2024年1月ディボーション

1月1日(月)

人の心をすべて造られた主は

彼らの業をことごとく見分けられる。

詩篇33:15

 

人の心はどこにあるのだろう?と思ったのはいつだったか。若い日のいつかであることは確かだが、いつであったか定かではない。そして、その答えは未だ見つけていない。それなのに、今も心がちゃんとあると知っている。最近、面白い話を聞いた。自分の自由意志は実は無い、という発言だ。自分の意思で物を取ろうとしても、実はそれより早くに潜在意識がそれを命じている、というのだ。時間も0.5秒前であるとわかっているというのだ。一体、心はどんな仕組みになっているのだろう。この話をしてくれたのは東大の先生だったが、これは脳の中で起こっていると説明していた。今や脳の中をMRIで見ることができるのに、心は臓器のように見ることができない。それなのに、悲しいとか嬉しいとか自分の心が全てを考え、判断し、意思を持ち、感情を司っている。そして、聖書には、「人の心をすべて造られた主」と明確に書かれている。だから、神様が人間の心を創造されたと理解して正しい。人間にとって、厄介なのは神様は心の中をテレビを見るように見ることができるので、全部丸見えだということだ。つまり、人間の業、つまり行動や思考の全てが、どのような心理で行なっているのかが分かってしまうというのだ。つまり、偽善が見破られてしまうということだ。そういえば、イエス様が宗教家や会堂長に「偽善者よ」と叱っていたのは、心を造られた本人だったので、人の心の仕組みを知っていて、見分けることができたということだ。もっとも、読者の私たちでも、ファリサイ派の人たちに自分をよく見せようと偽善を働いていると分かってしまうぐらい、愚かな振る舞いだった。信仰の秘密も、この心の働きなので、主の創造の秘密があるのだろう。だから、今年は、「あなたがたの信じているとおりになるように」(マタイ9:29)とイエス様がおっしゃっておられるので、何を信じるのかよく考えて、信仰を表してみましょう。主にできないことはないので、心の力を発揮してみましょう。そして、信仰の道を極めましょう。

 

1月2日(火)

どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。

エフェソ3:16、17

 

クリスチャンの特徴の一つで、しかも際立っている点は、「愛」だろう。クリスチャンになるまで、愛を真剣に考えることはしなかった。しかし、クリスチャンに求められているものは、愛であった。もちろん、この世界で愛は尊いものとして、認められているが、クリスチャンの愛はそれをはるかに超えている。なぜなら、キリストが十字架の上から、これが愛だと示されたからだ。だから、神様が求める愛は、相手のために死ねる愛とでも言えばその愛に近づけると言えるようなものだ。だが、その相手が誰であるかが問題で、家族のためとか、自分の愛している人のためならば、自分を犠牲にできるかもしれないが、誰にでもと言われるときっと無理だろう。そこで、聖書には不思議な言い方があって、「内なる人」とか、「あなたがたの心の内にキリストを住まわせ」というような言葉だ。自分一人でではできないが、「内なる人」とか「心のうちにキリストを住まわせ」とあるように、自分以外に誰かが一緒に助けてくれるなら、愛せるかもしれないのです。それは、キリストが父の御心を行なっている、と言うのと同じで、私たちもキリストの御心を行なっていると言えるようになっているのです。それで、愛のリハビリを受けていて、「あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかり立つ者としてくださるように」とある通り、クリスチャンはキリストのように愛いする人となれるように変えられて行きます。今年は、愛に根ざし、愛にしっかり立つ者としてくださるように、と神様にお祈りして行くとしましょう。

 

1月3日(水)

主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。主よ。あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざを捨てないでください。

詩篇138:8

 

また、大地震がありました。被災者のことが心配です。いつ、災害が自分を襲うかわからないので、災害は突然襲ってくるものなのです。地震で家が倒壊した方や家事で家が消失した方の悲しみや途方にくれるお気持ちが伝わってきます。自分が東日本大震災に遭った時には、神様のお守りがあったので、災害から守られ、震災の後も神様のお恵みが顕著に現れました。今までの人生でも、今日の御言葉の通りでした。「主は私に関わるすべてのことを、成し遂げてくださいます」。これは、主を信じる人の特権です。災害は人間には防げないし、被災しないことも選べません。しかし、主を信じることはできます。そして、聖書をそのまま信じることもできます。その結果は、御言葉の通り、信じた通りになりました。偶像は何もできません。火事にあえば偶像も燃えてしまうだけです。しかし、私たちの信じる神様は生きておられ、聖書を通してどのような神様であるかをちゃんと教えています。ですから、間違うことなく、先入観を抱かずに神様を正しく知ることができるのです。そして、何より、恵みの主であることを忘れてはなりません。尽きることのない恵みなのです。私たちは、その恵みを受けて、ただ感謝するのです。あなたは、主を信じているので、主の恵みを知っています。この世の人の考える自分だけ良ければ良いという価値観ではわからない恵みです。例え、試練の中でも主の恵みはあるのです。主は憐れみ深いので、日本で一番伝道の難しいと言われる北陸でも、助けの御手を伸ばして被災者を救ってくださることを信じます。数少ないクリスチャンや教会が守られ、主の助けが速やかにありますように。 

 

1月4日(木)

幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人よ。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植えられた木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

詩篇1:1~3

 

人生で成功する方法、といったようなタイトルがつく本はいつの時代でも、絶えることがありません。次々にそうした題の本が出版社の人たちの企画に上がってくるのです。それだけ、たくさんの成功する方法が売られているのに、皆が成功したという話はいつまで経っても聞こえてきません。試しに、どのような内容なのか手にとってみても、当たり前のことしか書いてありません。昔、縁日の夜店で売られていた怪しいインチキな本と対して変わりありません。それに比べ、聖書はすごいとしか言いようがありません。今日の聖句は、詩篇1篇の有名な箇所ですが、これさえ理解し、守るなら成功間違いなしです。何しろ、「その人は、何をしても栄える」と書いてあるからです。驚くのは、「何をしても」とあるからです。つまり、文字通りに何をしてもなのです。商売でも、研究でも、スポーツや芸術でも、何でもです。では、この聖句ではどうしたら良いと教えているでしょう。悪いことは全部だけです。悪者はオレオレ詐欺や闇バイトのように、はかりごとをするので、それに関わってはいけません。次は難しいのですが、「罪人の道に立たず」です。つまり、罪の問題を解決しなければなりません。それは、罪を認めてきあらため、キリストの十字架の贖いを信じて義とされました。皆さんは洗礼を受けて、悔い改めて、罪の道に立つことをやめたのです。ですが、難しいと言ったのは、未だ罪人の世界に生きていて、悪魔の誘惑にもあうからです。ですから、何が正しいかわからなくなる危険があります。それを防ぐために、「主の教えを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」ことが肝心です。その結果は、時が来ると義の実を結びます。その人の人生は祝福され、勢いがあります。その人の置かれる環境が恵まれているのです。そうそう、「あざける者の座に着かない」とは、人の噂話に乗ってはいけないと言うことです。ゴシップや他人の詮索はダメなのです。悪魔に心を大きく開いているようなものです。人の悪口を鵜呑みにしてはいけません。ましてや、それを人に広めてもいけません。そもそも人を裁く権利は与えられていません。そうしたことをしていないか、反省してみることの必要です。それほど、危険なことなのです。神様が教える人生の成功法則を今日は見ました。2024年を詩篇1篇のように生きたいですね。

 

1月5日(金)

最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身につけなさい。

なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。

エフェソ6:10、11、16

 

この箇所はクリスチャンにとって、大変重要な箇所です。まず、「主に依り頼」むことが第一にあります。私たちは、「主の僕」と言ったりしているのに、自分勝手に振る舞うことが多いのです。少しうまく行くと、神様に頼ることを忘れ、自分の力で何とかできると恐ろしい失敗の道へ足を踏み入れることになります。それを防ぐために「謙遜」と何度も言われているはずです。では、主に依り頼むとどうなるか、と言えば、「その偉大な力によって強く」なれるのです。これが基本です。その上で、今度は「悪魔の策略に対抗して立つことができるように」と書かれています。つまり、あなたに悪魔は策略をもって攻撃してくると言うのです。それでは、無防備でいたらひとたまりもありません。そこで、対抗するために、神の武具を身につけるわけです。ところが、「神の武具」とは、真理、正義、平和の福音を告げる準備、そして信仰です。どれも、知っているものばかりです。最新兵器は無いのかと言いたくなるかもしれませんが、逆によく知っているものをちゃんと身につけているのかと問われているのです。そして、悪魔の策略が、真理を揺るがすような偽りであり、正義が何かわからなくなってくるような策略であり、平和の福音を告げることができないようにする攻撃なのです。そして、あなたに対して悪意ある悪魔からの火の矢を、つまり何の根拠もない誹謗中傷を信仰の盾で防ぐのです。SNS時代になり、匿名で何でも書き込みができるようになってから、闇の罪が簡単に噴き出して来るようになりました。それを火の矢と言っているのはいかにもピッタリです。信仰が試されますね。火の矢でダメージを受けなくて済むほどの信仰を持ちたちですね。このように、聖書ですでに書かれていることは、軽視してはいけません。より慎重に備えているべきですね。

 

1月6日(土)

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました。

Ⅱコリント5:17

 

パウロは独特な言い方をします。例えば、今日の聖句にある「キリストのうちにある」と書かれたところの意味は、「キリストのために生きる」ことです。キリストの死は特別なことで、すべての人が死んだのです。しかし、このキリストの死から新しい命が生まれたのです。それは、主のために生きるという命です。そして、人はその命にあって主のものなのです。パウロの言うように「キリストのうちにあるなら」、その人は新しい被造物です。それは、キリストによって終末的に生きる新しい人間が創造されたのです。パウロの終末信仰から説明しなければ理解しにくいので、その考えによれば、キリストと共に始まる新し世(アイオーン)は、古い世がアダムを造ったように、キリストにあって新しい人を造ったのです。「キリストにあって」とは、キリストを信じて霊的な交わりの中にある人のことです。さて、このように語っても、キリストのために生きる人が新しく創造されたとしても、その人は古い世に存在し、まだ肉の力と戦っています。キリストと共にあるキリスト者の生命は、神の中にまだ隠されているのです。ですから、クリスチャンになったからと言って楽観的に考えることができないのです。しかし、パウロは「古いものは過ぎ去って、すべてが新しきなりました」と勝利宣言します。それは、クリスチャンがキリストの中にある存在であること、そしてキリストが新しい創造を完成する古い世から新しい世への転回を実現したことによるのです。こうした正しい理解が私たちを守ります。ただの感情や神がかりの狂信では、危険なだけです。自分の感情だけで判断したり、語ったりすることの危険を理解するとともに、聖書から正しい教えを理解して、何を信じるのかを明確にして行くことが大切なのです。キリストを信じているのですから、過去に囚われている必要はありません。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました。

 

1月7日(日)

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、命を得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

Ⅰヨハネ4:9、10

 

クリスチャンが心に強く思っていなければならないのは、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し」てくださったという事実です。私たちが罪人ではなく生きれるようになったのは、神の愛によるのです。人が正しく生きるには、強い愛が必要です。そして、誰でも、愛されて生きていきたいのです。それも、何かをするからとか条件付きの愛ではなく、無条件に愛されたいのが人間です。神様は私たちに、罪人だから愛せないとはおっしゃりません。それどころか、罪によって死んでいた私たちに、御子イエス・キリストを遣わして、命を得させてくださいました。ここに、神の愛が示された、とある通りに、私たちが救われたのはキリストの犠牲があったからです。その犠牲を払ってでも私たちを惜しんで、救ってくださった神様の御心を愛と呼ぶのです。ですから、クリスチャンが愛というときには、赦す心と一つなのです。互いに愛し合うことこそが、私たちがこの世でも実践する愛であると覚えておきましょう。そして、何と言っても、神様に愛されていることをいつでも忘れないでください。

 

1月8日(月)

あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になる事を教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。

イザヤ48:17

 

あなたの信じる神は、ご自身から「わたしは、あなたの神、主である」と語られるお方であります。ですから、あなたは非常に個人的にこの特別な神に見つけていただき、呪われた罪人として死に定められた希望の無い者でしたが、御子の命を犠牲としてあなたを救うための代価を支払っていただいたのです。この神は、それだけのことをしてくださったのですから、中途半端なことはせずに、さらに救われた後のことまでも用意してくださいました。それは、あなたが天国へ入るための唯一の道です。そして、あなたは信仰をいただき、次のことを信じるように促されています。「わたしは、あなたに益になる事を教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く」という事です。その結果がどのようなものであるか、わかりますか。あなたは天国に入れるという事です。ただ、洗礼を受けただけでは難しかったかもしれませんが、あなたは救われたのですから、神のために生きることになったのです。それは、神が愛であるから、あなたも愛に生きるということです。愛に生きると決めれば、幸せが向こうから寄ってきます。成功も富までもがあなたのものになります。これが自力でやれるようなことではないと分かるはずです。聖書に書かれた神の御言葉に信仰を置くなら、このような恵みもあなたのものなのです。

 

1月9日(火)

彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いてこられた。

イザヤ63:9

 

子供の頃に、親に背負われたことがあります。親以外にも祖父や祖母、親戚の人たち、自分を可愛がり、大事に思ってくれる人たちが背負ってくれたのです。さすがに大人になると、背負ってくれる人はいなくなりました。自分の足で歩かなければならないのです。大人になれば、自分のことは自分で責任を持って生きていかなえればなりません。どこかで、甘えの気持ちがあれば、「社会は何て冷たいのか」とつぶやくことになります。家族は、大人になっても互いを大切に思っていますが、時にはうまくいかなくなることもあります。家族だからこその悩みもあるのです。では、クリスチャンはどうかと言えば、今日の聖句が良く表していると思います。神様があなたを背負うのです。困ったり、辛くて悲しい目に遭えば、あなたを抱いてくださいます。あなたのことを神様は子供のようにご覧になっているのです。可愛くて、愛しているのです。ですから、あなたが苦しむ時には、いつも主も苦しまれるのです。子供を持つ親になるとそのことがよくわかります。神様の愛はあなたに向かっているのですが、あなたは時には神様に背を向けるような生き方をしてきたのです。それは、罪によります。ですから、神様はあなたを怒るよりも、その罪の問題を解決されようとされたのです。それは、あなたへの神様の深い愛情と憐れみによるのです。あなたの知らないところで、あなたの罪は贖われました。あなたの危機には、天使が遣わされて、救われました。あなたは気がついていないかもしれません。全てが自分の力で解決してきたと思っているかもしれませんが、それは大間違いです。すべて、神様があなたを助け、守ってきてくださったからです。その神様にあなたはどうして生きていかれるのでしょうか。ちゃんと考えてみるべきです。神様のよくしてくださったことを忘れずに感謝致しましょう。

 

1月10日(水)

怒りをおそくする者は英知を増し、気の短い者は愚かさを増す。

箴言14:29

 

世の中には恐ろしく気の短い人がいます。相手の言葉をちょっと聞いただけで、何かしら化学反応が起こり、それが悪い方に転ぶと途端に怒り出すのです。これはなかなか治りません。それで、失敗しています。それでも、懲りないのです。今日の聖句を読むとかなりまずいです。「気の短い者は愚かさを増す」とあるからです。歳を増すごとに穏やかになり、人からの信頼も厚くなる人は、人望のある人となります。ところが、歳をとっても気の短い者は、悲惨な未来が待っています。本来人間はどんなに気が短くても歳とともに穏やかになるはずなのです。それがそうならないのは困ったことで、人間関係を壊し、人を傷つけ、孤独になってしまうからです。これは、若いうちに経験から学んだはずなのに、何の努力もしてこなかったのです。こうした人は、物事をステレオタイプで考える傾向があります。思い込みが激しいので、大切なことを見逃したり、勝手に自分の中で怒りだし怒りに自分が振り回されてしまうのです。その結果、愚かなことをしてしまうのですが、歳をとると能力が低下するので、それがひどくなります。では、どうしたらいいでしょう。「怒りを遅くする者は英知を増し」と、対比して書かれていることをヒントとしましょう。怒りは、真実から起こることよりも、自分勝手に悪い方へと思い込むことから怒りが大きくなってしまいます。つまり、ネガティブな思考が影響しています。そこで、怒りを遅くするには、どうすべきか考えてみましょう。まず、深呼吸します。こうして、脳が怒り出す前に、静めることです。そして、違う方向から見てみるのです。楽観的に思うことが肝心です。同じ箴言14:16、17には「知恵のある者は用心深くて悪を避け、愚かな者は怒りやすくて自信が強い。短気なものは愚かなことをする」とあります。知恵ある人は、何かを人から聞いても、悪くとらないように用心深く気をつけるのです。ところが、愚かな者は怒りやすいのは、自分の受け止め方を絶対化して、絶対自分の思った通りだ、と自信が強いのが特徴なのです。実際には、真実とは違ってネガティブに受け止めてしまったことで、勝手に怒りまくってしまうのでは、やっぱり愚かな者と呼ばれてしまうでしょう。もっと、人間を信頼し、何があってもポジティブに受け取ることができるようにするのです。聖書に書かれているのですから、愚かな者にはなりたくありません。そのために、短気を放置してはいけません。自分を絶対化してしまうと怒りは躊躇せずに大暴れします。いい加減怒らない人になりたいですよね。江戸っ子は気が短いと言いますが、それで損ばかりしているのでは自慢にはなりません。怒りを遅くする者となって、英知を増す人になりたいものです。

 

1月11日(木)

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。・・・わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。

ヨハネ15:9、10

 

キリスト者の真実は、ここにあります。なんだかんだと言っても、結局、キリストの掟を守っているかどうかなのです。キリストの愛にとどまっているかどうかは、私たち自身にかかっているのです。キリストは、いつでも救われる者のお手本です。そして、キリスト者もその名の通りに愛に生きる者なのです。しかし、自分の器が小さくて、キリストのように、守るべき掟を守りきれないかもしれません。それは、悲しいことなので、もう一度、聖書を読んで、「互いに愛し合う」ことがどれほど大切なことであるかをわきまえたいと思います。罪が自己中心であるのなら、その反対が互いに愛し合うことだと知ることです。それは、キリストから学ぶことができます。あなたもキリストに愛されているのですから、キリストの愛に留まることができます。それは、キリスト者には、その人のうちにキリストがとどまっているという真実があります。そのキリストを見て、愛するわけです。もっとも、自分も愛されるのですから、難しいことではないはずです。

 

1月12日(金)

彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高くあげよう。彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼ととともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。

詩篇91:14、15

 

私たちは、神様を知ってい流と言うのですが、では、あなたの神様はどのような神様か説明してくださいと言われたら、あなたはなんと答えるでしょうか。今日の聖句には、その答えがあります。彼と書かれた所に自分の名前を入れてみてください。そして、ゆっくり読んでみましょう。これが、あなたの神様があなたにしてくださることです。このことが信じられるのなら、何を恐れる必要があるでしょうか。感謝しか出てきません。このように、あなたは神様を愛しているので、あなたが困ることのないように、神様はあなたを助け、守り、祝福してくださるのです。あなたは、この世でも成功します。あなたは、何でも神様に相談することができます。祈りは全部聴かれています。あなたのためになるように、最高の叡智で、あなたのためのご計画を実行してくださいます。ですから、あなたはやがて主の再臨の時に、空中に引き上げられるでしょう。天使の聖歌隊が歌う讃美歌を自分の耳で聴くでしょう。そして、あなたの目で王の王なるイエス様を見ることができるのです。そのことが分かっているのなら、今日一日を祈りを持って始め、すべてのことに感謝して、いつも喜んでいましょう。信仰の報いは必ずありますから、主を信頼して生きて行きましょう。

 

1月13日(土)

人よ、何が善であり

主が何をお前に求めておられるかは

お前に告げられている。

正義を行い、慈しみを愛し

へりくだって神と共に歩むこと、これである。

ミカ6:8

 

クリスチャンがどのように生きれば良いのかと問われれば、今日の聖句を思い出してください。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩む、この三つを心がけて生きていけば良いということです。一見簡単そうに見えますが、罪の世ではこれが難しいのです。誘惑がありますし、人間関係で圧力がかかることもあります。正義でも何が正義かでわからなくなる時もあるでしょう。慈しみを受けて育った方は、まだわかるのですが、慈しみを受けることなく、酷い目にあってきた人には、意味がわからないかもしれません。そもそもこの世でへりくだっていたら、平気で踏み躙られ、侮られてしまうかもしれません。ですから、強さが必要になります。それは、信仰からきます。つまり、信仰が強くなければ、できないことなのです。また、この三つを守ることができるように言葉にすることと祈ることが必要です。もし、この三つを身につけることができれば、その人はこの世の人からも尊敬されるようになるでしょう。そして、イエス様の新しい掟「互いに愛し合え」ということも実現できるようになるでしょう。それだけでなく、イエス様の品性にも近付いていけるでしょう。勇気を持って、善を実行しましょう。

 

1月14日(日)

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

エペソ1:20~23

 

この世で、キリスト教を弾圧する国や独裁者がいます。とても残念なことです。悪魔は、支配、権威と呼ばれ、こうした弾圧にも関わっています。それは、人間が権力争いをすることからもわかりますが、一人の人に権力が集中すると、その人がどんなに良い人であっても、変わってしまうことが知られています。よく変わることもありますが、大抵の場合は悪く変わります。政治が批判される時には、まさに国をよくしようとしているのではなくて、権力闘争を繰り返しているのです。悪魔が働いているから仕方ないと、思うことはありません。なぜなら、今日の聖句を読めば、「すべてのすはい、権威、権力、主権の上に、・・・高く置かれました」とあるように、キリストはこの世のいかなる権力よりも上に置かれたのです。ですから、希望が持てます。この世が悪くなっているように感じている人は、キリスト教の言うところの終末に生きているのです。しかし、罪の裁きが行われるので、人々は、どんな生き方をしているか見られています。この世界で悪魔が権力を握っているように見えても、それは違っています。「神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ」とある通り、キリストがこの世界を支配しているのです。そして、教会は、そのキリストの体であり、キリストの満ちているところなのです。

 

1月15日(月)

ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。

詩篇18:3

 

クリスチャンにも敵はいます。聖書でもイスラエルは敵と戦っています。神様も悪魔と戦っています。ですから、私たちが敵と遭遇することはあり得ます。ですから、今日の聖句は覚えていましょう。悪魔からの攻撃を受けたなら、この聖句を唱えましょう。また、何でもかんでも悪魔のせいにするのは、よくありません。ほとんどの場合、悪魔は関係ありません。人間の罪や悪意によるものです。もっと良くないのは、自分のせいで困った状況になっていることもあります。ですから、何でも悪魔のせいにするよりは、自分の言動を反省してみることが最初です。それから相手の気持ちを考えてみることも大切です。相手の感情を害していたら、すぐに謝った方がいいのです。人間は弱いのでねたんだり、うらやんだりするものです。そうした、隣人の気持ちを理解することも大切です。ただ、滅多に起こりませんが、本当の敵がやってくることが残念ながらあります。万が一、そのような時には、今日の聖句を信仰を持って唱えてください。そして、あなたが賛美してやまない主を呼び求めてください。あなたは、敵から救われます。

 

1月16日(火)

あなたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。

マタイ21:22

 

さて、聖書にこんなに良い御言葉があることに驚く人もいることでしょう。それなのに、クリスチャンがこの世の人と同じように困ったり、あくせく生きているのはなぜでしょう。あまりにも直接的で、簡単すぎるからでしょか。こうした単純なことほど、信仰が要求されます。ですから、このようにはっきり書いてあるのに、祈り求めるものが与えられない、ということが起こると、どうしてだろうと原因探しになってしまうものです。そして、結論として信仰が足りないということになるのです。神様は計算できないほどの途方もないほどの富をお持ちのお方です。しかも、ケチじゃないのです。有り余るほど豊かに何でもくださるお方です。しかし、信仰を通してでなければ、逆に罪を犯させてしまうかもしれません。それで、慎重なわけです。あなたも、この御言葉の通りに言えるようになれば、これは本当にすごいことなのです。ちょっとワクワクしますね。

 

1月17日(水)

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

ガラテヤ5:22、23

 

クリスチャンが変わって行くと言われるのは、品性が変わって行くのです。それも、キリストが人となられた時の品性です。自分で努力しても到達できないほど高い目標です。しかし、「御霊の実」とある通り、内住する聖霊の働きで獲得するものです。ですから、聖霊の働きが重要になります。聖霊が自由に働けるように、信仰を働かせる必要があります。特に、愛がリストの先頭にあることから、クリスチャンは愛を意識して生きるのですが、自分の中に愛がないことをしばしば痛感させられます。自分の愛したい人しか愛せないからです。また、他人に厳しく、人の欠点がすぐに目につくのです。それも、黙っていられないので、批判することになります。時には、他人を裁くこともしばしばで、無意識のうちに裁いてしまいます。それは、人を赦せないことにも現れます。これだけみても、自分の力で愛という品性を獲得しようとしても、無理ないので、やはり聖霊の力によることを知るのです。そこで、聖霊に自己を明け渡すことが大切になります。これは、かなり難しいことなので、神様から砕かれることになります。これを試練という場合があります。このように、御霊の実は自分の力の及ばないことで、もっぱら信仰によるのです。クリスチャンの霊的体験としては絶対欠かせないものです。この中に謙遜が入っていないのは、自分の努力で達成できるからで、自分の責任となります。

 

1月18日(木)

何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

ローマ4:5

 

クリスチャンは、信じることを知っている人です。それは、パウロに言わせれば、今日の聖句のようになります。自分のことを考えれば、決して神様の御前に敬虔であるとは言えません。ましてや、神様が認めざるを得ないような善行を積むことすらできません。つまり、自分が罪人であることがわかってしまったのです。罪人だとわかっていない時は、もっと高慢な考えでいたので、自分勝手に生きていたのです。自己中心であったので、自分に都合よく自分に甘く考えていたのです。それが、自分の内に罪があって、それは法則と聖書にあるように、自分の力で何ともできないものでした。それほど罪は強いのです。これでは、神様が義と認めることなどできるはずがないのです。ところが、福音は違っていました。神様が義と認めるためには何の働きもない者が、神様に対して不敬虔な者を義と認めてくださる主を信じるなら、その信仰が義とみなされるというのです。つまり、イエス様を信じるなら、その信仰を義と認めるというのです。このようなありがたい話は聞いたことがありません。人間の常識をはるかに超えています。恵みを初めて知りました。罪を知った人間は、自分自身を責めるので、深く落ち込むことがあります。しかし、その悲しみが意味を持つこともあるのです。自分のプライドを砕いて、主にすがることが必要なこともあるのです。主を信じること、ここに救いがあるということです。罪人の自分は、どんなに取り繕っても罪人に過ぎないのです。ですから、イエス様が関わってくださらなければ、罪からの解放はありません。私たちにとってイエス様を信じることで、得られる天の恵みは限りないのです。何しろ神様に義と認めていただけるのですから。

 

1月19日(金)

イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」

ヨハネ6:35

 

人は、食べたり飲んだりして生きて行く仕組みの生き物です。そのために、苦労して働かなければなりません。ノーベル賞を2回も受賞したキューリー夫人は若い頃、貧しくて屋根裏部屋でパンと水だけで飢えをしのいだと聞いたことがあります。文字通り、人はパンと水で生きていけるのですね。さて、イエス様は、「いのちのパン」とおっしゃいました。ただのパンではありません。「いのち」がつくのですから、生きるためのパンです。生きるといっても、生存するだけのためのパンということではなくて、罪のためにすでに死んでいる人が、イエスによって生きるという意味のパンです。どんなに贅沢なものを食べていても、人は心の飢え渇きを覚えることがあります。むなしいもののために生きていれば、飢え渇きを覚えるはずです。そこで、私たちは自分は飢え渇きを覚えていないか確かめる必要があります。イエス様との距離ができれば飢え、この世のことで忙しくていれば渇くのです。主の祈りでも、「日毎の糧を与えたまえ」と祈りますから、イエス様をいのちのパンとして日毎にいただくことが肝心なのです。ちょうど、私たちは聖餐式でパンをいただきますが、それがイエス様の象徴であるように、イエス様をパンとして食べて生きる者となるのです。それは、イエス様の元へ「来る」者は決して植えない、と言い、イエス様を「信じる」者は、決して、どんな時でも渇くことがないのです。いつでもイエス様のもとへ行き、イエス様を信じる、これが真に生きる秘訣なのです。これは、ストレス無く生きる秘訣なのです。

 

1月20日(土)

光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。

詩篇97:11

 

若い頃から森の生活に憧れがありました。アウトドアーの専門誌を購読し、実際に森にキャンプに行きます。有名な冒険家が黒姫山に住むと聞けば、自分も同じような生活をしてみたいと憧れていました。しかし、気がつけば、牧師になって、あちらこちら転勤族となって都会ばかりを転々と住んでいました。人並みに人生の荒波を受けながらも、神様のために働ける喜びがありました。また、神の家族に巡り会うという特別な恵みもありました。そして、気がつけば高齢者の仲間入りをしていました。不思議なことですが、田舎に住み、隣人がキジであることに喜び、思い煩いがない日々を感謝し、聖書を学び、礼拝し、自然の中に小さな感動を発見して生きれるようになったのです。人間としては、誰かよりも正しいとは思えませんが、信心のあることで神様が正しいと認めてくださるのです。それで、自分のような小さな者でも、憐んでくださる天の父が光を与えてくださるのです。だから、余計に神様を信じることが強められ、喜びが湧いてくるのです。人間は、季節に応じて、何をするか考え、計画し、働くようにできているのですが、自然の中にいると、そこに創造主が働かれていることに心がときめくのです。神様の創造された世界は、美しいのです。その美しさをほとんど見ていないのなら、とても残念です。この世界はもうすぐ、なくなるのです。その前に、神様の創造された世界をもっと驚いて見てみたい者です。

 

 1月21日(日)

どのような苦労にも利益がある。口先だけの言葉は欠乏をもたらす。

箴言14:23

 

この世で生きているだけでも大変なことですが、信仰はいつでも私たちを支えます。人の目よりも神様の目を気にするようになると、この世の苦労も乗り越えることができます。しかも、信仰はどこまでも恵みに直結していて、苦労そのものが利益になる不思議があるのです。何の苦労もしなかったと、言う人は人間の評価が低くなります。苦労だけでもよくありません。人生を暗くしてその人を育てることも成長させることもなく、ただ傷つき惨めになるだけです。しかし、神様の御言葉を信じる人は、苦労の中で成長し、たくましくなり、人の深みを増します。よく祈り、信心が深くなるのです。ですから、苦労でいじけることなく、否定的になったり、消極的にならないように、気をつけましょう。その苦労が大変であればあるほど、主の助けも大きいのです。そして、情けない弱い人が、いつの間にか信仰によって強くてたくましい人に成長しているのです。人に対する目も優しくなり、同情することができるようになります。それに損得勘定で生きることも無くなります。たとえ、人から不当な扱いを受けても、神様が見ていてくだされば、それでいいと思えるようになるからです。人生は、信仰によって良いものにすることができるのです。決して口先だけの人間にはならないように気をつけましょう。 

 

1月22日(月)

憐んでください

神よ、わたしを憐んでください。

わたしの魂はあなたを避けどころとし

災いの過ぎ去るまで

あなたの翼の陰を避けどころとします。

いと高き神を呼びます

わたしのために何事も成し遂げてくださる神を。

天から遣わしてください

神よ、遣わしてください、慈しみとまことを。

詩篇57:2~4

 

私たちは、困ったことが起こると、すぐに神様に頼ります。頻繁に何でもかんでも神様に祈っているのです。そこで、ふと、祈ることが心配になります。ちゃんと祈れているのか、ワンパターンになって神様を疲れさせているだけではないか、と気になるのです。詩篇をよく読んでみると、詩篇記者は「憐んでください」と祈っています。困ったことが起こってあたふたと慌てているのです。自分の個性は変えられませんから、それが原因で困ったことが起こるなら、どうすることもできません。災いが過ぎ去るまで、神様の御翼の陰に隠れて待ちます。困難に立ち向かってカッコよく勝利するぐらいならいいのですが、他人が関わってくるときは、要注意です。大抵は、助けてくれる優しい人たちが周りにいるものですが、悲しいことに「わたしを踏みにじる者の嘲りから、私を救ってください」と叫ぶ日もあるのです。ただ、あなたが神様を呼ぶのは、感謝のためであれば幸いです。「わたしのために何事も成し遂げてくださる神を」私は呼びます。あなたがもし、神様の助けを必要としているのなら、こう祈るのです。「天から遣わしてください。神よ、遣わしてください、慈しみとまことを」と。

 

1月23日(火)

しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。

使徒言行録20:24

 

パウロの宣教は、クリスチャンの心に火をつけます。それほど、主に忠実で、一途にイエスに仕えていました。自分の人生を生きるということが、自分に定められた主のご計画通りに進むことと一緒になっています。福音を証しすることがパウロにとっての任務だったのです。しかも、任務を授けたのは主イエスでした。ですから、命懸けだったのです。あなたも主に救われて、人生が変わったはずです。信仰によって生きてきたのですから、主に喜ばれる生き方をしたいはずです。あなたにも主に与えられた任務があるのです。それは、必ず達成し、命すら惜しいと思わないほどのものであるのです。しかし、現代人は忙しさの中に何でも埋没してしまい、とかく、信仰によらなければ理解できない大切な任務すら、忘れているのです。パウロほどのいさぎよさがなくなったのでしょう。この世の仕組みに組み込まれると、主のために生きるということを忘れてしまいます。かろうじて、毎週の礼拝や聖書研究によって、自分が何者であったのかを思い出します。さらに一歩を踏み出すには、信仰による決断が必要です。聖霊を求めるのも、主の側に大きく移るためです。主のために生きるということが、パウロのように自給伝道者になるようなことを意味しません。そのような召命があれば別ですが、どのような仕事をしていても福音を証しすることはできます。あるいは、クリスチャンとして主のために生きることを実践することでも、任務を果たすことはできるのです。自分が本当にしたいこと、自分らしく生きるには何をしたらいいのか、本当に好きなことを探していけば、自分の任務がわかるはずです。

 

1月24日(水)

主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

ヘブル13:5

 

私たちがなぜ、信仰を持ち続けることができるかと言えば、主が今日の御言葉の通りに、私たちに語られるからです。ですから、どんなことが起こっても、最悪なことが襲ってきても、私たちは耐えることができます。私たちは弱くても、主が強いからです。主は、十字架に至るまで従順なお方です。ですから、そのお言葉には嘘偽りがありません。いつでも、真実を語ります。まだ、私たちが罪人であった時に、主は私たちを罪から救うために十字架につかれたのです。ですから、どんな時でも、私たちは主を信頼することができます。あなたが自分は孤独だと思う日、主は決してあなたの離れません。あなたが酷い失敗をして、自信を失い、逃げ出したくなっても、主は、あなたを捨てません。ですから、私たちは、たとえ倒れても、起き上がることができるのです。いつでもカッコよく生きたいですが、そうそううまくは行きません。でも、どんなにカッコ悪くても、主はあなたを笑いません。むしろ、よく頑張ったね、と励ましてくれるのです。だから、今日も、元気を出して、自分を信じていてくれるイエス様がいると、胸を張って生きていきましょう。 

 

1月26日(金)

あなたの僕への御言葉を思い起こしてください。

あなたはそれを待ち望ませておられます。

あなたの仰せはわたしに命を得させるでしょう。

苦しみの中でもそれに力づけられます。

詩編119:49、50

 

信仰者は、神様から御言葉を与えられることがあります。そのような御言葉は忘れることができません。そして、そのことが成就することを待ち望ませます。それは、時に励まし、希望を与え、私たちに天からの力を与えるのです。私も与えられた御言葉は「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」(ハバクク2:3)と、いうものです。皆さんも、何かしら御言葉を与えられているのではないでしょうか。それが、皆さんの信仰生活で意味があるはずです。自分を助ける聖句があるのは、素晴らしいことです。そのためにも、日頃からもっと聖書を読むようにしましょう。

 

1月27日(土)

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

ローマ8:37

 

クリスチャンは、主の愛の中にいます。信仰が与えられ、そのことがわかるように、また、信じるように導かれています。愛されることで、人は変わるものです。しかし、元々の自分が、完全な良い人であったかというと、誰でも欠点があり、弱さを持っていたのです。そこで、変わるというよりも、神の子として成長することが決まっているのです。それなのに、自分が成長しているように思えないのは、主を第一にしないで、自分中心に生きているからです。そのような私たちを中途半端な救いで終わらせることなく、完全な救いを成就するために、聖霊の助けがあります。確かに、自分自身を振り返れば、神の子になったというよりも、昔の自分の延長でしかないように感じるかもしれません。そこで、信仰者を試みるようなことが起こってきます。しかし、不思議なのは、嫌だと言えば、逃れの道も用意されているということです。実は、イエス様の弟子であることは、厳しいのです。自分の命まで投げ出す覚悟が初めから必要です。文字通り、主のために生きるのです。1月27日の礼拝説教箇所は、まさにそのことをイエス様がお語りになったろところです。それぐらい、厳しく、イエス様に全てをゆだね、服従する覚悟がいるのです。そのような者には、圧倒的な勝利者になることが保障されています。それぐらい、あなたは主に愛されているということです。

 

1月28日(日)

あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。

ガラテヤ3:26

 

あなたがイエス・キリストを自分の主として信じ、洗礼を受けてクリスチャンになったことは、霊的には驚くことに、神の子供にしていただいたのです。すぐにはピンとこないかもしれませんが、ここだけで言われたのではありません。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)と書かれています。さらに、パウロは、「神の御霊に導かれる人は、誰でも神の子どもです」(ローマ8:14)と語っています。皆さんは、信仰があるので、自分勝手に生きているわけではありません。神様の御心に従って生きているのです。それは、聖霊が皆さんを導いているからです。もちろん、拒むこともできますが、それは、クリスチャンにとっては不幸なことなので、悔い改めることになるのです。そして、祈り、自らが聖霊の導きに従いたいと願うようになります。ですから、そのようになると、神の子供となっているのです。本来は、天国へ行ってから味わう喜びも、神の子供となって先に味わうことができるのです。イエス様が神の子の模範ですから、主に倣らう者となって、神の子として生きていくことができるのです。素晴らしい特権を天の父に感謝致しましょう。

 

 1月29日(月)

あなたは救いの盾をわたしに授け、右の御手で支えてくださる。あなたは、自ら降り、わたしを強い者としてくださる。

詩編18:36

クリスチャンにはお恩恵が与えられています。それは、本人に信仰があるからです。誰がなんと言おうと主を信じる者には、天の窓が開かれ、その報いが与えられるのです。今日の詩篇もそのことを裏付けています。興味深いのは「救いの盾」です。確かに、私たちはイエス様を信じて救われました。つまり、信じただけなのです。そこで、敵は信じることを攻撃してきます。疑い、不信仰にしようと攻撃してくるのです。そこで、その攻撃を防ぐには、救いの盾が必要なのです。攻撃を跳ね返す鉄壁の守りが盾の役割です。そして、肝心なことは、それだけで頑張れと突き放しているわけではありません。主は頼りになるのです。あなたをこの世のさまざまな困難から助け出し、悪魔の攻撃から守り、救ってくださるのです。それは、勝利の右の手であなたを支えていてくださるので、あなたは決して負けることはありません。あなたは、孤独を感じる必要などないのです。あなたは主によって支えられているからです。主のすごいところは、自ら降ってこられることです。それは、あなたを強い者として、勝利者とするためです。ですから、あなたは、信仰によって生きることを忘れてはいけません。主の助けてを受けて強いのですから、謙遜な心と感謝を忘れてはいけません。いつ、どんなことでも、あなたは主によって勝利できます。そのことは決して忘れてはいけません。

 

1月30日(火)

あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には楽しみがとこしえにあります。

詩篇16:11

 

聖書には神様に近づきなさいと書いてあります。もちろん、神様も近づいてくださるのですが、なぜ、神様に近づく必要があるのでしょう。その一つの答えが、今日の聖句にあります。神様のイメージは、何か近づきがたい怖いお方と思われがちです。確かに、聖なるお方ですから、不用意に近づけるようなお方ではありません。しかし、私たちが救われたのは神様のおかげです。そして、神様を信じていれば、生活も仕事も恵まれます。神様はまさに祝福してくださるお方なのです。そればかりか、「いのちの道を知らせてくだ」さるお方です。よく考えれば、朝になって目を覚ますことができれば、何も考えずに生きていますが、命を与え、「生きよ」と生かすことができるのが神様です。そして、人生の意味や、人生の目的、つまり何のために生きるのか、人間は気がつくと考えるのですが、答えが分かりません。答えは、人間の中に無いからです。命を与えることができる方のみが、命の意味を知っています。それが神様なのです。ですから、神様はあなたの人生の目的を知っています。そして、あなたの教えてくださるのです。あなたには信仰が与えられ、信仰によって義と認められるのです。すると、あなたは人生の目的が神様のために生きることだと悟るでしょう。その神様の御前には喜びが満ち、神様の右には楽しみがとこしえにあるのです。つまり、神様のために生きるということは、喜びが満ち、楽しみがとこしえにあって、あなたは初めて罪のない愛の世界に生きるようになるということです。

 

1月31日(水)

キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された”霊”を信仰によって受けるためでした。

ガラテヤ3:13、14

 

皆さんは、「信仰」をどのように考えていますか。「信仰」が大切であることは理解していると思いますが、ガラテヤ書を読むと、信仰の奥深さを感じないではいられません。まだ「律法」の方がわかりやすいです。例えば、安息日を守れと言われれば、土曜日を休んで教会に行き礼拝に参加して、安息日を守ったと思ってしまいます。しかし、安息日を聖とせよ、と言われているのにそれはどうなのか?普段の日とどう違うのか、安息日にできることは何か、と考えだすとキリがなくなります。例えば、仕事を休めばいいのか、と言えば、それだけではありません。仕事のことを考えてもいけないのです。礼拝のために電車に乗って出掛けて行くのはいいのか、どれぐらいの時間をかけてもいいのか、とか、際限がなくなります。つまり、安息日だけでも守れているかどうかわからないのです。それでは、律法など守れるとは思えません。全部守らなければ呪われるというのですから、絶望的になります。それは、すでに呪われているということになるからです。キリストは、この恐ろしい「呪い」から私たちを贖い出してくださいました。十字架がその証拠なのです。そして、律法を守っていない異邦人にアブラハムに与えられた祝福が、キリストによって及ぶために十字架にお掛かりになったのです。そして、律法はどうでもいいわけではありませんから、律法の要求を満たすために、「約束された聖霊を信仰によって」私たちが受けられるようにキリストが罪を贖ってくださったのです。ここまでのパウロの説明で、わかったことは、生まれたままの人間が律法を守ろうとすると、完全に守ることができないので、呪われてしまうということです。ですから、私たちは初めは罪人であり、クリスチャンになってからも、自力で律法を守ろうとしたために、呪われた者になっていたのです。それが、信仰をキリストに与えられ、その信仰を使おうとしました。しかし、肉の疑い深さが邪魔をして、信仰をうまく使うことができる時とできない時があって、中途半端な状態だったのです。しかし、アブラハムに与えられた祝福がクリスチャンになって、私たちにも与えられ、正しい状態になるように導かれました。そして、「聖霊のバプテスマ」を受けることが必要であると気づかされたのです。そして、これは「約束された聖霊」だったので、信仰によって受けることになっていたのです。ここで、信仰が問題になるのです。そこで、信仰をちゃんと考えて、祈り、聖書も学び、信仰を発揮してみるのです。信じることが深まって行くのです。聖書の御言葉を信じるということがどのようなことなのか、探究しなければなりません。聖霊を受け取っていれば、助けを受けることができます。信仰の道は、聖書に書かれた通りに進みます。自分勝手に考えてはいけません。パウロの言っている通りにすれば、いいだけです。