2019年11月ディボーション

11月1日(金)

わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走り通し、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。

Ⅱテモテ4:7、8

 

ラグビーのワールドカップが日本で開催され、日本チームは実によく戦い、日本中を熱狂させました。ラグビーの試合を観た事のない人たちが日本チームの戦いを立派に戦い抜き、ひたむきな献身と規律を見たのです。そして、深い感動を味わいました。今日のパウロは、まさに競技者のように、キリストと出会って変えられた自分の人生を戦いになぞらえて、立派に戦い抜き、決められた道を走り通し、信仰を守り抜いた、と言い切っています。私たちの寿命があとどれぐらいあるのはか知りませんが、クリスチャンになったあの日から、私たちは、ひたすら戦い続け、走り続けているのです。パウロのように命がけで伝道して教会を建てていくような事はなかったとしても、一人の信仰者として、頑張ったはずです。時にはくじけるようなことが起こったかもしれませんが、いまだ信仰を持ち続けていることが素晴らしいことなのです。これは、紛れもなく人生をかけた戦いです。しかも、私たちが属しているのは、キリスト・チームでリーダーはイエス様です。仲間がいて、互いに励まし合い、神様への信仰を鼓舞しています。しかし、パウロがそうであったように、これは長丁場のマラソン競技のようです。いくら仲間がいたり、コーチがいても、走るのは一人自分なのです。代わりに走ってくれる人はいません。だから、苦しい時や孤独に感じる時も、イエス様を信じて乗り切るしかないのです。「決められた道」とあるように、神様が私たちのための道を決めておられるます。それを走れば、必ずゴールに向かい、走り通せば、義の栄冠が待っています。それを知っているので、私たちは信仰を守り抜こうと決めているのです。人生最高の感動が最後に待っています。私たちを天国へ連れ帰るために迎えに来られるイエス様を、私たちはこの目で見るのです。その時は刻々と近づいているのです。

 

11月2日(土)

あなたは、彼らに悟らせようと、あなたのいつくしみ深い霊を賜わり、彼らの口からあなたのマナを絶やさず、彼らが渇いたときには、彼らに水を与えられました。

ネヘミヤ9:20

 

これは、神がイスラエルをエジプトから救い出し、荒野を約束の地へと導いた時のことを言っています。私たちもエジプトであるこの世から救われ、新天新地である新エルサレムへと荒野を旅しているのです。信仰を持って生きる者へ、神がなさった事は最善でした。聖霊をくださったのです。これは、慈しみ深い霊です。犯罪者のドキュメントが放映されていましたが、彼らが幼少期に実の親に愛されないで虐待されていたことを異口同音に語っていたことに心を痛めました。人間が一番弱い時に親に愛される事の重要さは、その人の一生を左右することになるのです。そこから、人間不信になり、社会ルールを守る意味がなくなり、犯罪へと道ができてしまったのです。罪とはそういうことなのです。神の愛を裏切り、断絶し、神に背を向けて逃走する姿が罪人です。その罪の解決無しには人間を救う事はできないのです。ですから、罪の奴隷であった者を力ずくで救い出し、まっとうな人生を生きることができる者へと変えるために、愛される事、大切にされる事、つまり慈しみ深い主の愛を体験させる事でリハビリすることが必要だったのです。犯罪者たちは、親から食べ物を与えられることもなかったとつぶやきます。だから、自分でなんとかしなければならなかったのですが、子供には無理なことです。そこから、心が壊れていくのです。イスラエルにも、神は荒野で何もない中、マナを与え、水を与え、養うのです。生きることができるようにしてくださる神がいます。私たちは、聖霊の恵みの中にいるのです。人に誤解され、理解されなくても、聖霊はちゃんと理解してくださいます。いつでも、私たちは慈しみの中に生きているのです。霊的な飢え渇きが起こらないように、主は毎日世話してくださるのです。主に心を開けば、私たちは主の愛に満たされるのです。その愛が、私たちを真の姿、神の子へと変えるのです。

 

11月3日(日)

主に従う人はとこしえに揺らぐことがない。彼はとこしえに記憶される。彼は悪評を立てられても恐れない。その心は、 堅く主に信頼している。

詩篇112:6、7

 

私たちの敵は、悪魔です。ですから、何をしてくるか想像もできないのですが、多くの場合、単なる不運であったり、何か誤解があって誹謗中傷されたり、よもや悪魔が背後にいて働いているとは思ってもみないような出来事が起こるのです。私たち日本人は、特に批判に弱い国民なので、無難に済まそうとする傾向が強いのです。だから、独創的なアイディアがそれほど評価されずに、可でもなく不可でもない程々のことで済まそうとするのです。これは、島国根性と揶揄されることと直結しているでしょう。だから、欧米では通用しないと言われてしまうのです。これが、教会での信仰生活にまで及ぶとまずいことになります。信仰に固く立ち、聖書の真理を高く掲げると、主は喜んでくださるでしょうが、教会の中で悪評が立つということが起こることがあるのです。そのためには、悪魔は暗躍します。悪いことをしていないと思っていても、自分の知らないところで、悪評を立てられると人を恐れ、揺らいでしまう人はいるでしょう。しかし、今日の聖書箇所では、それを跳ねのける人が登場します。彼は、「悪評を立てられても恐れない」と書かれています。それは、「堅く主に信頼している」からなのです。聖書を思い出していただけば、イエス様もそうでした。パウロもそうであることがわかるでしょう。ダビデも同じです。ですから、正しく生きることが基本ですが、それでも人間関係では相手の受け止め方で、悪く言われてしまう場合もあるのです。自分の正義と相手の正義が異なっていることだってあります。さらに、悪魔が嫌って攻撃を仕掛けているならば、とことん追い詰められるかもしれません。それでも、主に従うことです。悪評が立つと、おそらく弁明のチャンスもないでしょうし、何を言っても信じてもらえないでしょう。だから、恐れると信仰が弱くなるので、恐れずに、主に信頼を置いて、自分が揺らがないようにしていただき、主が解決すると信じていればいいのです。それで、特に困ることもありません。ただ、罪を犯さないことが重要です。悪評を言い立てている人を恨んではなりません。誰が言っているかなど知らない方がいいのです。私も聖霊のことを語り続けたので、悪評を立てられたことがありますが、その多くは全く関わりのない知らない人たちでした。悪魔は人の心を掻き立てるので、とんでもないことをしてしまうことがあります。よっぽど信仰に生きていなければ、自分は大丈夫とは言い切れないのです。そして、自分が弱ければ弱いほど、主を信頼し尽くすことが大事です。主は、賢明に助けてくださいます。だから、悪魔の挑発や誘惑に負けてはいけないのです。主を賛美し、祈り、堅く主を信頼しましょう。

 

11月4日(月)

わたしたちの神、主の喜びが、わたしたちの上にありますように。

わたしたちの手の働きを、わたしたちのために確かなものとし

わたしたちの手の働きを、どうか確かなものにしてください。

詩篇90:17

 

私たちは神様を信じていますから、喜びも主から来ます。私たちを神様が見て、喜んでくださることが私たちの願いなのです。日々の暮らしで、多くの人たちは、何かしら仕事をしていますが、その仕事がいつでも安全でうまくいけば喜ぶでしょう。しかし、同じ仕事でも、いつも同じというわけではないし、何か障害が起こることもあるでしょう。誰かと一緒に働いたり、お客様と交渉することだってあるかもしれません。だから、人間関係が順調で安心できる必要があります。初めての仕事や、困難な大きな仕事にも関わるかもしれません。何より、生きるために働いている者にとって、一日一日の仕事が無事に終わることが何より大切なのです。伝道者は伝道を、牧師は牧会を、預言者は預言を、使徒は使徒の働きを、それぞれ使命のある者たちは、その働きが確かなものとなるように祈るのです。そのことが主の御目にかない、主の喜びとなり、その喜びが私たちの上にあることがクリスチャンの願いなのです。今日も、あなたの手の働きを、主が、あなたのために確かなものとしてくださいますように。

 

11月5日(火)

「・・・今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。」そこでエリは、「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と答えた。ハンナは、「はしためが御厚意を得ますように」と言ってそこを離れた。

サムエル上1:16~18

 

サムエル記の始まりは、エルカナという男に二人の妻がいることから始まります。これだけで、大変な予感がしてきます。片方には子供が生まれ、もう片方には子供が生まれません。そこから、子供を産んだ方のぺニナが夫に愛されてはいたが子供を産んでないハンナを敵と見て苦しめたのです。人間の悩みとはこのようなことなのです。さらに、信心深いエルカナは、毎年シロの神殿に犠牲を捧げに行っていたのです。そこでの家族の食事で、主人が妻と子供たちに、いけにえの分け前を与えるのですが、子供のいるぺニナとは違って、ハンナには一人分を与えます。それがとても悲しく辛く感じたのです。そこで、神殿に行って、主に祈ります。それが今日の聖句の箇所です。祭司は、ハンナが長らく祈っているのを酔っ払いと勘違いします。霊能洞察力がが高いとは言えませんが、それでも神様に仕える祭司ですから、ハンナに大切なことを言いました。「イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と言ったのです。これは霊感があったのだと思わせます。事実、その後、落ち込んでいたハンナが元気を取り戻し、さらに待望の子供を授かるのです。その子供がサムエルです。彼こそが真の国の指導者になります。偉大な預言者の出生の経緯がこのようなものであったことも、興味深いのです。祈りで大切なことは、心を全部注ぎ出すように、祈りきることです。それは、祭司が「安心して帰りなさい」と言ったように、心に平安が訪れるまで主に祈りきることです。そして、ハンナの「はしためが御厚意を得ますように」ですが、これは、神様が信じる者たちにくださる過分な恵み、ありえない親切、具体的な厚意です(ヘブルごでへセドと言います)。つまり、ハンナのように祈りが聞かれて子供を授かるようなことは、神様にしかできませんが、ハンナには何の功績もないのに、ただ憐れみを持って大きな恵みを与えてくださる主がおられるのです。祈りが聞かれたと信じて感謝することも大切なことです。ハンナの言葉にはそのことが表れています。

 

11月6日(水)

主の慈しみに生きる者の足を主は守り、主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。人は力によって勝つのではない。

サムエル上2:9

 

これはハンナの祈りですが、私たちにも関わりがあります。ハンナには避けることも逃げることもできない敵がいました。それは、もう一人の夫の妻ぺニナです。人間的にみると圧倒的にぺニナの方が有利です。子供を産んだからです。しかし、夫に疎まれているのではなく、愛されているのに、子供を産むことができないのですから、自分に自信を失い、悲しみに胸が押し潰されそうになったことでしょう。このような状況で、増長したぺニナはこれみよがしにハンナをいじめたのです。そして、ハンナは神様に泣いてすがり、とうとう祈りは聞かれ、待望の子供に恵まれました。この物語が、人の心に残るのは、真面目に暮らしていても、自分ではどうすることもできないことがあって、そのことで惨めにされ、さらにそんな自分を苦しめる敵が現れるということです。敵というのは故意に自分を攻撃してくるという意味です。しかし、神様を信じている者には、逆転勝利があるのです。さらに、このハンナの祈りは預言であると言えます。「勇士の弓は折られるが」(4節)と書かれている箇所は、敗戦の徴が見られます。今日の聖句の初めに「主の慈しみに生きる者」はサムエルとダビデのどちらにも当てはまります。そして、サウルが敵役になります。事実、「主に逆らう者」を演じることになります。そして、戦国時代に突入していくのですが、一国の王であるサウルとその軍隊に命を狙われるダビデがどうなって行くのか、その結末を知ると、「人は力によって勝つのではない」という真理が分かるはずです。信仰を持っている人は、常識を超越して、勝利することができます。苦しみの渦中に立たされたなら、この聖句を思い出してください。勝つのは、主の慈しみに生きるあなたなのです。

 

11月7日(木)

主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」

サムエル上3:10

 

これは、預言者が誕生した瞬間の物語です。この時代は、預言者のことを先見者と呼んでいました。誰もが預言者(Ⅰコリント12:28)になるわけではありません。霊の賜物として預言することは、クリスチャンにも起こりますが、サムエルのそれとは違っています。これは、預言者の賜物です。一生が預言者として生きるわけです。責任が重く、その言動の全てが信仰者たちに大きな影響を与える人です。一方霊の賜物としての預言(Ⅰコリント12:10、同14章、参照)は、クリスチャンなら誰でもが与えられる性質のものです。例えば、聖書の御言葉を語ったり、愛を語ったりすることも預言であることが多いのです。説教も預言と言えるでしょう。そして、重要なことは、主は名前を呼ばれるということです。しかも近くまで寄って来られるのです。その時に、サムエルが言った言葉の通りに、「どうぞお話しください。僕(あるいは、はしため)は聞いております」と言えればいいわけです。ただ、このような召命のある者は、少ないのです。サムエルが現れた時代でも、少なくなっていたのですから、今のように世俗化が教会にまで浸透した時代には、稀になるのも致し方ないのかもしれません。預言者としては召されないかもしれませんが、それでも、主の御声を求めて祈ることはできます。大切な場面では、きっと主の御声を聞くことでしょう。普段は聖書の中から御言葉によって御声を聞くことが安全なこととなるでしょう。

 

11月8日(金)

兵士たちが陣営に戻ると、イスラエルの長老たちは言った。「なぜ主は今日、我々がペリシテ軍によって打ち負かされるままにされたのか。主の契約の箱をシロから我々のもとに運んで来よう。そうすれば、主が我々のただ中に来て、敵の手から救ってくださるだろう。」

サムエル上4:3

 

ペリシテ軍との戦争が始まり、初戦イスラエルは負けます。その時の長老たちの反応が今日の箇所です。契約の箱はシロに安置されていました。そこに人をやって取りにいかせたのです。これは、神が言われたことではありませんでした。長老たちが戦争に勝つために勝手に神を戦場へ運んできて、敵を撃っていただこうとしたのです。エジプトを負かし、カナンの先住民を負かし、圧倒的な神の御力をこの地に住むペリシテ人も知っていたのです。そして、それは恐怖でした。イスラエルの恐ろしい神が陣営に運ばれて来ると知ったペリシテ軍は震え上がりました。しかし、ここで死に物狂いで戦わなければ、イスラエルの奴隷になると思ったので、彼らは狂気のように戦ったのです。結果は、イスラエルの大敗で終わりました。さらに、悪い知らせは、契約の箱を運んできた祭司襟の二人の息子たちも戦死したことです。ただ、彼らが神を侮り、神殿で悪事を働いていたことの報いであったとわかります。そして、最悪なことはまだ続き、契約の箱が敵に奪われてしまったのです。その知らせは、祭司エリのショッキングな死となりました。悪いことをしている息子たちを諫めなかった報いと思われました。私たちは、時々、自分の目的のために神を使おうとしてしまうことがあるかもしれません。それは絶対にしてはいけないことです。そのことは、今日のイスラエルのしたことの結果でわかります。私たちは神に仕えているのであって、神を利用してはいけないのです。また、悪事を正さないことも問題になります。特に神に関わることでは絶対です。神を汚すようなことをしてはいけないし、そうしている者を放置してもいけないのです。神への畏敬の念が自分にあるかないかよく吟味してみるべきです。子供たちや孫たちもそれを見ているのですから、敬神の念を日々あらわして信仰の喜びを見せることもとても大切なのです。

 

11月9日(土)

主の御手はアシュドドの人々の上に重くのしかかり、災害をもたらした。主はアシュドドとその周辺の人々を打って、はれ物を生じさせられた。アシュドドの人々はこれを見て、言い合った。「イスラエルの神の箱を我々のうちにとどめて置いてはならない。この神の手は我々と我々の神ダゴンの上に災難をもたらす。」

サムエル上5:6、7

 

ペリシテ軍は神の箱を持ち帰ってしまった。そのために、恐ろしいことが始まった。腫れ物が伝染病のように広がったのだ。そして、死ぬ者が増え始めた。次の都市へと移動しても、同じことが起こるのだ。どこでも恐慌が起こり、とうとう彼らは、この神の箱をどうすれば良いのかと途方に暮れるのだった。ここに出て来る、ペリシテの祀っている神は、ダゴンといった。ダゴンはバールの父である。ダゴンは、BC2500頃、メソポタミヤで礼拝されていた。そのダゴンが神の箱が置かれたことにより、倒され、最後には頭と両手が切り取られていたのだから、ペリシテ人の恐怖は尋常ではなかったはずだ。それなのに、単なる人の手で作られた偶像であることを悟ることはなかったのだからどうかしている。このようにして、イスラエルの神の本当の怖さを彼らは知ることとなった。イスラエルの神が弱くて、戦争に負けたわけではなかった。イスラエルの不信仰によって、敗戦し、神への冒涜がイスラエルの不名誉となり、屈辱となったのだ。しかし、トバッチリのようにペリシテも大きな代償を支払うことになった。私たちの神は、このように圧倒的に力を持っておられ、不用意に不敬なことを行えば、命すら危うくなる。決して、侮らずに、畏敬の念をもって従順に仕えるべきお方なのである。信仰を持って接すれば、愛情深く慈悲に富んだ神として知ることができる。それにしても、ペリシテ人たちは、軽率に神の箱を分捕り物として持ち帰ったことを後悔したに違いない。このように、神は生きておられ、力と栄光に富んだお方であることを覚えよう。

 

11月10日(日)

主はベト・シェメシュの人々を打たれた。主の箱の中をのぞいたからである。主は五万のうち七十人の民を打たれた。主が民に大きな打撃を与えられたので、民は喪に服した。

サムエル上6:19

 

ここでは、ペリシテ人のもとから契約の箱がどのような理由で戻されたかが詳細に描かれている。そして、契約の箱がたどり着いた場所が、ベト・シェメシュであった。この住民は、契約の箱であることを理解して喜び、レビ人が契約の箱を安置し、主へ犠牲を献げた。ここまではよかった。しかし、彼らは好奇心に負けてしまった。箱の中をのぞいて見たかったのだ。そのために、まさか死ぬとは思ってもみなかった。そして、箱の中をのぞいて、七十人もの人たちが主に打たれて死んでしまった。彼らの不敬の結果だが、その衝撃は大きく、ベト・シェメシュの人たちは喪に服したのだ。映画「レイダース」でも、契約の箱の蓋を開けて見た者が皆死んでしまう場面があった。聖書のこの箇所から着想を得たのだろうが、神との接し方がこれで教訓となった。地上にある人間は天にある神と神聖さにおいて圧倒的な距離がある。人間は聖であるとは言わないが、神は聖である、とは真理なのである。そこで、興味本位に神に近づくことは危険な行為であると知るべしであるが、信仰においては神に近づくべきなので、動機が問われる。契約の箱には、十戒の石の板とマナの入った壺、それにアロンの杖が入っているはずだ(ヘブライ9:4参照)。もし、契約の箱が目の前にあったなら、蓋を開けて中に何が入っているのかのぞいてみたくなる気持ちもわからないでない。しかし、契約の箱を移動できるのもレビ人によることを知っていたのに、軽率にも神を恐れずに、軽挙妄動に出たのである。私たちも、神への軽率な行為がないか、いつでも気をつけるべきなのだ。不敬の罪だけは犯したくないものだ。

 

11月11日(月)

イスラエルの人々はバアルとアシュタロトを取り除き、ただ主にのみ仕えた。

サムエル上7:4

 

イスラエルは、カナンの偶像を拝んでいました。神の契約の箱は敗戦の結果ペリシテ人に奪われましたが、主の箱の脅威に返してよこしました。その結果、キルヤト・エアリムに安置されたまま、なんと20年が過ぎたのです。イスラエルの民は、主を慕い求めていました。そこで、サムエルは「心を尽くして主に立ち帰る」ように指導します。彼らは、偶像の完全な排除を求められたのです。誰を拝むのか、誰を神とするのか、これほど重要なことはありません。彼らが偶像を捨てて、主に立ち帰ると、奇跡が起こり、大きな脅威となっていたペリシテ軍を神の力によって奇跡的に打ち破り勝利してしまいます。私たちも、心に余計なものを入れてはいけません。自分と主を引き離すようなものがあれば、それを処分してしまいましょう。心の中にイエス・キリスト以外の偶像があれば、心から排除し、清める必要があります。そして、ただ主にのみ仕える、ということを忘れないことです。私たちに必要なことは、心の点検をすることです。主以外のものが心を占めていないか考えてみましょう。「主に仕える」ことに反するものは、躊躇なく捨て去り、清めの祈りをしましょう。主の奇跡が起こりやすいように、主への信仰を表明しましょう。

 

11月12日(火)

民はサムエルの声に聞き従おうとはせず、言い張った。「いいえ。我々にはどうしても王が必要なのです。王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです。」

サムエル上8:19

 

王がどうしているのか不思議になります。人間の歴史の中で、大きな出来事は、フランス革命のように王政を廃止したことです。王が人間の始めからいたのではなく、人間が王政を始めたのです。人間にとってリーダーが必要であることは必然でしたが、イスラエルは預言者が裁きを行い、リーダーとしての役割を担っていたのです。預言者という意味は、実際には神様が治めていたということです。敵が攻めてきたり、生きて行くことに不安を感じる時、私たちは神様に頼りたくなるでしょう。その神様の立てたスポークスマンが預言者です。つまり、直接ではなく間接的ではありますが、神様と会話できるということです。そのような恵まれた仕組みがあったのに、その預言者であるサムエルの息子たちが堕落してしまっては、頼れなくなります。そこで、隣国のように我々にも王を与えてくださいというのは、人間的に理解できる自分たちの命を守る仕組みだったのです。人間が保護してくれるのには、当然コストがかかります。それでも良いとイスラエルの民は考えたのです。私たちもより良い生活を保証してくれるリーダーを求めているのでしょう。しかし、それが人間であれば、保証などできるはずがありません。確かなことは、主イエス・キリストを信じて生きることです。私たちの絶対安心できるリーダーはイエス様だけです。そのことがわかれば、どこに住んでいても心配ありません。

 

11月13日(水)

昔、イスラエルでは神託を求めに行くとき、先見者のところへ行くと言った。今日の預言者を昔は先見者と呼んでいた。

サムエル上9:9

 

イスラエルのリーダーは、先見者でした。今では預言者と言う方がわかるでしょう。士師時代を通じて、先見者が国を治めていたのです。今や王を立てて王国時代を迎えようとしています。サムエルは偉大な最後の先見者です。王国時代からは預言者と呼ばれます。では、現代は預言者はいるでしょうか。少なくなりましたが預言者はいます。ただ、世俗化している世界では、預言者は受け入れられていないようで、預言者を認めない教会は多いでしょう。聖書には「預言することを熱心に求めなさい」(1コリント14:39)とありますが、実際には求めることもなくなっているのです。それは、偽物や狂信者が現れることを恐れているからかもしれません。神託を今でも必要とする場面があります。そのような時には、預言者がいればと思うでしょう。ただ、終末には「偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす」(マタイ24:11)と聖書に書いてありますから、難しいところです。聖書に調和しているかどうかで、見分けるしかありません。私たちも知らずに、神様に用いられて誰かに預言として、励ましや愛の言葉を語っているかもしれません。そうなりたいですね。

 

11月14日(木)

主の霊があなたに激しく降り、あなたも彼らと共に預言する状態になり、あなたは別人のようになるでしょう。

サムエル上10:6

 

サウルは王になる前に、聖霊が激しく降り、預言する状態になりました。聖書の言い方では、「あなたは別人のようになるでしょう」。クリスチャンも聖霊によって義と変えられて行きます。ただ、それは緩やかなものです。そのために、聖霊による変化がよく理解されていない事が多いのです。「大草原の小さな家」というドラマが大人気でした。そこに出てくるオルソン商店の娘のネリーが傲慢で意地悪な嫌な人でした。それが、大人になってユダヤ人のパーシバルと結婚して、別人のように良くなるのです。これが、聖霊によって信仰者が別人のように変わる事に似ているのです。人間は自分一人で立派な人格者になることは難しいのです。しかし、ネリーのように、夫を愛し、夫に愛されて、自分の欠点を直していくことは可能なのです。聖霊は、まさに真実の愛を持って人を変える事ができるのです。聖霊が激しく降る経験も重要ですが、その後のサウルを見ると、結局、神への不服従によって退けられてしまいます。ですから、聖霊の働きと同時に、自分の信仰と服従する意思が必要なのです。その事が実行されれば、聖書に書かれたように、聖なる者へと変えられて行くでしょう。

 

11月15日(金)

サムエルは民に言った。「さあ、ギルガルに行こう。そこで王国を興そう。」 民は全員でギルガルに向かい、そこでサウルを王として主の御前に立てた。

サムエル上11:14

 

アンモン人がヤベシュを包囲した時に、サウルは神の霊が激しく降り、イスラエルもユダもまとめて見事勝利しました。そこで、初めて民はサウルを王と認めたのです。戦で勝つ事は民を喜ばせ、自分たちの王としてサウルを立てることを良しとしたのです。王国にはその成り立ちの物語があるものですが、ここにもそれが記されているのです。一つの国を建てることは、このように民が一つになった時に可能なのです。危機が起こった時に、それは大きなチャンスが訪れたことでもあるのです。神様を信じる者にとって、最悪と思われる事が起こった時、神様がそれを逆転勝利へと導かれることができると信じることです。人間的にはどうして良いか分からなくても、主は人間が考えもつかない驚く方法で、易々と救う事ができるのです。ですから、いざとなれば主が助けてくださると信じていましょう。

 

11月16日(土)

主はその偉大な御名のゆえに、御自分の民を決しておろそかにはなさらない。主はあなたたちを御自分の民と決めておられるからである。

サムエル上12:22

 

あなたが仕えるべきお方はただ一人、主のみです。今日の御言葉の通りに、主はあなたを救い、あなたを決しておろそかにはなさらないのです。ですから、安心して、信仰生活を喜んで過ごせば良いのです。あなたはイスラエルの民のようになってはいけません。彼らは主を無視して勝手に自分たちの上に王を立てるように求めました。それが大きな罪であった事がわかります。しかし、人間の弱さは、時に不安から勝手なことを考え、行動してしまう事があるのです。主を信頼する事が信仰であれば、このことを教訓にする必要があります。信仰に生きる事は、実は楽な生き方なのです。主が良くして下さるので、それを認めて感謝して生きて行くのです。あなたの主は実に偉大なお方です。

 

11月17日(日)

サムエルはサウルに言った。「あなたは愚かなことをした。あなたの神、主がお与えになった戒めを守っていれば、主はあなたの王権をイスラエルの上にいつまでも確かなものとしてくださっただろうに。

サムエル上13:13

 

サウルは王になったので、主を信頼するかそれとも自分を頼みとするか試みられました。それは、極限状態で試練がやってきたのです。圧倒的に有利な敵と戦争しなければならないのです。しかし、味方は怖気ずいて敵前逃亡をはかる者がどんどん出ています。戦う前に負けてしまいそうです。一刻も早く神様に必勝祈願をしたいのですが、サムエルがなかなかきません。しびれを切らしたサウル王は、祭司でないのに待ちきれずに自分で犠牲を献げ必勝祈願をたてたのです。その後すぐにサムエルが来て、試験は見事落第したと告げられるわけです。その言葉が今日の聖句箇所です。高名なラビのヒレルは「忍耐力のない人は教師にはなれない」と言っていますが、忍耐力のない人は王にもなれません。そして、信仰生活を長く送れば、皆、主を信頼できるかどうか試され、試練が与えられてきたはずです。それほど、主を信じる事が重要なのです。何があっても、主を信頼しましょう。

 

11月18日(月)

主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ではない。

サムエル上14:6

 

私たちは、主の御力がどれほど偉大であるかを知っています。困難に直面した時、私たちの力では勝てないとわかる時も、信仰は私たちを励まします。あなたの主は強いお方。あなたの力がどれほどであるかが問題ではない。また、敵の数が多く、力が強いことも問題ではない。主は、あなたを勝利させる事がいつでもできるから。そうです。あなたは負ける必要はないのです。勇気を出しましょう。あなたのために主が戦ってくださいます。ですから、主に祈り、神に頼りましょう。クリスチャンは、どんな困難も、主の助けによって乗り越える事ができます。あなたがなすべきは、主への讃美です。主が既に勝利されたと信じて感謝を献げるのです。

 

11月19日(火)

主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾ける事は雄羊の脂肪に勝る。

サムエル上15:22

 

サウルは、主の命令に従わなかった。アマレクを討ったが、王を生かし、家畜の良いものはとっておき、とるに足りないものだけを殺した。これは、分捕り物を得るための戦いではなかった。そうではなく、出エジプトの際にイスラエルを妨害して苦しめたことへの主の罰であったのだ。だから、滅ぼし尽くす事が肝心だった。それなのに、サウルは、人間的に考えて自分の目に良いと思ったことをした。それは、主を軽んじて、主の命令を無視しても良いと思ったからできたことだった。サムエルは、預言者としてサウルの罪を断罪しなければならなかった。サムエルをがっかりさせたのは、サウルは嘘をついいて言い逃れようとしたことだ。ごまかせると思ったのだ。それほど主への考え方や信仰に欠陥があったということだ。サムエルは、サウルを王としたことを悔いて、二度と会おうとしなかった。それは、サムエルとサウルの信仰の質の差を表している。サムエルは主を知っていて、主を恐れ畏む人の典型であったが、サウルは人間的資質には優れていたのだろうが、主を軽んじるところがあった。それは、戦争の時の勝利祈願を祭司でもないのにやろうと勝手に犠牲を献げてしまったことや、今回の主の意図を理解せずに、戦利品を得ることで兵士たちの論功行賞ができるようにと財産となるものを分捕り品としてもちかえってしまったことに現れている。アマレクの霊的な象徴的意味としては、天国への道を行く聖徒たちを妨害して困らせるサタンなのだ。だから、最後に神がサタンを完全に地獄に落として滅ぼすことの予型として、サウルにアマレクの殲滅を命じたのだ。それほど重要なことをする使命が王にはあるのだ。それが果たせないのなら、失脚させるしかない。私たちも主の御声に聞き従う従順さを忘れないように心しよう。

 

11月20日(水)

しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」

サムエル上16:7

 

人間は容姿を気にし、背の高さや外見にこだわるものです。しかし、今日の成句で明らかな事は、主は人間のようではなく、心によって見るのです。そこで、人間は外見については一生懸命気をつかうのに、心には注意を払わない事に気がつきます。主に見られているところが違っているのです。幸い、クリスチャンになる事ができた方々は、主に心を見られて合格したのでしょう。そこで、安心していてはなりません。サウルの例があるように、初めは良くても、後で悪い心が現れて主を失望させるかもしれないのです。そこで、私たちは聖霊が心を守り、正しく成長するように祈る必要があります。そして、サウルのように、窮地に立たされて追い込まれても、主を信頼して主の助けを待つ忍耐が必要です。サウルは、ここで失敗しました。ですから不安に負けないように、心を主にあって強めていただけるようにお祈りしましょう。きっと主の助けを見る事ができます。

 

11月22日(金)

サウルは、主がダビデと共におられること、娘ミカルがダビデを愛していることを思い知らされて、ダビデをいっそう恐れ、生涯ダビデに対して敵意を抱いた。

サムエル上18:28

 

ダビデはたいそう魅力的な人でした。戦国時代に登場した戦国武将としては第一の人だったのです。百戦百勝の強者です。それは、既に、主はサウル王を離れて、ダビデと共におられたからです。サウルは初めこそダビデを取り立てて戦士の長に任命しましたが、ダビデは期待以上の成果をあげ、民の喝采を受けました。そして、戦勝を祝って女たちが歌い踊り、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」とはやしたてたのです。それがサウルを激怒させました。「この日以来、サウルはダビデを妬みの目で見るようになった」と聖書は記します。男の嫉妬は厄介です。サウルはここから精神的におかしくなっていくのです。皮肉な事に、サウルの長男のヨナタンは自分自身のようにダビデを愛し、次女のミカルもダビデを愛して、ついにはダビデの妻になってしまうのです。これらは、サウルの主に対する罪の報いなのでしょうか。サウルは、ダビデを恐れ、それがダビデへの敵意となり、生涯変わる事はなかったのです。さて、ここから何を学べるでしょう。サウルの問題は、主を恐れなかった事です。そして、ダビデを恐れた。本末転倒ですね。私たちも、主を恐れることを忘れると、人間を妬んだり、恐れたりするようになるのです。主を第一にして生きるなら、ダビデのように百戦百勝の人生になります。「根拠の無い自信」という言葉を最近よく聞きますが、クリスチャンの場合には、主への従順からくる平和と恵みが自信となっているので、結果的に物事がより良くなるのです。

 

11月23日(土)

サウルはラマのナヨトに向かってそこを去ったが、彼の上にも神の霊が降り、彼は預言する状態になったまま、ラマのナヨトまで歩き続けた。

サムエル上19:23

 

サウルは精神状態が悪くなり、ダビデを殺そうとした。サウルは神から見捨てられることを恐れていたが、ダビデの台頭により、彼は大きなストレスを感じるようになった。ダビデが自分に代わって王となるのではないかとノイローゼ状態になって行った。こうした、状態を聖書は「主からの悪霊がサウルに降った」という表現で記録している。これは、主が悪霊にサウルを攻撃することを許したために、悪霊による精神の異常が起こったのだろう。それは、ダビデへの嫉妬心に悪霊がそそのかして、ダビデを殺す行動へと駆られて行ったわけだ。そのサウルがダビデ討伐のために、出かけた先で神の霊が降る、という驚くべき事が起こった。サウルは、王の衣服を脱ぎ捨て裸になった。サウルは既に王ではないことを主は示したのではないだろうか。だからサウルは裸になったと言える。このサウルの誤算は、自分だけがダビデを敵と見て、殺そうとしていたことだ。そして、そのダビデを擁護して守ったのは、自分の息子と娘だったのだ。このことからダビデの潔白と人の心を惹きつける魅力が窺える。さて、私たちは、いつでも正しい心を持って生きるべきだ。特に名誉や地位や富など何かに執着すべきではない。悪魔に隙を作ってはならないからだ。自分の心を主にあって守ることを疎かにしてはいけない。

 

11月24日(日)

ヨナタンはダビデの家と契約を結び、こう言った。「主がダビデの敵に報復してくださるように。」 ヨナタンは、ダビデを自分自身のように愛していたので、更にその愛のゆえに彼に誓わせて

サムエル上20:16、17

 

ヨナタンがダビデを愛してしまった事は不思議な事だった。ヨナタンは父がダビデを殺そうと思っているとは信じたくなかった。だが、はからずも父の本心を聞いてしまった。それは、「エッサイの子がこの地上に生きている限り、お前もお前の王権も確かではないのだ」というものだった。主がサウルを見かぎり王権を退けさせたのに、サウルは王権を手放す事はしなかった。そして、イスラエルでは、王は神が決める事であり、王もまた聖職であったので、世俗の王とは意味が違っていた。それなのに、サウルは王に執着した。そして、異教徒の王たちのように、王位を世襲のものとして息子に与えようとしていたのだ。ところがその肝心な息子がダビデを愛してしまったのだから、サウルと大喧嘩になった。こうして、ヨナタンは王の本心を知ってしまったので、ダビデを逃す事にした。それは、父を裏切る事になるのだが、ヨナタンはダビデを生かすことを選んだのだ。ヨナタンは、やがて父に代わってダビデが王になるだろうと察していた。それで、その時にヨナタンの子孫が絶やされないように、契約を結ばせた。これは、この後の話で実際にヨナタンの子の話が出て来るのでそこで考えてみたい。35節以降の別れの場面は、名場面だ。男の友情の極みが美しく描かれている。ダビデは、こうして命拾いをして、新しい局面に向かう事となる。

 

11月25日(月)

ダビデは更にアヒメレクに求めた。「ここに、あなたの手もとに、槍か剣がありますか。王の用件が急なことだったので、自分の剣も武器もとって来ることができなかったのです。」

サムエル上21:9

 

命の危険が迫っている事が明白となり、ダビデは逃亡者となりました。このような場合、あなたならどうしますか。生き延びるために、ダビデはノブの祭司アヒメレクの元へ行きました。そして、ダビデは食料と武器を手に入れようとします。その時、ダビデは嘘をついたと言われます。祭司アヒメレクは、エリの家系の祭司(4章)でした。ですから何か因縁を感じますが、ダビデの嘘のせいでサウル王に殺される事になります。さて、逃亡者がまずしなければならない事は、食糧を手に入れる事です。手段を選んでいる場合ではありません。しかし、嘘をついた事はけしからんと言われてしまいます。そして、ノブの聖所にサウルに忠実なドエグが居合わせていたのです。その事に気づいていましたがダビデは必要なものを手にして一刻も早く逃げることを考えていたのです。そのために、ドエグがサウル王に告げ口し、アヒメレクの弁明も虚しく殺される事になったのです。これらは、ダビデの過ちだと指摘する聖書学者がいますが、皆さんはどう思うでしょうか。ここで考えておく事は、ダビデの神への信頼が十分であったかどうか、です。神への信頼が足りないからこのような結果になったのだ、と思う人がいます。一方では、神はこのような状況でも、人間がどうするのか、人間のすることを見ている事があるのです。もちろん、奇跡を起こして助けることもできるのが神です。エリヤだって王から逃げ出した時に、神が奇跡を起こして食料も水も与えてくださったことを知っています。しかし、ダビデは神が王にすると決めて油を注がれているのにもかかわらず、何もないまま逃亡者になってしまったのです。このような緊急事態に、人は一体どうすればいいのか個々が考え、決めなければなりません。そして、したことの責任も逃れる事はできないのです。ダビデは、勇者だったので、逃亡に必要なものは食べ物と武器だと思ったのです。エリヤは何も考えずに逃げ出しました。そして、自分の命のことも執着しなくなって、死んでも良いと思ったのです。ダビデは、生き延びようとしています。その差が、ここに出て来たのだと思います。だから、批判は簡単ですが、自分の番になれば、生きる力の強い人ほど、機転をきかせてうまく立ち回ろうとするでしょう。その場合、嘘をつくかもしれないのです。パウロのような信仰者であれば、死を恐れないので、ただ神を頼ったり、信頼したと思います。そうすれば、自分で活路を開こうと頑張らないので、嘘をつくこともないのです。生きるのはキリストのため、死ぬのも益です、と言える信仰を持てるといいですね。

 

11月26日(火)

ダビデはそこを出て、アドラムの洞窟に難を避けた。それを聞いた彼の兄弟や父の家の者は皆、彼のもとに下って来た。また、困窮している者、負債のある者、不満を持つ者も皆彼のもとに集まり、ダビデは彼らの頭領になった。四百人ほどの者が彼の周りにいた。

サムエル上22:1、2

 

逃亡していたダビデのもとへ親族やサウルに不満を持つ人たちが集まって来た。どのような政権でも、皆が支持することはない。必ず反対する者や不満を持つ者が出て来る。また、社会で行き詰まった人たち、貧困層の人たちが現政権に対抗するリーダーのもとに活路を見出そうとするのだ。ある意味、ダビデのもとに難民が集まったという言い方だってできるだろう。ダビデは、気がつけば四百人ほどの頭領になっていた。これがダビデの支持者たちだ。なんとも頼りなく、社会の力を持った成功者もスポンサーになるような金持ちもいない。この世のお荷物のような人たちが集まって来たのだ。これは、何か象徴的に感じないだろうか。ナザレのイエスのもとに集まって来た人たちも、貧しい人たちや娼婦やヤクザ者たち、それに収税人のような嫌われ者たちが大勢いたのだ。神は、人間の常識とは違って、弱い者、惨めな者、神にすがるしかできない人たちを憐れみ、救ったのだった。さて、ダビデは屈強な兵士ではなく、問題だらけの弱い人たちで王国の準備を始めなければならなかった。一方のサウル王は、すっかり被害妄想に取り憑かれ、祭司たちも皆殺しにしてしまった。神に捨てられるという事がこんなにも恐ろしい事なのだと、見せられているような気がしてくる。私たちは、イエスのもとに集まった者の一人だ。それが、やがて神の国の民となるのだ。

 

11月27日(水)

サウルは山の片側を行き、ダビデとその兵は山の反対側に行った。ダビデはサウルを引き離そうと急いだが、サウルとその兵は、ダビデとのその兵を捕らえようと、周囲から迫って来た。そのとき、死者がサウルのもとに来て、「急いでお帰りください。ペリシテ人が国に侵入しました」と言った。サウルはダビデを追うことをやめ・・・。そのため、この場所は「分かれの岩」と呼ばれている。

サムエル上23:26~28

 

サウルとダビデの追跡と逃走の緊迫した場面が描かれています。ヨナタン王子は、ダビデに面会し、次の王はダビデがなると明言します。そして、父サウル王もそのことを知っていると、語ります。その直後の追跡劇がここに書かれているのです。危機一髪で、ペリシテが国に越境して来たことを知らせる急使が来ます。慌てて、サウル王は引き返し、ダビデは九死に一生を得る経験をしました。ここは、映画になれば情景的に面白いところなので必ず出て来るであろう場面です。分かれ岩のこちらと向こうに分かれて敵味方の軍隊が行き交うのです。これ以上ない絶体絶命のピンチです。しかし、「神は彼をサウルの手に渡さなかった」とあるように、神が守ったのです。私たちも、人生の中でピンチに立たされる事がきっとあるでしょう。そのような危険が身に迫るような時でも、神はあなたを必ず守ってくださいます。必死に逃げ回るダビデのように、危機から脱するために、全力でなんとかしようとするでしょうが、一向に抜け出せないような状況で、神に助けを求めるしかないというような事が、万が一起こったとしても、それでも主の助けはあるのです。パウロは、「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(Ⅱコリント4:8、9)と言っています。ですから、試練にあったとしても、心配することはありません。敵は、あなたを倒す事ができないのです。神の守りは完全だからです。

 

11月28日(木)

主が裁き手となって、わたしとあなたの間を裁き、わたしの訴えを弁護し、あなたの手からわたしを救ってくださいますように。

サムエル上24:16

 

ダビデはサウル王に命を狙われ、追い詰められていました。しかし、主が絶好の機会を作ってくださいました。敵を打ち倒すチャンスが巡って来たのです。ところがダビデは、サウルを殺すことをしませんでした。その理由は、「彼は主が油注がれた方」だから、というのです。ここからも私たちは学ぶ事ができます。クリスチャンを敵に回して自分の手でやっつけようとは思ってはいけないのです。主の裁きに任せれば良いのです。ここには、信仰が必要です。ひどい目に遭わされれば、過剰反応するのが人間です。しかし、それはクリスチャンになる前の自分であって、今はクリスチャンになったのですから、自分で裁いてはならないし、ましてや自分で復讐してはいけません。試みの時があるでしょうでしょうが、ダビデのように相手はクリスチャンになって聖霊を受けているはずだから、相手をやっつけたつもりで、聖霊をやっつけていたら大変だ、と考えるのです。そすれば、おのずと自分で手を下すのではなく、神の裁きに任せようと信仰が働くのです。このような信仰には報いが明確にありますので、後に嫌な思いをすることなく、最善の結果を見る事ができます。主の手があなたを救ってくださいます。

 

11月29日(金)

アビガイルはダビデの妻となった。ダビデはイズレエル出身のアヒノアムをめとっていたので、この二人がダビデの妻となった。サウルは、ダビデの妻であった自分の娘ミカルを、ガリム出身のライシュの子パルティに与えた。

サムエル上25:42~44

 

イスラエルで歴史上最も偉大な王となるダビデは戦国時代の他の王たち同様に、何人もの妻を持っていました。そのダビデが王になる前の困難な時代に支えていた妻、いわゆる糟糠(そうこう)の妻がここでリストとして出てきます。ダビデが台頭して来るその過程で、その時にダビデに必要な妻が適宜与えられています。一番初めの妻ミカルはサウル王の娘であったために、サウルの計らいで他の男へ嫁がされてしまいます。そして、初期の逃亡生活の中でアヒノアムが妻の役割を担い、やがて六百人の兵を従えるようになると、聡明で胆力もある美しい女性で、多くの人の上に立つことのできる能力のあるアビガイルが妻となりました。ダビデが王となっていく影の功労者です。ダビデのような男の人は最も身分の低い者から立身出世して王にまでなる事ができるのですが、一人では無理なのです。いわゆる内助の功が必要です。夫を支え、励ましたり、慰めたり、褒めたりと男にはできない妻の役割があるわけです。ダビデは、これから更に出世して行きますが、簡単には行きません。苦労がその都度押し寄せて来ますし、王になってからもいろいろな問題が起こります。その中で次々に新しい妻が増えていく事になります。その結果は腹違いの子供がたくさん産まれて来ます。そこには、人間的な問題がそれだけ増えていく事になります。やはり、一夫一婦制が良いと思えて来ます。

 

11月30日(土)

主は、おのおのに、その正しい行いと忠実さに従って報いてくださいます。

サムエル上26:23

 

 

さて、「正しい行い」とは何でしょう。誰でもが正しい行いを良いことだと思っていますが、何が正しい行いかと言えば、急に難しくなります。自分にとって良い事が正しい行いとなる、と言えば、日本人はどうも落ち着かなくなります。自分だけではなく、他者も同じように良くなる事が正しい行いであると思うからです。現代のように情報化時代になり、溢れるほどの情報洪水の中で、「正しい行い」は年代によっても異なった理解になっています。例えば、謙譲の美徳が理解できるのは、年配者ばかりかもしれません。自分さえ良ければ良い、という考えではなく、どんなにひもじい思いをしても一つを皆んなで分け合う方が良い、というような考えが自然と出て来るような人が日本人でした。そのような事が薄れてくる社会は住みにくくなるものですが、日本の伝統文化も若い人たちに継承されにくくなっているようです。さて、聖書は「正しい行い」ひとつとっても非常に明確です。つまり、神に対してわたしは正しい行いをし、神に対して忠実である、とするのです。人が相手でも、そこに神がいるように考えて行動するのです。人間は評価してくれなくとも神がちゃんと見ていてくださると知っているので、相手の応対が悪くても気にせず、ブレないのです。神に仕えるなら、それは正しい行いとなり、どんな時も変わる事がなければ忠実と認められるでしょう。ダビデ物語の中にもそれが見て取れます。