2023年9月ディボーション

9月1日(金)

「わたしの言葉にとどまるならば」

ヨハネ8:31

 

私たちは、イエス・キリストが生きておられる時に、生まれていればお会いして直接お話を聞けたのに、と残念に思うことがあります。イエスが癒しや悪霊追い出しをするところを実際に見たいと思ったことはありませんか。今は、イエスがいないから信じる人が少ないのではないか、と考える人もいるでしょう。しかし、あなたはイエスに会ったことがないのに、信じてクリスチャンになりました。これはどうしたことでしょう。あなたは実際に魂の救いを経験しています。まさに奇跡を体験しているのです。そして、このことはペトロも認めています。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」(Ⅰペトロ1:8、9)。イエスが「わたしの言葉にとどまるならば」(ヨハネ8:31)と言われたのは、結局、イエスが昇天し、会うことができなくなってもイエスの言葉が残れば、その言葉に魂を救う力があるということです。現に、私たちは御言葉でイエスを信じて救われたのです。愛の無い者が御言葉で自分が無条件にイエスに愛されていることを知り、イエスを愛するようになったのです。救いの確かさは、イエスに自分がそのままで愛されていることを知って、不思議なことに、ありのままの自分を愛せるようになったことです。イエスを信じる喜びがあります。イエスが愛してくださるのなら、何があっても耐えられるのです。そして、聖霊が自分の内に住んでいるのがわかるようになります。そうすれば、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれるのです。主を信じてよかったと素直に感謝があふれてきます。この世の雑音に飲み込まれて喜びが消えてしまわないように気をつけましょう。あなたは、やはり選ばれた人なのです。主に愛されて喜んで生きていく人なのです。

 

9月2日(土)

何もかも、もの憂い。

語り尽くすこともできず

目は見飽きることなく

耳は聞いても満たされない。

コヘレト1:8

 

これが人間の有様です。ですから、私たちはスマホを手にしました。「目は見飽きることなく」とあるとおりです。ですから、スマホが悪いと言っているわけではありません。スマホがない時代から、人間は目で罪を犯してきたのです。信仰を持つようになってから、あなたは変わったでしょうか。あなたは目に見えない神を信じるようになったのです。そして、霊的なことに真の価値があると認めているのです。この世の栄華は必ず朽ちて色褪せます。それなのに、そのようなものに目が向けられているのです。ですから、霊的なものを見ようとはしないのです。神を知ることは聖書で勧められています。そして、クリスチャンにとっては、絶対必要なことなので、最優先事項です。それなのに、目は見飽きることなく、空しいものを見続けて、やるべきことをおそろかにしているのです。ちょうど、子供が宿題をせずにゲームに夢中になっているようなものです。霊的なものを知らないのなら、仕方がないし、聖霊が内住していないのならできないことですが、クリスチャンは聖霊に助けていただけるのです。見えない神を愛しているのですから、心の目は見えない神を見ようとしているのです。さて、今日の聖句の最後に「耳は聞いても満たされない」とあります。つまり、満たされたた聞かなくなるということなのでしょう。人混みの中に行けば、ワイヤレスのイヤホンをしている人がたくさんいます。電車の中でも、見かけます。何を聞いているのでしょう。私たちは、キリスト者として、聞いて良いものと聞いてはいけないものを区別しなければなりません。それは、影響をモロに受けるからです。多く聞いたものが記憶され、考えや価値観にも影響を与えます。昔、アメリカの有名なロックバンドの演奏に、悪魔の声が入っているとか、歌詞に呪文が入っているとか、悪い噂が流れました。アメリカには悪魔教があるし、ラジオ放送も行っているので、驚きはしませんが、注意が必要なのです。目で見たいと思っているものへの愛着や耳で聴きたいと願うことには、安全の保証はありません。小説でも読むと危険なものがすぐに手に入るのです。あなたが、再臨に備えて聖化の道を選ぶなら、目に見えない霊的なものへと心を向けることから始める必要があります。今では、信仰が与えられているので、自分は弱いからと言い訳できなくなってしまったのです。喜びは、空しいものにはありません。清いもの、聖なるものにこそ、私たちの喜びがあり、平安があるのです。祈って考えてみましょう。

 

 9月3日(日)

主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

ヘブル13:5

 

神様の救いがすごいと思うのは、私たちを見捨てないということです。私たちは自分のことをよく知っています。ですから、神様に見捨てられるのではと心配するようなことにだってなるのです。しかし、今日の聖句を読むと勇気づけられます。私たちも、クリスチャンとして主の御心にかなう者になりたいと願っています。ところが、主のお与えくださった新しい掟「互いに愛し合う」ことすら、簡単には守れないのです。それどころか「赦す」ことでも、難しくて困ってしまうことがあるのです。こうしたことは、いつまでも人間の目で人を見ているからです。聖書を読んで知っているはずのことがどうもうまく行っていません。聖霊が自分の内に住んでくださり、新しい命になって新生したのだと知っているのです。でも、信仰が薄くて、信じきれていないようです。ですから、信仰ではなく自分の感情で生きてしまい、結果、失敗することを繰り返しています。人を変えるのは愛の力なのです。だから、主は私たちを無条件に愛してくださいました。その愛の力で、私たちは変えられたのです。そして、主は、今度は私たちが同じように、隣人を愛するように促しているのです。ところが、赦せないと思うような人が隣人として現れるのです。聖書の教えは、「赦しなさい」とわかっているのに、私の思いを優先するなら決して赦せないのです。私の感情や思いは間違ってないはずです。それでも、赦すのはとても難しいことなのです。もし、赦せるとしたら、それは自分の感情や記憶、思いを消すしかありません。つまり、死ぬことです。イエスは、そのことを知っていたので、十字架に死んでみせました。イエスは、だからあなたを赦せたのです。そして、さらに、あなたが信仰で死んで赦せるように、十字架を用意しておられるのです。悪いのは相手なのに、私ばかり損をしていると思われるでしょうか。でも、イエスは、あなたに対してちゃんと死んで赦してくださったのです。これが主の愛です。あなたは、この主の愛で救われました。ですから、あなたも主を愛しているのです。つまり、あなたの内に赦すことのできる愛があるということです。あなたが隣人を愛したら、その人は救われるでしょう。あなたが主の愛がよくわからないと言うのなら、今日の御言葉を瞑想してみましょう。圧倒的な主の愛があなたに迫っているのです。この愛にだけ心をとめて生きていくのが、あなたの生き方なのです。

 

 9月4日(月)

あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられた通りの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。

コロサイ2:6、7

 

キリスト教の信仰は実にシンプルです。聖書が与えられているので、ここに書いてある通りに信仰生活を送れば良いのです。難行苦行のようなことは特に必要ありません。大切なことは、キリストに結ばれて生きて行くという自覚を持っていることです。さらに、「キリストに根を下ろして造り上げられ」とあるのですから、フラフラしているようではいけません。覚悟が必要なのです。この世で楽しく生きていこうなどと考えれば、この世に根を下ろして、この世の人として造られて行くことになります。それは、結局罪人と変わりありません。この世の価値観に合わせていれば、いつかはキリストではなく罪人に戻るしかないのです。それは、実につまらない最悪の選択です。クリスチャンになったのなら、神の完全な救いを受けることです。その方法は、今日の聖句に書いてあります。キリストに繋がっていなければ、キリストに似た者にはなれません。あなたは何らかの方法で、信仰を教えられているはずです。それならば、その信仰をしっかり守っていかなければ、救いは挫折してしまうかもしれないのです。クリスチャンは、聖書の通りに実行して、その不思議な力を味わうことができるのです。神の恵みは尽きません。それは、感謝によってはっきりしてきます。物をもらう喜びは、どんなに高価な物でも一時です。しかし、神の恵みは永遠なのです。毎朝、感謝しましょう。聖書は、「あふれるばかりに感謝しなさい」とあります。ですから、今日、試してみてください。すでに恵みを受けていたことがはっきりするはずです。

 

9月5日(火)

愛する人の与える傷は忠実さのしるし

憎む人は数多くの接吻を与える。

箴言27:6

 

この「愛する人」とは、自分のことを本当に思っていてくれる人のことです。ですから、男性でも女性でも当てはまるでしょう。親友であったり、妻や夫であったり、賢明で誠実である人が考えられます。あなたには、あなたのことを思って撃つ人がいるでしょうか。例えば、欲に駆られて間違ったことをしようとした時に、怒ってやめさせようと厳しい言葉でいさめてくれる人のことです。それで、傷ついたとしても、後で自分の馬鹿な企みが無理矢理にもとめられたので、被害に遭わずに済んだと言うようなことを想定てしているのだと思います。下句の「憎む人」とは敵のことです。見せかけは、あなたに好意的に笑顔を向けてきても、心の中では悪巧みを考え、あなたを騙そうとしていたり、あなたを困らせようとたくらんでいるのです。それを隠すように、愛想を振りまいているわけです。このようなことで、人が騙されるかというと、実に多くの実例があるのです。資産家であれば、その資産を狙ってくる悪者は数多いるでしょう。そして、そのような敵のうまい言葉や好意的に見える振る舞いに人は簡単に騙されるのです。そして、自分のことを本当に大切にしてくれる友が、そのことに気づいて、あの人はあなたを騙していると忠告すると、喧嘩になってしまうのです。その結果、友を失い、財産も失うことになり、悲惨な生活に放り込まれるのです。人の本心を見抜くことはなかなか難しいものです。それですから、時間をかけて見分けるようにしなければなりません。信頼できる人が一人でもいる人は幸せです。ここでは、年齢は関係ありません。自分のことを本当に心配し、考えてくれる人、思いやりのある人があなたを傷つけることがあっても、感情的に判断しないことです。時間を空けて冷静になってから祈って考えてみると本当に自分のことを思っていてくれる人が誰かわかるはずです。

 

9月6日(水)

しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。

Ⅰテモテ1:16

 

パウロは、私たちの手本となりました。ただ、誰でもパウロみたいになりたくても、なれないかもしれません。パウロは偉大だからです。パウロがいなければ、信仰による義は未だわからなかったかもしれません。しかし、パウロの理解から、私たちが学ばなければならないことが多くありますが、今日の箇所はちょとと変わっています。難しい神学ではありません。パウロは、キリストの迫害者でした。そして、キリストを信じる者の敵でしたから、神の罰を受けて滅びてもおかしくなかったのです。しかし、実際にはイエス・キリストが現れ、パウロは声をかけられ、全てを悟りました。自分が間違っていて、ナザレのイエスこそがキリストであることを知ったのです。その経緯を「わたしが憐れみを受けたのは」と言っているのです。パウロがイエスを「信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるため」に、イエスはパウロに限りない忍耐をお示しになったと言うのです。この説明はよくわかります。そして、私たちが今日、注目すべきは、私たちも罪人の頭であって、イエスの限りない忍耐によって救われたのです。そうであるからこそ、パウロに倣って、イエスを「信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となる」必要があるのです。人々のお手本となるというのは、ずいぶんハードルを上げているように感じるかもしれませんが、それができるように聖霊が送られてきているのです。初めは、パウロのように、聖書からイエス・キリストを学び、そして、自分がするべきことを聖霊に教えていただくのです。全員がパウロになる必要はありません。でも、パウロができなかったことをペトロや他の人たちが使命を担ったように、私たちにもそれぞれの使命があるはずです。それは、他の人にはできなくても、自分ならできることなのです。それは、後に続く人たちの「お手本になる」ことです。後に続く人たちとは、イエス・キリストを信じて永遠の命を得ようとしている人々のことです。つまり、クリスチャンとして粛々と生きることです。誰かが見ています。いや、主があなたを見せているのです。それほど、あなたには価値があり、愛があるのです。

 

9月7日(木)

ご覧ください、与えられたこの生涯は

僅か、手の幅ほどのもの。

御前には、この人生も無に等しいのです。

ああ、人は確かに立っているようでも

すべて空しいもの。

ああ、人はただ影のように移ろうもの。

ああ、人は空しくあくせくし

だれの手に渡るとも知らずに積み上げる。

主よ、それなら何に望みをかけたらよいのでしょう。

私はあなたを待ち望みます。

詩篇39:6~8

 

私たちは、どの時代に生まれたらよかったのに、と思うほどの知識がありません。子供時代にどのような環境で育ったかでその後の人生に影響が出るかもしれません。生まれつきの才能や性格が一生自分についてきます。大人になって社会人になると、ようやくその仕組みがわかってきます。韓国のような壮絶な学歴社会では、一生競争して生きていかなければなりません。一方、南国で昔から変わらぬ大家族で生活をしていて人たちには、特に不満もなく、のんびり暮らしている人たちもいます。日本では、勝ち組、負け組と騒いでいましたが、そのようなことも空しいものです。日本を理想の国にしようと考える人もいるかもしれませんが、その理想がわかりません。刻々と世界は変わり、人知では計り知れない難問ばかりが世界を苦しめています。地球温暖化を止めようとしても、先進国の快適で便利な生活をやめられない、二酸化炭素を出し続ける金儲けもやめられない、と身勝手な人間は、自分達の生活を取り返しのつかない危険で苦しいものへと突き進むことをやめません。これも空しいことです。長く生きても、反省しようとすれば、反省だらけの人生になってしまいそうです。昔は、死なないように気をつかっていたのに、今は長く生き続けてどうやって暮らしていこうかと心配しています。何十年も生きてきて、振り返るとそのほとんどのことを忘れ去り、どんな人生だったのかと考えることも楽しくはないのです。詩篇詩人は、大昔に人生の空しさを詩にしました。これからも生きていかなければならないのに、空しさに気がついてしまい、何に望みをかけたらよいのか、と問いかけます。その答えは、「私はあなたを待ち望みます」。結局、信仰を持てたことがどれほど幸せなことであったか、と気づかされます。空しさから救い出してくださった主イエス・キリストを信じて、この世を慕うことが無くなったのです。この世で勝ち抜こうとする必要もないし、自分は負け組と嘆く必要もありません。そんなこと意味がないのです。朽ちていくだけの世界で何を積み上げると言うのでしょう。本物の希望は永遠に耐えるものにあります。クリスチャンになって、この世の人と同じように苦労していると思っているなら、それは勘違いです。この世の人の苦労には報いはありませんが、クリスチャンの苦労は、品性を磨き、古い人を死なせ、新しい人に生きていくことに役立つのです。また、信仰を強め、信仰によって生きる者へと成長させます。信仰が強まれば、神の国に入ることができます。神の支配に服従することができるので、信じた通りに生きていけるのです。この世の見せかけに騙されるのは暗闇にいるからです。クリスチャンは光を見出したのです。イエス・キリストから離れてはいけません。賛美しなさい。主はそこにおられます。きっと目が開かれるでしょう。

 

9月8日(金)

わたしは心が騒ぎ

はらわたの裂ける思いがする。

わたしは愚かで知識がなく

あなたに対して獣のようにふるまっていた。

あなたがわたしの右の手を取ってくださるので

常にわたしは御もとにとどまることができる。

あなたは御計らいに従ってわたしを導き

のちには栄光のうちにわたしを取られるであろう。

地上であなたを愛していなければ

天で誰がわたしを助けてくれようか。

わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが

神はとこしえにわたしの心の岩

わたしに与えられた分。

詩篇73:21~26

 

クリスチャンになった方は、自分の罪と向かいあい、罪の暗黒の面をしっかり見た人たちです。そうであるから、血みどろの十字架に希望を見出すことができたのです。私たちがどのような者であるかを知ることは辛いことでした。それは神から見て罪人であったからです。その生き方は、今振り返れば獣のようなものでした。肉欲の中で人とぶつかり合ったり、傷つけられたり、傷つけたり、とどこを目指して生きているのかもわからず、ただ生きていたのです。しかし、幸いなことに、イエス・キリストが見つけ出し、救って下さったのです。元々信仰があったわけではないので、主が私たちの手を取って支えておられたのです。そうでなければ、とっくに逃げ出し、滅びの道を進んでいたでしょう。主のつかまれる手は私たちの右の手です。つまり、主のおかげていつでも正しい方を選ぶことができたのです。それは、多くは主の御もとにとどまることでした。私たちは、そうした主の恵みのおかげで、聖なる者になるように、計らってくださり、主の御手で導かれるのです。その結果、私たちは神の国へ入ることができるようになり、栄光のうちに眠りにつくか、再臨を生きて迎えるのです。たとえ、この地で善行を積んだおかげで天に行けたとしても、この地上で主を知り、愛していなければ、天で誰が助けてくれるでしょう。私たちは、だんだんと衰え、老人になるでしょう。そして、やがては寿命が尽きて朽ちていくのですが、私たちには保証があるのです。それは、永遠に不動な主イエス・キリストという岩であり、私たちに命を与えて愛してくださるイエス様なのです。だから、希望があります。あなたの信仰は大いに報われるのです。ですから、心配せずに主を信頼していましょう。

 

9月9日(土)

あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。

主は、とこしえにいます神。

地の果てに及ぶすべてのものの造り主。

倦むことなく、疲れることなく

その英知は究めがたい。

疲れた者に力を与え

勢いを失っている者に大きな力を与えられる。

若者も倦み、疲れ、勇士もつまずきおたれようが

主に望みをおく人は新しい力を得

鷲のように翼を張って上る。

走っても弱ることなく、歩いても疲れない。

イザヤ40:28~31

 

私たちは創造主を知っています。あなたが生まれてきたのは、神が望まれたからです。この世界は確かに罪に満ちています。驚くことにすべての人が罪人なので、神が救いの道を開き、御子イエスを遣わしてくださいました。しかし、この世は暗闇で、御子イエスを光と信じた人だけが救われました。もちろん、救われたことは大きな意味がありましたが、罪人の悲しさ、なかなか理想通りにはいかないのです。せっかく、罪赦されたと言われても、また罪を犯してしまうほどの者なのです。それでも、真の神を信じているので、だんだんとクリスチャンである意味がわかってきます。人を赦すことも、愛がそうさせるようになります。赦すと言っているのですから、自分にひどいことをした人を赦しているのです。それなのに、傷ついた痛みよりも、主を愛することで学んだ、愛が満ちてくるのです。どんなに、人間的に攻撃されたり、悲しい思いをさせられても、主の愛が優っていて、自分のうちに確かにあるのです。以前は自己正当化することが当たり前だったはずなのに、いつの間にかそれが消えているのです。主の愛は人を恐れません。自分に頼れなくなっても、主に望みをおくことはできます。その信仰は、期待はずれに終わることはありません。いつでも、過分な恵みが降りてきます。精神的な疲れは無くなり、弱ることがありません。信仰の長い旅路も決して疲れないのです。主が新しい力を満たしてくださり、何でもできるのです。

 

9月10日(日)

神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできなります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

ローマ16:25~27

 

この聖句は、ローマ書の締めくくりに書いてあります。それは、パウロが宣べ伝えていた福音のことです。旧約時代には隠されていた秘められた計画が、キリストの初臨によって神の救済計画が明らかになったのです。このキリストの出来事が私たちの救いを可能にしたのです。さらに、福音は異邦人に宣べ伝えられたのです。それによって、世界中の人が福音を聞き、信仰によって救われるようになったのです。クリスチャンになった人たちは聖書を通して信仰による従順に導かれています。終末の最後には情報が簡単に世界中に伝わるようになりました。それによって、すべての異邦人に知られるようになりました。神の知恵は人間が二千年かけてもできないことをあっという間に実現したのです。このように、福音は止めることができません。人が語らなければ、AIが語り出すでしょう。人はイエス・キリストによって誰でも救われる道が開かれているのです。私たちは、パウロのように、「この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありあすように。アーメン。」と讃美します。

 

 

9月11日(月)

わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。

詩篇32:8

 

私たちは、どのような価値観で生きているでしょう。クリスチャンであるから、愛に生きようと思っているのでしょうか。聖書を学べば、この世の考えとは逆に損するように生きなければならないように感じるかもしれません。しかし、パウロは行いによる義ではないと教えます。言葉は難しいですが、つまり、良いことをしようと頑張ってできるようなことを神様は正しいと認めてくれるわけではない、と言っているのです。確かに、自分にひどいことをする人を赦すことも、苦しい経験です。本当なら復讐したいところなのに、赦すのですから、どれだけ大変かわかります。そうすると、キリストの教えていてることができないとあきらめてしまう人が出てきます。その結果は、実に悪いのですが、本人は気がつきません。しかし、キリストの御言葉を実践する人がいるのも事実なのです。彼らは、この世の人にすでに勝利しています。負けたように見えるますが、実際は見た目とは逆なのです。こうしたことは、天国へ入ってからわかっても意味がありません。中途半端なクリスチャンではダメなのです。自分のせいで人をつまずかせたくはありません。そして、あなたはクリスチャン人生でどうしたら良いのか迷うことが起こります。大きな決断が必要な時には、神様の啓示が欲しいのです。どっちへ行けば良いのか教えて欲しいのです。あるいは、自分の考えではこうしたいと願いがあっても、それが必ずしも神様の御心にかなっていない時には、悟りが欲しいのです。神様は自分のことをちゃんと考えていてくださり、より良い道へと導いてくださるお方です。ですから、自分がこだわっていつまでも無駄な遠回りをしているなら、すぐにでも悟らせてくださって誤りを正して欲しいのです。今日の御言葉は、まさに神様からの答えです。神様は頼りになります。あなたは、いちいち迷わなくても済むのです。主が教えてくださる行くべき道を悟れるようにしてくださるからです。必要なら、主が助言まで与えてくださるのです。この約束を自分に成就するために、中途半端なクリスチャンはやめるべきです。狂信家になっては行けませんが、普通に聖書を読み、祈り、信じ、主に忠実に従うことです。その人生は、間違いがありません。このディボーションを読むように導かれているのですから、今日の聖句は、あなたへの主の約束です。

 

9月12日(火)

神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。

詩篇46:1

 

聖書を読み始めてから、すぐに見つけ、それ以来この御言葉の通りに助けられてきました。これからも、この御言葉を信じているので、私には人生につきものの困ったことや悩みは、近づいてこないでしょう。しかし、若い頃には、人並みに試練もありました。それでも、こうして元気に今は穏やかな日々を過ごしています。クリスチャンなら、今日の御言葉は覚えておくべきです。それは、本当に役立つからです。私たちは、若い頃は未熟で些細なことでも、すぐにつまずき、うろたえ、怒り、落ち込み、恨み、いつまでも囚われ、考えてみれば愚かなことなのですが、気づけないのです。そして、さんざん自分の力で頑張り、力尽きてしまいます。それにしても、今日の詩を読むと、神が私たちの避け所であれば、どんなに心強いでしょうか。好ましくない人、物、事態に近づかないように、避けるように、神が避け所となってくださるのです。それでも、私たちの弱さは、苦しむ結果となることもあります。そんな時でも、神がそこにある助けなのです。ですから、主を信じていることを片時も忘れないでください。これほどの恵みがあるでしょうか。感謝ですね。

 

9月13日(水)

あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

ローマ12:2

 

時代が進み、世の中は大きく変わりました。SNSのような情報革命が起こり、世界中のニュースがいつでも身近にあるのです。そのために、ますます人は情報に支配されやすく影響を受け続けます。その結果、「この世に倣ってはなりません」と聖書が命じても、難しい時代になっています。そこで、クリスチャンとして、どこに注意を向けるかを考えておく必要があります。聖書は明確です。⑴「心を新たにして自分を変えていただ」く。心の刷新はクリスチャンにとって大きな意味があります。聖霊が降れば、この御言葉の通りになります。ただ、霊的ハードルが高く感じる人が多いと思いますから、自分の神様への願いを明確にします。①「心を新しくしてください」と②「自分を主の御心にかなうように変えてください」。この二つを祈り求めます。それから何も考えずに生きることをやめます。⑵クリスチャンがわきまえなければならないことを明確に理解します。それは、①「何が神の御心であるか」、②「何が善いことか」、③「何が神に喜ばれるか」、④「何が完全なことであるか」の四つです。クリスチャンが霊的成長とか言われてもどうすれば善いのか困るでしょうから、今日の御言葉をもとに、整理しました。これらがあなたの課題です。祈りの課題でもあります。きっと、良い成果が期待できます。実践すればですが。

 

9月14日(木)

あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。

詩篇103:5

 

家を訪ねてきた人が、仕事をしていないのか、と聞いてきました。昼間から、家にいてフラフラしているものだから、怪しんで聞いてきたのでしょう。もう70歳になるから、と言うと大袈裟に驚いて、「えっ!!全然見えませんよ、若いですね~」と言うではありませんか。私は、そりゃそうだ、神様が「あなたの若さは、鷲のように、新しくなる」とおっしゃったのだから、効果が出ているんだ、とニッコリ笑いました。その人は、「本当に働いていなのですか、まだま働けますよ」と力説するのです。それで、その人に実は牧師だと言うと、ものすごく驚かれました。鎖国時代にキリスタンを見つけてしまった人のように、はたまた、浪人だと思っていたら実は暴れん坊将軍だったと気がついた人のように、絶句しているのです。踏み絵を持っていたら、踏めますかとテストされていたかもしれません。日本で一般の人が牧師と出会う確率は交通事故に遭うより低いでしょう。だから、住宅に普通に暮らしていることにも驚いたでしょうね。しかも、私たちは「あなたの一生を良いもので満たされる」と約束されているので、その人は私が幸せそうに太っている姿を見てしまったのです。フィリッピンのマクドナルのコマーシャルは、幸せそうな四人家族が出てきます。お父さんもお母さんも息子も娘もみんな小太りなのです。それがフィリッピン人の思い描く幸福な理想の家族像だそうです。それを聞いたせいか、それともフィリッピンにいたせいなのか痩せなくなりました。どこか、痩せた家族が理想像という国があれば、教えて欲しいのですが、なかなかなさそうです。さて、私たちは知っています。神様を信じていれば、良いことがあるということを。それを忘れて、すぐに悲観するのは良くありません。それで、今日の聖句は短いので覚えてしまうと良いと思います。これで、あなたは一生幸せでいられますよ。多少ぜい肉がついても、それが幸せの証拠なのですから、それぐらいしかたありませんね。

 

9月15日(金)

あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、”霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。

Ⅰペトロ1:2

 

今日の御言葉からわかることは、天の父なる神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、聖霊によって聖なる者とされたのです。たまたま、キリスト教になったとか、偶然洗礼を受けてクリスチャンになったのではないということです。皆さんは、すでにご存知の通りに、私たちは罪人でした。ですから、自らの力で頑張ってみても聖なる者にはなれないのです。パウロに言わせれば、「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。」「わたしの五体の内にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。」(ローマ7:21、23)と「法則」という強い言葉を使っています。つまり、自分の意志の力ぐらいではどうすることもできない変えられないものとして法則と言っているのです。そのような罪人の罪を人間が解決できるはずがありません。それで、主イエス・キリストをキリストとして遣わしたのです。このイエス・キリストの内に救いの全てがあって、それが神の御計画なのです。つまり、人が救われるのは神の御計画があるからです。罪の問題が解決しただけでは、完全な救いとは言えません。そこで、聖霊によって聖なる者とすることが御計画に含まれたのです。罪人であった時には自己中心でしかありませんから、キリストに従うことができません。しかし、聖霊によって聖なる者にしていただければ、聖なるキリストに従うことができます。さらに、神の約束を信じることができます。それは、契約です。ですから、キリストの血が注ぎかけられる必要があります。このように、救いは人間の義の業によるのではなく、神の義の業なのです。そこで、あなたがたは選ばれたのです。ここに書かれた、わずかの言葉通りに信じていれば大丈夫です。でも、クリスチャンになってからも、自分の考えに固執したり、自分中心に考えるような人は、救いの御計画から外れてしまっています。ですから、ヘリくだりが必要なのです。あくまでも、神の御計画に基づいて、いなければなりません。聖霊を軽視することも危険です。聖書に書かれた通りに信じることが必要なのです。聖霊によって、聖なる者とされ、イエス・キリストに従う、という道順が決まっていますから、その通りに進むのです。キリストの血によらなければ、あなたが神の子になることは不可能なのです。ただ、力の無い弱い者でも、神は救うことができます。失敗ばかりの人生で、自信を失っている人でも大丈夫です。神に服従できない人は、砕かれます。謙遜な心が生まれたら、その人は御計画の内にいます。イエスは七の七十倍赦せとおっしゃいました。ですから、何度でも赦されて、御計画の通りに救われればいいのです。

 

9月16日(土)

いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。

ルカ18:1

 

困ると祈る。困らなければ祈ることを忘れる。これが人間の姿です。それでは、祈りはそれほど大切なことではないのでしょうか。いえいえ、祈りが大切であることは、昔から大勢の信仰の偉人たちが教えています。クリスチャンの集まりでは、よく祈ります。アメリカで牧師になった時に、日本人教会の牧師だから日本語で良いと聞いていたのに、英語で祈らなければならないことがしばしばありました。日本人とアメリカ人の合同礼拝では、英語で祈るのです。個人的な祈りならまだしも、公の場でしかも大勢の人が集まった場所で、祈るのは緊張するだけでなく、おかしな英語で祈れないと余計に大変でした。日本語でも、大きな集会では、祈る人は誰しもが緊張します。しかし、韓国人の牧師は実に祈りが素晴らしいのです。どうしてだろうと、思っていましたが、それは、世界で一番韓国人の牧師が祈っているからだと聞いて納得しました。時間数にすると世界中のどの国の牧師よりもダントツに時間をかけて祈っているのです。今日の聖句にある通りです。いつでも祈るべきです。祈る気になれないという時でも祈ると、その気持ち自体が変わってしまいます。祈りには力があります。祈ると神様に近づきます。祈りは全て神様に聞かれています。信仰者が祈れないという時には、何かしら事情があります。特に失望した時には、祈れないのです。しかし、よく考えてみれば、失望するようなピンチだからこそ祈るのです。どのようなことにも意味があります。一点だけ見ていると失望してしまっても、もっと広く見てみるのです。失望して一人で考え込むと、視野が狭くなり、光が見えなくなります。これでは、良い答えは見つかりません。そこで、祈ります。自分一人の問題としないのです。天の父もイエス様も聖霊も味方です。神様が味方なら、もう問題は解決したも同然です。自分の思いに固執するのではなく、主の御心がなることを受け入れられる私になって、信仰の祈りをしてみましょう。きっと、道は開けます。最前の答えは主にあります。それを知る方法が祈りなのです。もっと、祈りましょう。心を注ぎ出すように祈るのです。

 

9月17日(日)

わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、

Ⅰペトロ1:3

 

初めの賛美の言葉は、教会の形式的な言葉ではありません。救いを経験したクリスチャンすべての体験的な喜びと感謝の表れなのです。自分の救いの意味を理解しているからです。罪人の自分が自力で罪に勝利し、救いを達成することは不可能だったことを知っているのです。主イエス・キリストの十字架の贖いが無ければ、誰一人救われません。天の父なる神は、御子を通して私たちを救ってくださいました。私たちが救われたのは、神の憐れみと恵みによるのです。その神のなさったことは、わたしたちを新たに生まれさせたことです。これは、新しい世の始まりを意味しています。神の新創造が始まったのです。それは、あなたが主イエス・キリストを信じて、新生したことを意味しています。さらに、イエス・キリストの復活と結び合わせて、永遠の命への道が開かれたのです。私たちにとって、キリストの復活は希望となったのです。それは、キリストが死を打ち破って、復活されたことにより、私たちも死からの復活を確信することができるようになったことです。たとえ死んでも復活して、天国へ入れる道をキリストが開かれたのです。ただの願いではなく、生きた希望が与えられているということです。

 

9月18日(月)

また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。

Ⅰペトロ1:4

 

クリスチャンは、すでにこの世の者ではなく、国籍を天に移した者として自分を理解しなければならない。この世に執着すると、悪の誘惑に勝つことが困難になる。この世はいずれ滅びることになっているし、現に歴史が証明しているが、この世でいくら財産を貯めても、それが子孫にまで受け継がれていくことは難しい。満州に進出して財を成した者も全て失って命からがら日本に逃げ帰った人の話を聞いたことがある。戦後に大地主たちは、その土地を小作人たちに分け与えなければならなかった。革命が起これば貴族は全て失い、命すら失った。それでも、将来の不安から財産を持ちたいと思うのも人間なのだ。クリスチャンは、この世の欲を捨てているので、損をしているように見える。しかし、誠実に正しく生きることに一生懸命で、聖書に書かれた通りになりたいと願うことは良いことだ。そのようなクリスチャンには、報いがあるが、それが必ずしもこの世での報いとは限らない。何も期待していなくても、天の父には別の考えがある。それは、今日の御言葉にある通りなのだ。あなたのために、神が天に蓄えられているのだ。それは、確かに財産と言えるものだ。あなたが、聞いて信じた通りに、あなたがたが神の子にしていただいたから、あなたの分の財産があるのだ。それは、この地上のような、朽ちたり、汚れたり、しぼんでしまうような財産ではない。あなたの信仰の生き方は正しかったのだ。神を第一にして、信仰によって生きていることは、神に認められているということだ。だから、文句を言わずに、与えられた所で、忠実にイエス・キリストを信じて生きて行こう。

 

9月19日(火)

あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。

Ⅰペトロ1:5、6a

 

クリスチャンは偉いと思うのは、会ったこともない神様を信じているというところです。神様とお会いして握手でもすれば、これは圧倒的な経験ですから、仕事など辞めて伝道を始めるでしょう。もう、生ぬるいなどと言われることもないほど、熱心に神様が本当におられることを告げて回るでしょう。ところが、大部分のクリスチャンは(一部の人を除いて)一日の内ほとんどの時間を神様を忘れて生きています。困った時の神頼みは、クリスチャンでなくても、無神論者ですらします。ところが、それでも、会ったこともないのに神様を大切にし、神様の御声を聞いたこともないのに毎日の祈りも欠かさず、大昔の本なので難しい聖書もできるだけ読んで、礼拝し、献金も忘れずにし、できれば聖霊に満たされたいと願うクリスチャンがいます。彼らは、やはり神様に選ばれた人であると思います。今日の御言葉もそんな人への預言なのです。さて、この短い聖句の中に、注目すべき言葉があります。それは、「あなたがたは、心から喜んでいるのです」という箇所です。そもそも、救いというのも奥深いですね。確かに、私たちは罪人でしたから、罪からの救いという意味で、救いと言っていると思います。それで、洗礼を受けた後、本当に救われたと喜んだのです。それから、何年もの時間が過ぎて行き、自分はどうなったかと振り返れば、対して成長もしているようには思えず、聖なる者、キリストに似た者になったとも思えないで、何か中途半端な感じがするのです。現代人の苦手な霊的なことが関わっているとは思っても、どうすることもできずに、肉は霊のことがわからない、と言われれば、途方に暮れます。しかし、今日の聖句を読むと、「終わりの時に現されるように準備されている救い」と書いてあります。つまり、再臨の時に準備されている救いがあるというのです。ですから、この世で、今何か達成感がないのには、理由があったわけです。もちろん、信仰によって生きる立派なクリスチャンも大勢いるのも事実です。しかし、そのように完全になれないで、自分はダメだと嘆いているクリスチャンは、聖書に書かれたお勧めの基本的なことを忘れなければ、信仰によってちゃんと成長しています。聖霊が働いておられるので、内面では驚くほどの奇跡が起こっているのです。しかも、途中で脱落したり、信仰に成長できずに、最後の裁きに耐えられないのではないかと心配している人には、「救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」と書かれています。ですから、神様が働いてくださっているので、信頼して信じる信仰によって、守られているのです。このように、完全な救いは今もあなたのものですが、受け取るのは終わりの時なのです。しかしも、神様が守り、あなたの信仰があるので、守られているのです。そうであれば、とても嬉しいことですね。ですから、「あなたがたは、心から喜んでいるのです」と聖書に書いてあるのです。この「心から喜んでいる」というのが、あなたの姿です。ここに全てがかかっています。ご自分で考えているよりも、心から喜ぶことに意味があるということです。

 

9月20日(水)

主に望みを置き尋ね求める魂に

主は幸いをお与えになる。

主の救いを黙して待てば、幸いを得る。

若いときに軛を負った人は、幸いを得る。

哀歌3:25~27

 

私たちは、主に望みを置きます。人がなんと言おうと関係ありません。自分の置かれた状況が悪くても、辛い日々を歩まなくてはならなくても、主に望みを置きます。それだけでなく、昼となく夜となく主を尋ね求めるのは、私たちの最も深いところにある魂です。私たちは無力なので、試練に遭えば弱さを弱さを露呈します。自分の考えの及ぶかぎりを尽くしても自分を救えないとわかれば、魂は主にのみ望みを置き尋ね求めるのです。やがて、信仰によって悟ります。「主の救いを黙して待てば、幸いを得る」と。私たちはすぐに「忍耐」という言葉を使いますが、本当はせっかちなのですぐに救って欲しいのです。しかし、不思議とすぐには事は起こりません。その時に、腹をくくって黙って待つのです。文句を言っても、泣き言を言っても、どうしようもないのです。解決できるのは主のみだからです。そうやって初めて、主を信じて待つことができます。すると、驚くような幸いを得るのです。さらに、今日の聖句にはもう一つの真理が書かれています。それは、「若いときに軛を負った人」のことです。若いときに恵まれた人もいれば、そうでない人もいるのです。やがて、主に召されて救われる人で、若いときに何かしら軛を負っていた人は、幸いを得ます。人生は公平で、ひどいことだけの人生という事はありません。もしあるなら、何か例外的な特殊な事情があるはずです。主は、救う人を見ていますから、その人を大いに祝福することになっているのです。ですから、過去に縛られる必要はありません。悪魔がささやき、過去に引き戻そうとしても、主が十字架で決着をつけました。だから、自分で解決したとは思いにくいのですが、自分の知らない所で、主は助け出してくださったのです。古い自分を主の十字架に共につけ、尊い主の血潮で清めてくださり、新しい命に生きるようにと聖霊を吹き込み、主は「生きよ」と生かしてくださいました。だから、私たちは新しく生まれた人として、幸いを得ることになっているのです。だから、幸福になっても不思議ではありません。大いに満足して喜んでください。

 

 9月21日(木)

今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。

Ⅰペトロ1:6、7

 

試練は誰にとっても避けたいものです。クリスチャンになりたての頃に、聖書を読んでか、誰かに聞くかして、試練のことを知ります。しかし、それは、迫害されることと一緒になっているのです。ですから、信仰のゆえにひどい目に遭うのは嫌だと思うのです。反対に、自分はどのような迫害に遭おうと耐えてみせると意気込む人も出てきます。しかし、試練はもっと身近なことであり、自分自身の欠点を取り去るためにも、役に立つのです。何より、正しい信仰の持ち方ができるために必要なことなのです。今のような時代には、信仰に無関心の人が多くいるように、信仰を養うのには適していないのです。そのために、なかなか時間をとってまで祈ろうとする人は少なく、試練が契機となって祈るようになる人も出てきます。また、信仰の面白さは、試練によって本物と証明されることです。そして、信仰の長さではなく、たとえ初心者であっても試練でその人の信仰がすぐに発揮され、本物であることがわかるのです。何しろ、聖書が教えることには、人間に要求されているのは信仰のみなのです。その意味は、再臨の時に明からになります。どのようなことになっても、主イエスを信じる信仰の確かさは、あなたを守り、祝福し、不可能を可能とするのです。試練が必要ならば、避ける事はできませんが、それは潜在的な信仰の力を引き出すことにもなるのです。ですから、信仰者として大きく成長する力そのものなのです。再臨の時に、全ては明らかになりますが、「称賛と光栄と誉れとをもたらす」と書かれていますから、何があっても信仰を捨ててはいけません。信仰によって恵みの中を歩めるのも事実です。主を知り、主を愛することも信仰です。主に仕え、人に仕えることも信仰なのです。信仰の報いはあまりにも大きいので、信仰に目覚める必要があります。その一つのきっかけが試練なのです。主のなさる事に無駄な事など何もないのです。

 

9月22日(金)

あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。

Ⅰペトロ1:8、9

 

今日の聖句は、聖書の中でもクリスチャンのことを正しく説明する箇所です。救われたことをどうやってわかるのか、と問われた時に、今日の聖句はその答えになっています。神はいるか?と疑う人はいます。しかし、私たちは見たから信じたのではありません。どこかで神様体験をしているのかもしれません。その救われ方も、千差万別です。しかし、今日の聖句は、救われた人には分かるのです。「キリストを見たことがないのに愛し」ているのは、未信者には不可解でしかないのでしょう。しかし、私たちには、「アーメン」なのです。現代人が勝ち誇ったように、「イエス・キリストを見たのか?」と言い放っても、「見なくても信じている」と心から思えるのです。それは、キリストを信じてよかったと思えるからですし、「言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」からです。これは、試練の時には言えないかもしれませんが、試練を超えると実感できます。それに、自分の心を見てみるなら、確かに喜びに満ちあふれているのです。こうした現象は、信仰のない人には本当とは思えないのでしょうが、信仰者には理解できることなのです。そして、その理由が最後に書かれています。「それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」。つまり、キリストの救いとは、かくの如きものなのです。善行とか義の業といった、行いは後から自然とついてくるのです。救われた人は喜べと言われたから喜んでいるのではないのです。まだ、気づいていない人は、自分の内面を見ていないからです。それは、この世のことばかり考えているからです。ですから、静まって内面を探れば、そこに喜びがあります。それが、自然と出てくるには、キリストを愛し、今見なくても信じている、という単純なことで喜びが満ちあふれてくるのです。

 

9月23日(土)

身を横たえて眠り

わたしはまた、目覚めます。

主が支えていてくださいます。

いかに多くの民に包囲されても

決して恐れません。

主よ、立ち上がってください。

わたしの神よ、お救いください。

詩篇3:6~8

 

信仰者の生き方は変わっています。この世の人はやられたらやり返す、と幼稚園児とあまり変わりません。さすがに大人になれば、もっと上手くやるでしょう。しかし、クリスチャンは、「汝の敵を愛せよ」と教えられていますから、実践しようとするのです。さらに、クリスチャンは涙ぐましいほど聖書の教えに忠実であろうとします。ですから、すぐに力尽きてしまうのです。信仰が未熟だと言われればそれまでですが、頑張っているのに、どうも上手くいっている気がしません。そこで、頑張るのをやめてしまう人が出てきます。しかし、信仰とはどのようなことなのでしょう。今日の詩篇詩人は、横になって眠るというのです。それは、人と争っている人や、人間関係で悩んでいる人にはできません。詩人は、「主が支えていてくださいます」と信仰告白しています。彼が眠れるのは、主が支えていてくださるからだと信じているからなのです。彼の置かれた状態は、非常にシリアスです。「いかに多くの民に包囲されても」と四面楚歌、周りは敵だらけで、身の危険が四六時中迫っているのです。非常に緊迫した状態です。その中で、彼の信仰は「決して恐れません」と告白しています。主への絶対的信頼を信仰によって示すことによって、主の力ある危機からの救助を期待しているのです。それは、最後の句に表れています。「主よ、立ち上がってください。わたしの神よ、お救いください」と、はっきり言っています。クリスチャンは、恐れることが不信仰につながり、行動が主を信じるのか疑うのかを明確に示すことを知っているのです。ですから、寝ることも信仰の内とこの詩人は勇気を出して身を横たえるのです。目覚めることができたのは、主がまだ生きよと生かしておられるからだと確かめることができます。自分の周りの人たちが無責任に悪い噂を流すことだって、人を傷つけるのですから、この世では、いつ被害者になるかわかりません。でも、クリスチャンは恐れないと決めているので、心が守られます。私たちの信仰が試されていたとしても、それは一時のことです。私たちは、「主よ、立ち上がってください」と言うことができるのです。そして、「わたしの神よ」と呼べるのです。

 

9月24日(日)

そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰を持って、真心から神に近づこうではりませんか。約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。

ヘブル10:22、23

 

どんな生き方をしてきたかは関係ありません。過去に縛られる必要もないのです。私たちは、主イエス・キリストに救われたからです。私たちは罪人と呼ばれるような者でした。それなのに、キリストは私たちを探し出して見つけてくださいました。私たちが希望を持てるようになったのは、心を清められたからです。聖書に書かれた通りです。「心に血の注ぎを受けて邪悪な良心を清められ」たのです。十字架で流されたキリストの血です。それだけではなく、洗礼を受けて、「きよい水で洗われた」のです。だから、悪魔の囁きに騙されないで、「真心から神に近づ」くのです。私はまだまだダメだから、もっと立派な信仰を持てるようになったら神に近づく、と言ってはいけません。キリストの血をあなどらないでください。どんな罪も過去も、遺伝子でさえ、主の血で清められたら、聖なる者になれます。一番問題だったのは、自分の邪悪な良心だったのです。自分を信じきれないし、すぐにダメダメを出してしまうので、自信を失い、精神的にも弱ってしまうと、主を信じる信仰が弱ってしまいます。だから、聖書には「全き信仰を持って」と書いてあります。全き信仰というのは、人間的な考えを全部捨てて、ただイエス・キリストが自分を完全に救ってくださったと信じることです。神への負い目がキリストによって取り払われたのです。自分の思い込みに引きづられてはなりません。今日の聖句をよく読んで正しいことを信じるのです。ただ、イエス・キリストを信じることで、しっかりできます。自分で罪の問題を解決したわけではありませんから、間違った思い込みを捨てなければなりません。私たちは、恵みで主に完全に救われたのです。主が全部大変なことをやり遂げて、私たちを救ってくださいました。だから、もう昔に引き戻される必要はありません。新しくされたのですから、自由に生きてください。

 

9月25日(月)

主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。

詩篇121:8

 

日本人は信心深い国民です。そこかしこに神社やお寺があることでもわかります。だから、一旦クリスチャンになれば、その信仰も信心深いものになるのです。その信心は、決して裏切られません。それどころか恵みに満ちあふれています。今日の聖句でも、「今よりとこしえまでも守られる」と約束されています。「とこしえ」に守られるのです。ですから、あなたは神のみおそれ、人間を恐れてはいけません。無鉄砲なことをしろというのでもありません。つまり、あなたはクリスチャンとして愛人として生きていきます。人間的な問題がないとは言いませんが、神に守られているのですから、結局はうまく行きます。「行くにも帰るにも」とは、物事の着手する時から完了する時まで、または、出かけてから帰宅するまで、あるいは、何をするにしても、と意味を取ることができます。つまり、あなたは神のお守りを受けて、最強の人生を送ることができるのです。人間的な弱さを心配して生きることはありません。あなたは、何をしている人であっても、信仰により、良い人生を歩めるということです。愛に生き、喜び多き人生を歩むのです。クリスチャンとして、キリストの御足の跡を歩むのです。あなたほど祝福された人ありません。どうか、信心深く素晴らしい人生を歩んでください。

 

9月26日(火)

次の言葉は真実です。

「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。

耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キイリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。

Ⅰテモテ2:11~13

 

クリスチャンが心に留めておくべき御言葉が今日の聖句です。私たちは、この御言葉の通りに信じています。ですから、この御言葉の通りになっているのです。生きることばかり考えている人は、死ぬことを避けています。しかし、キリストを信じるということは、キリストと共に死ぬことを意味しています。それは、罪人であったから、死ぬことになっていたのです。つまり、滅ぶことが決まっていたのです。しかし、キリストと共に死ぬことは別のことです。罪の問題を解決して救われるために、キリストの死に助けていただくのです。ですから、自分で死ぬのではなく、キリストに一緒に死んでいただくのです。その代わり、キリストは復活しましたから、同じように復活の命にあやかって生かしていただくのです。これは、キリストを信じる信仰によって保証されています。ですから、救いの根幹と言えるわけです。ただ、クリスチャンの皆さんは、未だ地上にいて天国へ入っていません。再臨まで待つ必要があります。そこで、「耐え忍ぶなら」と書かれているのです。そのかわり、見事に耐え忍べば、「キリストと共に支配するようになる」のです。ですから、クリスチャンの報いは途方もなく大きいのです。ただ、信仰を投げ出してこの世に心を移すと、神の恵みの救いは無くなります。それは、「キリストを否む」ならです。キリストに見放されたら、どんなに善行を積んで努力をしても救われません。「キリストは常に真実であられる」ので、聖書に書かれた約束は果たされます。しかし、皆様もご存じの通りに、キリストを信じているから救われるのです。キリストは、聖書に書かれた通りに信じる者を救います。しかし、そうでない者まで救うことはできません。人は信じて義とされるのです。罪人は神に逆らいます。自分の思い通りに生きるのが特徴です。クリスチャンは、自分の思い通りではなく、神の御心の通りに生きるのです。それを従順と言っています。従順なクリスチャンであり続けたいですね。

 

9月27日(水)

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

ピリピ4:13

 

あなたは、今日の御言葉を読んでどのように感じただろうか。個人によって答えは違っているでしょうが、あなたを強くしてくださる主がおられるのですから、あなたにできないことはないのです。理屈は簡単ですね。あなた自身の力だけで何かをしなければならないとすれば、できること、できないことがすぐに出てきます。しかし、クリスチャンの強みは、主があなたを強くしてくださるので、どんなことでもできるということです。これを疑う人は、決してこのようなことは起こりません。しかし、素直に信じる人には、文字通りに「どんなことでもできるのです」。仕事をしている人も、学生さんも、家庭の主婦も誰でも、課題はあるものです。それだけに、チャレンジしてみるべきだと思います。今まで、この御言葉を読んだり聞いたりして、知っている人が多いと思いますが、実行して奇跡を体験した人はどうでしょう。意外と少ないかもしれません。気持ちで負けてしまうことがあるからです。特に日本人は新しいことが苦手です。既存のことを几帳面に仕上げることは得意ですが、新しいことを開発したり、誰もやったことのない新しいことが苦手なのです。それは、完全にやろうとするからでしょう。失敗が怖いのです。しかし、信仰の極意は「恐れるな」です。そこで、今日の御言葉を信じるチャレンジが生まれます。信仰は山をも動かすのです。あなたにはできないなどとは思わないでください。あなたの力をあてにしてないからです。あなたを強くしてくださる方は主です。だから、どんなことでもできるのです。まずは、深呼吸してからこの御言葉を読み、信じますと唱えてみましょう。何度も繰り返し言って、覚えてしまいましょう。素晴らしいことが起こると思います。

 

 9月28日(木)

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

ピリピ4:4

 

どれだけの人がこの御言葉に励まされてきただろう。そして、なんと素敵な言葉だろう。私たちは主を信じている。それは、困った時の神頼みとは違っている。最初に主に愛されたから、主を信じているのだ。だから、今日の御言葉を守ろうとしてきた。そして、クリスチャンになってから、もう何十年も経つのに、この御言葉の意味を考える。初めの「いつも」は挑戦的にも聴こえる。「あなたは、いつも主にあって喜べるか」と問われているようだ。長く生きた分、いろいろなことがあった。大変だと思ったことも、不安や恐れから逃れられない時だってあった、つまり喜べない時がいくらでもあったのだ。その時に、「喜びなさい」と言われたら、怒っていたかもしれない。しかし、「主にあって喜びなさい」と言っているのだ。自分の力でなんとか無理して喜べと言っているわけではなかった。「主にあって」とは、主にすがって助けていただき、助けられて良かったと心から喜ぶことができるようにしていただくということだ。それは、主は自分のような取るに足りない者の祈りですら、ちゃんと聞いて助けてくれることを知ることなのだ。実際、そうやって何度も何度も主に助けられて喜びを知ったのだ。それで、「いつも」はいつでも主を頼って良いという意味になった。だから、「いつも主にあって喜びなさい」という御言葉は、平凡な生活の全てが主によって支えられ、守られている恵みなのだとわかるから、主への感謝が喜びとなるようになった。だから、あれもこれもと考えては主の良くしてくださったことを実感し、感謝して喜ぶと喜びが広がっていくようになる。主は愛なのだ。あなたもいつも主に頼って喜びなさい。

 

9月29日(金)

主よ、まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。

詩篇5:12

 

クリスチャンは正しく生きようとしている人たちです。確かに、この世で正しく生きることは簡単ではありません。誘惑されることもあれば、自分の弱点をさらけ出す日もあるのです。それでも、踏ん張って正しい者であり続けようとしているのです。かっこよく、「私は正しい者です」と胸を張れないかもしれませんが、イエス様を信じて、なんとか主によって正しい者にしていただきたいと願う者なのです。そんなことを何年も時間をかけてやっているのです。ですから、ある日、気がつけば主に祝福されていることに目が開ける日が来ます。そして、何よりありがたいことは、主にまだ愛されている事に気がつきます。情けないことに、自分に自信がないので、初めから主が愛していてくださっていたことに気がつけなかったのです。しかし、信仰の目が開かれると「大盾で囲むように愛で彼を囲まれます」と書いてある御言葉が本当だとわかるのです。自分が誇れるようなことは何一つしていないのに、情けないままなのに、イエス様は愛し続けてくださり、その愛があまりにも大きいので、ついには、自分の周りは全部イエス様の愛で囲まれてしまっているのです。ですから、この主の愛に応えてイエス様愛しています、と生きていきたいものです。

 

9月30日(土)

わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行なって隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。

ローマ15:1、2

 

私たち人間は、面白いほどいろいろな人がいるのです。自分にとって大したことはないと思うことが、人によっては大きな負担に感じることはあります。逆のこともきっとあるでしょう。小学校の時には、算数の得意な人、体育の得意な人、算数の嫌いな人、体育の苦手な人がいました。これらも個性ですから、その人の価値を決めるものではありません。ですから、全く自分と同じような人を友達にしていたわけではなく、逆に自分とはいろいろなことが違う人を友達にしていたと思います。キリスト教では、狭く考える人と広く考える人のように、個人によって違いがあります。それが、教理をどう考えるかの違いになることがあります。ある人は、菜食主義にこだわります。別の人は何を食べてもいいと思っています。菜食主義の人たちは、さらに豆なら豆のまま食べるとか、食べ方にもこだわりを持つ人もいます。卵乳菜食という人もいます。パウロは、自分自身は強いので何でも食べると言っています。しかし、それを見てつまずく弱い人がいるので、その弱い人をつまずかせないために肉を食べないと言います。これが全てに適用されます。今日の御言葉の意味は重要で、「互いに愛し合いなさい」というキリストの掟を守る上で知るべきことなのです。つまり、愛するということは、「自分の満足を求めるべきではありません」ということになるからです。愛の成立するために必要なことは、自由です。未だ、世界は自由を求めて戦っています。そして、すでに自由を得た国では、分裂が起こり、皆自分勝手になる危険をはらんでいるのです。今のアメリカを見ているとそれがよくわかります。極端なことを言えば、「悪人が悪いことをして何が悪い、自由ではないか」と言っているようなものです。そこで、自由が必要であっても、互いに相手を認めることが重要になります。それを成立させるには、信仰が必要だし、罪の解決のためにイエス・キリストの贖いが必要で、罪人はただイエス・キリストを信じる信仰によって義とされる必要があります。神はすでにその道を開かれたのです。しかし、それでも教会で問題が起こるのは、強い者と弱い者がいるので、互いを批判すると教会が分裂してしまいます。そうなってはならないので、「強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」。私たちが心がけることは、善を行なって隣人を喜ばせることです。そして、「互いの向上に努めるべき」とあるので、この実現のために、「相互承認」という高い目標を目指すのです。それが、愛であることをきっと理解できます。