2023年7月ディボーション

7月1日(土)

イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

ヨハネ8:12

 

「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ1:4、5)。キリストは世の光であった。しかし、この世の人たちはキリストを受け入れなかった。キリストを認めようとはしないのだ。そのような人たちが暗闇の中を歩んでいる。暗闇の中では、何が正しいかわからない。生きるのが大変な世界だから、希望が見えない。そんな世界にキリストは来てくださったのだ。彼は光として来られた。光には希望があるから、光は暗闇の中で輝いている。光は人間を照らすのだ。それでも、キリストを認めない人たちがこの時も、そして今も大勢いる。幸いなことに、キリストは「自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(1:12)。そこにあなたもいる。この暗闇と言われた世界で生きている私たちは、キリストを信じて受け入れた後、暗闇の中を歩かなくても良くなった。そして、今は「命の光を持っている」。その意味は、「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(1:4)。つまり、あなたの内にキリストが生きているということだ。この奥義を理解して欲しい。

 

7月2日(日)

さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。

使徒17:30、31

 

人間の歴史は、一旦はノアの時代に洪水で終わりを告げましたが、ノアの家族から再度人間の歩みが始まりました。それからでも、もう随分と時間が経ちました。人間の数が増え続け血に満ちましたが、それは罪が地上に蔓延したとも言えます。戦争の悲劇と愚かさはさずがに、学習して21世紀にはもう起こらないと思っていたのに、世界が驚くようなロシアのウクライナ侵攻で悪夢のような戦争が起こりました。たくさんの人が亡くなり、犠牲となりました。その人たちの家族も悲しんだのです。私たちは、神様が大目に見てくださっていたので、人間の罪の問題を甘く見ていたのです。そして、裁きの日が来ると聞いても、まだまだ先のことだと無視してきたのです。バビロンの精神は世界に蔓延しています。ついには戦争のような悲惨なことが起これば、そこにお金儲けの大きな機会が生じることを知り、それを演出してお金を稼ごうとする人が出てきます。神の裁きを無視している彼らは、ついに「バビロンは倒れた」という声を聞くことになるのです。人間を救えるのは主イエス・キリストだけです。悔い改めて、キリストを信じることで救われるのです。これ以上の福音はありません。さらに、私たちも忘れてはならないのが、神はキリストによってこの世を正しく裁く日をお決めになったのです。つまり、一日一日とその裁きの日、この世の終わりが近づいているのです。警告は次々に送られてきています。異常気象は一番わかりやすいことです。戦争もその徴です。愛が冷えていることも徴なのです。私たちも、聖書から学び、自分のすべきことを知り、実行するのです。家から出られない人でも、執り成しの祈りはできるでしょう。神の憐れみが日本を救うように願いましょう。

 

7月4日(火)

罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁に変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。

ヤコブ4:8~10

 

「手を清めなさい」とは、行いを清めなさいということです。例えば、「赦せない」ことなどが考えられます。「心の定まらない者たち」とは、自分の欲望に負けて、してはいけないことをする人のことです。対処法は、「心を清めなさい」と書いてありますから、自分の力だけでは無理ですね。これは主イエス・キリストの十字架と血潮に頼らなければなりません。また、聖霊にも助けを求めなければなりません。「わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」(ヘブライ10:21、22)。クリスチャンの目標は、神に近づくことです。そのためには、心を清める必要があります。これは、天の聖所で今もご奉仕くださっている真の大祭司である主イエス・キリストの執り成しによるのです。心が清まったかどうかの判別は、「良心のとがめ」がなくなることです。罪人が救われるのは本当に大変なことなのです。クリスチャンが罪を犯すことはあります。それもやってはいけないことをする人もいます。悪意ある行為に出るのですが、そのことを指して「手を清めなさい」と言っています。クリスチャンであるのに、心で悪いことを考えるのです。心で考えることは、行動に現れてくるのですから危険です。罪を自覚できれば、すぐ悔い改めることができます。「悲しみ、嘆き、泣きなさい」。結局、悔い改めることができれば、そのままへりくだることができます。心を清めていただければ、主へ近づくことができます。それは、神の子になるために必要なことです。

 

7月5日(水)

主は人の一歩一歩を定め

御旨にかなう道を備えてくださる。

人は倒れても、打ち捨てられるのではない。

主がその手をとらえていてくださる。

若いときにも老いた今も、わたしは見ていない。

主に従う人が捨てられ

子孫がパンを乞うのを。

詩篇37:23~25

 

クリスチャンのあなたが、神様を信じて信仰によって歩んでいるのなら、今日の聖句を読んで励ましを受けていただきたいと思います。私たちは自分勝手に生きてきたわけではありません。主が私たちの人生を考え一歩一歩定められたのです。それは、主の御旨にかなう道を進めるように備えられたのです。それがどんなに幸福なことか、わかるといいのですが。ある人は、試練に遭えば途端に弱音を吐き、大いに悩み、助けてくれそうな人を探し、誰もどうすることもできないことを悟るまで厳しい状況が続きます。しかし、最後には観念して主の御元へと近づきます。そして、倒れ、力尽き、自分は主に打ち捨てられたと思った時に、自分の手をとらえていてくれる主を発見するのです。この時に、信仰は確信へと変わるのです。主を信じていれば、何も恐れるものはないと確信するのです。私たちは、やがて歳を取り、誰でも老人になります。年金や老後の生活を不安に思う時もあるでしょう。誰にも迷惑をかけずに最後まで生きていけるのか? そんな時に、聖書は、「若いときにも老いた今も、わたしは見ていない。主に従う人が捨てられ、子孫がパンを乞うのを」。これは神様からのメッセージなのです。「何も心配せずとも大丈夫だ、あなたの信仰ゆえに子孫も決して心配するようなことにはならない」と。私たちの信仰は、これほど大きな主のお恵みをすでに受けているのだと、確信できるのです。神様の救いは、完全だからです。そして、私たちは主の憐れみによって救われたことを認めているからです。だから、主を賛美して御旨にかなう道を一歩一歩進んでいけばいいのです。

 

7月6日(木)

わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉とをたたえることができるように。

フィリピ1:9~11

 

「知る力と見抜く力」とは何でしょう。コロサイ1:9には「”霊”によるあらゆる知恵と理解」とあります。言葉は違いますが、同じことを言っています。クリスチャンには信仰があり、聖霊が内住しています。ですから、普通の人とは違います。神様により近いのです。神様に対して自分の顔を向けています。私たちがクリスチャンとして日々、何を目当てに生きているかといえば、「愛がますます豊かに」なることです。そして、「本当に重要なことを見分けられるように」なることです。そのために「知る力と見抜く力」を身に着けられるように祈ることが大切です。「知る力と見抜く力」は、私たちが天国へ入るために必要な条件を満たすのに必要です。クリスチャンの真の姿はキリストのように愛の人になることです。もともと、私たちになかったアガペーの愛も、キリストを信じて清めをを受け、約束の聖霊を送っていただき、アガペーの愛である聖霊がその人の内側に入ることで、初めてアガペーの愛が現れることになります。「愛がますます豊かになり」というのは、アガペーの愛を消してしまおうとする「肉」に罪を犯させる自由を与えないことです(ガラテヤ5:13参照)。つまり、「霊の導きに従って歩みなさい」(同5:16)。「本当に重要なことを見分けられるように」とは、クリスチャンは何をしても良いというわけではありません。この世に生きているのですから、日々たくさんの選択を強いられます。その中には誘惑も潜んでいるのです。ですから、何が重要なことか見分ける必要があるのです。そして、それは聖霊を信じて、自分ではなく聖霊が働き、見分け、選択してくださるようにゆだねるのです。そして、大切なことは良く考えてみることです。あなたのために、今日の祈りが献げられているのですから、キリストを信じていれば全てうまくやれるはずです。

 

7月7日(金)

しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。

ローマ4:5

 

人間が救われるということは、神に義と認められることです。それは、人間の常識ではとても理解できないことです。ですから、人間は勝手に考えて、律法を守ろうと頑張るのです。そうすれば義と認められると思うからです。しかし、罪人といういう意味は、律法をどんなに頑張ってみても一つも守ることができない人、という意味です。ですから、初めから律法を守ることができないのです。そうであれば、律法によっては誰も救われないことになります。では、どうやれば救われるかといえば、今日の聖句の通りにするのです。つまり、律法を守ることのできない者、不信心な者を義とされる方を信じることによって救われるのです。つまり、私たち不信心な者を主イエス・キリストが義としてくださるのです。そのことを信じて、主イエス・キリストを信じているのです。それだけで、主は私たちを義としてくださいました。パウロの言う通り、「働きがなくても」です。しかし、これなら、誰でも救われます。難しいことはないからです。最も、信じるかどうかはその人しだいですが。私は、それだけに信じることを大事にしてます。日毎に主を信じる信仰が強められるように願います。 

 

7月8日(土)

主こそ万軍の神

その御名は主と唱えられる。

神のもとに立ち帰れ。

愛と正義を保ち

常にあなたの神を待ち望め。

ホセア12:6、7

 

私たちの主は、万軍の神なのです。この名を聞けば、勇気が湧いてきます。この世でクリスチャンとして生きるのは大変なことですが、たとえ試練の中にあっても、私の主は万軍の神なのだ、と唱えれば乗り越えられるのです。悪魔の攻撃にさいなまれても、私たちには万軍の神がいてくださる。必ず助けに駆けつけてくださるのです。ですから、私たちに恐れるものはありません。私たちは、時に頑固になって、自分の生きたい通りに生きて、神に逆らうのです。あるいは、この世の人と比べてつまらないと思い、この世に憧れるかもしれません。それは、神を失望させ、神よりも他のものを偶像としているのです。パウロのようにはなれなくても、神のもとに立ち帰れば、自分が何者であるかわかる。神を愛し、慕っているから。クリスチャンとして愛と正義を保ち、正常な信仰を現そう。私たちの主は万軍の神だから。時が良くても悪くても常にあなたの神を待ち望め。あなたの心を主に向けよ。主はあなたのもとへ来る。

 

7月9日(日)

神の道は完全

主の仰せは火で練り清められている。

すべて御もとに身を寄せる人に

主は盾となってくださる。

主のほかに神はない。

神のほかに我らの岩はない。

詩篇18:31、32

 

クリスチャンは、詩篇を心の歌として覚えるとよい。そして、その御言葉を直接自分に語られたように受け取って、味わうべきだ。私たちは、今や神の道を歩んでいる。完全な道なのに、踏み外さない限り心配することは何もない。私たちは無駄な言葉を語るが、主の仰せは完全であるばかりか、火で練り清められている。そんな言葉を聞いたことがあるだろうか。人間の言葉はどんなに優れていても、空しく消えていくものだ。しかし、主の御言葉はそうではない。この世界を御言葉だけで創造したことを忘れてはいけない。それほどの驚くべき力を持っているのだ。私たちは幸いなことに、主の御もとに身を寄せる者となった。どんなに強い敵が現れても、主は私たちの盾となってくださるので、無惨に負けるようなことはない。あるのは、主による勝利のみ。私たちは確信している。主のほかに神はない、と。神のほかに我らの岩はない、と。だから、安心して困難にも立ち向かおう。私たちは、主の助けをいつでも受けることができる祝福された者なのだ。

 

 7月10日(月)

あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気が癒やされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。

使徒4:29~31

 

キリスト教はよく迫害されてきました。私たちの国も世界最大の迫害をしましたし、それは昭和になっても、太平洋戦争の時に厳しい迫害がありました。獄中で死んだ方もいました。私がインターン2年目の教会に戦時中に囚われ、獄中で亡くなった牧師さんの奥様がおりました。遠くの刑務所にいる夫に差し入れるため、苦労して面会に行った時のお話を聞かせてくださいました。どんなに辛い目に遭ったか、それなのに主イエスを信じ続けているのです。願わくば、迫害されませんように、と祈るのですが、聖書を読めば、初代教会の信者さんたちが、なんと祈ったのかを知ることができます。「大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」。「イエスの御名によって、癒しとしるしと不思議な業が行われるように」と祈っていたのです。この祈りはすぐにかなえられました。彼らのいた場所が揺れ動いて、皆、聖霊に満たされたのです。そして、大胆に神の言葉を語りだした、と言うのです。祈りは聞かれます。そして、聖霊が降ってきます。聖霊に満たしていただいた人は大胆に語ることができました。今日、最も欠けているものがここに見出すことができます。私も祈り終わると、「集まっていた場所が揺れ動いた」という経験を何度もしました。聖霊のお働きだと確信しています。どこの教会も、全ての聖徒たちが、聖霊に満たされる経験を与えられますようにと願います。リバイバルは、その聖霊降下が雨のように実現したものです。不信仰の時代に、負けないように、御言葉から確信を得たいものです。奇跡を見たいですね。

 

7月11日(火)

わが子よ、蜜を食べてみよ、それは美味だ。

滴る蜜は口に甘い。

そのように、魂にとって知恵は美味だと知れ。

それを見出すなら、確かに未来はある。

あなたの希望が断たれることはない。

箴言23:13、14

 

知恵、あるいは知識と知恵と言った方が正しいと思うが、聖書は一貫して知識と知恵の重要さを繰り返し強調している。そうであれば、私たちはわかったような気になるだけで、通り過ぎてしまうようなことはできない。信仰者にとって重要なことなのだが、わかるようで奥が深い。たとえば、今日の聖句の前には、「苦難の襲うとき気力を失い、力を出し惜しみ、死に捕えられた人を救い出さず、『できなかったのだ』などと言っても、心を調べる方は見抜いておられる。」(11、12)と書かれている。このどこに知恵があるというのだろう。私たちの人生で、大変な時はやって来る。そんな時に限って、問題が降りかかって来るのだ。自分の問題で手いっぱいになり、すっかり気力が失われてしまう。すると、同僚や友人に助けを必要とする人がいることに気づく。何もなく、元気な時なら、きっと助けただろうと思う。しかし、今は大変な時で自分には助ける力などない、と見て見ぬふりをしてしまう。魂をご覧になる主は、あなたのことを知る。最善の言い訳は「できなかったのだ」と言うことだ。だが違う、しなかったのだ。では、どうすべきだったのだろうか。正解を導き出すものを知識と知恵と言っている。「魂を見守る方はご存じだ。人の行いに応じて報いを返される」(12)。知恵は主を知ることだ。それは、主を信じる生き方を学ぶことだ。この世の常識に縛られない、つまり、主の御言葉を優先し服従することだ。それは、主の支配を受け入れることなのだ。「魂にとって知恵は美味だと知れ」。蜂蜜を食べた時のように、知恵は美味なのだ。あなたは知恵を見出すだろう。それは、未来があり、あなたの希望が断たれないことを意味している。さあ、祈って考えてみよう。

 

7月12日(水)

それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、むしろ愛に訴えてお願いします。年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。

フィレモン8~10

 

新約聖書の中になぜこの手紙が入っているのか、不思議に思う人は大昔からいました。パウロが書いた手紙ですが、個人宛の手紙なのです。そして非常に短い手紙です。相手の名前はフィレモンです。新約聖書中にこの名はここにしか出てきません。彼はおそらく裕福な人で、家の教会を自宅を開放して行っていたようです。そして、問題は彼の奴隷であるオネシモのことです。オネシモは主人の家から逃亡した奴隷だったようです。大都市のキリスト教会には、奴隷も大勢いました。オネシモもそのような奴隷の一人だったのです。彼がどうやってパウロと知り合いになったのかはわかりません。オネシモはコロサイ4:9によればコロサイ集会に属していました。フィレモン2節に名の出てくるアルキポはコロサイ集会である役職に就いていました(コロサイ4:17)。そして、パウロと一緒に獄中にあってフィレモンに挨拶を送っているエパフラス(フィレ23)はおそらくコロサイ集会の創始者であったと思われています。こうして調べていくと、フィレモンがコロサイに住む人であることは間違いなさそうです。さて、この手紙は、奴隷が物とみなされていた時代の手紙です。パウロの愛がこの手紙を書かせています。当時のクリスチャンにとって奴隷をどうやって扱えばいいのかは大問題でした。そこで、この手紙が一つの原則のように理解されていったのだろうと思われます。奴隷はイエス・キリストによって解放されたのでもはや自由にされたのです。ただ、奴隷を続けるようにということです。一方、自由人はクリスチャンになることによってイエス・キリストの奴隷となったのです。これが原則ですね。人間の生まれ持った境遇は自分で選ぶことができません。そのため苦しみや辛さを強いられるのも避けることができません。しかし、そんな人間の叫びを聞いて、天から救いに来てくださったのがイエス・キリストです。ですから、イエスを信じて救われた人は、自分の運命の重荷から解放され、自由になったのです。ただ、それでも現状から逃れることはできません。その中で、主によって自由にされた者としてどう生きるかを天の神はご覧になっています。神の子になるのか、それとも奴隷根性が抜けない愚かな者として生きるのか、その人にとっての課題です。それにしても、オネシモはどうなったのか気になりますね。天国で見つけて話を聞きたい人の一人です。

 

7月13日(木)

あなたは主を畏れることを悟り

神を知ることに到達するであろう。

知恵を授けるのは主。

主の口は知識と叡智を与える。

箴言2:5、6

 

求道者という言い方があります。これは、宗教に救いを求めて者のことです。それが、敬虔に情熱を持って神へ近づく道を求めているのなら、やがて神と出会うでしょう。また、クリスチャンになってからも、完全な者、聖なる者となろうとして敬虔な信仰生活を送るなら、それすらも求道者と言う場合があるのです。箴言によれば、そのために必要なものは、知恵であると教えています。そして、知恵と敬虔は別のものではないのです。さらに、知恵を求めて行けば、宗教の真髄に至るのです。つまり、主を畏れるという事を悟るのです。それは、神を知ることに到達するという事です。神を畏れること、神についての真の知識を得ること、つまり、宗教の真髄に至るという事です。どんなに頭が良くても、また真理を探究して考え抜いたとしても、ここにいうところの知恵に到達することはできません。なぜなら、知恵は神のギフト、贈りものなのです。信心は報いがあるのです。どんな人でも、敬虔に主を信じて神に近づこうとするのなら、神は近づいてくださり、直接に知識と叡智を与えてくださるのです。偉い神学者や律法学者にならなくても、敬虔な信仰を持つならば、誰でもこの恩寵にあずかることができるのです。知恵を求めよと繰り返し聖書が教えていても、不思議なくらい知恵を求め尽くす人は少ないのです。悩んでようやく主を求めて祈る人は、実は知恵を求めるように導かれているのです。そもそも、知恵を得ていたら、悩むことはなかったのです。悩むことの多い人は、知恵を求めることに集中してみることも大切なのです。

 

7月14日(金)

何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。

コロサイ3:23、24

 

クリスチャンの特筆すべき美点は、「何をするにも、主に対してするように、心から行」うことです。このことを貫くのはそれはほど簡単ではありません。世の中にはおかしな人もいますし、相性の悪い人もいます。そして、いつ誰と出会うかなどわからないのです。それでも、聖書に書かれているこの教えは二千年クリスチャンたちに守られてきました。もし世の中が、全員、このようであればどれほど素晴らしいことになっているでしょうか。当然、オレオレ詐欺のようなひどいこともなくなるでしょう。ただ、ハードルがかなり高いので、その人の決心がいります。そこで、なぜそうするかという理由が書かれています。それは、「あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受ける」からだと言うのです。信仰はここまで求められるのですね。私たちクリスチャンの正常な認識は、「主キリストに仕えている」ということです。今日も、どこかで気づかずにキリストと出会うかもしれないという考え方をしていれば、どの人がそうかわからないので、どの人も主キリストであると認めて、キリストに仕えるように接するようになるのです。気づけばあなたは正直で親切な人となっているのです。この世の報いを求めずに、御国を受け継ぐという報いを主から受けると信じている人になっています。

 

7月15日(土)

彼らは更に言った。「主はモーセを通してのみ語られるというのか。我々を通してもかたられるのではないか。」主はこれを聞かれた。モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。・・・主はこう言われた。「聞け、わたしの言葉を。あなたたちの間に預言者がいれば、主なるわたしは幻によって自らを示し、夢によって彼に語る。わたしの僕モーセはそうではない。彼はわたしの家の者全てに信頼されている。口から口へ、わたしは彼と語り合う、あらわに、謎によらずに。主の姿を彼は仰ぎ見る。あなたたちは何故、畏れもせず、わたしの僕モーセを非難するのか。」

民数記12:2、3、6~8

 

モーセには姉のミリアムと兄のアロンがいました。姉と兄はモーセがクシュの女性を妻にしたことで非難しました。そして、モーセが特別な人で神はモーセを通して語っていたのですが、ミリアムもアロンも弟のモーセに言ってはいけないことを言ってしまいました。兄弟姉妹が何人かいれば、どうしても年長の兄や姉は弟たちに親のように厳しく語るものです。しかし、ミリアムとアロンは、神様を忘れていました。弟への嫉妬と高慢が結局彼らに災いをもたらすことになったのです。出エジプトのご計画は神様がおたてになった救済計画です。そして、神様はモーセを選んだのです。アロンでもミリアムでもありませんでした。その選びの基準が「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった」とありますから、「謙遜」が選ばれた理由として大きかったのです。私たちもイスラエルの民のように、この世から贖われて、天国へ入るための荒野の旅を続けています。ですから、モーセの経験から学ぶことがあるのです。今日は、神様が喜んで目をとめる人は、「謙遜な人」であることを覚えましょう。人と比べたり、嫉妬したりするうちは、まだまだ未熟ということです。謙遜な人を非難するのは簡単ですが、神様が赦さないので恐ろしいのです。ミリアムは、神様の怒りをかって、重い皮膚病になりました。ミリアムは、七日間宿営の外に隔離されました。信仰生活を通して、私たちもモーセにならう者になれるように、謙遜を心がけましょう。

 

7月16日(日)

どのような武器があなたに対して作られても

何一つ役に立つことはない。

裁きの座であなたに対立する全ての舌を

あなたは罪に定めることができる。

これが主の僕らの嗣業

わたしの与える恵みの業だ、と主は言われる。

イザヤ54:17

 

人生は戦いです。生まれ出てから競争が始まり、いち早くそのことに気がついた者が先行して、序列が出来てきます。この競争には社会ルールがあって、その枠の中で競争しているのです。ところが、全く新しい考えを持ってこの競争に割り込んでくる者がいると、今までのルールも通用しないし、枠も壊されてしまいます。そこで、そのような新しい考えの者を許さずに、排除しようとするのです。このような世界にイエスも生まれ、まさにユダヤのルールを壊されましと、イエスを排除しました。しかし、それこそが決定的な出来事になり、古い世を壊し、新しい世を始めさせたのです。私たちは、クリスチャンなので、イエス・キリストに従順に仕える者です。そして、イエスの教えに従って生きる者なのです。それは、一見敵を作り不利なことのように見えますが、現実にはその逆で、クリスチャン故に、神様の絶対的な守りがあり、あなたを攻撃してくるどのような策略も無効にしてみせます。あなたを訴える者は、何を語ろうが裁きの座で罪に定められます。このような力は主のなされる業です。ですから、信仰によって強められ、職場でも学校でもどこにおいても、堂々と主を信じて生きることができます。敵がどんなに悪意を持って巧妙に陥れようとしても、無駄です。逆に災いはその悪意ある者に向かうのです。これほどの神様のお守りが保証されていることを覚えていてください。

 

7月17日(月)

モーセは彼に言った。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」

民数記11:29

 

主がモーセの授けられている霊の一部をとって、七十人の長老に授けられた。彼らは少しの間預言状態になったが、長くは続かなかった。さらに、宿営に残っていた二人にも霊が降り、預言状態になった。その知らせを受けたモーセの従者ヌンの子ヨシュアは、モーセにやめさせるようにと進言した。その時に、モーセが語った言葉が今日の聖句である。モーセはイスラエルの歴史上際立って偉大な預言者であった。そのモーセが主の民全員が預言者になればよいと切望していると言うのだ。これは驚くべきことだが、神の人モーセがいかに謙遜な人物であったかを物語っている。私たちが見習うのはモーセのような謙遜な人になることであって、欲の無い無欲な人でいることだ。私心があれば神に近づくこともかなわない。モーセに神が近づいて来られたのは、彼が心の内に罪を犯す心配がなかったからだ。私たちは、とても人間的で、好き嫌いがあり、誰でも愛することが苦手なのだ。これでは、モーセの足元にも及ばない。モーセはイスラエルの民の批判や文句にも忍耐し、霊的に自分が優れていることをひけらかすようなことはなかった。出エジプトのリーダーに召されたのだから、だれよりも聖霊を受けて、神と話せた。だが、その聖霊を長老たちへ主が分け与えても文句を言うどころか喜んでいたのだ。私たちも聖霊を豊かに注いでいただきたいと思う。だが、それは主の御心を実現するための力である。だから、主へ謙遜に仕える者に送られてくるわけだ。私たちは、人より優れた者になる必要はない。どんなに小さな器であったとしても、主は愛してくださり、ちゃんと見ていてくださるからだ。私たちは、自分を高めるのではなく、謙遜になることに価値がある。

 

7月18日(火)

祝福されよ、主に信頼する人は。

主がその人のよりどころとなられる。

エレミヤ17:7

 

本屋で「アメリカの教会」橋爪大三郎著、光文社新書、を見つけました。まえがきには、「『福音派』という保守的な宗教右派の人々が、アメリカに大勢いて、トランプ大統領を当選させたのだという。『福音派』ってなんだろう。日本にはそんなものは存在しない。想像しようにも、考える手がかりがない。」(p3)と、書き始めています。そして、日本人がキリスト教をよく知らないから、日本にとって最も重要なアメリカの大統領のことすらわからないのだ、というわけです。そこで調べようにも、アメリカのキリスト教のことを教える本が日本にはほとんどないというのです。ならば自分で調べて本を出そうというのがこの本を書いた理由なのです。ちなみに、セブンスデー・アドベンティストのこともホワイト夫人のことも出てきます。アメリカは、自分で教会を選ぶことができるのに、ヨーロッパではそれができない、国ごとに決められていてそれを守っているからです。また、日本に福音派が存在しないというのは間違っていて、数多くの福音派に属する教派、教団、教会が存在します。彼らの特徴は、聖書は神の言葉で誤謬が無い、十全普遍であるという点です。対立するリベラル派あるいはエキュメニカル(教会統合運動)は、聖書に対して批評的研究を認めているので、もはやキリスト教ではないとする福音派の人たちもいるのです。さて、日本にも200ぐらいのキリスト教会・教派・教団が存在しますが、人口に対してわずか1%のクリスチャンしかいないのが現状です。そのために、日本人には全くキリスト教がわからないのです。日本人も多くの悩みを抱えて、すがるものが欲しいはずですが、確かな宗教、神様を知らないのが現実です。今日の聖句の通りに、主に信頼する人は、祝福されるのです。イエス・キリストを信じて、何より良いことは、「主がその人のよりどころになられる」ということです。そうです、いつでも頼りにして良いのです。困ったら、助けてと素直に言える救い主がいるということです。それが、どこれほど心強いことか、この世を恐れずに堂々と生きていけるのです。主を信頼していれば、祝福された人生を歩んでいけるのです。神様を知れば知るほど、ありがたい、ありがたい、と喜びが湧いてくるのです。何があっても主を信頼する者になりましょう。

 

7月19日(水)

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

Ⅰテサロニケ5:16~18

 

聖書一冊暗記できる人はそうすればいいが、暗記は苦手だという人には、今日の聖句を覚えるように勧める。どんなに記憶力が無いという人でも、このみ言葉は覚える価値があるからだ。クリスチャンとして幸せに生きて行きたいと願うなら、なおさらこの聖句に出てきる、三つの命令を覚えるべきだ。①「いつも喜んでいなさい」。この不思議な未言葉は、信仰によってその不思議な力を発揮する。人生はいつでも良いことばかりではない。だから、悲しい日も怒りたい日も辛い日だってある。それなのに、命令は「いつも」だ。だから、決して喜べない時でも、信仰によって喜ぶのだ。驚くべきことに、心の底から喜びが湧いてくる。笑うかもしれない。気分がとても良くなる。これは、クリスチャンにしか通用しない。②「絶えず祈りなさい」。これも無茶な命令だ、「絶えず」と言えば、5分や10分の祈りとは違う。つまり、天とのホットラインを繋ぎっぱなしにしろ、と言っているのだ。もちろん、天と繋ぎっぱなしでもコレクトコールなので、料金は神様持ちだ。神様を絶えず意識することになる。町を歩いていて気の毒な人を見つけたら、すぐに「神様、あの人を助けてください」と祈れるのだ。気がつけば、神様といつも話しているようになる。その効用は大きい。③「どんなことにも感謝しなさい」。これは、一番楽しいことだ。自分の持ち物を一つ一つ感謝するのもよいし、気がつくことを次々に感謝するのだ。マーリン・キャロザース牧師のように、困ったことでも、災いのようなことですら感謝する人もいる。それが大きな意味があるからだ。なるほど、「どんなことにも」と聖書に書いてあった。この三つのことをキリスト・イエスにおいて、神様があなたに望んでおられるというのだ。あなたは、どう思う。命令に従うか、従わないか。今までのことを思い出せば、たぶん、忠実には守っていなかったのではないだろうか。だから、この三つの命令を守ったらどうなるか、知らないのではないだろうか。それなら、ここで、神様があなたに願っているのだから、やってみてはどうだろうか。今までになかった、神様が身近に生きて働かれることを知るだろう。ワクワクするクリスチャンライフを体験してみよう。

 

 7月20日(木)

日数がものを言い

年数が知恵を授けると思っていた。

しかし、人の中には霊があり

悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ。

日を重ねれば賢くなるというのではなく

老人になればふさわしい分別ができるのでもない。

ヨブ32:7~9

 

ヨブ記の中で一人若者が出てくる。それがエリフである。つまり、今日の聖句は若者の言葉なのである。彼が考えた通り、誰もが年数が知恵を授けると思っていた。つまり、順調に年月を重ね、老境に達した頃には誰でも立派な知恵ある人物になれると考えるのは自然なことだが、実際にはそうはならない。努力して勉強してきた人はそれ相応の知識は得られるだろう。だが、それで人格者になれるわけではない。年長者の経験は確かに敬意を表する価値がある。だが、「老人になればふさわしい分別ができるのでもない」とエリフが言えば、反論できなくなる。安売りのスーパーに行くと老人がたくさんいる。なるほど、経験がものをいっていると感心するが、その老人たちのマナーが悪かったりするとちょっとがっかりする。同じとろこをグルグル回っている老人を見ると、経験も怪しくなってくる。と言う私もその老人を見ているのだからよっぽど暇人か、同じようにグルグル回っている同類の老人なのだろう。それに、スーパーは左から右に回って買い物の流れが出来ているのに、逆走してくる老人のカートが危険だ。特に男性はどこにそんなエネルギーを溜め込んでいたのかと驚くほど無駄に勢いよくカートを暴走させる傾向がみられる。さっきまで徘徊老人かと思っていた人が急に正気に戻ったのか、何かのスイッチが入ったかのように器用にカートを急転回させ爆走して行くのだ。女性の場合は、後ろからカートをぶつけてくる。こちらの気をひいているわけではなさそうなのは、そちらを見ても知らん顔しているからだ。どういうわけか、「すいません」と言われたことがない。「いつまでボーッと立っているの」と怒っているのだろうか。小心者の私は、何も言えずにその場から消えて行くのだ。そして、「日を重ねれば賢くなるというのではなく」と口ずさみ、一人納得している。そうだ、あの女性たちは、カートを押すときに商品の方を見ていて、決して前を見ていない。それなのに、絶妙の加減で決して前の人にぶつからないのだ。「超能力か?では、なぜ、ぶつけてくるのか?もしかすると、私が信仰によって古い人が死に、新しい霊の人になっているので、気がつかないのか?」などと呑気なことをつぶやいていると、どこかかから声が聞こえてくる、「老人になればふさわしい分別ができるのでもない」。げっ! 結局、私が聖書研究や説教が出来ているのは、「悟りを与えるのは全能者の息吹」である聖霊が働いていてくださるからなのだ。そうでなければ、これほどアホなわけがない。ヨブ記を読むとどうしてか、このような結果になるのだから、やはりすごい書なのだろう。皆さんは、聖霊によって御霊の実である品性を求めてください。この品性こそが私たちの目指すものなのです。天国に入れるのはこの品性を身につけた人たちです。最近はスーパーぐらいしか行かないので、譬え話も安っぽかったですね。失礼しました。尚、ここに出てきた人たちはクリスチャンではありません。クリスチャンは老人になると成熟してきますから、皆さん素敵です。

 

7月21日(金)

あなたが食欲おうせいな人間なら

自分の喉にナイフを突きつけたも同じだ。

箴言23:2

 

世の中はどうもうまく行かない。太りたいのに痩せている人がいるのに、痩せたいのに太っている人がいる。自分の体重一つも自由に変えられないのだから不思議だ。ところがスポーツ選手は、体重別の階級があるために、減量を強いられている。うまく行かなければ、試合も出来ずに負けてしまうことになるので深刻だ。神の掟や戒めを守ろうとするのに守れない、とはパウロの意見だが、律法学者やファイサイ派の人たちの考えは違っている。彼れらは絶対遵守しなければならないと自らも頑張るのだが、結局正しく守ることができないのだ。私は青年の頃から土曜日は安息日で休みの日と神様が定めたから、仕事はせずに礼拝のために教会に行っていた。それで、安息日を守っていると思っていたのだ。それだけではなく、最近、私が青年の頃に流行っていた歌がテレビ番組で流されたのだが、何も知らなかったので驚いた。つまり、流行っていた音楽も世俗の音楽だからと聴いていなかったのだ。このように禁欲的であると人間はうまく行かなかくなるものなのだ。そのぐらいパウロに言われなくてもわかる。人間には欲があるので正しいことを知っていても欲に背くことができないので誤魔化してしまう。それは罪となるが、神様は罪の贖いとしてキリストを送ってこられたのだ。だから、行いによる義は認められず、信仰による義が認められるのだ。そうそう、パウロだって実際には安息日に礼拝を守っていたのだ。パウロは菜食だったようだが、それは、弱い人がパウロが肉を食べているのを見てつまずかないようにと配慮してのことだった。人間は同じように見えても、自分の力で生きようとしている人とキリストに頼って生きている人に別れる。キリストは罪人の救い主だから、キリストに頼っている人は救われる。しかし、自分の力に頼る人は律法学者のようにキリストを裁いてしまう。欲がある限り罪を犯さずにはすまないのだから、律法を守っていると言うのは単なる合理化で誤魔化しているに過ぎない。だから、キリストにみやぶられてしまうことになる。聖霊に支配されている人は欲の宿る肉に死んでいる人です。信じてゆだねる人は聖霊に支配していただけるので、とても良い状態に入れるのだ。

 

7月22日(土)

神に従う者の行く道は平らです。

あなたは神に従う者の道をまっすぐにされる。

主よ、あなたの裁きによって定められた道を歩み

わたしたちはあなたを待ち望みます。

あなたの御名を呼び、たたえることは

わたしたちの魂の願いです。

わたしの魂は夜あなたを探し

わたしの中で霊はあなたを捜し求めます。

あなたの裁きが地に行なわれるとき

世界に住む人々は正しさを学ぶでしょう。

イザヤ26:7~9

 

現代に信仰を持って生きることは、人間にとって容易くはありません。いわゆるこの世の常識に行手を阻まれることがあるからです。説教者は、奇跡物語をどう語れば良いのか悩みます。文字通りに話せばいいのにと思われるでしょうが、そのような話は認められないと言う人が教会にまで入ってくる時代なのです。その結果、イエス様の力も魅力も薄れてしまいます。牧師が、「キリストのために生きよ」「すべてを捨ててキリストに従え」と声を大きくして言っても、頭上を通り過ぎて行くだけで何も起こらないかもしれません。聖書に対する悪魔の攻撃は、文字通りには信じるなと見えない脅迫に見えます。牧師をしていて不思議に思うことは、イエス様をすぐに信じて洗礼を受け、その後も信仰を持ち続ける人がいることです。おかしな言い方ですが、何年も関わってきて、結局信仰を持てない人もいるのです。個人的に神様と関わりを持ち、浮き沈みがあっても、決して神様から離れない人もいます。何が人を分けているのかはよくわかりません。しかし、性格も生まれ育ちも、仕事も何もかも違っていても、信仰を持ち続けることは共通しているのです。本来なら、キリストを信じるとは、聖書を文字通りに信じることでもあるのです。なぜなら、キリストにもお弟子さんたちにも直接会うことができません。ですから、聖書を何度も読んで、正確に神様が何を伝えようとしておられるのか知りたいのです。イエス様の弟子になるにはどうすればいいのか、本当のことを知りたいのです。キリスト教が誕生してから二千年ほど経ちました。その時間の長さのために、初めの教えがなんであったのか分からなく感じるのは、無数に増え続ける教派・教団による教えの違い、聖書学者たちの関心は学問であって、イエスの教えそのものではないのではないか、と言いたくなる現実があります。それでも、聖書は変わることなくイエスこそが生死を司る力ある神の独り子であることを証言し続けているのです。聖書に書かれた初代教会も、「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。」(Ⅰテサロニケ1:5)とあるように、神の不思議な働きによったのです。この世の人々に笑われても、私たちはキリストを信じ、キリストの奇跡もすべて信じます。そのキリストの私たちを救おうとされる愛にふれ、私たちは、この方にすべてを賭けようと決めたのです。その報いは非常に大きいのです。

 

7月23日(日)

主はこう言われる。

「さまざまな道に立って、眺めよ。

昔からの道に問いかけてみよ

どれが、幸いに至る道か、と。

その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」

エレミヤ6:16

 

多くの賢者が口を揃えて言うことには「歴史に学べ」というのです。ところが、人間は歴史に学ぶことをしないのです。聖書でも、今日の聖句の続きは、「しかし、彼らは言った。『そこを歩むことをしない』と。」と続いています。神様は人間に幸福な人生を生きるには歴史に学べ、と教えていますが、それを言われた人間は、従わないのです。その結果、同じような過ちを繰り返したわけです。愚かとしか言いようがありません。戦国の英雄、織田信長は、ヨーロッパから来た商人や宣教師に世界情勢を聞いて、日本も植民地にされることを懸念し、対抗することのできる統一国家を考えていたようです。それは、戦国時代を終わらせ、律令制に戻すことを考えていたようですが、そもそも律令制という肝心の理想を壊してしまったのが武士だったという皮肉がありました。私たちも、今のような世界を見ていると、世界がただ一つの正しさを認めているのではないことに気づかされます。それでも、世界が皆幸福である道があるに違いないと、調べてみても、そして、考えてみても、結局、罪の問題があるのでうまくいかないという結論になるのです。そうであれば、福音を全ての人に伝えることが何よりも大切なことだとわかってきます。安心して幸福に暮らせる道、それは、イエス・キリストを信じて従う、信仰の道なのです。これは、誰でもできることです。自分を十字架にかけて殺すことを知っていて、人となられたイエスは、罪人に十字架で殺されましたが、その死が罪人を救い、罪の贖いとなられたのです。これをなんと説明すれば良いのでしょう。神は愛なり、と驚嘆するしかないのです。キリストを信じて生きるのか、それとも拒んで自分勝手に生きるのか、人間はどちらかを選ばなければならないのです。イエス・キリストが来られたということは、そういうことだったのです。

 

7月24日(月)

人よ、何が善であり

主が何をお前に求めておられるかは

お前に告げられている。

正義を行い、慈しみを愛し

へりくだって神と共に歩むこと、これである。

ミカ6:8

 

私たちがクリスチャンとして生きていく時にも、今日の御言葉には意味があります。世界が、混沌として、考え方や価値観が多様化し、新しい技術が急激に世界を変えようとしています。若者でも疲れる世界になってしまいました。今、若者に売れている物で驚いたのは、扇風機です。それは、昭和の人には普通の古い形の昔の扇風機が可愛いと人気だそうです。私たちは、主の求めておられる事を知っていると聖書は語ります。私たちに告げられているというのです。それは、難しいことではありません。時代によって変わるものでもありません。「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと」。これだけです。何が善であるか簡単に答えられなくなってしまったこの世界にあって、どこに住んでいようが、クリスチャンは、主の求めておられる通りに生きて行くのです。これだけでいいのですが、実行するには信仰が必要です。それに、聖霊の助けも必要です。たとえ流行りの讃美歌を歌えなくても、現代流の礼拝ができなくても、それどころか、一人ぼっちで信仰を守っていても、結局は、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと」ができるかどうかです。頼れるのは、主イエス・キリストだけです。そして、主は、あなたを最後まで助け、守ります。万軍の天使すら必要なら助けに駆けつけます。だから、勇気を持って生きて行こうと思います。

 

7月25日(火)

こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。

エフェソ4:12、13

 

人間の可能性はまるで無限です。寿命一つ取っても、今や百歳時代になってきました。クリスチャンの場合は、目指すのは「成熟した人間になり」と聖書に書いてあるとおりです。もちろん、ただ生きていれば成熟するというわけではありません。現代では、「使徒」や「預言者」は見ることがないかもしれませんが、「福音宣教者」や「牧者」に「教師」は今日でも身近に会うことができます。彼らは、クリスチャンが成長するのを助ける奉仕者です。皆様は、キリストのお体となって行くのです。パウロの言う通り、「神の子に対する信仰と知識において一つのものと」なります。ですから、聖書はよく読む必要があります。わからない所は、牧師に聞いてみると良いですね。その前に、神様に祈って教えていただくことも大切です。知識が増せば楽しいものです。肝心なことは、主イエス・キリストを知るという事です。「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」(7節)と書かれていますから、皆様は天からの恵みが与えられているのです。それに気がつけば良いのですが、人生の目的が世俗に向くと気がつきません。でも、今日の聖句に記された通り信じることができれば、成熟した人間になることを意識するはずです。それは、この世の何にも比べることのできないものなので、聖書は、「キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」と教えています。クリスチャンは素晴らしい生き方です。目に見えるものに惑わされずに、霊的成長を期待して信仰によって日々暮らして行きましょう。

 

7月26日(水)

「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。

Ⅰテモテ1:15

ユダヤ教では、犠牲を献げることで罪を贖うことができると考えていましたが、それは、どんな罪でも贖われるという意味ではなかったのです。例えば、故意に罪を犯す場合、でしゃばりの罪、高慢の罪などは贖うことができないのです。人は弱いので一時の出来心から罪を犯すことがあります。そのような罪を贖うことができるのです。悪意を持って計画的に犯す罪は贖えません。傲慢の罪も同様に贖えないのです。さらに、犠牲を献げるときに、その人が心から悔い改めていなければ、どのような罪でも贖うことができません。だから、彼らは、律法を学ぶ必要がありました。それは、無知で犯した罪も贖えないからです。このように犠牲によって罪を贖うことは、私たちがなんとなく考えていることとは違っています。つまり、どんな罪でも犠牲で贖えると勘違いしていたのです。ましてや人の内面まで問われるとなれば、根深い罪の汚れや重い罪の罰に恐れが湧いてきます。決して犠牲を献げることでは解決しない深い罪の問題があることに気がつきます。そして、罪の赦しは、全ての人に必要なのです。儀式では到底解決できない罪の問題を解決して、救ってくださる方がいなければ、誰も救われないのです。しかし、今日の御言葉を読むと、「キリスト。イエスは、罪人を救うために世に来られた」と書いてあるのです。そして、「という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」とあるので、安心してキリストを信じて、悔い改め、義としていただくのです。この真実を私たちは体験しました。そして、長い年月が過ぎても、この御言葉は本当だったと言えます。犠牲制度で救いを得ようとしても、あまりに罪深い者は救えないのですから、パウロが「わたしは、その罪人の中で最たる者です」と告白しているのは、どんなに酷い重い罪を犯しても、キリストに救えない者はいないということです。なぜなら、彼はキリストの迫害者になり、神の敵になった人だったからです。それでも、主の憐れみによって救われたことを私たちは知っています。そして、自分も同じように罪人の頭だと思えるのです。それなのに、主は私を探しに来られて、憐れみにより救ってくださいました。ここに愛があります。この主の愛に報いて、人生をかけてキリストにお仕えしたいと思うのです。

 

 7月27日(木)

イスラエルの人々が主に助けを求めて叫んだので、主は彼らのために一人の救助者を立てられた。これがベニヤミン族のゲラの子、左利きのエフドである。

士師記3:15

 

士師記によると、「イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行ったので」、「主はモアブの王エグロンを強くすることでイスラエルを脅かされた、」(3:12)。つまり、聖書を読むと主に従順であれば驚くほどの恵みがあり、反対に主に逆らい主の目に悪を成せば罰があるのです。どんなものにも良い面と悪い面があるので、この場合も悪い面は、モアブの王がイスラエルを脅かすことで危機が生じました。一方、良い面は、イスラエルの人々の悔い改めの機会が与えられ、信仰のリバイバルを期待できたことです。人間は困らなければ、神様を頼らないということですね。さて、今日の聖句は、敵の脅威からの救いを叫んだ声が主に届くと一人の救助者を立てられたという説明です。面白いのは、その救助者は、「左利き」だったということが書いてあることです。昔の流行歌にも「左利き」と歌っていたように思いますが、わざわざ左利きと言うのは珍しいからですね。さて、聖書の物語の面白さは、左利きのエフドはベニヤミン族で、その部族名は「右の民」を意味するのです。聖書地図を広げると、関係の深いエフライムの右にベニヤミンが位置しているのです。そのことがあって「右の民」と呼ばれた可能性があります。昔の人は、朝日ののぼる東方(オリエント)を向くことで方角を定める(オリエンテーション)から、南は右手になるわけです。こうした神様のシャレはイスラエル人にはすぐにピンときたのです。そもそも、左利きのエフドが救助者になるなど最もふさわしくないと感じさせるのでした。しかし、私たちは、神様がおよそ人間の常識に反した、ありそうもない人をおたてになるのを知っています。人は人間の外側を見るが神は人間の内面を見るからだ、という理由でしょう。まあ、神様がユーモアがあることがなんとなく嬉しくなります。そういえば、牧師たちは、実にユニークな人たちばかりで、まともな会社の採用面接に行けば、すぐに落ちてしまいそうな人が多いような気がします。そう考えると、人と違うから、とか言って落ち込んだり、自信を失ったりすることが馬鹿馬鹿しくなります。日本人でも本当は、皆ユニークで神様好みなはずです。人からの評価ではなく、神様からの評価を期待しましょう。神様はあなたを高く買っているはずですから。

 

7月28日(金)

あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命のです。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。

ローマ6:22、23

 

私たちは自分が罪人であることを知らされました。自分の力で罪人であることを知ることはできませんでした。しかし、イエス様の救いは福音として現れ、自分の罪が示されました。自分は良いことができると思っていたのですが、肉の中に罪が宿っていて、罪を生み出すのです。それでも、自分の顔が見えないように、自分では罪が認められませんでした。そのまま、罪を犯し続けていたら、「罪の支払う報酬は死です」。とても恐ろしいことです。しかし、私たちはイエス様を信じることができました。それも、イエス様から信仰を分け与えられてのことです。罪の解決は、罪を贖うことです。それは、犠牲が伴います。その犠牲は罪のないもの、動物以上に価値の高いもの、そして、全ての地とを救い得る尊い犠牲でなければなりません。その基準に当てはまるのは、神の独り子であるイエス様だけです。しかし、聖なるイエス様が罪人を救う義務はありません。それなのに、イエス様は犠牲を厭わずに、私たちのもとへと降ってこられたのです。私たちは、今ではクリスチャンになり、罪から解放されています。イエス様がご自分の命を私たちを贖う代価として支払われたので、罪が完全に赦されました。私たちがしたことは、悔い改めて主を信じただけです。それでも救われたのはイエス様の死の力です。主の血の代価で罪の奴隷だった私たちは買い取られたのです。ですから、今は主のものなのです。それは、神の奴隷という意味です。ですから、私たちは神にお仕えして、聖なる生活の実を結んでいるのです。この恵みの行き着く先は、永遠の命です。この奇跡を可能にしたのは、神のお与えになった賜物です。それは、「わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」。この恵みをよく考えてみましょう。それでも、この世のことで心を煩わされているとしたら、それはおかしなことなのです。主のお恵みの価値を正しく理解しましょう。

 

7月29日(土)

あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。

コロサイ2:11、12

 

聖書を読み出して、慣れてくると「割礼」という言葉が気になります。日本人には馴染みがないからです。それなのに、旧約聖書ではイスラエル人にとって重要なことで、割礼の有無で清い、汚れているを分け、また神はアブラハムとの契約で割礼を契約のしるしとしました。そればかりか、「わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる」(創世記17:13)とまで言われました。それから多くの時間が過ぎて、新約聖書の時代になると、パウロは「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ことです」(Ⅰコリント7:19)と語り、また「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(ガラテヤ5:6)と断言しています。つまり、人間の罪があまりにも深いので、割礼を受けた者が神を裏切って偶像を拝むことがしばしば続き、契約の意味が割礼を受けた者によって破綻してしまったのです。そこで、割礼の本来の霊的意味に注目させ、実際の割礼ではなく、霊的な意味での割礼が何を意味するのかを今日の聖句は教えているのです。これは、人の救いの過程のメカニズムと言えます。ここで、信仰者に一番理解されていないものが最初に出てきます。「つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け」という所です。これは、強烈ですが、洗礼以前の私そのものを捨て去ることを意味しています。言葉だけではなく実際にしなければなりません。しかし、洗礼を受けると全てが終わったように思ってしまう人は少なくありません。確かに、「洗礼によってキリストと共に葬られ」とあるように、古い自分がキリストと共に十字架で死に、その私を葬ることを洗礼式を通して象徴的に実現しているのです。この「古い自分が死ぬ」ことを「肉の体を脱ぎ捨てる」と表現しているのです。ですから、古い自分が未だ出てくるのなら、かなりまずいわけです。たとえ霊的割礼であったとしても、本来の意味を成就することはその後のことにつながります。それは、「キリストと共に復活させられた」とある通りです。救いの仕組みがこのようであるのなら、なんとしても全部成就したいと思うのは正しいことです。ただ、「肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け」とあるのですから、自力でなんとかするというようなものではありません。ここでも、信仰とキリストの助けがあるということです。人生をキリストによって変えることは素晴らしいことです。それに、救われたいという強い願いがあれば、キリストを信じるだけなので、単純に考えて、キリストにすがりましょう。そして、キリストを愛しましょう。

 

7月30日(日)

あなたたちは一人で千人を追い払える。あなたたちの神、主が約束されたとおり御自らあなたたちのために戦ってくださるからである。だから、あなたたちも心を込めて、あなたたちの神、主を愛しなさい。

ヨシュア23:10、11

 

私たちは平和主義者ですが、この世界は善悪の大争闘が続いています。一方に神の軍勢がいて、他方には悪魔の軍勢がいるのです。勝利は神の軍勢に決まっていますが、そこに人間と罪の問題が横たわっています。そこで、とても長い時間をかけて、誰もが納得する方法で、勝敗の決着がつくのです。神の武器は愛です。敵は欺瞞、高慢、腐敗、汚れと悪のかぎりを尽くします。問題は、私たち人間がその悪魔のいるこの世に生きていることです。そのために、クリスチャンも人間関係で問題が起こることがあります。本来、人間関係は楽しい良いものですが、悪魔が関わってくると危険なことにもなり得るのです。幸い、私たちはイエス・キリストに救われ、新生してクリスチャンになりました。新しい私は、国籍が天にあるのです。それでも、地上に止まっているのですから、霊的戦いも避けられません。誘惑にさらされ、この世の価値観に影響されるのです。聖書から学ぶと、カナンに侵入した、イエスラエルは、カナン人を全て追い出すことができませんでした。そこで、「あなたたちのうちに今なお残っているこれらの国民と交わり、その神々の名を唱えたり、誓ったりしてはならない。それらにひれ伏し拝んではならない。」と命じられたのです。つまり、イスラエルの民にとって、先住民のカナン人こそがこの世であり、誘惑となったのです。この命令は残念ですがすぐに破られ、それからバビロン捕囚に遭うまで長々と続き彼らの罪となったのです。この教訓を学ぶために、旧約聖書が残りました。この世で、無敵になることを主が助け、一人で千人を追い払える力を与えられているのです。主は、あなたのために戦ってくださいます。だから、世の誘惑に負けずに、いかなる誘惑をもキリストによって打ち負かして、勝利して行くのです。それは、信仰の力によります。その信仰とは、「心を込めて、あなたの神、主を愛しなさい」という全身全霊を傾けて主を愛することによる信仰なのです。主を愛しなさい。

 

7月31日(月)

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。

わたしの助けはどこから来るのか。

わたしの助けは来る

天地を造られた主のもとから。

どうか、主があなたを助けて

足がよろめかないようにし

まどろむことなく見守ってくださるように。

主はあなたを見守る方

あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。

詩篇121:1~5

 

人間の弱さは助けを必要としています。他人にはわからないが助けが必要になることがあるのです。心が感じることは、誰が助けてくれるのか、ということです。他人に自分の弱みを見せられないと、強がることもあるでしょうが、本当は、助けてくれるのは誰なのかわからないでいるので、不安が募るのです。さて、クリスチャンはどうでしょうか。クリスチャンだって助けは必要です。そして、クリスチャンは知らなければならないのですが、そもそもクリスチャンになれたのは、助け主であるイエス・キリストがおられたからです。そのキリストが、クリスチャンであるあなたを見捨てるようなことは決してありません。いつでも、助けたいと思っておられます。しかし、私たちは何でも自分でやりたいのです。それなので、クリスチャンになってからもまだ自我が砕かれる経験をするのです。キリストのように謙遜に生きることが求められています。ところが、謙遜に生きることは、この世の考えとは逆です。自己主張して他人に負けないようにと、競争社会で生き残る考えです。しかし、神を信じない人たちは、助けが来ないのです。少なくともクリスチャンのような助けが来ることはありません。私たちは、山を仰ぐように天を仰ぎます。そこにおられる主のもとから「わたしの助けは来る」と信じて疑わないからです。そして、私たちは隣人に対して、信仰の言葉を語らなければなりません。確信に満ちた良い言葉です。それが、今日の御言葉です。人生が確かな足取りで歩んでいけるなら、何の不安も心配もありません。いつでも、主が見守ってくださるなら、これ以上の安心はありません。あなたを打つような困難があったとしても、主があなたを覆う陰となり、あなたの正しい側に立っていてくださいます。信仰の報いは大きいのです。安心して今日を生きましょう。