ディボーション2021年7月

7月1日(木)

すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」

出エジプト33:14

私たちは、時に疲れ果て休息が必要なことがあります。聖書時代の人たちも同じです。ヤコブの子孫たちは、エジプトで奴隷になり、苦役に喘いでいました。その苦しさから天に向かって叫んだのです。その叫びを主は聞かれ、憐れみをかけ助けることを決意されました。私たちも、頑張り続けて疲れ果て、どうしようもないところまで追い詰められてしまうことがあります。そうなると、強制的に休ませないと本人にはなすすべがないのです。ここまで頑張る必要はないのですが、自分からやめることができない状況に置かれていることがしばしばです。聖書にものがれの町が定められていましたが、別な意味で現代人にものがれの場所が必要です。しかし、大抵本人が倒れるまでは、そこへ逃げ込めないのも現実なのです。このような人間の問題に、神様はいったいどのようにお考えなのでしょうか。今日の聖書箇所を読んでみると、神様のありがたいお言葉が心に迫ります。一人ではどうしようもない私を主が自ら一緒に行って、「あなたを休ませよう」と言ってくださるのです。このような神様があなたの主なのです。だから、主に甘えて自分をゆだねてください。本当の安息を与えられます。安息の中で主との交わりを恵みとしていただきましょう。主の愛があなたを癒します。

 

7月2日(金)

いかに楽しいことでしょう

主に感謝をささげることは

いと高き神よ、御名をほめ歌い

朝ごとに、あなたの慈しみを

夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは

詩篇92:2、

 

楽しいことは幸せを実感させます。クリスチャンが知った真理は、主に感謝をささげることの楽しさです。これ以上のものはありません。クリスチャンはよく賛美歌を歌いますが、それは主に感謝をささげる良い方法だからです。それにしても、クリスチャンは恵まれています。主に祈ることを知り、その祈りがどんなにつたなくとも主は天の御座から身を乗り出して耳を傾けてくださるからです。そのことを私たちは現実の生活の場で知るのです。毎日、毎日、祈っていたことがある日突然、奇跡のように現れ、祈りが聞かれたことの喜びを知るのです。何でもすぐに手間をかけずに手に入れる時代に、ただ信じて祈り続ける忍耐のいることをクリスチャンは誠実にやり遂げるのです。その心は、こうして欲しいと願いがありますが、主の御心がなるように、といつでも主への信頼が第一となります。その方が間違いがないからです。このように何十年も信仰に生きてくると、今日の聖句のように自然と思うようになります。それほど主の恵みは確かで豊かに与えられるのです。そうなると、主を賛美して生きることが楽しくてならなくなります。クリスチャンで良かったと笑顔になります。

 

7月3日(土)

なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い

飢えを満たさぬもののために労するのか。

わたしに聞き従えば

良いものを食べることができる。

あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。

イザヤ55:2

 

コロナ禍であまり家から出なくなると、せいぜい食料品や日用品を買うために出かけるぐらいになります。それも長く続くと、ストレスをためてイライラしたり、ウツウツする人が増えます。これは若い人ほど大変そうです。このような状況で、今日の聖句を読むと、現代人がいかに糧にならぬもののためにお金を使っているのかと思わされるのです。よく可処分所得と言ったりしますが、要は糧にならないもののためにいったいいくら使えるのかということです。豊かな国ほど、糧にもならないものにお金を使っているのです。ところが、このような消費で得る満足は、長続きしないのです。すぐに次のものを買いたくなるし、無駄遣いのようにお金を使うのです。私は、田舎に住んでいますが、娯楽といえばパチンコで広い駐車場のある大型店がいくつもあります。それが平日でも駐車場がいっぱいになるのです。何か空しくなります。聖書は教えています。人間の満足は魂の満足だと。主に聞き従えば、良いものを食べることができるのです。それは、決して食べ物だけのことではありません。魂がその豊かさを楽しむことができるもののことなのです。すぐに消えてしまう満足は、満足を得るために消費し続けなければなりません。とても大変です。一方、主が与えるものは魂が満足するのだから、空しく消費するようなものではないです。この特権に招かれていることを感謝しましょう。いつでも主に聞き従う者になりたいですね。

 

7月4日(日)

いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

ガラテヤ2:20

 

信者さんと信仰生活について話すことがあります。それは、道徳でも倫理でもありません。ましてや律法の行いでもありません。多くの信仰者は使徒として伝道生涯を送るわけではありません。ごく普通に仕事をして生きるのです。仕事も、教会関係の働きにつく人はまれで、未信者の人と同じ仕事をして生計を立てるのです。そこで、信仰生活について悩む人たちが出てきます。そもそも信仰生活が何であるか知らないことに気がつくのです。そこで、聖書に教えがないかと探してみると、今日の聖句を見つけるのです。福音を信じて、自分の罪の問題を聖霊が外から働いて悟らせます。その結果、悔い改めが起こり、罪に汚れた自分を洗礼で洗い清めようと考えます。しかし、キリストの血によらなければ罪の赦しも清めもかなわないと知るのです。そこで、洗礼を受けてクリスチャンになります。問題は、その後の信仰生活です。パウロはどうであったかと聖句から考えてみましょう。文字通りに読めば、パウロは、キリストの愛の業を十字架に見たのです。そして、キリストの愛を受け止めました。自分のために命まで犠牲にされるキリストの愛に動機づけられた信仰が、パウロが生きる理由となったのです。それは、また、古い自分がキリストと共に十字架で罪もろともに死んでしまったという信仰を与えました。それゆえに、新しい命が天より与えられ、聖霊が内住するようになるのです。この霊はキリストの霊です。ですから、新しく生まれた命の秘密は、キリストが自分の内に生きておられるという奥義です。そのキリストの御心がことごとく自分を通して成就することは、御父の御心をキリストが成就したことと同じです。そのことが可能となるように生活することが信仰生活なのです。

 

7月5日(月)

しかし、わたしは主を仰ぎ

わが救いの神を待つ。

わが神は、わたしの願いを聞かれる。

ミカ7:7

 

私たちは、どうしても神様に助けていただきたい時があります。それは、自分のことだけとは限りません。愛する人のために神様に願いを聞いていただきたい時があるのです。私たちは、人間の弱さから、失敗もするし、一旦困ったことになれば自分を責めてしまうことだってあります。しかし、私たちに神様がお与えになったのは信仰です。この信仰が私たちを救いへと導きます。そこで、敵であるサタンは、この信仰を攻撃するのです。牧師が多く聞く言葉に、「私の祈りは聞かれない」があります。だから、牧師が代わりに祈って欲しいというのです。確かに、牧師は信徒のために祈るのですが、牧師の方がまさっているから祈りが聞かれるということではありません。神様は全ての祈りをちゃんと聞いておられるのです。その祈りにはどれも意味があります。ただ、祈った本人の願いが間違っている場合、祈りをかなえると本人の考えとは違って悪い結果となる場合、今ではなくその時を待たなければならない場合、そして、信仰を使わない場合に、当然ですが祈った本人は祈りが聞かれないと感じるのです。信仰は、聖書に登場する人たちをみると、イエス様に会おうとしています。それは、イエス様が自分の問題を解決できる方であると信じているからです。イエス様との距離が生じているのは、信仰を使わないで自分勝手に生きているとそうなります。ですから、イエス様が招いた人には、イエス様の方に戻ってくるように何か気づかせることが起こります。そして、イエス様を仰ぎ、自分の全身全霊を主へと向けるのです。聖書を読み、祈ります。救いの神を待っているのです。結果は、祈り手の心が変わり、信仰によって主を待つことができたので、神様が願いを聞かれることを見るのです。

 

7月6日(火)

主に望みをおく人は新たな力を得

鷲のように翼を張って上る。

走っても弱ることなく、歩いても疲れない。

イザヤ40:31

 

あなたは主に望みをおく人です。そうでなければこの文章を読んでいません。そして、神様は、聖書から語っておられるのですが、どうしても自分の思いのままに頑張って生きている人が多いので、神様が何と言っているか聞き損なうことがあります。実際には、今日の御言葉のように約束があって、しかも、自分にとって必要な約束であるのです。大変な目に遭うと、力が奪われて虚脱感に襲われるものです。それに対して神様は、あなたは主に望みを置いているのだから「新たな力を得」る、と約束されます。これは真実です。大変なことが襲って来れば、誰でも意気消沈して落ち込むでしょう。心身共に疲れ果てるまで、頑張っても足りない時に、途方にくれるのです。しかし、信仰者はここからが違うのです。神様を信じているので、今日の御言葉のように上からの力が降ってくるのです。だから、試練の時でも恐れなくても良いのです。試練を克服することも、逃れることもできるのです。だから、信仰のない人のように倒れることはありません。これがどれほどありがたいことか、願わくば試練に遭うこともなく、困ったことも起こらないことが一番ですが、万一、大変なことに遭遇しても、弱ることなく、疲れない、と信じましょう。上よりの力が降るまで、祈って待ちましょう。このように、あなたには、恵みの約束があることを覚えていてください。万が一、弱ってしまったなら、今日の聖句を読んで、主に望みをおきましょう。良い結果が待っています。

 

7月7日(水)

見よ、あなたたちの神

見よ、主なる神。

彼は力を帯びて来られ

御腕をもって統治される。

見よ、主のかち得られたものは御もとに従い

主の働きの実りは御前に進む。

主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め

小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。

イザヤ40:9~11

 

主イエス・キリストは罪人を救うために来られました。主は、力ある勝利者です。主の御力は、人間の想像をはるかに超えたものです。主は、十字架に架かられることで人間には敗北のように見えたのですが、実際には人間を滅ぼす罪と死と悪魔に勝利されたのです。人間の考える力ではこのいずれにも勝つことができません。しかし、主は本当に勝利されたのです。そのために、罪人を救うことが可能となりました。罪人が救われる方法はただ一つ、主イエス・キリストを信じることです。主は、罪人の救いのために今も働かれています。そして、一人の魂を勝ち取ると、その者は主のものとなって、御もとに従うのです。主はご再臨までこの救いの働きは続けられ、福音は世界をおおうのです。聖書に書かれた通りに主イエス・キリストを信じる者とそうでない者に分かれて行きます。そして、救われた者たちは勝利したキリストの凱旋パレードに加わり主の御前を進むのです。その光景は、羊飼いに導かれる羊の群れのごとく麗しいものです。この預言は、ことごとく成就し、その救われた者の一人があなたなのです。

 

7月8日(木)

二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたのの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。

マタイ10:29~31

 

一羽では値がつかずに二羽でようやく最低の値段で売られている雀でさえ、神様はちゃんとお心をかけておられるから、お許しなしには雀でさえ地に落ちることはないとイエス様は語られました。自分に自信が持てない人でも、まさか雀以下だとは思わないのです。その雀に対する神様の接し方は、驚くべきものです。時に、私たちは神様を過小評価しているのではないでしょうか。神様はあなたの髪の毛の本数すら知っているのです。私たちは高慢にも自分のことは何でも知っていると言うのですが、実際には髪の毛の本数すら知らないのです。つまり、自分を客観的に評価できないのです。どうしても主観で自分を評価しています。そのために、その時の感情に大きく自己評価が左右されているのです。否定的になっていれば、自己評価は低くなり、逆に肯定的になれば、自己評価は上がります。ただ、感情をコントロールするのは簡単ではありませんから、自己評価を一旦落とすと、自信がなくなり、それが感情に悪い影響を与えるために、さらに自己評価は下がってしまいます。こうなると、自分の努力で自己評価を上げようとしてもなかなかうまく行きません。そこで、クリスチャンは、天の父である神様の評価に目を向けるのです。そうすると、イエス様がピシャリと仰るのが今日の聖句なのです。これは、心が否定的になって自己評価を下げてしまうと、自分の価値が無いように思えてくるので、イエス様はショック療法で目を覚まさせるのです。いくら何でも雀と人間を同じ秤にかけることはありませんから、雀以下とは思いません。しかし、自分が思う以上にセルフイメージを下げているので、雀と言われたらそうかもしれないとバカな考えをするかもしれないのです。でも、天の父なる神様はあなたがたとえ雀ほどの価値しかなかったとしても、ちゃんと見守っているし、愛しておられるのです。ですから、「恐れるな」という御声にハッとなって目を覚まし、あなたはたくさんの雀よりもはるかにまさっている、とのイエス様のお言葉を受け止めなければなりません。なぜなら、あなたのためにイエス様は命を献げて下さったからです。

 

7月9日(金)

わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に”霊”を与えてくださいました。

Ⅱコリント1:21、22

 

人の救いを聖書は次のように説明します。クリスチャンになった人を神様がキリストに固く結び付け、彼らに油を注いでくださった。これは、私たちが客観的に自分の救いを考える時に役に立ちます。私たちはキリストの十字架を信じる信仰で救われたと言いますが、その霊的な意味は、神様がキリストに固く結び付けたことと聖霊を注いでくださったことです。人の救いとは罪からの救いです。罪は死ななければならないからです。正しく修正したり、矯正したりできないからので、律法を遵守する努力をしても無駄なのです。ですから、御子イエスがわざわざこの世に来られて救いの道を開かれる必要があったのです。しかも、人間の罪を負って十字架で死ぬ必要があったのです。そこまで主は人間を愛したのです。このようにしてイエスを信じた人たちは、恵みで救われました。しかし、ありのままで救われたので、キリストに似た者とは言い難いのです。そこで、今度こそ律法を立派に守って見せようと頑張っても、ファリサイ派の人たちの二の舞になるだけです。人間をキリストのように造りかえるのは聖霊の働きです。御霊の実と聖書に出てくるように、内側から聖霊が働いてキリストの品性を形作るわけです。それは、建物の新築工事のようで、古い家を壊し、そこに新しい家を建てるようなものです。この工事は夜も眠らずに続けられる聖なる工事です。皆さんは見えないでしょうが、神様が証印を押したと言われました。そして、保証としてわたしたちの心に聖霊を与えられたのです。ですから、このまま従順に主に従っていれば問題はありません。しかし、自分勝手に考え、行動すれば、どうなるかわかりません。特に偶像を禁じていることを覚えていてください。偶像礼拝は悪魔を拝むことだと聖書は教えていますから要注意です。これが一番の懸念事項です。それは、人間の欲と関わっているからです。偶像礼拝の問題は、自分の欲望を満足させることだからです。そうならないように、肉を十字架のキリストの死と固く結び付けて、肉に潜む罪もろともに殺すわけです。ところが、クリスチャンも後退することがあるのです。肉を生きたものとして、肉に従うのです。この結果は致命的です。そうではなく、キリストに救われた人は、聖霊に従うのです。その意味は、聖霊の実を結びたいからです。そして、聖霊こそが保証なのです。あなたに神様はこれ以上ない最高のことをしてくださったのです。この神様の業が完成するのは再臨の時です。それまでに、聖霊に完全にしていただきましょう。

 

7月10日(土)

あなたの重荷を主にゆだねよ

主はあなたを支えてくださる。

主は従う者を支え

とこしえに動揺しないように計らってくださる。

詩篇55:23

 

長く生きてわかったことは、何があっても動揺しないことが肝心なことだということです。いつでも冷静で平常心を持てる人は、勝利者になれます。すぐに緊張する人は、緊張する場面を避けるようになりますから、人生で損をするのです。もし、緊張するような場面でも動揺しないでいられたら、どうでしょう、きっと多くのチャンスを手にしていたでしょう。危険な目に遭うような場面でも動揺しない人は危険を回避できる可能性が高いのです。あなたが重荷を負っているなら、それが重圧となって平常心で事にあたることが難しくなっています。聖書では、心配事も、思い煩いも避けられないのなら、「主にゆだねよ」と命令しているのです。主に支えられる経験が信仰者には必要です。重荷を主に委ねていないのに、ちょっと祈ってそれで解決しないとすぐに諦めてしまう人は、せっかち過ぎます。ゆだねるとは、重荷を主に任せて自分の手から離す事です。それだから、自分の心が主にゆだねきって解放されているかどうかです。まだ、心配したり、思い煩っているようなら、まだ自分の手元に重荷はしっかり残っています。だから、ちゃんと祈りきっていないのです。時間をかけて、自分の心がどうなっているのかを確かめながら、重荷を主にゆだね切りましょう。それは、主を信頼し切っているという状態です。つまり、主に従う者となっているということです。そこまで行けば、主が問題に直接対処されるので、もう動揺することはなくなるのです。心がいつも平安でありたいですね。

 

7月11日(日)

主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。

詩篇103:3~5

 

これほど善い神様がいるでしょうか。あなたの信じている神様は、あなたの想像以上によくしてくださいます。しかし、この世の荒波を受けて自分に自信が持てなくなったり、否定的に物事を考えるようになっているかもしれません。社会が大きく変化し、働き方が変わってしまったので、不安は増すばかりなのです。そのような中で自分を支えてくれる確かなものが必要です。幸い、神様を信じ、イエス様を主と呼べる、あなたは社会に影響されて悲観的になる必要はありません。人生につきものの試練も、あなたには助けてくださる保証があるのです。今日の聖句をよく読めば、神様の約束が確かにあると納得ができます。それも、一生の保証です。「あなたの一生を良いもので満たされる」と書いてある通りです。ですから、主を讃美しましょう。主の良くしてくださることを数え、感謝しましょう。そうすれば、いつも喜んでいられます。失敗しても、いつまでもクヨクヨする必要はありません。主に全て心を開き祈るだけです。元気を出して今日を生きて行きましょう。

 

7月12日(月)

わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。

フィリピ4:19

 

クリスチャンは、今日の真理をしっかり覚えている必要があります。なぜなら、この世の人のように肉の弱さで思い煩うからです。テレビで保健のコマーシャルが多く出てきます。自動車の損害保険から生命保険、火災保険、地震保険、休業補償、自転車保険、ペット保健と何でもかんでも保険になっていることは、それだけ誰でも心配しなければならない事が多くあるという事です。将来がバラ色ならいいのですが、不安になるようなことを耳にすると、思う煩うなと言われてもつい思い煩うものです。しかし、聖書をよく読んでみると、今日の御言葉のように神様はキリスト・イエスを通してご自分の無限の財布から私たちの必要を満たそうと支払ってくださるのです。つまり、天の王様の子供は、イエス様だけでなく、クリスチャンになったあなたも含まれるのです。あなたは、天の王の子なのです。アラブの石油王の子供がどれほど豊かか何かで見たり聞いたりしたでしょう。あの子供は人間の王様の子供でしたが、あなたは天の王様の子供です。ですから、あなたは、生活で心配する必要はないのです。もしあるとすれば、それはあなたの不信仰か、神様があなたに特別プログラムを用意して訓練されているかです。聖書は全て神の御言葉と信じているなら、今日の御言葉を読んで覚えて信じてください。余計な思い煩いから解放されます。

 

7月13日(火)

癒しをもたらす舌は命の木。

よこしまな舌は気力を砕く。

箴言15:4

 

人間の不思議があります。それは、皆同じようで実は一人一人が違っているということです。小学校の時から、自分のクラスには自分とは明らかに違う人が存在し、明るい人も暗い人も、元気な人も元気がない人も、勉強が得意な人も苦手な人も、運動が得意な人もそうでない人もいました。それだけではありません。個性が全く違うのです。そして、いつも優しい言葉を語ってくれる人もいれば、怒らせるようながっかりさせる言葉を言う人もいました。さて、今日の聖句をよく見てください。舌の事が書かれています。あなたの舌はどちらでしょう。残念なことに、自分がどうしているかは意外とわからないものです。人のことはよくわかるのですが、自分は意識しないと何を言っているのかわかりません。聖書に書かれているように、私たちは癒しをもたらす舌でありたいのです。しかし、下の句は、「よこしまな舌」と書いてあるので、心のことだと理解できます。欲が放っておかれれば、よこしまな思いが出てきてしまいます。それを抑えるものは、お侍なら、「武士の矜持」と言いました。矜持は自信と誇りで堂々としていることです。それに倣って、クリスチャンの矜持といえば、信仰によって生きることでしょう。キリストの弟子としての矜持といえば、互いに愛し合いなさい、との主の掟に生きることになります。舌は、誰にとっても難しいものですが、クリスチャンは心がこもった言葉を語ろうとします。それは、愛の言葉です。人を赦すのも愛ならば、人を癒すのも愛だからです。

 

7月14日(水)

あなたがたを、つまずかせないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように、アーメン。

ユダ24、25

 

私たちはクリスチャンでよかたっと聖書を学ぶ度に思います。それだけでなく、人生でイエス様を知っているかいないかの違いがいかに大きなものであるかを日が経つに従って思い知らされます。聖書によれば、私たちをつまずかせないように守ることができるお方として主が紹介されています。私たちは自分で思っているほどは強くはなくて、思いがけず簡単につまずく者なのです。それが人生でどれほどダメージを大きくするか、実際につまずいてからでは遅いのです。この約束がいかに凄いものであるか、理解できるといいのですが。それだけでなく、クリスチャンの多くが気にしている「傷のない者として」神様の御前に立つことができるかどうか、これは永遠の命がかかる最終的に天国へ入れるかどうかということを意味しています。そこで、多くの人は、クリスチャンとしていかに徳をつみ立派になれるかを気にしているのですが、自分の努力ではなんともならないことを知ることになります。それでは、希望がなくなってしまいますが、今日の聖句を読むとそうではなくて、「御前に立たせることができる方」がいらっしゃるのです。つまり、神様の救いは完全な救いだったのです。まさに至れり尽くせりの救いなのです。だからと言ってでたらめに生きても良いということはありません。義人は信仰によって生きる、と言う真理は有効ですから、あくまでも信仰によって正しく生きていくことが肝要です。しかし、神様を信じていれば、天国へ入ることができるように神様が働いてあなたが完全になって、御前に立てるようにしていただけるのです。これほどの愛の神様は他にはいません。ですから、神様に栄光、尊厳、支配、権威が、主イエス・キリストを通して世々限りなくありますようにと讃美するのは、先の説明のようにこの神様があなたがたを天国に入ることができるようにしてくださるからです。そのことを理解できたら、あなたも讃美するでしょう。

 

7月15日(木)

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主イエス・キリストにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

ローマ8:37~39

 

どのような事態に遭遇しようと、私たちは切り抜けることができます。それどころか、圧倒的勝利者になるのです。それは、私たちが信じた神様が私たちを愛してくださるからです。この愛は、イエス様を信じて信仰の道を歩んで初めてわかりました。私たちは、完全な者になろうとするのですが、自分の力では無理だと思い知らされるばかりなのです。そうしている内に、神様はイエス様を通して愛の計画を実行されるのです。それは、私たちをキリストのように完全にする計画です。私たちのかたくなな心は、砕かれなければ素直に主に従うことすらできなかったのです。そこで、主は私たちが滅びないように試練を通されたのです。しかし、私たちが耐えられないような試練には遭わせません。何しろ逃れ道まで用意してあるのですから、ありがたいことです。このように、生活に中でだんだん教え諭されたのは、神様は愛であるという事実です。そして、いつしか、イエス様を通して神様の愛が私たちをしっかり捉えたとのです。この愛があれば大丈夫だと確信できるのです。それどころか、この愛によらなければ生きていけないと悟ります。そして、愛の不思議は、いつしかどんなものでも神の愛から引き離すことができなくなったのです。この愛がわかったので、私たちはキリストのように変えられていくのです。この喜びが、あなたに与えられているのです。

 

7月16日(金)

神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。

 

今日の聖書箇所は、「香り」がキーワードになっています。香りのイメージはどのような者でしょうか。日本人なら香道があるぐらいですから、香りには深い関心があります。高い精神性をそこに見ているのです。ただ、私たちはクリスチャンが香りと言われる時に、肯定的な良いイメージを抱きます。確かに、世の塩、世の光、と言われることはありますが、キリストの香りとはあまり考えていないかもしれません。これは、難しい議論や神学を持ち出すような言葉に頼った伝道とは異なっています。黙っていても、ただそこにいるだけでキリストの良いものが人に伝わって判別されるということです。これは、相当すらばらしいことです。外見を着飾ったり、言葉で自分がいかに素晴らしいかを伝えても、人はその人を見て見破ります。ですから、クリスチャンが香りとするものは外見ではなく、内面であり、品性なのです。クリスチャンを見ているとキリストを知るという知識が香りを嗅ぐように伝わるというのです。ラベンダーやクチナシの花、春の沈丁花など、香りの強い花は、遠くまでその香りを運びます。そして、良い香りに気づくと近くにクチナシの花があると察するのです。このように、キリストの香りであれば救いの香りとなり、滅びる者には死への香りとなると聖書は教えています。これは明らかに聖なる働きですね。誠実な信仰者にはこのような不思議が現れるのです。私たちは、大それたことはできなくとも、キリストの香りとして、悲しむ人の慰めとなり、救いを求める人の助けになり、孤独な人の友となりたいのです。そういえば、神様の臨済を感じる時は、空気が澄んで清新な聖なるものへと変わるのです。皆さんがキリストの良い香りであることを喜びとして欲しいと思います。

 

7月17日(土)

御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。

ヤコブ1:22

 

クリスチャンはどうやって生きていけば良いのかと考えます。普通の生活を過ごしながら、時にクリスチャンならどうするかと悩むこともあります。ただ、いつの間にか御言葉を聞くだけで終わってしまっていたかもしれません。御言葉を読むことは誰でもできますが、行うことは簡単ではないのです。信仰によって生きることは、聖書を読むだけではなく、御言葉の意味を解釈し、理解して、それが自分の生き方になることなのです。そうなると、聖霊の助けがいるので、祈り求めることになります。また、聖書を学ぶ機会があれば積極的に参加することも益となります。キリスト教書籍も助けになるでしょう。それから、祈りと瞑想も意味があります。ステレオタイプに御言葉を解釈すると、多分、何もしないと思います。あるいは、心の中で偽善を働く危険すらあります。観念的にクリスチャンはこうすべきだと思うと大抵失敗します。ですから、時間はかかっても地道に聖書を学び、生活で適用し、祈ることです。ヤコブ書にあるように御言葉を行う人になりたいからです。ただ、律法主義者になってはいけませんから、その行いが愛に根ざしているかどうかと点検することも大切です。いずれにしろ聖霊の助けが不可欠です。神様との交わりを楽しめるようになるといいですね。

 

7月18日(日)

彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。

使徒言行録18:25、26

 

アポロは魅力ある人です。聖書に詳しい雄弁家(24節)と紹介されています。アポロはイエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたのですが、全てを教えられてはいなかったのです。聖書を読むとパウロは初心者にはイエス・キリストの生涯の出来事について、それは十字架、復活、昇天まで含まれた事実を伝えたのです。それに再臨までも伝えられました。ところが、信仰を持った人が霊的に成熟するとその人たちには、さらにこのキリストの出来事の意味を教えたのです。アポロは、教えられたことは正確にしかも雄弁に伝えることができる賜物に恵まれてしました。しかし、彼はまだすべてを教えられてはいなかったのです。それは、知っている者にはすぐに分かることでした。そこで、プリスキラとアキラは、アポロにもっと正確に神の道を説明したのです。それは、アポロの才能に火をつけるようなものです。雄弁家に、福音の真髄が伝授されたのです。これほどの強烈な説得力を持つ伝道者は他にはいなかったでしょう。皆がアポロになるわけではありませんが、聖書の初歩で甘んじてはいけないということは大切なことです。クリスチャンは成熟を目指しているのです。パウロ流に完全といってもいい。聖霊の助けを得て、正確に聖書の真理を理解することが大事なのです。聖霊もそのために働いてくださいます。赤ちゃんでいられるのは限りがあります。離乳食からさらに固い物も食べることができるようにと期待されています。そのように、成長、成熟ができるのです。そのためにも霊的に目を開いていただけるように主に祈りましょう。なにしろ聖霊が先生なのですから。

 

7月19日(月)

あなたのいつくしみは、なんと大きいことでしょう。あなたはそれを、あなたを畏れる者のためにたくわえ、あなたに身を避ける者のために人の子の前で、それを備えられました。あなたは彼らを人のそしりから、あなたのおられるひそかな所にかくまい、舌の争いから、隠れ場に隠されます。

詩篇31:19、20

真理は一つです。しかし、この世の中には不思議なことに正反対の真理が存在します。もちろん、人間の考えのことです。例えば、地球温暖化を防ぐために二酸化炭素排出量を削減しなければならない、と言えば、すぐに反対するものが正反対の主張をします。相反する二つの真理が存在することはあり得ないので、やがてどちらが正しいかを知ることになりますが、その時では手遅れになることも承知しなければなりません。主イエス・キリストが救い主であると宣べ伝える人たちに対し、反対する者もいるわけです。それは、聖書に書かれた再臨が無いと言っていることなので、再臨が来た時に慌てるでしょうが手遅れです。このように、真理を語ることは、絶えず批判にさらされ、反対意見に脅かされることになります。しかし、主は黙っていてはならないと言い、もし黙っているのなら石が叫ぶと言われました。私たちは、驚くほど批判されることを恐れるのです。ですから、細心の注意を払って批判されないように気を遣って生きているのです。そのために、たとえ正しいことでも声高に意見を述べることを躊躇するのです。それが、福音であり、人の永遠の命に関わっていても、語る勇気が出てこないで、事なかれ主義に流されているかもしれません。しかし、今日の聖句を読むと、私たちの信じている主のいつくしみがいかに大きなものであるか、この世で批判に遭い、誹謗中傷されて主に身を避けるなら密かな所にかくまってくださるのです。舌の争いから守っていただけるのです。私もそうやって守られてきたのです。ならば、気長に福音を語り、信仰によって生きることをこの世に現しましょう。それがキリストの願うことだからです。

 

7月20日(火)

わたしはあなたを固くとらえ、地の果て、その隅々から呼び出して言った。

あなたはわたしの僕、わたしはあなたを選び、決して見捨てない。

イザヤ41:9

 

あなたがクリスチャンであるのは、今日の御言葉のように神様があなたを呼び出して固くとらえておられるからです。ですから、あなたは主にお仕えする者です。普通の生活をさせていただいているようで、実はあなたは主の御用を実現させる方です。あなたの耳に何か情報が入れば、すぐに祈るべきと判断すれば、執り成して祈っています。機会が与えられれば、目の前の人に福音を語ろうと口を開きます。誰かが困っていれば助けようとするでしょう。主を礼拝し、御言葉を学び、讃美します。困難に遭遇すれば、主の御力に頼りますが、信仰によって困難に立ち向かうのです。あなたがいれば、周りの人たちは悪いことを話せなくなります。あなたが存在するだけで、安心する人もいれば、喜ぶ人もいます。主は、あなたを既に御用に用いておられるのです。使徒パウロのような働きでは無いかもしれませんし、聖職者になるわけでもありませんが、同じように重要な働きを担っているのです。ただ、あなたにとっては、大したこととは感じていないので、何もしていないと思っているかもしれませんが、今に至るまで信仰によって生きているのなら知らないうちに主に仕えているのです。主は、あなたを選んだのです。主は間違えません。そして、決して見捨てないのです。だから、今日も元気に明るく生きて行きましょう。

 

7月21日(水)

だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。

使徒言行録13:38、39

 

人間が救われる基準は義であるかどうかです。多くの人は勘違いして、自分で義となろうとさまざまに努力するのです。もっと善行を積もう、徳に徳を重ねよう、と頑張るのですが、それは古代のユダヤ人も同じでした。彼らは、モーセの律法を遵守して義とされようと願ったのですが、誰一人義とは認められなかったのです。もちろん、義と認めるのは神様です。もしそうなら人間は誰一人、義とは認められないのでは無いかと心配になるでしょうが、この人間にとって不可能なことを主イエス・キリストが可能にしたのです。それも、信じるだけで義とされるのです。この信じることがいかに大切なことであるか分かると思いますが、難しく考えてはいけません。これは、心のことです。主が私たちを救うために天からくだられ、人となったことを私たちは信じます。そして聖書によると、私たちの罪を赦すには清い犠牲の献げものが不可欠でした。そこで、罪の無い清いキリストは自ら犠牲になる道を選び、十字架につけられたのです。それは、私たちを愛する愛の故です。この愛によって、私たちは救われたのです。つまり、信じることは愛することなのです。主に愛されて、初めて目を覚まし、主に心を打たれたのです。罪深い者が滅ぶことを惜しみ、主は憐れみをかけられたのです。そのことがわかったので、十字架の御前で私たちは、主を信じたのです。それだけで義とされたのです。このことをよく考えてみましょう。尊いキリストの愛があなたを生かします。

 

7月22日(木)

神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。

エフェソ1:3、4

 

あなたがクリスチャンであるなら喜びなさい。なぜなら、聖書は明確にあなたのことを書いてあるからです。今日の聖句を読むと、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました、と既に成ったこととして書いてあります。つまり、クリスチャンになったあなたには、このような目には見えないが確かな霊的祝福が既に与えられているのです。それは、キリストにおいて、と条件が書かれていますから、あなたが信じている主イエス・キリストは、あなたの想像以上に良くしてくださるのです。そもそもですが、あなたがクリスチャンになれたのは、天地創造の前に決まっていました。神はあなたを愛しておられたのです。そこで、神のみ前で聖なる者、汚れのない者にしようとキリストにおいてお選びになったのです。私たちは、罪人であったことを知っています。それがキリストによって救われ、清められ、神のみ前に立てる者となれるようにと再創造されているのです。何より覚えていて欲しいのは、天地創造以前にあなたはキリストにおいて選ばれていたということです。偶然クリスチャンになったわけではないのです。あなたの意識は理解が及ばないかもしれませんが、聖書に書かれたことは真理なので、信じるに足ります。そうすると、あなたの上にはキリストの御力が今も働いていて、聖なる者、汚れのない者にしようと不思議が行われているのです。自分の意思で自由に生きていると思っているでしょうが、御言葉を与えられたなら、心を翻して主に向かい、主の選びにふさわしく信仰で応えましょう。自分がいかに祝福された者であるか認め、感謝して生きて行きましょう。

 

7月23日(金)

いつも喜んでいないさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

一テサロニケ5:16~18

 

スターの方達は、サインや言葉を色紙などに書いて欲しいと頼まれますが、牧師も頼まれることがあります。もちろん、サインをせがまれるのではなく、御言葉をくださいと頼まれるのです。そんな時に、今日の聖句を書くことがあります。それが、新品の聖書に書いて欲しいと言われると、弘法大師なら分かるけど、私に聖書に書けとは冒涜になるのでは?とか、せっかくの新品の聖書が価値がなくなるから、そんな無謀なことはやめたほうがいいと言っても聞かずに、仕方なく古代のヘブル語かと言われそうな字を書くのです。しかし、聖書にこの聖句をあえて書くのには意味があるのかもしれません。それは、神様がその人に望んでいることを明記したからです。たった三つの命令です。それも、いずれも難しくありません。喜ぶことも、祈ることも、感謝することもできます。しかし、「いつも喜んでいなさい」と言われると「いつもか」と思うかもしれません。ましてや、「絶えず祈りなさい」と言われれば、そんなことができるのだろうかと頭を捻ってしまいます。そして、「どんなことにも感謝しなさい」と命じられたなら、ずしりと重荷が背中に負わされたように感じるかもしれません。簡単なのに難しい課題なのです。それでも、神様があなたに望んでいるとすれば、無視できません。しかし、よく読み返すと、秘密があました。「キリスト・イエスにおいて」と書いてあるのです。つまり、自力ではなく、キリストによってなされるのです。キリストに対する信仰によって実現していくことなのです。クリスチャンの基本だということがわかります。いつも喜んでいれば、悲しむ暇がなくなります。絶えず祈れば、いつも神様と話していることになりますから安全です。どんなことにも感謝するなら、災いが無くなります。そうであれば、自分には良いことしか起こらないことになってしまうのです。感謝は神様へ向けられるので、神様の支配が始まります。そうであれば、神の国の中にあるので心配することはなくなります。何と、クリスチャンならではの恵みでしょう。

 

7月24日(土)

主は憐れみ深く、正義を行われる。

わたしたちの神は情け深い。

哀れな人を守ってくださる主は

弱り果てたわたしを救ってくださる。

わたしの魂よ、再び安らうがよい

主はお前に報いてくださる。

詩篇116:5~7

 

ギリシャ人は、神様には感情が人間のようにはないと思っていました。超越した存在と思っていたのです。そうでないと、感情的であれば、人間に支配されてしまうかもしれないからです。そうなると、人間の弱さや、辛さ、悲しさ、惨めな気持ち、淋しさ、怒り、絶望、喜び、思いやり、親切、と心のある人間の微妙な心の感情が理解できずに、厳しい律法で裁かれてしまうのではないかと思ってしまいます。つまり、ギリシャ人の神では同情も憐みも共感してもらうこともできなくなってしまいます。ところが、聖書の神様は、全く違います。私たち人間の弱さを理解できるのです。悲しんでいれば、憐れんで手をとってギュッと握ってくださり、孤独だと感じていると一緒にいようと隣に座るお方なのです。ですから、私たちは偽善者のように立派に振る舞おうとは思っていません。自然体で、自分らしく飾らずに生きようとします。クリスチャンとして、イエス様のようでありたいと願っていますから、同情も共感もできる良い感受性をやしなっています。それは、イエス様が自分にしてくださることから学ぶのです。だから、イエス様との関係を第一にします。何でもイエス様に話します。友なるイエスよと歌うのは、本当のことだからです。だから、あなたには希望があります。良き理解者がいるからです。情け深いイエス様はあなたを守り、救ってくださいます。心から感謝したくなりますね。

 

7月25日(日)

それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。

ルカ21:25~27

 

再臨の前兆はすでにキリストによって予告されています。これまでにここに書かれたような恐ろしいことは起こっていません。しかし、天体が揺り動かされるような一大事がやがて起こるのです。東日本大震災を経験しましたが、あれ以上のことが起こるのです。誰も生きた心地はしないでしょう。確かに、この世の終わりです。しかし、クリスチャンはこのキリストの到来を心待ちにしているのです。この世界が終わってしまっても構わないと考えているのです。それは、天国へ入ることが望みだからです。いつこのようなことが起こるかは、書いてありません。しかし、聖書に書かれた他の徴は、ことごとく起こりました。つまり、預言は確実に成就しているのです。そうすると、私たちは再臨直前にいる可能性が高くなります。いつ再臨となってもかまわないように、心を定めて、淡々と信仰の道を歩み続けましょう。

 

7月26日(月)

すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」

使徒言行録2:38、39

 

聖霊のバプテスマを特別な人のものと考えることは、今日の聖句を読んでも違うとわかります。ただ、現代の教会では悔い改め、イエスの名による洗礼、罪の赦しまでは言いますが、賜物として聖霊を受ける、ということには消極的というか、無視しているように見えます。天の王である神様が救われた人に与える賜物としての聖霊を抜きにするとキリスト教は成立しません。自力での自己義認は無いと言い、律法主義はけしからんと非難しても、聖霊のバプテスマを認めないと、行いによる義は無いので否定しますから、自ずと信仰による義を強調することになります。そうすると、どうしても信仰が弱いだの、信仰が足りないなどと、自力で信仰を高めるように要求することになってしまうわけです。信仰とは言っていますが、これも行いによる義でしか無いのです。なぜ、賜物として聖霊を受けると言っているか考えれば、聖霊によらなければ誰も義とならないからです。だから、私たちは自分には誇るものが何も無いのです。ただ、神様の愛と憐れみが私たちを救ったのだと納得できます。そうであれば、聖霊はいるのかいないのかわからないようなものでは困ります。天地万物の創造の時のように、私たちを神の子として再創造することが必要です。その時に、強制的に再創造することはないので、私たちに同意を求めるわけです。その部分が信仰と呼べるところです。皆様は、聖書に書かれた神様の約束、その御計画を調べて知り、信仰を働かすのです。聖霊の恵みがあなたのものとなりますように。

 

7月27日(火)

あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。

ヨハネ15:7

 

このような御言葉に出会うと、クリスチャンはしばし考え込んでしまうでしょう。肉の人の望むものと霊によって生きる人のそれとはまったく違っています。肉の人は欲望を満足させようとするでしょう。しかし、霊の人は主の御心を知っているのでその御心を満足させることを願うのです。ですからかなえらえ流のです。このようになりいと思っているのなら、神様の救いの計画を完全には理解していないという意味になります。それは、今日の聖句に説明があります。まず、クリスチャンが理解して信じることは、キリストとあなたがつながっていることです。あなたがいまだキリストとつながっていることを信じきれないのなら、福音を聞いただけで、その効力をまだ十分に受けいていないのです。キリストとつながっていると思えないのなら、まずはつながれるように祈ることから始めます。そして、もっとも重要なことは、キリストの御言葉があなたの内にいつもあるかどうかです。そのように考えて聖書を読んできたでしょうか。聖書を研究しましたか。あまり難しく考えてはいけません。神様の人間救済計画の完全さは人間には想像もつかないほどです。しかし、「御言葉があなたがたの内にいつもあるならば」とあるのですから、古い自分とは異なって、御言葉の思想が、あるいはイエス様のお考え方がと行っても良いのですが、もし、自分の判断や考えることがイエス様と同じであれば、私たちは満足するし、良い結果が期待できます。それは、あなたが、まるでイエス様の御言葉のフィルターを通して物事を考え、意思決定しているようなものです。ですから、望むものは何でも願って良いのです。その望み自体が主の御心そのものと調和しているからです。

 

7月28日(水)

どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。

エフェソ1:17、18

 

神様を深く知ることは私たちの目標です。自分を何とか完全なクリスチャンにしようとがんばっている人は、まったく見当違いなことをしています。というのも、人間の力では到達できないことをしているからです。しかし、信仰の世界では、つまり聖書の世界では神様が生き生きと働かれ、信仰をもった人たちの只中にいてくださいます。その中で、最善のことを適宜行ってくださるのです。ただ、パウロの手紙を読んでいけば、私たちが完全な者となることが求められていることに気がつきます。そして、それは一見不可能なことのように感じてしまうのです。あまりにも高い目標にどうすればよいのか戸惑ってしまいます。ところが、神様は恵みで罪人を救ってくださるお方ですから、聖書にキリストの出来事が描かれ、十字架の意味が知らされ、聖霊の意味が説かれ、私たちが天国に入るのに必要なことはすべて書かれているのです。そして、神様を深く知る方法まで書かれていたのです。この神様を深く知ることが完全になる方法だからです。そして、またしても驚くべきことですが、人間の何かしらの努力や信心深さではなく、「知恵と啓示との霊を与え」と書かれていたのです。つまり、この霊を求めればよいのです。与えと書かれているのですから、難しくないのです。すでに与えられていると信じてもよいのです。ということは、誰でもこの神様の特別な恵みに与かることができるのです。

 

7月30日(金)

互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。

ガラテヤ6:2、3

 

クリスチャンは「互いに愛し合いなさい」というキリストの律法をまっとうする義務があります。これは、難しいとすぐに気がつくでしょうが、その難しいと感じているのが肉なのです。この肉は天国に入れません。ですから、肉を脱ぎ捨てる必要があります。その方法が、ポジティブに考えれば「互いに愛し合う」という新しいキリストの掟を守ることの中にあるのです。肉は好き嫌いがあります。そして、心理的駆け引きや打算が働きます。それでは、互いに愛し合うということは難しいどころか困難になってしまうのです。そこで、さらにクリスチャンの指針が与えられました。それが、「互いに重荷を担いなさい」という命令なのです。「互いに愛し合う」とは何をすればいいのですか、と聞かれれば、「互いに重荷を担いなさい」と答えるのです。とても面白いのは、自分だけが頑張って人の重荷を負うということではないのです。自分には自分の重荷があります。それを負って生きているのです。ところが、すぐ目の前に重荷を負って苦しそうにしている人を見つけるのです。気の毒に思い、その人の背後から近づき、そっとその人の重荷を持ち上げます。その時、なぜか自分の重荷が軽くなったような気がするのです。実は、他の人が自分の重荷をそっと持ち上げてくれていたのです。このように、必ずしも誰かの重荷を担うから相手も自分の重荷を担ってくれる、という意味ではありません。自分が相手の重荷を担っていると、気づかないうちに相手ではなく他の人が自分の重荷を担っていることがあるということです。これは、整理して考えてみてください。パウロが言うように、人に親切にしなさいという勧めを私たちは心がけているのです。その延長線上に重荷を担うことがあるはずです。これらのことも、キリストの御力の助けが必要です。自分の力でやれば、すぐに自己を誇りたくなるのですから困りものです。ここに、信仰の目指すところがあるのです。

 

7月31日(土)

主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。

フィリピ4:4、5

 

信仰を教えてもらうときに、何度も同じことを言われます。それは、御言葉を信じるだけではなく行う人になりなさい、ということです。これは、良い業を行えという意味ではありません。聖書に書かれている今日の身言葉のような箇所のことを言っています。喜びなさい、と言われたら喜ぶということです。主において常に喜びなさい、と言われれば常に喜ぶのです。簡単ではないですね。でも、自力ではできなくても「主において」ならできるのです。それを信仰と言います。なぜ喜べるかといえば、その次に書かれていたことがヒントになります。「あなたがたの広い心が」とあります。つまり、自分の心が広いかどうかということを考える必要があるのです。いつでも、広い心、広い心とつぶやいてみましょう。広い心は人を赦せる心です。これもキリストによらなければ難しいですね。でも、小さなことはまあいいか、と気にかけないでやり過ごすことです。それで、不利益を被っても、主に比べれば大したことないと自分に言い聞かせれば、これも耐えることができるでしょう。そうすれば、喜んでいられます。赦さなければ喜べないのですが、赦せば喜べるのです。どんな境遇に置かれても、負けない秘訣も常に喜ぶことです。広い心は大変ですが、どんな時でも喜べるようになるのです。主はその人の近くにいてくれます。主がわかっていてくだされば、無責任にひどいことを言われたり、中傷されても、なんとか耐えることができるでしょう。人間関係は疲れますが、それを主は喜べるようにできるのです。困ったときには「主はすぐ近くにおられます」と言いましょう。