2023年11月ディボーション

11月1日(水)

私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。

エレミヤ15:16

 

昔の学生は、英単語を覚えるのに辞書を食べた、と言われていました。さて、今日のエレミヤは御言葉を食べたと言っています。エレミヤは、この時、苦境に立たされていました。彼は、預言者という任務について告白をします。エレミヤは、神の言葉を受け取るのは、食べ物を食べるようなものとして、表現しています。それは、彼の楽しみであり、心の喜びとなったと証言しているのです。彼は、自分の内面からではなく、自分の外から神の声を聞いていたのです。神の声を聞いた、という人はいるでしょうが、たいていは内なる声なのです。でも、明らかに自分の耳で神の声を聞くなら、それは、特別なことで預言者としての権威の裏付けとなりました。ただ、罪人の世界では、世界を敵に回すようなことだったのですから、とても辛いことであったことが想像できます。さらに、エレミヤは、「私にはあなたの名がつけられている」と語ります。それが自分が神に預言者として召されている確信になっていました。つまり、彼はその御言葉が楽しみとなり、心の喜びとなったのです。それは、経験しなければわからないことですが、それでも、クリスチャンには、同じような経験があるものです。御言葉から霊的な喜び、楽しみが起こることがあるからです。そして、クリスチャンは、キリストの名で呼ばれている人なのですから、エレミヤのように、御言葉を食べる経験をしてみたいですね。

 

11月2日(木)

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

ピリピ4:13

 

あなたは、この御言葉をご自分のものとして心に刻むことができます。弱気になってしまった時も、困難が押し寄せて苦しい時も、チャレンジが必要な時も、他人からあなたにできるはずがないと言われた時にも、何度でもあなたはこの御言葉を唱えて、周りの人を驚かせることができるのです。私の人生は、主と共にありましたから、この御言葉のおかげで、主の約束があるので、どんなことでもできると信じて、その通りにやってきたのです。牧師になった時も、留学することになった時も、アメリカで牧師をすることになった時も、スクエアー・ジャパン・チャーチを始める時も、この御言葉の通りになりました。どのような人にも、チャレンジはあります。自分は心配性だと思っている人でも、例外ではありません。どんなに大変なことであっても、主があなたを強くしてくださるので、あなたはどんなことでもできるのです。これは、クリスチャンの特権です。これは、「どんなことでも」と書いてあるので、文字通りだと理解してください。そのかわり、疑わずに、全力で挑戦してください。肝心なことはやり遂げることです。そして、十分やったと思えば、次に進めます。前に進むたびに、クリスチャンとして成長しているはずです。間違っても、思い煩うことはしないで、今日の御言葉を唱えることです。何度も唱えていれば、自然と内側から自身が出てきます。そして、自分にはできると、思えてきます。そうなれば、もう実行するのみです。成功は初めから決まっているのです。主に感謝します。

 

11月3日(金)

試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

ヤコブ1:12

 

不思議なもので、試練にあえば信仰に頼ることになります。祈りも増えて、聖書も読んで、生活を改め、自分の負い目をことごとく清算し、神様にすがります。一時楽になったとしても、目的を果たすまでは試練は終わりません。しかし、結局は「耐える」ことが求められていて、そこから主イエス・キリストへの信頼が生まれ、父なる神の愛に満たされ、聖霊の豊かな油注ぎが、期待できるのです。生まれながらの人には、問題が必ずあります。その人の自我の強さが、信仰の妨げになります。なんでも自分の思い通りにしたいし、隣人への目は厳しく裁き、愛の無さは隠しようもありません。見返りを求めずに隣人に奉仕することも苦手であったのが、試練の後に自然とできるようになった自分に気がつくでしょう。また、私たちに要求されていることが、「忍耐」であることは大変意味深いです。怒りやすい人も、試練で忍耐を学びます。こうした試練に良い意味があるのですから、試練を耐えて、結果を出したいですね。「耐え抜いて良しと認められた人は、いのちの冠を受ける」とはっきり書かれていますから、試練の先に永遠の命が待ち受けているのです。試練は短い時もあれば、長い時もあります。その目的が達せられれば、試練を繰り返すこともありません。しかし、目的が未達成であれば、また試練が来るでしょう。しかし、逃れ道もあるので、深刻にならないで良いのです。罪との訣別とか、本当に重要なことは、試練が必要になるものです。罪の要塞を完全に破壊したいので、試練はどうしても必要なのです。イエス様がついていてくださるので、なんとかなります。

 

11月4日(土)

それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。

ヘブライ10:19、20

 

真の宗教と偽りの宗教の差は、今日の聖句によく現れています。神様を信じて、正しく生きなさいと言えば、宗教になると思っている人たちがいます。では、正しく生きられなければどうなるのでしょう。貧しさのゆえに、ギリギリの生活をしている人は、何かにすがらなければ生きていけないからと目の前の宗教に入るかもしれません。でも、サタンの誘惑に負けてはいけないと、恐怖で縛るような宗教に救いはありません。偽りの宗教は、人の罪の問題を解決できません。ですから、偽りの神に責められ、裁かれてしまうのです。その恐怖は、本人にしかわかりません。もはや社会にも背を向け、教団だけの世界に生きるのですが、戒めで縛り上げ、罪を犯すような者を神は赦さないと恐怖を煽るだけでは、どこに救いがあるのかわかりません。しかし、真の宗教には、人の罪を贖うために身代わりに死んでくださるイエス・キリストがおられます。その主は、人を裁くなと教えているのに、自分の考えに合わない者を裁く歪んだ律法主義の宗教もあるのです。ですから、聖書をちゃんと学ばせてくれる教会が必要で、私たち罪人は、救っていただき、新しい人生を生きられるようにして欲しいのです。イエス・キリストはこの世で困り果てている罪人を救うために、自らの命を犠牲にされました。それ以外に罪人を救う方法が無いからです。さらに、罪人を清め、新しい生きた道へと導かれ、幸福に生きることを可能にしてくださったのです。主を賛美します。

 

11月5日(日)

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。

ローマ3:23~25

 

人間の不思議は、罪を犯すことです。私たちは、正しく生きようとします。しかし、どこかで罪を犯してしまうのです。もちろん、罪と言っても、犯罪を犯すという意味ではないので、聖書を学んだことのない人には理解できないことです。また、クリスチャンには、欲と罪の関係がよく理解されていない人が少なくありません。それでも、罪の自己中心性や高慢、貪欲などの言葉と一緒に罪の説明を受けて、なんとなく理解した人もいるでしょう。しかし、エデンの園でエバがヘビに誘惑されて善悪の木の実を食べてしまったことが人間に罪が入ってきた始まりと言われても、なおよく分からないのです。それは、神の言葉を疑ったことを指しているのか、誘惑に弱い自分の欲が問題なのか、何が問題なのかと人間は考え続けてきたのです。しかし、本当は罪人自身が一番罪を理解できるはずです。それが、よく分からないと言うのなら、罪の赦しのありがたさもわからないでしょう。例えば、子供が5人いて、羊羹を一本彼らの目の前で五つに切り分けると、子供たちは、一番大きな羊羹を取ろうとします。これは、欲だろうから罪だと言えるでしょうか。見当違いに感じるでしょう。欲はあまり感心しませんが、欲イコール罪にはならないのです。ですから、私たちが罪という場合は、自分で自分を裁く原因のことを言っているのです。主の祈りで「罪」を「負い目」と言い変えているものがありますが、まさに自分の「負い目」あるいは「罪責感」です。それは、愛に深く関わっています。つまり、愛ではないことをしたり、愛を壊してしまったり、愛を裏切ってしまう時に、心で感じることです。大切な愛する人を傷つけてしまった時、自分を赦せなくなります。謝って赦してもらえれば大丈夫なのですが、相手が死んでしまったりすれば、もう決して本人から赦してもらえません。その時に感じる「罪責感」がいつまでも自分を裁くので辛いのです。これでは救いがありません。ところが、「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」と聖書に書かれているのです。そして、罪人については、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」と書かれています。つまり、キリストが私たちの罪のために血を流したのです。それは、赦されるためです。私たちが自分自身を裁くことがやめられないのは、赦しがないからでした。でも、すでにキリストは十字架で罪の問題を解決され、あなたの罪を赦されたのです。しかも、「無償」と書かれいる通りに、善行を積んだわけでもないのに、いい事など何もしていないのに、神との関係を正しいものに変えてくださいました。その価値は、すぐには分からなくなてもだんだん分かってきます。そして、神との正しい関係とは、愛し愛され、という関係のことです。この愛が全てを覆うのです。

 

11月6日(月)

しかし、神はわたしの祈る声に耳を傾け

聞き入れてくださいました。

神をたたえよ。

神はわたしの祈りを退けることなく

慈しみを拒まれませんでした。

詩篇66:19、20

 

祈りは神様に届きます。どんなにつたない祈りであっても、神様は耳を傾けて聞いてくださいます。ましてや、あなたが困って必死に神様に縋り、祈るなら、神様は御座から身を乗り出して耳を傾けてくださいます。祈りが下手なので、牧師に祈って欲しいという人がいますが、祈りは上手い下手ではありません。真心の祈り、魂の祈り、という言葉を聞いたことがないでしょうか。私たちは、言葉の上手ではなく、心のあるがままを主に知っていただき、心の一番深い所から、祈れば良いと思うのです。事実、そうしているのです。ですから、今日の詩編のように、神様はあなたの祈りを退けることはありません。主は、あなたに対する慈しみを拒むようなことはないのです。どうぞ、安心して祈ってください。神様はあなたのためにいつでも最善をなしてくださいます。ハレルヤ!

 

11月7日(火)

わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。

エフェソ3:12

 

クリスチャンになって何が変わったかと聞かれれば、この聖句を思い出してください。「わたしたちは主キリストに結ばれて」いるのです。ですから、それだけで、私たちは変わったのです。かつては罪人でしたが、今は主イエス・キリストを信じて救われ、罪を贖っていただき、洗い清めていただいたのです。ですから、主キリストに結ばれているのです。それは、キリストのようになるためです。自己中心な考え方しかできない者が隣人のために自己犠牲を自然と行い、誰に対しても愛を感じて生きているのです。それでも、この世で生きているので試みられ、誘惑され、悪魔の攻撃も受け、信仰無しには生きられないのです。古い自分を捨てることも必要だと知りながら、思うようにはいかず、遠回りして生きているのです。それでも、私たちにあるのは、キリストに対する信仰です。この信仰によって、私たちは何度となく主に助けられ、道を示され、神に近づくように導かれています。それがあなたにとっていかに重要なことか、まだ悟っていないかもしれません。それでも、信仰の大切さは十分に理解しているでしょう。その信仰は、確信を持つほど高められます。だから、大胆に神に近づくことができるのです。試しに、今日の御言葉の通りにしてみてはどうでしょう。神は愛です。そして、神はあなたの天の父です。キリストのおかげで和解しているので、父に近づくことができます。あなたに必要なことです。

 

11月8日(水)

悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。」

Ⅰペトロ3:9~11

 

クリスチャンになって一番変わったことは、聖書を読むようになったので、そこに書かれたことを守ろうとすることです。例えば、今日の聖句などは、クリスチャンの特徴をよく表しています。もちろん、未熟なクリスチャンもいますから、この通りに生きることを知らない人もいます。しかし、それは大きな損をしています。私たちは、祝福された人生を送りたいと願っているのですが、すでに、主によって祝福されていることを信じようとはしないのです。そのような人は、今日の聖句をよく読んで理解してください。私たちは、祝福を受け継ぐために召されたのです。ですから、あなたは祝福係なのです。パウロのような危険を伴う厳しい使徒職ではなく、祝福係であれば、危険な目に遭うこともなく、誰にでも祝福を与えることができます。最も、「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず」とありますから、かなり大変な目にも遭うのですが、祝福を与えることで、自分もダメージから救われるのです。さらに、幸福に生きたいと願う人には、コツがあって、「悪を言わず、偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行い、平和を追い求める」ことです。これなら、なんとかできそうです。それだけで、幸福な日々が約束されるのなら、ぜひ、実行したいですね。そのためには、すぐに頭に来ないように、自分は祝福係だと言い聞かせておくことが肝心ですね。

 

11月9日(木)

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。

Ⅰペトロ5:7

 

私たちの神様は、とても良い神様です。あなたが思っている以上に、神様はあなたのために労を惜しみません。あなたの祈りもちゃんと聞いていてくださいます。賢明ですから、あなたの思いもよらぬ一番良い道へと導いてくださいます。しかし、自由意志は保証されているので、自分の思うままに生きることもできます。どちらが良いのか、初めは自分の思う通りに生きたいと思うのが普通ですが、信仰生活が進めば、神様のお導きの通りに従いたいと思うようになります。ですから、これからどうしたらいいのかと思い悩むような時は、全て神様にお任せしようとまだ思えていないからです。それに、神様が導いてくださるのか確信が持てない時にも、自分でなんとかしようと思い煩います。神様は何もしないでただ見ているだけのお方ではありません。「あなたがたのことを心にかけていてくださる」のです。ですから、あなたが何で困っているのか、何を迷っているのか、何でもない知っておられます。その上、あなたを愛してくださっています。あなたをこの地上でも幸せにしたいのです。ですから、神様を信じてください。あなたの願いを祈りましょう。もう、思い煩わなくてもよいのです。あなたが「何もかも神様にお任せ」するからです。そうすれば、必ず感謝する結果になります。

 

11月10日(金)

愛する者よ。あなたが、たましいに幸を得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。

Ⅲヨハネ2

 

聖書には、三重の祝福を祈る箇所があります。それが今日の聖句です。私たちに必要な祝福は、魂の幸い、全ての点での幸い、健康の幸いの三つです。霊的に満たされ、私たちに必要な全ての点で満たされ、健康であることがそろえば、私たちは幸福なのです。霊的とは、信仰生活が正しければ自ずと満たされるものですが、人間の努力には限界がありますから、それ以上の神様との交わりや聖霊の満たしなどが与えられる必要があります。そのことがあるように祈っています。さらに、生きていく上で色々な物が必要になります。住む所も、食べる物も、着る物も全て必要です。それだけではなく、よい仕事や恵まれたチャンス、楽しい人間関係、お金も必要です。そうした、私たちの必要を満たしてくれる祝福を祈っています。そして、誰もが健康の大切さを知るようになります。加齢と共に、ますます健康問題が深刻になりやすいのです。病気は一切を奪うので、不幸の一つにあげられます。ですから、いつまでも健康であることは最高の祝福になります。私たちも健康のために自分でできることは努力します。しかし、努力していても病気になる時はなります。ですからここでも神様のお恵みが必要です。健康の祝福は、誰にとっても幸福に直結しています。この人間にとって最善となる三重の祝福の祈りが聖書に書かれていたことが何よりの喜びです。この三重の祝福があなたの上にありますように。

 

11月11日(土)

神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありません。

Ⅰヨハネ5:3~5

 

神の掟は、互いに愛し合いなさい、という愛の掟です。それは、神を愛するのと同じように隣人を愛することです。もちろん、それが一方通行のものではあってはなりません。なぜなら、エデンの園に置かれたアダムもエバも互いに愛し合うように創造されていたのです。それは、アダムが神に愛され、アダムも神を愛していたのと同じように、アダムとエバは互いに愛し合っていたのです。しかし、罪が入り込み、その愛が壊されてしまいました。ですから、罪人は神を愛さないし隣人を愛さないのです。しかし、御子イエスが現れ、神の愛を示され、新しい掟として互いに愛し合うように命じました。それは、罪人の救いを主が愛の力で実現するので、イエス・キリストを信じた者が罪を赦され、神の子にしていただけるのです。すると、神の子にしていただいた者は、他の神の子たちを愛するのです。主は隣人を愛せよ、と命じましたから、あなたの隣人として置かれる人を愛するのです。罪を赦され、神から新しく生まれたクリスチャンは、信仰によって世に打ち勝ちます。世は暗闇と聖書にあるように、罪の温床となっています。ですから、クリスチャンも油断していると世に飲み込まれて、信仰すら失う危険があります。そこで、互いに愛し合うことがそうしたこの世の危険から自分を守ることになります。最終的に、世に打ち勝つのは、イエスが神の子であると信じる者なのです。

 

11月12日(日)

互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。

エフェソ4:32~5:1

 

私たちは互いに親切にし、憐れみの心で接し、赦し合いなさい、と奨励されています。しかし、クリスチャンの間でも、人間同士なのでストレスが生じることもあります。そのような時に、私たちは、今日のような聖書の奨励が無理だと無視してしまうことがあります。争いを好む人はまずいません。私たちはなんとか争わずにみんなと仲良くしたいと思うのですが、そう簡単には行かないこともあるのです。それでも、心がけることはできます。親切、憐れみ、赦し、この三つはクリスチャンのモットーです。自分が他人から評価されるときに、この三つのキーワードが出てくれば、あなたは信仰の本質に近づいているのです。さて、この三つのキーワードは、イエス・キリストの特徴であり、主の人生を表しています。イエスは、まさにこれらを実行したのです。それは、私たちが倣うべきことなのです。救いの奥義は、キリストの本質に近づくことなので、愛も欠かせないのです。その愛をまっとうしたキリストに倣うためには、三つのキーワードの実践が欠かせないのです。よく考えてみれば、ご自分の人生でこの三つを成就するように導かれていることに気がつくと思います。それが、私たちには試練のように感じるところに問題があるのです。しかし、イエス・キリストに倣う者になろうとすると、十字架の愛を理解しなければなりません。そうすれば、三つの課題は、自然と成就するはずです。

 

11月13日(月)

主の慈しみに生きる人々よ

主に賛美の歌をうたい

聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。

ひととき、お怒りになっても

命を得させることを御旨としてくださる。

泣きながら夜を過ごす人にも

喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。

詩篇30:5、6

 

「主の慈しみに生きる人々よ」というのは、あなたのことです。あなたは、まだ十分には気づいていないかもしれません。しかし、この御言葉は事実あなたのことです。あなたが気分が晴れないと思っているのなら、主に賛美の歌を歌ってみることです。主の名をあなたは知っています。呼んでみましょう。そして、心に浮かんでくることを主に感謝するのです。私たちは、信仰によって生きていると言いながらも、時には脱線してしまうかもしれません。また、不信仰に陥ったり、自分の思いに囚われたり、自分を大切にしなかったりすることがあるかもしれません。そんなことが、主を怒らせるかもしれないのですが、主は、あなたを愛しておられるので、怒りもひとときに過ぎないのです。主は、あなたに天国へ入って欲しいのです。永遠に生きて、主のそばにいて欲しいのです。ですから、自分の人生を悲観して悲しみに沈む人も、泣きながら夜を過ごす人にも、主は働かれます。その不思議は、心が変えられるからです。「喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」のです。このような、経験をする人は幸いです。「主の慈しみに生きる」という意味を知るからです。何も思い煩わずに、感謝することを覚えましょう。朝一番に主に感謝をするのです。良い一日が始まります。

 

11月14日(火)

忍耐によって英知は加わる。

短気な者はますます無知になる。

箴言14:29

 

クリスチャンになると「忍耐」と言う言葉をよく聞くようになります。それは忍耐が大切だからです。幼児を見るとわかりますが、幼児は忍耐ができない見本です。そこから、しつけ、教育を通して忍耐を学ぶことになります。社会に出ても、忍耐をさらに学ばされます。忍耐ができずに失敗する人も出てきます。それが、クリスチャンになるとさらに忍耐に深い意味がついてきます。例えば、今日の聖句を見てみると、どういうつながりか「忍耐によって英知は加わる」というのです。作家の畠中恵さんがお書きになる「しゃばけ」シリーズは好評で人気がありますが、それは、主人公の大店の若旦那は極端な病弱で寝てばかりいるのですが、心根が優しく聡明です。若旦那は病弱のために忍耐が人並み外れて身についていますが、それは今日の聖句の通りに英知に結びついているのです。NHKの朝ドラで植物学者の牧野富太郎博士が主人公のドラマをやっていましたが、牧野博士の描く驚くほど正確な植物画は美術の世界でも貴重なものとして高い評価を得ています。この牧野博士の仕事ぶりは、「忍耐」そのものでした。そして、その忍耐が英知を生み、「日本植物志図篇」という正確無比な植物図鑑を作り上げました。それを見ると植物は神様が創造されたのだと納得してしまいます。聖書が教える、こうした忍耐と英知の例は多くあります。そうであるから、「短気な者はますます無知になる」という箴言もまた、実例が多くあるのです。ですから、短気に気をつけてください。短気だと神様の御心を知ることができません。ですから、自分の思い込みで失敗しやすいのです。物事には深い意味があることが短気な者には知ることができないのです。短気の逆は忍耐と理解しておけば、世界が違って見えてくるはずです。後悔することのないように、忍耐を身につけましょう。

 

11月15日(水)

キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがた対しては、神の力によってキリストと共に生きています。

Ⅱコリント13:4

 

クリスチャンは、使徒から学ぶことができます。コリントの教会には、偽使徒やグノーシス(異端)それにユダヤ人キリスト者がいて、パウロに敵対していました。彼らはパウロを否定し、その福音を否定していたのです。しかし、今日の聖句を読むと、彼らには理解し得ない福音の奥深さがあります。それは、真の使徒や本物の霊の人は、キリストと同じように十字架を負う者なのです。なぜなら、「わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者」だからです。その通りに、私たちはキリストの中にある者なのです。そして、キリストが復活したのは、強さを示しています。私たちもまた、十字架にかかり復活した主によって強いのです。パウロが自分の弱さと苦難について語っていますが、それこそ、十字架にかかり復活したキリストの写しになっているのです。パウロが自分の弱さを誇る信仰に至っていたので、キリストは使徒パウロを通して働かれ、キリストの力がパウロを通して現れたのです。パウロの敵たちは、十字架と復活、苦難と神の力が実は一つのものであるというこの逆説に見える真実の意味を理解することができなかったのです。だから、私たちもまた、今日の御言葉のように、キリストに結ばれた者として十字架を負う者であり、自分の弱さを表して良いのです。それはキリストの中にいるからです。そして、パウロがそうであったように、私たちもキリストによって強いのです。

 

11月16日(木)

「その苦難の日々の後、たちまち

太陽は暗くなり、

月は光を放たず、

星は空から落ち、

天体は揺り動かされる。

そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

マタイ24:29~31

 

キリスト教会でも再臨についての理解は同じではありません。東京の神学大学に通っていた時に、一流企業を辞めて牧師になるために三年編入してきた男の人が日本でも有名な神学者に再臨のことを質問しました。「キリストは雲に乗って再臨すると聞いていますが、本当でしょうか」と聞いたのです。すると、その神学者は笑いながら、「雲には乗れないでしょう」と言って、「心に再臨するのです」と答えたのです。聖書をありのままに理解しようとする保守派のクリスチャンがリベラルなクリスチャンを嫌う理由は、このような考えの相違によるのです。確かに、子供の頃は雲に乗りたいと思っていましたが、山に登って霧に包まれた時に、これが雲だと教わり納得しました。それでも、「天の雲」と書いてあるのだから、ただの雲であるはずがない、古代の預言者には雲に見えたのでしょうが、霊感は「天の」と言っているのですから、人間の知っている雲ではないのでしょう。もしかすると、ヨハネは古代にはなかった飛行物体を見たのかもしれません。こうしたことは、正確にはわかりようがないので、詮索しても仕方がありません。それよりも、今までの地球や宇宙の法則がまるで崩壊したかのような驚くべきことが次々に起こるのです。しかし、一方ではキリストが再臨されるのですから、信仰を持ち続けた人たちは、感極まるほどの感動を経験するのです。そして、天使が迎えに来ると、当たり前のように空中に引き上げられるのです。最終の神の裁きをキリストは携えて来られたのですが、劇的な明暗を分ける結果となります。救われた者は死んでいても復活して空中へ引き上げられ歓喜し、罪を悔い改めずにキリストの救いを拒んだ人たちは、当然の報いとして天変地異の起こった恐ろしい地上に残されるのです。これは、聖書に書かれた預言です。絵空事を勝手に言っているのではありません。戦争の噂が聞こえ、民族と民族が争い、飢饉が起こり、洪水や災害が増えている。こうしたことは、キリストの預言された終末の徴が、ことごとく成就し、再臨がいつ起こってもおかしくない状況になってきたということです。私たちは、自分を省みて再臨を喜んで迎える側に立つ決意を新たにし、この世に染まらずに、信仰を持ち続けることが大切な時が、いよいよ来ているのです。

 

11月17日(金)

わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。

ヨハネ12:47、48

 

イエス・キリストは、「世を裁くためではなく、世を救うために来た」のです。この御言葉はとてもありがたいですし、信じるに値します。ですから、誰でもキリストに近づき、救ってくださるように信仰を表す必要があります。ただ、残念なのは、イエス・キリストを信じないで拒む者がいるのを私たちはよく知っています。伝道しても拒まれた経験を持っているクリスチャンは多いのです。伝道は難しいと思い込んでしまった人もいます。イエス・キリストを信じて救われる道が開かれているので、これからも世の終わりまで救われる人は続くでしょう。しかし、キリストの言葉を受け入れない人はどうなるのでしょう。彼らを裁くものがあります。それは、イエスが語った御言葉です。イエスは、真理を語り、知らないとは言えなくなりました。イエスが裁かなくても、語った御言葉が終わりの日にその者を裁くのです。

 

 11月18日(土)

神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合う事です。

Ⅰヨハネ5:14、15

 

クリスチャンが最強であると言えるのは、今日の聖句を読めばわかります。何しろ「神に願うことは何でもかなえられます」とあるからです。これを最強と言わずに何を最強と言うのでしょう。そもそも「願うことは何でも適えられる」理由は、私たちが神の掟を守っていることと御心に適うことを行っているからなのです。掟についても、「神の子イエス・キリストの名を信じ」ることと「互いに愛し合う事」なのです。決して難しい内容ではありません。クリスチャンならキリストの御名を信じていますし、互いに愛し合うことも心がけています。確かに、「互いに愛し合う」ことは突き詰めれば難しいと感じるかもしれませんが、キリストの弟子として主に従いたいのなら、自分を捨て、自分の十字架を背負って従うと言うのが主の教えです。互いに愛し合うことができないという人は、まだ自分を捨てきれていない人です。日々十字架を負うことも無いのでしょう。それでは、自分の感情の赴くままに、誰かを愛したり、愛せなかったりするでしょう。それは、人間の幸福を台無しにしてしまう力があります。ですから、聖霊の助けはここでも必要となります。自分で自分を捨てることができなくても、自分を捨てることを願うことができます。そうすれば、今日の聖句の通りの約束がありますから、結果として自分を捨てられることになります。ここでも聖霊の助けがあります。どんなに優秀な人でも、自力ではできないことがあります。それは、霊的救いであり、自分を捨てることです。神の助けはいつでも期待できます。ですから、私はダメだと思う必要はありません。良い主のお導きがありますように。

 

11月19日(日)

女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。

イザヤ49:15、16

 

自己価値とはどのようなものでしょか。自分が親にどれほど愛されているか、大切に思われているか、子供はそのことに敏感です。そして、この世にあって、私たちは親によってどれほどの価値があるかを測っているのです。長じて大人になれば、そのようなことは関係ないかといえば、そんなことはありません。しかし、人間が罪人であることから、必ずしも親がすべて聖人であるわけでもありませんから、大人の事情で子供に愛を注げないことだってあるわけです。そうしたことは、子供にはわかりませんから、愛情不足になれば、不安定になり、親の愛情を得ようと子供らしい努力をするのです。それでも、愛情を無条件に得られないとすると、何かしらハンディキャップを抱えることになります。それが、大人になっても影をさすわけです。ところが、クリスチャンになると、神様は明確に今日の御言葉のように語ってくださいます。「たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない」と天の父は語ります。なんとありがたいお言葉でしょうか。そして、それだけではありません。「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ」と言われたのです。昔の訳では、「たなごころ」にとなっていました。つまり、神様はあなたを一番大切な手のひらに刻んでおいたと言われるのです。このような愛情表現をされたことは初めてです。それは、あなたが神様にとって何よりも大切な存在であるからなのです。ですから、この地上で生き続ける限り、神様が城壁のように完全に守るからとおっしゃってくださったのです。きっと、神様はご自分の手のひらを開いてじっと見るのです。そこにはあなたが刻まれています。これほど明瞭に愛情表現をされる神様があなたの主なのです。

 

11月20日(月)

聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

ローマ10:11

 

いつでも神様を信頼していましょう。人間ですから、私たちにも困難が押し寄せる日もあれば、嵐が通り過ぎていくような日もあります。しかし、神様を信じているので、私たちは主をどんな時も信頼しています。それは、裏切られることはありません。多くのクリスチャンが、そのことを体験しています。よく、私たちは「信仰による義」という言葉を聞きます。そして、それが一番大事なことだと教えられます。しかし、自分の信仰が果たして神様に良しと認められるほどのものなのか、自信がありません。自分の信仰に不安があるのです。ですから、「信仰による義」と聞くと自信がなくなるのです。しかし、実際には、困った時にこそ、神様におすがりして、助けてもらおうとするはずです。しかも、そのような願いであっても、神様はその願いを聞き届けてくださるのです。そこで、自分の経験から神様に信頼することの大切さを学んでいます。そして、それはいつでも期待通りであって、主によって失望させられることはありません。神様の良くしてくださることは年々増して来るように思えます。ですから、あなたが何か心配しているなら、元気を出してください。「彼に信頼する者は、失望させられることがない」と書かれている通りで、信じるにあたいします。

 

 11月21日(火)

主はこう言われる。

「さまざまな道に立って、眺めよ。

昔からの道に問いかけてみよ

どれが、幸いに至る道か、と。

その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」

しかし、彼らは言った。

「そこを歩むことはしない」と。

エレミヤ6:16

 

私たち人間の弱点は、視野が狭く、物事を小さく考える傾向があります。目先のことで一喜一憂し、じっくり考えることは苦手です。考えていると思っていることは、実はただ思い煩っているだけで、だんだん否定的で悲観的な考えになりやすいのです。そのくせ、人生には失敗したくありません。できれば、成功者になりたいのです。成功者は努力の賜物であるとは考えていません。これで、より良い人生を歩みたいと言ってみても、空しくなります。まずは、考えてみることです。考えるために頭がついているのに、加工して面白写真を作るために頭がついていると思っている人がいるのではと心配になることがありますが、たった一度の人生ですから、気がついた時からでいいので考えることを身につけたいものです。今日の聖句は、まさに正しく考えることを教えています。決して、賢者にならなくったって、普通の人が人生で失敗しないで幸福に生きる方法なのです。それは、「さまざまな道に立って、眺めよ」つまり、物事は、人によって見方が違っているので、簡単に一つの見方で絶対だと思ってはいけない。色々な立場によっても見方は変わるだろう。一つのことを色々な方向から見てみると、初めには気づけなかった重大なことが見えてくることがあるのです。天才とか、成功者は、この真理を知っていますから、誰からでも意見を聞こうとします。「昔からの道に問いかけてみよ、どれが、幸いに至る道か、と」。歴史は嫌いだ、苦手だという人たちが大勢います。とても残念なことです。こう生きたらどうなるか、先人たちがやって見せてくれています。ですから、幸福になる道は、知ることができます。それを無視すれば、幸福には到達しないのです。クリスチャンの場合は、最も古い本から学びます。聖書と言います。福音書だけでも四人の人がそれぞれの見方でイエス・キリストを紹介しています。あなたは、聖書を手にしているので、幸福に至る道の地図を手にしているようなものなのです。ところが、聖書に書かれてある通りに、「そこを歩むことはしない」と言う人は出てくるのです。ですから、人生は、各自の責任で選択する、ということなのです。

 

11月22日(水)

みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである。

箴言16:20

 

クリスチャンが他の人よりも幸いなのは、聖書を読むからです。初めは難しいと感じていても、繰り返し読むうちにわかってきます。それでも、読みずらいと言う人は、読む箇所を選ぶ必要があります。短いものや物語になっているものは、比較的読みやすいのです。さらに、信仰者は祈ってから読むように勧められているので、文脈とは関係なく、言葉そのものが自分に語りかけてくることがあります。聖書を開くたびに、同じ御言葉が目に入ると、その箇所から何か自分にわかるメッセージがあることもあります。それでも、悟らないと、説教やディボーションなどに同じ御言葉が出てくるので、ようやく気がつくと言う人もいます。そのように、主は私たちに語りかけてくる神様なのです。ですから、この御言葉は覚えておこうと思える時は、すぐに繰り返し唱えて覚えましょう。そのような御言葉が増えると、自分の考えが変わり、その結果行動が変わり、良いことが起こるようになります。そのことから、主を信頼するようになり、さらに主に拠り頼むようになります。その先にあるのは幸福な人生です。

 

11月23日(木)

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

Ⅱコリント5:21

 

何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

ローマ4:5

 

罪人という言葉の意味を知りませんでした。少なくとも警察のご厄介にはなったことがありませんでした。罪をそのようにしか理解していなかったのです。実はバプテスマクラスも受けたことがありません。それでも、神様は私が素直に聞くことができるように一人の教師を用意しておられました。その先生は、農夫でした。神学や聖書学の教師ではありませんでした。それなのに、その先生が古くて大きな聖書を開いて、どこかを読み始めるとなぜか心の耳が開くのです。そして、聖書のお話や証を聞かせてくださいました。こうして、神様はバプテスマの準備をされました。それだけではなく、夢でも教えられました。夢の中でカルバリーの丘にいました。あたりは真っ暗で、誰もいません。私は、急いで主がつかれた十字架を探しました。すると、十字架はすぐに見つかったのですが、誰も十字架についていない空の十字架でした。私は、主の十字架であれば、罪状書きがあるはずだと思い、さらに上を見上げました。すると、罪状書きがすぐに見えました。ただ、そこには自分の名前が書かれていたのです。驚いて見ていると次の瞬間、私が十字架にかかっていました。ああ、自分の罪が重いので、十字架にかけられ、死ななければならないのか、と思いました。しかし、自分で死ぬことができません。どうすれば死ねるのかと思って困っていると、自分のすぐ後ろに誰かがいることに気がつきました。驚いたことに、その人が「私があなたと一緒に死んであげよう」と言われたのです。そして、その方がイエス様であることがすぐにわかりました。しかも、イエス様が私と一緒に十字架につけられていたのです。私はその夢が忘れられませんでした。しかし、私はまだ自分の罪がわかっていませんでした。罪を示されるのに夢では足りなかったのです。ですから、実際に罪を明確に示されました。あまりのことに驚いて、すぐにバプテスマを受けました。まだ19歳で、まさに、何の働きもない者でした。そして、不敬虔な者であったことも間違いありません。それなのに、義と認めてくださる方がいらしたのです。だから、信じました。そして、半世紀が過ぎましたが後悔はありません。むしろ、感謝ばかりがあります。信仰の道を決して離れてはいけません。誘惑に心が惑わされ揺れる日があっても、主は変わらずあなたを愛しておられ、誠実に救いの業を予定通りに完成させようとされているのです。

 

11月24日(金)

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

Ⅰヨハネ3:2

 

この聖書箇所を読めば、私たちがすでに神の子どもであることがわかります。しかし、それは、神と同等になるというような意味ではありません。そのことをあなたが一番ご存知のはずです。しかし、終末に生きている皆さんは、再臨を生きて迎える可能性があります。もし、再臨の前に眠りについたとしても、復活することになっていますから、再臨のキリストを見ることができます。今まで、信仰を持って神の子と言われるような恵みを得ていても、実際に生きたイエス・キリストを見ることはできませんでした。私たちは、まだ最高段階に達してはいません。しかし、キリストの再臨の時に、皆さんは直接キリストを見るのです。そして、キリストと等しい栄光の体に変えられ、いよいよ最高段階へと達するのです。このような偉大な救済計画を神は今までも完全に成し遂げてきましたが、終末にいよいよ完成するわけです。そのような厳粛な時に、私たちは生きています。この世で生きていれば、どうしても神の救済計画よりも、目の前の現実に心が向くのは仕方のないことなのかもしれませんが、再臨を迎える前の主の預言は厳しいものです。ですから、クリスチャンは、聖書を調べ、終末に生きているという自覚を持つべきです。主に忠実で

あれば必ず報われます。突然帰ってくる主を迎えることができるように、目を覚ましていましょう。

 

11月25日(土)

私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。

ホセア10:29、30

 

クリスチャンになって、主を知ることが大切であると気がつく時があります。もちろん、クリスチャンになったのですから、主を知らないという意味ではありません。主がいるのかいないのか分からないで、果たして主を知っていると言えるのでしょうか。もちろん、知識はあります。信仰の対象でもあります。それでも、明確に主に出会った経験がないと何かモヤモヤしてきます。聖書には、「主を知ることを切に追い求めよう」と書かれています。ですから、一生懸命に主を追い求める必要があるということです。すると、それに呼応するように、主が現れるというのです。それも、微かな御声とか、そばに近寄ってきた感じ、とかいうような曖昧なものではなく、日の出の太陽の光のように、あるいは大雨のように、誰でもがはっきり分かるような現れであって、自分のところへ来てくださったと知れるような確かな現れなのです。さらに、「後の雨」とあるように、これは聖霊の大降下のことですから、リバイバルのことです。リバイバルを求める祈りはあっても、主を知ることを求める祈りは少なく、主を知ることを切に追い求めることがリバイバルを引き起こすとは分かっていないのです。私たちの一番切望する求めは、聖霊の雨です。それは、主を知りたいとの切なる願いから起こるのです。

 

11月26日(日)

わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。

詩篇32:8

クリスチャンでつくづく良かったと思うことがあります。それは、今日の聖句に書かれた通り、人生の目的を知り、たとえ道に迷うようなことがあっても、決して間違える事のない方から助言を得ることができるからです。私たち人間の弱さは、明日のこともわからないということです。ですから、先のことを考えだせば、誰でも不安になるものです。その不安にとらわれると、健康まで害する危険があります。悪魔は、そうした不安攻撃が効果があると知っているので、聖徒たちに気づかれないように攻撃してくることがあります。クリスチャンはもとより素直で正直な人が多いので、こうした攻撃は威力を増します。しかし、今日の聖句を知っていれば、人生の不安はないことに気がつきます。人生の長さも決まっていますから、100歳時代と言われても、その前に眠りにつく人の方が多いことも承知しています。それで、神様を信じているので、私たちは自分が困ったり、耐えられないような酷い目に遭うことはないと信じています。殉教の賜物でもいただいていない限り、心配する必要はありません。それよりも、どこへ行くかも知らない人と違って、あなたはゴールがどこか知っているのです。何しろ、「悟りを与え」ると約束されていますから、進むべき道を知ることができます。もし、そうなっていないと言うなら、それは、あなたが主を信頼することの訓練を受けているのかもしれません。あるいは、時には立ち止まるように促されているのかもしれません。いずれにしろ、心配しないことです。何度も今日の御言葉を唱えてみましょう。これが主のお約束であると納得がいけば、気楽に待っていればいいのです。

 

 11月27日(月)

主を喜びとせよ。主は君の心の願いをかなえてくださる。

詩篇37:4

 

「心の願い」とはなんだろう。自分の心は何を願っているのだろう。これから人生を始めようとしている人と老境に入り、人生を生きてしまった人では、その願いも異なっているはずだ。しかし、信仰者であれば、若者でも老人でも共通していることは、「主を喜びとする」ことを知っていると言うことだ。この世の人たちには理解できないことなので、話しても理解されることはないだろう。重要なことは、信仰を持っていれば、肯定的に考えることが前提されているということなのだ。人生は誰にとっても平等なのだが、本人がそれを不平等にしている。どうやって?と聞くなら、「否定的に考えることで」と答えれば正解だ。神様を信じている人は、善人であろうとするだろうが、それができない人もいる。罪の問題がまだ解決していない人のことだ。そのような人は、何事も自分の思い通りに運ぼうとし、それがうまくいかないと悪魔の心が出てくる。このようなことを神様が放っておくはずがないから、決して主を侮ってはならない。そこまでひどくなくても、否定的に物事を考え、否定的な言葉をためらいもなく吐く人も危険だ。彼らの心の願いなどあるのだろうか。主を喜びとする人は、信仰によって感謝する人生なのだ。小さなことでも喜び、神様を賛美することが嬉しい人だ。人生の考え方が、そもそも「主を喜び」としているので、御心にかなった願いが起こされて、それが実現して行くのだ。だから、キリスト教信仰は、本当にありがたい宗教なのだ。無理がないし、律法主義者になることができないはずだ。それでも、律法主義者になる人が出るのは、聖霊抜きで自分勝手に宗教をやっているからに他ならない。その証拠は、愛が無いと言うことだ。何に対しても愛が優先するのが主の示された宗教だ。だから、掟もただ一つ、「互いに愛し合え」だ。シンプルなので、掟を守っているかどうかがすぐにわかる。ここでも、肯定的に、主との関係を考え、喜びとすることだ。そこにしか、解決の道はないからだ。主を喜ぶようになれば、この世の願い事は消えている。だから、「愛」という心の願いが起こってくるのだ。それがかなえられるので、私たちは聖化して主イエス・キリストに似た者とされて行くのだ。

 

11月28日(火)

これは、あなたが歩くとき、あなたを導き、あなたが寝るとき、あなたを見守り、あなたが目ざめるとき、あなたに話しかける。

命令はともしびであり、おしえは光であり、訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ。

箴言6:22、23

 

これは、聖書のことを教えています。あなたは、聖書をこのように考えたことがあるでしょうか。このように理解することを知恵と言います。クリスチャンにとっても知恵が非常に大切であることを知っているでしょう。ですから、聖書と自分の関係をもう一度考えてみてください。今日の聖句の通りにすれば、あなたは天国への道を確実に進んでいることになります。しかし、聖書を遠ざけていれば、地図無しで天国への旅を続けているようなものです。私たちが恵まれているのは、これほどの神の御言葉を日本語で読めることです。しかも、大変古い書物が今、あなたの手の中に置かれているのです。歴史でしか知らない預言者たちが、神の霊感を受けて今も私たちに預言しているのです。あなたは、宝探しをする探検家のように、聖書から真理を発見し、自分のものとすることができるのです。イエス様は私の語る言葉は霊であるとおっしゃいましたが、その通り、聖書も霊感の書なので、聖霊の助けを得て私たちの人生を主へと導きます。信仰と祈り無しに聖書を研究しても永遠の命へと繋がっているわけではありません。でも、信仰者は聖書から神の真実を知ることになります。神の恵みによって人は救われるからです。

 

11月29日(水)

私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられ

ますように。神は、どのような苦しみのときにも、わたしたちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。

Ⅱコリント1:3、4

 

クリスチャンの受ける恵みは大きいのですが、その意味が理解できるまでは多少時間がかかります。と言うのも、その恵みを常識では捉えきれないからです。例えば、「慰め」とは、何か悲しい目に遭ったり、ひどい失敗をして落ち込んだり、傷ついて心を閉ざしてしまったりする時に、特効薬のように効く最高の薬なのです。あなたは人を慰めたことがありますか。反対に慰められた経験はあるでしょうか。長く生きれば、誰しもが慰めを受けたことがあるはずです。その中で、クリスチャンは一番の慰めは神様から受けたものだと言うでしょう。事実、大人になれば、私たちは子供のようには素直になれずに、人からの慰めを突っぱねてしまったり、心を閉ざしてしまいがちなのです。でも、私たちの心の深みを探ることができる神様は、最高の理解者なので、適切な慰めを運んでこられます。それは、自分がダメな人間なのだ、と思うような場面で「あなたが最高だ」と褒められるようなものです。否定モードから、肯定モードへと一気に変わります。あなたも、振り返れば、神様の慰めを受けて、危機を乗り越えたことがあるのではないでしょうか。こうして、この世の人は簡単には慰めてくれませんが、神様はどんな時も慰めてくださるので、クリスチャンは打たれ強くなれるし、試練にも打ちのめされないで、たくましく生きていけるようになるのです。そればかりか、慰めの意味を知っているので、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。

 

11月30日(木)

わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。

はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。

ヨハネ6:40、47

 

もし、あなたが神であって、罪人を救済しようと思った時に、どうやって罪から人を救おうとしたでしょうか。これは大変難しい問題で、人間には答えることができない問題です。神は、実際には神の独り子イエスを人間として地上に送り、イエスを信じた人を救うことにしたのです。これは人間の側のしなければならないことです。正確に言えば、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストが十字架で罪を贖なってくださったことを信じることです。イエスは、あくまでも父なる神の御心を行うために来られました。大変興味深いのは、父の御心は、イエスを見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、イエスを信じた者を終わりの日に復活させることです。つまり、イエスを信じることで永遠の命を得ることとその人たちが終わりの日に復活することが、神の御心なのです。実際には、イエスは昇天されたので、その後のクリスチャンはイエスを見ていません。それでも、救われるのは、別のキリストである聖霊がクリスチャンのもとに来られるからです。肉の目で見ることはできませんが、三位一体の神であるので、聖霊を見てもイエスを見たことと同じになるのです。そこで、霊の目を開いていただくのです。そうやって、クリスチャンは信じてきたのです。それにしても復活が約束されているのは面白いことです。生きて再臨を迎える人が大変少ないことを意味しているのでしょう。そして、人を救う方法がイエスを信じることなのだと改めて思わされます。罪を犯している者が信じただけで救われるというのは、不思議に思うでしょうが、「イエスを見て信じる者」と聖書に書いてあるので、これはやはり十字架にかかって血を流し苦しまれたイエスを見て信じる者という意味でしょう。そこにしか、自分の罪の赦しはないからです。酷い死に方が自分の罪の大きさを表しています。十字架に釘付けにして苦しめ、血を流すほど傷つけ、罪の重さに押しつぶされて死なれたイエス・キリスト。このイエスを私たちは信じているのです。