2023年8月ディボーション

8月1日(火)

サウルの娘ミカルは窓からこれを見下ろしていたが、主の御前で跳ね躍るダビデ王を見て、心の内にさげすんだ。

サムエル下6:16

 

男女の愛ほど不思議なものはない。「サウルの娘ミカルはダビデを愛していた。」(サム上18:20)サウルは二人の娘を結婚させると誘ってダビデを戦死させたいと望んだが、ダビデは戦果を上げて長女を危うく憎んでいるダビデに嫁がせるところを別人に嫁がせた。そして、再度次女のミカルを利用してダビデを戦死させようとしたが、誤算だったのはミカルはダビデを愛していたのだ。その後、「サウル王は、主がダビデと共におられること、娘ミカルがダビデを愛していることを思い知らされて、ダビデをいっそう恐れ、生涯ダビデに対して敵意を抱いた。」(同18:28)。その後、サウル王はダビデを捕らえようと兵隊を家に送るが、ミカルが察してダビデを逃した。ダビデは逃亡者となり、サウルは執拗に捕らえて殺そうとした。その結果、「サウルは、ダビデの妻であった自分の娘ミカルを、ガリム出身のライシュの子パルティに与えた。」(同25:44)。それから、サウル王は戦場で悲惨な最期を遂げる。ダビデはユダの王になった。そのため、イスラエルとユダの戦争が始まった。しかし、ダビデは確実に領土を広げ、遂にイスラエルのアブネル将軍がダビデと和議を申し出る。ところが、その申し出にダビデはとんでもない条件を付けた。「ダビデは答えた。『よろしい、契約を結ぼう。ただし、一つのことをわたしは要求する。すなわち、会いに来るときは、サウルの娘ミカルを必ず連れてくるように。さもなければ会いに来るに及ばない。』」(サム下3:13)。戦争を終わらせ、全イスラエルを統一して王となる条件が、ミカルとの復縁だったのだ。ダビデはこの時、六人の妻を得ていた。それなのに、天下統一の王になる重大な局面で、ミカルにこだわったのだった。ダビデは、サウルの後継者であるイシュ・ボシェトにミカルをいただきたいと申し入れた。その結果「イシュ・ボシェトは人をやって、ミカルをその夫、ライシュの子パルティエルから取り上げた。パルティエルは泣きながらミカルを追い、バフリムまで来たが、アブネルに『もう帰れ』と言われて帰って行った。」(下3:15、16)。ミカルはダビデをあきらめるしかなかった。ただ、パルティエルに愛されて幸福に暮らしていた。ところが、父に夫と離縁させられ、今度は元の夫にまた離縁させられたのだった。ミカルの心はどうなっていたのだろう。その結果が、今日の御言葉に書かれている。ダビデにとっては契約の箱が都に運ばれることは、神がダビデを王と認めて王朝を支えていただけることを意味していた。事故があったために、不安が広がったが、万全の準備をして契約の箱を運び入れたのだ。これがダビデが統一王国を築くことの象徴的な出来事だった。その喜びを分かち合いたいダビデは、ミカルの元へ急いだ。しかし、ダビデの心をミカルは理解しようとはしなかった。ダビデへの初めの愛はとうに冷めてしまったのだ。しかし、ダビデは初めの妻への愛を一番と考えていただけにミカルの愛が変わってしまったことに怒ってしまった。この出来事で、「サウルの娘ミカルは、子を持つことのないまま、死の日を迎えた。」(下6:23)。男は、初めの愛を忘れられず、女は、現実を受け入れて今の愛に生きようとするのだろうか。ミカルは、心が傷つき、折角ダビデを忘れ、優しい夫パルティエルを愛していこうと思っていたのに、ダビデが忘れずに自分を迎えによこした時、心の動揺が大きかっただろう。そして、ダビデのもとへと連れ去られる時に、パルティエルは泣きながらあと追って来たのだった。ミカルの気持ちはいかばかりであったことか。男女平等というが、これほど違うものなのに、どうすればいいのか人間はいまだにわからないでいるようだ。

 

8月2日(水)

その日、モーセの書が読み聞かされ、アンモン人とモアブ人は神の会衆に永久に加われないと記されているのが分かった。かつて彼らは、パンと水をもってイスラエル人を迎えず、バラムを雇ってイスラエル人を呪わせようとしたからである。私たちの神は、その呪いを祝福に変えてくださった。人々はこの教えを聞くと、混血の者を皆、イスラエルから切り離した。

ネヘミヤ13:1~3

 

今日の聖書箇所は、新共同訳ではネヘミヤの改革と小見出しがついています。旧約聖書を読まれた方は、イスラエルが何度も何度も神様を裏切り、いけないということをするのを呆れながら読むことになります。しかし、神の人が立てられ、その誤りを正すことになります。宗教改革が起こるわけです。今日のような聖書箇所を読む時に、クリスチャンの方々はネヘミヤが大胆にしかも率直にイスラエルの民を戒め、徹底的に罪をやめさせることを良いこととして捉えるでしょう。しかし、なぜ、国際結婚がこんなにいけないこととして厳しく裁かれるのか疑問を持つ人もいるでしょう。もともとが、出エジプトの出来事に端を発しているのです。出エジプトは、この世で罪と死と悪魔の奴隷となっていた人がキリストの象徴であるモーセによって救済されるお話しです。ところが、エジプトから脱出できたことで終わったわけでなく、約束の地カナンに侵入して住む土地を奪わなければならなかったのです。その時、カナン地方の先住民たちと戦いました。神の力で勝利するのですが、その時に戦わずに友好的にイスラエルの民を迎えなければならないアンモン人やモアブ人はバラムを雇って呪わせようとしたので、永久にイエスラエルの会衆に加えることが禁じられたのです。これらは、クリスチャンの私たちに何を教えているかといえば、カナンつまり私たちにとっては天国への旅路ですが、それを故意に妨害する者を神は赦さないと言っているわけです。例えば、キリスト教徒を迫害する者、キリスト教を敵対視する異教や異教徒、理由の如何を問わずにクリスチャンを攻撃する者、霊的には悪魔、悪霊に対しては、神様は特に厳しい対処をするのです。それだけに、クリスチャン自身がそうしたものと関係を持ってはならないのです。もちろん、宣教師は異教徒伝道をしています。タイでは仏教徒への伝道を積極的に行なっています。そうすると関係を持たないでは伝道できませんから、これらは異教徒と関わっても大丈夫です。問題は、異教徒と結婚することです。相手が偶像を拝む者であれば、避けなければなりません。それは、想像以上に影響を受けるからです。家庭の中で宗教戦争は誰でもしたくないものです。このネヘミヤの宗教改革は、まさにイスラエルの民の中に異教徒との結婚をした人たちがたくさん出てしまったことが問題となったのです。そのために、離縁することになったのですから悲劇ですね。カルト宗教に入信してしまったために離婚になってしまった人たちは、最悪の選択をしたために最愛の家族を失ったのですから不幸なことですね。

 

8月3日(木)

あなたの重荷を主にゆだねよ

主はあなたを支えてくださる。

主は従う者を支え

とこしえに動揺しないように計らってくださる。

詩篇55:23

 

この詩篇はダビデの詩と1節に書いてあります。ダビデは勇敢で強いイメージがあります。しかし、100戦100勝の勇士ダビデでも、敵を恐れ、心を乱れさせていたことがこの詩篇から読み取れます。「胸の中で心はもだえ、わたしは死の恐怖に襲われています。恐れとわななきが湧き起こり、戦慄がわたしを覆い」(5、6節)と素直に心情を吐露しています。しかし、ダビデが強かったのは信仰においてでした。その言葉が、「わたしは神を呼ぶ。主はわたしを救ってくださる」(17)と主を信じていたのです。私たちも、困ったことが起これば同じように不安になり、悪いことばかり考え、精神的にダメージを受けてしまうのです。でも、クリスチャンは祈り、祈りの中で問題を解決しようとします。それは、主への信頼、ダビデと同じように、「主はわたしを救ってくださる」と確信するのです。ですから、私たちは本当に主に助けられます。そして、このような経験から、神への信頼が増し、今日の御言葉へと行き着くのです。「あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる。」と、信仰の秘訣を教えてくれています。「主は従う者を支え」とあるように、主への従順をあなたが身につけることが一番重要なことなのです。主は、そうした主に従順なあなたを支えているだけではなく、「とこしえに動揺しないように計らってくださる」のです。これは、すごいことです。永久にです。人の問題解決で一番重要なことが動揺しないことです。動揺すれば、知能指数も低下してしまいます。冷静なら、なんでもない問題でも、動揺すればパニックに陥り、最悪のシナリオを辿ることになります。この世の人は、どんな時でも動揺しない人を器の大きな人だと褒めます。しかし、クリスチャンは誰でも、主によって動揺しないように計られるのです。これほどの特権はありません。何か問題が起こった時には詩篇55篇を読んで、大丈夫だと自分に言い聞かせましょう。あなたはあなたが思っている以上に主に従順だからです。

 

8月5日(土)

イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれが一番偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せていたからである。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」

マルコ9:33~35

 

人間の習性の面白さとでも言えばいいのでしょうか。何人かが集まると、無意識のうちに自分の順位を見極めることをするのです。学校で新しいクラスに入って行くと、その中で自分は何番目かを正確に知る能力があるのです。そうすると、十二人の弟子たちが誰が一番偉いかと言い合いになったのは、別の問題で誰がリーダーかということをはっきりしたかったのです。ここでは、順位は関係なく自分こそがと名乗り出ることができます。できれば他人に推薦してもらうのが理想ですが、「私が、私が」と皆が自分を推薦するようだと加熱しやすく、なかなか決まらないでしょう。そんなことをイエス様は見破って、その愚かさを放置せずに、クリスチャンの重要な考え方、価値観を教えられました。それが、有名な「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」という御言葉です。自分が一番という考え方は争いを生み、自分が選ばれないと、選ばれたリーダーに従わないで、ことあるごとに足を引っ張ったりする人が出てきます。こんなことを平気でやっていれば、主に裁かれることになります。私たちは、すべての人の後にされても、それで心を痛めたりしません。それどころか、「すべての人に仕える者になる」という課題があるので、そこにこそ心を使いたいのです。主によって、リーダーや地位ある者にされた場合は、その責任を全うしなければなりません。その時も、すべての人に仕える者になる」と自分を戒めなければなりません。このような主の御言葉を決して忘れないように覚えておくことは益です。

 

8月6日(日)

命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。

ヨハネ6:63

 

五千人の給食から続く一連の出来事は、人の救いにとって重要な奥義を伝えるものでした。イエスが「わたしは命のパン」であると言われたのはその通りであって、救いの意味がそこにはありました。ヨハネ6:22~59に書かれたことは、確かに文字通りに受けとめれば、おかしなことになります。「私は、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(ヨハネ6:51)。これは、イエス・キリストが十字架におかかりになることを意味しています。ですから、十字架にかかられたイエスを信じることで救われると言うのです。でも、当時の人たちは、全く理解できなかったのです。弟子たちですら、十字架につまずきました。しかし、復活のキリストに出会い、そして、決定的なことは、ペンテコステの日に約束された聖霊がイエスを信じた者たちに降って来たのです。これは、聖霊のバプテスマでした。この真理の霊が降って来たので、彼らは目が開けて神の福音を正しく理解したのです。この一事でわかるように、真理は明らかにわかるようには啓示されていないのです。罪人が悔い改めて、主イエスを信じて十字架の贖いを受け、清められたのちに聖霊が注がれ、聖霊の宮になる時に、この聖霊が人を新しく生かすのです。それを新生と呼んでいます。その人の内には聖霊が宿り、命を与えるのです。そして、イエスのお語りになられた御言葉が隠れた意味があって、それは「霊であり、命である」と書かれている通りなのです。印刷された文字は霊ではありません。それは肉によって読めるものです。しかし、「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え」(ヨハネ14:26)る、とおっしゃった通りに、霊のことは霊によって明らかにされるのです。ですから、クリスチャンの内にある聖霊によって聖書は真の意味を明らかに解き明かされるのです。それでは、クリスチャンがなぜ、聖書は難しいと言うのか、それは、その人の内にたとえ聖霊が内住していても、霊的に覚醒されていないからです。覚醒する方法は聖霊のバプテスマを受けることです。これは、個人で受ける時には、忍耐強く求めて祈り続ける必要があります。ちなみに、リバイバルというのは、覚醒運動と言われることがありますように、聖霊が大雨のように降ってきて、いっぺんに大勢の人が聖霊のバプテスマを受ける経験のことです。それで、教会は昔から、リバイバルを求めて来たのです。

 

8月7日(月)

「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

マタイ22:37~40

 

イエス様が教えてくださった二つの掟は、ユダヤ人だけでなく、私たちにとっても同様に守べき重要な掟なのです。ところが、よく考えていれば、主を愛しなさい、隣人を自分のように愛しなさい、というもので、どちらも「愛しさない」という掟なのです。しかも、律法と預言者、つまり旧約聖書はこの二つの掟に基づいているというのです。そして、「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証をするものだ。」(ヨハネ5:39)とイエスは語っています。イエスが教えたいのは、人は神と隣人を愛するものなのだ、ということです。そして、イエスは愛そのものなので、イエスから愛を学びなさいと、ご自身を示しておられるのです。では、あなたはこの二つの最も重要な掟を守っているでしょうか。愛を実践しているでしょうか。これは、決定的に重要なことなのです。なぜなら、この律法で裁かれるからです。神様を全身全霊を持って愛さない者が天国へ入っても意味がないのです。そこには、救われた者たちが大勢いるのですから、隣人を自分のように愛せない人はいられないのです。これを厳しいとお考えになりますか。肉の力で守ろうと頑張る人たちは、徒労に終わるので厳しいと考えるはずです。しかし、新生した人はどうでしょう。ごく自然なことに感じるはずです。さて、そうは言ってもクリスチャンの誰もが難しいと思わされることでしょう。しかし、ある人たちは忠実のこの掟を守っているのです。ですから、この掟は守れる掟なのです。それなのに難しいとすぐに思ってしまうのは、自分にはできないという思い込みがある場合、できるはずがないという決めつけた先入観に縛られている場合が考えられます。なぜなら、行いではなく、信仰によって実現できると知っているはずだからです。行いならできなくて当然ですが、クリスチャンになったのですから、信仰によって可能なのです。その信仰を妨げる力の代表が、思い込みと先入観です。どちらも同じ意味ですね。悪魔はあなたにはできないと思い込ませたいのです。キリストはあなたにできると信じさせたいのです。この掟で、あなたは幸福になり、あなたの周りにも愛の奇跡が起こるはずです。クリスチャンが愛に生きるというのは、この掟を守っているという意味です。

 

8月8日(火)

イスラエルの聖なる神

あなたを贖う主はこう言われる。

わたしは主、あなたの神

わたしはあなたを教えて力をもたせ

あなたを導いて道を行かせる。

わたしの戒めに耳を傾けるなら

あなたの平和は大河のように

恵みは海の波のようになる。

イザヤ48:17、18

 

私たちはクリスチャンとして生きるのに、不安を持つ必要はありません。なぜなら、あなたの神である主は、預言して私たちがどう生きれば良いのか示しているからです。それは、難しくありません。まず、神ご自身があなたを教えると言われているからです。それは人間から学ぶのとは違ってただの知識ではなく、天国への道を歩むのに必要な力を持たせてくださるのです。その上で、あなたは神に導かれて正しい道を歩ませていただけます。さらに、「わたしの戒め」とは聖書のことと理解すれば良いのです。つまり、聖書を読むことです。ただ読むのではなく、「耳を傾け」とあるから、神様が自分に大切なことを語りからけているので、なんとか理解したいという熱心を持って読むのです。多く読むことを求められていませんから、義務のようにただ読むようなことはしてはいけません。無駄になるからです。あなたは信仰があるので、聖書を読むと心に留まる言葉が出てきます。それに対して、願いが生じます。それは、神から来ていると思って素直に受け取ると、神が真理を成就してくださいます。このような経験はあなたの信仰生活を豊かにします。いつでも、平和の只中に置かれていることがわかります。禍の影も見えず、心を脅かすことからも守られます。平和が押し寄せている感じがするかもしれません。神との関係が平和なので、強い信仰が湧き出てきます。神の恵みは、味わうように言われていますから、恵みを恐れる必要はありません。というのも、圧倒されそうな恵みが海の波のように次々と寄せて来るのです。このように、神様を第一にして信仰を持って生きることは、素晴らしい特権なのです。これは他人の話ではなく、あなたのことです。このような恵みをいただけば、謙遜に生きていこうと自然に思います。また、恵みの良き管理者となって、神様へ感謝と栄光をお返しするのです。さあ、あなたのは今日のみ言葉をどのように信じるでしょう。楽しみです。

 

8月9日(水)

わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。

ヨハネ6:39

 

あなたは自分が復活するかもしれないと復活のことを考えたことがありますか。もちろん、再臨の時に生きて天に上げられる人もいますが、その時には天変地変が起こり、この世に裁きが下り、とんでもない状況になっています。そのような恐ろしい事態に耐えられない人は眠りにつかされるのです。眠りと書いてある通り、朝目覚めるように復活するのです。「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」(Ⅰテサロニケ4:14)。ですから、復活は怖くありません。復活の時の順番も既に決まっています。「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます」(同4:16、17)。ですから、復活しても慌てることはありません。天使が迎えに来ています。聖なる感動が全身を包み、みるみるうちに空中へ上がって行き、空に浮かぶ主イエスが大きく見えてきます。周りには大勢の聖徒たちが同じように天使と空中に昇って行くのですが、誰も周りを見回したりしていません。皆、ただ一点を見つめているのです。そうです、本物の主イエスを今、自分の目で見ているのです。それだけで、信仰を持ち続けた甲斐があったと感動が込み上げて来るのです。主は圧倒的に美しく、偉大で栄光を守っています。預言者は、「この方の衣と腿のあたりには、『王の王、主の主』という名が記されていた」(黙示録19:16)と証言しています。それは、復活した者の目にも明らかなのです。あなたは、今日の御言葉の通りの人です。ですから、天の父の御心は、あなたがたとえ眠りについたとしても、必ず復活させることなのです。主イエスはそれを使命として必ずやり遂げるでしょう。ですから、どんなことがあっても、最後まで信仰をしっかり持ち続けましょう。

 

8月10日(木)

五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。

ルカ12:6、7

 

私が幼稚園ぐらいの時に、近所の子供たちがレンガやザルで罠を作り、雀を取ろうとしていました。それが何十年も経った今、思い出されます。あの時、本当に雀が罠で捕まえることができたのかどうか、思い出せません。あの時の子供たちは、何のために雀を捕まえようとしたのでしょう。聖書では、大変安いものの象徴のように雀が出てきます。一羽では値段がつかず、五羽でまとめて二アサリオンです。それほど価値が低いのです。それでも、神様はその一羽をお忘れになるようなことはありません。そして、次に髪の毛が神様に数えられているという言葉が続きます。テレビ局でプロデューサーをされていたOさんは、この箇所を大変驚いてここで神様を正しく理解されました。髪の毛は毎日何本も抜けて行くのですから、正確な本数を知ることは大変なことなのです。そうした具体的なことを知ると、神様の凄さがわかります。しかし、肝心な点は、どんな人でも雀よりは優っているということです。ですから、どんな人でも神様はお忘れになるようなことはない、ということです。それは、意外に多くの信者さんが、この地球上には大勢の人がいるのだから、私よりも立派な人はたくさんいるので、神様は私のことなど見ているはずがないというネガティブな考えを持っているのです。今日のイエス様の教えを聞くと、この考えは明らかに間違っているとわかります。あなたが自分を過小評価しても関係なく、神様はあなたのことをちゃんと見守り、祈りを聞き、愛を注いでいるのです。神様を過小評価してはいけません。昔、「あなたの神は小さい」という言葉が流行りました。私たちは、どういうわけか、神様を小さく考える癖があります。天地万物を創造し、広大無辺の宇宙を造られたのはあなたの神様です。雑草の中に綺麗な花を見つけるときに、神様の凄さを実感できます。ミクロの世界もマクロの世界も完全に造られていて、秩序が保たれ、法則があるのです。この世界で、あなたは神様にとっては特別な存在で、天の父は愛を惜しみなく与えてくださいます。この世の人たちを見て、つい信仰を忘れ、自分もあの人たちと同じだと思っているのです。実際は、クリスチャンになった時に、新しい世に生きる者とされました。神様に愛されて、私たちは愛を知りました。今では、私たちは、心を尽くし、思いを尽くし、精神をつくして神様を愛しています。それが生きる意味です。神様を愛するために生きているのです。あなたは決して自分をその他大勢の一人と思ってはいけません。あなたは神様にとって特別なのです。ですから、神様を見上げて誇らしく堂々と生きて行きましょう。

 

8月11日(金)

「見よ、わたしは生きとし生けるものの、主である。わたしの力の及ばないことが、ひとつでもあるだろうか。」

エレミヤ32:27

 

神を信じる人は大変恵まれています。それが見えず、わからない人たちは気の毒です。この地上には真の神を信じる人とそうでない人の二種類の人がいます。どちらが幸福かと問えば、もちろんイエス・キリストを信じている人たちです。その人たちも、罪人であったために、何かしら重荷を負って生きています。イエス・キリストに重荷を降ろしていただければ、こんな幸せなことはありません。それでも、人間の記憶に悪魔は働き、救われた者をまた救われる前の状態に引き戻そうとするのです。本当は悪い記憶すら古い人と一緒に十字架につけたのですから、わざわざ取り戻す必要はありません。では、どうしてそうなるかというと、悪魔の誘惑に乗ってしまうことに問題があります。悪魔は忘れた頃にやってきて、苦しむことになった記憶を思い出すように誘うのです。この時に肝心なことは、その初めに拒否することです。もちろん、イエス・キリストの御名によって悪魔を追い出すことも効果的です。つい、その誘惑に乗ってしまうと、記憶そのもが修正されていて、脚色された偽りの記憶を思い出させて、以前より悪くなるように誘導します。ですから、過去の記憶を楽しんではいけないし、あの時あーすればよかった、などと考えてはいけません。それは、底なし沼に入って行くようなものです。悪魔は、人を苦しめ、人間関係を壊し、罪責感でキリストから引き離そうとします。こうしたことは、日常の中で気がつかないうちに起こります。そして、不安の霊が信仰の弱点をついてくることもしばしばです。私たちは、信仰を持ったので、ちょとやそっとのことでは揺るがないのですが、恐れの霊の罠にハマると、不安が入り込んできます。不安は自分の力ではどうしようもなくなり、やられ放題となりやすいのです。不安の霊は祈って追い出します。「イエス・キリストの御名により、不安の霊と恐れの霊よ出ていけ」と祈ってみるのです。それでも、解決しないなら、主が誰か追い出せる人に祈らせてください、と願ってみることです。信仰が強くなることを願いますが、聖書を読むと「聖なる者になれ」と書いてあるので、クリスチャンは皆、聖化の道を歩んでいるのです。その過程で、この恐れの霊と不安の霊は、一緒に働いてクリスチャンを困らせるのです。それは、信仰の弱さを突いて攻撃してくるので、聖書に注意書きがある通り「人を恐れてはならない」とあるのに、人を恐れることから始まります。それで、信仰がぐらつきます。すると、そのすきを突いて不安の霊が入り込んでくるのです。一度入り込むと、不安の霊は、パターン化して攻撃してきます。ですから、繰り返し、同じように不安に悩まされるようになったら、不安の霊を疑って、すぐに祈り始めるのです。これは、自分の信仰を強めるためでもあるので、根気よく祈ってみます。そして、この中で、今日の御言葉を思い出してください。あなたの主は、力の及ばないことが一つも無いお方なのです。ですから、本当はあなたは安全で恵まれているのが普通の状態です。ただ、信仰によって生きると自覚していないと、いつの間にか自分の力で生きてしまうのです。それでは、聖化はかないません。ですから、主はあえてこうした悪魔の攻撃を許し、そこで信仰者が信仰を強くして、信仰によって生きることを身につけるようにと期待しているのです。

 

8月12日(土)

このような時にも、見よ

天にはわたしのために証人があり

高い天には

わたしを弁護してくださる方がある。

わたしのために執り成す方、わたしの友

神を仰いでわたしの目は涙を流す。

ヨブ16:19、20

 

人間が厄介な存在であることは明らかだ。それが罪人だからという理由だけで片付けるわけにはいかない。ヨブ記では、大きな災難に遭ったヨブのもとに心配した友達が駆けつける。そして、何にも言えないほどの惨状を見て、友は慰めの言葉さえ失った。やがて語る時が訪れる。それは、ヨブの苦しみであり、神への思いであった。しかし、友は、ステレオタイプの正しさにこだわる。友が悲惨な災難にあった時に、友の役割はあるはずだ。だが、どうすればいいのかわからず、言葉を失うことがある。でも、友のそばに一緒にいることはできる。それは、一人ではないと無言の励ましになる。しかし、ヨブ記の場合のように、慰めが信仰問題になり、人が罪を犯すから災いに遭うのであって、神が悪いのではなく、本人が悪いからこのようなことになった、という考え方は日本にもある。このように悲惨な状況に陥ると、人は誰かのせいにしたくなるのだろう。それが、神のせいにすることはできないので、結局、本人が罪を犯したからこうなったという結論にしたくなるのだろう。それが、苦しんでいる友の傷口に塩を塗る結果になっても、神が正しいと言いたいのだ。実は、私たちも試練に遭うことは珍しくない。せっかくクリスチャンになったのに、恵みだけではなく試練も来ることに納得がいかないかもしれない。しかし、神が人を救うというのは、その本質までも聖化することなのだ。それも、人の自由意志を尊重しながら、自分の肉の問題、罪の問題、信仰の問題、と解決しなければならないことがある。そこで、クリスチャンにも、人並みかそれ以上の試練が、自分の頑なな心を砕くように襲いかかってくるのだ。しかし、クリスチャンなので、正しく生きようとする強い意志がある。落ち度のないように注意深く生きていればなおさら、自分の正しさが気になる。たとえ、周りの人が皆、批判してこようとも、「天にはわたしのための証人が」いてくださる。

それどころか、「天にはわたしを弁護してくださる方がある」のだ。人に理解されなくても、私たちには友なるイエスがいてくださる。イエスは、天の聖所で私たちを執り成していてくださる。自分の味方になって、理解してくださる方がいることは大きいし、自分で弁護できなくても、主が弁護してくださる。だから、胸を張って堂々と生きていけばいい。

 

8月13日(日)

実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信仰と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。

テトス2:11~13

 

ここに、クリスチャンの標準的な生き方が書かれています。このことを安易に読み飛ばしてはいけません。何度も読み返し、よく考えてみましょう。何もしなければ、洗礼を受けただけで終わってしまうでしょう。しかし、せっかく主に救っていただいたのに、それだけではもったいないのです。自分が聖なる者へと変えられ、再臨を待ち望みながら生きることで、完成していくからです。それを妨げる誘惑はこの世に満ちています。それだけに、イエス・キリストの価値を正しく理解することが必要です。自分に与えられた恵みの値打ちです。それがわかれば、目が開かれ、何に心を向けるかわかります。この世には人を流す力があるのです。ですから、この世人は立ち止まれば無常感に包まれてしまいます。だから、空しい生き方は拒否して、不信仰と現世的な欲望を捨てるのです。再臨までは、この世にとどまるわけですから、思慮深く、正しく、信心深く生活することが肝要です。さらに、信心深く生きるために再臨を待望することは良いことです。この世は滅びるからです。神の恵みがあなたを救い、さらに信仰のもたらす特別な生活があなたの喜びとなりますように。

 

8月14日(月)

慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。

それらを首に結び

心の中の板に書き記すがよい。

そうすれば、神と人の目に

好意を得、成功するであろう。

箴言3:3、4

 

日本流に言えば、「慈しみとまことが着物を着て歩いているような人」とでも言うのでしょう。あなたは、今日の聖句を読んでどう思われたでしょう。大リーグで活躍している大谷選手は、野球だけに専念するために、外食をしないで寝ることに時間をけている、といったことが繰り返し報道されています。自分を何であるか、明確にするには、聖句の通りに、「〇〇と〇〇があなたから離れないようにせよ」と自分がなりたい言葉を意識し、忘れないようにすることが肝心なのです。そして、聖書が命じているのは、「慈しみとまこと」です。これを実行し続けるならその内大きな変化を経験します。それは、あなたを誰かにどんな人かと聞くと、返ってくる答えは、「慈しみとまことの人です」という言葉になります。人間はすぐに忘れるので、「首に結び」、「心の中の板に書き記すが良い」とあるようにします。つまり、いい加減に覚えてはいけないのです。絶えず思い出せるようにするのです。「心の中の板に書き記す」とは、最も強い意志の力を発揮することです。ここまでして、あなたが慈しみとまことの人になるなら、「神と人の目に好意を得、成功するであろう」とありますが、実際にその通りになるので、期待して良いのです。人間が最も有難いと感じるのは、慈しみを与えられた時です。それに対して、その人を尊敬と好意を覚えるのです。さらに、その人が「まこと」の人であれば、信頼と敬意を受けるので、どのようなことでも成功できるのです。多くの人は、このようには生きていません。しかし、あなたは今日の聖句を覚えて、成功する人生を歩むことが望まれています。

 

8月15日(火)

人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。

マルコ9:49、50

 

「火」は迫害、あるいは終末時の困難が考えられますが、聖霊と理解することも正しいのです。どのような人も、人生に苦労があります。試練としか呼べない苦しいことも避けられないことがあります。しかし、苦労をした分、人間は練られて立派になります。人を同情したり、失敗した人を赦せるようになったり、小さなことにいちいち腹を立てなくなります。また、人を妬んだり、嫉妬から人の足を引っ張ったりするような愚かなことをしなくなります。塩は腐敗を防ぐものとして理解されていますが、キリストのように赦せる人間に成長できるように、自分を腐らせる悪意を取り去るものとして塩という表現をしているのです。もし、終末の恐ろしい事態に遭遇して、迫害されたり、山に逃げて食べる物もなく、暴徒たちの暴力から身を守る術もなく、絶望的な状態に陥ってしまっても、それでも主を信じる信仰によってその人は、肉もろとも全てを捨てて、主の御再臨を待ち望むことで、完全な者になるのです。また、聖霊が人を聖化されることも知られています。平凡な日々の生活の中で、聖霊が確実に信仰者を聖化しておられるのです。それはまた、内なる人を生かして、外なる人を滅ぼし尽くすことでもあります。昔、肉を保存するには冷蔵庫もありませんから、塩漬けにしました。これを象徴的に理解すれば、肉、つまり自分を塩漬けにすることで腐敗させない、という意味に取れます。次に、「塩に塩気がなくなる」とはどのようなことでしょう。聖書時代に、塩は肉を献げる時に用いられたのです。ですから、自分を主へ献げる備えをするようにと促しているのです。しかし、例えば、試練が過ぎ去るとせっかくの信心深さが鈍って行くことで、主への献身がおろそかになることを戒めています。聖霊のバプテスマを受けて霊的に素晴らしい覚醒を経験しても、時間が経てば、その興奮も冷め、元の状態に戻るのです。その時に、聖霊に満たされた時のように、神様への献身が失われないようにしなさいという意味になります。また、終末の再臨直前のような緊迫した場面で、暴徒たちから逃げ惑うと、壇断力尽きて、主の再臨を待望する気持ちが失われてくることを戒めているのです。最後まで耐え忍ぶなら、勝利できるからです。自分が主の御言葉の通りに、聖なる者であることを信じて、聖化を求めて信じて生きることが大切なのです。この世に流されて、信仰がぐらつく人は、「自分自身の内に塩を持ちなさい」。聖霊に満たされて生きていけば、本当に理想です。でも、信仰が弱くても、互いに平和に過ごそうとすれば、塩が必要になります。肉が塩によって腐らなければ、赦し合い、愛し合い、クリスチャンの本分を尽くせます。問題が起こる時には、塩に塩気がなくなっている時です。信心深く生きて、平和で喜び多い人生を歩んでください。

 

8月16日(水)

更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、私たちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。

ローマ13:11

 

フランスのドラマで、修道士が実は昔、人を殺してしまい、その罪責感に苦しみ、修道院に入った経緯がありました。それから、長い時間が経って、その人は見事に改心したのです。しかし、彼は殺された人の弟に連絡を取るのです。そして、修道院で彼を呼ぶのですが、復讐心に燃える弟は、修道士の話を聞こうとせずに刺してしまいます。その凶器を修道士は抜き取って指紋を拭き取るのです。そして、修道士は刺した人に「赦します」と言って死んでしまいました。人間は変わることができるのです。上部だけ変わるのではなく、本質的にすっかり良くなることができるのです。もちろん、クリスチャンになった人も、同じように変わりました。しかし、聖書にあるように聖なる者には簡単になれません。完全な者になりなさい、と言われてもどうすれば良いのか戸惑うのです。いっそ、修道院にでも入れば本当に聖なる者になれるかといえば、そうではありません。今日の聖句に何かヒントを求めれば、「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」とあります。「目を覚ませ」と言われているのです。私たちは寝ているのでしょうか。確かに、この世で本気で聖なる者になろうなどとは思っていないから、何もしていないで、楽な方を選んで、何年経っても変わっていないのです。どうすればよいのか分からない、と言いながら、聖書から学び、祈って聞き、主に求めているのかと言われれば、「いえ」と言うしかないのです。「救いが近づいている」とは、再臨が近いと言うことです。それに、いつまで生きていられるか分からないのです。残された時間が限られているのに、呑気に眠っていてはいけない、と言われているのです。この信仰を真剣にやったことがあるのかと言われると不安になるのです。私は、つまらないようなことでも主に祈るとかなえられるので、本当に主を感じています。車を運転しているとラジオで、神を信じるかと言う話が流れてきました。それは、この世の人のステレオタイプの話でした。神がいることを証明できないのなら信じない、と男性アナウンサーが言うと、女性パーソナリティーが、でも、神がいないと証明できないのも事実だよ、と言っていました。しかし、私はその時も、いつも混んでいるスーパーの駐車場で良い場所に駐車できるように祈っていたのです。お盆休みなのかいつも以上に混んで広い駐車場がいっぱいです。でも、スーパーの入り口近くへ行ってみると、一台分ちゃんと空けておいてくださいました。これが、毎回やっているのです。うっかり慌てて、祈り忘れると、車を駐車するところが無くてうろうろすることになるのです。私たちは、神様に愛されていて、こんな小さなことまで神様に面倒を見ていただいているのです。それなのに、目覚めずに寝てなんかいられません。中途半端な信仰は後悔します。聖なる者になりなさい、と言われたなら、なれると言うことです。ですから、自分を見ないで、主を信じましょう。私たちも主に倣う者になれるのです。この世にいながら神の国に入ることが主の御心です。

 

8月17日(木)

しかし、人の中には霊があり

悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ。

日を重ねれば賢くなるというのではなく

老人になればふさわしい分別ができるのでもない。

ヨブ32:8、9

 

「日数がものを言い、年数が知恵を授けると思っていた。」(ヨブ32:7)とヨブの若い友人エリフが言います。確かに若い時には「歳をとっていけば自ずと知恵が増すのだろう」と思っていました。しかし、最近のように時代がものすごい速さで変わって行くのを見ていると、新しい知識や技術が若者の方が習熟していて、年寄りはついていけないという現象が起こっています。本来は年長者が若者を指導するのに、それができない場面が増えてきているのです。また、年長者であっても、最新機器を上手に使いこなしている方々もいらっしゃいます。スーパーでセルフレジに人が長く並んでいるのを横目で見て、従来のレジに並んでいる人は皆老人ばかりであることにも納得が行きます。さて、今日の聖句を読むと、神が人間に生きよと息を吹き込み人は生きるものとなった、という通りに、生きている人には霊があるというのです。そして「悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ」と断言しています。確かに、たまに悟ったと思えるようなひらめきがあるのは、聖霊の賜物なのだろうと思います。ここでも、謙虚になるべきで、長く生きているから偉いというものでもないのです。長老と敬われている人たちは、それだけの献身的な働きをしているからであり、尊敬に値する人格を造り上げてきたわけです。それにしても、「日を重ねれば賢くなるというのではない」とバッサリ切られると、ちょっとがっかりします。「老人になればふさわしい分別ができるのでもない」と言われれば、確かにキレやすい老人が問題になたりしていますね。これも、老化して能力が低下しているので、物事が理解できずにパニックを起こしている状態だというのです。脳が処理できずい怒りになるのですね。そうならないとしても「分別」が問題です。相手のことを思いやったり、よく考えられないで、自分の思いを通そうとするような事で相手に迷惑をかけるようなことは起こりやすいのです。こうしたことは、身近に見ることがあるでしょう。しかし、クリスチャンも歳をとるので、安心していられません。聖書をよく読んで自分のものにしておくことが一番の老化防止になりますし、分別がついてくるはずです。クリスチャンは愛の人なので、しかも聖なる者になることを目指しているので、きっと大丈夫です。

 

8月18日(金)

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

ローマ8:28

 

時々、今日の聖句を掲げておかなければ、すぐに忘れてしまう人がいます。それは、クリスチャン生活をただ辛い厳しいものにしてしまいます。あるいは、日々起こる出来事を偶然と思ってしまうかもしれないのです。皆さんは、神様を愛する人たちです。何かの宗教のように、教理を覚えることばかり頑張っていたり、なんとなく信じているということではなく、神様と個人的なつながりがあるのです。確かに感受性に個人差があるので、神様の理解にも多少の違いはありますが、クリスチャンの皆さんは、御計画に従って召されたのです。そして、皆さんが理解しておかなければならない大事なことが下句に書いてあります。それは、「万事が益となるように共に働く」ということです。つまり、皆様の生活で起こる出来事には無駄がないということです。そこで、平凡な生活を送っていても、何かしら起こるのです。時には、嫌なことや辛いこと、試練が襲いますけれど、それにも意味があって、益となるようになっているのです。ですから、あなたに起こる出来事は、何一つあなたの益とならないようなことはありません。ですから、積極的に生きていけます。決して消極的になる必要はありません。なぜなら、あなたのために神様は特別な人生計画を立てておられるからです。本当は、あなたは何をやっても成功できるのです。ただ、神様の望むコースがあって、できればそこに進ませたいのです。ただ、自由意志がありますから、あなたは、時々無駄な回り道を選ぶかもしれません。それでも、神様はあなたを見捨てはしませんから、まるで、ナビのように目的地へと誘導してくれます。それにしても、何をしても全てが益となるのですから、最高に恵まれているのです。それに気がつかないと、文句を言ったり、否定的な気持ちに支配されたりして、不信仰になります。そうなると、せっかくの恵みを受け損なうことになり大損です。ですから、肩の力を抜いて、楽観的になるよう、楽しいことを考えてください。それは、自分がどのように恵まれているのかを思い出してみるのです。病気をしても、軽く済んだり、死ぬところを助けられたり、と悪い方へは進まないのですから。ですから、毎日、「万事が益となるように共に働く」と唱えてみるのです。すごいことですよね。自分の身に起こることがまるで協力して益とるように働いているので、恵みが溢れてくるということです。しかも、聖なる者に近づけ、完全なものになるように働いているのです。主に感謝しましょう。

 

8月19日(土)

神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出して、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。

ローマ8:29、30

 

人の救いを考える時に、どのような経緯でどのようになるのかが気になります。聖書には、今日の聖書箇所で、その説明があります。少し漠然としていますが、この通りに進むと思えば間違いありません。ポイントはいくつかあります。①「神は前もって知っておられた者たちを」とありますから、エフェソ1:4、5の通りに、創造前にキリストにおいて私たちを選んでおられました。②この人たちを「御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました」。ですから、洗礼を受けてそのままということはありません。逆に、キリストに似たものとなるように神様は働かれているということです。ただ、自由意志がありますから、信仰によって主に服する必要があります。そうしなければ、なかなかキリストに似たものとはなれません。こうした主のお働きは、キリストが多くの兄弟の中で長子になるためです。わたしたちは、偶然クリスチャンになったのではないのです。定められていたのです。それは、まず「召し出し」、そして義とするのです。つまり、神の御目に正しいと映るように、肉で生きる者ではなく、信仰によって生きる者へと変えるのです。そうしなければ、聖霊の働きがわからずに変わることができないからです。こうして古い肉的生活から、新しく生まれ変わって義とされた者には、神が栄光をお与えになるのです。義とされることを聖化と呼べば、さらに栄化されるということです。このようになるために、イエス・キリストも聖霊も天の父も働いておられます。聖書は私たちを変える大きな力となります。そして、信仰によって生きる、主を信じて疑わなくなること、聖書に書かれていることを文字通りに信じて聖書に一致した者となるように聖霊の導きを信頼し、信じるのです。現代人は、聖書に書かれたことも、信じられないことは自動的に無視するようになったいるので、これを変えることが必要です。そのために、聖霊のバプテスマを受けることが大いに助けとなります。信仰の一新、飛躍が必要だからです。しかし、こうした救いの過程をお考えになったのは主なので、信じてこの通りになると疑わないことです。素晴らしい主の救いの御業を楽しみに期待していましょう。

 

8月20日(日)

イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じれば、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」

マタイ17:20

 

弟子たちは、「信仰が薄いからだ」と叱られます。悪霊つきの子供から悪霊を追い出して助けることができなかったからです。私たちは、このような箇所を読むと、自分の信仰は大丈夫かと心配になります。「義人は信仰によって生きる」と言いますから、なおさら信仰のことは大きな課題となるのです。なんとか、主からあなたの信仰は十分であると認めていただきたいのですが、それがどうすれば実現できるかを知りたいのです。今日の聖句からも何かは知ることができるはずです。「からし種一粒ほどの信仰があれば」という主のお言葉はヒントになります。しかし、からし種は最も小さなものの例えです。そうすると弟子たちにはわずかな信仰すらないと言われたように見えます。彼らが信仰がないとはとても思えませんし、弟子たちより自分に信仰があるとも思えません。しかし、主のお言葉によれば、信仰には山をも動かす力があるというのです。これを文字通りには取らずに、この世の難しい事を山に例えているのだと解釈する人たちも多いのです。というよりは、実際に山が移るはずがないと思っているのです。これは、つまり、山は動かないと信じているのです。これは信仰ではありません。信仰を無にする力です。この力が働くので、人は山を動かすことができないのです。主は、このことを「信仰が薄いから」と言ったのです。数学的に言えば、プラス10の力で信じたが、マイナス10の力が打ち消したので、0になってしまい、山は動かなかった、10ー10=0となります。そこで、私たちは、プラスの信仰を大きくして、マイナスの信仰を小さくすることを考え、身につける必要があります。これは、自分でできます。このトレーニングは役に立ちます。何しろ、「あなたがたにできないことは何もない」とイエス様がおっしゃったのですから、信じる力で山を動かせるようになりましょう。

 

8月21日(月)

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。

Ⅰペトロ5:7

 

私たちは、時々愚かなことをします。例えば、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」と聖書に書かれているのに、すぐに忘れて思い煩うのです。何の意味があるのでしょうか。心配しているのは、神様を信じきれないから、と言われても仕方ありません。まるで、強力な癖がついているように、いちいち思い煩うのですから、これから解放されればどんなに楽になるでしょう。まず、クリスチャンは、これは信仰の問題だ、と考えると思います。確かにそうなのですが、それほど肩肘を張らずに、自分を責めたり、自分の努力が足りないと見当違いのことを考えてはいけません。まずは、聖句をよく読んでください。下句には、「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださる」とあるじゃないですか。「あなたが」、ではなく「神が」あなたのことを心配していてくださるのです。それは、あなたのために、主が思い煩いの原因を解決してくださるということでもあるのです。それがわかっていれば、あなたが思い煩う必要はありません。なぜなら、あなたには荷が重いのですから、神様にお任せした方が良いに決まっています。もし、それでも、あなたが頑張りたいのなら、主はそれも尊重されます。それが、あなたの意志だからです。でも、心配することは良いことではありません。それで、信仰者は、今日のみ言葉を信じるのです。神様にお任せするわけです。それは、自分の思い煩いを手放すということです。それで、いいのです。あなたが思っているより、ずっと神様はあなたのことを心にかけていてくださることを知るでしょう。感謝ですね。

 

8月22日(火)

御子は肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなた方もいるのです。

ローマ1:3~6

 

あなたがクリスチャンであれば、あなたはとんでもないほどの大きな恵みを受けています。この世で宝くじの1等に当たるよりもはるかに幸運な人です。何しろ、この日本でクリスチャンは人口のわずか0.6%しかいません。その内、教会名簿に名前があるだけで信仰がどうなったかもわからない人たちもいますから、生きた信仰を持っているクリスチャンは少ないことがわかります。私たちは、主イエス・キリストのことを聖書通りに知っています。そして、クリスチャンになってからも、信仰による従順へと導きを受けています。あなたが幸いなのは、イエス・キリストのものとなるように召されたからです。天国へ辿り着いた時に、全てが明らかにわかるでしょうが、今は全てがわからなくも、イエス・キリストを信じて従順に信仰生活を送っています。あなたはご自分のことをどのように評価しているかわかりませんが、少なくとも信仰を持ち続けているならば、あなたは主によって高く評価されています。あなたはご自分のことをよく知っていますから、信仰の弱さとか、ダメなところがまだまだあると厳しく評価していると思います。しかし、聖書にあるとおりに、福音を信じて救われているのです。ありがたいことに、律法を守っているから救われたわけではありません。「福音」です。あなたが罪人であるのに、主が犠牲を払って、恵みのみで救ってくださるということを信じて救われたのです。ですから、主イエス・キリストを信じて生きることで、あなたは日々多くを学び、訓練され、聖化されて行きます。もし、福音と言っていないなら、あなたはどうなっていたかわかりません。でも、今日もあなたは主の愛を知ることができます。そして、苦労があっても、信仰で乗り切ることができます。あなたの心の声を聞いてくださるイエス様があなたを心にかけておられるからです。

 

8月23日(水)

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

ガラテヤ5:1

 

私たちは自由を楽しんでいます。そして、自由のありがたさを知っています。人間の最大の問題は罪であり死です。これは、自分の力ではどうすることもできない奴隷のくびきなのです。私たちは、確かに今は信教の自由もあって、キリスト教徒であっても迫害されない国にいます。職業選択の自由もあり、戦前のような封建的な制約に縛られることもありません。それでも、心から自由と言えない人は、罪を知った人です。罪を知るまでは自由だと思っていたのに、一旦、罪が示されて罪を犯さないようにとどんなに努力しても罪の誘惑に簡単に負けてしまうのです。ですから、罪の深刻さに気がつくのですが、罪からの自由がない限り、本当の自由など無いのです。そして、罪とセットで出てくるのが死です。死なないようにしようと思っても、人は必ず死にます。ですから、罪同様、死からも自由ではないのです。ところが良い知らせを聞きました。それは、イエス・キリストが十字架で罪を贖い、信じる者に罪からの自由を与えてくださるというのです。しかも何の功績もなしにです。そして、イエス・キリストは墓から復活し、死をも打ち破ってくださったのです。これで、私たちは罪と死の奴隷から解放されたのです。これほど、ありがたいことはありません。それなのに、また奴隷のくびきを負わされるようなことは絶対に嫌です。ですから、クリスチャンは、昔の生活には戻れないのです。罪の誘惑になることからでできるだけ離れ、イエス・キリストの教えに従って生きることを目指します。聖霊の恵みを信じて、聖霊に満たされることを望むことは主の御心にかなうことです。祈りもあなたをクリスチャンの正常な道から踏み外さない助けになります。賛美は、主の臨在を味わう一番簡単な方法です。そして、自由にしてくださった主に感謝し、聖霊の導きに従うように意識して、信仰によって生きて行くことが求められているのです。

 

8月24日(木)

知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。

Ⅰコリント8:1b~3

 

「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」。さて、あなたはどうだろう。「知識」とは何のことを言っているのだろう。「教養」のことを言っているのだろうか。聖書では、律法学者がこれに当てはまるとすると、「知識は律法学者を高ぶらせ」た、と言えるでしょう。しかし、確かにイエス・キリストに対する態度を見れば、高慢であって義人に造り上げられてはいませんでした。彼らは律法を学んでも罪の問題を根本的に解決することができませんでした。「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」と続くので、クリスチャンは、「謙遜」のことを教えようとしているのではないかと思うはずです。私たちにとって、主イエス・キリストは、私たちを愛で造り上げてくださる方であります。そして、キリストに出会うと、この世の知識は色褪せて見えるようになります。さらに、キリストこそが、真の知識であることを知るのです。万物の創造者を知らないのに、この世のわずかな知識を知ったから、全てを知ったような気になっていると滅んでしまいます。自分だけが滅ぶのではなく、自分の話や教えを聞いてその気になる人も一緒に滅んでしまいます。真の知識であるキリストを知れば、自ずとへりくだる心になります。それはまた、キリストが愛であり、父なる神も愛であると知ることになります。その愛がその人を正しい人に造り変えるのです。そこで、その人は神を愛する人になるのです。当然、その人は神に知られているのです。真の知識であるキリストを知らなければ、何も知らないも同然なのです。真の知識は、罪人の知らなかった、罪のない完全な姿を教えてくださるので、新しく生まれて、キリストのように変わって行けるのです。罪人はキリストの十字架に神の愛を知って回心し、生まれ変わって行くのです。このように、キリストを通して人が救われるのですが、キリストが真の知識であるということの意味もわかりますね。

 

8月25日(金)

どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。

エフェソ3:16、17

 

私たちは、御父に内なる人を強めていただくことができます。ですから、そのことを祈る必要があります。それは、また、信仰を強めることになります。普段、信仰をすっかり忘れて忙しく生きている人は、だんだん霊的な飢え乾きを感じるようになります。その時には、すぐに今日の聖句を唱えて、祈ると良いのです。その時には、「あなたがた」と書かれているところを「私」と言い換えてください。この祈りは聖書の御言葉を使った祈りなので力があります。信じることはクリスチャンの特権で、楽しいことです。ちょうど、夏の高校野球で慶應義塾高校が優勝しましたが、彼らのように笑顔で楽しむ信仰が良いのです。信仰の使い方ですが、「あなたがたの心の内にキリストを住まわせ」とあるように、キリストを心の内にお迎えし、住んでいただくのです。キリストが自分の内にいてくださるという喜びを信仰で味わいます。そして、そのことが実感できるようになれば、愛があなたの内から自然と溢れ出るようになります。物事の受け止め方が変わります。愛が基調となれば、何事も良い方向へ変わり始めます。人に支配されません。当然、傷つけられることもありません。愛は圧倒的に強いのです。生きるのに人間関係を苦にする人もキリストが内に住んでいてくださると信じると、愛が勝手に自分の内から出てくるようになります。そうすると、人の言葉に左右されずに、その人の本心に気がつけるようになります。そうなると、どんな人でも怖くなくなります。キリストの愛と憐れみが出てくるからです。このようにして、クリスチャンは本来の姿になって行くのです。

 

8月26日(土)

はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。

ヨハネ5:24

 

信じるとはどのようなことでしょう。高校野球で優勝した慶應義塾高校の選手たちは、エラーをしようが、ピンチになろうが、白い歯を見せて笑っていました。まだまだ坊主頭の選手が多い中で挑発の選手は根性とは無縁のように見えました。こうしたこれまでの常識を覆すような衝撃がテレビを観ていた大人たちを驚かせ、優勝の瞬間には、批判的な目で見ていた人たちも心の中で何かが変わったのだと思います。慶應の監督も選手も自分で考えることの大切さを学んでいました。今日のキリストのお言葉は、それまでの宗教を変える大きな変化を求めました。変化と言っても、でたらめに変えるという意味ではありません。天の父なる神を見た御子が、父を語るのですから、その通りに信じることが大切だったのです。それまでの人々の頭の中の宗教は決して人を生かすものではありませんでした。しかし、重くその人たちの人生を苦しいものにしたり、少なくともキリストが来ても見分けられないようなものでした。しかし、キリストは語った通りに父を信じるようにと迫ったのです。キリストの語られた父なる神は、愛の神でした。それまでの宗教が恐ろしい神のイメージを植え付けたのとはずいぶん違っていました。この神は、愛してくださるので、恐れずに近づくことができるのです。父なる神は、罪人の救いを決意されて、御子を遣わされたのです。ですから、キリストが救いの道を教えるのです。ですから、キリストだけが知っている救いの方法を今、告げられているのです。それは、律法学者のそれとは違い、とても簡単に見えます。なぜなら、イエスの御言葉を聞いて、イエスを遣わされた方を、つまり父なる神を信じる者が救われるというのです。その内容も、イエスのお語りになる通りの神を信じるなら、①永遠の命を得ることができ、②裁かれない、③死から命へと移る、という結果を与えられるのです。これこそが救いなのです。実際には、その中身があって、もう少し具体的な信仰の道があります。しかし、とにかく重要なことは、自分勝手に救いを考えない、自分の思い込みでキリストや神を捕らえない。先入観も偏見も救いを妨げます。そうなると、真っ白な心で、聖書に書かれたイエスの御言葉をそのまま信じることが大切になります。そうして、知識を得ると、それを実行しなければならなくなります。しかし、そこで問題が発生します。実行することが難しいということです。その解決のために、聖霊が遣わされてきます。ここで、肉で理解しようとする者は、いつまでも何もわからず、聖霊も言葉だけになてしまいます。霊のことは霊によって理解するという原則があるのですから、聖霊の助けなしには、イエスの御言葉、つまり霊の御言葉を解き明かすことはできないのです。十二使徒たちですら、ペンテコステの聖霊のバプテスマまで、分からなかったのです。学者のように頭がいいから聖書がわかるというわけではないのですね。信仰がものをいうわけです。救いの仕組みをしっかり理解しましょう。

 

8月27日(日)

命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。

ヨハネ6:63、64

 

キリストの言葉を信じることが大切なことは、クリスチャンなら誰でもわかっているはずです。しかし、現状を見ると、自分が信じられる言葉は信じるが、信じたくない言葉は無視していると言いたくなるような人たちが大勢いるので、二分されているように見えるのです。聖霊のバプテスマも文字通りに受けるのではなく、なんとなく誤魔化している感じで水の洗礼の時に自動的に受けているというような言い方で、聖書に書かれたのとは違っているのに、平気な顔をしている人たちがいるので驚かされます。確かに、聖霊のことは肉では分からないのですから、聖霊に関する事は全部否定してもなんとも思わないのです。ですから聖書に書かれている霊の賜物は疑ってかかり、異言や預言、癒しの賜物など感情的になってでも否定します。どうしてこのようなことが起こるのかと不思議に思いますが、今日の聖句には「あなたがたのうちには信じない者たちもいる」とあるので、不安になります。もちろん、これは弟子に向けられた言葉ですから、イエスが誰が裏切るのか知っていたと理解するのですが、聖書の使い方は言葉そのものを信じることから、説教や本などに書く時に、文脈にそわずに、その言葉の意味そのものを使うことが普通に行われているので、今日にも適用できるわけです。キリストの「命を与えるのは”霊”である」と語られたことから、聖霊のことが非常に重要になります。「肉はなんの役にも立たない」のですから、クリスチャンが人間的に過ぎると肉の要素が強くなってしまいます。また、聖霊に満たされることが奨励されていますから、クリスチャンは聖霊によって、霊的な事柄を判断することができます。さらには、イエスの「話した言葉が霊であり、命である」

ということですので、ますますクリスチャンが聖霊に満たされて、霊的なことを聖霊によって判断することが正しいのです。人間的にいくら勉強したとしても、肉は何の役にも立たないのです。神の救済計画は完全で、イエス・キリストによって罪の贖いと復活により、救いの道は開かれたのですが、クリスチャンになっても聖なる者、完全な者になることが難しいのです。それは、キリストの言葉によらないからです。その言葉は、聖霊であり命なので、人を聖なる者に造り変えることができるのです。しかも、天国で永遠に生きることのできる者へと変えることが不可欠で、それがキリストの言葉の中にあるのです。しかも、肉では分からないのです。ですから、聖霊によらなければなりません。しかし、肉と霊は、水と油の関係です。ですから、自分を捨てて、つまり自分の思いや考えを捨てて、聖書に書かれたことを批判しないで、文字通りに信じることが大切なのです。そのことが難しいのなら、聖霊のバプテスマを熱心に求めることから始めることです。新約聖書を調べて、確信を得ることが大切です。全てが信仰によって可能になるからです。

 

8月28日(月)

どのような苦労にも利益がある。

口先だけの言葉は欠乏をもたらす。

箴言14:22

 

苦労は買ってでもしろ、と言われてきました。人間の叡智は、人は苦労しなければ立派な人に成長することができないことを知っていたのです。どのような人間でも、苦労が無駄にならないのです。たしかに、苦労は嫌なものです。できれば苦労したくないというのは本音でしょう。それでも、スポーツ選手でも、商人でも、学者でも、どのような仕事を生業としても、一生懸命に努力しなければ、ものになりません。せっかく大学まで出ても、企業は大学教育ではダメだと考え、企業が研修を行なって仕事を教えています。今まで社会で働いたことのない人にとって、全てが慣れないことの連続で大変です。さらに、研修が終われば、実際の仕事で責任がのしかかってきます。失敗もするでしょうし、辛いと思うでしょう。しかし、それから数年が過ぎれば、彼らは立派な社会人となり、仕事にも自信を持つようになります。だから、苦労にも利益があるというのは本当なのです。では、仕事を持たない人はどうでしょう。神様は公平で、その置かれた場所に苦労は何かしら待ち構えているのです。そうした苦労が人を造っているのです。ですから、苦労を避けて、口先で誤魔化そうとするなら、大きな損をします。そもそも口先だけの人と言われたら、信用ゼロの人と言われたのと同じ意味になります。クリスチャンとしては、できれば誠実な人、信頼のおける人と呼ばれたいものです。そのために、苦労があっても逃げ出してはいけません。その先に、待っているのは大きな喜びです。そして、クリスチャンは、決して口先だけの言葉は語らないと決めておかなければなりません。聖書に、「欠乏をもたらす」と書いてあるのですから要注意です。

 

8月29日(火)

主がすべての災いを遠ざけて

あなたを見守り

あなたの魂を見守ってくださるように。

あなたの出で立つのも帰るのも

主が見守ってくださるように。

今も、そしてとこしえに。

詩篇121:7、8

 

誰かに見守られている人は幸せです。この世の人は一人で生きているからです。いくら大勢の人に囲まれていても、実は一人で生きているのです。しかも、どこへ行くかも知らないのです。ところが、あなたは自分がどこへ向かっているか知っています。しかも、一人ではありません。聖書の説明だと、あなたは「キリストの体の一部」(Ⅰコリンと6:15)となっているというのです。つまり、主にある兄弟姉妹とのつながりが深いのです。ですから、この世の人のように一人ではありません。そして、あなたは主に見守られているのです。ですから、災いを遠ざけていただけます。さらに、信仰のことで考えると、魂の見守りも主に任せるのです。そのことをあなた自身が信仰をもって願うことが大切です。あなたの人生で起こる全ての出来事の中で、主が初めから終わりまで見守っていてくださいます。そう願うのです。朝、家を出る前にクリスチャンは祈ります。その祈りが今日の詩篇です。わたし「の出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように」と祈るのです。そして、今日の詩篇を見ると誰かがあなたのために祈っています。それが、主があなたのためにあなたの内に置かれた聖霊なのです。ですから、あなたは、不安になったり恐れる必要はありません。新しいことに挑む時も、大変な仕事を立ち向かう時も、あなたを見守る方がおられるのですから、安心して勇気を持って出で立つのです。

 

8月30日(水)

ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた。すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。天使が、「帯を締め、履き物を履きなさい」と言ったので、ペトロはそのとおりにした。また天使は、「上着を着て、ついてきなさい」と言った。それで、ペトロは外に出てついて行ったが、天使のしていることが現実のこととは思われなかった。・・・ペトロは我に返って言った。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。」

使徒12:6~9、11

 

あなたは天使の存在を信じますか。聖書にはちゃんと天使のことが書かれています。何でも疑う現代人にとっては、天使が存在すると信じることは人によっては難しいことのようです。もちろん、何の疑いもなく信じる人もいます。今日の聖書箇所も、ペトロが絶体絶命の状態に置かれているところから始まりますが、天使が奇跡的に牢屋から救い出してくださるお話しです。ペトロですら、現実ではなく幻を見ていると思っていたのですから、人間の常識を超えた不思議な体験だったのです。しかし、私たちはこのような記事を読むと、人間的には絶望的に見えていても、神様は天使を遣わして助けてくださるのだと勇気をもらえます。現代でも、天使に出会ったと証しする人がいます。まだ、東西冷戦時代に、ルーマニアから命懸けで脱出した人が天使の助けを証しています。また、中国でもキリスト教が弾圧されているので、逮捕されて収容所で酷い扱いを受けていたクリスチャンの男性が天使に助け出されています。ヘブライ書には、「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。」(1:14)と書かれた通りです。つまり、今日でもクリスチャンであるあなたを助け導くために必要なら遣わされます。ですから、この世の権力すら恐れることはありません。そうなら、日常生活で誰を恐れる必要があるでしょうか。日々、キリストのために生き、どんなに小さなことでも与えられたことに忠実であれば良いのです。天使にどうして合わないのかと思っている人は、ペトロのように怖い思いをしなくて済んでいるので、天使が助けに駆けつける必要がないので会っていないのでしょう。しかし、どこかでは知らない人に助けられているのではないでしょうか。そのような中に天使がいる可能性はあります。

 

 8月31日(木)

「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

ヨハネ8:31、32

 

キリストの弟子になるにはどうすればいいのか考えたら、今日の聖句が一番良い答えになっています。あなたは、イエス・キリストを信じて洗礼を受け、クリスチャンになりました。つまり、公にイエスの弟子であることを告白したのです。では、弟子がどのようなものか理解していなければなりません。まず、信仰で救われたと理解しているはずです。それから、義人は信仰で生きるというのも聞いたでしょう。つまり、イエス・キリストに対する信仰を持っていることが弟子の初めです。それは、イエスの言葉が真理であると信じることです。もちろん、イエスご自身が真理です。ですからイエスのお語りになることが真理であることとは不思議ではありません。そして、あなたはそのように信仰を持っているはずです。次に、「わたしの言葉にとどまる」とはどのようなことでしょう。聖書を一度読んでそれで十分と、その後は読まないなら、それはイエスの言葉にとどまっていません。絶えずイエスの言葉に心を開き、耳を傾けることが必要だからです。クリスチャンはイエスの言葉を絶えず聞こうとしているので、必要な時にイエスの言葉が出てくるのです。生涯を通してイエスの言葉に親しみ、生活の指針となるように心に刻み、実践する人になろうとします。また、イエス・キリストから生涯をかけて学ぼうとするのです。聖書からイエスの言葉を読んで、すぐに分かったという人はいません。何度も読んで、考えて、祈って、また読んで、仕事中でも考えて、その深みへ辿り着きたいと願うのです。それは、学問のためではありません。知的な満足を得るためでもないのです。私たちが知りたいのは、神が私に何をして欲しいと思っていらっしゃるのかを知ることです。イエスの言葉には、それがあるのです。ですから、神が私たちに望む通りに行いたいのです。私たちは、聖書を読み、イエスの言葉に真剣に向かい合い、イエスが誰であるか知りました。イエス・キリストは、私たちを罪の奴隷から自由にしました。死すらも打ち破られ、自由にしました。あなたは、イエス・キリストから救いの真理を知り、愛という真理も知りました。今は、再臨の真理を知り、待望しています。それは、イエスの言葉にとどまることで、聖化の真理に導かれ、再臨の準備をしているのです。私たちは、すでに自由にされました。そのことを忘れてはいけません。神の恵みの内にいるということです。