2024年4月ディボーション

4月1日(月)

箱の中には石の板二枚のほか何もなかった。この石の板は、主がエジプトの地から出たイスラエル人と契約を結ばれたとき、ホレブでモーセがそこに納めたものである。

列王記上8:9

 

ここに出てくる石の板は、「主が、『・・わたしは、彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける』」(出エジプト24:12)と書かれている石の板です。ところが、箱の中には、この二枚の石の板以外は何もなかったのです。ヘブライ書によれば、「すっかり金で覆われた契約のはことがあって、この中には、マンナの入っている金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板があり」(9:4)となっています。しかし、ソロモンが神殿を竣工した時には既に契約の石板以外は紛失していたようです。どのような経緯があったのかはわかりませんが、もともとは「主が命じられたことは次のことである。『その中から正味一オメルを量り、代々にわたって蓄えよ。わたしがあなたたちをエジプトの国から導き出したとき、荒れ野で食べさせたパンを彼らが見ることができるためである。』」(出エジプト16:32)。そこで、「モーセがアロンに、『壺を用意し、その中に正味一オメルのマナを入れ、それを主の御前に置き、代々にわたって蓄えておきなさい』と言うと、アロンは、主がモーセに命じられたとおり、それを掟の箱の前に置いて蓄えた。」(同16:33、34)と記されています。そうであれば、マナの入った壺は「掟の箱の前」に置かれていたことになります。それで、時間の経過と共に紛失した可能性があります。アロンの杖も同様に箱の外に置かれていたので、紛失したかもしれません(民数記17:16~26参照)。さて、重要なことは、契約の箱は、アカシヤ材で箱を作り、純金で内側も外側も覆います(出エジプト25:10、11)。木は人性を象徴しているので人となったキリストを象徴しています。外と内を覆っている純金は父なる神と聖霊を象徴しています。つまり、この箱自体が三位一体の神を象徴しているのです。その中に、掟の石が入っていますが、石は変わらない普遍のものという意味があり、書かれた十の戒めは、神の内にあるものです。それが、出エジプト記の話では、一度目の石の板は、ふもとでイスラエルの民が金の子牛を拝んでいたことから、モーセが破壊します。そして、2回目に石の板をいただいてくる時には木で作った箱の中に入れてきます。この箱は神の民の象徴でクリスチャンも含みます。その中に戒めを入れています。人の外側に置いたのではうまくいかなかったので、聖霊をクリスチャンの内側に入れることを教えていたのです。

 

4月2日(火)

神に向かってわたしの口は声をあげ

わたしは舌をもってあがめます。

わたしが心に悪事を見ているなら

主は聞いてくださらないでしょう。

しかし、神はわたしの祈る声に耳を傾け

聞き入れてくださいました。

神をたたえよ。

神はわたしの祈りを退けることなく

慈しみを拒まれませんでした。

詩編66:17~20

 

クリスチャンは祈ることが大切であると教えられます。しかし、現代人は忙しくて祈る時間が取れないと思っているようです。そのためか、効率よく決まったことしか祈らない傾向があります。また、主の祈りで済ませている人もいます。まさに省エネの祈りですね。ただ、困ったことが起これば話は別です。一生懸命に祈らざるを得ないでしょう。問題が深刻であればあるほど、祈りが真剣になります。本当は、毎日の祈りが真剣なものであればいいのですが、義務と思って祈る祈りは、驚くほど下手で、あっという間に終わります。一方、祈りの達人のような人もいます。祈りの賜物をいただいているクリスチャンに出会うと、祈りがとても楽しいものであると思えてきます。そのような祈りの達人が教会にいても、こうした人たちは特別であるから、自分たちと比べなくてもいいのだと言い聞かせている人もいます。しかし、牧師に聞くまでもなく、祈りが質、量共に足りていないのでは無いかと反省してみる価値はあります。何しろ、祈りを神が聞いておられるからです。上手に祈れなくても、言葉がつたなくても、それで主が祈りを聞いてくださらないということはありません。真心からの祈りは力があります。祈りが聞かれた時は、神が自分のそばにいることを実感して感動します。神が人の願いを聞き届けなかったことはありますが、それは悪意ある内容だったり、つまり、正義に反する内容は基本、聞いてもらえません。それにありがたいことに、祈りを聞いてくださるのは、慈しみを拒まれないからです。主は憐れみ深いので、祈りが聞かれます。感謝ですね。

 

 4月3日(水)

神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。

詩編18:30

 

なぜキリストを信じているのでしょう。それは、神を信じているからです。神を知ることは力であり、クリスチャンは神の道を歩むことで完全になるのです。そのためには、神の側からの教えが必要です。それは、神の啓示である聖書によります。主のみことばは、霊の剣と言われるほどに鋭く悪魔に対抗することができます(エフェソ6:17)。さらに「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」(ヘブライ4:12)。私たちは、霊的戦いの場に初めから置かれています。罪の問題の解決のために選ばれているからです。私たち自身は弱い存在ですが、キリストによって強くなれます。それは、神がわが子として私たちを鍛錬しているからです(ヘブライ12:5~7)。それでも、時には安全な場所に隠れる必要もあります。「主はすべて彼に身を避ける者の盾」となって守ってくださいます。私たちにとって心強いのは、主イエス自らが先頭に立ち、万軍の天使を従えて戦ってくださっていることです。私たちも遅れをとるわけにはいきません。キリストの御旗のもとに私たちは集められているからです。まもなく決着がつくでしょう。すでに勝利は決定していますが、完全な勝利と裁きがキリストの再臨の時まで待たねばなりません。聖徒の忍耐はここにあります。 

 

4月4日(木)

沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。

繁栄の道を行く者や

悪だくみをする者のことでいら立つな。

怒りを解き、憤りを捨てよ。

自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。

悪事を謀る者は断たれ

主に望みを置く人は、地を継ぐ。

しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。

彼のいた所を調べてみよ、彼は消え去っている。

詩編37:7~10

 

子供の頃、誰かがズルをして得をしたと仲間に自慢すると、仲間は「いいな、自分もズルをすればよかった」と言いました。このようなズルをして得をしたいという気持ちは、子供だけではなく、大人になっても同じように考える人がいます。もちろん、子供ならまだ笑えても、大人では悪事になってしまいます。さて、私たちはクリスチャンなので、さすがに悪事を働いても得したいとは思いません。しかし、聖書が注意していることは、うまいことやって金儲けをしている人をうらやんだり、悪だくみをしてうまくやっている人のことで、いら立つなと警告しています。確かに、詐欺を働く人が身近になって、莫大な金額を騙し取っているのになかなか警察に捕まらない、と聞くと警察に文句を言う人が出てきます。悪いことをする人に腹を立てるよりも、捕まることもなくうまくやったことに、心が波打つのです。しかし、こうした考えは間違っています。悪事を働く人は主を恐れていません。その人は一体いくら儲けたのだろう、などと考えてはいけないし、悪事を働いても主は何もされないではないかと思ってもいけないのです。人間より遥かに賢明な主はちゃんと働かれているので、「しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る」のです。私が気に入っている言葉が「彼のいた所を調べてみよ、彼は消え去っている」という所です。どのように時代が進んでいこうが、新しい悪事が増えようが、主を軽んじる者の末路は悲惨なものです。私たちは、主を畏れ正しい道を進むのです。それは、恵みの道です。主は、私たちの努力をちゃんと見ていてくださるのです。悪人に負けないほど、知恵を尽くして、主に喜んでいただけるよう最善を尽くします。それは、楽しみになり、喜びになるのです。そのようなクリスチャンの生活は主が支えていてくださいます。

 

4月5日(金)

また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。

ヘブライ9:27、28

 

今日の聖句を読むと、確かなことは、人間はただ一度死ぬと言うことと、その後に裁きを受けることが定まっているということです。死ぬことは身近に見ることがあるので、誰も疑いません。それと同じほど確かなことが、死後の裁きがあるということです。イエス・キリストを信じることもなく死んだ人が裁きを受けることがどれほど大変なことか少し考えればわかります。では、クリスチャンはどうか、と言われると不安になる人もいると思います。そこで、信仰を持って生きることがどのようなことであるのか、祈りのうちに考えておく必要があります。そして、聖書を読むことが大切になります。できたら敬虔に信仰生活を過ごすことが理想ですが、この世に倣っていればそれもいっぺんに崩れてしまうでしょう。悪魔の誘惑は絶えず警戒しなければなりません。自分の力を過信しないことです。もう一つ、気がつくことは、「ご自分を待望している人たちに」と書かれている所です。再臨の時に、救われる人は、主イエス・キリストを待望していた人なのです。ですから、再臨信仰を持って、キリスト待望を心掛けていなければなりません。再臨は地震と同じです。来るのはわかっていても、いつ来るかがわからないのです。しかし、確実に来るということです。面白いことに、死ぬのもいつ死ぬのか知りません。しかし、確実に死後に裁きがあるということです。信仰によって義となれるように生きたいですね。

 

4月6日(土)

御使いたちよ、主をたたえよ

主の語られる声を聞き

御言葉を成し遂げるものよ

力ある勇士たちよ。

主の万軍よ、主をたたえよ

御もとに仕え、御旨を果たすものよ。

主に造られたものはすべて、主をたたえよ

主の統治されるところの、どこにあっても。

 

わたしの魂よ、主をたたえよ。

 

詩編103:20~22

 

詩編103篇の最後を今日は読みます。もっとも感動的な箇所です。天の荘厳な音楽が聴こえてきそうです。主にお仕えする万軍の天使たち、彼らは力ある勇士なのです。その御使たちが主をほめたたえています。天に讃美が満ちています。その讃美がゆっくり天から地へ降りてきます。この地球に命あるものを創造された主を、讃美するのです。人間も主によくしていただいたのだから、主をほめたたえよ。主は全地をすべおさめる王の王なのです。被造物はこぞって、創造主をほめたたえよ。生きとし生けるものよ、命はこの主より与えられたのですから、主をたたえよ。この地球のどこにいても、主の愛があなたに届いているのなら、主をたたえよ。 わたしの魂よ、主をたたえよ。

 

4月7日(日)

いかに幸いなことでしょう

弱いものに思いやりのある人は。

災いのふりかかるとき

主はその人を逃れさせてくださいます。

主よ、その人を守って命を得させ

この地で幸せにしてください。

貪欲な敵に引き渡さないでください。

主よ、その人が病の床にあるとき、支え

力を失って伏すとき、立ち直らせてください。

詩編41:2~4

 

今日のテーマは、「弱いものに思いやりのある人」です。つまり、聖書はこのような人を幸せにするということです。具体的には、災いの降りかかる時に、主はその人を逃れさせてくださるというのです。さらに、祈りは続き、守って命を得させ、幸せにしていただき、敵に渡さず、病の時に支え、力を失って伏すときに立ち直らせていただくことを願っています。人生は長く、自分の思い通りにはならず、災いの日もあるのが普通です。しかし、そうした災いから逃れる人がいるのです。そこには特徴があって、「弱いものに思いやりのある人」です。そして、その人には、執り成して祈ってくれる人が出てきます。多分、私たちは元気であれば、大抵のことは乗り越えていけます。たとえ、敵がいたとしても簡単には負けません。しかし、病にかかると弱くなります。それは、人生の危機の時です。自分の力ではどうすることもできない時です。このようなピンチに自分の力に頼ることはできません。ただ、主の憐れみにすがり、主の御力に頼るのです。自分の力を失うときに、人は神様に頼ることができます。私たちは信仰をいただいている者ですから、その意味がわかります。そして、どんな時にも主の御力に頼る者として生きることを訓練しているのです。今日も、主は変わらず、あなたの信仰をご覧になっています。

 

4月8日(月)

それゆえ、主は恵みを与えようとして

あなたたちを待ち

それゆえ、主は憐れみを与えようとして

立ち上がられる。

まことに、主は正義の神。

なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。

イザヤ30:18

 

これは、主を信じる人が人生で受ける分です。主は、あなたたちを待っています。それは、恵みを与えようとしているからです。主は、立ち上がられます。それは、主が憐れみを与えようとしているからです。主は正義の神なのです。ですから、あなたがたは、不正を働かず、正しく生きる勇気を持っています。あなたの信仰はすでに主に受け入れられているのです。ですから、人生に不安を覚える時は、今日の聖句を唱えてみましょう。あなたは、信仰を表すことになります。それは、主を待ち望んでいるからです。見えるところは、あなたを試すようなことばかりです。大丈夫かと心配になるのは仕方ありません。しかし、あなたは主に祈り、頼ります。そして、主を持ち望むことになります。見えないところでは、主はあなたに恵みを与えようとして待ち、あなたの祈りを聞いて、憐れみを与えようとして立ち上がられます。ですから、将来のことを心配している人も、今すでに困難を覚えている人も、勇気を出しなさい。主はすでに動き始めています。あなたは主に頼ったので、幸いな人です。幸福が待っています。主を信頼していたことで、大いに報われます。信仰は勝利に終わるのです。

 

4月9日(火)

主は、決して

あなたをいつまでも捨て置かれはしない。

主の慈しみは深く

懲らしめても、また憐んでくださる。

人の子らを苦しめ悩ますことがあっても

それが御心なのではない。

哀歌3:31~33

 

あなたが今、どんな状況におかれていても、クリスチャンであるあなたと神様の関係は絶対である。人間同士の関係以上であり、人間の親子以上の特別な関係なのだ。あなたが、救われたのは偶然ではない。あなたに偶然はない。神の摂理の中にある。だから、人生がうまくいっていなくても、驚くことはないし、いたずらに恐れることもない。なぜなら、神はあなたを見ているからからだ。もちろん、味方としてだ。あなたの問題が、病気であろうと人間関係であろうと、はたまた人生の破綻であったとしても、あなたには希望がある。辛い時期が長くなると忍耐することがだんだんできなくなるかもしれない。それでも、「主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない」という御言葉は真実なのだ。たとえ、理由が自分にあったとしても、主は「懲らしめても、また憐んでくださる」。あなたを「苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない」。だから、あなたに回復の時が来る。癒しは今もある。助けは天からくる。あなたを苦しめる者はいなくなる。あなたは、試練の時に良い方を選ぶので、思いを遥かに超えて恵みの時が訪れるのだ。さあ、元気を出そう。主を信じてほめたたえよう。

 

4月10日(水)

御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。

コロサイ1:13~15

 

清書を手掛かりに、私たちは自分の救いのことを理解します。父なる神がいて、「私たちを闇の力から救い出して」くださいました。つまり、私たちを罪の中に閉じ込めておく力があって、それは悪魔とかサタンと呼ばれる敵なのです。その悪魔の支配する罪の世界を闇と言っているのです。力と呼ぶのは、私たちが自由に闇から出てくることができないように働く者がいるからです。それは、エジプトでイスラエルの民がファラオの支配を受けて奴隷であったことと似ています。ですから、私たちには父なる神の救出が必要だったのです。さらに、賢明な父は、「その愛する御子の支配下に移してくださいました」。つまり、私たちはすでにキリストの支配下に置かれているのです。その意味するところは、御子の十字架の贖いを通して信仰で罪の赦しを得ているということです。罪の赦しなしには、闇から完全に出ることができないからです。私たちは、キリストを通して初めて見えない神の姿を見たのです。神を知ることが救いには不可欠だからです。宗教家ですら、ナザレのイエスをキリストと見分けることができませんでした。彼らは、神を知るために学んでいたはずなのに、神がわからなかったのです。目の前に神を見たのに、見えませんでした。このキリストは、「すべてのものが造られる前に生まれた方です」。その意味はすぐにはわからないかもしれません。あまりにも超越した、奥の深い話です。しかし、主は啓示の神なので、私たちが神を知ろうとすれば、知ることができるのです。そのために聖書を学び、キリストを通して神を知るのです。そのことを怠ってはいけません。恵みは目の前にあるからです。

 

4月11日(木)

「たとい山々が移り、丘が動いても、私の変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。」とあなたをあわれむ主は仰せられる。

イザヤ54:10

 

山や丘は動かないものの例えです。それほど、主のあなたへの愛は変わることがないのです。人間は、感情的で心変わりがありますが、主にはありません。誠実なあなたの神は何があっても、あなたを愛し続けるのです。そして、平和の契約は、平和の約束です。神様との関係が平和であり、あなたの人生そのものが平和であり続けるように主は働かれます。これほど明確に預言者を通して神が語られるのですから、信頼に足ります。ですから、あなたは神様に愛されています。この愛があれば、何があっても耐えられるし、乗り越えていけるはずです。人生をより良く生きるために主はあなたに平和を約束しています。罪の問題もキリストの十字架で解決されているので、信仰を持って生きていけば心配ありません。なぜ、こんなに良くしてくださるのかと不思議に思うほどです。それほど、主はあなたを憐れみ、愛を惜しみなく与えてくださるのです。この愛に気づき、応えて主を愛することが、あなたのすべきことです。そうすれば、何をしようと、あなたの手の業は祝福されます。

 

4月12日(金)

人よ

あなたたちに向かってわたしは呼びかける。

人の子らに向かってわたしは声をあげる。

浅はかな者は熟慮することを覚え

愚か者は反省することを覚えよ。

箴言8:4、5

 

聖書は、いつでも私たちを教え導きます。私たちは、謙虚に耳を傾け、ちゃんと理解できているか考えることができます。人生の失敗は、取り戻すことができるのですが、同じ失敗を繰り返してしまう人がいます。それは、熟慮したり、反省することをしないからです。同じ人間でも、「熟慮」「反省」をできる人とそうでない人で大きな差ができるのです。誰しもが、人生で成功を収めたいと思うでしょうし、失敗したくないと思うはずです。さらには、避けることのできる危険な道をあえて選んでしまう人がいるので、事件が起こり、悲しい出来事に遭遇するのです。物事には、必ず正しい道があります。それを選択できるなら、幸福な人生を歩めるのです。しかし、誘惑する者がいるので、さらに危険があるのです。渡り鳥は目には見えない正しい道を知っているので、安全に旅を続けることができます。砂漠にもオアシスとオナシスを結ぶ道があります。人生にも正しい道があるのです。それを、何も考えずに進めば迷い道に入り込むだけです。ですから、聖書は警告しているのです。聖書は難しいのではなく、聞くか聞かないかなのです。聖霊という教師があなたに御言葉を解き明かし、正しい道を歩めるように手助けしてくださいます。祈って、正しい導きを求めましょう。

 

 4月13日(土)

主は契約を告げ示し、あなたたちが行うべきことを命じられた。それが十戒である。主はそれを二枚の石の板に書き記された。

しかしあなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。

申命記4:13、29

 

日本にも法律があり、六法全書として本屋で買うことができます。しかし、そこにはたくさんの法律があって、とても覚えきれません。それでも、足りずに毎年新しい法律ができて行きます。しかし、聖書を読むと、十戒を神様が与えていることに驚きます。つまり、たった十の法律で、神の民を治めようとされたのです。それは、神様と民の契約となりました。石に書きつけたのは、普遍の戒めという意味です。しかし、カナンに入れば、禁じていた偶像を作り、拝むことになるだろうと預言されます。その罰もあって、カナンから離され、滅び去るという厳しいものです。そして、生き残った者は、主を尋ね求めねばならない、と言われます。私たちも、偶像を拝む国にいますが、幸いにもキリストに救っていただいたのです。ですから、キリストだけを拝み、キリストに従うと決めたのです。私たちの課題であり、願いは一つです。それは、「主を尋ね求める」ことです。どのようにすれば良いのかがここに記されていました。「心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう」と書いてあるのです。それで、私たちは、ただクリスチャンになっただけではなく、神様に出会うことを切に求めて、聖書のこの御言葉を信じて「心を尽くし、魂を尽くして求める」のです。十戒の1条から4条の神様との関係を、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(同6:4)とあるように、同じ言葉が書かれているので、どうすればこのようにできるのかを祈り求めて、考え、なんとしても書かれた通りになることを求めてください。素晴らしい結果が待っています。

 

 4月14日(日)

最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。

Ⅰペテロ3:8、9

クリスチャンが自分の信仰に満足を得ることはなかなかありません。いつまでも自分の足りなさを知るからです。聖なる者と呼ばれるには、どうすればいいのか途方に暮れるのです。しかし、それは、自分の力で義となろうとすることではないでしょうか。自力で聖なる者になれることはありません。聖霊の助けなしに義とされることは期待できません。しかし、今日の聖句を読んでみると、どうでしょう。後半部分に「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい」と書かれています。これは、クリスチャンなら知っているはずですが、無理だとあきらめていたなら、自分の努力で復讐しないようにと頑張ろうとしても、傷つけば、相手を酷い目に遭わせなければ気が済まないという人は、普通にいます。しかし、そうではなくて、最後の部分に着目すべきです。「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです」とあります。天の祝福を受けているのですから、それは独り占めしてはいけないのです。そうではなくて、あなたの役目、存在意義は、人を祝福することだからです。祝福された人が、あなたを恨むことも怒りを向けることもありません。酷いことをするには何かしら理由があるのです。そのことを理解しないで、相手を攻撃しても意味がありません。さらなる恨みが残るだけです。しかし、他の人は誰もしない、いやできない、祝福を与えることをしたなら、その人は気持ちが変わり、あなたの敵ではなくなります。もし、そうならないなら、その人に一切の責めが行きます。ですから、あなたは自分が祝福を与える者として召されていることを自覚して、実行しましょう。不幸な人が一人救われるかもしれません。癒されて安堵するかもしれません。そうした喜びは、あなたの元へと戻ってきます。あなたは、主に選ばれた人なので、祝福するという一番良い使命が与えられているのです。

 

4月15日(月)

主がすべての災いを遠ざけて

あなたを見守り

あなたの魂を見守ってくださるように。

あなたの出で立つのも帰るのも

主が見守ってくださるように。

今も、そしてとこしえに。

詩篇121:7、8

 

私たちは、1日に何が起こるか知りません。東日本大震災の日も、いつもと同じ日だと思っていました。災いは突然前触れもなく襲ってきます。教会堂はコンクリートのしっかりしたものでしたが、牧師館は古い木造の建物でしたから、倒れると思っていました。しかし、大きく揺れていましたが、倒れることはありませんでした。そして、その後に続く震災の大変な状況の中でも、主に見守られていることがはっきりとわかりました。このように、クリスチャンには、特別な主のお守りがあるのです。誰かに見守られている人は、幸いです。それが、神様であれば、なお最高です。毎朝、家を出て、毎夜、家に帰る、こんな当たり前のことが、実は何の安全の保証がないことも事実です。それでも、皆出かけていくのです。私たちは、どうでしょうか。私たちは、祈りの大切さを知っているので、出かける前に祈ります。また、1日の初めにも祈ります。そして、夜寝る前にも祈るのです。主は、今日の詩篇に書かれている通りのお方です。ですから、主に見守られているという安心があり、これこそが絶対の保証なのです。このような特権にあずかっていることは感謝なことです。今日も、主があなたを見守っていてくださいますように。

 

4月16日(火)

あなたがたを聖なる者とする”霊”の力と真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。

Ⅱテサロニケ2 

 

私たちの願いは、聖なる者となることです。しかし、単なる努力で達成できるわけではありません。聖書によると、二つの力によるのです。その一つが「”霊”の力」です。聖霊の力というのですから、いるのかどうかもわからない聖霊ではなくて、明らかに聖霊の現れと言えるような力のことです。そして、二つ目が、「真理に対する信仰」です。これも、真理と言っているのですから、聖書の御言葉に対する信仰と言い直すことができます。つまり、自分を変えることのできる聖霊の力を必要とするのですから、聖霊に満たされる必要があります。日毎に聖霊に満たされるように祈り続け、聖霊を開き、真理を探すのです。そこに書かれていることが理解できるように、聖霊に解き明かしを祈ります。そこで、意味がわかったなら、聖書全体と調和しているかを考えます。こうしたことが日々の習慣となるようにします。決して極端な理解や小さな思考にならないように気をつけます。こうして、聖書的な原則に気が付けば、それを身につけます。そして、「愛」が重要であることに気がついてくるはずですから、これは愛であるかと自分の行動を点検すると良いのです。これも聖霊の力に頼っているかどうかを調べるのであって、自分の力で愛してやろうなどと考えていてはうまく行きません。もっとへりくだる必要があると気がつくだけです。こんなことを考えるのは、クリスチャンだけです。でも、たった二つのことを心がけるだけで、聖なる者へと進んでいけるのです。

 

4月17日(水)

あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、「手をつけるな、味わうな、触れるな」などという戒律に縛られているのですか。これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。

コロサイ2:20~23

 

クリスチャンになって、一番困ったことは、どうすればクリスチャンらしく生きられるかを知らなかったことです。若い人は、生真面目に目についた戒めや自分で考えた良さそうなこと、さらに悪いのは、律法主義と言われそうなことを強いることです。私たち日本人が知っている修行といえば、滝に打たれたり、お寺で座禅を組んだり、断食をしたりすることです。キリスト教では一体何をすればいいのかと考えてもわかりません。しかし、安息日を守れと言われて、土曜日を休みの日とすることを教えられました。仕事をしない、学校へ行かない、礼拝をする、とにかく休むというのです。私はいきなり神学校に入ったので、安息日中心に一週間が計画されていることを知りました。金曜日は午前中で授業は終わり、午後は備え日と呼んで、部屋の掃除や礼拝に来ていく服のアイロンがけ、靴磨き、と忙しく過ごし、夕方にはヴェスパーという安息日に入る宗教プログラムがありました。安息日の礼拝が終わると、昼食はサックランチといって袋に入っているパンを食べていました。午後は、同じ敷地内にいる高校生やカレッジ生たちは、老人施設や筋ジストロフィーの子供達を大学病院に見舞いに出かけます。神学生は伝道に出かけます。そうしたボランティアに行かない人は、昼寝をしていました。安息日の終わりは日没です。サンセット礼拝をしたり、先生の家にお呼ばれに出掛けて、ご馳走をいただき、ゲームをしたり遊びます。こうして、安息日中心に生活することを学ぶわけです。ユダヤ人のライフスタイルが少しわかります。さらに、食事も菜食主義だったので牛乳も飲まずに豆乳を飲んでいました。こうした、完成した宗教のライフスタイルには魅力があります。もちろん、青年たちには、世俗とは切り離された生活がつまらなく感じていたと思います。宗教という括りで考えれば、それでもこうしたライフスタイルがあっても正常なわけです。公平に今、考えても世俗で生きるよりもキリスト教の世界で生きることのできる、環境が恵まれていたことは間違いありません。信仰を持っていた人には、この世の天国。信仰を持たない人には、退屈でつまらない、早く出て行きたい小さな世界と思えていたでしょう。さて、今まで述べてきた事と今日の聖句は、厳しい対立があるように見えます。それは、人間的な努力が伴うからです。それは、自分の力で義となろうとしていると見えるからです。戒律が厳しければ、良いと考える人もいますが、聖書の次の御言葉に注意が必要です。「あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、・・戒律に縛られているのですか」というところです。つまり、クリスチャンはキリスト共に死に、この世に属していない、という事です。この世に属していないので、戒律で自分を律していく必要がないのです。大切なのは、キリストの十字架で自分も死んだという事実です。これは、信仰によるのです。こうしたことに、焦点を当てていくことが大切です。神様はすでに働いておられるので、十字架で死ぬことを何度も教えているはずです。そして、少しずつ死んできたのではないでしょうか。その分、新しい命に生きるようになっているのです。

 

4月18日(木)

何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。

コロサイ3:23、24

 

単純な教えのようですが、人生を大きく変える力のある教えです。私たちは、教会では自分がクリスチャンであることを皆が知っているので、クリスチャンらしく振る舞うことができます。しかし、教会の外では、どうでしょう。ましてや、全く知らない他人に対しては、どう振る舞っているのでしょう。聖書には、「何をするにも」と但し書きが付いています。ですから、例外なく主にいつでも仕えているように、つまり、人に対している時は、いつでも主に仕えているのと同じように振る舞え、というのです。これは、自分の努力ではすぐに限界に達しそうです。信仰によらなければ、無理でしょう。そこで、信仰を発揮することになります。それは、イエス様にあなたはどう接するのか、という問いになります。卑屈に接することはありません。イエス様を愛しているので、明るく接するはずです。イエス様が大好きなので、嬉しくて喜ぶはずです。イエス様に何か頼まれたら、喜んですぐにやるでしょう。これが基本です。次に、相手は人間なので、色々な人がいますし、心の捻じ曲がった人だっているでしょう。あなたに嫌な態度をとる人もいるでしょう。何かのハラスメントに当てはまりそうな人です。その時に、イエス様があなたにそのような暴言や態度をとるはずはないので、逆にイエス様がこの人をご覧になったら、どう思い、どう対応するのかと考えてみるのです。つまらない人間は、相手を見て態度を変えます。そのような人には毅然とした態度で臨む方が良いのです。また、心の闇を抱えている人や、深い心の傷が癒されることなく今に至った人もいるでしょう。こうした人には、自分の中におられる、聖霊に対応していただくのです。自分はこの聖霊に仕えます。普通の人には、強い人も弱い人も関係なく、主にお仕えするように、誠実に対応します。応用問題も出てきますので、その都度、心の中で祈ってください。こうして、人との関わりも信仰の学びとなり、愛の奇跡を経験したり、主の人との接し方を間近に知ったり、と信仰者の成長に欠かせないことなのです。決して、人間を恐れず、笑顔で接したいですね。

 

 4月19日(金)

わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。

フィリピ4:13

 

クリスチャンの特権というのは、実に多いのですが、今日の聖句もその一つです。私たちは、神様を信じているので、この世でも上手に生きていけます。人生には大変な道もあるでしょうが、私たちには、強めてくださる主がおられるので、自分で思っているよりもずっと実際にできることが多くあります。それは、全てにおいてです。勉強でも、仕事でも、伝道や奉仕も、とにかく、「すべてが可能なのです」。さて、皆様の希望は何ですか。きっと具体的なことが頭をよぎったでしょう。そのすべてが可能です。海外に行かれて宣教する人も、不安に思う必要はありません。あなたは神様のお墨付きを得ているのですから、必ず成功できるのです。特に、愛することの困難がある人も、罪の赦しと、主の愛が後押しして、奇跡を起こすことができます。ですから、多少の失敗や否定的な言葉に惑わされることはありません。あなたのキャッチフレーズとして、今日の聖句を覚えていれば、どんな困難にも立ち向かえます。新しいチャレンジも楽しみに変わります。これは、信仰による主の助けです。 

 

4月20日(土)

主よ、あなたの御言葉のとおり

あなたの僕に恵み深くお計らいください。

確かな判断力と知識をもつように

わたしを教えてください。

わたしはあなたの戒めを信じています。

わたしは迷い出て、ついに卑しめられました。

今からは、あなたの仰せを守らせてください。

あなたは善なる方、すべてを善とする方。

あなたの掟を教えてください。

詩篇119:65~68

 

詩篇を手本に祈りを学ぶ人がいます。確かに、祈りと共に信仰のあり方も学べるでしょう。また、自分を顧みるのにも役に立ちます。私たちは、神様を良い方として信じています。そして、初めは旧約聖書の神様は怖い神様で、新約聖書の神様は優しい神様だと思うのです。それから、何十年もの長い時間をかけて聖書を学んできます。その結果は、神様を誤解していたことに気がつき、神様に信仰を持って自分から近づくべきだと悟ります。この世の忙しさにかまけていれば、どんどん神様から遠ざかってしまうことも体験的に理解します。それでも、神様無しには生きていけないと思うようになります。ただ、どうも簡単に信仰に成長するのではなく、しなくても良い遠回りをして、神様に従わない不従順を砕くために試練まで経験させられていることに気がつくと、見捨てられていないと安堵してしまいます。そして、霊的に成長したいという願望が頭をもたげてくるのです。もちろん、自分の努力や力に頼るのではなく、自分を成長させ、御目にかなう者とすることのできる聖霊に頼り、必要なことは何かと聖書を頼りに探るのです。それは、やはり「あなたの掟を教えてください」との祈りになるのです。それは、完全なる主への服従によります。果たして、詩篇記者のように祈ったら、どうなるのでしょう。クリスチャンとして高みを目指しているのなら、挑戦するのも良いことです。

 

4月21日(日)

婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたり、してはなりません。むしろ、良い業で身を飾るのが、神を敬うと公言する布陣にふさわしいことです。婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。この言葉は真実です。

Ⅰテモテ2:9~3:1a

 

最近、パウロが現代まで生きていたら、どう思うのだろうかと気になります。それは、女性の地位向上についてです。現代社会で言うところの男女平等がパウロに受け入れられるのだろうか、そして、パウロの手紙が聖書に入れられているのに、今日の聖句のように、明らかに女性蔑視、軽視と言われても仕方のないようなことが書かれていて、これをどう理解すればいいのかと戸惑う人がいると思います。この聖句を理解するためには、歴史的な事情を無視しては間違ってしまいます。パウロが悪いのではなく、当時のユダヤ教的な背景がそのまま出ているという事です。もちろん、尊敬されるべきパウロが、ご婦人方からここだけは、「嫌いだ」と言われてしまう箇所です。女性の人権向上のために戦ってきた歴史は、どの国にも存在します。今のNHKの朝ドラを見れば、女性の地位の低さに驚くでしょう。しかし、ユダヤでは、もっと酷かったのです。そもそも、ユダヤ教の律法では女性は人格ではなく、物でした。女性は律法を学ぶことを禁じられていたのです。女性は奴隷や子供と同じに見られていたのです。こうした女性を社会が低く見ていて、権利を制限していたことは明らかで、さらにギリシャ世界も同様かそれ以下の扱いだったのです。そうした社会でキリスト教会は始まりました。だから、教会で女性が教師になったりすれば、それだけで社会から糾弾され、教会は成り立たなくなってしまったのです。それでは、この聖句をもとに現代の教会も同じように女性を扱うのかと言われれば、当然ノーです。そもそも、パウロの真意はガラテヤ3:28にあります。「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」。さらには、女性から教えを受けた有名人としてアポロが挙げられます(使徒18:26)。さらに、ローマ16章を読めば、素晴らしいクリスチャン婦人の名前が次々に挙げられています。現代では、女性牧師や女性長老が認められ、女性の聖書教師や聖書学の教授も多数います。教会の古い社会の影響もだんだん修正されています。また、少子化が叫ばれて久しい昨今、「子を産むことによって救われる」とあれば、これも女性にとっては看過できないことで、当時の社会事情に限定されると理解しておくべきです。不妊治療を受けている人には、申し訳なくなるような言葉で、当然現代には当てはまらないと解釈すべきです。そもそも、日本でも女性蔑視は最近でもハラスメントでニュースになることで分かります。古い考えの男性は、常識を変えていただかなければならないのです。女性が有能で献身的であることは、教会が多くの忠実な女性によって支えられていることからも分かります。そのうち、今日の聖句が消えるかもしれません。そうでないならば、反面教師となって、男性を戒めることになるのでしょう。

 

4月23日(火)

わたしは知恵。熟慮と共に住まい

知識と慎重さを備えている。

わたしを愛する人はわたしも愛し

わたしを探し求める人はわたしを見いだす。

わたしを愛する人は嗣業を得る。

わたしは彼らの倉を満たす。

箴言8:12、17、21

 

創世記にエデンの園の中央には二本の木があって、一本は「命の木」、もう一本は「善悪の知識の木」でした。命の木は知恵の木です。そして、善悪の知識の木は「死の木」でした。さて、今日の箴言を読んでみると、「知恵」が出てきます。私たちにとって重要な知恵の話です。善悪の知識は人間に死を運んできましたが、知恵は命を与えるものなのです。私たちは、熟慮と知識と慎重さをあまり重要に思っていません。それが証拠に慎重さに欠けていて失敗することがあります。あまり、熟慮することがありません。考えていると思っている時には、たいてい迷っているだけです。熟慮するためには、正確な知識が必要です。詮索や思い込みで、不用意に判断することは恐ろしいことです。取り返しのつかない失敗をする可能性があるからです。知恵は、普段あまり必要とは考えていない人が多いのですが、その人にとって、知恵を愛するという意味がわかっていません。知恵は何もしないで勝手に浮かんでくようなものではありません。聖書は「愛する」と知恵を得る秘訣を教えています。また、「探し求める」という言葉も教えています。このようなヒントがあれば、すぐに熟慮して知恵を得る人もいれば、結局、何もしないで知恵を得られずに終わる人もいます。もう少しだけ説明すると、「知恵を愛する人は嗣業を得る」とあります。つまり、財産を受け継ぐことができるという意味です。その結果、知恵を得た人の「財宝を満たす」のです。ここまで、読んですぐに知恵を求め始めるなら見込みがあります。そして、聖書を開き、箴言8章を読み、考え、調べ、熟考し、主に祈って知恵を求めるなら、朽ちない宝を手にできるかもしれません。

 

4月24日(水)

天地の造り主、主が

あなたたちを祝福してくださるように。

天は主のもの、地は人への賜物。

主を賛美するのは死者ではない

沈黙の国へ去った人ではない。

わたしたちこそ、主をたたえよう

今も、そしてとこしえに。

ハレルヤ。

115:15~18

 

私たちの神様は天地の造り主です。それは、目に見えるものも目に見えないものも全て造られ、さらにそれを支える法則を発明し、私たちはその創造の1%すら知らずに理解していないのです。終末に「知識は増す」とダニエルが預言した通り、どの歴史よりも知識は増しました。それでも、到底主の創造のごくわずかしか知識を得ていないのです。神様の全能は人間には理解できません。それほどすごい神様があなたを祝福しておられるのです。天には、再臨を迎えるまでは入ることができませんが、しかし、創造主は賜物として地を人間にお与えくださいました。ですから、人間は自然を楽しみ、神様に感謝の生活を送るべきなのですが、実際には、この地の主のように振る舞い、都市を作り、自然を破壊し、地球温高や環境汚染で、人類の生存の危機を作っています。人間はもっと謙虚に神様に感謝して自然と向き合うべきなのです。死んでから神様に感謝しようとしてもできません。生きているうちにこそ、神様の創造された世界を感謝し、偉大な主を大いに賛美すべきなのです。地球の多くの人が創造主へ感謝をしなくても、私たちは創造の意味を理解して、主の御名をほめたたえます。私たちの神様はこの創造主しかいないからです。私たちを創造し、生かし、祝福してくださるのは、この唯一の神様なのです。ですから、私たちこそが主を讃美します。「わたしたちこそ、主をたたえよう、今も、そしてとこしへに」。ハレルヤ!

 

4月25日(木)

自分の心に依り頼む者は愚か者だ。

知恵によって歩む人は救われる。

箴言28:26

 

若い頃は、ビジネスの意味がわかっていなかった。人は皆、就職して会社から給料をもらって生きると勝手に思い込んでいた。だから、社長は金持ちでいいな、と子供のように思っていたが、実際には借金だらけでいつも苦労している人が多い。そもそも、お金がどのようなものなのか、そのお金はどのように動くのか、利益を上げるということは何を意味しているのか、このようなことを何一つ知らなかった。コーヒー一杯を売っていくら儲かるのかも、知らなかった。というか、興味がなかった。しかし、物事には合理的な仕組みが必ずあるものだ。川が山の湧き水から流れ出して、平地で大きな流れとなるように、全てに定まった仕組みがあるのだ。ところが、人間は愚かなことに、実際にどうなっているかを確かめもしないで自分の望む一番良い結果だけを夢みて、始めてしまう人がいる。これは、自分の心に依り頼む人と呼ばれている。聖書は厳しく「愚か者だ」と切り捨てる。それでは、どうすれば良いのか。今日の下の句に書かれている。知恵によって歩む人は救われる、と。ところが、知恵がわからないので、せっかく読んでも何の役にも立っていないのだ。中国人が横浜の中華街に親戚がいると頼ってやって来る。すると、中国人は自分の店の前に机を出して、そこで中華饅頭を今日来たばかりの青年に売らせるのだ。まず、日本円を見せて、お金を覚えさせる。そして、日本語で円を覚えさせる。売るのに必要な日本語を教える。お金さえ間違わなければ、何とかなる。そうやって、決して追い出さずに、受け入れて助けてやるのだ。さて、ここに知恵がある。日本円を実際に示して日本語で、これが千円、これが十円、これが五十円、これは百円、大きいのが五百円、そして、この札が一千円、と教え、肉まんを売るために必要なスキルを教えているのだ。どうすれば何もわからない人がお金を稼げるのか、ちゃんと教えることが知恵だ。日本に来てこの青年が生きていくのに必要なことは、何かすぐに教えること、そしてチャンスを与えてあげること、それで、この青年がどうするか、何年か後に彼は裏路地の小さな貸店を見つけて、おじさんに独立して店を持ちたい、と相談する。おじさんはその青年を見てきたし、中華料理でお金を稼ぐ方法を教えてきたので、もう大丈夫だと判断すると、中国人の講(こう。商店主たちが組合のようなものを作って、毎月お金を積み立てていて、誰かが独立するとか、店を建て直すとか、大きなお金がいる時に、積立金を使わせてもらう仕組みのこと)に青年が店を持ちたいと言っているとお金を使わせて欲しいと頼む。こうして、無一文で来日した青年が店を持つことができるのだ。知恵とはこのような力があるものだ。クリスチャンもまた、知恵の価値を知り、それなしに人生を歩んではならないと心に決めていなければならない。主に忠実で、聖書に書かれたことを実践することで知恵によって歩む人となり、最後に救われて御国へ入ると知ることが大切なのだ。

 

4月26日(金)

主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

ヘブル13:5

 

昔テレビで観たヒーローもののドラマでは、誰かがピンチになると必ずヒーローが登場して、助けてくれるという内容でした。正義の味方はカッコいいと思って、自分も正義の味方になると思っていました。昔の子供は、想像力をたくましくして、風呂敷をマントがわりに首に巻いたり、忍者のように顔をおおったりして遊んだものです。誰もが悪いやつをやっつけたいと思っていました。それから、時が流れ、大人になると私のヒーローはイエス様に代わりました。人生には山坂があるので、逆境の日もあるわけです。倒すべき悪人はいないかもしれませんが、苦しい日も困った日もありました。そんな時に、今日の御言葉は支えとなります。一人なら耐えられなくても、二人なら耐えて行ける。私にはイエス様がいる。この友は、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」と言ってくれるのです。事実、その通りに私を助けてくれました。きっと、一生この言葉通りに、一緒にいてくれます。これがクリスチャンのヒーローなのです。あなたにも、ヒーローはいてくれます。だから、あなたは倒れないし、万が一倒れても必ず何度でも立ち上がることができます。孤独だと思っても、すぐに一人ではなかったと気が付きます。あなたのことを心配して、夜もそばに一緒にいてくださる方がいるのです。だから、あなたは大丈夫です。「イエス様」と呼び掛ければ、その意味がわかります。

 

4月27日(土)

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。

詩篇62:1、2

 

神様は私たちの信頼を決して裏切らないお方です。しかし、人間にはわからないことは多くあり、後になって深い意味があることがわかったりするものです。そこで、クリスチャンといえども、時に困ったことになることがあります。自分の力ではどうすることもできない苦境に陥る時です。また、そんな時には、人に頼りたくなるので、だれかれなく頼ってみるのですが、まず、人間に助けを求めてすんなり助けられることはまずありません。そんな時に、人は絶望してしまうのですが、クリスチャンは別です。主に頼って祈ります。たといすぐに助けてもらえなくても、信仰があるので、待つことができます。時には、長く待つことになりますが、その間に信仰が試され、強くなり、子供のように信じることができるようになります。このような訓練を受けてきたクリスチャンはとても強く、患難が襲ってきても、「ただ神を待ち望む」ことができます。この世など見ていません。イエス様を仰ぎのぞみ、待ちます。そして、時が経ち、「私は決して、揺るがされない」という信仰を持つようになるのです。

 

4月28日(日)

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

Ⅰペテロ5:7

 

歳をとれば、欲もなくなり思い煩うこともなくなると思っていると、意外にも想定外の思い煩いが待っていたりします。健康問題や環境問題、人間関係、信仰の問題、お金の問題、死んだ後のこと、家族の問題、こう書き上げていくとキリがありません。何歳になっても悟りがないからこんなことで悩むのだとがっかりする人もいます。確かに、神様との関係が円満ならば、悩むことは無くなって行きます。信仰者としての成長が遅くても、それすらも思い煩わなくなるでしょう。なぜなら、初めからイエス様に救っていただき、恵みでイエス様についてきたのです。それでも、イエス様の愛は優っていて、まるでイエス様におんぶしていただいて前進してきたように思えるのです。それに気がつくと、自分で歩きますとイエス様の背中から降りてしまい、自力で歩こうとするのです。その途端に、思い煩いが始まります。自分では良いと思ったのに、実はイエス様にゆだねるということが未だわかっていないのです。自分の置かれた場所で、どのように生きるか全てが選択なのですが、人間の不思議はいつでも悪い方を選ぼうとすることです。実際に悪い方を選んで、当然の結果を刈り取る人もいますが、そのような人は繰り返します。そのくせ、自分の不幸を嘆いて見せるのです。自分が選んだ当然の結果で自業自得なのに、と思えることがその人にはわからないのです。見ても見えず、聞いても聞こえず、と聖書に書かれた通りです。聖書は「いっさい神にゆだねなさい」と言います。多くのクリスチャンの問題は、ここにあります。つまり、「思い煩い」があるので、何かしら困っているはずです。信仰を持っている人のことですから、祈って問題解決を願うでしょう。ところが、思い煩いは、祈りで神にゆだねて終わりにするべきなのに、勝手にいつまでもクヨクヨ考え続けているので、またしても悪い選択をしてしまうのです。神様に問題を預けたから、とそこで終わりにしないのです。祈り自体も、ゆだねるのではなく、自分の思い通りに神を動かそうとしているかもしれません。このように、少し考えてみても愚かしいことなのです。聖書の原則は、「クリスチャンは神の恵みを受けている。しかし、クリスチャンになってもまだ肉の考えと行動には問題があるので自由にさせると悪い選択をしてしまう。その結果は当然悪いもので自分に跳ね返ってくる。そこで、思い煩いが始まるが、自力での解決は望めないので、神にゆだねるようにしなければならない。心配するのは、あなたではなく神ご自身が引き受けてくださるからだ。すると、自分の考えや価値観の間違えに気づくことになる。ここでも、悔い改めのチャンスが与えられる。人間にできないことはあるが、神にはなんでもできるし、正しいことしかしないので、人間の問題でも良い結果へと導くことができる」のです。クリスチャンはそのことを知っているので、ゆだねることもできるのです。

 

4月29日(月)

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」

ヨハネ11:25、26

 

パウロはこう言いました「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。」(ガラテヤ2:29)と。ヨハネの福音書の今日の箇所を読むときに、わかりにくい言い方をされているので、理解がついていけない人はいるはずです。しかし、先に引用したガラテヤの聖句を合わせて読むと、わかってきます。それは、クリスチャンになる時に教えられるのは

生まれながらの人は罪人なので死ななければならない、ということです。もちろん、本当に自殺するという意味ではなく、霊的にキリストの十字架に一緒につけていただいて古い自分に死ぬということです。それは信じることで実現でいるのですが、人間は死に抵抗があるのです。死ぬことを嫌がります。生きようとします。ですから、簡単には死ねないのです。ところが、キリストが「死んでも生きる」と約束されるのなら、死んでみようと思えてきます。実際には、クリスチャンになるということは、「神に対して生きる」ということです。それを阻むものが罪です。罪は律法によって正体を表します。その罪は、肉の中にあります。ですから、律法によって罪が出てくるので、律法によって裁かれることになります。その裁きを身代わりに受けられたのはイエス・キリストです。ですから、私たち罪人は、律法によって死ぬことになっていたのです。それを十字架に引き取って死なれ、さらに復活したのはイエス・キリストです。そのことを信じる人は、キリストが身代わりに死んでくださったので、生きることができるのです。そのようにして、生きるようになったクリスチャンは、キリストを信じているので、決して死ぬことがないのです。肝心なことは、イエス・キリストを信じていることです。それは、ガラテヤでパウロが語っている通りに「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」と信じることです。

 

 

4月30日(火)

義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。

マタイ5:6

 

聖書を読んでいるとファリサイ派の人や律法学者が出てきますが、彼らとイエス・キリストが対立しています。本来なら、彼らは宗教家なのですからイエス・キリストと親しむはずなのに、全くそうはならずに、憎しみや怒りの感情をイエスに対して持つまでに至ります。彼らこそ最も義を求めていたはずです。それなのに、イエスがキリストであることを見抜けず、神の独り子を十字架につける事に加担したのです。彼らは義をわかっていなかったのでしょうか。それとも、本当は義を求めていなかったのでしょうか。キリストの教えた義に満ち足りる方法は、実に単純です。「義に飢え渇いている者」であればいいからです。彼らは、自分で義となろうと努力していた人でした。そのためには律法もよく学び、実行していたのです。それなのに、義に満ち足りることはできませんでした。方法が違っていたのです。キリスト教徒でも同じ過ちを繰り返す人がいます。聖書の原則を理解していないのです。聖書に人間は被造物として書かれています。つまり、神は創造主なのです。決して対等ではありません。ですから、神の義は神しか達成できません。しかし、人を義とすることはできます。それだけです。だから、人が義となろうとすること自体が自分を神とすることになるので、ダメなのです。私たちは、何が正しいかもわからないのです。ですから、聖書から学びます。そして、義に飢え渇いている者と自分がなっているかどうかを吟味します。そうなっていれば、心配いりません。しかし、そうなっていないなら、考えが間違っているか、向かっている方向が間違っているのです。見ても見えず、聞いて聞こえず、とは神から授けていただくものを自分で達成しようとする者の姿を描いているのです。ですが、このような人は自分の考えを絶対化しているので、自分の愚かさに気がつくことがありません。信仰に入った時に、「謙遜」の大切さを教えていただいたはずなのに、エデンの園のエバのような失敗をしてしまうのです。聖書には、ファリサイ派のような人が出てきて、教訓を読者に与えています。ここから、私たちはどれほど学べているのでしょう。さらにへりくだらなければ、どこに行ってしまうのか見当もつきません。ですから互いに励まし合いながら謙虚に聖書を学んでいきたいものです。