2022年7月ディボーション

7月1日(金)

彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いてこられた。

イザヤ63:9

 

神様は人間の考えも及ばないほど深い愛のお方です。私たちがその主の愛を少しでも知ることができれば、今までのようには生きていけません。愛に圧倒されるからです。それほどの主の愛を知ることはできます。クリスチャンは、まさに主の愛を知るために生きているのです。それぞれが、何かしらの主の愛を体験しているのはずです。ただ、ほんの一部なのです。そこで、今日の御言葉をヒントにして主の愛を考えてみましょう。私たちが苦しむことは、生涯のうちで何度もありましたが、そのことを忘れていられるのは、主の救いがあったからです。主の御使があなたの元へ来て救ったはずです。そうでなければ、もっとひどいことになっていたでしょう。肝心なことは、主はあなたの苦しみを人ごととはせずに、ご自身も苦しまれたことです。これは、あなたを愛しているからです。自分の愛している人が苦しめば自分も苦しむ、そんな経験をされた方もいるのではありませんか。私たちは、残念ながら未熟で失敗も多く、愚かなことも数多くしてきたのです。罪が何であるかもわきまえずに、罪とも思わずに心のままにひどいことを言ったりやったりしたのです。それがどんなにひどいことであっても、主の愛と憐れみは、人の心がわかるので、悔い改めへと導き、負いきれない罪を贖ってくださいました。このように、私たちは、昔からずっと、主に背負われてきたのです。そして、悲しいときには大事に抱かれてきたのです。このような愛の神様があなたの主なのです。

 

7月2日(土)

女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。

母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。

たとえ、女たちが忘れようとも

わたしがあなたを忘れることは決してない。

見よ、わたしはあなたを

わたしの手のひらに刻みつける。

イザヤ49:15、16

 

神様は私たちをどのように見ておられるのでしょう。クリスチャンになる前でしたら、遠い存在でしかなかったでしょう。しかも、厳しい神様のイメージが強くて、何か悪いことをしたら、きっと罰をくだすだろうと思っていました。ところが、神様に召されて、神様を知るようになればなるほど、神様のイメージが変わってきます。もちろん、良い方へと変わったのです。不思議ですが、今日の御言葉の通りの神様です。なんと、母親以上だと言うのです。「たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」と明言される神様に圧倒されます。そして、あなたの信じた神様は、「わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける」と言われたのです。神様が自らの手の中に入れて守ると言うのです。いや、それどころか、あなたを神様のたなごころに刻みつけるのです。神様とあなたの関係がどれほど深いか、もはやあなたは今までの考えを一新しなければなりません。あなたはいつでも神様が自らの身に刻んで守っておられる存在なのです。誰が、神様の手を開いて刻んであるあなたを消し去ることができるでしょうか。これは、神様があなたを救われることの意味なのです。これほどの特別な存在があなたなのです。

 

 7月3日(日)

ついに、我々の上に

霊が高い天から注がれる。

荒れ野は園となり

園は森と見なされる。

そのとき、荒れ野に公平が宿り

園に正義が住まう。

正義が造り出すものは平和であり

正義が生み出すものは

とこしえに安らかな信頼である。

イザヤ32:15~17

 

クリスチャンになった時に、よく聞く言葉がありました。それは、「リバイバル」という言葉でした。意味はよくわかりませんでしたが、リバイバルと言っていれば、皆が喜んでいる印象がありました。その時、教会の人も牧師もリバイバルを実際には経験していないことを知りました。今日でも、終末の話しをすれば、最後にはリバイバルという言葉が出てくるのです。誰もリバイバルについて説明してくれた人はいませんでした。本を読んでも出てくるリバイバル、それなのに、誰もよく説明できないのです。辞書では、「信仰復興」と出てきますが、その意味も定かではありません。しかし、リバイバルの意味は他に、「生き返らせること」とあります。よみがえらせることなのです。こちらの方が訳としてはしっくりきます。初めてのペンテコステの時に、聖霊が降ってきて、弟子たちは生き返ったのです。もはや、ただの「無学な普通の人」ではなくなっていました。その後の彼らの働きは驚くべきものがありました。ですから、私たちは、リバイバルを待ち望んでいるのです。では、リバイバルはどのようなものでしょう。それは、聖霊の大降下のことです。特定の一人に降るのではなく、その地域全体に雨のように聖霊が降ってくるのです。使徒言行録の2章のペンテコステの経験から、今に至るまで聖霊は降り続けています。ただ、信仰がこの地上から消えていくと当然のことですが、リバイバルも起こらないのです。リバイバルが起こるところでは、犯罪が一気になくなります。ですから、刑務所がいらなくなって、別の公共施設になってしまうのです。昼間から酒場にいる人たちですら、悔い改めて改心するようになります。聖霊は神であり、神は愛なので、聖霊が降れば愛が満ち溢れることなります。人々は、自分が神に愛されていることを悟ります。ですから、公平と正義が現れてくるのです。その結果、平和が生まれます。真の平和は安らかな信頼のことです。ありがたいことに、聖書には聖霊が天から注がれる預言が書かれているのです。ですから、素晴らしいリバイバルを大いに求め、期待しましょう。

 

7月4日(月)

そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に述べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられると、証しています。」

使徒言行録10:42、43

 

イエスのお働きは、広いのです。特に今日出てきたように、最後の審判者でもあります。そのように、父なる神に定められたのです。主がお裁きになるので、私たちは人を裁きません。そのような誘惑に駆られることはあるでしょうが、裁かないように気をつけましょう。終末預言は私たちがこの世の終わりに近づき、一人一人の行いに応じて裁かれることを告げます。伝道は、このことを抜きにはできません。弟子のペトロたちだけではなく、私たちもキリストによる裁きを人々に証しすることが大切なのです。伝統的に、伝道講演会では主イエスを信じる者には、だれでも主の御名によって罪の赦しが受けられると証しするのです。人間は、自分が神に裁かれるということが怖いのです。そこで、罪人は神から逃げるように生きているのです。このようなみじめな生き方は、それを埋めるように快楽を求め、刹那的に生きてしまうのです。でも、現実逃避のような生き方は、空しいのです。それだけに、伝道は人助けそのものです。私たちにはイエスがいてくださいます。それだから、最後の裁きも恐れるのではなく、救いのように受け取ります。それほど、イエスが大きな存在となっているのです。このありがたさがわかれば、人生は良く生きられます。

 

7月5日(火)

まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、皆そうである。」

Ⅰコリント2:9

 

神様を信じている人には、この世の常識では理解できない、主の恵みが絶えずあります。もっとも、この世に負けて信じられない人には見えないものです。福音書を読むと、イエス様は「幼子のような者」とか「小さな者」という言い方で、単純にイエス様を信じることが大事なことであると教えています。ですから、現代人の賢さで聖書を解釈しようとから、信仰を理解しようとすると、神様の真実には到達できません。西洋史を学ぶと、キリスト教の話しが普通に出てきます。哲学でも神学が出てきます。こうした学問の類いは、一般の人には無縁です。ですから、日本語で聖書が読むことができれば、それで十分なのです。教会に来る子供に至っては、時に大人よりも神様を理解し、イエス様が大好きです。私たちも、イエス様が大好きです、と声を大にして言いたくなります。そして、詩篇23篇を読んでは、主は我が牧者、と喜んでいるのです。そのような信仰で十分、今日の聖句を理解できます。自分の信仰生活を振り返れば、不思議なことや恵みだと感謝したことや、主の大きな祝福が思い出されてきます。もし、試練で苦しんでいる人がいれば、その人が何年か後に、その出来事を主の恵みだったと楽しく思い出せるようになるでしょう。神様は確かに、私たちの想像を遥かに超えたことを実現されるお方ですから、信仰者はそれを体験し、とても恵まれているのです。ですから、自分の力でどうしようも無くなっても、心配無用なのです。主がついていてくださるのですから、信じましょう。その信仰は決して無駄にはなりません。そうそう、最後には誰も見たことのない(預言者は除きますが)新天新地をあなたはご自分の目で見ることになります。楽しみですね。

 

7月6日(水)

子どもたちよ。あなた方は神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。

Ⅰヨハネ4:4

 

 

あなたが「神から出た者」と言われても、驚くことはありません。あなたは主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、清められ、約束の聖霊を受けているのです。実感がないかもしれませんが、これは主の約束によるので聖書にも書かれていることです。ですから、あなたの内には聖霊が宿っておられます。そのために、あなたは信仰で生きる必要があります。昔のように自分勝手に生きると悪い結果が待っています。そこで、あなたは、信仰を表すことと共に聖書をもっと学ぶことが必要です。なぜなら、この世にはサタンとその軍勢がいて、聖徒たちを滅ぼそうと敵対しているのです。あなたが平和主義者であるのは良いことですが、霊の戦いは避けることができません。ありがたいことに、聖書には明確に「彼らに勝った」とある通りの結果になります。そのために、あなたは自分が何者か知る必要があります。もはや、古い自分は過ぎ去りました。主によって新しい命に生きています。それゆえに、「あなた方は神から出た者です」と言われているのです。大事なことは、聖霊があなたの内に生きていて、この世のサタンと悪霊たちを打ち負かすのです。勝利が決まった戦いに参戦しているのです。ですから、敵は、何としてもあなたの信仰を弱らせ、信仰によって生きることがないようにと誘惑し、攻撃してくるのです。ですから、油断はできません。しかし、信仰を学んでいるので、あなたは、実践で勝利を知るでしょう。決して、自分の信仰は弱いと言わないことです。自分が基準ではなく、内側におられる聖霊が敵よりも強いのです。ですから、聖霊が自分と共にあることを信じていることがあなたを守り、勝利者へと導くのです。

 

7月7日(木)

イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

ヨハネ8:12

 

中学生の時、夏休みに長野県に合宿に行ったことがある。とても楽しい思い出となっている。ある日、先生が肝試しをしようと言い出し、山寺に連れて行った。そして、山を登るように階段が長く続く先に修行するための小屋があって、そこに一人で自分の名前を書いた札を置いてくる、という課題が与えられた。街灯もない暗い夜に、頼りになるのは月明かりだけで、心細くなるばかりだ。すると、先生が、この山は全体が墓地になっているので、周りは全てお墓なんだと余計なことを言い出した。中学生の男子たちは、こわごわと階段を見上げるのだが、暗くて先が見えない。皆、やめて帰りたくなっていた。しかし、順番が決まり、一人ずつ肝試しに出発するだった。実際に階段を登ってみると、幽霊が待ち構えていそうでなるべく周りを見ないようにして、一気に駆け上がるのだが、なかなかゴールが見えない。月明かりだけが頼りで、暗闇の中に自分が一人でいることの怖さを十分に感じた。光さえあれば怖くないのに、と思い知る。結局、お化けも出ずに、全員が札を置いてくることができた。しかし、光のありがたさを身をもって知る機会となった。イエスは言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と。この世界が暗闇だと今は知っている。まるでカインの系図のように、悪が広がり、罪の世界の悲劇が闇を濃くしている。イエスが世の光であることが希望なのだが、それと同時に、イエスに従う者は暗闇の中を歩かずにすむのだ。これがどれほど大きな恵みであるかわかるだろうか。それは、最後の御言葉の通り、「命の光を持つ」からだ。あなたは、もはや暗闇に飲み込まれることはないのである。それは不可能なことだからだ。なぜなら、命の光を持つ、というのは、聖霊があなたの内に住んでいるから実現しているので、聖霊は光なので、闇を打ち負かすからだ。つまり、あなたは自らの内に光をもっているので、この世にも打ち勝てるようになるのだ。イエスの御言葉を信じよう。

 

7月8日(金)

わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自分の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。

 

私たちにとって、イエス・キリストはどのようなお方でしょうか。これは、自分で答えなければなりません。ただ、答えは聖書にたくさん書かれています。今日の箇所も私たちにとっては重要です。クリスチャンになって一体自分はどうなったのか、とおもわなかったでしょうか。洗礼を終えて、自分はこれからどう生きていけばいいのだろうと思ったはずです。しかし、その頃は、聖書の知識も乏しく、教理もあまりわからず、何となくクリスチャンらしく生きていこうと、スタートしてしまったのではないでしょうか。聖書的には、まず、悔い改めてイエス・キリストを信じて、主の尊さを知ったのではないでしょうか。自分の罪のためにイエス様が十字架で死んでくださった。それが単なる知識ではなく、心に素直に入ってきたのです。「御自分の血によって罪から解放してくださった」とわかった時に、それは愛として自分に迫ってきたのです。このイエス様は、ただ罪から解放してくださっただけではなく、その後のことも備えておられたのです。それが、「わたしたちを王とし、御自分の父である神に仕える祭司としてくださった」のです。ですから、この世では、仕事に就いていたり、主婦や学生であったり、定年後の余生を送っていたりしているので、この世の人々と変わらないと思っているかもしれませんが、霊的には身分が変わっているのです。神様を父と呼べるようにしていただいたのですから、天の王家の一員となっているのです。そして、この地上では、神様に直接お仕えする祭司にされたのです。これが、クリスチャンの本当の姿です。このことを理解し、自覚しているのなら、随分違っているはずです。自分が聖なる者であるということも納得できるはずです。しかし、現実とのギャップを感じるなら、何を信じるのか知らなかっただけです。聖書は、ある意味クリスチャン取扱説明書のような働きもあるのです。何を信じるのか、明確に御言葉に書いてあります。それなので、聖書を調べてみることが大切です。人間は、何か信じていて、その信じた通りになっているのです。ですから、聖書を調べて御言葉を信じることです。そうそう、王と祭司の他に、神様の讃美者でもあるのです。どれも、自分のためになるものばかりです。イエス様に感謝いたします。

 

7月9日(土)

御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。

申命記30:14

 

歳を取ると物覚えが悪くなると言われますが、ある教会で暗唱聖句大会が開かれた時のことです。一人の信者さんのご主人が、定年後に教会へ来られるようになり、ついに洗礼をお受けになりました。その方が、暗唱聖句大会に参加するというのです。どうなるかと心配していました。ほとんどの参加者が暗唱聖句というので、一節の聖句を覚えてこられたのですが、そのご主人はなんとヨハネの福音書を一章全部を覚えて暗誦されたのです。人間の可能性は計り知れません。主催者としては、景品でも出さなければ誰も参加しないのではないかと懸念していましたが、予想を遥かに超えて大勢の人が暗唱聖句をされたのです。このように、クリスチャンは聖書を暗記することを奨励されています。百人一首を覚えている方は多くいるかもしれませんが、聖書を暗記することとは意味が違います。その人の人生を変え、天国への道を見出すことができるのです。この世で迷う時にはいつでも正しい道を示す地図となり足元をてらす光にもなるのです。知恵のない者には知恵を与え、真理を知ることができます。自分の心に一体何を蓄えて生きるのか、それは必要な時に自分を助ける力となる御言葉を蓄えておくことです。その結果、驚くほどの実り多い人生となるのです。今日の聖句は、御言葉はあなたのごく近くにある、といいます。それは、あなたの口と心にあるからです。だから、あなたは神の御言葉を行うことができるのです。これが、クリスチャンが目指している生き方なのです。人に最高の人生を送る方法を教えてくれる聖書は、ただ持っているだけでは役に立ちません。あなたの口と心に御言葉があるようにしてください。これが幸福な人生の秘訣です。

 

7月10日

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神が全てのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

ローマ8:28

 

神に召された人々は、神の愛を知った人なので、神を愛している人なのです。神の救いの御計画は完全です。全て神の愛によって立てられている御計画です。そのために、神を愛するクリスチャンのために、神は全てのことを働かせて益としてくださるのです。ここで、大切なことは、「全てのことを働かせて」と書いてあることです。ですから、あなたにとって今まで考えてもみなかったことも全部です。つまり、あなたが何をしようが、どこに住まい、どんな仕事をして、また趣味でも、買い物でも、誰かと会って話したことも、とにかく全部です。神は、それがあなたの益となるようにしてくださるのです。あなたは、この聖句を早くに聞いて知っていたはずです。聖書でも確かめたかもしれません。それなのに、すぐに忘れていたのではありませんか。私たちは何をしても益となるようになっているのです。それほどまでに神に愛されているのです。だからといって悪いことをしてはいけません。ただ、試練も益となり、大変な事があってもそれが益となるのですから驚きです。神を信じるということは、神が全てのことを働かせて益としてくださることだと、知っていてください。嬉しいことですね。

 

7月11日(月)

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

ピリピ4:13

 

なんと力強い言葉だろう。私たちはイエス・キリストを信じて救われたので、昔の自分とは明らかに違っています。私たちには、人生でいろいろなことが起こりますが、それがどんなに困難なことであっても、それを乗り越えることができるようにしてくださるイエス・キリストがいてくださいます。主は、私たちを強くする事ができるのです。強くするというのは、問題を乗り越える強さであったり、困難に打ち勝つ強さであったりします。そして、力の強さだけではなく、精神的な強さも、霊的な強さも、信仰の強さも含まれます。ですから、御言葉は「どんなことでもできるのです」と明快です。もちろん、私たちに力を与えただけでは、足りないような問題もあるのです。ですから、主イエスが直接に私たちを強めるだけでなく、ご自身自らが私たちの力となって、どんなことでもできるのです。これは、すごいことなのです。これは特別な人だけの特権ではありません。イエス・キリストを信じている人なら誰にでも、この御言葉の通りになるのです。では、あなたは、この御言葉を信じますか。この御言葉を覚えてください。このままこの聖句を自分のものとするのです。そいて、毎日、この御言葉を唱えてください。疑ってはいけません。この言葉を言うたびに、目の前の困難な問題が自分にできるはずだと力が湧いてきて、どんなことでもできる、と思えてくださはずです。そして、主があなたを励まして、一緒にやり遂げてくださるのです。主を信じることは素晴らしいことなのです。

 

7月12日(火)

昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。

ローマ15:4

 

聖書を読んで救われた人は世界中にたくさんいます。人生が聖書によって大きく変わり成功した人も入れば、志の高い人は聖書から学び人格を高めて世のために役立つ人になりました。太平洋戦争の時、アメリカ軍には従軍牧師がいました。日本軍はお坊さんを従軍させることはありません。死を予感させ縁起が悪いからです。大きな違いです。グアム島にパスファインダークラブ(キリスト教のボーイスカウトのようなもの)の子供たちを引率してアメリカのパスファインダークラブと交流を持った時に、米軍基地内のプライベートビーチとキャンプ場を使うことができました。それも、アメリカ軍の従軍牧師が教団の先生だったので、特別許可が降りたのです。普通ではあり得ないことでした。キャンプ場にいたら、迷彩服に完全装備した米兵が突然現れ、実践訓練をしていたのです。そんなとことに子供たちをキャンプさせてくれるはずはありません。軍の牧師がいかに権限があるかわかりました。米軍が従軍牧師を認めているのは、クリスチャン兵士が多いこともありますが、今日の御言葉の意味が大きいのだろうと思います。過酷な戦場に行っても希望を持たせる事ができるのです。私たちの日々の生活も決して安楽ではないかもしれませんが、「聖書は私たちを教えるために書かれたのです」から、聖書から学ぶ者は、この世でも立派に生きていけます。忍耐心があれば、大抵のことは乗り越えられます。さらに、励ましを受ければ勇気凛々です。そして、重要なことは希望です。希望があれば、人間はちゃんと生きていけるのです。聖書はこの全てを与えることができます。今日も聖書を開いて読んでみましょう。

 

7月13日(水)

待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。

詩篇27:14

 

私たちはほんの些細なことでも、苦にするところがあります。また、まだ何も起こっていないうちから心配する人もいます。自分の願いが強ければ強いほど、待つことができないのも人間です。しかし、信仰に入り、クリスチャンとして生き始めると忍耐しなければならないことが必ず起こってきます。それも、長い年月を通して何度も忍耐の時があるのです。おそらく人間にとって一番嫌なことは忍耐だと思います。せっかちな人は、待つよりはすぐに動いて、たとえ失敗して痛い目にあっても、待つよりはマシだと思っているのです。しかし、主は全ての人に信仰を与え、信仰で待つことを教えてたいのです。自分の力で何でもできると考えずに、主を信じて祈り、その祈りの答えを待つのです。その時に、動揺したり、信じきれずに不安に陥ったりしないように訓練されています。堂々と雄々しく、主を待ち望みます。主が来られればどんな問題も解決するからです。どんなに困難な問題に直面していても、心を強くして祈るのです。主が必ず問題を最善に解決されることを信じるのです。その信仰が主を待ち望ませるわけです。祈りの達人は、大勢します。あなたもその一人です。自分とイエス様の関係を考えてみればわかります。あなたは、友なるイエスよ、と賛美し、何でも相談できます。そして、イエス様が自分のために命まで犠牲にしてくださるのですから、あなたの救いのためには、何でもしてくださるのです。あなたが、まだ信仰に未熟でも、主は忍耐強くあなたの信仰を育ててくれます。そして、祈りの力を体験させてくださいます。祈りに心を向け、ちゃんと言葉にしてイエス様に祈りましょう。祈るがわからない人は、詩篇を開き、真似をして祈りましょう。聖書を読んでも、自分に神様が語っておられると思う御言葉を書き出しましょう。特に、あなたを励ます御言葉、慰める御言葉、力ある御言葉、主を賛美する御言葉、信仰を強める御言葉を探しましょう。そして、いつでも主を信頼して、主を待ち望むのです。そのようにする人だけが、神様が祈りに力を持って答えてくださる感動を知るのです。

 

7月14日(木)

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

エペソ1:3

 

あなたは信仰を働かせているだろうか。信じる力は大きい。しかし、何を信じたらいいのかわからないと思っている人もいるのです。そのような人は、聖書に書かれたことで心に響く御言葉を信じたら良いのです。たとえば、自分は神様に祝福していただいているのかどうかわからないと思っていれば、今日の聖句を読んで、信じればいいのです。たいていの人は、聖書も本なので1ページ目から読み始めるはずです。それは、創世記を読むということです。物語なので読みやすこともあって、最後まで読み通すことができるでしょう。すると、アブラハム、イサク、ヤコブという族長と呼ばれる人たちが出てきて、神様に祝福されています。その祝福は、目に見えるものでした。つまり、祝福は霊的であっても、信じる者には目に見えるほど確かなものなのです。この世の考えは、そんなうまい話は無いと、一方的に否定してしまうのです。ですから、初めは皆さんも信じようとしても、心のブレーキがかかって、そうだ、そんなうまい話は無い、と自分で否定してしまうかもしれません。しかし、私たちはそうした否定的な考えもろともに古い人を十字架に釘付けにしたのです。この世の人たちはどんな否定しもて関係ありません。私たちは、イエス様を信じているので、いつでも奇跡を見ることができます。それは、信じているからです。信仰は自分をキリストのように完全な者に変えることができます。それが神様の御心だからです。あなたの手の業はことごとく祝福されています。この世の祝福でも喜ぶのなら、なおさら、天にあるすべての霊的祝福を与えられているのですから、その喜びはどれほど大きいでしょう。どうか、御言葉を否定しないでください。聖書の約束を信じましょう。あなたは、すでに最高の祝福を受けているのですから。

 

7月15日(金)

民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われわれの避け所である。

詩篇62:8

 

自分に自信を持って生きることは、とても大事なことです。ところが、多くの人は自分に自信を持てないでいます。よく考えてみれば、誰でも赤ちゃんで生まれ、一つ一つのことを経験から覚えていくわけです。ですから、若ければ若い人ほど自信がないものです。もし、運よく自信を持っていても、いつ壊れるかわからないほどもろい自信です。しかし、人生経験を積み重ねることは、自信を育てるようなことなのです。初めてのことは緊張しますし、自信がありません。しかし、一度経験すると二度目はぐっと楽になります。そして、注意深く考える人なら、二度目は成功させるでしょう。つまり、自信がつくわけです。このようにして、長い人生を通して自分に自信を持てるようになるのです。それでも、やはり自信がないと嘆く人も決して少なくありません。私は、聖書から誰でもすぐに自信を持てる方法を発見しました。それは、「神に信頼する」ことです。それも、「どんなときにも」です。会社ですら、誰でも失敗することはあるものですから、上司に怒られたり、顧客に頭を下げることは多々あるものです。しかし、それでもクビになったりはしません。上司が顧客に謝ってくれることだってありますし、かばってくれることだってあるのです。そうやって、「信頼」を学びます。信頼関係が築けていれば、たいていのことは大丈夫だと学びます。それが、神様であれば、どうでしょう。完全な守りがすでにあることに気がつくでしょう。自分が神様を信頼しているだけで、神様が全力で助けてくださるのです。だから、神様との間で信頼関係を築いていけばいいのです。これは、難しくありません。なぜなら、最初から神様はあなたを愛しているからです。信頼関係に最上級があれば、それこそ神様の愛のことです。緊張するようなことがあったら、すぐに神様に自分の心のうちに溜まった思いを注ぎ出すのです。真のカウンセラーである主は、ちゃんと聞いてくださいます。たとえ、言葉にならなくても、心を聞いてくださいますから、大丈夫です。逃げ出したくなったら、主こそがあなたの避け所なのです。これ以上の安全はありません。だから、勇気を出して、人を恐れず、幸福になることを目指すのです。きっと、できます。

 

7月16日(土)

心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼るな。どのような道を歩むときにも主を知れ。主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。自分を知恵ある者などと思わず、主を畏れ、悪から離れよ。それはあなたの体の癒しとなり、あなたの骨の潤いとなる。あなたの財産とすべての収穫の初物を献げて主を敬え。あなたの倉は穀物で満ち、搾り場は新しいぶどう酒で溢れるだろう。

箴言3:5~10

 

せっかく聖書を持っているのに、それを生かさないのはもったいないことです。日本人も好きな箴言は、知恵の書です。ですから読んでそのまま分かるというわけにはいきません。何事も、考えることが価値があるのです。もともと、人間は考えるように造られているのです。今週、「幸福」という言葉を考えるチャンスがあったのですが、今日の聖句はそのものズバリ幸福の方法です。こうした格言のようなものは、暗記することで役に立ちます。神様があなたの人生に直接関わってくださり、どんな人生を選んでもその道でうまくいくようにしてくださるのですから、その方法を覚えることは意味があります。聖句を見ると、考えるべき御言葉は「主を知れ」です。「どのような道を歩むときにも主を知れ」と書いてあるからです。そこで、多くの人々が主を知ろうとしたのです。ですが、具体的にはどうすればいいのでしょう。実は、ヒントは「聖書に書いてある」です。例えば、現在、礼拝説教はヘブライ書の講解説教です。すると、祭司の話が長々と出てきて、なぜくどくどと祭司のことを説明しているのかと、不思議になってきます。ところが、「あなたがたは、選ばれた民、王の祭司」(Ⅰペトロ2:9)と書かれているのです。つまり、クリスチャンの方々は、祭司だというのです。それも、イエス様のような祭司だと言っているのです。つまり、主を知るということがここで、必要になってくるのです。我々は、レビ族ではないので、地上の聖所の祭司ではありません。ですから、天の聖所で奉仕されているイエス様のような祭司という意味です。そうなると、祭司であるイエス様とはどのような意味があるのか、考え、調べるのです。そすると、その知識の通りにあなたがなることを求められているわけです。もちろん、人間的な力、肉で行ってはいけません。霊的な力で実現するわけです。つまり、聖霊によって実現するのです。聖霊を知ることは、イエス様を知ることです。さらに、今日の御言葉を考えてください。あなたが人生で成功し、大いに祝福される方法がここにはあります。このように、聖書は全体であなたの役に立ちます。難しいと言っている場合ではありません。天国への道を歩み始めたのですから、ゴールしなければなりません。それを可能にするのが聖書です。一生かかって読み解いていくのです。宝探しゲームのようなものです。楽しみですね。

 

7月17日(日)

聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。

ガラテヤ3:7~9

 

私たちは福音を聞いて信じたので救われたと言われます。それ自体ありがたいことです。だから、私たちは信仰がとても大切なことだと理解してます。今日の聖句によると、信仰の人アブラハムのことが引き合いに出されています。「神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して」と書いてあります。つまり、神様のご計画は、異邦人をイスラエル人のように、律法の行いによって義としようとは考えていなかったのです。そうではなく「神が異邦人を信仰によって義となさる」と決めていたのです。そこで、アブラハムに「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」と予告したのです。これを聖書は「福音」と書いてあるのです。さらに、「信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています」と書かれているのです。つまり、クリスチャンとは、「信仰によって生きる人」のことなのです。現代人が慣れているのは、行いによって義となる生き方です。もっとも神様は義とは認めていません。そうなると、自己義認となってしまいます。つまり、独りよがり、ただの自己満足、となってしまいますから本当の幸福にはなれないのです。それよりも恐ろしいのは、「律法の実行に頼る者は誰でも、呪われています」(10節)と、はっきり書かれていることです。ですから、慣れていない信仰に焦点を当てて、もっと真剣に信仰について学ぶことが必要です。あなたの信仰は大丈夫ですか、などと聞かれたら急に自信を無くすようでは心もとないですね。信仰は、楽しくやる方がうまく行きます。深刻になれば、慣れている肉で頑張り始めるのがオチです。そうならないで、しかも信仰によって生きる人にならなければなりません。実は、聖霊は何度も信仰によって生きるように促しているはずです。ただ、無視してきた可能性があります。自分の意識が主の恵みによって信仰によって生きることに集中できるようになれば、ずいぶん変われます。これは、クリスチャンの大きな課題です。神経質になりすぎると失敗しますから、やはり楽しく信じて生きる練習をすることからです。きっと、目に見えるほどの良い変化に気がつくようになります。

 

7月18日(月)

主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

ヘブル13:5

 

ありがたいですね。私たちは自分自身を知っていますから、ときには負い目を感じ、また何か上手くいかないと、すぐに自分を責めたり、人に怒りを向けたりするような者ですから、決して完全な者とは言えないのです。聖書から、少しずつ悟り、信仰を奮い立たせて、ようやく人を赦すことを覚えたり、神様の愛がどれほど人を高く引き上げるか経験したりして、クリスチャンとしてなんとかやっていけているのです。この世に影響されないで生きていこうとしても、全くと言っていいほど世の中から離れることができず、この世に流されているのではと心配になるほどです。それでも、信仰を守り、どうすれば良いよいキリスト者になれるのだろうかと考え、祈ったり、聖書を読んだりしています。気づけば、クリスチャンになってずいぶんと時が流れ、時には、孤独を感じることがあるかもしれません。特に試練に遭うと、神様が遠くに感じる時もあるのです。しかし、聖書はゆるぎなく、主のお言葉を伝えます。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」と。この主のお言葉は決して忘れてはいけません。主がいてくだされば、たとえ人が離れて行っても大丈夫と思えます。主は誠実なので、私たちが主を悲しませるような日にも、この同じお言葉を私たちの心に語るでしょう。ですから、勇気を出して、信仰生活を後悔のないように生き続けましょう。毎朝、「今日は良い日だ!」と言って始めるのです。主は、あなたを愛しておられるので、あなたを捨てないのです。嬉しいですね。

 

7月19日(火)

主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主に身を避ける者たちを主は知っておられる。

ナホム1:7

 

あなたは誰かにいつくしまれた経験があるだろうか。もし、思い出せなかったとしても、あなたの主は、はっきりとあなたをいつくしむことを公言される。この方が、あなたを襲う苦難の日のとりでとなるのだ。主を知らない人は、最悪の時に逃げ場がない。自分を守る何ものも無い苦難の日に、あなたは主の名を呼び、助けを求めることができる。人間は、自分の力でなんとかしようとするので、いたずらに苦しみ、さらに事態を悪くするので、恐れと不安が消えなくなる。私たちもそんな事になって、ようやく神のもとへ助けを求めに行くことになる。どこまでも自分勝手なのである。それでも、主が助けようとされるのは、主が慈しみ深いからである。できれば、苦難の日に素直にすぐ神のもとへと急ぐべきだ。あなたは、すでに信仰の訓練をされて、そのことを知っているだろう。だから、あなたは主を信頼してすぐに主に身を避けるはずだ。それが正解なのだ。あなたは経験から学んでいるので苦難の中で一生懸命祈っただろう。そして、身言葉の通りに主があなたを助けた。このことを繰り返し学びながら、主があなたを知っておられることを理解するようになる。このようにして、あなたは主を知り、信仰に成長してきたのだ。いざという時にこそ、人間の真価が問われるのだから、あなたは、苦難を通して信仰によって主の助けを経験し、御言葉の通りに主が避け所であることを知り、主を信頼してゆだねることを身につけてきたはずだ。このようにあなたには主への信仰があり、それは不確かな人生で唯一確かなものとなって、あなたの人生の安全の保証になっているのである。このような信仰を持つ者を主は知っておられる。

 

7月20日(水)

あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を探しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。

マタイ18:12~14

 

用があって警察署へ行きました。そこには大きな掲示板があって、そこに「この人を探しています」と書いたA4版のポスターが何枚も貼ってありました。本人の顔写真と特徴が書かれて、いつ、どこで行方不明になったかが書かれています。ご家族がどれだけ心配していることか、と一枚一枚見ていくと、写真が人ではなく犬になっていて、「この犬を探しています」と書かれているポスターがありました。お世辞にも可愛い犬ではありません。年寄りと見えて毛並みも悪く、黒い毛がちょと色あせている感じです。それでも、ご主人は、この一匹のことで心を痛め、心配しているようです。なんとか見つけようとして、警察に掛け合ったのでしょう。尋人コーナーに人間並にその老犬の尋犬ポスターを貼らせたのです。犬でさえ、このように主人は一生懸命探すのですから、ましてや人間ならば、神様は探し出すはずです。その証拠に、クリスチャンとなった私たちがいます。私たちは、イエス様に探し出していただいのです。イエス様は、百人もいるのだから一人ぐらい滅びてもいいとは決して思わないのです。信仰を持ってクリスチャンになった九十九人を山に残しておいて、これは、神様に近い高い所にクリスチャンが置かれていることを意味します。迷子になっていて、放っておけば滅びてしまう一人を探しに行かれるイエス様は、必ず見つけて助け出し、連れ帰るのです。このイエス様を煩わせる迷子の一人こそが、私たちなのです。ありがたいですね。主に感謝しましょう。

 

 7月21日(木)

もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。

ヘブル3:14

 

クリスチャンの難しさは、せっかく洗礼を受けて新しく生まれたのに、サタンは容赦なく誘惑し、攻撃を仕掛けてくるために、罪を犯して元に戻ってしまったような気持ちにさせられることです。確かに、聖霊のバプテスマを熱心に求め続けてついに受けたなら、聖なる領域に入ることができ、霊の賜物も現れ、霊的に大きな飛躍を経験したと感じるだろう。しかし、そのように霊的な経験をしても、サタンの誘惑をまぬがれるわけではありません。戦いは最後まで続くのです。しかし、対抗する方法があることも事実です。それは、祈りを欠かさないことです。霊的な戦いの主戦場は祈りにあるのです。ですから、誰でもできる簡単な方法、つまり、祈ることで自己防衛はできるし、祈りで勝利することもできるのです。このような、基本的なことが信仰の成長や、品性の向上にも影響があるのです。そして、主イエス・キリストを信じて救われたことをあなたは忘れないと思いますが、霊的に確信を与えられているはずです。その確信を終わりまで保つことが要求されています。やはり、ある意味クリスチャンは日々戦っているのです。最初の確信が今に至るまで、あなたが信仰から離れないように支えているのです。ということは、サタンの狙いは、この最初の確信を攻撃して、その確信を疑わせたり、忘れさせたり、消し去ってしまおうとするということです。パウロが、聖書の中で繰り返し、最初にダマスコの途上でイエス・キリストに出会ったことを書いていますが、このことが最初の確信につながったのです。あなたも、パウロほど劇的ではなくても主イエスとの出会いがあったはずです。そして、信じたのです。その信仰を守り通しましょう。再臨の日に、空中で王の王であるイエス・キリストにお会いするでしょう。その日が楽しみです。

 

7月22日(金)

わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。

フィリピ1:9~10

 

クリスチャンは、今日の聖句をよく覚えておいて欲しいと思います。使徒パウロの祈りです。この世の人たちは、ゴシップが好きです。特に人の悪口が大好きです。何が本当のことかなどどうでもいいのです。偏見でも、憶測でも、真偽を問うことなく、一緒に人の悪口を邪推して言ってしまうことが誘惑となるのです。聖書を学んだ人は理解してますが、人を裁いてはいけないのです。たとえ、自分を迫害する者であっても呪うのではなく、祝福するのです。ただ、クリスチャンは成長し成熟することが期待されています。ですから、いつまでも初心者であってはいけません。大切なことは、「知る力と見抜く力」を身に着けることです。これは、罪人にはできません。罪人は、先に出てきたこの世の人と同じことをしてしまうのです。人を愛で見ていないのです。ですから、人間的な好き嫌いや、自分に好意的かどうか、都合の良い人か、逆らわない人か、など、どこまでも自己中心な考えが根にあります。しかし、聖句で言っていることは、「あなたがたの愛がますます豊になり」と条件が付いているのです。この愛はアガペーです。ですから、神からくる愛です。内住の聖霊に従うことができるようになれば、どんどん愛が出てくるのです。その上で、私たちはイエス・キリストのために働くことが求められているので、自分のうちのイエス・キリストが相手を知り、見抜くのです。それは、この人を主が救おうとされているからです。人を助けたり、主の愛から離れないようにしたり、悩みを主によって解決することも、全て「知る力と見抜く力」によるのです。「本当に重要なことを見分けられるように」ならなければ、クリスチャンもただの人なのです。人を愛し、助けたいと願い、キリストのように人に寄り添って同情することができる人になるように、私たちは導かれています。自己吟味して、信仰によって生きることの意味を理解しましょう。主の愛は、すでにあなたの内に宿っています。それを自分の思いで押しとどめてはいけません。主の願う通りに自分自身を聖霊に明け渡しましょう。あなたは、まだまだ成長できます。主の御用に用いられるような有用な人になれるのです。

 

7月23日(土)

こう言われているからです。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。

Ⅰペトロ1:24、25

 

田舎道を歩いていると、道端の雑草が綺麗な花を咲かせているのに目がとまります。小さな花は可憐で美しいのです。神様の御業だと思わず讃美したくなります。これほど美しい精巧な花を生きたものとして人間は造ることはできません。この草花は瞬く間にしおれて、花を散らします。はかないものですね。人間も同じです。赤ちゃんで生まれ、だんだん成長し、ついには老人になります。ただ、草花よりは随分長く生きます。その分、いろいろな思い出が残ります。人生は長いので良い思い出も悪い思い出もあります。そして、信仰があれば、最後に良い人生だったと満足できるでしょう。普通でしたら人は、草のように枯れ、花のように散っていくものです。しかし、私たちは主イエス・キリストに出会ったので、そして、信じて救われました。主は、聖書にお言葉を残されました。それは、私たちとの約束です。その約束は、恵みに満ちたものです。ですから、福音と呼んでいます。この福音は、永遠に変わらないのです。ですから、私たちは、死んでも復活することを知っています。今は順調に年をとっていますが、実は永遠の命をいただけるのです。おじいさん、おばあさんいなって死んでも、復活した時には霊の体をいただくようです。ですから、おじいさん、おばあさんのまま永遠に生きるわけではありません。よかったですね。神様の愛が私たちを招いています。この愛にすべてをかけるのです。この世界で、永遠に変わらない主の約束のお言葉を信じることは、すでに神の国に入っていることになるのです。この世のことで、心を乱す必要はありません。何しろ、永遠の時間があるのですから、のんびりと今日をはじめましょう。

 

7月24日(日)

まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、皆そうである。」

Ⅰコリント2:9

 

誰かからプレゼントをもらうことは、大変嬉しいことですが、相手の方は、こちらの好みを調べ、できるだけ喜ばれるものを吟味して贈るものです。特に、お中元のような儀礼的なものでなければ、相手の喜ぶことを願ってプレゼントを探すことになります。私の孫の一人が誕生日が近づき、欲しいものを聞くと、今はやっているというオモチャのリクエストがきました。全く知らないものでしたが、欲しい物が一番喜ばれると思いますから、正解を知ったわけです。天のお父様は、私たち神の子供たちに、ものすごいプレゼントを備えています。それは、この地上にはない物であったり。見たこともない素晴らしい物や出来事です。聞いたことのない、人の心に浮かんだことすらない、というすごいプレゼントです。しかも、一つではないのです。信仰を持って生きる限り続く最高の贈り物です。それは、時には奇跡のような出来事かもしれないし、感動することであったり、聞いたことのない天使のコーラスかもしれません。この地上でも、神を愛する者のためには、良いものが備えられています。ましてや、天国では感動すること請け合いです。ですから、あなたはクリスチャン人生を楽観的に考えても大丈夫です。主の備えてくださるものを楽しみにして生きていくのです。神の愛はあなたの心を直撃するはずです。神はあなたのことをよく理解しておられるので、あなたのために本当に素晴らしい備えをなさっているのです。それらは、あなたのものです。主を讃美して今から感謝していましょう。

 

7月25(月)

天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。

エフェソ1:4、5

 

皆様が救われたのは、神がキリストにおいてお選びになったからです。それだけではありません。あなたをキリストによって神の子にしようと前もってお定めになっていたのです。もちろん、そのためには、聖なる者、汚れのない者にしなければなりません。これも、人間の努力や力によらずに、神とキリストによって成し遂げるのです。あなたは、人間は被造物であると教えられたはずです。神が他の動物のように人間も地のちりから創造しました。それなのに、キリストを信じて罪の贖いを受けた人たちは、さらに神の子にされるのです。これがどれほど大きな恵みであるかわかりますか。つまり、天国へ入ることになっているということです。そのことが分かれば、この世の生き方も大きく変わります。物事の見方も違ったものになるでしょう。主イエス・キリストがお語りになった御言葉が初めて、意味がわかるようになるでしょう。キリストが教えられた通りに、物事を見たり、考えたり、行動したりするのです。そこには、いつでも愛があります。あなたの言動が愛に根ざしていることで、キリストの良き香りとなっています。無理をしてそうなるのではなく、神を愛していることで、自然とそうなるのです。このように、聖書に預言されているのですから、信じて楽に歩んで行きましょう。

 

7月26日(火)

この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を、目標としています。

Ⅰテモテ1:5

 

キリスト教は愛を強調します。当然、クリスチャンに対する命令も、「互いに愛し合いなさい」となります。また、愛の讃歌と呼ばれ、結婚式でも朗読されるⅠコリント13:4~8にも、愛が何であるかを教えています。クリスチャンは、この愛が生涯の課題となります。ところが、愛が自分にはないと思わされる事が起こるのです。それどころか、自分が愛と思っていたことが、愛ではないということまで起こるのです。例えば、ある男性が好意を持った女性がいて、その女性を愛していると思っているのです。ところが、その女性は、その男性を何とも思っていない場合です。男性は、当然のこと彼女にフラれてしまいます。すると、自分がこんなに愛しているのに、なぜ、その愛に応えないのか、と怒りになり、恨みとなって、彼女に復讐心をつのらせる、といったことは小説だけではなく、実際にも起こるのです。この男性の愛と思っていたのは、自己愛であって、聖書の示す愛とはかけ離れています。このように、愛と一言で言ってもいろいろな愛があるために、クリスチャンは、聖書の教える愛を学ばなければなりません。何しろ、私たちが救われたのは、神が愛してくださったことのおかげだからです。そこで、愛を考える時に、今日の聖句から学んでいただきたのです。「きよい心」と「正しい良心」と「偽りのない信仰」とから出てくる「愛」を目標としているのです。もちろん、罪が赦され、清められ、聖霊が内側にいてくださらなければ、アガペーの愛が現れることは期待できません。日々、聖霊を求め、そして、三つの条件を満たす事ができるように、祈るのです。この愛が出てくるようになれば、イエス様をもっと深く知ることができます。そして、クリスチャンとして生きていることを実感できます。愛の奇跡を目の当たりに経験するからです。クリスチャンとして、私たちはそこまで成長できます。楽しみですね。 

 

7月27日(水)

主は人の一歩一歩を定め

御旨にかなう道を備えてくださる。

詩篇37:23

 

さて、この聖句はアーメンなのですが、よく考えると不思議な気がしてきます。人生の歩みの一歩一歩が主の定めであるなら、私たちは人生を嘆くことも不満を漏らすこともなく、喜んで従えば良いはずですが、実際には良いことばかりの人生ではありません。それでも、信仰者は祈って苦難や困難を乗り越えて行くのでしょう。そのことがまたその人を研磨し、濁ったくもりを取り除き、だんだんと光を帯びてくるのです。「御旨にかなう道」を私たちは勝手に幸福で満ち足りた人生の歩みだと思っているのですが、どうも、実際にはそうでもないのです。もちろん、イエス様が苦難の道を歩まれたのは、御旨にかなっていたはずです。しかし、私たちは罪から救っていただいたので、人間的に考えて天国のような生活をすると思っていたのかもしれません。聖書に出てくるアブラハム、イサク、ヤコブの族長たちも主に祝福されていたのですが、波瀾万丈がありました。しかし、長らえた人生の最後は良いものでした。つまり、私たちにとって長い人生の最後が最も重要だということです。それも、主が御旨にかなった人生のレールを敷いてくださるのですから、普通に信仰生活を送れば、誰でも辿り着くことのできるゴールなのです。今は、まだまだダメだと思っている人も、自分の努力で天国に入る資格を手にするのではなく、ただ主の恵みによって救いの完成に届くのです。そこで、試練がやはりあってこそ、ダメだと思っていた自分が主に似た者へと変えられていくのです。ですから、人生で困ったり、大変だと思う時、神様が自分を聖なる者に変えているのだと思ってください。逆に見込みがなければ、何も試練は起こらないわけです。ですから、悪人が富栄えると見えることがあるのです。今日の御言葉は、私たちを励ます主のエールだと思えば、何も恐れることなく人生を楽しく生きて行けるのです。

 

7月28日(木)

強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

申命記31:6

 

人生に必要な教えは、ここに記されています。全ての人が強いわけではなく、むしろ弱い人の方が圧倒的に多いのですが、面白いことに、弱くても今日の御言葉を信じて実行する人が人生の勝者になるのです。私たちの強みは、決して一人で困難に立ち向かうのではなく、主ご自身が共に進まれるという約束が生きていることです。私たちは、クリスチャンとして日々訓練されているので、信仰で生きようとしています。初めは肉の誘惑に勝てないかもしれませんが、だんだんと信仰の意味がわかるようになってくるので、主に従順に従いたいという願いが起こります。それも主の恵みです。そこで、人間を恐れないようにしようと考えるようになります。主に従順になるには必要なことなのです。それは、主と共に人生を生きていく秘訣です。その報いも決まっていて、「主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」というものです。そうであれば、何も恐れることはなくなります。人を恐れなければ、主が共におられるので必ず勝利します。そのために「強くあれ、雄々しくあれ」と自分に言い聞かせておくことが肝要なのです。人生は、あなたの信仰によって主の歩まれる王道を歩むことになります。どれほど恵まれた道か、あなたはすでに歩み始めているのです。あなたには、良いことが待っています。

 

7月29日(金)

何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。

あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。

コロサイ3:23、24

 

本屋に行くと、「変わりたい人」という言葉がキーワードのように、自分の人生や自分そのものを変えたいと願う人がたくさんいるのだろうかと、つい思ってしまうほどそのたぐいの本が多く出版されています。確かに、この世で生きることは易しくありません。自分にとって天職といえるやりがいのある仕事につける人は滅多にありません。何をすれば良いのだろうと悩みながら、結局は雇ってくれるところで天職とはほど遠い仕事をしているのです。しかし、その人にとって、その時に最善と思う選択をした結果でもあるのです。幸い、クリスチャンになれたなら、人生はおのずと変わるはずです。聖書から学び、牧師や教会から学ぶからです。それは、この世の価値観とは大きく違っています。そのために、仕事まで変える人もいるぐらいです。さて、今日の聖句も、黄金律と言えそうな御言葉が出てきました。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」。この命令を実行するなら、その人の人生は変わります。もちろん、主の御目にかなう人になれますし、主の御心を実現する人になれます。この下句には、「報い」という言葉ができてきます。それは、「御国を相続させてくいただく」ことです。つまり、天国に入れる=完全に救われる、ということになります。しかも、「相続」と書かれているので、父からの相続は子が受けるものなので、私たちが神の子になるという意味でもあります。そして、わかりやすく言えば、私たちは主キリストに仕えているので、人生が変わったのです。心理学で変わったのではありません。はるかに素晴らしい救いを得たので、新しく生まれたというほど変われたのです。悪魔は、元のままだと言うでしょうが、それは嘘です。私たちは、主の恵みによって良く変えたれたのです。

 

7月30日(土)

どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。

マタイ18:19

 

クリスチャンになると、今日のみ言葉を教わります。そして、祈ることを早く覚えるように促されるのです。教会員の前で代表して祈らされこともあります。それも、祈りを覚えるようにと配慮されているからです。一番祈られるのは牧師からであると思われますから、牧師に祈りが似てくる傾向があります。それはともかく、祈りの力は圧倒的で、奇跡レベルです。それなのに、祈らないのは実にもったいことだし、祈りは霊の呼吸だと言う人もいますから、祈りが少なければ霊的に窒息してしまうということです。そして、祈りが神様の御力と直結していることを知るには、決して一人で頑張らなくても大丈夫です。今日の聖句を実行すれば良いからです。一人だと、つい利己的な祈りになりがちなところ、誰かと二人で祈ると、それは利他的な信仰の祈りになるのです。個人では主が共にいてくださる約束があります。それとは別に、二人か三人で主の名のもとに集まるところには、主もその中にいるのです。これは聖書に書かれているので真実です。そうなると、家族がクリスチャンになれば、いつでもその家庭はキリストのいる家となります。また、聖書研究会や祈祷会、礼拝、講演会、伝導集会、愛餐会など、主は意外と身近にいつもいてくださるという実感を持てるようになります。この世の人にはなかなか理解されないかもしれませんが、あなたはこの恵みを自分のものとすることができるのです。

 

7月31日(日)

あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。あなたは私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみを知っておられました。

詩篇31:7

 

時に、私たちは悩み、それが解決しないと魂の苦しみにまで深まっていくものです。しかし、クリスチャンには信仰があり、祈ることができます。そこで、カウンセラーに訴えるように、主に悩みを打ち明けます。問題は、ここからです。つまり、そこに信仰があるかどうかです。否定的な気持ちに打ちのめされていれば、心から信じることができないものです。「信じます」と口では言っても、心はすぐに打ち消しているかもしれません。こうなると、事態は一向に解決に向かいません。何しろ、「あなたの信じた通りになる」と聖書に書いてあるからです。しかし、主はあなたが祈る前から、あなたのことをご存知で、悩みも正確に把握しておられます。ただ、本人が信仰に固く立つことができないので、憐れみ深い主は助け舟を出されることがあります。つまり、主の恵みを味わうことで心が明るくなり、信仰の灯火を再びともすことができるように配慮してくださるのです。ところが、周りにこの人を励ます人がいないと、悩みに負けていじけてしまうことがあります。そうなると、主の恵みが与えられても、楽しみ、喜ぶことができなくなります。ですから、信仰者はいじけてはいけません。キリストも苦しんだのですから、この世で悩みがあっても、主を信じる信仰は失ってはいけません。よく周りを観察していると、主の助けが恵みとして与えられることがわかります。そうしたら、大切なことは主の恵みを楽しみ、喜ぶことです。これで、あなたの信仰は回復できます。肯定的な気持ちに切り替わっているはずです。これが信仰者の特権なのです。