

宣べ伝えたのは、バプテスマのヨハネです。もちろん、キリストを指し示していたのです。さて、注目するのは、ヨハネは水に浸けて洗礼を施しましたから、人々から漬け屋のヨハネとあだ名で呼ばれていたようです。その漬け屋のヨハネは、キリストの紹介で、その方は聖霊で洗礼をお授けになる、と証言しています。つまり、キリストの十字架や復活には十分な説明がされますが、キリストが聖霊で洗礼をお授けになるということはほとんど説明されていないかもしれません。水の洗礼をお受けになったクリスチャンなら、水の洗礼の意味が体験として理解できます。しかし、それは漬け屋のヨハネではありませんでしたが、牧師や宣教師が洗礼を行ったはずです。ところが、聖霊によって洗礼を施すのは、牧師のような人間ではありません。もっぱらキリストだけの働きなのです。しかし、水での洗礼と同じぐらいに明確なものです。現代の教会では、聖霊のバプテスマは刺身のツマぐらいにしか扱われないことが多いのですが、新約聖書の教会では、広く全教会員に使徒たちは頭に手を置いて聖霊のバプテスマを祈り、授けていました。そこで、聖霊のバプテスマを既に受けている人から祈っていただき、授けていただく方法と、個人的に自分で祈り、授けていただく方法の二つが一般的です。もちろん、霊的にはキリストが授けているので、人を介さずにイタリア隊のコルネリウスのようにいきなり天から聖霊が降ることもあります。霊を見分ける賜物をいただいている人は、聖霊が雨のように降っているのが見えるそうです。私は聖霊が降って来た時に、空気がゆらゆらと揺れるように見えました。大切なことですが、キリストの救いには、十字架による罪の贖いということだけではなく、新生という新しく生まれることが含まれています。キリストによれば、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(ヨハネ3:5)と告げられ、「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(同3:6)と続きます。つまり、生まれたままの状態とは肉からうまれた肉と表現され、聖霊のバプテスマを受けた人は霊から生まれた霊なのです。これほど重要なことが、現代では、霊の世界は無い、という考えに至り、教会ですらその考えが入ってきて(それを世俗化と呼ぶ)、聖霊のバプテスマが形骸化してしまいました。ですから、それに付き合わなければならないということはありません。それよりも、聖書に書かれていることに忠実な方が良いのです。このような状況になっているのは、霊的な戦いが深刻になっているからです。「天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」(マタイ11:12)とある通り、悪魔は教会や牧師、長老、そしてクリスチャンを襲っています。何を奪おうとしているかと言えば、それは、天の国です。天の国と神の国は同じですが、神の支配する国ですから、神の支配を意味しています。教会が神に支配されているなら神の国と言えるし、クリスチャンが神の支配を受けていれば神の国が来たと言えるわけです。では、どうやって神の支配が実現するでしょうか、それは聖霊のバプテスマによってです。人の外側ではなく、内側に聖霊が入り、支配します。もちろん、自由意志は尊重されますから、信仰者が信仰を持って聖霊に服従することが要件となります。この聖霊が人の内側で支配することを防ぐための攻撃が悪魔の側から起こっているのです。方法は、肉を攻撃することでした。とにかく、このようなことで聖霊が軽視され、肉と霊が混在する教会になってしまったのです。皆さんは、聖霊のバプテスマを求めて祈っても、なかなか受けられないと思うかもしれませんが、それは、悪魔の妨害が激しいからです。そこで、しつこく祈り続けることが対抗する手段となります。主の御心は誰でも罪を悔い改めて、水と霊とから新しく生まれることです。ですから、恵みはまだ残っているのです。

 

9月4日(土)

主よ、あなたの道をわたしに示し

あなたに従う道を教えてください。

あなたのまことにわたしを導いてください。

教えてください

あなたはわたしを救ってくださる神。

絶えることなくあなたに望みをおいています。

詩篇25:4、5

 

私たちは、信仰生活を送る者です。そこで、この世の人たちとは少し違った生き方をしているのです。毎日、祈ったり、聖書を読んだり、礼拝したり、献金を献げたり、讃美歌を歌ったりします。しかし、それだけでいいのでしょうか。もちろん、いつでもクリスチャンとして生きているのですが、これは自己流で正しいかどうかもわからずに、なんとなく過ごしているのではないでしょうか。では、どうすればいいか考えてみましょう。答えはいつでも聖書にありますから、聖書を開いてみると、今日の聖句が目に入りました。神様の道を示してください、と詩篇記者は神様に祈っています。さらに、神様に従う道を教えてください、と願っています。ここで、わかりづらいのは「道」です。日本人的には華道、茶道、剣道、柔道、と道の付くものは多くあります。何か一つのことを極めていくことを道と呼んでいるようです。そこには、精神的なことも含まれています。クリスチャンの生き方と言っても外れてはいないでしょう。ただ、これは神様に従う生き方なのです。それは、普通の人は知りません。ですから、教えてくださいと神様に願うべきことなのです。自分勝手に考えてそれらしく生きても、うまくは行きません。せいぜい、良い人を演じて自己満足するぐらいです。たぶん、ファリサイ派の人のようになるのがオチです。そうではなく、最後の二行を見てください。大切なことは、自分を救ってくださる神様、と認めることです。そして、神様に従う道とは、絶えることなく神様に望みをおく生き方なのです。これならできそうですね。救ってもらおうとしているのに、どうも私たちは自分で頑張ろうとする癖が抜けないので苦しくなるのです。救っていただかなければ、どうしようもないとあきらめて、いつもいつも主に望みをおいて生きることにしましょう。

 

2021年9月6日(月)

人の歩みは主によって確かにされる。

主はその人の道を喜ばれる。

その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。

主がその手をささえておられるからだ。

詩篇37:23、24

 

失敗したことをいつまでも忘れられずに後悔したり、苦しむことがあります。忘れられればいいのですが、嫌な時に思い出しては苦い思いを繰り返すのです。どうして、うまく忘れてしまうことができないのでしょう。多分、その人が良い人だからです。無意識に自分を罰しているのかもしれません。真面目であることは大変良いことですが、心の問題では時に苦しみを増幅させているかもしれません。そこで、聖書の助けを借りたいと思います。今日の聖句は、読めば一目瞭然ですが、基本的に信仰者の人生は主によって確かにされるのです。だから、それだけで心配することはありません。主が関わってくださるのですから、失敗しても正して、問題を修復してくださいます。そのことを知っていれば、主に任せることができます。でも、責任感が強いと、主に任せることができずに自分で重荷を背負い、苦しみを招き寄せてしまうのです。それが、あまり意識しないで自然と行ってしまうので厄介です。ところが、おまけがあって、主は人間の弱さを知っているので、「その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない」と、人間は失敗して倒れてしまうことがあるとご存知なのです。それでも、「主がその手を支えておられる」ので、ひどい目には遭わない、と約束されているのです。どうですか、これでも人生をクヨクヨと考えますか。クリスチャンが楽観的になれるのは、主が倒れそうな時に、ちゃんとその手を支えておられることを知っているからです。ただ知っているだけではありません。知っているだけでは、本当に手を支えてくれるだろうか、やはり心配になるかもしれません。だから、私たちは、主を信じているのです。主は、私たちの人生を確かなものにしてくださると張り切っておられます。そして、その通りにうまくいくと喜んでくださいます。こんなに恵まれているのですから、主を賛美しましょう。そして、信じましょう。後ろを向いても何もありません。いつでも、これから主が自分のためにどんな人生を作られるだろうかと期待を込めて、心をワクワクさせながら楽しく生きていくのです。まずは、その背中の重そうな荷物を主におろしていただきましょう。

 

2021年9月7日(火)

主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

詩篇37:4

 

主を自分の喜びとするって考えたことがありますか。素敵ですよね。信仰を持っている人なら誰でもすぐにできます。ポジティブにって言われることが多い時代ですが、そう簡単ではありません。どうすればいいのか分からない人も多いはずです。あまり言われるとプレッシャーから逆にネガティブになってしまいます。逆効果ですね。でも、私たちには幸いにも信仰が与えられています。ですから、主を信じているので、主に感謝することも多いのです。その延長線で考えれば、主を自分の喜びとすることはそれほど難しくありません。主が自分のことをいつでも愛してくださり、祝福してくださることを発見することができるからです。目に見えることにばかり気が取られていると、つい忘れてしまうのですが、主は自分を犠牲にしてまで私たちを助けてくださる方です。それに、私たちを養う羊飼いです。味わいみよ主の恵み深さを、とおっしゃってくださるありがたいです神様なのです。ですから、私たちは毎日、神様の恵みを発見しては喜ぶことができます。そのようにして、神様を理解することができると、心が繋がって行くのです。そすると、心に願うことが変わって行くのです。本当に自分にとって益となることだけを願うようになるのです。それは主の御目に敵うのですから、あなたの心の願いをかなえてくださるのです。この姿を見ると、十分ポジティブになっているはずです。心の願いがかなえていただけるのなら、毎日が楽しいですね。

 

2021年9月8日(水)

彼らは私の足をねらって網を仕掛けました。私のたましいは、うなだれています。彼らは私の前に穴を掘りました。そして自分で、その中に落ちました。

神よ、私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。

詩篇57:6、7

 

私たちは、毎日同じように過ごしていますが、実は色々なことが起こっています。調子が良い時は人生は楽なものだと楽観し、少しでも影がさすと途端に不安になったり、少しの悪いことでも大きく動揺するようなものです。本当は、いつでも何があっても冷静で堂々としていたのです。それにしても、どうして落ち込ませるようなことが起こるのでしょうでしょうか。それは、聖書では敵がいるからとはっきりしています。その敵はサタンです。今日の聖句を見てみると、悪霊たちは私たちがつまずくように罠を仕掛けるのです。それは、私たちが失敗すれば、すぐに落ち込んでしまうことを敵が知っていて、こっそり攻撃しているということです。しかし、神様を信じている私たちが、いつでもやられっぱなし、なんてことはありません。神様が指一本動かせば、たちどころに悪霊たちは、自分の掘った穴に自分で落ちてしまうのです。コントのようですが、本当のことです。ですから、時々落ち込むようなことがあっても、信仰で主の助けが速やかにあると信じるのです。そして、今日の聖句のイメージを思い出して、罠を仕掛けた悪霊が自分から穴に落ちてしまう場面を想像してください。このように、主の守りと助けはありますから、敵の戦略にまんまとハマってしまわないように、気をつけましょう。私たちの合言葉は、「主よ、私の心はゆるぎません」です。そして、讃美には力があるので、主をほめ歌いましょう。今日も、良い日です。

 

2021年9月9日(木)

わたしは疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす。

エレミヤ31:25

 

季節の移り変わりが四季にはっきりと現れる日本では、衣替えをするなど一年の間に目まぐるしく変化するという特徴があります。そのためか、新しいものが好きで、すぐに飽きるという所も日本人の特徴でよく挙げられます。ついこの間まで暑い夏が早く終わればいいと言っていたのに、急に涼しくなり気温が下がると夏が恋しいと言ったりするのも変化に対応するのが大変だからです。夏から秋への変化は特に夏の疲れが一気に出てくるので大変です。体力だけではなく、霊的にも衰えてしまいがちです。興味深いのは、神様は私たちの魂の援助者となって、気を配っておられることです。辛いことや、困ったこと、悲しいこと、強いストレスにさらされることなど、およそ人間が魂にダメージを負う時に、理由はともかく主はあなたを憐れまずにはいられないのです。そこで、主は特別な方法でその人を導き、今日の聖句の通りにしてくださるのです。ですから、弱ったと思っている時には、素直に主に祈りましょう。そして、魂のケアーをお願いするのです。魂が健やかならば、人生は明るく楽しものとなります。

 

2021年9月10日(金)

あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない純真な者となり、ゆがんだ邪悪な時代にあって、傷のない神の子供となって、この世で星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。

フィリピ2:13~16

 

クリスチャンは、信仰に生きると願いが心に起こります。さらにすごいのはその願いが御心によって実現に至ることです。ですから、もっと前向きに生きるようになります。クリスチャンのための勧告は、聖書の中にいくつも見ることができますが、今日の聖句にもあります。「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」と書いてありました。これは、簡単そうに見えますが、実際にはかなり大変です。今の世界は、不平と理屈が充満しています。SNSが普及して加速しました。理不尽な匿名の書き込みがしばしば社会問題になります。このような時代に、この勧告を守ることは、大きな恵みを得ることに繋がります。何よりも、重要なことですが、クリスチャンが傷のない神の子として、この世で星のように輝くようになるというのです。この世界は、人物を求めています。希望が萎れている時代に、光を灯すことのできる人物です。このようにクリスチャンは誰であれ、素晴らしい成長を遂げる道が示されているのです。それは、クリスチャンの生き方といえます。このように神様がクリスチャンの内に働き、それに従うようになり、初めは喜ぶのです。そして、そのまま主に従っていればいいのですが、いつの間にか不平を言ったり、理屈を言ったりするこの世の人とあまり変わらない人になってしまう危険があるのです。そこで、自分を戒めて、「何事も、に不平や理屈を言わずに行いなさい」との言葉を守るのです。それだけです。自発的に挑戦してみましょう。

 

9月11日(土)

これは、あなたが歩くとき、あなたを導き、あなたが寝るとき、あなたを見守り、あなたが目覚めるとき、あなたに話しかける。

命令はともしびであり、おしえは光であり、訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ。

箴言6:22、23

 

聖書の不思議は、もう何十年も読み続けているのに、いまだに新鮮で新しいことを学べることです。クリスチャンにとって、聖書は永遠の命に至る道の地図のようなものです。そして、聖書は話しかけることができるし、不思議な力を持っていて、神様のみ声を響かせることができます。聖書の御言葉に教えられ、正しい道を見つけ、励まされ勇気を知り、困難な時の解決法であり、成長のための教師にもなるのです。霊的に訓練をするだけでなく、信仰の迷いを取り除き、神様の愛を直接確かめることのできる場でもあります。自分がクリスチャンとしての成長のどの段階にあるのか知ることができるし、祈りの答えを聞くこともできます。霊的食物であり、足もとを照らす灯火なのです。このように聖書を人生のガイドとして手放さなければ、道を誤り迷子になることはありません。

 

9月12日(日)

イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」

マルコ9:35

 

高校に入って部活が始まると、一年生は基礎体力作りからなのでかなりきついメニューをこなさなければなりません。そこで、私はマラソンでもサーキットトレーンングでも苦しいからこそ何でも一番になることに決めました。そして、その通り一番になりました。神学校に入ると、説教実習のクラスがありました。そこでは、一人一人が学生たちの前で実際に説教をして、批評を受けるというものでした。そこでも、一番前の学生が私の説教は講壇を乗り越えて来そうで引きました、と言われてしまいました。私は教区で選ばれた特別奨学生だったので、自分が一番頑張らなければと思っていたのかもしれません。それで卒業の時には総代で答辞を読みました。牧師になっても、救霊で一番になろうとか、思っていたと思います。一年目からバプテスマがたくさん出たので、牧師会で日本一のメガチャーチを作ると豪語していました。今振り返ると恥ずかしい限りですが、根拠のない自信だけが取り柄だったのかもしれません。聖霊の恵みを受けて、他の牧師ができないような働きをしていました。勿論、自分の力ではなく聖霊の力でうまくいっていたのです。今日の聖句も知っていたし、解説もしていたと思います。しかし、ペトロのように、すぐに調子に乗って舟から水の上に出て行ってしまうような者ですから、悟るまで時間がかかるのです。弟子たちは、イエスの言葉を聞いても、結局最後まで誰が一番か争っていました。イエスはそのたびに言葉を変えて諭します。互いに足を洗いなさい。互いに愛し合いなさい。実は、今日の聖句の言い換えなのです。そして、これは、イエスの新しい掟なのです。この世では、一番になることを目指すのですが、神の国では、人に仕えることを目指すのです。できれば、人の汚れを洗える人になりたいと弟子たちが思うように主は今も願っているのです。

 

9月13日(月)

人よ、何が善であり

主が何をお前に求めておられるかは

お前に告げられている。

正義を行い、慈しみを愛し

へりくだって神と共に歩むこと、これである。

ミカ6:8

 

人間として正しく立派に生きたいと願う人はいます。クリスチャンはどうでしょう。私たちは聖書を読んで学んできました、何が善であるかを。信仰を持って生きようと決めています。信仰による義という言葉を何回も聞いてきました。それが何であるかも学びましたが、あまりピンときていないかもしれません。しかし、クリスチャンとして胸を張って生きていきたいなら、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと」を目標にすれば良いのです。自力では難しいと言っていては、この御言葉に近づくこともかなわないでしょう。これは、勿論、信仰であり、聖霊によって達成できるようなことでしょうが、それでも、これを意識して生きる、人に左右されないで自負として心に力を入れて生きる。これぐらいは考えて良いのです。自分は、人間の方に近いのか、それとも神の方に近いのか、そんなふうに自分を見つめてみましょう。

 

9月14日(火)

しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いになられました。

Ⅰコリント1:30

 

私たちが自分自身を知覚しようとすると、どうしても感覚的になってしまいます。それは、生まれてからずっと慣れ親しんだものですから自然に感じるでしょう。しかし、クリスチャンになると、不思議な言い方で聖書は私たちの変化を語ります。例えば、今日の聖句もその一つです。神様が信じて救われた者に何か良いことをされたのです。それは、救いの完成に必要なことです。「神によってキリスト・イエスのうちにある」と書いてあるのは、一体どのようなことなのでしょう。それに続く文章にヒントがあります。分かりやすいのは、最後の「贖い」でしょう。キリストが十字架にかかって死に、私たちの罪の贖いとなられた、と私たちは信仰告白しています。どのような仕組みかまでは分かりませんが、キリストを信じた人には贖いは成立しているのです。それが「神によってキリスト・イエスのうちにある」という意味であり、内容になっているのです。そうであれば、前に書かれている、「神の知恵」、「義と聖め」も、キリストを信じている人たちに実現しているのです。このように見てくると、これらは全て神様がなさったことで、私たちを罪から清めたあと、キリストのうちに置かれることでキリストが私たちが天国に帰るために必要な神の知恵となり、また義と聖めと、贖いになられた、ということです。もう少し正確に言えば、「キリストのうちにある」というのは、聖霊をその人の内に入れたのです。その聖霊を受け入れて服従すれば、キリストの御心が自由に行われるのでキリストの内にあると言えるのです。そのようにキリストはなってくださったのです。

 

9月15日(水)

しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の仔牛のようにはね回る。

マラキ4:2

 

神様を信仰している皆さんには、色々な約束がまるで特典のように付いているのです。これは、人間には想像持つかない主の恵みです。では、それがどんなものか見てみましょう。まず、罪人は暗闇の中でだけ生きていけるのであって、光の中にはいられません。ですから、光の中に生きるには義が必要です。それは、罪人には無理なことなのです。ところが主は罪人を探し救いに来られたのです。それは、マラキの預言のように、まるで義の太陽が上ったようでした。キリストは、雌鳥がひな達を翼を広げて敵から守るように、私たちを癒し、安息を与えてくださったのです。この圧倒的な恵みによる救いは、私たちを本当に救ったのです。ですから、救われた者たちは、仔牛が喜んで跳ね回るように、飛び跳ねるほどの喜びを得たのです。キリストに栄光がありますように。

 

9月16日(木)

彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉を与えよう。

詩篇91:15

 

この約束は、信仰を持ったあなたのものです。あなたは、この世で他の人たちと同じように生きていると思うでしょうが、実は違っています。あなたには神様の保証があるからです。今日の聖句を読めば、お分かりになると思いますが、神様は遠くないのです。あなたの近くにおられて、あなたの声をちゃんと聞き分けられます。そして、肝心なことは、あなたが困って主を呼び求めれば、主が答えてくださるのです。基本的に私たちは祝福されていますが、敵は機会を捉えて攻撃してきます。ですから、神様のお守りと救いが必要になることも考えられるのです。その時に、今日の聖句は保証となります。主の素晴らしさ救っただけではなく、誉を与えてくださるというのです。たとえ、誹謗中傷が浴びせられたとしても、名誉を主が回復してくださいます。過去が汚点になっていている人にも、救いと誉が与えられるのです。クリスチャンは、まさに覇者復活戦に登場して勝者になる人なのです。勿論、この世の肉的な勝者ではありません。もっと崇高で天国の香りがするものです。ですから、人間の功績では手に入りません。オリンピックの金メダルよりも価値のあるものです。まさに天国にふさわしい誉です。このように、祝福されているクリスチャンは、希望を持って安心して生きて行けます。苦しみにあった時でも、信仰を小さくしないでください。大胆な信仰を発揮する時だからです。キリストが十字架で勝利を勝ち取ったのですから、信じる人もその勝利にあずかっているのです。

 

9月17日(金)

あなたの重荷を主にゆだねよ

主はあなたを支えてくださる。

主に従う者を支え

とこしえに動揺しないように計らってくださる。

詩篇55:23

 

あなたは重荷を負っていますか。そもそも自分の重荷に気が付いているでしょうか。あまりにも長く重荷を負い続けてしまい、今や重荷を負っていることすら忘れていないでしょうか。クリスチャンだから何でもかんでも我慢して耐えなければいけないということはありません。むしろ、逆です。聖書にイエス様が「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしの元に来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)と言われたではありませんか。ですから、私たちは主を信じて救われたのです。それなのに、気がつけば背中にずしりと重い重荷が覆いかぶさっています。どうしてこんなことになるのでしょうか。それは、主に自分の重荷をゆだねる、ということがよくわかっていないからです。人によっては聖なる重荷に押しつぶされそうになっています。人間的に考えて自分でどうにかしなければと無意識に頑張り続けていたことも重荷なんです。私たちは弱い存在なのです。ですから、主の支えがどうしても必要です。あなたの重荷を主にゆだねよ、と命じているのに、これは重荷ではないと勝手に思っているのです。それで、苦しみ喘いでいるのなら、気が付いてもいいと思うのですが、どこかであきらめていてどうすることもできないと思っているのです。もし自分が問題について考えた時に動揺しているようなら、それこそあなたの重荷です。すぐに、主にゆだねなさい。そして、主に支えていただくのです。もう終わりにして、とこしえに動揺しないように、主に完全に解決していただくのです。

 

9月18日(土)

また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。

ピリピ4:19

 

世の中には勘が良いと言われる人がいますが、その反対の人もいます。試験やクイズで3択問題を必ず外す人です。2択ならと挑戦してもまず正解と反対を選んでしまう感の悪さです。このような人は、頑張って正確な知識を勉強するしかありません。このような人でも、神様を信じている信仰者は、この世の人たちには無い特別な恵みがあります。それは信仰によって必要をすべて満たす特権があるということです。これは、大きな力が働くので、決して結果を見て自分の力で達成したと高慢にならない事が大事です。神様の手柄をすぐに自分の功績にすり替えてしまう危険があります。これだけは注意して、神様へちゃんと栄光を帰す事です。イエス・キリストを信じていることで、仕事も個人的なことも、学業さえ祝福されます。経済的に困れば、イエス様はあたなを助けようとされます。病院が遠くて困っていれば、すぐ近くに病院ができるでしょう。私も歩いて行けるところにクリニックと歯科と眼科がそれぞれできました。便利です。今日の聖句を覚えましょう。それは、あなたの必要を神様がイエス様を通して、しかもイエス様の栄光の富を持って、満たしてくださると約束しているのです。この約束を知っていれば、あなたはこの世で困ることはありません。なんて素晴らしい祝福でしょうか。神様、イエス様に感謝しましょう。

 

9月19日(日)

主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。

詩篇121:8

 

私たちは、自分の弱さを知っています。少しでも不安なことが起こればたちまり、意気消沈し、簡単に落ち込むような者です。それでも、毎日が恵みの中にあることを願い、良いことに目を向けて生きていこうとしています。主は、そのような弱い私たちをご存知です。そして、もっと力づけ、励ましたいと思われているのです。そのために信仰を与えてくださいました。また、聖書を与え、神様がいかにあなたを愛しているか伝えているのです。人間を一番強くするのは、愛の力です。ですから、イエス様を知って大いに励まされ、信頼することに努めてきました。それでも、やはり目に見えること、人間を通して悩みが起こって行くのです。その度に、神様に祈り、聖書を読み、信仰で勝利しなければと思うのです。このようなことは、幾度も繰り返されるでしょう。しかし、立ち止まって冷静に考えてください。神様はあなたになんと約束されたのか、聖書の御言葉で確かめてください。「主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる」と約束しておられるのです。ですから、あなたは永遠に主によって守られることが決まっているのです。何を恐れる必要があるでしょうか。勇気を出してください。そして、主を信頼して讃美しましょう。あなたは主に守られているのですから。

 

9月20日(月)

最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。

悪を持って悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。

Ⅰペテロ3:8、9

 

クリスチャンのイメージというものがあります。日本人の多くが持っているイメージです。良い人、敬虔な人、親切な人、人と争わない人、嘘をつかない人、謙遜な人、憐れみ深い人、などが良いイメージです。その反対に否定的なことを言う人もいますが、少数派です。どちらにしろ、これはイメージであって実態は知らないのです。クリスチャン人口があまりに少ないので知り合いにクリスチャンがいないからです。それにオーム真理教事件以来宗教に対して悪いイメージが定着してしまい、気持ち悪いという言葉さえ聞こえるようになったのです。実際には宗教は日本人に深く浸透していて、特に新興宗教に関わる人は増えているのです。聖書に書かれた通りに私たちが生きていれば、キリスト教とその他の宗教の違いは明確にわかるはずです。伝道をしたくないと言うクリスチャンもいますが、今日の聖句にも明らかなように、私たちは祝福された者なので、人を祝福する係なのです。それがどんなに幸いなことか理解できますか。もし、クリスチャンが全員、今日の聖句の通りにしていたら、日本はどうなるでしょうか。良くなるはずです。幸福な人が増えるでしょう。クリスチャン同士もキリストをの愛をいつも身に帯びるようになるでしょう。こうしたクリスチャンの生き方自体が福音を告げ知らせることにつながるのです。

 

9月21日(火)

私のたましいに言ってください。「わたしがあなたの救いだ。」と。

詩篇35:3

 

詩篇に書かれた御言葉を自分の祈りに使うことは良いことです。今日の聖句のように祈ったことはありますか。これほど大胆なことを祈っているでしょうか。私たちの祈りは、毎日同じようなことを祈っているのではないでしょうか。何か問題が怒ると慌てて一生懸命に祈りるでしょうが、平和な日が続くとまるで主の祈りのように同じような言葉で祈っている事があります。それに、願い事ばかりで、一番自分が関心のあることを祈っているでしょう。祈りのノートを作っている人なら、祈りのリクエストを一つ一つ問題が解決するまで毎日祈るでしょう。ところで、今日の詩篇記者の祈りはどうでしょうか。何か、ラブレターのように、心からの訴えです。そして、ここには真理が含まれています。御言葉を自分のものにするには、自分の魂に言われることが肝心なのです。魂に届いているかどうか、御言葉を聞き流していないか、自分のを吟味してみる必要がありそうです。季節が進み、良い季節になりましたから、聖書が魂に響くような読み方をしてみたいですね。

 

9月22日(水)

あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。

箴言16:3

 

私たちは、何かしようと決断して事を始めるものです。それが大きな事か小さな事かは関係なく、うまく行って欲しいのです。多くの場合、そのような時に、まず計画を立てます。内容もやり方も人それぞれです。例えば、2年後の3月までに合格するとか、卒業するとか、起業するとか、結婚するとか、家を建てるとか、リハビリを終えて社会復帰するとか、田舎に移住するとか、老後の生活をこうしたいとか、とにかく何でも目標があればそれを達成したいのです。クリスチャンは、祈ることができるので、神様にお願いするでしょう。さて、人生を振り返った時、あなたは全てがうまく行ったと満足しているでしょうか。自分の計画は達成できたのでしょうか。私がわかったのは、自分は自分でしかないということです。あの時、もっと頑張っていればとか、選択を誤ったかもしれない違った人生があったのではと後悔する事があるかもしれませんが、その選択があなたの決めた事なのです。もし、もっと良い人生が歩めたらよかった、と思うことがあるのなら、今日の聖句を良く読んで考えてみましょう。結局、今信仰を持っているのなら、過去を後悔する必要はありません。イエス様を信じているという事以上の選択はありません。なんとすごいことでしょうか。永遠の命がいただけるのです。自分の目で天国を見ることができるのです。これは、この世の中で大金持ちや大臣や王様になるよりもはるかに価値あることなのです。クリスチャンになって、色々なことがあったと思いますが、今も信仰を持ち続けているのなら、あなたは成功した人生を送ったのです。さらに、聖書の御言葉の力を体験できます。今日の聖句を実行すれば良いのです。人生が先行き不安だとか心配だという人がたくさんいたとしても、あなたはニコニコ笑って、主は私の人生をどうされるだろう、主は既に私を祝福してくださっているのだから、主の望むような計画を私に見事に達成させようと働かれているはずだ。だから、将来が楽しみでしょうがない。これが、今日の聖句を読んで、感じ取れれば良いのです。

 

9月23日(木)

神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。

詩篇18:30

 

神様を信じているという人は、最高の選択をしています。その人の足は完全な道に立っています。その人は聖書を開き読みます。誰でも聖書は本のように読むことはできますが、その秘密を知っている人は主を信じる人だけです。御言葉は命であり霊なのです。ですから、信仰がなければ理解できません。主のお約束で真理の霊が来ますから聖書の真理が開かれます。それはあなたの生きる力になります。主の御声を聞くかもしれません。「主のみことばは純粋」とある通りです。罪の世界は雑音だらけで、偽りの情報が人の心を惑わし、危険な道へと誘うのです。偽情報は人の心を混乱させるので暗闇に引き込まれていきます。それに打ち勝つ光は、純粋なのです。真理は一つですから迷いはないのです。シンプルで楽な道です。あなたは主を信じているので、何かあれば主に身を避ける者なのです。その時、主はあなたの盾になってくださいます。これほどの心強いことはありません。ですから、あなたは楽な心で生きていけます。その道は喜び、楽しみに満ちているはずです。

 

9月24日(金)

しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。

ルカ12:28

 

我が家のバラは手入れが良くないのに頑張って咲くのです。四季咲きなので、しょっちゅう咲いている気がします。夏が過ぎて、葉がだいぶ落ちてしまったバラがここのところ、三つ花を付けました。それを切り花にしてテーブルに飾っているのですが、あまりに美しいので驚いています。小さな花が開くにつれて大きくなり、衣替えをしたように、色が変わっていくのです。それがエレガントとしかいいようがない華やかな気品があって、花弁の外側がこいピンクで内側に向かって薄くグラデーションになっているのです。神様はなんてすごいクリエイターなのだろうかと驚嘆してしまいます。しかもこの花が生きているので刻々と変化していくのですが、どんなに高級な服もそんなことはできませんから、圧倒的な素晴らしさを感動無しには観ることができません。イエス様は野の花を見よとおっしゃいましたが、誰が野花を装ったのか、と聞かれたら神様の凄さを見過ごしにして気がつかずに生きている人間の愚かさに気付かされます。その野花と私たち人間を比べれば、どちらが上位に置かれているかは聖書に明らかです。それなので、神様があなたにどんなによくしてくださるか、野花にしてくださる以上に良くしてくださるのは明らかです。ですから、日々の生活も、子育ても、仕事も、将来のことも、お金も、どんなことでも主に良くしていただけると信じて大丈夫です。ただ、主に「ああ、信仰の薄い人たち」と言われないようにしましょう。

 

9月25日(土)

まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。

詩篇107:9

 

がっかりしたり、意気消沈して落ち込むようなことが起こっても、クリスチャンは慰められることになっていますから、大丈夫です。人間の幸福は、愛されていることです。ところが、人間の愛はあてにならないところがあります。そこで、心が乱されることも少なくないのです。世の中には、誰からも関心を持たれない人もいます。話す相手もいないと孤独になります。しかし、そんな時にもクリスチャンには特別クーポンがついているのです。もちろん、イエス様発行の信頼できる特別クーポンです。この世のクーポンはせいぜい10%割引券のような者ですが、イエス様のクーポンは、その人の信仰によって0から100%まで内容が変わってきます。お金を割引くのではなく、悩みや悲しみ、飢え渇きを軽減するものです。主を信頼する習慣が身に付いていると、100%に成りやすいので、落ち込むようなことが起こっても、すぐに立ち直れます。本当は、魂の飢え渇きが一番人間には絶えられない苦痛なのです。その一番人間にとって絶えられない苦しみからも、イエス様を信じるだけで助けていただけるのです。魂の点検をしてみてください。渇いたり、飢えていませんか。聖書は、クーポン券の保証書のようなものです。保証内容が今日の聖句です。どうでしょう、これなら何が起こっても大丈夫ですね。今日も良い日になります。

 

9月26日(日)

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました。

Ⅱコリント5:17 

 

キリストの十字架で起こったことは驚異的な奇跡です。なぜなら、すべての人がキリストの死によって死んだからです。そこで終われば、不幸な終末の話になってしまいますが、実際には、その死から新しい生命が生じました。それは、キリストのために生きるものです。クリスチャンがキリストのために生きると言われる通りです。この新しい生命で生きるものこそがキリストのものなのです。パウロは、この「キリストのために生きる」ことを「キリストのうちにある」と言っているのです。この人は、主によって新しく創造された新しい人です。今日の聖句を読むと、何かすっきりしません。それは、最後の文章が「古いものは過ぎ去って」とあるからです。つまり、古いものが過ぎ去ったと言われていても古い世はまだ存続し、クリスチャンは皆いまだ肉の力と戦っているのです。これは、イエスと共のにある生命は、神の中に隠されているからです(コロサイ3:3~4参照)。ただ、私たちは古い世に生きる古いアダムの子孫としてはキリスト共に死に、復活したキリストの命と同じ命を受けて新しい世、再臨後の世界に生きるのです。それまで、神の内に隠されているので、自分は古いままでダメなんじゃないかと感じるのです。パウロは、古い世は既に征服され、消滅することになった。それに対して、新しい世はキリストとともに来て勝利が確定している。新しい世界の創造が起こる、と考えていました。私たちの課題は、キリストのために生きることです。

 

9月27日(月)

あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。

コロサイ3:12、13

 

私たちは、なんと天の王の大使なのです。そのように神様に選ばれたのです。ですから、自分の力で聖なる者になったわけではありません。それで、実感がわかずに失敗することもありますが、神様のお力で聖なる者とされているのです。それは、とりもなおさず神様に愛されているということです。そこで、少しセルフイメージを上げて、神の国大使だと認識をしっかりして、背筋もぴーんと伸ばし、威風堂々としたいものです。しかし、お手本のイエス様を考えると、もっと謙遜でなければなりません。必要なことは、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容です。これって、御霊の実とお案じではないですか。つまり、聖霊に従って、結ぶキリストの品性のことですね。さらに、心がけることがあります。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。この基準は、キリストがあなたを赦したのと同じようにという基準です。厳しい!と思いましたか。自分の感情ではできそうもありません。ですから、自分の感情ではなく、聖霊のお働きに服従するのです。自分で考えているのではなく、聖霊にすぐに聞くのです。ここで、自分の思いではなく、聖霊に従うことができれば、自分に死んだことになります。この世でも損をしたくないと思っていてはダメです。損して徳とれです。そうすれば、天に宝を積むことになるでしょう。クリスチャンは辛いよ!などと言っていないで、クリスチャンは最高!と喜びを表現しましょう。いつも明るく元気にです。辛い時ほど笑顔になりましょう。主がいてくださるので、なんとかなります。希望だらけです。今日も良い日です。

 

9月28日(火)

人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。

ガラテヤ2:16

 

これほど明確に書いてあっても、人間は迷うのです。では、クリスチャンは律法を守らなくても良いのか、とか、信仰があると言っていればそれで何をしても自由なのか、とか、どうも正確にここに書かれたことを理解するのが難しいようです。こういう問題が起こるのは、聖書よく読まないという初歩的な問題も少なくありません。例えば、今日の箇所ではこう書いてあります「キリストへの信仰によって義としていただく」と。つまり、自分で義となるのではなく、義としていただくのです。そうであれば、自分で律法を実行することで義となろうとすることは聖書と反します。聖書の主張は、「キリストへの信仰によって義としていただく」ということなのです。どちらがたやすいでしょうでしょうか。律法の実行については、モーセ以降、イスラエルという宗教国家を作り、律法も授け、預言者も立て、律法学者も祭司もいて、王様も聖職者で、人間の社会でおよそ考えられる最善を尽くして、律法の実行によって義となるかどうか実験してみたのですが、失敗しました。それなのに、現代人が挑戦しても義となるはずがありません。それを一番理解しているはずのキリスト教徒たちが、この聖句を無視して、律法の実行によって義となることを実践しているなら、悲しいことです。結果は明らかだからです。そもそも罪人が自力でどう転んでも義になるはずがありません。だから、「キリストへの信仰によって義としていただく」と書いてあるのです。つまり、神様に義としていただくのです。神様に義としていただくということの内容は、主イエス・キリストの十字架で罪を贖い、復活で死を打ち破り、新しい命に生きることを可能にしたのです。事実、悔い改めてイエス・キリストを信じた人たちは、聖霊を受けることができます。この聖霊は神の息なのです。アダムが土塊に過ぎなかったのに、鼻から吹き入れ、生きる者にしたのがこの神の息でした。これらはキリストでなければできないことですし、天の父なる神様が人を義としようとされないのなら決してできないことです。これでもまだ律法の実行にこだわる人は、自分の罪がまだ十分に理解されていないのです。神様に罪を示された人は、決して律法を守り行なわなければならないとはいいません。守れないことが悟れたからです。こうなると、主イエス・キリストにすがって救っていただくしかないと想いが定まるのです。では、律法を実行しないのならどうするかと言えば、肉に従うか、聖霊に従うか、どちらかを選ぶことになります。そして、その結果も明確に聖書に示されています。こうした霊的次元になるので、信仰の世界の話になるのです。

 

9月29日(水)

主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

ヘブル13:5

 

キリスト教の神様は、低きに降る神様です。私たちはこの神様のなさることに驚きます。十字架もそうですが、復活も意味が深く、何年も何十年もかけてその深みへと到達します。それが、神様が私たちを愛していることを表しているとわかるたびに感動し、主にお仕えすることを誇らしく思うのです。神様と私たちの関係は、実に個人的で愛に根ざしています。その極みは、今日の聖句です。私たちの人生で幾度も主が共にいてくださることが慰めとなって支えられてきたのです。ところが、下の句は、驚きます。「あなたを捨てない」とイエス様が言われたからです。これほど強烈な愛の言葉はありません。なぜなら、私たちがいかに頼りなく、不完全で、聖書の基準にも到達せずに、主を嘆かさせるだけの存在であるか思い知らされてきたのです。一体いつになったら、聖なる者、完全なる者に到達するのだろうと考えても、意気消沈するばかりなのです。それなのに、主は「あなたを捨てない」とおっしゃるのです。この主の愛にどうやって応えればいいのだろうと考える時、手放すことのできなかったものをいとも簡単に捨て去るのです。結局、私たちは立派なクリスチャンになろうとして変わるわけではなく、主の心に迫る愛に揺さぶられて、主の内に吸収されるかのように、まさに主と一体となってキリストの御姿に似てくるのです。

 

9月30日(木)

あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。

ヤコブ1:5

 

聖書を読むようになると、「知恵」という言葉が目につくようになります。箴言のように「知恵」が大切であると直接的に諭している箇所もあるように、知恵が重要なのだと思うようになります。そのうち、学生なら勉強に知恵がいると気づき、受験をする人は特に知恵をいただければ合格できると思ったりする人が出てきます。一般の方でも、ヤコブ書にこのようにはっきり書かれていると気になります。聖書を読む時に、難しいと感じていたら尚更です。ひょっとすると、知恵を求めて得られれば、聖書が楽に読めるのだろうか、聖書の真理が見えてきて、御言葉に隠されている奥深い内容が理解できるようになるのではないだろうか、このように思って知恵を求める人がいます。印刷会社の社長さんで茶道にも造詣の深い方が、早朝ディボーションを行う時に、このヤコブ書の聖句を見つけます。そして、信じたのです。ですから、知恵を求めて祈り続け、一週間が経った時に、試しに近くにあった茶道の本を読んでみて、本を伏せると覚えられたか試してみると、驚くほど理解していて、頭が良くなったと感じたのです。これは、面白い話ですが、皆様にも起こり得る証です。